今滝地区は、掛川市役所の南約11km、掛川市役所大東支所の北西約7kmのところ
掛川市役所大東支所南側の県道372号線を西北西へ進みます、「大坂」信号からは県道69号線となります
約1.2kmのガソリンスタンドのある信号を右(北)へ
約900mのソウラ―発電の先の交差点を左(西)へ
道成りに約4.7kmで横断歩道の手前を左(西南西)へ入ります
道成りに進むと約300mで前方の寺院入口脇の擁壁の上に大きな「今瀧寺」の文字が見ました(こちらに本堂の観音堂や松鐘楼があります)
しかし目的地は、この建物の北側にあります、大きな文字の前を過ぎて交差点の西側に

目的の門の形に成形されたマキが見えました

南東向きの参道です
参道左手に駐車場に
車を止めさせて頂きました

山門替わりのマキが両側から樹冠を繋げて成形されています

今瀧寺の寺号標です

左側(南西側)の幹です

右側(北東側)の幹です

「市指定天然記念物 今瀧寺のマキ」の標柱です

境内右手にもう一つの目的のソテツです

「市指定天然記念物 今瀧寺のソテツ」の標柱です

南西側からみましたが、葉が無くなってしまっていました

客殿(持仏堂)です
観音像です
*今瀧寺ホームページによると
本寺は縁起によれば奈良時代の初めの729年、天平元年聖武天王勅願、行基による創建です。
養老年間の少し前から行基菩薩がこの地を巡り、数々の教化事業を行い、小笠山を挟み法多山と背中合わせで山深く泉湧くこの地を霊場に見立て、一宇の精舎を建て説法をされたのが始めだったと遠江風土記に伝えられています。
今瀧寺は古くは正瀧寺と称していました。元久元年(1204)今瀧寺の全身正瀧寺十二坊観音堂が建立され、元和元年(1615)現在の今瀧寺と改称されました。
本寺は真言密教の道場として繁栄し多くの信者を集めました。
元和8年(1622)当地の人々により再興され、二度と戦火で人材を失うことのなきよう安産を祈願、祈願布を筒にし、祈願成就には底を縫ってお礼参りをする習慣が生まれ、今日に続いています。・・・とのことです
山号は如意輪山、寺名が今瀧寺、宗派は高野山真言宗、本尊は如意輪観世音菩薩です。
遠江三十三観音霊場第三十二番札所・遠州小笠郡南部新四国八十八ヶ所霊場第七十四番札所ともなっています。
では、次へ行きましょう

2025・3・1・11・30
掛川市役所大東支所南側の県道372号線を西北西へ進みます、「大坂」信号からは県道69号線となります
約1.2kmのガソリンスタンドのある信号を右(北)へ
約900mのソウラ―発電の先の交差点を左(西)へ
道成りに約4.7kmで横断歩道の手前を左(西南西)へ入ります
道成りに進むと約300mで前方の寺院入口脇の擁壁の上に大きな「今瀧寺」の文字が見ました(こちらに本堂の観音堂や松鐘楼があります)
しかし目的地は、この建物の北側にあります、大きな文字の前を過ぎて交差点の西側に

目的の門の形に成形されたマキが見えました


南東向きの参道です

参道左手に駐車場に


山門替わりのマキが両側から樹冠を繋げて成形されています


今瀧寺の寺号標です


左側(南西側)の幹です


右側(北東側)の幹です


「市指定天然記念物 今瀧寺のマキ」の標柱です


境内右手にもう一つの目的のソテツです


「市指定天然記念物 今瀧寺のソテツ」の標柱です


南西側からみましたが、葉が無くなってしまっていました


客殿(持仏堂)です


観音像です

*今瀧寺ホームページによると
本寺は縁起によれば奈良時代の初めの729年、天平元年聖武天王勅願、行基による創建です。
養老年間の少し前から行基菩薩がこの地を巡り、数々の教化事業を行い、小笠山を挟み法多山と背中合わせで山深く泉湧くこの地を霊場に見立て、一宇の精舎を建て説法をされたのが始めだったと遠江風土記に伝えられています。
今瀧寺は古くは正瀧寺と称していました。元久元年(1204)今瀧寺の全身正瀧寺十二坊観音堂が建立され、元和元年(1615)現在の今瀧寺と改称されました。
本寺は真言密教の道場として繁栄し多くの信者を集めました。
元和8年(1622)当地の人々により再興され、二度と戦火で人材を失うことのなきよう安産を祈願、祈願布を筒にし、祈願成就には底を縫ってお礼参りをする習慣が生まれ、今日に続いています。・・・とのことです
山号は如意輪山、寺名が今瀧寺、宗派は高野山真言宗、本尊は如意輪観世音菩薩です。
遠江三十三観音霊場第三十二番札所・遠州小笠郡南部新四国八十八ヶ所霊場第七十四番札所ともなっています。
では、次へ行きましょう


2025・3・1・11・30