今回の曽我寺は、「曽我兄弟の仇討ち」で有名な曽我兄弟の墓所です
久沢地区は、富士市役所の北西約4kmのところ
富士市役所南側の青葉通りを東へ、直ぐの「錦町」信号を左(北)へ、国道139号線です
道成りに緩く左にカーブするように進み、約1.7kmで富士ICを過ぎると、県道414号線となり北西へ進みます
約2.6kmの「厚原西」信号を過ぎた右手の「愛鷹神社」の前で左(南西)へ入ります
また直ぐ右へ「曽我寺」の案内板がありますので、これが参道です

間も無く東南東向きの山門が見えました
山門前の道路脇に
車を止めさせて頂きました

山門です

「曽我寺」寺号標です

「曽我兄弟廟所」の石柱です

境内に入ると「曽我兄弟」遺跡案内図と説明版です
曽我兄弟墓所
ここは曽我兄弟((十郎・五郎)が葬られている。
今から凡そ800年前の建久4年(1193年)5月28日夜、冨士宮の白糸の滝の近くで、親の仇 工藤祐経を討ちとっている。
兄弟の父 祐泰が祐経の手下大見ノ小藤太と八幡ノ三郎の二人に、暗討ちで殺されてから18年目に成しとげた仇討ちであった。
兄十郎(21才)はその場で討たれ、弟五郎(19才)は捕らえられ、鎌倉に護送の途中ここより北方約500mの地で、祐経の子に首をはねられた。
首洗井戸はそのすぐ南にあり、遺骸はここに葬られたと伝えられている。
兄弟の美談が今も尚語り伝えられ、供養が現在も続けられているのは、その親子愛、兄弟愛、目的達成の努力心が私共日本人の心に共感するものがあるからである。
昭和57年5月28日 鷹岳岳曽我兄弟奉参会

参道を進みます

右手にお地蔵様が並んでいます

曽我兄弟墓所です

曽我兄弟像です


目的のカヤは、曽我兄弟墓所の北側です


南西側から



西側から見ました

説明版です
曽我寺
建久4年(1193)5月、幼少の頃に父を暗殺された曽我十郎祐成・五郎時致兄弟が、父の仇であり、時の将軍・源頼朝の側近である工藤祐経を、富士の裾野で行われた巻狩り(狩猟)に乗じて殺害するという事件が起こります。
その後、鎌倉時代から室町時代にかけて「恩に報いる(報恩)」といった、仏教の教えを広く伝えるための題材の一つとして、この事件のいきさつや兄弟の生涯を記した「曽我物語」が成立したとされます。
また、「曽我物語」は、幸若舞や謡曲、浄瑠璃、歌舞伎といった芸能の題材として採用され、人々の間に広く知られるようになりました。
それとともに、曽我兄弟ゆかりのある場所には多くの人々が訪れるようになり、史跡として現代に受け継がれています。
曽我寺(鷹岳山福泉寺)は、そうした史跡の一つで、境内には兄弟の墓、本堂には兄弟に木像と位牌が安置されています。
また、かつては境内に、実を割ると木瓜の形に見えるという柿の木があり、瘧(マラリアの一種)の治療に効果があるとされ、重宝したといいます。
富士市指定天然記念物
曽我寺のカヤ・シイ
指定年月日 昭和45年12月21日
カヤ・・・樹高 約25m、目通り 約3.8m
参道右側にあり、樹勢良好でその姿は美しい。
シイ・・・樹高 約20m、目通り 約4,2m
本堂の裏にあり、相当の老木であるが、枝葉はよく茂る。
令和2年5月 富士市教育委員会

本堂です

天然記念物は境内北側にあるようですので行ってみました



大きなシイの木をミリ事が出来ましたが、木材が積まれていてこれ以上近付けませんでした
では、次へ行きましょう

2025・2・28・13・00
久沢地区は、富士市役所の北西約4kmのところ
富士市役所南側の青葉通りを東へ、直ぐの「錦町」信号を左(北)へ、国道139号線です
道成りに緩く左にカーブするように進み、約1.7kmで富士ICを過ぎると、県道414号線となり北西へ進みます
約2.6kmの「厚原西」信号を過ぎた右手の「愛鷹神社」の前で左(南西)へ入ります
また直ぐ右へ「曽我寺」の案内板がありますので、これが参道です

間も無く東南東向きの山門が見えました

山門前の道路脇に


山門です


「曽我寺」寺号標です


「曽我兄弟廟所」の石柱です


境内に入ると「曽我兄弟」遺跡案内図と説明版です
曽我兄弟墓所
ここは曽我兄弟((十郎・五郎)が葬られている。
今から凡そ800年前の建久4年(1193年)5月28日夜、冨士宮の白糸の滝の近くで、親の仇 工藤祐経を討ちとっている。
兄弟の父 祐泰が祐経の手下大見ノ小藤太と八幡ノ三郎の二人に、暗討ちで殺されてから18年目に成しとげた仇討ちであった。
兄十郎(21才)はその場で討たれ、弟五郎(19才)は捕らえられ、鎌倉に護送の途中ここより北方約500mの地で、祐経の子に首をはねられた。
首洗井戸はそのすぐ南にあり、遺骸はここに葬られたと伝えられている。
兄弟の美談が今も尚語り伝えられ、供養が現在も続けられているのは、その親子愛、兄弟愛、目的達成の努力心が私共日本人の心に共感するものがあるからである。
昭和57年5月28日 鷹岳岳曽我兄弟奉参会

参道を進みます


右手にお地蔵様が並んでいます


曽我兄弟墓所です


曽我兄弟像です



目的のカヤは、曽我兄弟墓所の北側です



南西側から




西側から見ました


説明版です
曽我寺
建久4年(1193)5月、幼少の頃に父を暗殺された曽我十郎祐成・五郎時致兄弟が、父の仇であり、時の将軍・源頼朝の側近である工藤祐経を、富士の裾野で行われた巻狩り(狩猟)に乗じて殺害するという事件が起こります。
その後、鎌倉時代から室町時代にかけて「恩に報いる(報恩)」といった、仏教の教えを広く伝えるための題材の一つとして、この事件のいきさつや兄弟の生涯を記した「曽我物語」が成立したとされます。
また、「曽我物語」は、幸若舞や謡曲、浄瑠璃、歌舞伎といった芸能の題材として採用され、人々の間に広く知られるようになりました。
それとともに、曽我兄弟ゆかりのある場所には多くの人々が訪れるようになり、史跡として現代に受け継がれています。
曽我寺(鷹岳山福泉寺)は、そうした史跡の一つで、境内には兄弟の墓、本堂には兄弟に木像と位牌が安置されています。
また、かつては境内に、実を割ると木瓜の形に見えるという柿の木があり、瘧(マラリアの一種)の治療に効果があるとされ、重宝したといいます。
富士市指定天然記念物
曽我寺のカヤ・シイ
指定年月日 昭和45年12月21日
カヤ・・・樹高 約25m、目通り 約3.8m
参道右側にあり、樹勢良好でその姿は美しい。
シイ・・・樹高 約20m、目通り 約4,2m
本堂の裏にあり、相当の老木であるが、枝葉はよく茂る。
令和2年5月 富士市教育委員会

本堂です


天然記念物は境内北側にあるようですので行ってみました




大きなシイの木をミリ事が出来ましたが、木材が積まれていてこれ以上近付けませんでした

では、次へ行きましょう


2025・2・28・13・00
先日こちらのシイの木が伐採されておりました。