ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

群馬県太田市、反町薬師の大藤とクスノキです!!

2015-05-31 07:14:56 | 巨樹・大木
反町薬師は、新田荘関連史跡で以前紹介していますが

今回は、大きな藤を見に行きました

六算厄除薬師尊の石碑です


反町薬師本堂です

堀の東から藤棚です



三本の大きな幹から藤棚が出来ています

西側から

藤の直ぐ北側側に大きな楠があります




堀の中に枝をのばしています

では、次へ行きましょう
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群馬県桐生市、群馬県指定天然記念物・野の大樟(クス)です!!

2015-05-30 22:19:15 | 巨樹・大木
野の大樟が有るのは、上毛電鉄にいさと駅の南南東約1.5km

県道73号線の香林西信号の西約500mのところです



群馬県指定天然記念物 野の大樟の石碑です




南西側から見た大樟です


幹の太さ以上に、枝葉が広がっています

説明版です(部分的に消えて読めなく成っています)
      県指定天然記念物
       野の大クスノキ
               昭和三十六年九月十五日  指定
               所在地 大字野字前畑311-1
    県内でも最大級の巨木で、所有者の千・・「樟」と呼ばれている。
    目通りは約6,9m、樹高約20m、東西の枝張りは、約25m、南北は30m、幹はしたから・・・
   のところで四本に分かれている。
   樹齢は約600年といわれている。
    クスノキは、クスノキ科の常緑高木で・・・・・地を好む。関東以西、四国、九州、沖縄また・・・・        
   にも見られる樹木である。樹皮は、淡い黄褐色で・・・・卵形でつやがある。五~六月頃に葉の付け根に
   ・・・・咲かせる。
    クスノキ・・・芳香があり、カンフル・・・・剤の原料とされたり樟脳などの防・・・・・・利用され
   ている樹木である。
      平成五年三月                  群馬県教育委員会
                              新里村教育委員会



南東側からです

では、次へ行きましょう
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群馬県渋川市、溝呂木の大ケヤキです!!

2015-05-29 06:35:58 | 巨樹・大木
溝呂木の大ケヤキは、溝呂木の交差点の南、国道353号線沿いの諏訪神社の前にあります

上三原田の歌舞伎舞台から更に赤城山に登って約1km


沼田海道 溝呂木宿です

諏訪神社の北側から見ます

国道脇に案内板があります

諏訪神社南側から階段を上がります

西側の諏訪神社鳥居です

拝殿です

本殿覆い屋です

拝殿右手に御神木の大ケヤキです

群馬県指定天然記念物の石碑です

説明版があります
    県指定天然記念物
   溝呂木の大ケヤキ                 指定年月日  昭和四十三年五月四日
                            所 在 地  渋川市赤木町溝呂木 諏訪神社境内
     旧沼田街道沿いにある。溝呂木の鎮守諏訪神社の神木で、樹高三十八㍍、目通り九㍍、樹齢約八百年の古木
    である。
     溝呂木は、かつて沼田街道の宿場(溝呂木宿)として栄え、本陣・問屋をはじめ旅籠・煮売屋(茶店)など
    が軒を並べて、旅人の往来も盛んでにぎわいました。
     現在もこの大ケヤキt、家並の一部が当時の様子を伝えています。
                            渋川市教育委員会


根元にしめ縄です

洞があります

北側の部分に痛みがあります

北側から見ます


  
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群馬県渋川市、上三原田の歌舞伎舞台(国指定重要有形民俗文化財)です!!

2015-05-28 21:27:36 | 文化財・寺社
上三原田の歌舞伎舞台は、渋川市役所の東北東約5kmのところ

国道17号線から大正橋で利根川を渡り、国道353号線で赤城山へ登って行きます

道路脇に見学者用駐車場があります

国道の左手に歌舞伎舞台が有ります

重要有形民俗文化財の石碑です


説明版です
   国指定重要有形民俗文化財
    上三原田の歌舞伎舞台     指定 昭和三十五年六月九日
     所在地  渋川市赤城町上三原田乙269
      この地、赤城町上三原田に生まれた大工、永井長治郎翁が各地を巡遊した後、大阪で技術を修行し、
     工夫考案して文政二年(1819)に赤城山天竜寺境内に建立した。
      それを明治十五年(1882)に現在の地に移設した。
      この舞台の特徴は、二重、セリヒキ、廻転に特別の装置があって他にみられないすばらしさがある
     ため、”廻り舞台”と珍重され全国で唯一の舞台として推奨され注目を受けている。
         昭和63年3月           文化庁   群馬県教育委員会   渋川市教育委員会


正面前庭は歌舞伎鑑賞のための斜面になっています

”農村歌舞伎inあかぎ”の説明版です




歌舞伎舞台の使用方法の説明版です

蔵の中には歌舞伎の道具等が収められているのでしょうか

では、次へ行きましょう    
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群馬県渋川市、黒井峯遺跡です!!

2015-05-27 16:52:19 | 遺跡・史跡
黒井峯遺跡は、子持山南面に位置します

雙林寺の南西約1km、子持中学校の裾野に広がっています




国指定史跡 黒井峯遺跡です

説明版が有ります

遺跡の概要
1。所在地
   群馬県渋川市北牧・中郷地内
2.遺跡の時代と特色
   古墳時代後期(6世紀中頃)
   榛名山の火山爆発にともなって軽石で埋没した集落跡。
3.推定面積
   141299,3㎡
4.指定年月日
   平成5年4月2日
5.指定書の説明文
    黒井峯遺跡は、群馬県のほぼ中央部、吾妻川に面した河岸段丘上にあり、遺跡に南西10キロメートルに
   ある榛名山二ツ岳の爆発で噴出した大量の軽石によって、短時間のうちに埋没した古墳辞意代の後期の集落
   跡である。
    短時間に降り積もった軽石層に覆われたため、軽石層中に建物の壁、崩れかけた屋根・芝垣・網代垣等が
   立ったままの状態で保存され、また、建物の上部構造も復元できる程度に残されているなど、古墳時代後期
   の集落を構成するさまざまな遺構が構成の攪乱を受けることなく検出されている。
    この遺跡は、古墳時代後期の集落の実態を、きわめて具体的に明らかにし、この時代の社会構造の認識に
   新たな視点を与えるなど、わが国の歴史を理解するうえで重要な意味をもつものである。

    黒井峯遺跡の出土品は、ごく一部ですが赤城歴史資料館に展示されています。(0279-56-8967)


格単位の特色
  ◇家畜飼いの家(Ⅰ・Ⅵ群)
    黒井峯遺跡の中心的な家で、15棟の建物からなる。倉庫4棟・家畜小屋5棟で、特に家畜を多数買ってい
   たことが特色。
  ◇裏木戸にある家(Ⅱ群)
    もっとも小さな単位で、3棟からなる。屋外作業場の隅には垣と門をもっている。倉庫はない。
  ◇裏庭のある家(Ⅲ群)
    小規模の単位で、4棟からなる。この家の北側に屋外作業場のように堅くなった地面が続き、大型祭祀に接
   している。
  ◇首飾りの家(Ⅳ群)
    10棟からなる単位で、円形の作業場をもっている。竪穴式住居の中には、爆発の最中に2名の人間が逃げ
   込み、持っていた鍬や鋤で土間に穴を掘り、その土で熱い軽石の侵入を防ごうとしていた。このうち一人が、
   身につけていた首飾り(琥珀・水晶・ガラス製の玉)を投げ捨てていた。
  ◇種火のある家(Ⅴ群)
    全体は不明だが、8棟確認されている。大型住居の内部には種火に跡が残されていた。
  ◇稲穂のある家(Ⅶ群)
    8棟からなり、円形の作業場が多い。詳しく調査した作業場の中から、多数の土器とともに稲穂がそのまま
   の状態で発見された。土器の多くは液体を保存するものや注いだりするものが多い。


黒井峯遺跡
  この遺跡は古墳時代後期(六世紀中頃)に榛名山の爆発によって軽石で埋没した災害遺跡である。発掘調査は
 昭和57年から昭和63年まで5回行われ、軽石災害の生々しい状況と住居をはじめとする建物群が残されてい
 た。このことから、災害直前(6月頃)のムラの景観や人々の暮らしを正確に知ることが出来る遺跡として評価
 を受け、平成5年4月に国の史跡となった。遺跡の広さは、子持中学校を含む台地の平坦部と北部の谷を含めて
 約14万平方メートルが指定範囲となっている。
 榛名山の火山爆発は古墳時代後期に二度の大爆発を起こし、そのたびごとに遺跡へ大きな災害をもたらしている。
 一回目は六世紀初めで、長崎雲仙普賢岳でみられた高温の砂風に似た火砕流が周辺一帯を何度も襲い、焼け野原
 にしてしまった。発掘調査で判明したムラ跡は、この火砕流災害後に作られたムラである。ムラは数十年続いた
 が、二回目の大爆発(六世紀中頃)で2メートルにも達する軽石層が建物や田畑などすべてを覆いつくしてしまっ
 た。この災害の後はムラが再建されることはなく、埋もれたまま現在に至っている。
 調査によって判明した事実は、軽石堆積層の中に建物が閉じ込められていたことである。また、厚い軽石層に保護
 された古墳時代の地表面には畠、水田、道、境界、水場、樹木の跡など、当時の人々の生活のありとあらゆる痕跡
 が残されていた。ムラは竪穴住居一棟と垣で囲まれた建物群(平地式住居、高床式倉庫、作業小屋。家畜小屋など
 が含まれ、7~10棟程度)が一単位で、この中に数家族が住んでいたとみられる。黒井峯遺跡跡には、こうした
 まとまりが8~10単位存在している。日々の生活は牛馬の放牧と飼育を行いつつ、畠や水田耕作を同時に行う複
 合作業と推定され、高度に発達した農業であることが判明した。





北側に子持中学校が有ります

東側です

南西側です

南側にも遺跡が広がっています


西側です

南側には、黒井峯の集落を滅ぼした榛名山が有ります

では、次へ行きましょう
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雙林寺の続きです!!

2015-05-26 08:28:31 | 巨樹・大木
それでは、本堂の裏側に向かいます

本堂の軒下を通って右手の庫裏の脇を登ると

土手の斜面に大カヤが有ります、七不思議4番です

群馬県指定天然記念物の石碑です

説明版が有ります
  県指定天然記念物
       雙林寺の大カヤ        指定  昭和二十七年十一月十一日
      雙林寺が、文安四年(1447)、白井城主長尾昌賢入道景仲によって開基され、小田原の最乗寺から
     月江正文が開山として入山した際、カヤの実の数珠を持参し、その一粒を庫裏の東に記念にまいたものが
     この木であると伝えられている。樹齢は五百年と推定される。県下でも有数の巨木である。
      根元廻り約7m、目通り周囲約6m、高さ約27m、枝張りは東西22m、南北23m、イチイ科に属
     し樹勢も盛んである。
      年々沢山の実を結ぶが、どの粒にも針の通る程の穴があいていて、雙林寺に伝わる七不思議の一つにな
     っている。
                         群馬県教育委員会
                         渋川市教育委員会

東から

 
南から、途中から枝分かれしています      


北側からの全景です

本堂の裏側の土手にみえるのが、千本樫です、七不思議3番です

墓地側から見ると、土手の陰に成って大きく見えません


切ることのなかった樫の木なので、枯れてしまった枝もそのまま残っています

群馬県指定天然記念物の石碑です

説明版です
  県指定天然記念物
       雙林寺の千本カシ        指定  昭和二十七年十一月十一日
      この大カシは、古い切株からひこばえが育成したものらしく、根元は一体にあわさっていて、一株から現
     在十数本の支幹が叢生している。全体の根元廻り7,5m、支幹は目通り周囲1m以上のもの八本、以下の
     もの六本が数えられる。最高1,7mもあり、樹勢はすこぶる盛んである。全体として高さ約15m、枝張
     り東西18m、南北20m、ブナ科に属し、樹種はアラカシで、昔から雙林寺の七不思議の一つとして伝え
     られている。
                          群馬県教育委員会
                          渋川市教育委員会
千本カシから更に上に登って行くと、龍神水があります、七不思議2番ですが、写真が撮れていませんでした

戻りましょう


本堂前の松ノ木も立派な大木でした

では、次へ行きましょう
 
  
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群馬県渋川市、雙林寺の七不思議です!!

2015-05-26 05:29:33 | 文化財・寺社
雙林寺は、渋川市役所の北約6km、子持山の麓にあります

国道17号線の旧道を進み、子持入口信号を斜め左へ

中郷小学校を過ぎて間もなく到着です

総門前に駐車スペースが有ります

雙林寺の七不思議の案愛版が有りました
   雙林寺は文安四年(1447)白井城主長尾景仲により創建され、曹洞宗の修行寺として高い格式を誇っていました。
   そして今も、境内には七不思議(開山のつなぎカヤ・開山の一ツ拍子木・竜神水・千本カシ・鏡の井戸・山門小僧と
  ツル・忠度桜)が伝説として残っています。
   ここ雙林寺で、七不思議と対面してください。            環境省  群馬県

最大山 雙林寺の歴史
      雙林寺の由緒
   「いろは白井の雙林寺」は、子持山山ろくにあって今より約五百年前の文安四年(1447)年、白井城主長尾景仲が
  剃髪し入道昌賢と号し、その三年後の宝徳二(1450)年に開基となり、月江正文禅師(本寺・小田原大雄山最乗寺第
  七世)を開山として招き、以後法灯綿綿として輝き現住職は五十一代目である。
   宗旨曹洞宗(禅宗)であって、創建当時は、月江禅師を慕って、全国の修行僧が雲の如く集まり「常に二千人を下らず
  」中に四天王・十大老僧がいて禅師を補佐したと古記録に記されている。「雙林の水を飲まざる者は、禅僧にあらず」と
  まで言われた。
   太田道灌が江戸城を築いてより、徳川幕府の終わりまで深い関係を有し、常に雙林寺から住職や雲水が上って将軍の交
  替時には、有名な「城固めの法問」を行っていた。
   また慶長年間に入って僧録職に任ぜられ、上野・信濃・越後・佐渡の四ヶ国の総取締となったので、修行寺であると同
  時に役所寺でもあった。その役所を知客寮と呼んでいた。
   伽藍は禅寺七堂伽藍の形を備えその規模の雄大無比なることは、関東にその類を見ず、老杉うつ然として、参拝する者
  をして、気澄み心落ちつかしむといわれ、直末寺は、四十八ヶ寺を数え、全国二散在する門業は二千ヶ寺を越えている。
  この寺には開山にまつわる「七不思議」があり、寺を参拝し、また「七不思議」を尋ねる者あとを絶たずといわれる。
      雙林寺の七不思議
   1、開山の一つ拍子木
      開山堂ん台上に置いてある、寺中で、何か悪いことがおこりそうになると、深夜この一つ拍子木が自然になる。
   2、蛇頭水(龍神水)
      この流水は龍の神が月江禅師の徳を慕って湧き出させたものといわれ、人の多少によって増減し「人増やせば水
     増す」という。
   3、千本樫
      一株から無数の枝幹がはえ、この木は絶対に切ることができない、もし切ると寺か住職に災難がくる。
   4、開山のつなぎカヤ
      ご開山さまがカヤの実で作った数珠を持参され、それを庫裏の横に蒔いたら大木となり、その実に針糸の穴が有
     る。
   5、忠度桜
      開山の夢枕に、忠度が辞世の句”行きつかれて”と詠ったが、下句を依頼され”花に心はなかりけり”とし、成
     仏させ、お礼のムチが桜になった。
   6、山門小僧と総門のツル
      夜、小僧が出て難問答を仕掛け、大鳥が出ては荒らすので戒めの打撃をなした。翌朝、山門の小僧に腕なく、ツ
     ルの足に穴があいていた。
   7、底なし井戸(鏡の井戸)
      この井戸をのぞいて顔が写らないと「即刻死す」といわれる。
       撰文 雙林寺第五十一世 法雲周行    昭和六十三年十二月  自然と歴史の里子持村

   

   


総門です、入口は東側

通用門から行きます


鐘楼です

総門の内側です


山門です

山門小僧と総門のツル、七不思議の6番目です
   夜、小僧が出て難問答を仕掛け、大鳥が出ては荒らすので戒めの打撃をなした。翌朝、山門の小僧に腕なく、ツルの足に
  穴があいていた。

山門小僧です、確かに右腕の手首が有りません

総門のツルの葦です、丸い穴があります

本堂前です


子持村指定天然記念物 雙林寺ヒイラギモクセイです



七不思議ではありませんが、大きな木です

藤棚です

忠度桜です、七不思議の5番目です

本堂軒下です

本堂の西側一段下に、井戸が有ります

鏡の井です、七不思議の7番目です

開山堂です、中には一つ拍子木が有るはず、七不思議1番目です

では、本堂裏山へ回りましょう
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群馬県前橋市、総社神社(蒼海城跡)です!!

2015-05-25 02:30:56 | 城跡・館跡・陣屋跡
総社神社は、前橋市役所の西約3kmにあります

利根川の西側ななので、国道17号線から北側の県道10号線に入って

元総社町を北へ入ると、神社の鳥居前に出ます

駐車場は神社の北側にあります


南側から鳥居です

上野国総社神社略記です
    古代律令制下、国司は任国内の神社にて領幣したが、この神名を読み上げることから発し国司政治の衰退とともに
   その諸神の勧進とかわり国内の諸神を国府近くの一か所に合祀し総社とした。平安時代末期の創建と考えられる。
    上野国十四郡諸社549柱の神々を迎祀しやがてその神名帳一巻がご神体となった。
    本殿は慶長年間(17世紀はじめ)の造営であるが桃山時代の様式を残し、昭和三十八年に群馬県指定の重要文化
   財となり保護されている。拝殿は天保十四年(1843)に再建された豪華な建造物である。なお総社神社のご宝物
   文化財としては御神体である上野国神名帳をはじめ子持勾玉、神鏡雲版・天正十四丙戌二月一日銘、銅製円板弥勒座
   像の懸仏・天正十三年六月二日附、 伯 守の奉書した北条氏康の掟書・天正十八年五月附、前田筑前守利家、浅野
   禅正少 浅野長政の禁制等が蔵されている。                   上野国総社神社 社務所

推定復元図だそうです

市指定天然記念物総社神社社叢けやき 6本の石碑です



二本のケヤキに注連縄が掛けられています



参道を進むとまた大きなケヤキです

保存樹木指定標識です

手水舎です



拝殿前のケヤキの周りには絵馬掛けが廻っています

神楽殿です

太々神楽の説明版です

拝殿です

蒼海城跡地図が有りますが、城跡関連物はこれだけでした

文化財説明板です

本殿です


裏面の彫刻です

本殿説明版です

県指定重要文化財本殿の石碑です




本殿裏側に多くの合祀社の社が有ります


本殿裏のケヤキは、根元に大きな洞が出来ていました


もう一つ蒼海城の関連遺品が有りました、あまだれいしです

では、次へ行きましょう



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群馬県渋川市、早尾神社の大ケヤキです!!

2015-05-24 06:59:44 | 巨樹・大木
早尾神社は、渋川市役所の南東約2kmの所です

国道17号線を関越自動車道渋川インターチェンジから北へ

2つ目の信号を左へ入って直ぐ左側にあります


通り過ぎてしまって、案内板が有って戻りました

鳥居前に車を止められました

手水舎です

石塔が並びます

拝殿です

社殿裏側に古い社が有りました

拝殿と鳥居の間に神木の大ケヤキです

県指定天然記念物の石碑です

北西側から

こちら側の皮は元気に生きています




南側は傷んでいます

境内には、もう一本の大きな木が有ります

では、次へ行きましょう

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群馬県渋川市、藍園墓地の大ケヤキです!!

2015-05-23 07:23:54 | 巨樹・大木
藍園墓地は、渋川市役所の北西約2kmのところ

JR上越線しぶかわ駅前から榛名山へ登る、県道33号線を進み

県道35号線へ右折します

渋川女子高校の西側上郷信号から左へ更に登って行くと

道路沿いに大きな木が見えて来ます



墓地の南端に大ケヤキが有ります

県指定天然記念物の石碑です

説明版です
   藍園墓地の大ケヤキ
    1、名称及び員数
     群馬県指定天然記念物 藍園墓地の大ケヤキ 一本
    2、指定年月日
     昭和27年11月11日
    3、所在地
     群馬県渋川市上郷2114番地
    4、指定理由
     群馬県文化財保護条例第38条の規定による。
     指定等の基準第6の1の1による。
    5、文化財の概要
     この木は堀口家の墓地内にあり、樹齢は約600年といわれている。木の大きさは、根元廻り14m
     目通り周囲8.7m、枝張り東西8m、南北7mで、高さは9mである。以前は高さ27m、枝張り
     も20mを越えるたいへん大きな木で、道行く人の足を止めたといわれているが、枯れたために昭和
     38年に切られ、昔をしのぶ姿はない。
      現在はたいへんおとろえて、根元から空洞になっている。
     平成元年3月31日                     群馬県教育委員会
                                   渋川市教育委員会


こちら側の幹はしっかりしています

こちら側は、大きな穴が開いています

全景です

墓地から延びた根が道路の下へ延びています

では、次へ行きましょう
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梅雨入りニュース!!

2015-05-20 00:55:02 | Weblog
5月19日

   奄美地方が梅雨入りしたとのニュースが届きましたね~

   関東地域も六月半ばには梅雨入りです

   梅雨の時期には、梅雨の楽しみを見つけないといけませんよね

   みなさんは、どんなふうに過ごしますか

   では、又ネ
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群馬県伊勢崎市、お富士山古墳です!!

2015-05-19 06:25:26 | 遺跡・史跡
お富士山古墳は、伊勢崎市役所の北西約4kmのところです

伊勢崎オートレース場の北東約1km、広瀬川左岸にあたります

古墳の脇をJR両毛線の線路が通っています

東側から見たお富士山古墳です

北側の入口には「村社 富士神社」石碑が有ります


北側裾野です

古墳上には大きな松の木があるようです

東側に鳥居が有りますが、ここかえらは登れません

南側に階段があります

説明版です
    伊勢崎市指定史跡
     お富士山古墳          昭和四十一年四月十二日指定
      お富士山古墳は市内最大の前方後円墳で、墳丘の全長が約125メートルあります。明治二十一年に前方部
     の一部が削り取られてしまったが、前方後円墳の形状を現在まで良くとどめています。
      墳丘は三段築造で、周囲を巡る堀跡は、昭和六十三年の発掘調査で盾形を呈することがわかりました。
      築造年代は出土遺物などから五世紀中頃と推定されています。
      後円部の墳丘には富士神社があり、その傍らには畿内地方の大王墓と同様の形態をもつ砂岩製の長持形石棺
     が埋置されています。
    ・全長 125㍍ ・主軸 北七十四度東 ・前方部幅 83.2㍍ ・前方部高さ 5.5㍍ 
    ・後円部径 77.2㍍  後円部高さ 9.5㍍
                     平成十一年二月五日         伊勢崎市教育委員会

階段を上がります

富士神社です

社殿右手に石棺(群馬県指定重要文化財)が展示されています

パンフレットが張られています
     お富士山古墳長持形石棺
       この長持形石棺は、お富士山古墳の後円部にあり、江戸時代に伊勢崎藩の関重嶽が書いた「発墳暦」や
      「伊勢崎風土記」に記録されるなど、地元では古くから知られています。
       長持形石棺は、底石・側石・小口石で箱型を造り、かまぼこ型の蓋石を合わせ6枚で構成され、その形あ、
      は衣類を入れた長持に似ています。
       お富士山の長持形石棺は、一部の蓋石が無くなっていますが、側石や小口、底石に組み合わせるための溝や
      段が彫られ、側石や底石の縁辺に棒状の縄かけ突起が造り出され、小口石の外面には小さな方形の突出も見ら
      れます、その大きさは全長285cm、幅121cm、高さ115sm、重さは約6.8トンもあります、こ
      のような特徴から、この石棺の製作年代は5世紀代と考えられます。
       長持形石棺は、全国で45例ほど知られていますが、その多くは畿内のヤマト王権を代表する大王の古墳な
      どに用いられました、関東地方ではお富士山古墳と太田市天神山古墳のほか、千葉県で2例知られているだけ
      です。
       こうしたことから、お富士山古墳は、ヤマト王権と強い政治的なつながりをもったこの地域を治めた首長の
      前方後円墳であると考えられています。           伊勢崎市教育委員会 文化財保護課


前方部へ行って見ましょう

接続部から見た後円部です

前方部北隅です、JR両毛線の線路が脇を通ります

前方部の削り取られた部分でしょうか、松枯れ対策の様です

南西側線路沿いも削られているようです

前方部南側へ出てきました

では、次へ行きましょう
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群馬県伊勢崎市、連取のマツです!!

2015-05-18 05:27:17 | 巨樹・大木
連取のマツは、伊勢崎市役所の西約3kmお菅原神社にあります

県道24号線の北側に入った住宅地のなかに有ります

北側の公民館に広い駐車スペースが有りますので、利用させていただきました

東側入口鳥居からの神社入口を覆い隠すように松があります

菅原神社です

説明版があります
       群馬県指定天然記念物
         連取のマツ           昭和二十八年八月二十五日  指定
        このマツは享保二年(1717)に植えられたクロマツで「笠松」または「天神松」とよばれています。
        江戸時代、この地方は旗本駒井氏の領地で、代官の飯島一覚が現在地の南方にあたる韮塚町の諏訪の原
       から移植したものと伝えられています。その姿は雄大で、毎年十月には地元の人達によって手入れが行わ
       れています。
           樹  高       5メートル
           目通り周       4メートル
           根元 周       4.5メートル
           枝 張り       東西南北とも約33メートル
           樹  齢       約300年
                         昭和六十三年十二月十日     伊勢崎市教育委員会

東側枝ぶり

根元

西側根本

南西側から

北側から


菅原神社拝殿です

本殿です

由緒書です
      菅原神社由緒書
        一、天神縁起
          菅原道真公は平安初期に文章博士の家系に生まれ、幼少より才能を発揮して活躍しました。寛文六
         (894年)年の遣唐使の廃止を建言したことで有名です。醍醐天王の時代には右大臣に任命されま
         したが、左大臣の藤原時平の讒言により九州の大宰府に左遷され、失意のうちに病没しました。とこ
         ろが間もなく、まず時平が、次いで若い皇太子とその子が相次いで病死し、さらに御所に落雷があっ
         て貴族に死傷者が出る事件が起こると、天皇も三か月後には病死してしまいました。都では道真公が
         怨霊となって祟ったという風説が広まると、朝廷は道真公の名誉を回復し、「天満自在天神」の神号
         を追諡しました。「北野天神縁起」によると、道真公のお告げによって天暦元(947)年に北野天
         満宮が創建され、道真公の墓所がある大宰府天満宮とともに全国的に信仰されるようになりました。
        二、創建
          当神社の伝承によると、元応元(1319)年に、日照りのために困窮した能門が、北野天満宮に
         祈願したところ、たちまち雷雨が発生して五穀が蘇ったので里正の飯島氏が北野天満宮の分霊を勧進
         して、「天神社」の名称で創建したと伝えられていますが、その時代に連取村はまだ存在しておらず
         村が誕生した十六世紀後の頃に勧進されてと推定されます。
          当神社は連取村上組の総鎮守となり、光福寺が別当となりました。旗本の駒井氏が連取村の領主と
         なると当神社を厚く崇敬したり、伊勢崎藩主の酒井忠強公がお国入りに際には参詣したことなどが記
         録に残されています。
          享保十三年(1728)年に正一位天満宮となり、嘉永四(1851)年には現在の社殿(本殿・
         拝殿・幣殿)が当地の氏子たちによって建立されました。
          明治の改革で、七(1874)年に村社となり、四十(1907)年には中屋敷の飯玉神社と林根
         の白山神社を合祀して菅原神社となりました。
        三、奉神
          菅原道真命(学問・慈雨の神で天神様)
          御神体は木彫彩色の渡唐天神立像です。
        四、配祀神
          保食命・誉田別命・天児屋命・大山祗命・伊 再命・素 鳴命・菊理姫命
        五、神宝・句碑・石碑
          神宝として少納言侍従五条為定の和歌、太政大臣三条実美の書、御歌所長高崎正風の和歌があり、境
         内には地元の岨雲や滝素などが奉納した「松杉を誉めてや風乃かほる音」の芭蕉句碑や、森村嘉定・森
         村松鶴・飯島琴正の句碑があり、嘉納治五郎題額の「気楽流柔術碑」や、松方正義篆額の「伊勢神宮太
         々神楽奉奉記念碑」などがあります。
        六、笠松
          拝殿と鳥居の間には、享保二(1717)年に代官であった飯島弥兵衛一覚が移植し、後に雪のため
         に枝が三方に折れ、そのまま成長して見事な「笠松」となった黒松があり、その枝ぶりと雄大さは当時
         から有名となり、諏訪藩の儒者竜造寺王瑾が詠んだ漢詩碑が奉納されたり、絵師采園が版画に描いたり
         しましたが、昭和二十八(1953)年に「群馬県天然記念物」に指定され、現在も見事な姿をみせて
         います。
        七、祭典
        祈年祭(二月第三日曜日)春季例祭・児童入学祈願祭(四月第一日曜日)・子供神輿安全祈願祭(七月
         下旬土曜日)・勤労感謝祭(十一月二十三日)・初詣(十二月三十一日)


拝殿南側には石碑が並びます、木曽御岳山碑です

裏側です

拝殿北側に観光案内のASITAかるたです

北側にももう一本の笠松が有ります

こちらも十分大きな松です 

植樹記念碑です、二代目の連取のマツとして植えられています

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群馬県伊勢崎市、同聚院の大カヤです!!

2015-05-17 16:42:30 | 巨樹・大木
同聚院は伊勢崎駅前に有ります

JR両毛線または東武伊勢崎線のいせさき駅を南へ出ると

右手、南西側に大きなカヤノキが墓地の中に有るのがわかります

同聚院山門です

説明版が有ります
      伊勢崎市指定重要文化財
        同聚院の武家門
                        昭和四十一年四月十二日 指定
         武家門は同聚院の総門ですが、一般の寺院に見られる山門とはその構造が異なっています。この特徴は
        瓦葺きの切妻造りで、本柱四本を設けたいわば四脚門ですが、本柱の位置が屋根の棟の線よりも前にずれ
        ていて薬医門の形式をとっています。また、本柱が四本であることから正面は三間一戸となっていますが
        向かって右側は板張りとなっていて、左側だけに潜戸を設けています。
         「背崎風土記」によれば「今の寺邸は古昔の廓内にして寺門は即ち城門なり」(原漢文)とあり、元は
        稲垣長茂の屋敷門であったと推定され、寛文元年(1661)に本堂が建て替えられる以前の遺構と考え
        られます。
                        昭和六十三年十二月十日
                                 伊勢崎市教育委員会


本堂は鉄筋コンクリと製です

大きなカヤノキは庫裏の裏側にあります

石幢です

説明版です
      伊勢崎市指定重要文化財
        文明の石幢
                         昭和四十八年三月五日 指定
         石幢は宝珠・請花・屋蓋・龕・中台・竿・基礎からなる石造物ですが、この石幢は頂部の宝珠と請花を
        欠いています。総高は154センチメートルを測る安山岩製で、平面形が円形を示す竿部以外はすべて六
        角形となっています。なお、彫刻として龕部の六面にはそれぞれに幡・数珠・如意・香炉・鉄杖を携え、
        一体は合掌する地蔵菩薩像が半肉掘りで表現されています。さらに、各面には聖江・妙薫・ 子・千代・
        妙秀・又 の願主と考えられる六人の女性名が刻され、竿部には文明十二年庚子十月十六日と紀年銘が刻
        されていることから、この石幢は文明十二年(1480)の造立であることがわかります。
                         平成二年六月二十二日
                                   伊勢崎市教育委員会



本堂西側の墓地に廻って大カヤです

説明版です
       伊勢崎市指定天然記念物
         同聚院の大カヤ
                          昭和四十二年二月十五日  指定
          カヤはいちい科の常緑高木で、葉は扁平線状の革質で厚く先端はするどくなっています。株は雌雄異なり
         これは雌株で。四月頃開花し、実は広楕円形の核果を呈して食用となります。
            樹  高       38メートル
            目通り周        5メートル
            根本周        10メートル
            枝張り    東西  15メートル
                   南北  13メートル
            樹齢         約600年
            学名     トオレヤ・ニューシフィラ
            和名     カヤノキ いちい科
                          平成二年六月二十二日
                                    伊勢崎市教育委員会

本堂南側の成田山です

手水舎も近代的?です

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群馬県太田市、長楽寺宝塔(国指定重要文化財)です!!

2015-05-17 00:27:22 | 文化財・寺社
長楽寺は一度(2012年10月28日)紹介していますが、その時に、

重要文化財の宝塔がどこに有るかわかりませんでしたので

再度訪問しました、世良田東照宮に北隣にある長楽寺です




長楽寺通用門です

本堂です

徳川氏墓所です、長楽寺の南端

東照宮の敷地との境にあります



墓所です、多くの墓石が並ぶ

奥の一基が重要文化財の宝塔です


説明版が有ります
       国指定重要文化財   宝塔 
                    指定年月日  昭和三十六年三月二十三日
                    所 在 地  太田市世良田3119-4
         ここは長楽寺の開基徳川次郎義孝を初め、徳川氏累代の墓所と伝えられ、前方後円墳の後円部にあたり、
        古くから文殊山と呼ばれている。
         この宝塔は凝灰岩製で、双輪は失われているが、現存部の高さ1メートル65センチである。屋蓋、軒
        口の切り方、軒反り、瓶型の塔身に鎌倉時代の特色を良く現わしている優秀な石造宝塔である。
         昭和6年、周囲の石垣を築造し塔を整備したさい宝塔の基礎底面に
                 敬白
                 奉建立多宝塔
                 右所造立如件
                 建治弐年 丙子 十二月廿五日(1276)
                 第三代住持比丘院豪
        と銘文が刻まれているのが発見された。
         当の造立者院豪は寛元年中に宋に渡った。正嘉二年(1258)長楽寺第三世となり、以来二十四年間
        住職であった。
         弘安四年(1281)長楽寺で没し、その後「円明仏演禅師」と朝廷よりおくり名をされた高僧である。
            昭和五十三年三月               太田市教育委員会

南側より

北側より

楼門を入った所です

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