城山地区は、高山市役所の南南東約2kmのところ
高山市役所の西側の道路を南へ進みます
約400mの「高山駅北」信号を左(東)へ、県道74号線です
約300mの「国分寺東」信号を右(南)へ、国道158号線です
約500mの「日赤北」信号からは県道460号線となって更に南へ進みます
約500mの「天満宮南」信号を左(東)へ、宮川を渡ると
約300mの一時停止を右へ出て直ぐに斜め左へ入ると
参道石段前に「参拝者用駐車場」は坂道を上った日枝神社境内にある旨の案内板が有りますので、境内へ上ります
境内の案内図です
雨がパラパラ降る中に、修学旅行なのか女子中学生が3名ビニール合羽を着てお参りしています
手水舎です
鳥居です
参道石段を上ります
拝殿前右手に目的の大杉です
天然記念物標柱です
説明版です
日枝神社の大杉
〈県指定〉昭和31年2月24日
〈所有者〉日枝神社
〈所在地〉高山市城山156番地
〈樹齢〉 推定1000年
〈員数〉 1本
目通り 約 7m
樹高 約39m
日枝神社は、文治元年(1141)に、当時飛騨を治めていた平時輔が、日吉山王(滋賀県大津市坂本)を勧請したのが起源とされている。
その後、飛騨に入国した金森長近により、高山城の守護神として現在地に奉遷された。
御神木の大スギは、拝殿に向かって右側にあり、過去に何度か落雷の被害に遭っているが、樹勢はすこぶる盛んである。
高山市教育委員会
南側から、低い位置に注連縄が巻かれています
南東側から
東側から、カメラのレンズに雨粒が当たってしまいました
西側から見ました
拝殿です
拝殿前右手の神門を潜ると「富士社」です
説明版です
富士社社殿(市指定文化財)
所在地 高山市城山156番地
所有者 日枝神社
指定年月日 昭和49年12月13日
構造形式 三間社流造・正面千鳥破風軒唐破風付銅平板葺
日枝神社は、三仏寺城の城主、飛騨守平時輔朝臣がある日、狩りに出ていて奇瑞のことがあったので、永治元年(1141)に山王権現(大津市坂本町)を勧請したのが起源とされている。
その後、時輔の曽孫景家は片野村の石光山に拠っていたが、養和元年(1181)源義仲に攻められて落城した。
社殿も兵火にかかって焼失したため、御霊代は片野村杉ヶ原(元杉ヶ丘)に奉遷し、片野村の産土神となった。
金森長近は飛騨へ入国すると、これを高山城の守護神として現在地へ奉遷したのである。
富士社社殿は、もとは日枝神社の本殿として、寛延元年(1748)に建てられた。松田太右衛門による現存数の少ない神社建築である。
流造りに千鳥破風、軒唐破風を取り入れた屋根形態で、珍しく極彩色が施されていた。
昭和10年(1935)、豪雨で裏山が崩れて本殿が倒壊したため、昭和13年(1938)に新本殿を建てた。旧本殿は破損個所を修理して、末社殿として移築し、冨士社となった。
平成7年(1995)に外観の極彩色の修理が行われ、当初の美しい色彩が蘇った。「富士社社殿附棟札」として県指定重要文化財になっている。
本殿の屋根が見えました
本殿東側の境内社です
拝殿の西側には東向きに天満神社です
説明版です
末社 天満神社
祭神 贈正一位太政大臣 菅原道真公
道真公は平安時代に学者の家柄に生まれ、文章博士となり、政治家として朝廷の信任厚く右大臣に昇進されるも、藤原氏の誹謗を受け、延喜元年(901)太宰権帥として左遷され、その折庭の梅に
「こちふかば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」と歌が遺されたことは有名です。
書道の三聖と称され能書家として有名で、文章・学問の守神、慈悲救済の神として信仰が厚い。
山王稲荷社
説明版です
末社 山王稲荷神社
祭神 倉稲魂命(宇迦之御魂命)
須佐之男命の御子で、ウカはウケに通じ、食の儀にて食物の御霊とする御饌津神で、五穀を司り「いなり」は稲生の意にて、生産・豊穣を守護せられ、奉祀の起源は、元明天皇の和銅4年(711)2月初午の日とされ、それ以降この日を縁日とする。
狐が神使となりしは、御饌津神を三狐神と書いたことに由来する。
開運の神、商業神としてその御神徳は広大無辺である。
では、次へ行きましょう
境内は一方通行なので西側へ出て高山市内の観光名所に入り込んでしまいましたので、予定を変更して旗鉾・伊太祁曽神社へ向かうことにしました
2024・5・16・10・50
高山市役所の西側の道路を南へ進みます
約400mの「高山駅北」信号を左(東)へ、県道74号線です
約300mの「国分寺東」信号を右(南)へ、国道158号線です
約500mの「日赤北」信号からは県道460号線となって更に南へ進みます
約500mの「天満宮南」信号を左(東)へ、宮川を渡ると
約300mの一時停止を右へ出て直ぐに斜め左へ入ると
参道石段前に「参拝者用駐車場」は坂道を上った日枝神社境内にある旨の案内板が有りますので、境内へ上ります
境内の案内図です
雨がパラパラ降る中に、修学旅行なのか女子中学生が3名ビニール合羽を着てお参りしています
手水舎です
鳥居です
参道石段を上ります
拝殿前右手に目的の大杉です
天然記念物標柱です
説明版です
日枝神社の大杉
〈県指定〉昭和31年2月24日
〈所有者〉日枝神社
〈所在地〉高山市城山156番地
〈樹齢〉 推定1000年
〈員数〉 1本
目通り 約 7m
樹高 約39m
日枝神社は、文治元年(1141)に、当時飛騨を治めていた平時輔が、日吉山王(滋賀県大津市坂本)を勧請したのが起源とされている。
その後、飛騨に入国した金森長近により、高山城の守護神として現在地に奉遷された。
御神木の大スギは、拝殿に向かって右側にあり、過去に何度か落雷の被害に遭っているが、樹勢はすこぶる盛んである。
高山市教育委員会
南側から、低い位置に注連縄が巻かれています
南東側から
東側から、カメラのレンズに雨粒が当たってしまいました
西側から見ました
拝殿です
拝殿前右手の神門を潜ると「富士社」です
説明版です
富士社社殿(市指定文化財)
所在地 高山市城山156番地
所有者 日枝神社
指定年月日 昭和49年12月13日
構造形式 三間社流造・正面千鳥破風軒唐破風付銅平板葺
日枝神社は、三仏寺城の城主、飛騨守平時輔朝臣がある日、狩りに出ていて奇瑞のことがあったので、永治元年(1141)に山王権現(大津市坂本町)を勧請したのが起源とされている。
その後、時輔の曽孫景家は片野村の石光山に拠っていたが、養和元年(1181)源義仲に攻められて落城した。
社殿も兵火にかかって焼失したため、御霊代は片野村杉ヶ原(元杉ヶ丘)に奉遷し、片野村の産土神となった。
金森長近は飛騨へ入国すると、これを高山城の守護神として現在地へ奉遷したのである。
富士社社殿は、もとは日枝神社の本殿として、寛延元年(1748)に建てられた。松田太右衛門による現存数の少ない神社建築である。
流造りに千鳥破風、軒唐破風を取り入れた屋根形態で、珍しく極彩色が施されていた。
昭和10年(1935)、豪雨で裏山が崩れて本殿が倒壊したため、昭和13年(1938)に新本殿を建てた。旧本殿は破損個所を修理して、末社殿として移築し、冨士社となった。
平成7年(1995)に外観の極彩色の修理が行われ、当初の美しい色彩が蘇った。「富士社社殿附棟札」として県指定重要文化財になっている。
本殿の屋根が見えました
本殿東側の境内社です
拝殿の西側には東向きに天満神社です
説明版です
末社 天満神社
祭神 贈正一位太政大臣 菅原道真公
道真公は平安時代に学者の家柄に生まれ、文章博士となり、政治家として朝廷の信任厚く右大臣に昇進されるも、藤原氏の誹謗を受け、延喜元年(901)太宰権帥として左遷され、その折庭の梅に
「こちふかば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」と歌が遺されたことは有名です。
書道の三聖と称され能書家として有名で、文章・学問の守神、慈悲救済の神として信仰が厚い。
山王稲荷社
説明版です
末社 山王稲荷神社
祭神 倉稲魂命(宇迦之御魂命)
須佐之男命の御子で、ウカはウケに通じ、食の儀にて食物の御霊とする御饌津神で、五穀を司り「いなり」は稲生の意にて、生産・豊穣を守護せられ、奉祀の起源は、元明天皇の和銅4年(711)2月初午の日とされ、それ以降この日を縁日とする。
狐が神使となりしは、御饌津神を三狐神と書いたことに由来する。
開運の神、商業神としてその御神徳は広大無辺である。
では、次へ行きましょう
境内は一方通行なので西側へ出て高山市内の観光名所に入り込んでしまいましたので、予定を変更して旗鉾・伊太祁曽神社へ向かうことにしました
2024・5・16・10・50