ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

愛知県安城市、東端町寺下「西蓮寺のイチョウ」(市指定)です!!

2023-02-28 18:30:09 | 巨樹・大木
 東端町寺下地区は、安生市役所の南西約8kmのところ

 市役所前から県道45号線を南西へ、約7kmの東端町明祥信号を右(北西)へ

 約700mの東端町鴻ノ巣信号を左(南西)へ、約1.1kmで右へ

 間も無く西蓮寺境内への南東側入口です、入口前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 西連寺は、南向き参道ですので、南側の参道入口へ移動します


 参道入口です

 山門です

 山門の左手にイチョウが見えます

 浄土真宗 高田派 西光明山 西蓮寺です

 山門を潜ると左に山門前から見上げたイチョウです

 北側から

 説明版です
 市指定天然記念物  西蓮寺のイチョウ
    昭和49年2月13日指定
 西光明山西蓮寺は、浄土真宗高田派に属する寺院です。
 保安3年(1122)に寂仙を開基として、不断念仏の道場として建立されました。
 当初は天台宗の寺院でしたが、建武元年(1334)に第4世寂静によって浄土真宗に改宗しました。
 弘治2年(1556)には第13世智了によって現在地へ寺地を移しました。
 また永禄6年(1563)に浄土真宗大谷派の寺院によって引き起こされた三河一向一揆では、浄土真宗高田派だった西蓮寺は徳川方に味方して戦闘に参加せず、廃寺処分を免れました。
 イチョウは、イチョウ科に属する中国原産の落葉針葉樹で、特徴として雌雄異株であることが挙げられます。銀杏を実らせるのは雌木のため、雄木である西蓮寺のイチョウには銀杏は実りません。
 また、イチョウは樹齢が長いことも知られており、西蓮寺のイチョウの樹齢は150~200年と推定されて居ます。
     安城市教育委員会
  樹種名  イチョウ
  樹高   14.0m
  幹周    3.4m
  枝張  南北7.1m 東西8.7m
  下枝高   3.3m
    (平成29年現在)



 手水舎です

 観音像です

 山門東側に鐘楼です

 本堂です

 本堂前右にヒノキです

 保存樹木指定標識です

 茶室の説明版です



 本堂前からイチョウを見ました

 北東側から

 では、次へ行きましょう


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愛知県西尾市、米津町白沢「龍讃寺のカイヅカイブキ」(市指定)です!!

2023-02-28 06:29:04 | 文化財・樹木
 米津町白沢地区は、西尾市役所の北約3.5kmのところ

 西尾市役所から県道310号線を北西へ、花ノ木3丁目信号を右(北東)へ県道43号線です

 道光寺南信号からは県道12号線となって北へ進みます、道成りに進んで矢作川を米津橋で渡って直ぐ

 米津橋北信号を左(西)へ土手道の県道46号線へ、約200mで斜め右へ県道46号線のままです

 約300mの県道右側に龍讃寺が東向き有ります、県道から右(北)に入って参拝者用駐車場に入りました

 山門です

 真宗 大谷派 善徳山 龍讃寺です

 山門を潜ると右手に目的のカイヅカイブキです

 東側から


 説明版です
   龍讃寺のカイヅカイブキ
     所在地 米津町白沢111番地
     管理者 龍讃寺住職 岩津正人
     区分  西尾市指定天然記念物
     指定  昭和45年2月22日
 ヒノキ科、イブキが変成したもので、主幹はら旋状にねじれ奇観を呈す。
 根囲り2.3m、胸高囲1.65m、樹高13m。
    昭和63年3月  西尾市教育委員会
*カイヅカイブキ(貝塚伊吹、学名:Juniperus chinensis 'Kaizuka')は、ヒノキ科ビャクシン属の小高木。ビャクシンの栽培品種。枝が巻き上がるように生育する。

 西側から

 

 参道左手に手水舎です

 本堂です

 説明石碑です
   善徳山 龍讃寺
1,宗派 真宗大谷派
1,宗祖 親鸞聖人
1,本尊 阿弥陀如来
1,沿革
 本願寺第8世蓮如上人御存命中の延徳3年(1491)4月28日、第9世実如上人より、米津郷念仏道場主釋浄了(伝松平氏)に阿弥陀如来御絵像(現存)を下賜され、このときを以て当寺の創始とする。
 中興の祖善徳(浄了より4代の後胤)東本願寺第13世宣如上人より木仏本尊を賜る。以後「善徳山龍讃寺」と号した。
 寺の本堂は、第6世円慶(文政7年寂)文化2年(1805)の建立、これに先立って山門と鐘楼が天明8年(1788)に造られたが、両者共昭和20年(1945)の三河地震で倒壊した。その後、鐘楼は昭和29年(1954)、水屋同56年(1981)、翌57年には山門がそれぞれ懇志の浄財によって再建された。
 昭和63年(1988)、門信徒の寄進を結集して本堂大屋根の修複を施工、続いて内部補修、内陣金箔押し等を行い、さらに外部生子塀改築、庫裡会館を新築するなど、足掛け3年に渡る画機的工事を推進して寺の内外を一新した。
    平成3辛未年4月 
       当山第12世 釋正人識
 この経の巻鬼瓦は、200年ほど昔、当時の幡豆郡新渡場村(今の西尾市新渡場町)住人日下部儀助製作のものである。


 本堂前から見ました

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愛知県西尾市、花蔵寺町上島南「慶昌寺のイブキ」(市指定)です!!

2023-02-27 18:29:35 | 巨樹・大木
 花蔵寺町上島南地区は、西尾市役所の東南東約3kmのところ

 市役所前から県道310号線を東南東へ、道成りに進んで矢作古川を古川橋で越えます

 次の広田川を高河原橋で渡って直ぐ右(南西)へ、土手道を下って進み約600mで左(南東)へ

 約300mの左手に慶昌寺が南東向きに有ります、

 南側の道路脇に車を止めさせて頂きました


 南側から慶昌寺を見ました

 山門前に目的のイブキです

 山参道入口です

 真宗 大谷派 笠間山 慶昌寺です

 手水舎です

 本堂です

 山門前(南西側)から


 南側から

 説明版です
   慶昌寺のイブキ
    所在地 花蔵寺町上島南3番地
    管理者 慶昌寺住職 三浦了信
    区分  西尾市指定天然記念物
    指定  昭和44年6月12日
 ヒノキ科。一名シンパクという。
 根囲り3.4m、胸高囲3.0m、樹高12m。
 昭和63年3月   西尾市教育委員会

*イブキ(伊吹、学名:Juniperus chinensis)は、ヒノキ科ビャクシン属の常緑高木。 別名ビャクシン(柏槇)、イブキビャクシン(伊吹柏槇)、シンパク(槇柏、真柏)。多くの変種、品種があります。園芸品種が多く、庭木、公園木、グランドカバーによく使われる。材は赤みがあり木理が美しく、家具材や床柱に利用されます。
 


 東側から 

 北東側から

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愛知県西尾市、吉良町瀬戸宮西「西林寺の大椎」(市指定)です!!

2023-02-27 06:29:06 | 巨樹・大木
 吉良町瀬戸宮西地区は、西尾市役所吉良支所の北北東約5kmのところ

 吉良支所から県道42号線を北へ、約1.7kmの三叉路雑役免信号を右斜めに進みます

 約2kmでまた県道42号線に合流して北東へ道成りに進みます

 約800mで瀬門神社参道へ入って、すぐ三叉路を左斜めに丘の裾を進みます


 道路の右側に西林寺入り口と目的のシイの木が見えて来ます

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました


 北西側から


 天然記念物標柱です

 説明版です
  西尾市指定天然記念物
   西林寺の大椎
     昭和38年4月1日指定
     根回り 5.7m
     高さ 10.0m
 旧岡崎街道沿いに位置し、往古は周辺にシイ・杉が生い茂り、このシイが西端にあたることから、覚樹山西林寺と称したといわれる。
  平成18年3月  西尾市教育委員会

 参道を入って南側から見上げました

 山門です

 山門前から見ました

 山門を入ると正面に本堂です

 境内東側から

 北東側から見ると幹は空洞になっていました


 白瀬南極探検隊長之墓の案内板が有ります

 墓地に行ってみましたが墓参り(掃除に献花)をされている方がいらっしゃたので戻りました

*白瀬 矗(しらせ のぶ、1861年7月20日(文久元年6月13日])- 1946年(昭和21年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、南極探検家。最終階級は陸軍輜重兵中尉。幼名は知教(ちきょう)「白瀬中尉」と呼ばれることが多い。
 明治43年(1910年)、白瀬は南極探検の費用補助を帝国議会に建議した。衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶみ3万円の補助金を支出しなかったため、渡航費用14万円は国民の義援金に頼ることとなった。
 明治45年(1912年)1月16日、南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名しクジラ湾より上陸した、同地は上陸、探検に不向きであった。1月20日、極地に向け出発した。この時点では南極点到達は断念し、南極の学術調査とともに領土を確保することを目的とした。
 1月28日、帰路の食料を考え、南80度5分・西経156度37分地点一帯を「大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名して、隊員全員で万歳三唱、同地に「南極探検同情者芳名簿」を埋め、日章旗を掲げて「日本の領土として占領する」と先占による領有を宣言した。


 墓地への石段からシイを見ました

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愛知県西尾市、吉良町荻原大道通「羽利(はり)神社の双幹大樟」(市指定)です!!

2023-02-26 19:00:07 | 巨樹・大木
 吉良町荻原大道通地区は、西尾市役所の南約7km、西尾市役所吉良支所の北約500mのところです

 西尾市役所吉良支所前から県道42号線を北へ、名鉄吉良線の踏切の手前を左(西)に入ったところ

 南南西向き参道で羽利神社が鎮座します

 少し南へ戻った市立吉良図書館の駐車場に車を止めさせて頂きました

 境内入口です

 村社 羽利神社です

 ウォーキングの案内板に羽利神社の説明が有ります
   健康の道ポイント⑩
    羽利神社=祭神  大物主社、日本武尊、天照大御神、天白之神、宇迦御魂神
 創立年月は不詳なるも、当社の神職の家譜に依れば、伊勢国一志郡八太郷に住居した小津亮良が暴風にて漂流当地に定着、一族と共に社殿を建て、勢州の鎮守の分霊を要請した。時に702(大宝2)年6月10日で、当社創立の起源である。
 1471(文明3)年9月9日、日本武尊を熱田から勧請して羽利の宮の合殿に祀り氏神祭を行った。
 大楠の由来については、1648(慶安1)年、3代将軍徳川家光よりの社領寄進の由来を、本宮熱田の宮に報さいした際、庭中の神木楠の木を持ち帰り境内にまき、記念樹とした。
   次の保険センター(終点)まで2.05km


 鳥居です

 左手に手水舎です

 境内中央に目的の双幹の大樟です


 南側から

 天然記念物標柱です

 説明版です
  西尾市指定天然記念物
    羽利神社の双幹大樟
      平成2年6月12日指定
 羽利神社は慶安元(1648)年、三代将軍家光から5石5斗の社領をたまわった。
 このことを本宮である熱田神宮に報告した際、神木のクスの種を持ち帰り記念樹として植えたと伝えられる。
    西尾市教育委員会

*環境省巨樹巨木林DBによれば、幹周/6.70m、樹高/19m。西尾市のHPでは、根回り/8m 目通り幹周/東関3.3m・西幹/3.4m 樹高/約20mとなっている巨木です

 東側から


 北側から


 拝殿前から


 西側から

 拝殿です

 本殿の屋根を見ることが出来ました


 拝殿東脇から

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愛知県西尾市、吉良町荻原川中「教蓮寺のイヌマキ」(市指定)です!!

2023-02-26 06:31:51 | 巨樹・大木
 吉良町荻原川中地区は、西尾市役所の南約7km、西尾市役所吉良支所の北約500mのところです

 西尾市役所吉良支所前から県道42号線を北へ、名鉄吉良線の踏切を越えて約50mで見氷(東)へ入ります

 間も無く左手に教蓮寺が南向きの参道で有ります

 山門前の駐車場に車を止めさせて頂きました


 境内入口です

 浄土真宗 本願寺派 教蓮寺です



 山門を入ると正面に本堂です

 参道左手に手水舎です

 更に左手に鐘楼です

 境内右手に目的のイヌマキです

 南側から見上げました、太い支柱に大枝が支えられています

 西側から

 天然記念物標柱です

 説明版です
   西尾市指定天然記念物
     イヌマキ
      昭和53年1月25日指定
      目通り  3.2m
      根回り  4.0m
      高さ  11.0m
 県内で一番大きなイヌマキで、枝振りも見事である。
 推定樹齢は550年で、応仁2年(1468)の教蓮寺創建当時に、蓮如上人がお手植えされたとつたえられる。
    平成18年3月   西尾市教育委員会

*イヌマキという名の由来は諸説あります、上品なイメージを持つコウヤマキをホンマキと呼ぶのに対して、葉や姿形が劣る本種をイヌマキと呼ぶようになったというのが一般的な説です。コウヤマキより成長が早くて安価なため、流通量は圧倒的に多いものです。
 房総半島以西の本州、四国、九州及び沖縄に分布するマキ科の常緑針葉樹で、海岸近くの山地に自生します。マキにはいろいろな種類があり、本種はもっとも一般的で、単にマキという場合は本種を示します。手をかければ好きな形に仕立てることができるため、古くから垣根や玉散らしとして、主に和風庭園で利用されてきました。日本以外では台湾に分布しています。
  (植木ペディアからの一部抜粋です)


 本堂前から見ました

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愛知県西尾市、東幡豆町森「妙善寺のマキ」(市指定)です!!

2023-02-25 18:30:19 | 文化財・樹木
 東幡豆町森地区は、西尾市役所の南西約13km、西尾市役所幡豆支所の東約2kmのところ

 西尾市役所幡豆支所前から名鉄蒲郡線に沿う様に東へ、東幡豆郵便局の先の横断歩道の先を右(南)へ

 名鉄蒲郡線の踏切を渡って漁港の手前を左(東南東)へ間も無く左手に妙善寺が南向き参道であります

 参道前海側の広い駐車場に車を止めました

 妙善寺入口です

 地区の案内図です

 浄土宗 西山深草派 性海山 妙善寺です

 山門です

 説明版です
   吉良800年の軌跡
  幡豆(ハズ)小笠原氏ゆかりの地
   妙善寺
 徳川家康の落胤といわれる小笠原権之丞ゆかりの浄土宗西山深草派の寺院で、権之丞の母の位牌を安置しています。
 ハズ観音・かぼちゃ寺として知られ、毎年冬至の日には全国各地から奉納されたかぼちゃでつくった「かぼちゃしるこ」が振舞われます。
 境内には10mほどのマキは市指定天然記念物です。

 民話の説明版です
  幡豆の民話
    お告げのかぼちゃ
 妙善寺が、むかし西林寺と呼ばれていたころ、この寺の利春僧都に観音様から「福徳をさずけるから、浜に出てみよ」とお告げを受けました。
 寺の前の浜に出てみると、木の実とも野菜ともつかない丸い形をしたものが、たくさん岸に打ち上げられていました。
 和尚さんや村人たちが煮て食べてみると、甘くてとてもおいしいものでした、この実を食べるようになってからは顔の色つやがよくなり、みんな生き生きとしてきたそうです。
 その後、この実は「かぼちゃ」であるとわかりました。
    平成19年11月  幡豆町民話の里おこし実行委員会


 山門前には十王堂のようです

 山門を入ると左手に手水舎です

 参道右手に鐘楼です

 参道左手の手水舎の先に目的のマキです

 東側から

 案内板です
  幡豆町指定文化財(天然記念物)
    妙善寺のマキ(イヌマキ)
 樹高約15m、胸高囲約2.8mあり、この種では町内一の巨木である。

*マキについての説明は、次回の投稿でさせて頂く予定です

 北側から

 西側から



 境内西側には石仏が並びます

 本堂です

 本堂前には民話に有った「かぼちゃ」です

 本堂前東側にもかぼちゃと観音様です

 西側の観音様とお地蔵様です

 本堂前からマキを見ました



 駐車場前の海岸には、鴨が沢山います



 近付くと逃げてしまいますね~



 車の陰に隠れてようやく撮影出来ました

 では、次へ行きましょう

 
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愛知県西尾市、吉良町宮迫四反田「圓融寺の大梛と吉良の五本松」(市指定)です!!

2023-02-25 06:30:01 | 文化財・樹木
 ここからは、2023年2月7日取材分です

 西尾市は、愛知県の西三河地方に含まれる市です、愛知県中央部を北から南へ流れる矢作川流域の南端にあり、抹茶の産地(西尾茶)として、また「三河の小京都」として知られる。人口は愛知県第9位です。
 2011年4月1日に 西尾市が幡豆郡一色町、吉良町、幡豆町を編入しました。

 吉良町宮迫四反田地区は、西尾市役所の東南東約7km、西尾市吉良支所の東北東約6kmのところ

 吉良支所から県道42号線を北へ、約2.5kmの中の信号を右(東)へ、県道41号産業道路です

 約4kmで横断歩道の手前を左(北)へ、道成りに進んで矢崎川を渡って右(東)へ県道318号線です

 間も無く県道左手に圓融寺が南向きに有ります

 すぐ先の県道左側に駐車場が有りますので車を止めさせて頂きました

 圓融寺入口です

 日蓮宗 龍光山 圓融寺です

 東側(駐車場脇)から県道沿いのクロマツを見ました

 矢崎川の橋の上(南側)から

 南側から見上げました

 吉良の五本松の標柱です

 西側(参道入り口)から見ました


 山門前前の清水一学の乗馬像です
*寺院裏手の山にある公共墓地には赤穂事件の際に討死した清水一学の墓所があります。


 由緒石碑です
  日蓮宗 龍光山 圓融寺
由緒の沿革
 1525(大永5)年、開基長宮院日詮上人が当地に巡錫して、法華経を宣布信徒の外護を得て当地に開創された。それ以来法灯相続して現在に至っている。従って本堂、番神堂、玄関、庫裡は、建物が古く江戸時代後期及び明治初期の、改築修繕の記録よりみると、200年以上経過していることが想像される。
 唯し玄関庫裡は老朽ひどく、昭和54年檀信徒の浄財により改築された。尚江戸時代中期、吉良公の忠臣であった清水一学の墓所が、当山裏の公共墓地にある。
 往古宮迫には、地福院、光用院、養水寺、東蓮寺、圓融寺等7ヶ寺があったが、日詮上人が大永5年圓融寺に入ってから、全村こぞって改宗して他の寺は衰えて廃寺となった。
 当寺観音堂は、吉良若狭守義冬の男子出生の祈願所として再建した。
 尚門前の五本松(松クイ虫のため現在2本)、及び番神堂南の梛の木は、吉良町文化財天然記念物に指定されている。
    平成4年壬申3月

*五本松は約30年前までは、2本あったようです、現在は1本だけになってしまっています


 山門を入ると右手に鐘楼です

 左手には目的の大梛です

 参道を進みます

 手水舎の後ろ側に大梛です

 圓融寺の大梛の標柱です

 北東側から

 本堂です

 境内東側道路沿いに星野勘左衛門の標柱です

 説明版です
  星野勘左衛門
 弓の名手として有名な星野勘左衛門は、ここ宮迫で生まれ、尾張藩に仕えた。
 寛文2年(1662)5月1日に、京都三十三間堂の通し矢を試み、8000本の新記録をつくって「総一」(第一人者)と称され、弓道の達人として有名になった。この記録は貞享3年(1686)4月6日まで24年間も破られなかった。
 勘左衛門は元禄9年(1696)5月6日に55歳で亡くなった。住居跡は現在の愛知県芸術文化センターの南側にあたり、標柱が建てられている。
    平成15年3月  西尾市教育委員会
 

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愛知県蒲郡市、相良町荒井「御堂山観音堂のボダイジュとスダジイ」(市指定)です!!

2023-02-24 18:31:57 | 巨木・文化財
 相楽町荒井地区は、蒲郡市役所の東約8kmのところ

 市役所前から県道383号線を東へ、三谷町伊与戸信号で国道247号線に合流して更に南東へ

 大塚鎌倉信号を左(北)へ相良ヒメハルロードです、道成りに進んで丁字路を右(北東)へ

 坂道を登って行くと、墓地の先に養圓寺の案内板が有ります、そのまま坂道を登って行きます

 丁字路を左へ、更に道成りに坂道を登って行くと道路が通行止めになっています

 御堂山観音堂の参道前です

 案内図が有ります

 道路の左側下に目的のボダイジュです

 案内板の有る所から下へ降りて見ました

 杉林の先にボダイジュです

 株立ちのボダイジュです


 蒲郡の名木50選 2御堂山のボダイジュの案内板です、ボダイジュ(シナノキ科)昭和46年8月17日指定です

 北側から

 南側から、幹周 1.19m(支幹最大のもの)根回り 5.29m(全体)です

 熊野神社跡の石柱です

 観音堂へ行きましょう
 

 愛知県指定天然記念物 ヒメハルゼミの説明版です



 手水舎です

 観音堂です

 説明版です
  御堂山観音堂の木造十一面観音立像
           (県指定文化財)
 本像は観音堂の本尊として安置されたものである。
 像高172.5cm、裾張り37.3cm、ヒノキ材の寄木造、平安時代後期の作と推定される。
 頭部・体部の均斉がよく、頬から顎にかけてふくよかに象形され、穏やかな顔つきである。体は細身ながら、胸から腹にかけての間をひきしめるなど抑揚がある。衣文は流れるように浅く刻まれ、平安後期の様式を示す。
 この像は33年に一度御開帳される秘仏である。山火事などから観音像を守るため、観音堂横の収蔵庫に納められている。
 昭和32年1月12日、県の有形文化財に指定された。


 境内端のスダジイの巨木です

 北側から

 西側から

 換鍾の説明版です

 *今回は時間がなかったので、名木50選の観音大杉も見る事が出来ませんでした

 では、陽が沈みましたので、蒲郡市内の宿へ移動します
 
 
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愛知県蒲郡市、相楽町上ミ「養園寺の(夫婦)ヒノキとヤマモモ」(市指定)です!!

2023-02-24 07:07:35 | 巨樹・大木
 蒲郡市は、1954年(昭和29年)4月1日、愛知県で15番目の市として市制施行さました。市名は、蒲形村と西之郡村(現在の市中心部)から一文字ずつ取った合成地名です。渥美半島と知多半島に囲まれた温暖な気候であり、沿岸一帯が三河湾国定公園に指定されています。
 又市内の町名は、旧蒲郡町・三谷町・塩津村の区域では市制施行時に、旧大塚村・形原町・西浦町の区域では蒲郡市編入とともにそれぞれ町名が設置されている。

 相楽町上ミ地区は、蒲郡市役所の東約8kmのところ

 市役所前から県道383号線を東へ、三谷町伊与戸信号で国道247号線に合流して更に南東へ

 大塚鎌倉信号を左(北)へ相良ヒメハルロードです、道成りに進んで丁字路を右(北東)へ

 坂道を登って行くと、墓地の先に養圓寺の案内板が有りますので従って右へ

 間も無く養圓寺山門前の駐車場に車を止めることが出来ました

 南東向きに山門です

 寶國山 養圓寺です

 道路脇に説明版です
  寺社ー4養円寺 自然ー5養円寺のヒノキ 自然ー6養円寺のヤマモモ 寺社ー7相良の庚申堂
養円寺
 宝国山養円寺は、源頼朝ゆかりの三河七御堂の一つ・全福寺の僧院として天授元年(1375)に創建された。
 文明2年(1470)戦火で焼失したが、文禄4年(1595)に再建された曹洞宗の古寺である。
 本尊は、釈迦牟尼如来座像である。
養円寺のヒノキ
 樹高24m・樹齢約500年の巨木。主幹が地表部分から二つに分かれてているところから「夫婦ヒノキ」とも呼ばれている。
養円寺のヤマモモ
 樹高15m・目通り2.6m。幹に空洞がある老木大木。雌株で樹の勢いや枝ぶりもよく、夏には赤い球形の実をいっぱいつける。
相良の庚申堂 
 ここより北東約150mの小高い丘にある約13㎡程の古いお堂。
 堂内には青面金剛像が安置されていて、春・秋の「庚申」の日にはお祭りもあったが今は現存していません。
    大塚・相良ふるさと博物館

 山門を潜ると参道右手の石垣の上に目的のヒノキです

 境内に上がって南側から

 蒲郡の名木50選3の案内板ですが半分に割れてしまっています

 幹周3.70m(太幹)・2.73m(細幹) 根回り7.21m(全体)の巨木です



 参道左の境内にヤマモモです、幹周2.76m 根回り3.86mです

 本堂前から見ました

 ヒノキです


 本堂です

 本堂の左軒下に梵鐘が有ります

 では、次へ行きましょう
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愛知県豊川市、赤坂町西縄手「杉森八幡社の楠(夫婦楠)」(市指定)です!!

2023-02-23 18:30:06 | 巨樹・大木
 赤坂町西縄手地区は、豊川市役所の西北西約8kmのところ

 市役所前から県道5号線を西北西へ進みます、国道1号線の追分信号からは県道368号線です

 西へ入って直ぐの行力信号を右へ県道374号線です、音羽川を新御油橋で渡ると旧東海道となります

 道成りに北西へ向かい、「御油の松並木」を貫け、赤坂宿の中ほどで関川神社を見て
 
 正法寺参道の手前を右(北東)へ入ります、最初の左(北)への道に入って音羽川の中橋の手前を左へ

 川沿いを進んで次の大国橋のところで左(南西)へ、間も無く右に曲がって

 杉森八幡社の赤い鳥居です

 参道(生活道路)を進んで、境内入口です、八幡社は南東向きに鎮座します

 境内左(南西側)の道路脇に車を止めさせて頂きました

 旧東海道側にも石鳥居が二基建っています

 境内の手水舎(南東側から)です、後方に目的の楠が見えます


 参道脇(南東側)から

 参道(南東側)から見ると夫婦楠の名前の通り二本の巨木が並びます

 天然記念物標柱です

 説明版です
  杉森八幡社の楠
    指定 楠 二本
    所在地 豊川市赤坂町西縄手3・4番(杉森八幡社境内)
    管理代表者 杉森八幡社氏子総代代表者
 杉森八幡社境内、拝殿向って左側、前から二本がそれであり根株が一本化し、二本に成長していることから「夫婦楠」とも呼ばれる。
 当社は大宝2壬寅年(702年)持統上皇が、東国御巡幸のとき当地の頓宮におられたとき、伊勢神宮領御厨跡に大神宮・八幡社を勧請遊ばされ、両宮とも神鏡を納められたと伝えられる。
 社の発生から考察し、また、調査したところ、この楠は推定樹齢約1000年と考えられる。
 目通り6.0m、高さ約20.0m、根ばりが楠の特徴をよくあらわしている。
     昭和52年3月1日 豊川市教育委員会

 北東側から、左側が目通り幹囲7.1m、右側が6.6mの巨木です

 拝殿前(北側)から

 拝殿側の楠です

 北西側から

 西側から
 
 南西側から太い方の楠です




 拝殿です

 本殿覆い屋です

 説明版です
   郷社八幡神社
 御祭神 天照皇大神
     仁徳天皇
     應神天皇
     神功皇后
 當社は、神明宮及八幡宮を相殿に崇祀し奉る、御祭神各柱の御神徳は正史に赫々たれば今改めて記するまでもなし。
 神明宮、今を距る千二百有余年の昔、大宝2壬寅年(702年)持統天皇東国を御巡幸ありて、當地に御頓宮に在のとき、此の所より東北方音羽の静流を挟み3町の伊勢神宮領御厨跡に大神宮を勧請遊ばされ神鏡を納められたと伝えられる
 にて八幡宮は行在所跡即を當境     りて勧請し奉りし旧居なり、かくて両       なかりけるが神明宮は不幸祝融の災いに  きを時の神主金澤兵部憂懼耤く能はす    しに神都にも明かに記録ありし由にて正    面を奉納せられ當社相殿に斎き祀ることなり、今   して奉安す、其箱書に此神鏡は正保四亥歳九月     義藤原綏光郷被奉納て外宮十三面の一にして出自大蔵寮者也とあり爾後遠近の崇敬愈深く今尚御園大御門宮町等の字名を遺し往時に規模を物語る。
 社號若宮八幡宮、若宮後、杉森八幡宮と稱へ、明治維新村社に列し、単に八幡社と號せり、而して昭和7年4月20日郷社に昇格す。
 本殿は延宝年間の建設にて、舞殿は明治18年の再建にかかる。
*薄くなってしまって読めませんでした



 社殿の北側には大きな「赤坂の舞台」が有ります

 説明版です
   赤坂の舞台
  平成10年6月1日。豊川市指定有形民俗文化財
  建築面積243㎡、(間口10.4間・奥行き7間)
 当舞台は、心棒の先を支点として、盆が回るように仕組んだ皿回し式の回り舞台である。奈落はなく、舞台上で回した。
 赤坂宿では、江戸時代には人形浄瑠璃、明治以降は歌舞伎が演じられていた。
 現在の舞台は、赤坂の芝居愛好者が中心となって、近隣の同好者に建設を呼びかけ、明治5年7月に舞台開きをしたと伝えられている。
 平成12年(2000)に改修復元した。
     豊川市教育委員会

 境内東側に境内社四座が並びます、右から二つ目は狐の置物が有りますので稲荷社のようです 

 では、次へ行きましょう
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愛知県豊川市、赤坂町西裏「正法寺のワビスケとイヌマキ」(市指定)です!!

2023-02-23 07:25:23 | 文化財・樹木
 赤坂町西裏地区は、豊川市役所の西北西約8kmのところ

 市役所前から県道5号線を西北西へ進みます、国道1号線の追分信号からは県道368号線です

 西へ入って直ぐの行力信号を右へ県道374号線です、音羽川を新御油橋で渡ると旧東海道となります

 道成りに北西へ向かい、「御油の松並木」を貫け、赤坂宿の中ほどで関川神社を見てさらに進むと

 大橋屋(旧旅籠鯉屋)のすぐ先左側が正法寺の参道です
 
 境内入口前を右へ正法寺駐車場に車を止めさせて頂きました

 山門です

 文化財説明版です
   正法寺の文化財
 絵画 ◎釈迦如来画像 一幅 鎌倉 作者不詳
    〇十三仏画像  一幅 室町 呉道子筆
    〇十三仏唐画  一幅 室町 作者不詳
    〇不動尊画像  一幅 室町 作者不詳
    〇関白増紙   一幅 江戸 作者不詳
    〇業平涅槃之図 一幅 江戸 英一蝶筆
 彫刻 〇聖徳太子立像 一躯 (伝 聖徳太子)
    〇観音立像   一躯 鎌倉 源範頼守り本尊
 工芸 〇木蘭地袈裟  一領 江戸 家康公寄進
    〇網代団扇   一柄 江戸 同上
 書跡 〇六字名号   二幅 鎌倉 親鸞筆
    〇六字名号   五幅 室町 蓮如筆
    〇九字名号   一幅 室町 蓮如筆
 天然記念物 〇正法寺のワビスケ(有楽椿)一樹
       〇正法寺のイヌマキ(雌雄) 二樹
    ◎県指定 〇市指定
 その他 推朱香合・藕糸方便法身弥陀画(親鸞裏書)
     方便法身弥陀画(顕如代)・正信喝四句文(実如)
     御書(証如・円如・教如・寂蓮・豊臣秀吉・伊達政宗・沢庵・江月)
       豊川市教育委員会

 山門を潜ると右手にウラクツバキです

 天然記念物標柱です

 説明版です
   正法寺のウラクツバキ(有楽椿)
     豊川市指定天然記念物
     昭和55年6月1日指定
 ウラクツバキは、茶人織田有楽斎(織田信長の弟)が茶花として愛好したことからこの名が付いたといわれています。関東では「太郎冠者」とも呼びます。
 この木の樹齢は約400年で、花は1月上旬から3月末まで咲きつづけます。わずか淡紫色を帯びた桃色で、白斑の入った花もあります。花托は一重中輪です。
    豊川市教育委員会

 南西側から、多くの花を見る事が出来ました

 
 参道左手に鐘楼です


 鐘楼の前から境内南端にイヌマキです


 天然記念物標柱です

 説明版です
   正法寺のイヌマキ(二本)
     豊川市指定天然記念物
     昭和55年6月1日指定
 イヌマキはは通称マキともいわれ常緑樹で、雌雄は異株です。
 この木は雌木で、花は5月に開き、緑いろの種子はおよそ球形で10月頃に熟します。
 花托は倒卵形で暗赤色に色づき、甘味があり食べられる。
 樹齢は約500年、木の高さは約20m、幹の回りは目通り約2.6mです、県下でも珍しく大きなものです。
 また、雄木は本堂左側にあり、樹齢・大木さともに雌木とほぼ同じです。
    豊川市教育委員会

 根元から見上げました


 本堂です

 雄木は、うっかり見ずに帰ってしまいました

 では、次は行きましょう
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愛知県豊川市、赤坂町関川「関川神社の楠」(市指定)です!!

2023-02-22 18:37:20 | 巨樹・大木
 赤坂町関川地区は、豊川市役所の西北西約7kmのところ

 市役所前から県道5号線を西北西へ進みます、国道1号線の追分信号からは県道368号線です

 西へ入って直ぐの行力信号を右へ県道374号線です、音羽川を新御油橋で渡ると旧東海道となります

 道成りに北西へ向かうと、右に「御関札立掛場」から約600m区間が「御油の松並木」です

 松並木を貫けて、赤坂宿の中ほど旧東海道に面して左側に関川神社が鎮座します
 
 境内入口前に車を止めさせて頂きました

 社號標です

 社殿です

 社殿の南側に目的のクスノキです

 説明版です
   関川神社の楠
種別 天然記念物
指定 昭和56年3月1日
所在 豊川市赤坂町関川12
管理者 関川神社総代
 由来及び沿革については不明であるが、故老に説によると、木の根元からえぐれている部分は慶長14年(1609年)の十王堂近所の(宮路山登山口の東側)からの出火による火災で、約30戸が焼失しており、その時に火の粉が飛び焼けたものであるといわれている。
 この木は楠としては町内一の巨木で、幹のまわりは目の高さで約7.29m、高さ25.7mあり、推定樹齢は約800年であるといわれています。
    豊川市教育委員会

 北東側から見ました

*旧東海道の宿場町の様子が多面的に伝わってくる東海道五十三次の中で、赤坂宿は江戸から36番目の宿。当初赤坂・御油宿は一宿として扱われていたと言われています。
 その後「下りは藤川から(赤坂を飛ばし)御油まで通し、上りは吉田から(御油を飛ばし)赤坂宿まで」と定められ、上りと下りで使い分けられていた時期もあったようです。
  「夏の月御油より出でて赤坂や」
 この句は、松尾芭蕉が夏の夜の短さと、わずか16町(両宿問屋間)と近接する赤坂と御油間の距離の短さを詠んだもので、関川神社境内に句碑が建てられています。
  ①歴史や文化、自然などを紹介する資料館「赤坂宿場資料室」
赤坂宿場資料室旧東海道「赤坂宿」の歴史をはじめ、豊川市音羽地区の歴史や文化、自然などを紹介する資料館。中央には当時使われていた大名の駕籠が置かれ、その周りには赤坂宿を描いた浮世絵、幕府の法令や禁令を書き付けた高札、宿場に残っていた書簡のレプリカなどが展示されています。明治時代の農村舞台を再現する「赤坂の舞台」で使われる歌舞伎の人形や、舞台に関する資料の展示も充実。
  ②赤坂宿の佇まいを今に伝える旅籠大橋屋
 旅籠大橋屋安藤広重の「東海道五十三次・赤坂宿舎招婦図」のモデルになっています。また、芭蕉が宿泊し、句を読んだともいわれている創業江戸中期とされる宿です。
元の屋号を「伊右ェ門鯉屋」といい、市指定文化財にもなっています。
※旅籠大橋屋は平成27年3月に廃業。所有者の青木一洋さんから豊川市に寄附され、一般公開に向け、耐震補強も含めた保存整備の設計作業や工事を行う計画です。※普段は、見学できませんが、不定期で内覧できるイベントを開催しています。
  ③赤坂宿の旅籠をイメージして建てられた「よらまいかん」
よらまいかん平成14(2002)年にオープンした公共の休憩施設。赤坂宿の旅籠をイメージして建てられた建物は、当時の建築様式を再現しており、趣があります。2階には赤坂宿を描いた浮世絵を展示しており、宿場町として栄えた江戸時代の様子を観覧できます。トイレや駐車場もあり、建物の内外にはベンチが配されているので、観光や散策途中の休憩などに最適な空間です。
  *愛知県公式観光ガイドAichi Nowから一部抜粋です


 では、次へ行きましょう
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愛知県豊川市、御油町松並「御油の松並木」(国指定)です!!

2023-02-22 06:29:30 | 文化財・樹木
 御油町松並地区は、豊川市役所の西北西約7kmのところ

 市役所前から県道5号線を西北西へ進みます、国道1号線の追分信号からは県道368号線です

 西へ入って直ぐの行力信号を右へ県道374号線です、音羽川を新御油橋で渡ると旧東海道となります

 道成りに北西へ向かうと、右に「御関札立掛場」から約600m区間が「御油の松並木」です

 まず一度松並木を通って北側の「旧東海道赤坂宿東見附跡」まで行って引き返します

 松並木の中の車道は、所々に道幅をポールで狭めたり

 速度を抑えるための段差が有ったりします

 倒木や落枝にも注意しましょう

 間も無く御関札掛場です

 御関札立掛場まで戻って来ました

 松並木の西側には十王堂です

 説明版です
   十王堂
 十王とは、冥界にあって、死者の罪業を裁判する十人の王のことです。
 仏教では、死者は冥界で順次十人の王の裁判を受けて次に生まれてくる所が定まるとされています。
 この考えは平安後期に日本に伝わり、鎌倉時代に全国に広がりました。
 この十王とは、泰広王・初江王・宗帝王・五官王・閻魔大王・変成王・太山王・平等王・都市王・五道転輪王のことで、十王が冠をつけ、道服を着て笏を持ち、忿怒の姿を示すのは道教の影響が強いことを表しています。
 この建物は、明治の中頃に火災にあい再建されたもので、十王堂の創立年は定かではないが、江戸時代に描かれた絵図に印されていることから、古くからこの地にあったことは確かです。


 天然記念物 御油ノ松並木の標柱です(石柱)

 説明版です
   御油宿と御油の松並木周辺
 御油宿は、慶長6年(1601)徳川家康によって、東海道に宿場制が定められ、東海道53次の第35番目の宿場として繁栄しました。
 ここから東の、かつて上五井、中上町、仲町、横町、茶屋町と呼ばれたこの通りぞいには、今でも宿場町の面影を残す旧家がみられます。
 また、この御油宿と隣の赤坂宿との間には、慶長9年(1604)に整備された御油の松並木があります。昭和19年に国の天然記念物に指定され、「日本の名松百選」にも選ばれています。
     豊川市教育委員会

 天然記念物石碑です
   天然記念物 御油ノ松並木
      昭和19年11月7日 文部省指定
 この松並木は、慶長9年(1604)徳川家康が植樹させたもので、以来、夏は緑陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、長く、旅人の旅情をなぐさめてきました。
 当初600本以上あった松は、長い歳月の間に減少しましたが、旧東海道に現存する松並木のうちでは、昔の姿を最もよく残すものとして、第二次世界大戦中の昭和19年11月7日国指定の天然記念物となりました。
 私達は、この松並木が貴重な国民的財産であることを自覚し、後世に伝えるため、郷土の宝として愛護しましょう。
      昭和55年3月
       豊川市

 御関札立掛場の説明版です
   御関札立掛場
 御関札とは、諸藩の大名が参勤交代や何らかの用事で出向く際、宿泊先(御休先)となる宿場の本陣や問屋(町役人)に事前に申し伝え、宿泊当日の三日前迄に本陣、町役人は宿場の出入り口に縦3尺半(約1m)横1尺半(約45cm)の板に宿泊年月日・藩主名・出向く先を記入し、長さ3間半(約6m)の太い竹竿に取り付け立掛けられた看板を言います。
 御関札は、大名の権威を誇示するばかりではなく、本陣前を往来する人々に無礼にない様、通行するよう注意を促す目的を持って立掛けられた看板と云われています。
 此の御間札案内板は、当時御油宿・問屋役人井上興左衛門の「御定宿之控」の記録より作成したものです。

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愛知県豊川市、八幡町寺前「西明寺のモッコク(市指定)とクスノキ」です!!

2023-02-21 18:30:02 | 巨樹・大木
 八幡町寺前地区は、豊川市役所の西北西約5kmのところ

 市役所前から県道5号姫街道を西北西へ約4.5k進みます

 上宿信号を右(北東)へ、約200mの薬屋さんの手前を左(北西)へ入ります

 道成りに進んで左に曲がって行くと右手に西明寺が南向き参道で有ります

 参道入口前に広い駐車場が有ります

 参道入口です


 説明版です
   西明寺
 寺伝によれば、平安時代の寛和年間(985~987)、三河国司大江定基が六光寺を開いたのが始まりとされています。
 当初は天台宗でしたが、鎌倉幕府の執権北条時頼(西明寺入道)が諸国巡歴の折に立ち寄った縁により、最明寺と改め禅宗寺院になったとされています。
 延徳元年(1489)には、水野駿河守が知多郡乾坤院より太素省淳和尚を招き再興しました。
 永禄7年(1546)には、徳川家康の東三河出陣に協力し、家康の命により西明寺に改めたと伝えられています。
 慶長8年(1603)には、家康から寺領20石の朱印地を与えられています。
 本堂の前には、明治政府に招かれたドイツ人医師ベルツ博士の供養塔があります。花夫人の父方の菩提寺であったことから、昭和5年(1930)に建立されました。
 また、境内西の墓地には、大江定基・北条時頼・水野駿河守・山本勘助の墓碑や芭蕉句碑(市指定文化財)を建立した江戸時代の俳人米林下才人の墓があります。
【豊川市指定文化財】
 木造阿弥陀如来坐像
 西明寺文書
 芭蕉句碑
 西明寺のモッコク
    豊川市教育委員会


 さっそく参道左手に市指定天然記難物のモッコクです(南東側から)

 南側から

 説明版です
   西明寺のモッコク
      豊川市指定天然記念物
      昭和56年4月20日指定
 このモッコクは、樹齢約400年で県下では最大のものといわれます。
 高さは15m、幹の周りは目の高さで2.3mもあります。
 モッコクは関東南部以西の暖帯から熱帯にかけて自生しています。また、庭木としても多く植栽されています。
 別名を「あかみのき」といわれるだけあって、材はあざやかな赤色で建築材、器具剤に用いられます。
      豊橋市教育委員会

 東側から

 東側に離れて見ました

 山門の右手境内側の駐車場側にクスノキです


 山門を潜りましょう

 山門を潜った参道から見ました



 北側の参道石段脇から見ました


 北西側参道石段上から

 手水舎です

 参道の土塀の西側に杉の大木です

 東側から

 鐘楼です

 本堂です

 本堂前境内にボダイジュです
 この菩提樹は、昭和45年11月ベルツ博士の顕彰句碑の除幕式にゲルヒルト・トーマ夫人(ベルツ博士の孫娘)とともに来日したドイツのビーティヒ・ハイム市長がベルツ博士の生誕地であるビーティヒ・ハイムから持参して植えた記念樹である。

 車に戻って、山門東側の駐車場へ移動してクスノキを見ました
 
 では、次へ行きましょう
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