宮川地区は、茅野市役所の南約2kmのところ
国道20号線横内信号を東に入ると
達屋酢蔵神社が南向参道で鎮座します
鳥居前の道路脇に
車を止めさせて頂きました
参道入口です
達屋酢蔵神社です
黄色のカキツバタと水盤です
天然記念物に指定されているのは神社の社叢、その説明版です
市指定天然記念物
達屋酢蔵神社境内社叢
昭和55年3月14日指定
当社叢は、4本のケヤキとサクラ・
スギ等よりなる。本殿北側のケヤキは
、目通り幹囲7,20mで上原葛井神
社に次ぐ市内で2番目の巨木であり、
樹齢は400~500年と推定される
。他の三本のケヤキもそれぞれ幹周3
m以上あり、樹勢よくみぎとな社叢を
形成している。
当社は、達屋(立屋又は楯屋)社・
酢蔵社の両社を合祀したもので、「諏
訪神社祭典古式」には「此日、国誌栗
林郷立屋社に着ク」とあり、中世以来
由緒をもつ神社として、また当社の御
柱は、八ヶ岳の御小屋神林より曳出す
特権を有することで著名である。
昭和56年3月 茅野市教育委員会
神社の由緒書きです
達屋 酢蔵 神社由緒
祭神 達屋社 大巳貴命 (おおなむち)
手置帆負命(たおきほひ)
彦狭知命 (ひこさち)
酢蔵社 八意思兼命(やいおもいかね)
祭神と神社名の変遷
天白神 ・諏訪28天白の総社「天白七五三社」の聖地であること
(ミシャクジ)・延喜三癸亥(903)神長守矢書曰
「楯屋神社は天白楯、天白太刀併祭之由」
・御神体は霊石で、現存している。
五龍女神 ・上社物忌令(1236)頃より
(五龍姫宮) 「達屋二社五龍三尊二体アリ」
(五料姫宮) 陰陽道の神 奈良朝廷が陰陽寮を設け強力に
利用してその影響は江戸末まで続き当社は広大な
南北栗林郷の産土社として栄えた。
現在の祭神・神社名
祭神は明治以降のものである。
神社名が、建造物そのもの。非常に珍しい。
達屋 原義は館屋、客人をおく舎である。様々な宛字が使わ
れた。建屋として工匠の宮、楯矢として楯矢を造った宮
等である。そして交通の要地、また神社仏閣等人の集ま
る所、大きな建造物の近くに造られた。
当社が、館屋の館によく建、立を宛てたことから大工
建築に関係ありと、明治の改革時には自然と日本工匠の
神、手置帆負、彦狭知命が祀られたようである。
日本全国の著名な城郭の天守には、多く此の二神が守
護神として祭られている。
酢蔵 原義は簀蔵、簀子組の校倉式食糧貯蔵用の倉庫である
。宛字は、酢、酒、須、等。従って単独では存在しない
もの、館屋、寺社等に付属してあるもの。
中世、神長官文書神事事書三月条に
「丑日前宮神事同日内大県神使殿並二外大県神殿オシツ
マリノ日也、同日国司栗林郷立屋社着」とあり、信濃松
本国府ヨリ国司一行(20名位)は上社前宮の春秋大祭
神事執行のため横内館屋に宿泊して、翌日の大祭に備え
たのである。
御造営(御柱祭)
寅申の干支御造営に関し当社はその御用材を、本宮同
様八ヶ岳御小屋山神林より伐り出せる特権を有している
。七町二反歩が当社分である。これは他社に類例の無い
ことで古くから本宮との因縁を証するものであろう。
以上
修復平成25年9月記 矢嶋壽雄氏 達屋酢蔵神社評議委員会
参道左広場の天神様です
拝殿です
.
本殿です
参道の左手のケヤキの大木、目通り幹囲3,10mの③です
境内東端のケヤキの大木、目通り幹囲3,85m④のです
本殿裏側に目的のケヤキの巨木です①
北東側から見上げました、目通り幹囲7,20mですね
西側から、こちらの面は大枝が折れたのでしょうか、すっかり枯れが進んでいます
境内北西端のケヤキの大木、目通り幹囲3,00m②です
境内社です
達屋酢蔵神社の西側に隣接して横内不動尊です
水盤です
石碑が並びます
説明の石碑です
厄除 開運 横内不動尊
横内村には古来より護摩講あり、
信者は行屋に籠り水垢離を取り護摩
を焚き行を積みこの不動尊を信仰し
た。諏訪高島城主九代諏訪忠誠公御
病の時、横内護摩講を城中に召され
、御病平癒を命ぜられた、五味惣七
翁礼盤に登り御祈祷の結果霊験顕か
にて速に御病気全快なされた、御褒
美に刀剣二振賜わられ、これを達屋
酢蔵神社の宝物として奉納した、こ
の頃(安政5年西暦1858年)飢
饉と疫病近郷近在に流行したが、部
落民は熱心なる祈願により、罹病を
まぬがれたという。
昭和51年3月 横内区
*横内不動尊の写真を撮っていたところに
声を掛けられました
「良いものが有りますので差し上げますよ」
と!!
そして頂いたのが
諏訪大社氏子安全守護の用紙と茅野めぐりマップです
一眼レフカメラを持っていたので地元の方か?と思いましたが
すぐ東側のお宅に入ってこれを頂いたので
宮司さんだったようです
では、次へ行きましょう