ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

東京都清瀬市、野塩2丁目(中里緑地)「清瀬の名木・巨木No52ヤマザクラ」です!!

2024-02-29 19:38:36 | 文化財・樹木
 野塩2丁目は、清瀬市役所の西南西約2kmのところ

 清瀬市役所西側の市役所通りを北西へ、約300mで「清瀬市役所北」信号を左へ、柳瀬川通りです

 道成に約1.6km進んで「清瀬4小前」信号を左(南)へ、約400mで「清瀬4中東」信号を右(西)へ

 間も無く道路が下りになるところにの右手に「清瀬中里緑地」があります、左記にメタセコイア群生を見ましたよ

 清瀬中里緑地保全地域の案内板です

 梅坂橋へ戻れば緑地の南西側入り口そばなのですが~・・・


 緑地と空堀川の間の歩道を緑地のフェンスに沿って北東に進むと(約100m)、対岸ないは昭和薬科大学が見えました

 フェンスの切れ間に手書きの案内図です
.
 ここから入る事にしました


 明るい雑木林の中を進みます

 しばらく進むと、遊歩道交差点にクヌギの木です

 すぐ南側にはヤマザクラです

 プレートです

 南側から見ました

 戻って、交差点を東へ進みましょう

 大きな木が出口近くに見えて来ました

 目的の大きなヤマザクラです

 南西側から

 清瀬市名木・巨木のプレートです

 南東側から見上げました

 武蔵野の雑木林と萌芽更新の説明版です

 武蔵野の雑木林は15~25年に1回根元から切り倒し、まきや炭、シイタケのほだ木等に利用してきました。
 切株からは新しい芽がのび15~25年でまた切ることをくり返します。
 この方法を萌芽更新といい、これにより武蔵野の雑木林は今日まで残っています。
      東京都多摩環境事務所 自然環境課


 緑地の南東側出口からヤマザクラを見ました

 では、直ぐ南側(約200m)の圓福寺へ行きましょう
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東京都清瀬市、野塩2丁目「清瀬の名木・巨木No63メタセコイア(群生)」です!!

2024-02-28 19:44:39 | 文化財・樹木
 野塩2丁目は、清瀬市役所の西南西約2kmのところ

 清瀬市役所西側の市役所通りを北西へ、約300mで「清瀬市役所北」信号を左へ、柳瀬川通りです

 道成に約1.6km進んで「清瀬4小前」信号を左(南)へ、約400mで「清瀬4中東」信号を右(西)へ

 間も無く道路が下りになるところにの右手に「清瀬中里緑地」の南東側入口があります

 空堀川の梅坂橋の所です(南側から北側を見ました)

 目的のメタセコイアの群生が有ります

 空堀川と清瀬中里緑地保全地域の案内板です


 南西側から、手前の一番太いメタセコイアは、目通り幹囲2.8m(実測)でした

 メタセコイアの案内板ですが~、清瀬市の名木・巨木のプレートが有りませんね~

 もう一度ぐるりと廻って見ましたが見当たりませんでした

 清瀬市柳瀬川回廊起終点の立派な案内板がポケットパーク入口に建っています


 北東側から群生を見ました

 では、清瀬市中里緑地保全地域を見て回りましょう
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埼玉県南西部は「強い北西の風で煙霧か?」です!!

2024-02-27 18:25:16 | Weblog
 昨日も強かった北西からの強い風が、今日は更に強力でした

 買い物に行こうと車に乘ったら、フロントガラスに砂埃が積もっています

 西の空は、ホコリで黄色く染まっています(写真は撮れませんでした~)

 所沢市から川越市までの、畑作地帯から舞い上がった砂埃と思われます

 このホコリは、東京都清瀬市や東久留米市、埼玉県さいたま市、朝霞市、新座市、志木市、富士見市、ふじみ野市、三芳町辺りに掛かっているようです

 12時の天気図です、三陸沖で急速に発達した低気圧に吹き込む風の影響です

 JR武蔵野線は、運休や遅れが出ています


 買い物から戻ると、西向きの台所のサッシの隙間から、砂埃が入り込んでいます

 窓の所に置いていたものは洗わないとだめですね~

 この前に煙霧が発生したのは2013年3月10日だったかと思われます

 他の部屋も砂埃が入り込んでいる様なので、風が止んだら大掃除しまよう

 では、またねー
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埼玉県新座市、野火止5丁目「新座駅通過の機関車2車」です!!

2024-02-26 19:45:55 | 機関車、列車車輌
 新座駅は、JR武蔵野線の駅です

 JR貨物の新座貨物ターミナル駅が直ぐ西側にあるので、多くの貨物列車が通っています

 新座駅2番線ホーム(外回り)の東端から、1番線を発車した(府中本町行)の列車と同時に、EH500形電気機関車が通過して行きます


 EH500形電気機関車ー37号です、愛称は「ECO-POWER 金太郎」ですが貨車を引いていません

  1997年 から製造する三電源方式 交流直流両用 電気機関車 です

 2番線の西端から、EF210形電気機関車が通過していきます

 EF210ー128号です、愛称は「ECO-POWER 桃太郎」こちらも貨車を引いていません

 EF210形電気機関車は、1996年から製造する直流電気機関車です

 では、次へ行きましょう

 
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東京都清瀬市、下宿2丁目「清瀬の名木・巨木No2サイカチ(群生)」です!!

2024-02-25 18:28:27 | 文化財・樹木
 下宿2丁目は、清瀬市役所の北東約2kmのところです

 金山緑地公園から柳瀬川右岸沿いを北東(下流側)へ進みました

 下宿地域市民センターの脇を通って、JR武蔵野線の高架を過ぎると

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました


 柳瀬川のフェンス脇に目的のサイカチが見えて来ました

 南東側から、フェンス際にたくさんの実(莢)が落ちています(車のタイヤに踏まれて暗灰色の実(豆)もたくさん出ていました


 東側から見ました


 東側にもう一本です


 枝の陰になってしまいましたが「清瀬の名木・巨木百選No2サイカチ(群生)」のプレートです
 マメ科・昔から清瀬ではなじみが深く、2月と師走の八日節句では、豆型の実「ガラギッチョ」をいぶし、その嫌な臭いで悪霊を払ったといいます。
    清瀬市

 南東側から

 東側から二本を見ました


 車止めのさきにもサイカチの大木が見えます

 南東側から

 「清瀬の自然を守る会」の付けてくれたプレートです

 サイカチに実(莢)が回りに見当たりません、樹勢が落ちているのかもしれませんね~

 更に北東へ、高速道路も高架を迂回して、清柳橋脇から柳瀬川右岸へ入って直ぐ土手下に大きなサイカチです

 木の回りを埋め尽くすように、たくさんのサイカチの実(莢)が落ちています


 南側から、まだ枝に莢が残っています

 
 南東側から見ました

 それでは、次へ行きましょう
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東京都清瀬市、中里4丁目「金山緑地公園のチャチンとエノキ群」です!!

2024-02-24 18:51:33 | 文化財・樹木
 さらに金山緑地公園の西端へ進みました


 奥の木にプレートが掛けられています

 北東側から幹を見ました

 「清瀬の名木・巨木百選 No44 チャチン」のプレートです
 センダン科、直立した樹形が特徴的で、紅い新芽、秋の黄葉が目をひきます。
 中国原産の珍し木です。幹の周囲に多数のひこばえが出ます。
      清瀬市

 西側から

もう少し西へ進みます


 エノキが見えて来ます

 南側から幹を見ました

 「清瀬の名木・巨木百選 NO41 エノキ(群生)」のプレートです
 二レ科、昔、エノキは村境などに植えられたものです。
 園内にも約10本あります。葉は昆虫、実は野鳥のえさとなります。
      清瀬市

 西側から見ました


 清瀬金山緑地公園の西端から東を見ました

 「県境のエノキ」です


清瀬金山緑地公園から金山橋を渡って東へ出ました、金山調節地側の土手ではテントを張ってキャンプをしている人たちが大勢見られました


 柳瀬川には多くの種類の魚が暮らしているようです、大きな鯉は多数見られました

 柳瀬川右岸に花を付けた梅の木です





 綺麗な梅の花が咲いていました

 では、次へ行きましょう
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東京都清瀬市、中里4丁目「金山緑地公園のアズキナシとヒトツバタゴ」です!!

2024-02-23 18:57:37 | 文化財・樹木
 前回の続きです

 清瀬金山緑地公園の池を回って西へ進みます

 
 モニュメントの北側にアズキナシの木です

 南側から

 「清瀬の名木・巨木百選 No42 アズキナシ」のプレートです
 バラ科、10月から12月に赤い実が熟します。
 この実がアズキに似て、ナシのような形であることが名前の由来です。
    清瀬市

 *バラ科アズキナシ属の落葉高木。別名にカタスギ、ハカリノメなどがあります。
  バラ科のナナカマド属に含められる場合もあるそうです。
  日本では、北海道、本州、四国、九州に分布し、低山地の乾燥した尾根筋などに生育する。
  朝鮮、中国、ウスリー川流域に分布するそうです。
  樹高は15m以上に達し、樹皮は灰黒褐色でざらつき、老木では縦に細長い裂け目が入る。
  若い枝は紫黒色で白色の皮目があります。(以上Wikipediaから引用)

 南西側から見ました

 更に西へ進みます

 東屋の北側に目的の「ヒトツバタゴ」です、東側から見ました


 南側から見上げました

 「清瀬の名木・巨木百選 No46 ヒトツバタゴ」のプレートです
 モクセイ科、別名:ナンジャモンジャ
 国内では生息地が限られている絶滅危惧種。
 5月ごろ、純白の美しい花が多数咲きます。
     清瀬市
 *モクセイ科ヒトツバタゴ属の一種。
  同じモクセイ科のトネリコ(別名「タゴ」)に似ており、トネリコが複葉であるのに対し、本種は小葉を持たない単葉であることから「一つ葉タゴ」の和名があります。
  別名のナンジャモンジャノキであるが、「ナンジャモンジャ」と名付けられる植物の樹種には、ヒトツバタゴのほかにクスノキ(樟)、ニレ(楡)、イヌザクラ(犬桜)、ボダイジュ(菩提樹)などがあり注意が必要です。(以上Wikipediaから引用)


 南西側から見ました


 まだ早いと思いましたが、ハナニラが咲いていました

 柳瀬川沿いに出て見ました

 西へ進みました


 柳瀬川の河原に大きな鳥が見えました

 アオサギですね


 更に清瀬金山緑地公園内に戻って西へ進みました
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東京都清瀬市、中里4丁目「金山緑地公園のマルバヤナギとニワウルシ切株」です!!

2024-02-22 18:48:00 | 巨樹・大木
 中里4丁目は、清瀬市役所の北西約500mのところ

 清瀬市役所前から、市役所通りを北西へ、約350mの市役所北信号を左(西)へ、柳瀬川通りです

 約100mの金山公園入口信号を右(北)へ、柳瀬川の河岸段丘の崖線を右にカーブして下ると
 柳瀬川を渡る金山橋です、橋のたもとから金山緑地公園が見えました

 清瀬金山緑地公園です、すぐ北側は埼玉県所沢市になります、柳瀬川の流路変更で取り残されてしまったのでしょうか

 清瀬市園案内図です、清瀬10景や西武池袋線清瀬駅からの5kmから11kmのウオーキングコース5コースが表示されています

 清瀬金山緑地公園案内図です
 「武蔵野の風と光」がテーマとなっている。
 本公園は、武蔵野の面影を残す清瀬市の風土環境にふさわしい。
 四季折々の変化をもたらし、野鳥の囀る雑木林を吹き渡る風、梢に輝く陽光、さらには小川が流れ、雲を映し、夕日に染まる池水は、かつての武蔵野のイメージとして表現されたもので、四民の憩いの場となり、生活に潤いを与えてくれる場となる。
   所在地 清瀬市中里4丁目649番地1外
   公園面積 約13600㎡
   開園 昭和61年5月
        清瀬市


 清瀬10景の一つに指定されています
   清瀬10景
     清瀬金山緑地公園
 清瀬金山緑地公園は、「武蔵野の風と光」をテーマに、昭和61年に造られた広さ1.8ヘクタールの公園で、昭和63年度第4回都市公園等コンクール「建設事務次官賞」を受賞しています。
 この園内には、ケヤキ・コナラ・ウツギなどの樹木やクマザサ、各種野草が植えられているほか、滝から落ちる水が小川となって園内中央部に広がる池に注ぎ込むあたりの湿原帯には、花菖蒲などが植えられています。
 また、池の中央の噴水は「柳」をデザインしたもので、独特な水の動きを見せています。
     清瀬市
 *日曜日ということで、柳瀬川の河原ではキャンプやバーベキューをする若者たちやウオーキングをする人々や家族ずれが多く、カメラを向けるわけにもいかず、撮り逃してしまった所が多くありました

 公園の真ん中の池の中の通路を通って西へ進みます

 ミシシッピーアカミミガメが甲羅干しをしています

 マルバヤナギの大木です

 南側から

 プレートが掛けられています

 すぐ南側の柳瀬川沿いに清瀬の名木巨木百選NO45に指定されていた「ニワウルシ」の切株のようです

 では、「清瀬の名木・巨木」が園内にまだまだ在るようなので、見て行きましょう
 
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新潟県聖籠町、次第浜「根上がり松」(町指定)です!!

2024-02-21 18:31:10 | 巨樹・大木
 次第浜地区は、聖籠町役場の北約4kmのところ

 聖籠町役場から北東へ出て、県道203号網代浜新発田線を北へ向かいます

 道成りに約3.4kmの「網代浜」信号で右(北東)へ、国道113号線です

 約1.1kmで右(南東)へ入ります、約100mで左へ

 間も無く左手に大きな松が見えて来ました

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 目的の根上がり松を南東側から見ました

 東北東側から、根元近くには透明なプラスチックの覆いが大枝の折れた跡にかぶせられています


 説明版です
   根上がり松
     聖籠町指定文化財(天然記念物)
     昭和57年11月3日指定
 この松は「根上がり松」と呼ばれる大きな黒松です。
 樹齢は推定800年で、その昔、新発田藩主がこの大松の見事さを褒め、庭師を遣わし手入れさせてと伝えられています。
 樹高は約13m、胸高周囲長は3m以上もあります。
 根は名前のとおり地上にふんばるように強く張り出し、全体として威厳ある風格を備えています。
 平成21年冬の強風で幹腐朽部が裂けその幹が枯れ始めたことから、平成23年に枯れた幹の伐採を行い、合わせて柵やベンチ等周辺を整備しました。
 町ではこの貴重な松の健康を維持し後世へと伝えるため、定期的な薬剤注入や支柱補修などを行っています。
     聖籠町教育委員会

 北東側から


 北側から見ました

 根元東側には庚申塔です

 こちらは(北側)、昭和35年5月の砂丘地営農研究田 「元祖 ビニール水田初生之地」の石碑です 

 では、次へ行きましょう
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新潟県阿賀野市、水原「瓢湖の冬鳥達」です!!

2024-02-20 18:58:18 | ドライブ
2024年2月15日に、今月も瓢湖を見てきました

 何時も見ている「瓢湖の鳥たち」ブログに、前回は会えなかったミコアイサが、ここのところ毎回登場しています

 今回は期待して行きました、日の出間際の時間でしたのでハクチョウも出勤前のようです

 (ハクチョウ達は、陽が登る頃に、瓢湖から阿賀野川周辺の阿賀野市内や新潟市・新発田市などの田圃に、朝食に行っているようです)
 
 阿賀野市役所の東約500mの所に、ハクチョウで有名な、いつもの瓢湖です。

 瓢湖は、平成20年(2008)にラムサール条約の登録湿地となっています。

 歓迎門を潜ると、たくさんの鴨たちが迎えてくれます

 瓢湖管理棟脇の桟橋や手すりの上にもカモ達が並んでいます

 東側の島にも、ハクチョウが大勢いました

 ヒドリガモです

 キンクロハジロ(♂)です

 キンクロハジロ(♀)です

 オナガガモの夫婦の様です

 尾羽が短いようですがオナガガモ(♂)です


 オナガガモ(♂)です

 オナガガモ(♀)です


 ハシビロガモの夫婦のようです

 ハシビロガモ(♂)です

 ハシビロガモ(♀)です

 ヒドリガモの夫婦のようです

 カルガモです

 オオバンです、オオバンはクイナ科ですね


 アヤメ園脇の桜並木を東に進むと、岸際から沖へと進むミコアイサ(別名:パンダガモ)です


 沖合にも2羽

 良く見たら3羽いました

 もう1羽が東へ進んでいます

 ハクチョウの若鳥もグレーの色が薄くなっています

 上空をハクチョウが飛び始めました

 トンビも飛んでいました

 ミコアイサが見られて良かったです

 では、次へ行きましょう
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東京都国分寺市、本多4丁目「祥應寺のコノテガシワ」(市指定)です!!

2024-02-19 20:10:31 | 文化財・樹木
 「尾崎熊野神社のクロマツ」を見てからバス通り沿いに北へ進みました

 JR中央線阿佐ヶ谷駅まで約1.5km(約25分)です

 阿佐ヶ谷駅からJR中央線で西へ8駅の国分寺駅まで移動しました

 国分寺駅の北側ロータリーから駅前通りを北へ進みます

 約700mの本多2丁目信号を左(北西)へ間も無く

 祥應寺の大願堂です

 すぐ西側に祥應寺参道入口の山門が有ります

 山門前東側には石仏が並びます

 山門を潜ると参道左手に小さな板碑です、説明書きには・・・
    板碑(いたび)
 概要・・建立―年代不明・石材―緑泥片岩(秩父青石)・形式―武蔵型・種子―阿弥陀如来(梵字)
 由来・・武蔵型板碑は、おもに関東地方で鎌倉時代から室町時代に集中して広く分布した供養塔です。
     扁平の緑泥片岩(秩父青石)のもので、頭部山形、下に二条線、身部は蓮台の上に仏画または梵字が刻まれているのが武蔵型板碑の特徴です。
     武蔵の豪族達の間に信仰された阿弥陀浄土への願望から、先祖供養で、逆修という生前供養として建立されたものが多いようです。


 記念碑です
   黒金山祥應寺 再興300年
     記念碑
 本寺は鎌倉中期国分尼寺跡(国分寺市西元町・黒鐘公園)の北丘に起こる。開山由緒は不明であるが、阿弥陀信仰の盛んな寺院であった。
 ある時、古址より本尊と思われる阿弥陀さまの鉄仏が掘り出され、黒鉄(くろがね)のお姿であったことから村人は、かの地を「黒鉄(黒鐘)」と称す。
 鉄仏は六所宮(大國魂神社)に遷座したのち明治期の神仏分離により、他の寺院に移された。
 享保2年(1717)国分寺村の名主本多儀右衛門が、古址本寺の再興を発願。黄檗宗の僧恢門道項禅師を再興開山に懇請し、寺社奉行より許可を得る。
 享保11年(1726)本寺を本多新田の菩提寺とするべく、本寺初代大洲元皓禅師、ならびに新田開発者によって古址より現今の地に遷され、古址に・り山号を「黒金山」と号す。
 時同じくして万葉集で詠まれる「児の手柏」の古木が古址より移植され、一本は境内に現存し、枯死の一本は地蔵尊となり、昭和7年(1932)に開眼した。
 本寺の伽藍は、再興当初は小規模の観音堂であった。
 文政9年(1826)本寺重興紫雲達瑞禅師、ならびに村人の奉公により木造本殿が建立されたが、昭和16年(1941)に焼失。本殿を再建すべく本寺中興英信仁宗善治、ならびに檀信徒の尽力により昭和27年(1952)に鉄筋本殿が建立された。
 平成27年(2015)本寺は再興より300年を迎えるにあたり、老朽化や耐震構造の問題をかかえた本殿を再建すべく、かの痛ましき東日本大震災の苦境を経て現住晴敬智俊禅師、ならびに檀信徒の敬・なる菩提心と浄財を基に本殿再建、山門新築の大事業を成就した。
 同年5月吉日、黄檗宗管長猊下大導師のもと盛大に落成慶讃法要が厳修され、本寺は黄檗宗大本山より別格地の寺格を賜り、今日の偉観をあらわした。
 然れば、本寺開山、再興より関わる先人の労苦と遺徳を偲び、往古より伝わる阿弥陀信仰の板碑(古址より出土したうちの2基)を復原するとともに茲に謹んで記念碑を建立するものである。
     南無阿弥陀仏
   為當山有縁無縁三界萬霊追善供養
        平成28年 秋彼岸 祥應寺


 寺務所前の境内案内図です、目的のコノテガシワは本堂前東側ですね


 本堂(本殿)です

 本堂前からコノテガシワが見えました

 門を潜ると目的のコノテガシワです

 説明石碑です
   祥應寺の児の手柏
 児の手柏は、松と同様に常緑で葉をおとさず茂ることから「百木の長」(史記 亀策列伝)とか「命を地に受くるもの、ただ松柏のみ独り正しく、冬夏に青青たり」(荘子 徳充符篇)というように、中国の古代書に登場する。
 日本では、奈良時代に万葉集に詠まれ、平安時代には、典薬寮によって児の手柏の種子(柏子仁)を漢方用として栽培されていた。
 祥應寺の児の手柏は、享保11年(1726)に武蔵国分尼寺跡の北方に位置した伝祥應寺から現在の地に移植され、樹齢は600年以上、日本最大かつ最古で希少かつ貴重なものである。
 児の手柏は、もともと日本に自生しておらず、祥應寺の児の手柏は、大昔に誰の手によって運ばれたのか、歴史的浪漫を感じうるものである。
     平成27年(2015)5月 吉日
 *ヒノキ科コノテガシワ属唯一の現生種です。葉を子供が手のひらを垂直に立てたような形に見立てて名付けられたもので、「カシワ」は、米を蒸して調理する上下に組み合わさる壷状の道具から、上にのせられた穴あきの壷に入った米が、湯を沸かす下の壷に落下しないように、上の壷穴にコノテガシワの葉を詰める用として使われたことによると、「カシワ」の語源は、炊(かしぐ)葉という意味で、昔はこの葉で料理を盛り付けたり、蒸したりするときに使われたことに由来するそうです。

 
 北西側から

 東側から

 南東側から見上げました

 では、これで国分寺駅へ戻って西国分寺駅から武蔵野線で埼玉へ帰りましょう
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東京都杉並区、成田西3丁目「尾崎熊野神社のクロマツ」(区指定)です!!

2024-02-18 19:43:15 | 巨樹・大木
 「和泉熊野神社のクロマツ」を見てから、京王井の頭線の「永福町駅」から二駅目の「浜田山駅」まで移動しました

 浜田山駅の改札を通って北側に出ます、約300mで都道14号線の信号を渡って東へ、直ぐの八百屋さんの手前を左(北)へ

 道成に約400mで突き当りを右(東)へ、約50mで左(北)へ鎌倉街道です

 道成りに約500mで杉並区立杉並第二小学校の西側です


 道路の先に鳥居とマツの樹冠が見えて来ました

 南向きに参道入口の鳥居です

 尾﨑 熊野神社の社號標です

 説明版です
   尾崎熊野神社
 この神社は、五十猛命・大屋津比咩命・抓津比咩命の三柱を祭神とし、旧成宗村字尾崎の鎮守でした。
 当社の創建年代は詳らかでありませんが、大宮八幡宮・同村白山神社とほぼ同年代の創建と言われ、安藤本家文書、宝昌寺境内出土の板碑によると、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が、代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基くと伝へられています。
 「新編武蔵風土記稿」の成宗村熊野社の条には「除地五畝小名尾崎二あり、社ハ二間二二間半、神体白帯・・・・村内宝昌寺ノ持ナリ」とあり、江戸時代には、宝昌寺が別当を努めていました。
 明治維新後、大宮八幡宮の神職が兼務するところとなり、明治41年、付近に散在していた稲荷社・猿田彦社・御嶽社を境内に合祀し、現在は境内末社として祀っています。
 昭和43年秋、境内から縄文時代早期((井草式)の土器片、縄文時代前期(諸磯式)・古墳時代(鬼高志貴)の住居址が発掘され、古くからこの地には、人間が住んでいたことがうかがわれます。
 なお、境内にそびえるクロマツの大木は、当社の御神木で、樹齢約400年と言われ、区内でも有数の樹木の一つです。
 例祭日は、9月上旬です。
    平成10年3月    杉並区教育委員会


 ニノ鳥居です

 手水舎です

 目的のクロマツです

 社殿です

 神社沿革の石碑です
   尾崎 熊野神社沿革
 当社は、五十猛命・大屋津比売命・抓津比売命の三柱の神を祀り、尾崎の地の鎮守として崇敬されている。
 尾崎の地名は善福寺川岸の突出した大地の地形に由来する。
 昭和43年秋、境内から縄文時代早期の井草式より土師器・須恵器に至る各時代の土器類と、縄文時代前期ならびに土師器時代の住居址とが発掘されるにおよび、この地には数千年来人煙の絶えなかったことが明らかになった。
 当社の草創は、安藤本家文書および宝昌寺境内から出土した板碑によれば、鎌倉時代末期(14世紀初)に鎌倉から移住してきた武士が、代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基ふと伝えられ、江戸時代には、天和3年・宝暦4年・文化8年の棟札があって、住民の力で当社が維持されてきたことを物語っている。
 維新以前には成宗村内の須賀神社(牛頭天王社)・白山神社とともに白竜山宝昌寺を別当寺としていたが、明治の初め神仏分離により大宮八幡宮の兼務となり、のち附近に散在していた稲荷社・猿田彦社・御嶽社を境内に合祀して現在にいたっている。
 この地は、豊多摩郡杉並村大字成宗字尾崎で、明治の初めには三姓(蕪山・石原・安藤)18家が住む小聚落であったが、昭和7年に区制が施行されて、杉並区成宗2丁目となり、さらに昭和44年には成田西1・2・3丁目と改称され、人家の密集した街地となっている。昭和44年11月1日に新社殿が落成したのを記念して、住民有志が熊野会を結成し、また地元の杉並古代文化研究会へ委嘱して、尾崎熊野神社誌を刊行した。
 ここに碑を建立して、当社の沿革を記録するものである。
   昭和45年(1970)中秋
       尾崎熊野神社氏子中
       尾崎熊野会


 御神木の案内板です

 天然記念物標柱です、文面は・・・
 昭和62年3月30日 指定
   杉並区指定天然記念物
     尾崎熊野神社のクロマツ  杉並区教育委員会
   尾崎熊野神社のクロマツ 一本
 このクロマツhあ、幹周囲(目通り)3.27m、根本幹周囲5.5m、樹高32m、樹齢は400年以上と推定されます。
 黒松は俗に雄松と呼ばれ、アカマツに比べて大型で、葉は大きく、幹も太く、樹皮が黒褐色をおびています。
 近年、くろまつは、環境の悪化により都内では年々少なくなってきたいます。
 このクロマツhあ、御神木として古くから氏子によって手厚い保護を受けており、樹冠面積は十分な広がりを持ち、樹勢も優れ、都内でも有数のクロマツの巨樹として貴重なものです。

 南側から

 西側から

 南東側から

 東側から見ました

 ここにもしだれ梅が咲いています

 八分咲きになっていました

 社殿東側には説明版に有った御嶽神社です

 更に東側には尾﨑稲荷です

 境内東端には神楽殿です

 では、次へ行きましょう
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東京都杉並区、和泉3丁目「和泉熊野神社のクロマツ」(区指定)です!!

2024-02-17 19:00:46 | 巨樹・大木
 練馬区早宮3丁目の「内田家のケヤキ」から、豊島園駅へ戻って、都営大江戸線で新宿まで戻ります

 新宿駅で、京王新線に乗り換えて「明大前駅」で降りました

 駅の改札を西に出て明大通りを北へ進みます

 約200mで甲州街道を歩道橋で越えると明治大学の東側駐輪場(明大前北駐輪場)の中を北東に抜けます

 京王井の頭線の線路を左に見ながら坂道を下って行きます、鍵の手に曲がってまた線路沿いに出ると

 駐輪場から約500mで神田川の蔵下橋の手前を神田川に沿う様に北へ

 約200mで宮前橋の北西側に和泉熊野神社の社叢が見えて来ました

 参道は東側道路に開いています

 社號標です

 説明版です
   和泉熊野神社
 当社は旧和泉村の鎮守で、祭神は天御中主命・伊弉諾尊・伊弉冉命です。
 社伝によれば、文永4(1267)年に紀州(現在の和歌山県)熊野神社の分霊を祀ったのが当社の創建で、弘安7(1284)年に社殿を修造し、その後、北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも、大掛かりな改修を加えたと伝えられています。
 江戸時代には寛永16(1639)年と元禄9(1696)年の両年に社殿の改修をおこなったことが、棟札によってわかります。
 「新編武蔵風土記稿は、江戸時代の当社について「除地三百坪 村ノ北ノ方二アリ 上屋二間四方 本社モ五尺四方 拝殿二半間二二間 社前二木ノ鳥居ヲ立」と述べています。現在の社殿は、文久3(1863)年の造営で、明治4(1871)年に修復がおこなわれています。
 当社の境内からは、かつて縄文時代の土器・石器、古墳時代の土師器なども出土しており、古い時代から人々が、この地で生活していたことがわかります。また、境内には徳川家光が鷹狩りの途中に休憩した時に植えたと伝えられる松の大木もそびえています。
    令和6年3月  杉並区教育委員会
 *令和6年3月は間違いでしょうね~、さてさて何年に建てられて説明版なのでしょうか
 また、「天御中主命」は「造化三神」の一柱として「古事記」の序文に最初に現れた神様です

 境内は杉並区の保存樹林に指定されています

 三ノ鳥居は木製です、周りにはマツなどの大きな木々が並んでいます

 石段を上がって来ました

 右手(境内北側)には神楽殿です

 参道左手に手水舎です

 拝殿です

 拝殿の左側(南側)に目的のクロマツです

 横アングルで撮影しました

 天然記念物標柱です
 説明欄には・・・
  平成2年11月14「日指定
    杉並区指定天然記念物
      和泉熊野神社のクロマツ   杉並区教育委員会
 和泉熊野神社のクロマツ 1本
 社殿横の本クロマツは、幹周(目通り)3.1m、根元周囲6.3m、樹高(目測)は17mあり、樹齢は350年以上と推定されています。
 クロマツは俗に雄松と呼ばれ、アカマツに比べて大形で葉は大きく、樹皮が黒褐色をおびています。
 近年クロマツは、環境の悪化により都内では年々少なくなってきたいます。
 このクロマツには、徳川家光お手植えとの伝承があり、御神木として古くから氏子の人々によって、手厚い保護を受け、都内でも有数のクロマツの巨樹として貴重なものです。

 南東側から見上げました、本殿の屋根も見えています

 南側の境内社です、「北野神社・御嶽神社・山神社」(末社)が祀られているようです

 拝殿前の「モッコク」です

 モッコクも「杉並区貴重木」に指定されています

 北側には「稲荷社」(末社)です

 しだれ梅が咲いています

 社務所の塀の中です

 まだ二分咲き程でしょうか

 では、次へ行きましょう
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東京都練馬区、早宮3丁目「ねりまの名木 内田家のケヤキ」(区指定)です!!

2024-02-16 18:27:30 | 巨樹・大木
 ここからは2024年2月12日取材分です

 新宿から都営大江戸線で豊島園駅まで行きます

 豊島園駅A2出口から東側の道路(豊島園通り)へ出て北へ進みます

 約400mで斜め右(北東)へ、石神井川を南宮橋で渡って緩い坂道を上がって行きます

 約250mで道成りに右(東)へ、約100mで突き当りを左(北)へ

 間も無く道路の先に大きなケヤキが見えて来ます

 目的のケヤキです

 南西側から見上げました

 西側に練馬区指定天然記念物「内田家の屋敷林」標柱です

 説明覧には・・・屋敷林は、屋敷の四方を囲み立ち並ぶ樹高30m前後のケヤキと屋敷西側の雑木林から成ります。
 かつての農家に見られた防風・日除けのための屋敷林と農用林としての雑木林の形態が保たれています。
     練馬区教育委員会

 早宮けやき特別緑地保全地区のプレートです

 南側から

 南東側から

 根元に説明版が有りました
  ねりまの名木
    内田家のケヤキ
 ケヤキとしては区内有数の大きさで、大木としてはケヤキ本来の樹形を残し風格もあることから指定されました。
   樹の高さ  28m、  幹の太さ(周囲の長さ)  4.5m

 *広い屋敷林は、武蔵野の風景を良く残している様でした

 では、豊島園駅に戻って次へ行きましょう
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東京都新宿区、原町2丁目「幸国寺のイチョウ」(区指定)です!!

2024-02-15 18:43:00 | 巨樹・大木
 田園調布駅から東急東横線から地下鉄副都心線への直通便で「東新宿駅」へ

 東新宿駅で地下鉄都営大江戸線へのり替えて2駅目の「牛込柳町駅」で降りました

 改札を出て左への通路を進んでエスカレータと階段を上るとコンビニ前の出口です

 右側(北側)の道路を西へ坂道を上って行くと間も無く

 右手に幸国寺の参道が南向きに出ています

 参道を進むと「題目塔」です

 説明版です
   新宿区登録有形民俗文化財
     幸国寺の題目塔
       所在地 新宿区原町2丁目20番地
       登録年月日 令和元年6月3日
 幸国寺山門前の題目塔は、寛政4年(1792)8月に建てられた高さ4mの大型の石塔である。
 塔正面に「南無妙法蓮華経 法界万霊」、向かって右側面に「奉唱満妙題一千部」、左側面に「奉読誦妙経一百部」と刻まれていることから、万霊のための供養塔であること、施主が続けて1千回「南無妙法蓮華経」唱える唱題行と、百部の法華経読誦を達成したことがわかる。
 なお施主の曽根氏については詳しい来歴は不明である。
 本塔は、江戸時代に標準的な題目塔の形であるが、区内の題目塔では最も規模が大きく、保存状態も良好である。
 後ろに建つ山門(区指定有形文化財)とともに、江戸時代の景観を偲ばせる文化財としても意義がある。
    令和2年2月28日   新宿区教育委員会 
 
 山門です

 説明版です
   新宿区指定有形文化財 建造物
     幸国寺の山門
       所在地 新宿区原町2丁目20番地
       登録年月日 平成24年5月2日
 日蓮宗幸国寺の山門で、向かって右側脇に番所が併設された形式等から、江戸時代後期の建築と推定される。
 形式は棟門(腕木門)で、切妻造・桟瓦葺である。背面には控柱が建ち、主柱と貫でつながれており、番所の袖壁が付属する。
 全体的に雄大・素朴な作りであり、装飾的な要素はほとんど見られないが、番所には繊細な彫物による装飾が見られる。
 この山門は、幕末から明治時代に檀家の長嶋三郎兵衛の寄付を得て移築したと伝えられている。
 かつての幸国寺の門前町は、その後原町となり、現在も町名として残っているが、この山門は、門前町を含めた当時の面影を伝える数少ない建築であり、また、区内でも希少な江戸時代の建造物として重要である。
   平成24年6月   新宿区教育委員会

 山門の右て境内に目的のイチョウの木が見えました

 山門を入ると左手に浄行菩薩の手水舎です

 大きな報恩塔です

 説明版です
   新宿区指定有形文化財  歴史資料
     幸国寺の日蓮聖人六百遠忌報恩塔
       所在地 新宿区原町2丁目20番地
       登録年月日 令和元年6月3日
 江戸で豪商・伊勢屋八兵衛を営んだ加太一族と、伊勢屋各店により、明治5年(1872)正月に建てられた。
 加太氏は、徳川御三卿をはじめとする諸侯に金の用達を行なった豪商で、幕末には横浜に出店し、絹製品の取引や、軍艦・武器を調達し、財を成した。
 本塔は、高さ532cmの大型の報恩塔で、台座4面のうち3面には唐獅子像が、1面にはライオン像が彫られており、ライオン像の上部に英文で「このライオン像は、正確な姿に基づいて彫刻した」と陰刻されている。
 日蓮聖人六百遠忌に9年も先立つ、明治5年に建てられた背景には、明治3年(1870)に没した7代目当主の三回忌と、まだ幼い8代目当主のもとで伊勢屋各店の結束を図ったことがあると推定される。
 区内の報恩塔のうち規模が大きく、また英語による銘文・ライオン像の彫刻など、明治初期の文明開化の気風を強く反映した、きわめて稀有な石造物といえる。
     令和2年2月28日    新宿区教育委員会

 本堂です

 本堂前から東側の墓地の中に目的のイチョウです

 墓地内は関係者のみに解放されていますので、ここからは入る事が出来ませ

 入口からズームアップしてみました

 新宿区みどりの文化財のプレートが有りました

 *推定樹齢は500年、幹の周囲は5メートル、高さは約16メートルにもなる区内有数の大イチョウです。

 境内南西端に鐘楼です

 梵鐘です

 説明書きが有ります
   梵鐘
 正徳2年(1712)当山第7世智全院日心上人が、江戸市内を托鉢(たくはつ)し当初の鐘を作られました。
 その後この鐘は、昭和19年(1944)5月戦役にて供出となりました。
 現在の鐘は昭和46年(1971)日蓮聖人750年の御降誕をお祝いし、平和と安泰を祈念して幸国寺檀信徒の協力により再鋳されたものです。
 鐘の表面に棟方志功画伯による釈尊像、布引の祖師像、日蓮聖人のお言葉が鋳込められております。

 では、東新宿に戻って副都心線で埼玉に戻ることにしましょう
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