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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

愛媛県大洲市、豊茂乙「米軍飛行艇遭難慰霊碑」です!!

2025-06-13 06:34:00 | 遺跡・史跡
 豊茂乙地区は、大洲市役所の西北西約10kmのところの山の中です

 出石寺から出石山登山口のある郷の峠へ戻って来ました

 峠の丁字路(大洲市と八幡浜市の境)を鋭角に右(北:長浜方面)へ、坂道を下って行きます

 約1.6kmヘアピンカーブの内側に「米軍飛行艇遭難慰霊碑」があり星条旗と日章旗が掲げられています

 前の広場に車を止めさせて頂きました

 慰霊碑表て面です
   米軍飛行艇遭難
     慰霊碑
   PLANE CRASH MEMORIAL
 Crew:   乗組員
 LT   Howard L. "Sam" Cornish. PPC,
 LTJG  Steven Arthur Dobbins,
 LTJG  Donald E.Richardson,
 ENS   Wayne Grogan,
 LT    Ebbie Wells,
 ADC    Lee Ladd,
 AD2  George J. Brambinck.
 AD3   John  Edward Meriwether,
 AL2  William Morrison Grayson,
 AL3   Joseph Arnold Hall Jr,
 AO 3  Davis Mawney,
 AN   Roscoe Bence,
 AN     L,  Lowell,
 AN   George A, Murray Jr,
 * アメリカ海軍の階級では、LTは大尉、LTJGは中尉、ENSは少尉、ADはエンジン整備員?、となってるようですが、それ以下は分かりませんでした。

 裏面です
   米軍飛行艇墜落跡 
 この地に、昭和27年(西暦1952年)8月8日午前2時15分、米軍双発飛行艇が濃霧により山腹に激突し炎上、乗組員14名全員が死亡した。 
 その時、金山出石寺の執事、菅弘宣師が仮の仏壇を造り冥福を祈った。
 私たちは、この惨事を碑に刻し、末永く霊を慰めるものである。
        平成21年(西暦2009年)4月建立  発起人 寺田照夫
   (寄付者名 略)
          乗組員名簿提供者 在日米海軍司令部 
 *フィリピンから飛び立ち米軍岩国基地へと向かっていたアメリカ軍の双発飛行艇が折からの濃霧によって迷い、出石山の大洲市豊茂側中腹付近にて墜落事故を起こし、全員の死亡という悲惨な結果となり、その処理と慰霊に付近の豊茂郷集落の人々が力を尽くした。
 発起人の消防団員だった寺田さんは、山火事を警戒し、消火活動で事故現場に急行。
 真っ黒こげになった遺体の散乱を目撃した。寺田さんは「パラシュートの梱包をほどき、遺体にかけて花を添えた」と、その後、住民らは事故現場に墓標を建てたものの、草木に覆われてしまった。
 鉱山夫だった寺田さんの父親は「殉職者を慰めるため慰霊碑を建てたい。1人でもやりたいが、大勢の支えがあった方が皆のために良い。浄財を集めるように」との遺言を残していた。
 機が熟し、賛同者は50人以上集まり、平成21年に御影石の「米軍飛行艇遭難慰霊碑」が完成し、岩国基地を臨む形で建てられている。
 *この事故の遺族、キャサリン・リチャードソン・マクマケンさん(64)は2年前にネットで慰霊碑の存在を知り、お礼を伝えるため今回初めて来日。生後4カ月の時に海軍パイロットだった父のドナルド・リチャードソンさんを失ったため、生前の父には一度も会った記憶がないという。
 慰霊碑を前に、マクマケンさんは「国境を越え、これだけ敬意をもって親切にしていただき、感激しました」と住民らに感謝を伝えた。(以上産経新聞とウィキペディアからの抜粋です)

 
 小さな石碑は、米軍飛行艇遭難60年忌慰霊祭記念碑です
 在日米海軍司令官ダン・クロイド少将を迎えて挙行される
       平成24年8月5日 主催 慰霊碑保存会・後援 大洲市

 では、次へ行きましょう




2025・4・12・12・15
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高知県室戸市、室戸岬町「御厨人窟・神明窟」(市指定史跡)です!!

2025-05-13 12:35:00 | 遺跡・史跡
 室戸岬町は、室戸市東側の南北に広い地域です

 「御厨人窟・神明窟」は室戸市役所の南東約5kmの海岸線近い洞窟です

 室戸市役所を西へ出て、国道55号線を北へ約200mの丁字路時差式信号を右(東北東)へ、県道202号線です

 道成りに約2.9kmで「三津坂トンネル」に入ります

 約800mのトンネルを抜けた丁字路「高知・室戸岬、国道55号線⇒」の標識に従って信号を右(南)へ

 約4.7kmで国道右手に大きなお大師様が見えます(2024年8月2日投稿の「室戸岬周辺」のなかで紹介しています)

 約300mで右手に大きな洞窟「御厨洞(みくろどう)」が東向きに開いています(2024年6月の時には、朝早かったので中へは入れませんでした)

 前に広い駐車場が有ります

 弘法大師御修行の地 御厨人窟(みくろど)の標柱です

 石碑です
   弘法大師修行の地
 大師19才の時阿西暦792年、阿波国瀧嶽より来岬され、難行苦行を重ねて虚空蔵求聞持法を成就された有名な地である。
 東の窟を明神窟、西の窟を御蔵洞と言い、正面石の社は五社権現と呼ばれている。(弘法大師の著作三教指歸・さんごうしいき・より)
    法性の むろ戸といへど 我すめば 有為の波風 よせぬ日ぞなき・・・空海
 この歌は弘法大師がこの地で苦行された当時の有名な和歌である

 説明板です
   みくろ洞 ●御厨人窟・神明窟
     御厨人窟と神明窟【室戸市指定文化財・史跡】
 2つの窟を通称「みくら洞」もしくは「みくろ洞」と呼んでいる。若き日の空海が修行をした場所と伝えられている。
 正面向かって右側の洞窟が修行をしていたとされる「明神窟」で、左側が生活をしていたとされる「御厨人窟」である。
 修行中に悟りを開き、その際に口の中に明星が飛び込んでくるといった神秘的な体験をした後、その当時この場所から見た空と海だけの景色に感銘を受け、名前を「空海」と名乗るようになったと言われている。
     空海はもっと近くで海を見た!?
 御厨人窟と明神窟は「海食洞」、海食洞の入り口の広場は、「波食棚」、背後の急崖は「海食崖」と呼ばれる海岸の地形である。いずれもかつては波打ち際にあって、波の浸食によって地層が削られたもの。現在、御厨人窟と明神窟は海面から、10m近い標高に位置している。
 南海地震などの巨大地震にともなう土地の隆起によって、高い場所に持ち上げられたためである。これらの離水地形には波打ち際に生息するゴカイの仲間である”ヤッコカンザシ”の石灰質の巣穴痕が付着しており、その年代測定結果から、地震の発生と隆起の歴史を知ることができる。
 みくろ洞は空海が訪れたとされる1200年前には、今よりも約5m低く、海面が近かったと考えられている。
 
 まずは右手(北側)の明神窟から見て行きます

 「弘法大師修行之処」の石碑です

 鳥居が有ります

 奥には祠です

 それでは、左側の御厨人窟です

 五所神社が祀られているようです、御祭神は大国主命です

 奥には社殿です

 石製の社殿が建っています

 中から外からの光を見ました

 出て見ると、青い海と空が綺麗でした

 では、次へ行きましょう





 2025・4・6・12・45
 
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三重県伊勢市、中島1丁目「楠大明神の境楠」(市史跡)です!!

2025-02-27 06:39:07 | 遺跡・史跡
 ここからは、2025年1月26日(日曜日)取材分です

 中島1丁目は、伊勢市役所の西北西約2kmのところです、宮川堤の駐車場に車を止めて周辺を4回分廻りました

 伊勢市役所南側の県道22号線を西へ、約300mの「外宮北」信号を右(北東)へ、県道37号鳥羽松坂線です

 約400mのJR参宮線伊勢市駅前で北西に向きを変え
 
 道成りに約2.1kmの「渡会橋東詰」信号を右(北)へ入ると直ぐ左手の

 駐車場に入りました

 周辺観光案内図です、現在地は図の左側、市役所は右側の日陰の部分の伊勢市駅の下側です

 「三重県指定 名勝 宮川堤 散策マップ」です、まずは⑨の境楠(市指定)から見て行くことにしました

 宮川堤公園案内板です、朝早くから犬の散歩の方々で駐車場も賑わっています

 説明版です
   宮川堤  三重県名勝指定(昭和12年6月)
     所在地 伊勢市中島1丁目・2丁目・宮川1丁目
 宮川はその源を大台ヶ原山に発する、延長およそ91kmにも及ぶ、三重県最大の河川であります。
 古く渡会大河・渡会川・豊宮川などと呼びました。
 豊受大神宮(外宮)の「みそぎ」をする川であったからの名であろうとされています。
 下流では古来しばしば氾濫をくり返し、住民はその度ごとにいいしれぬ苦難にさらされました。
 平安の昔、平清盛の築堤伝承をはじめ、近世江戸幕府から巨額の援助を仰ぐなど、両岸住民の堤防修築保全には、度重なる努力が続けられました。
 宮川橋の辺りは桜の渡しとも呼ばれ、古くから桜の木が多くありました。明治4年(1871)この古木の保存と、さらに若木の補植を大いに奨励しました。
 現在中島1丁目浅間堤の近くから、北へ宮川橋辺りまで約1km余の堤に沿う桜の並木約850本は、神都の春を彩るものとして近郷にきこえています。
 その大部分はソメイヨシノであります。
 平成2年(1990)3月3日、日本さくら名所100選にえらばれました。
              伊勢市教育委員会

 でわ堤の上を北へ進みましょう

 約150m程で、目的の「境楠」の樹冠が見えて来ます

 鳥居です、境楠は土手から河原側に下だった所にありますが、葉がありませんね~

 土手上から見下ろしました

 説明版は土手上にあります
    市史跡 境楠(さかいぐす)
      所在地 伊勢市中島1丁目・宮川2丁目
      指定  令和元年7月25日
 境楠は、宮川下流域右岸の中島1丁目・宮川2丁目の境に位置しています。
 「小祠比路比(しょうしひろい)」という江戸時代の書物によると、北(喜多)家の支配する中島町と榎倉家の支配する中川原町との境を示す木でした。
 樹高約10m、胸高周囲8m程の大木となり、昭和33年(1958)い伊勢市の天然記念物に指定しましたが、平成15年(2003)に老衰枯死しました。
 それでも「楠大明神」として地域の人々の信仰の対象であり続け、宮川堤の堤防改修時に境楠一帯の環境整備が行われました。
 現在は、先代境楠の苗木から二世木が育っており、境楠一帯を史跡に位置付け直し、保護を図っています。
       令和3年1月    伊勢市教育委員会

 南西側から楠大明神です

 根元の鳥居です

 若い二代目が育っています

 北側から見ました

 では、戻って渡会橋の南側に行きましょう


 

 2025・1・26・7・10
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東京都清瀬市、中里3丁目「清瀬十景:中里の富士塚」です!!

2024-12-31 19:17:10 | 遺跡・史跡
 令和6年(2024)最後の投稿です

 中里3丁目は、清瀬市役所の西約1kmのところ

 前回の「清瀬の名木・巨木百選No.40ウスギモクセイ」のある中里駐在所前から東北東へ柳瀬川通りを下って直ぐの信号を右(南)へ

 坂道を登って行くと「富士塚」が見えました

 北側に参道石段があります

 鳥居です

 清瀬10景説明版です
   中里富士山
 中里富士山は、富士山を信仰する人々の集まりである富士講によって江戸時代文化年間頃築かれたといわれ、高さが約10m、東京都の有形民俗文化財に指定されています。
 毎年9月1日には、ここで、東京都指定無形民俗文化財である中里の「火の花祭り」が行われます。
 この行事は、講中が富士塚で経文を唱えたあと、円錐形の麦わらの山に火がつけられ、その火にあたり、灰を持ち帰って門口にまくと火災除けや魔除けになり、畑にまくと豊作になると伝えられているものです。
          清瀬市

 文化財説明版です
   東京都指定有形民俗文化財
     中里の富士塚
       所在地 清瀬市中里4ー1132
       指定  昭和60年3月18日
 丸嘉講武州田無組中里講社により、柳瀬川右岸の段丘縁辺地に築かれた。
 文政8年(1825)再築という伝承や、頂上の石祠に同年の銘があることなどから、文化文政年間(1804~1830)の築造と考えられる。
 明治7年(1874)に2m程かさ上げされ、周囲よりの高さは9mである。
 北側の鳥居を潜ると登山道が九十九折りに続く。途中1合目から9合目までを記した小さな石柱がある。
 山頂には文政8年の石祠と、大日如来を刻む石碑が建つ。この石祠は富士山頂の「仙元大菩薩」の社を象ったもの。中腹には、冨士山5合目に祀られる「小御嶽神社」の碑がある。
 少し下った先には富士講が往路に参詣する「高尾山阿闍梨明王」の碑。その中間に、帰路に詣でる「道了大菩埵」の碑が建つ。
 富士信仰に関する石造物を具備する一方、今日でも富士登山や火の花祭りなどの講行事が継続されている。
 また全山赤土で、一般の富士塚に見られる溶岩は一切使われていない。舟運に依存できない内陸地域の富士塚の、典型的な様式を示している。
 なお、講に関する中里九嘉講関係資料が附としてしていされている。
 初期の富士塚として、また江戸後期に武蔵野に進出した富士講の活動を知る上で重要である。
     平成23年3月 建設   東京都教育委員会

 手水舎です

 東側に大きな富士講の石碑です

 こちらも冨士講の石碑の様ですが薄くなっていて読めません

 石仏と庚申塔も並んでいます

 ジグザグに富士塚に登ってみましょう


 五合目の「小御嶽神社」の石碑です

 七合目の石祠です

 山頂広場に成っています、祠は「仙元大菩薩」(浅間神社)でしょうか

 北側の柳瀬川方面です

 北東側の金山緑地方面です

 西側に富士山は見えませんでした

 次へ行きましょう・・・ってところで、令和6年(2024)の投稿件数756件(ほとんどが巨木・大木でした)となりました、令和5年(2023)の791件にはおよびませんでしたが、平均すると毎日2件の投稿が出来ました
 地元の関東は埼玉 27、東京 68、群馬 25、栃木 26、茨城 20、千葉 6
 春には甲信越北陸東海へ山梨 28、長野 11、新潟 7、富山 58、岐阜 27、愛知 26、静岡 16
 梅雨入り前にはには淡路島・四国へ、四国88カ所の35番まで行きました兵庫 17、徳島 125、高知 55
 秋には東北へ東日本大震災の跡も多数見て来ました岩手 181、宮城 24 
 その他 9件でした

 *このブログを見て頂いてありがとうございます、良いお歳(年神様)をお迎えくださいませ<m(__)m>
 
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茨城県潮来市、大生「大生古墳群・鹿見塚古墳」(県指定)です!!

2024-12-20 18:43:47 | 遺跡・史跡
 築地地区は、潮来市役所の北約4kmのところ

 潮来市役所南東側の国道51号線潮来バイパスを北東へ進みます

 約900mの「須賀」信号を左(北)へ、県道50号水戸神栖線です

 約2.1kmで「鉾田・県道187号線⇒」の標識に従って、信号を左へ

 カーブして坂道を登って、丁字路を左(北東)へ、県道50号線の上を越えます

 約2.5kmで、県道左手に古墳が見えました(県立水郷県民の森 大生地区の東端です)

 南側の道路脇に車を止めさせて頂きました

 南東側から鹿見塚古墳を見ました

 古墳群の説明版です
   茨城県指定文化財
   史跡 大生古墳群
       昭和50年3月25日指定
 大生原大地には百余基からなる古墳群が存在し、県下でも最大の規模を誇る古墳群を形成している。
 この古墳群は古墳の集中状態から大生東部古墳群、大生西部古墳群、カメ森古墳群、田ノ森古墳群、に4大別されるが、この古墳群は大生神社の西側に位置し、県指定史跡鹿見塚古墳をはじめ、子子舞塚古墳址、天神塚古墳、白旗八幡塚古墳、なぢ20数基の古墳を包含する大生西部古墳群で面積8.8㌶の地域である。
 この古墳群は古墳時代中期の築造と推定され、旧時の状態を良くのこしている。
 大生原古墳群の被葬者が鹿島神宮と密接な関係のあったオフ氏一族の奥津城であったことは各方面から立証されているところである。
   平成30年3月      潮来市教育委員会・風土記の里保存会

 鹿見塚古墳の標柱です

 *鹿見塚古墳は、大生西部古墳群内に存在する盟主的な片耳式前方後円墳です。
 主軸は南西より北東に走り、全長約58m、前方部巾約32m、後円部直径約34m、同高さ約6mを有し、墳丘西側括部中央よりやや南に低い造出しを付設しています。
 さらに後円部がとくに高く突き出していることで特異な墳形をしています。

 東側から後円部です

 前方部を見ました

 南側から前方部です

 南西側から

 古墳接続部の西側には大きな作り出し(これが片耳か?)が確認できます

 北西側の内堀と外堀の間の中提が確認できます

 *県民の森の中を車で走ってみましたが、外には綺麗に草苅などの整備をされている古墳は見附られませんでしたが、道路から古墳の形を確認できるところが数基ありました。

 では、次へ行きましょう



 2024・12・12・10・00
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・M-1号墳」です!!

2024-12-11 06:30:59 | 遺跡・史跡
 「大室古墳群・Mー4号墳と復元住居」を見て、公園の西端の流れ山と小二子古墳の間を北へ戻って来ました

 北駐車場側に大きなモニュメントがあります


 南側から見ず時計のオブジェです

 東側から

 説明プレートです
   水時計のオブジェ
 このモニュメントは、「時の広場」の中心に広場のランドマークとして造ったものです。
 モニュメントのテーマは、史跡の持つ長い時間の経過と市のキャッチフレーズである「水と緑と詩のまち」です。
 多くの人々に親しんでもらえる事を願い、親しみやすいオブジェと水の演出を組み合わせ、ユーモラスな動きを交えた詩情豊かなモニュメントとしてデザインしています。
          平成8年11月設置

 大室古墳群・M-1号墳は、北駐車場のすぐ東側です

 案内図です

 南側から見ました

 説明版ですが、表示内容が読めなくなっています 
   内堀遺跡群 Mー1号古墳 (帆立貝式古墳)
 公園整備に先立ち実施した発掘調査(昭和63年度)の結果に基づき、平成5年度に盛土と芝張りによって往時の姿を想像し再現したものです。
 二列の石張り(鉄平石)は周堀の範囲を表しています。また、この下には発掘調査の終わった古墳がそのままの形で保存されています。
 帆立貝の形をしたこの古墳は、発掘調査の結果、全長は周堀を含め約37m、幅は約39mであることがわかりました。
 墳丘の上部は後世の耕作によって削られていたので、高さや形ははっきりしませんが二段で造られていたようです。
 石室もすでに壊されていましたが、石の跡から両袖型の横穴式石室だったと思われます。
 墳丘からは円筒埴輪や人物、盾持ち人、馬、靫、鞆、鉾、帽子などの形象埴輪などが多数出土しました。
 前・中・後の三二子古墳(国指定史跡)と比べれば小規模ですが、墳丘に数々の埴輪を立ち並べ、威風を誇っていた当時の姿がしのばれます。
 墳丘の下の土や周堀を埋めて土の中の火山灰、また出土遺物等から、6世紀後半に造られたものと思われます。

 南西側から、復元した墳丘にはあちこちに登った跡が深い溝になってしまっています

 西側から

 西北西側から

 北側から、少し北側が高くなっているので、形が分かりやすく思います

 北東側から

 東側から、帆立貝の丸い形ですね

 南東側から見ました

 では、埼玉に戻りましょう
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・Mー4号墳と復元住居」です!!

2024-12-10 18:43:46 | 遺跡・史跡
 次は、Mー4号墳です


 全体模型の南側から南西へ進みます

 北東側の通路出口から石に覆われたMー4号墳が見えました

 北側から回り込むと

 西側からの入り口です

 西側からMー4号墳です

 南側から、葺石に覆われて築成時の様子を再現しています

 東側から、埴輪が並べられています

 竪穴式住居です

 説明です
   竪穴式住居 平成10年8月10日完成
 大室公園内の内堀遺跡の発掘調査により得られた資料をもとに、古墳時代(6世紀)の竪穴式住居を建設しました。
 住居は市内小中学生等を中心とした住居建設体験学習に参加して下さった方々のご協力で完成しました

 高床式倉庫です

 説明です.
   高床式建物 平成11年8月8日完成
 大室古墳群が造られた頃、人々が集団で農業を営んで暮らしていました。
 当時、このような高床式の建物は、ムラの共同倉庫として、大切な種モミの保存などに用いていたと考えられています。
 復元されたこの建物は、夏休みに実施した歴史体験学習の一環として、市内の小中学生のご協力を得て完成したものです。


 平地式住居です

 説明です
   平地式住居 平成12年7月30日完成
 大室古墳群が造られた少し前の時代(今から1600年ほど前)になると、竪穴式住居・高床式建物に加えて、地面を掘り込まない平地式住居が出現します。
 住居としては竪穴式よりすすんだつくりで、冬は竪穴式、夏は平地式に住むというように住み分けることもあったらしいと考えられています。
 この建物は、夏休みに実施した歴史体験学習の一環として、市内の小中学生のご協力を得て完成したものです。
 また、この建物は、中に丸太を使ったイスとテーブルを置き、南半分と東側には壁を取り付けないで、休みながら古代住居エリアが見渡せるように休憩所として機能を持たせました。
         前橋市教育委員会・文化財保護課
 *ここに名を綱れている方々も40代ちなって社会の中心で仕事されていることでしょう

 綺麗なネコさんがいました

 猫に餌を与える人達へのお願いですね

 古民家(旧関根家住宅)は休館日でした

 *12月から3月の間は、土・日・祝日だけ(年末年始は休館)の開館に成っています(4月~11月の休日は月・火・水曜日(祝日を除)です)

 では、北口駐車場の東側のM-1号墳へ行きましょう
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・小二子古墳」です!!

2024-12-10 06:35:45 | 遺跡・史跡
 大室古墳群の北西端の前方後円墳が「小二子古墳」です


 南側の広場から「前橋市指定天然記念物 大室公園のコナラ」です

 南東側から、後方に「小二子古墳」の墳丘が見えています

 説明版です
   前橋市指定天然記念物 大室公園のコナラ
     指定年月日 平成23年3月29日
     所在地   前橋市西大室町2142 大室公園
 本コナラは、小二子古墳の南側で後二子古墳の西にある。コナラ、クヌギ、やムクノキからなる小さな林の南端に位置し、この株の南側は開けた草原になっている。
 株は、地上から0.9mで3本に分かれ、中央の主幹は地上から2.7mでさらに2本に分れている。
 幹周は3本の幹周の合計として610cm(252+215+143cm)、樹高21.5m、根周り8.82m、枝張り、東西25.7m、南北24.5m、であり、虫害の痕跡もなく樹勢は旺盛で葉の数・量とも多く、成長を続けているものとみられる。
 この測定結果は、本件の記録からからみて、県内では幹周の最も大きなコナラに属すると思われる。本コナラが、現在まで存続できたのは、大室古墳群内にあって伐採を免れてきたためであろう。
 コナラは、小二子古墳の周辺や大室古墳群の中に数多く存在しており、大室古墳はこの面でも貴重な場所であると考えられる。
 なお、大室古墳は赤城山の山体崩壊による「流れ山」の存在と貴重な草本も含む平地林として、古墳群とともに保護されるべき存在である。 
            前橋市教育委員会
 *コナラに関しては、このブログの2017年10月23日に「大室公園のコナラです」で紹介させて頂いております、その時にも各古墳も少しだけ紹介していました。


 「小二子古墳」を「後二子古墳」の北西端から見て行きます

 小二子古墳の後円部です

 後二子古墳で表記した「史蹟 後二子古墳並小古墳」の標柱です、した3文字「小古墳」が小二子古墳の事です

 北側から

 西北西側から、墳丘に埴輪が並べられています

 説明版です
   ~埴輪のデパート~ 国指定史跡 小二子古墳
 小二子古墳は、全長38mと小規模ながらも、2段築成の前方後円墳です。
 この古墳は流れ山と後二子古墳に挟まれたせまい空間に造られています。
 後二子古墳と同時期に方向を揃えて造られていることから、後二子古墳とかかわりの深い人物の墳墓であると考えられます。
 石室は、石を抜き去られたために破壊を受けていました。さいわい入り口部分は、壊されずに残されていて、石室のふさいだ状態がよくわかりませんでした。
 石室の前からは、墓前祭祀に用いた土器や火を燃やした跡が見つかりました。こうした様子も復元されています。
 小二子古墳からはたくさんの埴輪が発見されました。人物・馬・家・大刀などの形象埴輪や円筒埴輪は、大きく後円部と前方部の2つのグループに分けられ、設置されています。

 西側から

 前方部に並べられた盾や靫型(矢入れ)埴輪・馬などの象形埴輪です

 馬や人物埴輪です

 武人の埴輪も並んでいます

.後円部の上にも多くの靫型(矢入れ)埴輪や翳・大刀・鞆・朝顔形円筒埴輪などが並んでいます

 説明版です
   小二子古墳 (6世紀後半)
 この古墳は、後二子古墳とともに「史跡後二子古墳並小古墳」の名称で史跡に指定されています。
 墳丘の長さ38mの小前方後円墳で、後二子古墳と西の山の間に向きをそろえてはめ込むように造られています。
 〇後円部の埴輪群
 家形埴輪の周りに翳(さしば)が立ち、その外側に大刀・靫・鞆・盾が取り囲んでいます。
 〇前方部の埴輪群
 盛装の男子・武人・巫女・農夫等の人物や馬・盾・靫が並びます。
 このような埴輪は、下段に置かれることが多く、前方部上に置かれたこの例は珍しいものです。
 〇埴輪の復元
 復元した埴輪の種類と数や位置は、下段の平坦面や周堀に崩落していたものから想定しました。
 埴輪の位置と形の不確かな部分は色を薄くしてあります。
 〇石室
 石室は壊されていましたが、全長6m、奥壁部分で幅1.8m、高さ1.8mの横穴式石室とみられます。
 石室の入り口は石で塞がれ表面は粘土で覆われていました。
 〇墓前のまつり
 後二子古墳と同じように、石室の入り口付近に焼土が二カ所あカ、儀式に使われた土器が出土しました。

 石室入口です

 南東側から

 東南東側から後円部です

 次は、南側の広場を下って南西側の古民家へ行きましょう 
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・後二子古墳」です!!

2024-12-09 20:33:23 | 遺跡・史跡
 「大室古墳群・中二子古墳」に続いて「大室古墳群・後二子古墳」です

 中二子古墳の北西側に位置します、北側の駐車場側から近付きます

 公園案内図です

 北西側に「史蹟 後二子古墳並小古墳」の標柱です

 史跡 後二子古墳(うしろふたごこふん) 昭和2年(1927)4月8日指定
   「埋葬の 儀式を偲ぶ 後二子」
 前・中二子古墳より小さい前方後円墳です。
 墳丘から人・馬・家などの埴輪が出土しています。
 円筒埴輪列の中には親子猿の付いたものもあります。
 造られたのは6世紀後半とみられます。

 北西側から前方部です

 後円部です

  ~巧みな石室造り~ 国指定史跡 後二子古墳
 後二子古墳の石室も前二子古墳と同様に明治11年に開けられました。
 今回の調査によって築造方法にいくつかの工夫がなされていることがわかりました。
 地中を掘って石室を低く造ることで墳丘の盛土を節約しています。
 また石室が低いために地面を掘った通路により出入りが行われました。
 前庭部には、儀式に使われた煮炊きの跡や土器がまとまって出土した様子が復元されています。
 石室は南に開きますが、古墳は北側から見た方が大きく立派に見えます。
 円筒埴輪も、石室の前に復元されているように南側は小さな埴輪が間隔をあけて使われていましたが、北側には大きな埴輪が設置されていました。
 また、円筒埴輪に「親子猿」や「犬」の小像が付けられていました。
 形象埴輪のうち馬形埴輪は、大阪府四天王寺宝物館にある「人が乗る馬形埴輪」と同じ制作者の埴輪であることがわかりました。

 後二子古墳の北側周堀の中提を東へ進み、後円部を見ました

 前方部です

 東側から二段築成の後円部です

 南東側に回り込みました

 後円部南側に石室の入り口です

 説明版です
   史跡 後二子古墳
     横穴式石室
 〇石室の特徴
 死者を葬る玄室を広くした両袖型石室で、大きい石を使っているところに特徴があります。
 玄室は間仕切石で二つに分けられ、奥には遺骸とともに装身具・大刀など、手前には武具・馬具・須恵器が置かれました。
 この石室は墳丘の基壇面を掘り下げて造られ、入口までは基壇面を堀くぼめた墓道がついています。
  副葬品
 ○武具ーーー大刀2振・大刀金具2・小刀2振・鉄鏃若干
 ○装身具ーー金環11個
 ○馬具ーーー轡片
 ○須恵器ーー高杯・提瓶
  石室の比較
 ○石室の長さ、石の大きさ、天井の高さを前二子古墳の石室と比較しましょう。
 後二子古墳ーー6世紀後半ーー石室全長約9.50m、幅2.7m、高さ2.2m
 前二子古墳ーー6世紀初めーー石室全長13.89m、
  円筒埴輪列
 ○墓道両側の埴輪列に違いがあるのはなぜでしょうか。
 墓道西側ーー3・4条突帯まじりの2条突帯埴輪列。
 墓道の右側から並べはじめた大型埴輪が足りなくなったりこわれたりしたため、小型円墳用の小さな埴輪が補充されたのでしょうか。
 墓道東側ーー4条突帯の大型埴輪列
 見晴らしの良い東側から北側にかけて、大型の埴輪を配置することにより、古墳をより壮大にみせようとしたのでしょうか。
  墓前のまつり
 ○奥に見えるのは、石室の入り口前で行われた儀式に使われた土器の一群です。
 土器の特徴からこうした儀式が何回か行われたと考えられます。
 葬られる死者と最後の飲食を共にする儀式が行われたのでしょうか。
 ・土器:土師器(甕・鉢・杯)
    :須恵器(高杯・𤭯(はそう))
 ・鉄器等(小刀・鉄滓(てつさい))
 ・焼土 (火を焚いたあと)
 ○出土した土器(土師器)を特徴から古い順に色分けしました。
 6世紀後半から7世紀前半にかけての土器が見られます。

 東側の大型埴輪列です

 西側の小形の埴輪列です

 石室です

 周堀南側中央から後円部です

 前方部です

 堀底から西側です

 墳丘に上がってみましょう

 前方部です

 後円部です

 後円部頂上から前方部を見ました

 前方部から後円部を見ました

 戻って周堀の南西側から

 西側から前方部と堀を見通しました

 直ぐ右手(西側)の、「小二子古墳」を見てみましょう
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群馬県前橋市、西大室町「大室古墳群・全体模型」です!!

2024-12-09 06:31:38 | 遺跡・史跡
 後二子古墳の南側の広場に古墳の「全体模型」があります

 南側から

 説明です
   大室古墳群
 6世紀頃、赤城南面を代表する古墳が同じ台地の上に並んで造られました。また、すぐ東からは堀と柵で囲まれた豪族の屋敷跡(梅木遺跡)も見つかっています。
 古墳の大きさ・高さ・堀の様子などから前二子古墳から中二子古墳の頃が最も栄えたとみられます。雄大な赤城山を背にくりひろげられた古代人の営みにおもいをはせてみませんか。
 *南から造られた古墳
 赤城南面のゆるやかな台地と河川によって削られた低い谷地が入り組んでいます。
 大形の前方後円墳は西側の台地の上に同じ向きに南から順に造られました。
 ☐生活の場:集落
 台地上には6世紀の集落もあり、発見された35軒ほどの住居跡の中には一辺が10mをこえるものもあります。
 ☐生活の場:水田地域
 東を流れる桂川沿いや南に開けた低い土地では、水田が作られていました。

 東側から

 説明です
   梅木遺跡(5世紀後半から6世紀初め)
 豪族の屋敷跡。一辺65mほどの方形部分の周囲を柵でかこみ、その外側を幅5m、深さ1mほどの堀がめぐります。
 柵列の様子と張り出しがあることから西側にが入口と見られます。屋敷内部は、桂川の氾濫で削られていましたが、日本で最初に発見された三ツ寺Ⅰ遺跡とよく似たつくりです。時期的に、前二子古墳との関係が考えられます。
 △浅間山・榛名山
 西方にある浅間山や榛名山は、今までに大噴火をくり返してきました。
 その時に積もった火山灰との関係で、古墳が造られた時期を知ることができます。
 前二子古墳や中二子古墳の下層から6世紀初頭の榛名山の火山灰層が見つかったことから、古墳が6世紀初頭以降に造られたことがわかります。
 *三ツ寺Ⅰ遺跡推定復元模型(かみつけの里博物館提供)
 群馬町(現高崎市)にある5世紀後半の豪族の屋敷跡。
 内部は、「まつりごと」を行う部分と「くらし」の部分に分かれていたと推定されます。

 北側の説明です
   県内有数の古墳群
 大室の古墳は、6世紀代の三つの大前方後円墳と二つの小前方後円墳、ほかに5基の円墳からなる県内有数の古墳群です。
 これらの古墳は、M-2号墳が竪穴式の小石室のほかは横穴式石室をもちます。

 西側の説明です
 △多田山丘陵
 大室古墳群東方の多田山丘陵には、かつて30基ほどの古墳がありました。
 家形埴輪で有名な赤堀茶臼山古墳(5世紀中頃)や唐三彩の枕が出土した多田山12号墳(7世紀後半)などがあります。
 ☐のちにできた五料沼
 五料沼は、江戸時代に堤を築いてつくられました。
 古墳時代は、北から細い流れが入る谷地でした。
 沼の中からも住居跡が見つかっています。
 △石の山
 古墳の周辺には、赤城山の噴火のなごりの小山がいくつかあります。
 古墳群の北西の山には、古墳の石の掘り取り跡があります。

 公園案内図です

 では、埼玉に帰ることにしましょう


 
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・中二子古墳」です!!

2024-12-08 18:31:06 | 遺跡・史跡
 「大室古墳群・前二子古墳」に続いては「中二子古墳」です

 大室古墳群で一番大きな前方後円墳が中二子古墳です

 大室古墳群南駐車場から西へ進むと中二子古墳の後円部です、手前に外堀、中提を隔てて奥に二段築造の古墳です

 古墳群の案内図です

 「史蹟 中二子古墳」の標柱です

 説明版です
   ~大富豪の栄華~  国指定史跡 中二子古墳
 中二子古墳は、大室古墳群の中で最も大きく立派な古墳です。内堀や中堤、外堀が全周し、墳丘は葺石で覆われ、内堀に工事や儀式のときに通った「わたり」が存在します。
 かつて中堤は新堤沼を造るため、南側を大きく削り取られてしまったため、その部分を復元して中堤が一周している様子を再現しました。復元された中堤の上には、古墳を外敵から警護するために立てられた盾持人埴輪と円筒埴輪が、密接して並べられた様子も復元されています。
 この古墳からは、たくさんの埴輪が出土しましたが、その中から、円筒埴輪に人の顔が小さく表現された珍しい埴輪がみつかりました。日本全国でも数例しかないものです。
 また、形象埴輪のほとんどと円筒埴輪の一部に、海面骨針の化石と結晶片岩の砂粒が入ることから、藤岡市周辺で製作された埴輪が運ばれてきたと考えられています。
 中二子古墳では、石室が見つかっていません。どのような石室に、どのような副葬品が納められているかという謎が残されています。そこで、この古墳は墳丘に立ち入らず、外から見学するようにしてあります。いつの日かその謎が解明される時がくるかもしれません。

 左手(南側)には、前二子古墳です
 
 史跡標柱の所を右(北西)へ進むと、中提への降り口です

 中提から前方部です

 後円部です

 中提の上が遊歩道に成っています、西側から東側を見ました

 古墳の北西側の内堀と中提そして外堀です

 内堀のブリッジと後円部です

 前方部です

 北西側の説明版です
   史跡 中二子古墳 昭和2年(1927)4月8日指定
     「中二子 威容きわだつ 埴輪列」
 大室古墳群の中で最大の前方後円墳です。周りには二重の堀をめぐらしています。
 墳丘や中提上には、密接して並べられた埴輪列が確認されています。
 埋葬施設としては、後円部に横穴式石室が営まれていたと推定されています。
 この古墳が造られたのは6世紀前半とみられます。

 北西側の内堀です

 中提を南へ進むとまた前方部へ渡るブリジットです

 南西側から前方部です、木の大枝が倒れていました

 中提に円筒埴輪が並べられています

 外堀を渡って南西側から中提に並べられた円筒埴輪です

 前方部です、外堀の外側(南側)の遊歩道を東へ進みます

 南東側から前方部を見ましたが、木々のためよく分かりませんね~

 後円部(南側から)も墳丘の様子はよく分かりません

 東側から外堀です

 説明版です
   史跡 中二子古墳
 墳丘の長さは111mで、二重の堀を含めると170mにもなります。
 この大きさや内容から赤城南麓地域を支配していた大豪族の勢力が最も栄えた頃の首長の墓と考えられます。
 ■埴輪
 墳丘の上下の平坦面や中提には、いろいろな形象埴輪やたくさんの円筒埴輪が並べられていました。
 ■中提の復元
 円筒埴輪の間に盾持人と朝顔形埴輪が規則的に配置されていました。これをもとに埴輪列を再現しました。
 ○葺石ーーー二段に築かれた墳丘や中提内側の斜面は山石や河原石で覆われています。
 ■中提複眼前の断面
 中提は6世紀初頭の榛名山の火山灰層の上に土を盛って築かれています。
 このことから古墳は6世紀の前半に造られたことがわかります。

 中提の円筒埴輪を見ました

 次は、五料沼の西側を北へ進んで「後二子古墳」へ行きましょう
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・前二子古墳」です!!

2024-12-08 06:36:10 | 遺跡・史跡
 ここからは、2024年11月25日に群馬県に行った帰りの取材分です

 西大室地区は、前橋市役所の東約12km、前橋市役所大胡支所の南東約6kmのところ

 前橋市役所大胡支所は、以前にも紹介している大胡城址の南側です

 大胡支所前を南へ出て、直ぐの県道34号線を左(東南東)へ、次の「大胡信号」を右(南南西)へ、県道40号線です

 約250mの「宮寺橋西詰」信号を左(南東)へ、県道72号線です、間も無く上毛電鉄の踏切を越えます

 約2.8kmの「下大屋町信号」を左(東)へ、県道76号線です

 約2.8kmで「南口駐車場」の標識を左(北)へ入り、約300mで広い駐車場の西端列に車を止めることが出来ました

 古墳群の案内図です

 南駐車場南側の草むらを通って、住宅沿いの南側の道路を西へ進むと

 前二子古墳の後円部が見えました

 更に西へ進むと道路脇に「史蹟 前二子古墳」標柱です

 説明版です
   黄泉の国へのタイムトラベル
     国指定史跡 前二子古墳
 明治11年に石室が発見されました。狭くて長い石室は、まるで黄泉の国への入り口です。
 石室からは土器、装身具、鏡、金メッキされた馬の飾り金具などの副葬品が出土しました。
 詳しい調査記録から、副葬品の配置状態や日本全国から6000人にものぼる見学者があったことを知ることができます。
 さらに明治13年英国外交官アーネスト・サトウが調査に訪れました。
 調査によって周堀のほかに外提と外周溝があり、上段墳丘に葺石があることがわかりました。
 従来から門や扉があり複雑な構造とされた横穴式石室は、床面に加工された凝灰岩が敷かれ「べんがら」によって赤く塗られていることが分かりました。
 また、円筒埴輪は大室古墳群の中で最も大きなものです。杖形埴輪(石見型埴輪)は遠く離れた奈良県のものと良く似ています。
 出土遺物には従来「四神付飾土器」と呼ばれた装飾器台(須恵器小像付筒形器台)があります。朝鮮半島の南部のものと共通した小像が付けられています。

 北西側から見ました

 西側から

 説明版です
   史跡 前二子古墳 昭和2年(1927)4月8日指定
     「前二子 長い石室 古きあかし」
 大室古墳群で最初に造られた前方後円墳です。この古墳からは円筒埴輪の他に人物・馬・家・大刀・靫・蓋などの埴輪が出土しています。
 特徴的な細長い石室から、武具・馬具・装身具・鏡・土器などたくさんの副葬品が発見されました。
 関東地方で最も古い時期の横穴式石室を持つ6世紀初めの古墳です。 

 西南西側から前方部です

 南西側から

 南側の中提から後円部です

 説明版です
   史跡 前二子古墳 (6世紀初め)
 墳丘の長さ93.7m、後円部の高さ13.6m、周堀と外周溝を含めると148mにもなる。大室古墳群で最初に造られた大前方後円墳です。
 ・墳丘の上段部の葺石部分をササで表現しています。・墳頂部、下段の平坦面、周提上に埴輪列がめぐります。
 〇細くて長い石室
 石室は小ぶりの石で積まれ、玄室と羨道が長いのが特徴です。床面には、加工された凝灰岩の平石が敷かれ、石室はベンガラで赤く塗られています。玄室は扉石を立て閉じられていました。
 これらのことから、関東地方に横穴式石室が取り入れられた最初の頃のものであることがわかります。
 石室全長 13.89m。
 〇形象埴輪
 人物・盾持人(たてもちびと)・馬・家・大刀・靫(ゆき)・蓋(きぬがさ)などがあります。中でも蓋・威杖形埴輪が注目されます。
 〇上毛野氏(かみつけぬ(の)し)の先祖とされる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の墓と言い伝えられた古墳の一つで、古くから大切に保存されてきました。
 明治11年(1878)3月、村人により石室が開かれた際、多くの貴重な副葬品が発見され、記録が残されました。
 主な出土品
 ○武具ーーー鉄鉾・大刀・鉄鏃
 ○馬具ーーー轡・杏葉・鏡板・帯金具
 ○農耕具ーー刀子・斧・鋤・鑿・針
 ○装身具ーー耳環・銀製空玉・管玉・臼玉・ガラス小玉
 ○鏡 ○その他ーーー鉤状金具・釘
 〇出土品は当時の人々の興味をひき、県外からもたくさんの人々が訪れました。
 明治13年(1880)には、イギリスの外交官、アーネスト・サトウもこれを見て、「上野地方の古墳群」(日本アジア紀要8巻3号)で外国にも紹介されました。

 南側に玄室です

 覗いてみましたが奥までは見えません

 墳丘に登って見ました、前方部です

 後円部です

 後円部から前方部を見ました、左奥には八ヶ岳北部の山々、右のマツの間に浅間山が見えました

 後円部から次に廻る中二子古墳を見ましたが、木々に覆われているので、前方後円墳の形が分かりませね

 北側の中段を西側から

 南側の中段を西側から見ました

 南東側に戻って来ました

 次は、中二子古墳を見て回りましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・愛宕山古墳」です!!

2024-12-07 18:48:00 | 遺跡・史跡
 愛宕山古墳は、博物館入口の県道77号古墳通りの北側に接しています

 駐車場にも、博物館にも近いのですが、最後に成りました


 博物館への県道からの入り口です

 さきたま古墳庚園案内図です

 南西側県道77号古墳通り南側から愛宕山古墳です

 発掘調査が行われていますが

 本日はお休みでブルーシートが掛けられています、位置的には外堀の部分です

 西側から前方部です


 北西側から

 北側から

 説明版です
   愛宕山古墳
 全長53m、埼玉古墳群の中でもっとも小さな前方後円墳です。
 最小ではありますうが、他の前方後円墳と同じく、周囲には長方形の堀が二重に巡ることが、発掘調査により確認されました。
 墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の大きさ、副葬品の内容など詳しいことはまだ分かっていません。
 出土した遺物は、円筒埴輪のほか、人物・大刀・盾・蓋(きぬがさ:貴人の傘)などを表現した象形埴輪があります。
 円筒埴輪は、高さ40cm前後で、他の古墳に比べ小さいのが特徴です。
 古墳の造られた時期は、出土した遺物から6世紀前半と推定されています。
         平成21年(2009年)3月    埼玉県教育委員会

 *さきたま史跡の博物館のホームページでは、墳丘長54.7mとなっています。また、墳丘上に愛宕神社があったようです。

 北東側の丸墓山への遊歩道わきには「臨済宗 妙心寺派 海東山 天祥禅寺」山門です

 築地塀に説明版です
   天祥寺由来
 旧藩時代大名の数、270余藩というが、10万石以上は50余のみ、而も大名格の溜間詰は最高の格式にして、井伊大老、松平下総守外6家に過ぎず、御三家、加賀100万石より上位なり。
 初代忠明公は家康の外孫、初代唯一の大阪城主として大阪復興にあたり、後に姫路城主となり西国探題の名君たり。
 天祥院殿と法名す。即ち天祥寺開基、京都妙心寺に現存する塔頭、天祥寺の本寺たり。
 9代忠尭公、桑名より忍に移封、天祥寺を今の埼玉に建立、11代名君忠国公、12代忠誠公の3君、この蛍城の地下に眠る。
 近時、この地、風土記の丘と称し、古墳群を埼玉県名発祥の地として自然公園とす。
 現在松平家の墓所は、行田市の文化財に指定を受けた目下大方の檀家のご協力を得、伽藍建立途上にあります。


 では、今回の取材は終わりにして、自宅へ帰ります
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埼玉県行田市、埼玉「さきたま史跡の博物館・国宝常設展示」です!!

2024-12-07 06:38:20 | 遺跡・史跡
 さきたま史跡の博物館は、久しぶりの訪問でした、常設展示も変化しています

 常設展示場入口です

 右側から展示を順に観て行きましょう

 趣旨説明です
   展示趣旨
 埼玉県発祥の地、行田市埼玉に所在する埼玉古墳群は、大型前方後円墳を中心に密集して築造されており、全国でも稀有な例として、昭和13年、国指定史跡となりました。
 その後、「さきたま風土記の丘」建設事業において整備を進め、現在では博物館を中核にした史跡公園として整備されております。
 稲荷山古墳はこの整備計画に基づいて、昭和43年8月に墳丘の発掘調査が行われ、後円部から礫槨と粘土槨の2基の埋葬施設が検出されました。
 そして、10年後の昭和53年には、礫槨から出土した鉄製品の保存処理中に、一振りの鉄剣から115文字の金象嵌の銘文が発見され、「100年に一度の大発見」として大きなニュースになりました。
 その内容は、日本古代国家成立に貴重な手掛かりとなる大一級資料であり、昭和58年には出土品が国宝「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」として指定されております。
 本展示室では、この稲荷山古墳の主体部からの出土品を中心に公開するものです。
 被葬者とともに副葬されていた辛亥年(西暦471年)銘を刻む国宝の金錯銘鉄剣をはじめ、鏡などの装身具・武器・馬具・工具などの指定品を列品しております。
 また、周堀内から出土した円筒埴輪や冑をかぶった武人、巫女などの人物埴輪、盾などの器材埴輪、動物埴輪などのほか須恵器等を紹介いたします。
 さらに、将軍山古墳をはじめ、他の古墳からの出土品も併せて公開しております。
 埼玉県の至宝になっている古墳時代の優品としての考古遺物をご覧いただければと存じます。

 古墳の年代別大きさ別の表示です

 国宝から順に観て行きます、まずは

 稲荷山古墳出土の鉄剣です

 稲荷山古墳の説明です
    稲荷山古墳
 埼玉古墳群で最初に造られた古墳(5世紀後半)です。全長120mを誇り当時の埼玉県域では最大の前方後円墳です。
 昭和12年には前方部を土取りされてしまいましたが、平成16年には復元されました。
 昭和43年には、史跡整備に伴う発掘調査が行われ、2基の埋葬施設を後円部で確認しました。
 西寄りの埋葬施設は、古墳の主軸に沿って川原石を舟のような形に積み上げた「礫槨」であり、南寄りのものは素掘りの墓穴でした。棺は大木を半割にして刳り抜いた木棺だと考えられます。
 前者を「礫槨木棺墓」、後者を「木棺直葬墓」と呼びます。
 礫槨木棺墓からは、金錯銘鉄剣の他、帯金具・武器・武具・馬具などが出土しました。これらは、一括して国宝に指定されました。
 木棺直葬墓は、棺を粘土で固定していました。本墓は盗掘されており、わずかに鉄鏃片が確認されただけでした。

 埋葬施設案内と鉄剣です

 帯金具と天冠です

 帯金具と鉄剣です

 金銘鉄剣説明と鉄鏃展示です

 武器・武具です

 珪甲(甲冑状の武具)の展示です

 馬具です

 画文帯環状乳神獣鏡の展示です

 鉄製工具の展示です

 崎玉古墳群出土の土器の展示です

 鉄剣の展示ケースが変更に成っています

 説明です
   スペシャルスポット展示「金錯銘鉄剣ものがたり」
 当館では金錯銘鉄剣をより安全な保管環境で展示公開するために、所有者である文化庁の指導のもと、これまで長年使用してきた展示ケースに換えて、新たな展示ケースを設置することになりました。
 それまでの間、金錯銘鉄剣は窒素ガスを封入し、当館の特別収蔵庫内で保管されます。
 金錯銘鉄剣が、新たな展示ケースで再び展示されるようになるまでの間、ここでは、金錯銘鉄剣が発掘されてから現在に至までの主な出来事を紹介するスペシャルスポット展示「金錯銘鉄剣ものがたり」を開催いたします。
 金錯銘鉄剣が発見され、現在の姿となって展示公開されるまでには様々な経緯がありました。
 始まりはいまから56年前の稲荷山古墳の発掘です。鉄剣は盗掘を免れた礫槨からの副葬品の一つとして出土しました。
 そして発掘から10年後、保存処理の作業中に金象嵌の文字が発見されたことは、古代史研究上の大発見として世間を騒がせました。金象嵌文字の発見から5年後には国宝に指定されました。
 本展示では、金錯銘鉄剣の紹介とともに、鉄剣が発見されてからの主な出来事を「稲荷山古墳の発掘」、「金象嵌文字の発見と保存処理」、「金錯銘鉄剣の公開と科学分析」として紹介いたします。


 金錯銘鉄剣の展示です

 稲荷山古墳から出土した埴輪の展示です

 金錯銘鉄剣の発見された稲荷山古墳の説明です

 稲荷山古墳出土の人物埴輪について

 形象埴輪について


 円筒埴輪の展示です

 説明です
   稲荷山古墳出土の円筒埴輪
    〈墳丘を囲み守る装置〉
 円筒埴輪は弥生時代の墓に供えられた壷をのせる筒状の土製の台(器台)が源です。
 稲荷山古墳では立てられた位置をとどめるものはほとんどありませんが、墳丘上や墳丘裾の平坦部、中提や造出し上に、すき間なくたてられていたと推定され、こわれて破片となった埴輪が墳丘や周堀から大量に出土しています。
 使われた粘土の種類で焼き上がりの色が違うのは、生産地(生産した工人集団)の違いによるものと思われます。
 灰白色のものは5~6条の凸帯(帯)を持ち、しっかりとした作りの大型品で、半円形のスカシがあります。
 外面には縦方向にハケメ(スジ状の仕上げ痕)があり、一部には古い技法の横方向のハケメが施されています。
 その他の赤褐色や橙色のものは大型品のほかに3~4条凸帯の小形品があり、やや雑に製作されています。
 

 二子山古墳出土の須恵器の杯と土師器の高杯の展示です

 小円墳郡からの出土品です

 二子山古墳出土の円筒埴輪の展示です

 全国銘文刀剣の展示です

 金錯銘鉄剣のパネルです

 家形埴輪と琴を弾く男性埴輪です、左側の女性埴輪は、前回の企画展示に出張中です

 動物埴輪(水鳥埴輪)と瓦塚古墳出土の盾持埴輪です

 稲荷山古墳の竪穴式石室と将軍山古墳の横穴式石室の比較展示です

 馬冑の展示です

 大きな須恵器の壷の展示です

 鉄砲山古墳出土の埴輪の展示です

 最後は円筒埴輪の比較展示です

 では、博物館を出て、最後に残った「愛宕山古墳」に行きましょう

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埼玉県行田市、埼玉「さきたま史跡の博物館・企画展示古墳時代の装い」です!!

2024-12-06 19:27:53 | 遺跡・史跡
 埼玉県立さきたま歴史の博物館は、この日は「埼玉県民の日」で、無料で観覧出来ました

 (通常一般は200円・高校生100円で、将軍山展示館も見る事が出来ます)

 駐車場側からの通路です

 「埼玉県立さきたま歴史の博物館」まで150mです

 埼玉県の名前の石碑です

 由来の文面です
   埼玉県名の由来
 明治4年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設定するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。
 以後、幾度かの変遷を経て、明治9年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。
 「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
 埼玉郡は、律令による國郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉(さきたま)郡という表示も行われ、正倉院文書神亀3年(726)の山背(やましろ)国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見られる。また、延喜式神名帳も埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
 ここ行田市埼玉(さきたま)の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て県名発祥の記念とする。
      昭和62年4月    埼玉県

 博物館入口です

 埼玉の日の催し物として博物館前の通路では「火起こし体験」が行われていました

 左手に「古墳時代の装い」の企画展示です

 ロビーの航空写真です

 埼玉県内の国・県史跡の図の中に、埼玉古墳公園は特別史跡に指定されています
   埼玉県の史跡
 県内に約11000か所ある古墳や城跡などの遺跡のうち、特に価値の高いものを、国や県では、それぞれ「史跡」に指定して保護しています。
 さらに、国が指定する史跡のなかでも、学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴とされる史跡は、特別史跡に指定されています。
 また、2023年からは国の史跡に相当する遺跡が「指定相当の埋蔵文化財」として認定、公表されています。
   埼玉県内史跡数(2024年3月31日現在)
 国指定史跡 25、うち特別史跡1、県指定史跡105、国指定相当埋蔵文化財1
 *国指定相当埋蔵文化財の1か所は、最近なにかと話題になっている北本市の「デーノタメ遺跡」です

 企画展展示場の中心には古墳時代の衣装です

 埴輪を見る上での注意点です(*展示を見る上で重要な内容ですね)
   人物埴輪から古墳時代の「装い」を考える際の注意点
 古墳時代とは、前方後円墳を代表とする、土を高く盛り上げたお墓(古墳)が多く造られた3世紀中頃から7世紀の間を指します。
 この時代の「おしゃれ」や「装い」を考える手がかりとして、人物埴輪があげられます。
 人物埴輪は人物を模して作られた埴輪で、髪型や衣服、装身具などの表現があり、絵画や文字資料がほとんどない古墳時代の「装い」を復元する際にはいくつかの注意が必要です
 ①人物埴輪の出現時期
 人物埴輪は古墳時代の中頃(5世紀)から作られるようになりました。
 それ以降の古墳時代前期(3世紀中頃~4世紀代)には、人物を模した考古資料はほとんどなく、「装い」に関する情報が非常に少ない状況です。
 本展示でも紹介する資料の大半が、古墳時代中期から後期のものに成ります
 ②人物埴輪の意味
 人物埴輪の意味については様々な説がありますが(首長権継承儀礼説、死後の近習説など)、どの説でも人物埴輪は古墳時代のごく一部の人々、基本的には首長とその周辺の人々を表現していると考えられています。
 さらに、彼らの日常生活というよりは、特殊な場面を切り取って表現した可能性が高いとされています。
 ③人物埴輪の表現技法
 埴輪は粘土を成形して焼き上げて作るため、表現を省略、抽象化、誇張する傾向があります。
 さらに人物埴輪には上半身と下半身の両方を表現する「全身像」と上半身のみを表現する「半身像」があります。
 「半身像」の埴輪の方が多いため、下衣や沓の表現などの下半身の「装い」に関する情報は少ない状況にあります。

 右側の壁面から順に見て行きました、女子埴輪です

 説明です
   女子埴輪  伝東松山市 三千塚古墳群出土  個人蔵
 髷や櫛を挿し、首や腕には玉飾りを着けています(脚の玉飾りは推定復元)。
 耳の位置に貼り付けられた円環状の粘土は耳環と呼ばれる耳飾りの表現です。
 右肩から左脇にかけた袈裟状の布やその下げ緒には曲線や直線の赤彩で文様が表現されています。
 非常に「おしゃれ」な女性埴輪といえるでしょう。

 男子埴輪です

 説明です
   男子埴輪  伝美里町出土   さきたま史跡の博物館 所蔵
 男子の前身像で、上衣と下衣が表現されています。
 鈴を付けた太い帯を胴部に締め、身体の中央に太刀をさげた姿から、身分の高い人物を表現していると考えられます。
 腕には籠手を着け、左の腰には鞆(左手首の内側につけて弓の弦が腕に当たるのを防ぐ道具)が表現されています。
  *頭部は復元

 馬形埴輪です

 説明です
   馬形埴輪  熊谷市 北島遺跡第5号墳出土  埼玉県教育委員会 所蔵
 日本列島では、古墳時代の中期に馬が伝わったと考えられており、馬を模した馬形埴輪が出土しています。
 馬形埴輪の多くは馬に乗るための実用的な道具(鞍や鐙など)以外にも多くの装飾品が表現されており、実際にきらびやかな馬具が多く出土しています。
 また、鬣を髷状に結った表現もよく見られ、馬の全身が「おしゃれ」に飾り立てられていた様子が想像できます。


 農夫埴輪です

 説明です
   農夫埴輪  伝熊谷市東別府出土  さきたま歴史の博物館 所蔵
 笠を被り、鍬を担いで腰には細い帯を締め、帯からは鎌をさげています。
 一見、素朴な農夫を表現しているように見えますが、耳には耳環をつけています。
 「果たして農夫が耳飾りをつけるのか?」と研究者の興味を引く埴輪です。


 ヘアスタイルについての展示です

 かぶり物コレクションです

 入れ墨や化粧の展示です

 古墳時代のファッション展示です

 女性埴輪のファッションです

 古墳時代のアクセサリーです

 耳飾りの展示です

 最後の展示は、勾玉や黄金アクセサリーです

 では、常設展示場(国宝展示場)へ行きましょう
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