本宿地区は、東吾妻町役場の南西約26kmのところ
県道58号線を西へ、田辺橋で吾妻川を右岸側へ渡ります
道なりに進んで県道28号線を左に分けて高崎方面へ進みます
大戸信号を右(西)へ国道406号線です
坂上小学校を過ぎると本宿集落です、集落の中程に
案内板が有ります
参道入り口です
町指定重要文化財の太鼓橋です
こちらも町指定重要文化財の石灯篭です
鳥居です
町指定重要文化財の石碑です
参道を進みます、南側の山の中に吉岡神社が鎮座します
参道石段です、残念ながら参道石段が荒れてしまっていて通行止めです
*境内まで車で入ることにしました
参道を上ってくると山門前にスギの巨木が有ります
実測しました、目通り幹囲5.08mの巨木です
西側から
山門です
山門前のスギの大木です
山門をくぐると参道の左側に目的のスギです、山門下からでは細い杉に見えます
参道を進むと、合体木ですが大きな幹が現れます、目通り幹囲6.2mの巨木です
境内南側から
拝殿軒下から見ました
拝殿です
拝殿軒下の由緒書きです
吉岡神社
祭神 大己貴命 少彦名命 伊邪那美命 他32柱
由緒
勧請年月日不詳なるも口碑傳説に依れば、元明天皇和銅元年3月従五位上田口朝臣益人勧請、後、孝謙天皇天平勝宝8年1月田口朝臣大戸上野介となり再建すと言う。
後冷泉帝永承7年源頼義陸奥征討の途参拝あり。後鳥羽天皇建久4年源頼朝浅間狩猟の際参拝し、美しき岡なりと言えりそれより此所を吉岡山と呼ぶ。
元弘建武の乱に当り頽廃を極む、遂に野火の為めに社殿神宝灰燼に帰し、修理旧に復せずと雖ども崇敬他に異なるが故、天正7年加辺半左衛門なる者一族工人をして社殿を再建せしむ。
永禄6年武田家より本宿の村田地を寄附しあり。
明治9年上地となる、明治41年6月8日許可境内末社神明宮外58社を合併す。
大正2年9月神饌幣帛料供進の神社に指定さる。
附記
当社を住吉薬師と称せしは、源右府が守本尊たる薬師の像を奉納ある併社せるに起因す。
平成8年10月吉日 宮司 渡邊詮 額奉納 高橋泉
南側には神楽殿です
参道右手にホオノキです
南側から
根元に指定名木の標柱です
東側から、目通り幹囲4.8mの大木です
西側から
本殿は覆い屋の中です
境内奥には祠が並んでいます
では、次へ行きましょう
県道58号線を西へ、田辺橋で吾妻川を右岸側へ渡ります
道なりに進んで県道28号線を左に分けて高崎方面へ進みます
大戸信号を右(西)へ国道406号線です
坂上小学校を過ぎると本宿集落です、集落の中程に
案内板が有ります
参道入り口です
町指定重要文化財の太鼓橋です
こちらも町指定重要文化財の石灯篭です
鳥居です
町指定重要文化財の石碑です
参道を進みます、南側の山の中に吉岡神社が鎮座します
参道石段です、残念ながら参道石段が荒れてしまっていて通行止めです
*境内まで車で入ることにしました
参道を上ってくると山門前にスギの巨木が有ります
実測しました、目通り幹囲5.08mの巨木です
西側から
山門です
山門前のスギの大木です
山門をくぐると参道の左側に目的のスギです、山門下からでは細い杉に見えます
参道を進むと、合体木ですが大きな幹が現れます、目通り幹囲6.2mの巨木です
境内南側から
拝殿軒下から見ました
拝殿です
拝殿軒下の由緒書きです
吉岡神社
祭神 大己貴命 少彦名命 伊邪那美命 他32柱
由緒
勧請年月日不詳なるも口碑傳説に依れば、元明天皇和銅元年3月従五位上田口朝臣益人勧請、後、孝謙天皇天平勝宝8年1月田口朝臣大戸上野介となり再建すと言う。
後冷泉帝永承7年源頼義陸奥征討の途参拝あり。後鳥羽天皇建久4年源頼朝浅間狩猟の際参拝し、美しき岡なりと言えりそれより此所を吉岡山と呼ぶ。
元弘建武の乱に当り頽廃を極む、遂に野火の為めに社殿神宝灰燼に帰し、修理旧に復せずと雖ども崇敬他に異なるが故、天正7年加辺半左衛門なる者一族工人をして社殿を再建せしむ。
永禄6年武田家より本宿の村田地を寄附しあり。
明治9年上地となる、明治41年6月8日許可境内末社神明宮外58社を合併す。
大正2年9月神饌幣帛料供進の神社に指定さる。
附記
当社を住吉薬師と称せしは、源右府が守本尊たる薬師の像を奉納ある併社せるに起因す。
平成8年10月吉日 宮司 渡邊詮 額奉納 高橋泉
南側には神楽殿です
参道右手にホオノキです
南側から
根元に指定名木の標柱です
東側から、目通り幹囲4.8mの大木です
西側から
本殿は覆い屋の中です
境内奥には祠が並んでいます
では、次へ行きましょう
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