八多喜町甲地区は、大洲市役所の北約6kmのところ
大洲市役所東側の国道56号線を北から北東へ進みます
約3.2kmの「⇐長浜・県道24号線」の標識に従って左(北)へ、肱川右岸沿いを下って行くように進みます
約5.6kmの「八多喜駅・県道248号線⇒」の標識に従って、信号を右(東)へ、予讃線の踏切を渡ります

道成に約200mで大洲警察署 八多喜駐在所前に

聖臨寺の寺号標が立っています

左(北北西)に参道を入り太鼓橋状の橋をわたると

大洲市立粟津小学校の校庭に入りました
車が止まっていましたので、並べて
車を止めさせて頂きました



目的のイチョウは扇方の階段の先です



まずは道路を西(左)へ行って西側から



南側から

説明版です
大洲市指定天然記念物 八多喜のイチョウ
根回り8.8m、目通り周6.5m、樹高約34m、枝張り東西に20m、南北に15m、推定樹齢400年
本樹のある聖臨寺(しょうりんじ)は、弘仁年間(810~824)に弘法大師が四国各地を巡行した際、この地に草堂を建てたことに始まるとされる。
この寺の山門登り口にある本樹は、落葉広葉の高木で毎年多くの実を付ける雌木である。
幹は真っ直ぐに立ち、枝は上向きに伸びるものの、枝先の小枝は下向きに垂れているため、紅葉の際には枝が釣り竿のように撓っているように見える。
本樹は、市内のイチョウの中で夫も高く八多喜町の中でもひときわ目立つことからもシンボル的な樹木となっている。
指定年月日 昭和31年9月30日指定 大洲市教育委員会



南東側から

東向きに聖臨寺の参道です

境内には「四国八十八霊場」の本尊が祀られています



北東側から



参道を少し上って北西側から

山門です



山門前から

山門を潜った境内です

右手に手水舎です

お大師様です

鐘楼です

大きな宝篋印塔です

本堂です

説明版です
高野山 真言宗 聖臨寺縁起
当寺の縁起によれば、当山は熊野権現降神の旧跡にして、四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)相応の霊地として、平安初期、嵯峨天皇の御世、弘仁年間(810~824)に弘法大師空海四国霊場巡錫の折、此地に草堂を建立、本尊、無量寿如来、毘沙門天王等を彫み、大師所有の仏舎利を安置し、諸仏と共に勧請され、山号を熊野山、寺名を松林寺と号した。
当寺は、祇園神社の別当寺として神仏混合の密教的な役割を果し、大師開創以来、室町中期までの記録は不明であるが、般若心経疏(寿永2年:1183年)伝法潅頂許可書(嘉元2年:1304年)伝法潅頂、金剛界許可書(元応2年:1320年)他、永正、天文、天正、時代の諸作法次第等が残されている。
当寺、中興の祖である快憲法師(文明13年没:1481年)によって再建された。
江戸期に入って享保年間(1716年~1736年)この地方も大干魃にみまわれ、大洲城主より、当時住職であった俊応上人に加持祈祷を仰せつけられ、(丸山)寺山山頂にて、龍王権現に雨乞いの秘法を修し、霊験を得てこの地方の干魃は免れたと言われ、その功により大洲城主尊信のもとに明治に至るまで藩内、庄屋中より毎年20石を年頭に納められていた。
この行事の一部が現在の稲荷祭である。
また、俊応上人は延享4年(1747年)当寺において密教の重要な儀式である結縁潅頂が行れ、帰信者数14056人と記されている。
その後、天明2年(1782年)に山号を水精山、寺号を聖臨寺に改められた。当寺は江戸期までは、高野山の金剛三味院の末寺であったが、明治より高野山金剛峯寺の末寺となって今日に及んでいる。
大正8年18世諦然上人代本堂、位牌堂が再建されたが、昭和18年7月の集中豪雨のため裏山の土砂災害もより、25年にして倒壊し、本尊、諸仏は庫裡に移し仮本堂として、19世諦融上人代の昭和31年に屋根替、大改修が行われた。
その後、昭和59年が弘法大師御入定1150年に当るため御遠忌の事業として、本堂、位牌堂、再建に第信徒の浄財を以て、10年の歳月をかけ昭和61年5月3日に落慶を迎えた。
寺山(丸山)の山頂には龍王権現が祀られいて、その横には、昭和18年に建てられた慰霊塔があり、日清、日露、太平洋戦争の戦没者(八多喜、米津、手成)110柱が祀られている。
以前、山門に釣られていた梵鐘は、寛文5年((1665年)に鎌田九左門が、元、祇園神社に奉納されていたもので、明治の廃仏毀釈の難に遇い当寺へ移されたが、太平洋戦争中昭和18年に国の令により供出された。その後、昭和51年8月8日に檀信徒の浄財により、梵鐘、鐘楼堂が建立され現在に至っている。
聖臨寺現住20世 諦光代 (以下略)

境内社の稲荷社です

境内からイチョウの樹冠が見えました
では、次へ行きましょう

2025・4・12・15・30
大洲市役所東側の国道56号線を北から北東へ進みます
約3.2kmの「⇐長浜・県道24号線」の標識に従って左(北)へ、肱川右岸沿いを下って行くように進みます
約5.6kmの「八多喜駅・県道248号線⇒」の標識に従って、信号を右(東)へ、予讃線の踏切を渡ります

道成に約200mで大洲警察署 八多喜駐在所前に


聖臨寺の寺号標が立っています


左(北北西)に参道を入り太鼓橋状の橋をわたると


大洲市立粟津小学校の校庭に入りました

車が止まっていましたので、並べて




目的のイチョウは扇方の階段の先です




まずは道路を西(左)へ行って西側から




南側から


説明版です
大洲市指定天然記念物 八多喜のイチョウ
根回り8.8m、目通り周6.5m、樹高約34m、枝張り東西に20m、南北に15m、推定樹齢400年
本樹のある聖臨寺(しょうりんじ)は、弘仁年間(810~824)に弘法大師が四国各地を巡行した際、この地に草堂を建てたことに始まるとされる。
この寺の山門登り口にある本樹は、落葉広葉の高木で毎年多くの実を付ける雌木である。
幹は真っ直ぐに立ち、枝は上向きに伸びるものの、枝先の小枝は下向きに垂れているため、紅葉の際には枝が釣り竿のように撓っているように見える。
本樹は、市内のイチョウの中で夫も高く八多喜町の中でもひときわ目立つことからもシンボル的な樹木となっている。
指定年月日 昭和31年9月30日指定 大洲市教育委員会



南東側から


東向きに聖臨寺の参道です


境内には「四国八十八霊場」の本尊が祀られています




北東側から




参道を少し上って北西側から


山門です




山門前から


山門を潜った境内です


右手に手水舎です


お大師様です


鐘楼です


大きな宝篋印塔です


本堂です


説明版です
高野山 真言宗 聖臨寺縁起
当寺の縁起によれば、当山は熊野権現降神の旧跡にして、四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)相応の霊地として、平安初期、嵯峨天皇の御世、弘仁年間(810~824)に弘法大師空海四国霊場巡錫の折、此地に草堂を建立、本尊、無量寿如来、毘沙門天王等を彫み、大師所有の仏舎利を安置し、諸仏と共に勧請され、山号を熊野山、寺名を松林寺と号した。
当寺は、祇園神社の別当寺として神仏混合の密教的な役割を果し、大師開創以来、室町中期までの記録は不明であるが、般若心経疏(寿永2年:1183年)伝法潅頂許可書(嘉元2年:1304年)伝法潅頂、金剛界許可書(元応2年:1320年)他、永正、天文、天正、時代の諸作法次第等が残されている。
当寺、中興の祖である快憲法師(文明13年没:1481年)によって再建された。
江戸期に入って享保年間(1716年~1736年)この地方も大干魃にみまわれ、大洲城主より、当時住職であった俊応上人に加持祈祷を仰せつけられ、(丸山)寺山山頂にて、龍王権現に雨乞いの秘法を修し、霊験を得てこの地方の干魃は免れたと言われ、その功により大洲城主尊信のもとに明治に至るまで藩内、庄屋中より毎年20石を年頭に納められていた。
この行事の一部が現在の稲荷祭である。
また、俊応上人は延享4年(1747年)当寺において密教の重要な儀式である結縁潅頂が行れ、帰信者数14056人と記されている。
その後、天明2年(1782年)に山号を水精山、寺号を聖臨寺に改められた。当寺は江戸期までは、高野山の金剛三味院の末寺であったが、明治より高野山金剛峯寺の末寺となって今日に及んでいる。
大正8年18世諦然上人代本堂、位牌堂が再建されたが、昭和18年7月の集中豪雨のため裏山の土砂災害もより、25年にして倒壊し、本尊、諸仏は庫裡に移し仮本堂として、19世諦融上人代の昭和31年に屋根替、大改修が行われた。
その後、昭和59年が弘法大師御入定1150年に当るため御遠忌の事業として、本堂、位牌堂、再建に第信徒の浄財を以て、10年の歳月をかけ昭和61年5月3日に落慶を迎えた。
寺山(丸山)の山頂には龍王権現が祀られいて、その横には、昭和18年に建てられた慰霊塔があり、日清、日露、太平洋戦争の戦没者(八多喜、米津、手成)110柱が祀られている。
以前、山門に釣られていた梵鐘は、寛文5年((1665年)に鎌田九左門が、元、祇園神社に奉納されていたもので、明治の廃仏毀釈の難に遇い当寺へ移されたが、太平洋戦争中昭和18年に国の令により供出された。その後、昭和51年8月8日に檀信徒の浄財により、梵鐘、鐘楼堂が建立され現在に至っている。
聖臨寺現住20世 諦光代 (以下略)

境内社の稲荷社です


境内からイチョウの樹冠が見えました

では、次へ行きましょう


2025・4・12・15・30