黒井峯遺跡は、子持山南面に位置します
雙林寺の南西約1km、子持中学校の裾野に広がっています
国指定史跡 黒井峯遺跡です
説明版が有ります
遺跡の概要
1。所在地
群馬県渋川市北牧・中郷地内
2.遺跡の時代と特色
古墳時代後期(6世紀中頃)
榛名山の火山爆発にともなって軽石で埋没した集落跡。
3.推定面積
141299,3㎡
4.指定年月日
平成5年4月2日
5.指定書の説明文
黒井峯遺跡は、群馬県のほぼ中央部、吾妻川に面した河岸段丘上にあり、遺跡に南西10キロメートルに
ある榛名山二ツ岳の爆発で噴出した大量の軽石によって、短時間のうちに埋没した古墳辞意代の後期の集落
跡である。
短時間に降り積もった軽石層に覆われたため、軽石層中に建物の壁、崩れかけた屋根・芝垣・網代垣等が
立ったままの状態で保存され、また、建物の上部構造も復元できる程度に残されているなど、古墳時代後期
の集落を構成するさまざまな遺構が構成の攪乱を受けることなく検出されている。
この遺跡は、古墳時代後期の集落の実態を、きわめて具体的に明らかにし、この時代の社会構造の認識に
新たな視点を与えるなど、わが国の歴史を理解するうえで重要な意味をもつものである。
黒井峯遺跡の出土品は、ごく一部ですが赤城歴史資料館に展示されています。(0279-56-8967)
格単位の特色
◇家畜飼いの家(Ⅰ・Ⅵ群)
黒井峯遺跡の中心的な家で、15棟の建物からなる。倉庫4棟・家畜小屋5棟で、特に家畜を多数買ってい
たことが特色。
◇裏木戸にある家(Ⅱ群)
もっとも小さな単位で、3棟からなる。屋外作業場の隅には垣と門をもっている。倉庫はない。
◇裏庭のある家(Ⅲ群)
小規模の単位で、4棟からなる。この家の北側に屋外作業場のように堅くなった地面が続き、大型祭祀に接
している。
◇首飾りの家(Ⅳ群)
10棟からなる単位で、円形の作業場をもっている。竪穴式住居の中には、爆発の最中に2名の人間が逃げ
込み、持っていた鍬や鋤で土間に穴を掘り、その土で熱い軽石の侵入を防ごうとしていた。このうち一人が、
身につけていた首飾り(琥珀・水晶・ガラス製の玉)を投げ捨てていた。
◇種火のある家(Ⅴ群)
全体は不明だが、8棟確認されている。大型住居の内部には種火に跡が残されていた。
◇稲穂のある家(Ⅶ群)
8棟からなり、円形の作業場が多い。詳しく調査した作業場の中から、多数の土器とともに稲穂がそのまま
の状態で発見された。土器の多くは液体を保存するものや注いだりするものが多い。
黒井峯遺跡
この遺跡は古墳時代後期(六世紀中頃)に榛名山の爆発によって軽石で埋没した災害遺跡である。発掘調査は
昭和57年から昭和63年まで5回行われ、軽石災害の生々しい状況と住居をはじめとする建物群が残されてい
た。このことから、災害直前(6月頃)のムラの景観や人々の暮らしを正確に知ることが出来る遺跡として評価
を受け、平成5年4月に国の史跡となった。遺跡の広さは、子持中学校を含む台地の平坦部と北部の谷を含めて
約14万平方メートルが指定範囲となっている。
榛名山の火山爆発は古墳時代後期に二度の大爆発を起こし、そのたびごとに遺跡へ大きな災害をもたらしている。
一回目は六世紀初めで、長崎雲仙普賢岳でみられた高温の砂風に似た火砕流が周辺一帯を何度も襲い、焼け野原
にしてしまった。発掘調査で判明したムラ跡は、この火砕流災害後に作られたムラである。ムラは数十年続いた
が、二回目の大爆発(六世紀中頃)で2メートルにも達する軽石層が建物や田畑などすべてを覆いつくしてしまっ
た。この災害の後はムラが再建されることはなく、埋もれたまま現在に至っている。
調査によって判明した事実は、軽石堆積層の中に建物が閉じ込められていたことである。また、厚い軽石層に保護
された古墳時代の地表面には畠、水田、道、境界、水場、樹木の跡など、当時の人々の生活のありとあらゆる痕跡
が残されていた。ムラは竪穴住居一棟と垣で囲まれた建物群(平地式住居、高床式倉庫、作業小屋。家畜小屋など
が含まれ、7~10棟程度)が一単位で、この中に数家族が住んでいたとみられる。黒井峯遺跡跡には、こうした
まとまりが8~10単位存在している。日々の生活は牛馬の放牧と飼育を行いつつ、畠や水田耕作を同時に行う複
合作業と推定され、高度に発達した農業であることが判明した。
北側に子持中学校が有ります
東側です
南西側です
南側にも遺跡が広がっています
西側です
南側には、黒井峯の集落を滅ぼした榛名山が有ります
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