総和町1丁目は、高山市役所の南東約500mの市街地の中心部です
高山市役所南側の道路を東へ、約200mの「西小学校南」信号を右(南)へ、県道460号線です
約300mで、右手に国分寺の三重塔が見えますので、境内へ入って駐車スペースに車止めさせて頂きました

南側の県道74号線に面して国分寺参道入口です
ここから前回の「飛騨国分寺」の続きです



鐘楼門の先参道左に目的のイチョウです

説明版です
飛騨国分寺の大イチョウ
〈国指定〉昭和28年3月31日 〈所有者〉国分寺 〈所在地〉高山市総和1丁目83番地
〈樹齢〉推定1200年 〈員数〉1本
目通り 約10m、樹高 約28m
本堂と鐘楼門の間に位置し、樹齢約1200年の雄株で、枝葉が密生し、樹間の所々に乳のような気根が垂れ、樹勢は盛んである。
由来については、往昔行基菩薩の手植と伝えられる。俗に「乳イチョウ」の名があり、乳の出ない母親がここでお参りすると乳が良く出るといわれている。根元には石像が祀ってある。
昔から、国分寺のイチョウの葉が落ちれば雪が降るとも言い慣らされている。
高山市教育委員会



南側から



西側から

歌碑ですね



北側から

大イチョウの幹の窪みには石仏が納められています



東側から

本堂です

説明版です
国指定重要文化財(建造物)
国分寺本堂
単層入母屋造、銅板葺・四方廻縁・桁行12.4m、梁間8.66m、向拝3.33m
奈良時代当時、七重塔、金堂、仁王門などを備えた壮大な伽藍があったと伝わる。
「類聚国史」に「弘仁10年(819)8月飛騨国国分寺災」とあるが、その後近世まで記録がない。
昭和29年、本堂の解体修理時に、建築様式と手法は室町時代中期以前、正面向拝と東側は桃山時代の修理であることがわかった。向拝等は金森氏が国分寺の再興を助けた際の大修理と考えられる。
地下45cmには、南北4間、東西7間の金堂と推定される建物の礎石が確認された。
建物の柱、垂木、構造材は太い。外陣の虹梁は絵様がなく、板蟇股の断面も逆バチ型で室町期の様式を示す。
明治42年4月5日指定 高山市教育委員会



本堂脇から見ました

本堂東側に境内社が並んでいます、左は秋山自雲霊神堂です・・・説明書きには・・・
当所安置の秋山自雲霊神は延享の頃(1744~1748)より、東京浅草三谷寺町本性寺において祀る日本最初枝療痔疾の霊神にして、明治11年高山の有志之霊を迎えて、此処に安置せり。
爾来100年を経て堂宇破損甚しき為、基壇をコンクリートで固め、堂宇を修築し屋根をトタン葺に改む。
願くは霊神威光自在にして、後世信仰者の心願を叶え給はん事成。
昭和53年5月8日 山主 敬白

子供地蔵尊です

こちらにはお名前が有りませんでした

玉垣の中に大きな礎石です

標柱です

三重塔です

説明版です
岐阜県指定文化財(建造物)
三重塔 屋根銅平板葺 桁行、梁間共4.24m、高さ22m(礎石上端より宝珠上端まで)
天平13年(741)の詔勅により建立された塔も、弘仁10年(819)に炎上し、斎衡年中(854~857)に再建した。
さらに応永年間(1394~1428)には兵火にかかったと伝えられる。その後再建たが、戦国時代の金森氏が松倉城の三木氏を攻めた際に損傷し、元和元年(1615)、金森可重が三重塔を再建したと三福寺小池家文書「国分寺太平釘図」に記録されている。
現在の塔は、寛政3年(1791)の大風で吹き倒されてから31年後、庶民の喜捨浄財金800両と大工手間550人工をかけて、文政4年(1821)ようやく竣工を見たものである。棟梁は三代目水間相模であった。
昭和53年には、屋根の修理と自動火災報知設備・保護柵の設置行った。屋根は、建立当初杮葺であったが、大正11年に桟瓦銅板葺に変更され、昭和53年は銅平板葺となった。
飛騨では唯一の塔建築で、金剛界、胎蔵界の大日如来(真言密教の教主)を安置する。
昭和49年11月13日 指定 高山市教育委員会


北側から見上げました
では、次へ行きましょう

2025・8・5・6・20
高山市役所南側の道路を東へ、約200mの「西小学校南」信号を右(南)へ、県道460号線です
約300mで、右手に国分寺の三重塔が見えますので、境内へ入って駐車スペースに車止めさせて頂きました

南側の県道74号線に面して国分寺参道入口です
ここから前回の「飛騨国分寺」の続きです



鐘楼門の先参道左に目的のイチョウです


説明版です
飛騨国分寺の大イチョウ
〈国指定〉昭和28年3月31日 〈所有者〉国分寺 〈所在地〉高山市総和1丁目83番地
〈樹齢〉推定1200年 〈員数〉1本
目通り 約10m、樹高 約28m
本堂と鐘楼門の間に位置し、樹齢約1200年の雄株で、枝葉が密生し、樹間の所々に乳のような気根が垂れ、樹勢は盛んである。
由来については、往昔行基菩薩の手植と伝えられる。俗に「乳イチョウ」の名があり、乳の出ない母親がここでお参りすると乳が良く出るといわれている。根元には石像が祀ってある。
昔から、国分寺のイチョウの葉が落ちれば雪が降るとも言い慣らされている。
高山市教育委員会



南側から




西側から


歌碑ですね




北側から


大イチョウの幹の窪みには石仏が納められています




東側から


本堂です


説明版です
国指定重要文化財(建造物)
国分寺本堂
単層入母屋造、銅板葺・四方廻縁・桁行12.4m、梁間8.66m、向拝3.33m
奈良時代当時、七重塔、金堂、仁王門などを備えた壮大な伽藍があったと伝わる。
「類聚国史」に「弘仁10年(819)8月飛騨国国分寺災」とあるが、その後近世まで記録がない。
昭和29年、本堂の解体修理時に、建築様式と手法は室町時代中期以前、正面向拝と東側は桃山時代の修理であることがわかった。向拝等は金森氏が国分寺の再興を助けた際の大修理と考えられる。
地下45cmには、南北4間、東西7間の金堂と推定される建物の礎石が確認された。
建物の柱、垂木、構造材は太い。外陣の虹梁は絵様がなく、板蟇股の断面も逆バチ型で室町期の様式を示す。
明治42年4月5日指定 高山市教育委員会



本堂脇から見ました


本堂東側に境内社が並んでいます、左は秋山自雲霊神堂です・・・説明書きには・・・
当所安置の秋山自雲霊神は延享の頃(1744~1748)より、東京浅草三谷寺町本性寺において祀る日本最初枝療痔疾の霊神にして、明治11年高山の有志之霊を迎えて、此処に安置せり。
爾来100年を経て堂宇破損甚しき為、基壇をコンクリートで固め、堂宇を修築し屋根をトタン葺に改む。
願くは霊神威光自在にして、後世信仰者の心願を叶え給はん事成。
昭和53年5月8日 山主 敬白

子供地蔵尊です


こちらにはお名前が有りませんでした


玉垣の中に大きな礎石です


標柱です


三重塔です


説明版です
岐阜県指定文化財(建造物)
三重塔 屋根銅平板葺 桁行、梁間共4.24m、高さ22m(礎石上端より宝珠上端まで)
天平13年(741)の詔勅により建立された塔も、弘仁10年(819)に炎上し、斎衡年中(854~857)に再建した。
さらに応永年間(1394~1428)には兵火にかかったと伝えられる。その後再建たが、戦国時代の金森氏が松倉城の三木氏を攻めた際に損傷し、元和元年(1615)、金森可重が三重塔を再建したと三福寺小池家文書「国分寺太平釘図」に記録されている。
現在の塔は、寛政3年(1791)の大風で吹き倒されてから31年後、庶民の喜捨浄財金800両と大工手間550人工をかけて、文政4年(1821)ようやく竣工を見たものである。棟梁は三代目水間相模であった。
昭和53年には、屋根の修理と自動火災報知設備・保護柵の設置行った。屋根は、建立当初杮葺であったが、大正11年に桟瓦銅板葺に変更され、昭和53年は銅平板葺となった。
飛騨では唯一の塔建築で、金剛界、胎蔵界の大日如来(真言密教の教主)を安置する。
昭和49年11月13日 指定 高山市教育委員会


北側から見上げました

では、次へ行きましょう


2025・8・5・6・20