ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

埼玉県秩父市、久那「久昌寺(秩父三十四観音霊場25番札所)」です!!

2023-09-18 06:29:44 | 秩父三十四観音霊場
 久那地区も荒川の西側です、久昌寺は秩父市役所の西南西約4.5kmのところ

 秩父市役所から国道140号線を南南西(山梨方面)へ進みます

 約4.1kmで「久那橋入口」信号を右(北西)へ荒川を久那橋で渡って

 約800mの信号機のある交差点を左(南西)へ、県道72号線です

 約200mで「札所25番」の案内板に従て右(北西)へ入ります

 間も無く仁王門先の駐車場へ入りました

 25番の標柱です

 江戸巡礼古道の案内図です
 礼所20番から札所25番までに至るこの荒川西岸江戸巡礼古道は、一部車道だが、ほとんどは車が通らない山里の巡礼みちである。
 野面を横切り、谷を渡るみちで、所々に江戸時代の石碑、道しるべ石が残り、現代社会からかけ離れた気分を味わうことができる。
 特に江戸時代の雰囲気が味わえるが、22番童子堂跡、直坂(すぐさか)十三地蔵附近、桜久保坂の念仏坂附近、永徳寺跡、五百沢(いおざわ)から25番まで山麓みちである。

 仁王門です

 道路の先に観音堂が見えます

 石段を上ると

 手水舎です

 観音堂です

 軒下の鰐口と額です

 説明版です
  市指定史跡 札所25番
    岩谷山 久昌寺
 この札所は通称御手判寺といいます。
 この由来は播州書写山の性空上人、秩父巡拝の折、閻魔大王から贈られた石の手判を当寺に納めたという。
 これにちなんで御手判寺ともいうのである。
 堂は三間四面、表流れの向拝をふした方形造りで、堂内には宮殿形の厨子がおいてあります。
 本尊は聖観世音立像一木造り、像高56cm室町時代の作といわれます。
 その昔、上ノ山奥野の女、心荒く父母親類縁者にも疎み果てられ、自ら懐胎の身ながらも追いたてられ、久那の岩洞に住み、鬼女如く振舞い、里人に恐れられていました。
 女の子生まれて母に似ず神仏を尊び、里人の助けにより、旅僧の持ちし観音像をまつり、母没後の菩提のためにこの地を霊地にしたという。
 これが寺の草創である。
   昭和40年1月25日  秩父市教育委員会指定


 観音堂前の御堂は地蔵堂ですが、中には婆の像が祀られています

 奥野の鬼女伝説の額です
  昔、欲深な女が山にこもって悪行をかさねた、村人は思いあまって女を荒川に投げ入れたが一命をとりとめ、其後鬼女は女の子を出産したが、親に似ず美しい心の持主で、この地に観音堂を建て、母の菩提を弔ったと云う。


 観音堂の西側の溜池の先に久昌寺です

 秩父札所巡礼道・文化財マップです

 本堂です

 弁天堂です

 軒下の額と鰐口です

 では、次へ行きましょう
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埼玉県秩父市、別所「法泉寺(秩父三十四観音霊場24番札所)」です!!

2023-09-17 18:30:57 | 秩父三十四観音霊場
 別所地区も荒川の西側です、法泉寺は秩父市役所の西南西約2.5kmのところ

 秩父市役所の南側の証人通りを西へ約1.7km道成りに進んで、荒川を佐久良橋で渡って

 丁字路を左(南)へ県道72号線です、約1kmで道路左てに駐車場がります

 直ぐ先に法泉寺の参道入口です

 24番の石碑です

 説明版です
  市指定史跡 札所24番
    光智山 法泉寺
 この札所は、三間四面方形づくりで、江戸中期になるもので、唐様を随所に配し、変化のある意匠をこらして妙味ある本堂であります。
 特に唐戸は凹字形に後退してつけ、左右に仁王像をまつり、八角柱で変わったつくりをみせています。
 本尊は聖観世音一木造りの坐像、像高25cm、室町時代の作で、宋朝風のものといわれます。
 養老元年の昔、越前の大徳泰澄、夢のお告げにより、この霊地に加賀の白山を勧請したものといわれ、本尊も当山より現われし観音像を安置奉祀したといわれます。
 又、武州恋ケ窪の遊女、口内の病に悩んでいたところ、秩父の修行僧が1本の楊枝を与え、白山の観音を信じてもちうべしと教えられ、歓んで信心し、かの楊枝で口内をそそいだところ、忽ちにして癒えたという縁起があります。
   昭和40年1月25日  秩父市教育委員会指定


 南東向きの参道石段を上ります

 石段上部から振り返ると武甲山が綺麗に見えました

 少し左に観音堂です

 手水舎です

 説明版です
   市指定史跡
     秩父札所第二十四番 光智山法泉寺
 この札所は三間四面方形づくりで江戸中期になるもので、唐様を随所に配し変化のある意匠をこらして妙味のある本堂であります。
 特に唐戸は、凹字形に後退してつけ、左右に仁王像をまつり、八角柱で変わった造りをみせております。
 本尊は、聖観世音一本造りの坐造で、高さ25cm室町時代の作で宋朝風のものと云われます。
 養老元年の昔、越の大徳泰澄、夢のお告げにより、この霊地に加賀の白山を勧請したものと云い、本尊も彼の山より表わし像を刻み、まつったという。
 又武州恋が窪に慈悲深い遊女がこの観音を信じ、修行毎朝怠らず食を供したと云う縁起があります。
 昭和48年4月檀信徒関係者各位の浄財により屋根の改修を終わったところであります。
   昭和40年1月25日  秩父市教育委員会指定

 六地蔵様です


 正面から観音堂です

 軒下の鰐口と額です

 境内の東屋のテーブルに巡礼道の説明が有りました

 では、次へ行きましょう
 
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埼玉県秩父市、寺尾「音楽寺(秩父三十四観音霊場23番札所)」です!!

2023-09-17 06:30:33 | 秩父三十四観音霊場
 寺尾地区は、荒川の西側にあるミューズパークの北側入口の近く、秩父市役所の北西約3kmのところ

 秩父市役所前から国道140号線を北へ、約400mで「上野町」信号を左(北西)へ国道299号線です

 約500mで「本町」信号を右(北)へ進みます、約200mの「秩父駅入口」信号を左(西北西)へ、県道208号線です

 約1kmで荒川を秩父公園橋で渡ります、道成りに坂道を上がって行きます

 約1.6kmでミューズパークの百花園駐車場に入ります

 秩父巡礼道・文化財マップです

 東側の出入り口を東へ進むと音楽寺参道です

 音楽寺本堂です

 説明版です
  市指定史跡 札所23番
    松風山 音楽寺
 この札所は、秩父地方屈指の景観地であります。
 観音堂は三間四面ふき寄せ二重垂木、向拝はありませんが江戸中期の大きなお堂です。
 内陣には唐様の須弥壇に立派な厨子を安置しています。
 本尊聖観世音は一本造りで檜材で、像高81cm、室町時代の作です。
 梵鐘も明和5年の銘が昭和32年2月、市指定の文化財になっています。
 明治17年田代栄助を総理とする秩父事件の群衆もこの鐘を鳴らして秩父町に崩れこんだという逸話ものこっています。
 天長年間の昔、慈覚大師は関東霊地開拓の折、この地の優れたるに感じ、聖観世音像を安置し山路を開きたもうとき数多くの小鹿現れて大師を案内せしめたため小鹿坂の地名となったという縁起があります。
   昭和40年1月25日   秩父市教育委員会指定

 観音堂へ向かいましょう


 本堂西側に稲荷神社です

 稲荷神社の先を右へ上って行きます

 観音堂境内に上がると、左手に六地蔵様です

 右手には、山号の通りの松の木です


 秩父困民党無名戦士の墓の石碑です
 *「われら秩父困民党 暴徒と呼ばれ暴動といわれることを拒否しない」とあり、この碑の趣旨を刻した副碑には、「債鬼の脅迫をのがれ家に老幼をおき山野を放浪するまでに貧困の極に達した秩父の農民」あるいは「時の明治政府に対して自らの持つ実力で立ち向かった秩父困民党」などという文言がある。
 この碑が建てられたのは1978年だが、当時の研究は、秩父事件指導者が経済的に村内上層に属していたことを明らかにしつつあった。
 また秩父事件の持つ政治性については、困民党発起人の一人である落合寅市が、「圧制ノ政治ヲ回復シ自由ノ大義ヲ敷カントスルヲ暴動ト称スル者ゾ」(「秩父殉難志士慰安建碑趣意書」)と力説していた。寅市に始まる秩父事件顕彰運動の原点は暴動と呼ばれることを拒否することにあったのである。
 秩父事件の政治性を否定して持ち上げようとする「褒め殺し」的言説は、その後も、趣を変えては生起している。近年では稲田雅洋氏の「困民党の論理と行動」(『自由民権と近代社会』2004所収)が秩父事件を「日本の民衆が、政治権力を独自の方法で相対化していった貴い記念碑的な道筋」と評している。音楽寺のこの碑こそ、そのような言説が存在した「記念碑」にほかならない。
文責・吉瀬総(秩父事件研究顕彰協議会会報『秩父』No.159)・・・秩父事件研究顕彰協議会HPより一部抜粋させて頂きました

 手水舎です

 鐘楼です

 銅鍾です

 説明版です
   市指定有形文化財 音楽寺の銅鍾
 この鐘は、高さ120cm、直径69.7cm、乳頭108個がついている。
 この鐘の特色は、聖観音、不空羂索観音、十一面観音、如意輪観音、千手観音、馬頭観音の順に6観音が鐘の下部周囲に鋳造されていることである。
 鐘は、明和5年(1768年)に旧材を使用し、再鋳したものであるが、銘文に・・・
   明和五歳舎戌子小春吉旦
      松風山音楽禅寺十五世
      現住沙門大隋義海銘
   治工 下野佐野天明新町
      大川太郎兵衛、藤原宗封
   最鋳幹事 八木五右衛門
        小河磯右衛門
        同 八兵衛
 明治17年11月世にいう秩父事件は、この鐘を打ち鳴らして秩父へなだれ込んだといわれています。
   昭和32年2月8日指定   秩父市教育委員会
     


 音楽寺観音堂です

 軒下の鰐口と額です


 説明版です
   指定史跡
     秩父札所第23番 松風山 音楽寺
 この札所は、秩父地方屈指の景勝地にあります。
 本堂は三間四面ふき寄せ二重垂木、向拝はありませんが江戸中期の大きな堂であります。
 内陣は唐様の須弥壇に立派な厨子を安置しております。
 本尊聖観世音は一本造桧材で高さ81cm室町時代の作で地方色のある像といいます。
 梵鐘も明和5年の銘があり、昭和32年2月市指定文化財になっております。
 明治17年田代栄助を総理とする秩父事件の群衆もこの鐘を鳴らして秩父町に崩れこんだと云う逸話ものこっております。
 天長年間の昔、慈覚大師は関東霊地開拓の折この地の優れたることに感じ、聖観世音像を安置し、山道を開きたもうとき数多くの小男鹿現われて大師を案内したため小鹿坂の地名となったと云う縁起があります。
   昭和40年1月25日   秩父市教育委員会指定



 伝説の額です
 畠山基国の家来、内山源蔵
  内山源蔵は、老母より音楽寺の守仏の御影を懐中に入れ出陣し勝利を得、後に出家して観音を供養したと云う


 ミューズパーク側の遊歩道から秩父公園橋です

 武甲山も見えました

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埼玉県秩父市、寺尾「永福寺(秩父三十四観音霊場22番札所)」です!!

2023-09-16 18:31:22 | 秩父三十四観音霊場
 寺尾地区は荒川の西側です、永福寺は、秩父市役所の北西約3kmのところ、観音寺の南安製約1kmのところ

 秩父市役所前から国道140号線を北へ、約400mで「上野町」信号を左(北西)へ国道299号線です

 約500mで「本町」信号を右(北)へ進みます、約200mの「秩父駅入口」信号を左(西北西)へ、県道208号線です

 約1kmで荒川を秩父公園橋で渡ります、渡り切った「秩父ミューズパーク(北口)信号を右(北)へ

 約600mで童子堂の石柱を右へ入ると

 永福寺の駐車場へ入りました

 秩父札所巡礼道・文化財マップです

 参道です

 六地蔵様です

 山門の仁王門です、屋根の葺き替えの浄財寄付を求めています

 説明版です
  市指定史跡 札所22番
    華台山 永福寺
 この堂は、童子堂と称し、府坂地内より現在の地、永田城跡に移築したと伝えられ近くに城の堀跡が今も現存しております。
 四注屋根三間四面で周囲に勾欄付の椽をつけ、欄間や扉には薄肉彫り淡彩の彫刻があります。
 山門の仁王門は、童子仁王といい幼稚であるが愛嬌のあるもので童子の名にふさわしい仁王門です。
 本尊は、聖観世音がまつられております。
 この堂は、淳和天皇の御弟、三品式部卿伊豫親王の菩提のため、遍照僧正がこの領主に命じて草創したものといわれます。
 昔、讃岐に怪貪な長者があって、行脚の僧、長者に食を乞えども与えられず、僧は金を払いて米を求め犬に与えれば、この家の倅、犬となり共に喰いいる様に親は驚き悲しみ大きく、長者は僧に因果の道理を説かれ、その犬を引いて諸国の霊場を廻り当山に来て始めて元の人間になったという縁起があります。
   昭和40年1月25日   秩父市教育委員会指定


 梅の参道を進みます

 サルスベリです

 南西側から

 向かい側(北側)の藤の幹も大きなものです

 手水舎です

 観音堂です

 軒下の額と鰐口です

 本堂です

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埼玉県秩父市、寺尾「観音寺(秩父三十四観音霊場21番札所)」です!!

2023-09-16 06:30:21 | 秩父三十四観音霊場
 寺尾地区は荒川の西側です、観音寺は秩父市役所の北約3.5kmのところ岩之上堂の南西約700mのところです

 国道299号線沿い南東側に駐車スペースが有ります

 南東向きの観音寺境内です

 観光案内図ですが、解かりずらいですね~

 秩父札所巡礼道・文化財マップです、こちらの方が解かり易い気がします

 第21番の標柱です

 六地蔵様です

 手水舎です

 宝篋印塔と多くのお地蔵様です

 説明版です
  市指定史跡 札所21番
    要光山 観音寺
 この堂は、通称矢の堂と称し、本尊は聖観世音で他に幾体かの仏像があります。
 大正12年小学校火災により類焼後、今の堂がつくられました、消失前は三間四面のの堂であったといわれ、境内には聖観世音立像、百萬遍念仏塔、弁財天石塔、芭蕉句碑等あり盛時が偲ばれます。
 堂前の道端には地芝居役者の座頭中村十九十郎(田舎千両っと称えられた)墓もあって地芝居隆盛の昔を偲ぶ民俗資料としても貴重です。
 昔この地は、元八幡宮の社地で神託により観世音の霊場になったといいます。
 邪神悪魔を除き仏地にせんと八幡大菩薩の放てる神矢がここに落ち、悪魔退散したるため名づけて矢の堂をなすという縁起があります。
    昭和40年1月25日    秩父市教育委員会指定

 観音堂です

 軒下には大きな21番の板が掛かります

 市指定史跡 秩父札所第21番要光山観音寺 説明版ですが内容は前出の説明版と同じです
 


 説明版にあった八幡宮です


 芭蕉の句碑です、有名な山形県立石寺で読まれてとされるセミの句が彫られています


 伝説の額です
  観音矢之堂、ここは元八幡宮の社地であったが、行基菩薩の刻んだ聖観世音像を安置して、霊場とした。武将の矢が納められたと伝え、火難に強いといわれる。

 境内から武甲山が良く見えました

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埼玉県秩父市、寺尾「岩之上堂(秩父三十四観音霊場20番札所)」です!!

2023-09-15 18:33:27 | 秩父三十四観音霊場
 寺尾地区は荒川の西側です、岩之上堂は秩父市役所の北約3.5kmのところ

 秩父市役所前から国道140号線を北へ、約1.2kmの「秩父警察署前」信号を左(西)へ

 約400mの「上宮路町」信号を右(北)へ、国道299号線です

 約1.8kmで荒川を秩父橋で渡り、更に約500m道成りに進んで岩之上堂の案内板に従って左(南)へ入ります

 約300mで参道入口近くの駐車場へ入りました

 駐車場の巡礼道案内板です、前の19番や次の21番も直ぐ近くですね

 秩父札所巡礼道・文化財マップです

 参道入口です、岩之上堂は、一段下にあります

 秩父霊場 第20番 法王山 岩上堂の石柱です

 参道石段を下ります

 観音堂脇に出ました、観音堂は南南東向きに建っています

 正面から

 御堂の天井からはたくさんの吊るし飾りが下がっていました

 伝説の額です
 寺尾村の孝子・・・寺尾に住む孝行息子が川向こうの宮路の病の母を見舞う時、大雨で渡れない川を観音様が童子舟に姿をかえ、母に会う事が出来た

 説明版です
   市指定史跡 札所20番
     法王山 岩ノ上堂
 この札所は、三間四面方形造りで、他の堂における屈指の建築で、延宝初年、内田家先代、内田武左衛門尉政勝の再建によるものといわれております。
 現在の堂は、江戸中期の造営と思われますが、元禄年間に内陣の補修、宝永年間に彫刻の補修を経てきたもので、唐模様系統の建築で優秀な造りとされております。
 岩の上堂の名の如く、この地は荒川西岸の崖上にあって、本尊は聖観世音立像で、高さ71cm、寄木漆箔、藤原時代の作と言われ、市指定有形文化財になっています。
 昔、人皇72代白河院の勅によって建立された荘厳な堂であったといわれ、応仁の頃から次第にすたれ、本尊のみ岩の上に雨にさらされた時もあったといわれ、幾多の伝説もあります。
 内陣には見事な春日厨子の形式による厨子があって、三十三身と日天、月天像、風雷神像、などの像がはられ、札所の中でもすぐれたものと共に貴重なものです。
   昭和40年1月25日  秩父市教育委員会指定


 もう一枚
   市指定有形文化財 岩上堂の聖観音像
 この寺は、秩父34ヶ所観音霊場の内20番寺岩上堂といい、江戸初期に作られたものといわれ、三間四面の屋根方形造りで向拝付きの唐様の系統で、札所の内でも屈指の建物であります(延宝初年内田家先祖の内田武左衛門尉政勝再建)
 堂内に安置される本尊聖観音像は、吉田町菊水寺の聖観音に次ぐ代表的な仏像で、藤原末期の作、像の高さ約71cm、寄木漆箔、桧材一刀彫であります。
 かつて人皇72代白河院の詔によって建立された荘厳な堂でありましたが、応仁の頃から次第に廃れ、本尊のみ岩の上に雨にさらした時もあったようです。
 本尊を安置した厨子は、内面が金箔にてぬられた上に、三十三身の像と日天月天像、風神雷神等の半肉彫を貼布した、江戸上期の作として共に貴重な文化財です。
 昭和32年2月8日指定
     秩父市教育委員会
     秩父市文化財保護審議委員会

 境内端から荒川に流れが木々に間から見えました

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埼玉県秩父市、大畑町「龍石寺(秩父市三十四観音霊場19番札所)」です!!

2023-09-15 07:03:51 | 秩父三十四観音霊場
 大畑町は、秩父市役所の北約3kmのところ

 秩父市役所前から国道140号線を北へ、約1.2kmの「秩父警察署前」信号を左(西)へ

 約400mの「上宮路町」信号を右(北)へ、国道299号線です

 約1kmで緩い左カーブのところで「視目坂下」信号を右(北東)へ入ります
 
 約700mで左に龍石寺の案内板に従って左(西)へ入り突き当りを右(北)へ

 龍石寺の駐車場へ入りました

 秩父札所巡礼道・文化財マップです 

 江戸巡礼古道の説明図です

 六地蔵様です

 大きな岩の上に観音堂は建っています

 南向きに観音堂です

 軒下の鰐口と額です

 説明版です
   指定史跡
     秩父札所第十九番飛淵山龍石寺
 この札所は、大きい一面の岩盤上に建てられています。
 観音堂は七間半四面表流れの向拝をふした方形造りでありましたが、近年の堂の荒廃を憂い広く浄財を募り、昭和47年解体復元が目されております。
 その折宝永2年の墨書が発見され歴史の深さを物語っておりまう。
 堂内には、閻魔をはじめ十五像など冥途の恐怖を強調するものや、三途の川の脱衣婆をまつる三途婆堂もあって仏教の暗い一面をみせる札所でもあります。 
 本尊は千手観世音坐像で高さ49cm、寄木造りで室町時代の作と云われております。
 昔、この地方に大旱魃があって弘法大師は、天皇の勅により雨を祈られたところ、この大盤石二つに割れて、神泉苑より竜が昇天し雲を呼び雨を降らせ人畜草木みなよみがえり大豊作を得たと云う縁起があります。
   昭和40年1月25日  秩父市教育委員会指定


 もう一枚です
   市指定史跡 札所19番
     飛淵山 龍石寺
 この札所は、大きい一面の岩盤上に建てられています。
 七間半、四面表流れの向拝をふした方形造りの大きい観音堂です。
 近年寺の荒廃を憂い広く浄財を募り、昭和47年解体復元が成り、その折宝永2年の墨書が発見されました。
 薄暗い堂内には閻魔を始め、十王像など冥途の恐怖を強調するもの、三途の川の脱衣婆をまつる三途婆堂もあって仏教の暗い一面をみせる札所でもあります。
 本尊は、千手観世音坐像で、像高49cm、寄木造りで室町時代の作です。
 昔、この地方に大旱魃があり、弘法大師は天皇の勅により雨を祈られたところ、この大盤石二つに割れて、神泉苑より竜が昇天し、雲を呼びたちまちに雨降りおこり、人畜草木みなよみがえり大豊作を得たという縁起があります。
   昭和40年1月25日   秩父市教育委員会指定



 東向きのお堂は「三途婆堂」です

 伝説を題材にした額です

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埼玉県秩父市、山田「 常泉寺(秩父三十四観音霊場3番札所)」です!!

2023-09-14 18:50:00 | 秩父三十四観音霊場
 山田地区の3番札所常泉寺は、秩父市役所の北北東約3.5kmのところ

 秩父市役所前から国道140号線を北へ、約500mの上野町信号を右(南東)へ、国道299号線です

 約600mで坂氷信号を左(北東)へ、県道11号線です

 約1kmの三叉路を左(北東)へ、道成りに約1.8kmで左(西)へ入ると間も無く駐車場に入りました

 駐車場前から常泉寺境内です

 秩父札所巡礼道・文化財マップです

 秩父札所順路概念図です


 曹洞宗常泉禅寺境内入口の仁王像です

 東向きに本堂です

 観音堂は南側にあります

 池の奥の大岩の前に六地蔵様です

 説明版です
  市指定史跡札所三番
    岩本山 常泉寺
 この札所は、三間四面、表に一間の大唐破風の向拝をふし、建築彫刻として繊細を極めています。
 特に竜の彫刻をほどこした向拝の海老虹梁のかごぼりの細工は見事です。
 彫士は熊谷近くの玉井の住人飯田和泉と云われるもので、明治3年、秩父神社の薬師堂を移築したもので、江戸後期の建築物であります。
 本尊は、聖観世音立像一木造り、像高97.3cm、室町時代の作です。
 札所の周囲には長命水の井戸、眼病を祈る不睡の石、子持石などの伝説を持っております。
 その昔、この堂より北の矢行地に本尊が安置され、今の礼堂の地に行基菩薩彫刻の十王像が安置されていたと云う。
 巡礼客10人あまりこの十王堂に宿り誦経し、その声は里人の心を打ち、非常に喜ばれたと云う、折しも近くにある矢追の地より数千の征矢を射る如く光明が輝き、この地を照らし、里人は驚いて十王堂に集まり例の巡礼者をみると、いずこへか消えて矢行地にあるべき霊像が厳然と座している姿に驚き、里人は矢行地の堂を矢追に移し、永く当所に安置したと云う縁起があります。
 この縁起は、当地の名主堀内家が常光寺を建て、札所を移したことを物語っております。
    昭和40年1月25日   秩父市教育委員会指定



 観音堂です

 説明版です 
  岩本山 常泉寺 今昔
 常泉寺の開創は、文暦元年(1234年)3月18日覚了和尚の開山と寺伝に残る。
 当初の所在は、高篠山の中腹の岩窟の中に観音像が安置され、天台系修験者により開創されたものと推定される。
 2番真福寺の納経所である光明寺の援助を得て、現在の地に観音様を遷座した。その当時は真言系であった。
 「光明寺2世峰山壽鷟大和尚の開山。堀内三右衛門(源翁宗心居士)開基。」と記された堀内家の日記が確かな記録である。
 往時は、礼堂、観音堂、弥陀堂、庫裏、本堂と寺勢を誇っていたが、弘化4年(1847年)の大火で類焼の遭い烏有に帰したが、12世曹源碩水の浄財喜捨により、安政5年(1858年)本堂を再建された。
 その後、時代に翻弄され無住の期間もあったが、幾多の苦難を辿り、先代の兼務住職、大法伸爾大和尚(光明寺)が過去帳や不備書類等を整備したうえ、弟子の和皎(現住職)を31世として嗣子した。
 権現堂屋根再修理、鰐口再新添、佛像3体修復、厨子新添、敷石整備、香炉新添、境内整備、観音縁日、紫陽花植樹、境内清掃整備等に、現31世住職拙僧財を喜捨し、加えて地域住民の支援協力のもと現在の趣を保っている。
    当山31世住職 和皎 九拝



 軒下の彫刻が見事です

 伝説を題材にした額です
 本尊聖観世音像は、行基の彫刻と伝えられ、長命水、子持石、不睡石の伝説が残っている。

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埼玉県秩父市、山田「真福寺(秩父市三十四観音霊場2番札所)」です!!

2023-09-14 06:31:00 | 秩父三十四観音霊場
 山田地区の2番札所真福寺は、秩父市役所の北東約6kmのところ

 秩父市役所前から国道140号線を北へ、約500mの上野町信号を右(南東)へ、国道299号線です

 約600mで坂氷信号を左(北東)へ、県道11号線です、道成りに約4.5kmで信号の手前を右(南東)へ入ります

 案内板が有ります、真福寺まで1.8kmの表示です、緩く坂道を登って行きます

 道路が封鎖されているところを右へ下ると

 駐車場入り口でうす

 秩父札所巡礼道・文化財マップです

 駐車場の東側に庫裡の建物が見えます

 石段を上がります

 左側(北側)に観音様です

 観音堂はもう一段上です、大岩の上にも石仏が並びます

 大岩の下を西へ入ります

 折り返して大岩の上へ

 南向きに観音堂です

 説明版です
  市指定史跡 札所2番
    大棚山 真福寺
 この札所は昔、観音堂南向五間半四面、ほか本堂、礼堂、仁王門、羅漢堂、稲荷社、諏訪社等があったといわれ、これらの建物は火災にあって焼失し、須弥壇や彫刻の一部は取り出されて現在の堂に転用されておりますが、これらによっても昔時の盛が偲ばれます。
 又、本尊は聖観世音立像一木造り、高さ64cmで室町時代の作といわれております。
 その昔、知行兼備の大棚禅師がこの地の岩窟に安置する観音像に暫々お参りする老婆あり、禅師あやしみてこの老婆に問えば、吾はこの里の農家の妻である。
 嫉妬心つよく強欲鬼畜の身を観音におすがりしてのがれたいと詣でている。観音は吾をあわれみ本尊を祈り広く信仰を得ながら、吾と同じ苦中の者も救われるであろうと伝えれば、禅師はもっともなりと大棚の地に本尊を安置しようという。
 老婆は喜び、たづさえる竹杖を禅師に呈して「これは人間のものにあらず、これをもって今日の布施とす」と言い放つや松風吹き、雲のごとく老婆はなし。禅師は後、この霊験を本尊に祈り、一宇の堂をたて永く観音の霊跡をしたと言う縁起があります。
   昭和40年1月25日   秩父市教育委員会指定



 軒下の額と鰐口です

 獅子の彫刻です

 伝説の額です
 大棚禅師、禅師が岩屋にこもって読誦していると老婆が現われ過去にざんげして去った、あわれんだ禅師はその供養の為に一宇を建立した。

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埼玉県秩父市、栃谷「四萬部寺(秩父市三十四観音霊場1番札所)」です!!

2023-09-13 18:30:00 | 秩父三十四観音霊場
 栃谷地区の四萬部寺は、秩父市役所の北北東約6kmのところ

 秩父市役所前から国道140号線を北へ、約500mの「上野町」信号を右(南東)へ、国道299号線です

 約600mで「坂氷」信号を左(北東)へ、県道11号線です

 道成りに約4.5kmで「栃谷」信号を左(北)へ入ります、県道82号線です

 約300mで県道に沿って北側に駐車場があります

 秩父札所巡礼道・文化財マップです

 駐車場前には「旅籠一番」です、巡礼の方々が泊まったのでようか

 南東向きに県道道路の角に参道入口があります

 山門前右側に秩父一番四萬部寺の標柱です

 左側に県指定史跡札所一番観音堂の標柱です
 側面には・・・堂は、元禄10年秩父地方きっての名匠藤田徳左衛門により再建され、宝暦6年江戸浅草講中の寄進により江戸の工匠が補修し面目を一新した、建築様式は唐様のこの地の寺社建築の模範となった建物で、その特徴ははおもに内部に見られる。

 概念図です

 説明版です
   指定史跡 札所一番
     誦経山 四萬部寺
 この札所は妙音寺とも称し、秩父三十四ヶ所札所もここから始まりますが、札所32番法性寺所蔵の長享2年秩父札所番付では24番になっており、現在の番付とは大きく異なっております。
 市内に散在する札所も同様にその番付の違いがみられます。これは江戸を中心とする参拝者の便を講じたものといわれています。
 この堂は3間4面、表1間の向拝をふした入母屋造りで秩父札所中、特に整っており、昭和33年3月県指定文化財になっています。
 造営については、元禄10年、宝暦6年、文政13年寺造営から補修の経緯が明瞭であり、秩父地方きっての名匠藤田徳左衛門吉久によってなったものです。
 天井には狩野常信の弟子抱素斎休世常耀益之がかいた龍画があり、この他県内に、類例をみない施餓鬼堂もあります。
 本尊は、聖観世音菩薩立像一木造り江戸時代の作です。
 寛弘4年3月の昔播州書写山の性空上人は弟子の幻通に武蔵の秩父では観音菩薩に縁深い地であり、彼の地にゆきて教化せよと命じ、幻通は師の命を奉じて、この地に到り妙典を読誦し里人を教化し、性空上人がこの地のために四万部読誦した供養を行い塚をきづき秩父第1番の霊場にしたという縁起があります。
    昭和40年1月25日 秩父し教育委員会指定

 手水舎です

 お里帰りのお釈迦様です・・・この釈迦如来様は、四萬部寺の経塚の御本尊としてまつられていたが、明治時代に突如行方不明になってしまいました。
 江戸中期に奉納された金銅仏はこの釈迦如来様を含め9体が露座されていたが、他の8体は昭和16年に戦争のため国家に強制供出され経塚の金銅仏は全てなくなってしまった。
 行方不明から70年後、刻まれた銘文かにより四萬部寺の釈迦如来と判明した仏像が東京銀座の美術店で発見された。
 十方の施主による浄財の喜捨を戴き買い戻し、この経塚に復元し安置した。
 不幸な時代の波に翻弄され、激動の70年の歳月を生き抜き、里帰りできたのは、奇しくも盗難に遭った事が〈塞翁が馬〉であった。
 この釈迦如来の偉大さとありがたさに感謝し再びお迎えするにあたり「お里かえりのお釈迦様」と名付け五体投地で礼拝しています。 合掌 
   四萬部寺 住職 

 宝篋印塔です

 観音堂です

 南西側から、唐様の造りを見ました

 説明版です、 市指定史跡 秩父札所第一番 誦経山四萬部寺(すきょうざんしまぶじ)前の説明版とほぼ同じですね



 南側に鐘楼です

 北側の元禄八重紅梅です、元禄10年に植えたものが老古木となって朽ち果てた根より再び芽を吹いて大きく育ったものです。


 施食殿です、例年8月24日に行われる施餓鬼会は関東一と云われます


 幻通伝説の額です、説明版に有った性空上人によって四万部読誦し供養を行い塚を築いた古事によります

 では、次へ行きましょう
 


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埼玉県小鹿野町、般若「法性寺 (秩父三十四観音霊場32番札所)」です!!

2023-09-12 18:55:00 | 秩父三十四観音霊場
 般若地区は、小鹿野町役場の南約3kmのところですが、山間なのでぐるっと東へ回って行きましょう

 小鹿野町役場前から県道209号線を東南東へ進みます、約1.1kmで右(南)へ

 赤平川を渡って道成りに2.5kmで信号を右(西南西)へ

 道成りに般若川沿いを約1.8kmで「秩父三十四観音霊場32番札所法性寺」の駐車場に入りました

 観光案内図です、右下の赤い四角の現在地です、この先は1kmほどで行き止まりです

 参道入口ですが、山門(仁王門)は再建途中です

 寄付の案内が有りました

 写真で仁王様を紹介しています

 「三十四番目」の大きな石碑です

 駐車場脇の説明版です
   町指定史跡
    札所三十二番般若山法性寺
 当寺は縁起によれば、奈良時代に行基菩薩の開基と伝えられるが、文献によって明らかに知られるのは、鎌倉時代の初期、貞永元年(1232年)頃である。
 御本尊観世音菩薩は像高137cmの立像で、室町時代中期の創作である。また、前立は通称「お船観音」と言われ、頭の上に笠をかぶり、船をこいでおられ、珍し像である。
 伝説によれば、昔豊島権守の娘が、犀が悪魚に襲われ水難にあったが、この寺の  身がその母の姿となって現われて、救ったと記されている。
 県環境保全地域の、当寺の奥の院は、俗に「般若 お船」と称し、長さ200m、高さ80mに及ぶ船形をした巨大な岩から上り、岩上からの眺望は絶景である。
 また苔むした境内の小径は静寂で古色を帯び、秩父の苔寺にふさわしい。
 この寺には埼玉県指定文化財長享2年(1488年)の「秩父札所古番付」が所蔵されている。
   昭和59年9月20日    小鹿野町教育委員会

 六地蔵様です

 参道石段を進みます

 本堂前です、4名の女性たちが御朱印が出来上がるのを待っていました

 本堂入口です、軒先には般若の面が掛けられています、法性寺の山号「般若山」に因んでいるのかな

 更に奥へ進みます

 説明版に有った県指定文化財の「秩父札所古番付」の説明です


 石碑です

 供養塔でしょうか

 百観音の石碑と岩壁の上には洞窟があるようです

 観音堂はもう少し上ですね

 毘沙門堂です

 更に石段を上ります

 大きな岩が重なっています

 ここを潜ると奥の院への山道になります(今回はここまで)

 右手に観音堂です

 見上げました

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埼玉県秩父市、下吉田「菊水寺 (長福寺・秩父三十四観音霊場33番札所)」です!!

2023-09-12 06:55:00 | 秩父三十四観音霊場
 下吉田地区は、秩父市役所の北西約10kmのところ

 秩父市役所吉田総合支所の南東約2kmのところに秩父三十四観音霊場33番札所の菊水寺が有ります

 秩父市役所吉田総合支所前の吉田中学校入口信号から東へ向かいます、約1.1kmの上町信号からは県道283号線になります

 道成りに吉田川に沿って南へ約800mで丁字路を左(東)へ、間も無く取方信号を右(南)へ

 道成りに1.1km進むと左側に駐車場、右側に菊水寺が東向き参道であります

 駐車場の観光案内図です、現在地は右下近くですね

 菊水寺入口です

 大櫻山 長福寺、側面には札所33番延命山菊水寺と有ります、本来(宗教法人登録)は長福寺だそうです

 *ウィキペディアの記述では・・・
 奈良時代、行基によって開山された。かつて近くの八人峠には8人の盗賊が住み着き、追い剥ぎをしていた。そこに、とある僧侶(行基)が通りかかった。盗賊たちは身ぐるみ剥がそうとしたが、僧侶の法力で金縛りにかけられ、そして七転八倒の苦しみを味わった。
 盗賊たちは、遂にこの僧侶に詫びを入れる羽目となった。僧侶は、「このまま悪行を続けるならば確実に地獄に落ちる。地獄の苦しみは今回の苦しみどころではない。」と彼らの非を説き、近くの「菊水」という霊泉の場所を教え、自ら彫った観音菩薩像を与えて立ち去った。以降、彼らは改心し、観音像を草庵に納め、真っ当な生涯を送ったという。これが「菊水寺」の起源である。
 永禄12年(1569)、武田氏と後北条氏の戦いにより全焼した。そのため、別当だった近くの「長福庵」という草庵に観音像を移した。文禄元年(1592)、長山賢道によって「長福庵」から「長福寺」という寺に整備拡充された。
 当寺には「子返しの図」という絵図がある。「子返し」とは間引きのことで、新生児を絞め殺す母親の姿を描き、その残虐性を広く知らしめることで、胎児や新生児を保護しようとした。奉納者は間引きの廃絶を説いた井上如常である。

 札所33番 本尊正観世音の石碑です

 埼玉県指定文化財の石碑です

 桜のトンネルの参道を進みます

 六地蔵様です

 文化財説明版です
   菊水寺文化財案内
 県指定有形文化財 菊水寺聖観音像 1躯
   昭和29年3月4日指定
 この聖観音像は、ヒノキ材の一木造で目は調眼、像高88cmの立像である。
 全体的に安定感があり、頭部には菩薩の特徴である宝冠をいただき、顔立ちも端正で威厳がある。
 製作年代は平安時代末で、県指定文化財彫刻部門の第一号指定である。
 市指定史跡 長福寺芭蕉句碑
   昭和39年9月29日指定
 市指定史跡 秩父観音霊場札所33番
   昭和45年9月24日指定
 市指定有形文化財 菊水寺子返しの図、孝行和讃の図(版木・大絵馬)
   昭和55年7月7日指定
     昭和58年3月    埼玉県教育委員会
                秩父市教育委員会
                菊水寺

 
 市指定史跡の芭蕉句碑です

 本堂です、お参りして行きましょう

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