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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

三重県伊勢市、辻久留1丁目「上社(かみのやしろ)の牛頭夫婦楠」です!!

2025-02-28 18:46:00 | 巨樹・大木
 辻久留1丁目は、伊勢市役所の西約2kmのところです

 伊勢市役所南側の県道22号線を西へ、約300mの「外宮北」信号を右(北東)へ、県道37号鳥羽松坂線です

 約400mのJR参宮線伊勢市駅前で北西に向きを変え

 道成りに約2.1kmの「渡会橋東詰」信号を右(北)へ入ると直ぐ左手の駐車場に入りました

 南側へ宮川土手道を進んで「浅間堤のケヤキ」・「松井孫右衛門堤のムクノキ」を見て

 大きな鳥居下から東側の土手道を北北東へ進んで、土手道から下って県道22号線を北東へ

 鳥居から約200の横断歩道を渡って東への道路入ります

 住宅地の中を約200mで一時停止の交差点の手前の交差点を右(南南東)へ

 約100mで右手に「上社」が東向き参道で鎮座します

 「上社」社號標です

 説明版です
   上社(かみのやしろ)
     所在   伊勢市辻久留1丁目13番6号
     主祭神  久々能智神(くぐのちのかみ)・大山祇神(おおやまずみのかみ)ら
          ほかに宇迦之御魂神・菅原道真公らを合祀       山田産土神8社の一つ
     例祭   7月15日
     特殊神事 1月15日御頭神事
     宝物   獅子頭1個・大刀1口
 むかし、当社地には、外宮の摂社志等美神社・同大河内神社・同末社打懸神社があったと考えられています。
 しかし、戦国時代、久しく殿舎の造替もされず荒れはてていたのを、このあたりの住民がこの地の神(産土神)としてまつって今日に至りました。
 その故か主祭神は右神社のご祭神と同じです。しかし当社は、古く八王子または牛頭社と称され、現に牛頭さんと呼ばれています。
 宮川堤防を守護している神も当社のご祭神です。 

 ニノ鳥居です

 参道を進みます

 右手奥には豊受大神宮末社の「打懸神社(うちかけじんじゃ)」です

 すぐ西側には豊受大神宮摂社の「志等美(しとみ)神社」と「大河内(おおうこち)神社」とが並んでいます

 三ノ鳥居は式年遷宮で立て直される木製鳥居です

 南向きに「上社」社殿です

 上社社殿の南西側に目的の「牛頭夫婦楠」です

 玉垣に「牛頭夫婦楠」の札です

 説明書きです
   牛頭夫婦楠
 後醍醐天皇が人材を探して農民に聞いたところここ木の南に居ると云って歩いていった。木に南と書けば楠である、楠木正成である。
 牛頭の鎧兜を冠り天皇の為に活躍したので、この楠木が牛頭楠の始まりである。

 北西側から、目通り幹囲5.7mの巨木です

 西側には「稲荷神社」です

 南側の道路から見上げました

 では、宮川堤の駐車場に戻って次へ行きましょう




 2025・1・26・8・15 
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三重県伊勢市、中島2丁目「松井孫右衛門堤(浅間堤)のムクノキ」です!!

2025-02-28 06:36:00 | 巨樹・大木
 中島2丁目は、伊勢市役所の西北西約2kmのところです

 伊勢市役所南側の県道22号線を西へ、約300mの「外宮北」信号を右(北東)へ、県道37号鳥羽松坂線です

 約400mのJR参宮線伊勢市駅前で北西に向きを変え

 道成りに約2.1kmの「渡会橋東詰」信号を右(北)へ入ると直ぐ左手の駐車場に入りました

 横断歩道を渡って南へ「みや川」土手道を進みます

 さらに南へ

 北北西向きに宮川に突き出す「松井孫右衛門(浅間)堤」が見えて来ました

 北端近くにムクノキです

 中程にはケヤキの大木です

 今回の目的のムクノキです

 南南東側から松井孫右衛門堤入口です

 南側からムクノキです

 南西側から、目通り幹囲5.0mの巨木です

 水盤です

 鳥居です

 手水舎です

 「松井孫右衛門人柱堤」の標柱です

 松井孫右衛門が人柱となった塚に祠が建てられています

 「掃守社奮蹟」の標柱です

 ケヤキの大木です

 北側から

 北北西側から

 「宮川茜稲荷」の祠です

 北端近くのムクノキです

 北東側から

 北側から見上げました

 次は、東側の町中へ入って「上社」へ行きます





 2025・1・26・7・25
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三重県伊勢市、中島2丁目「浅間(松井孫右衛門人柱)堤のケヤキ」(市指定)です!!

2025-02-27 18:41:12 | 巨樹・大木
 中島2丁目は、伊勢市役所の西北西約2kmのところです

 伊勢市役所南側の県道22号線を西へ、約300mの「外宮北」信号を右(北東)へ、県道37号鳥羽松坂線です

 約400mのJR参宮線伊勢市駅前で北西に向きを変え

 道成りに約2.1kmの「渡会橋東詰」信号を右(北)へ入ると直ぐ左手の駐車場に入りました

 「三重県指定 名勝 宮川堤 散策マップ」です、「境楠」に続いて①の「松井孫右衛門人柱堤(浅間堤)」へ行きましょう

 横断歩道を渡って南へ「みや川」土手道を進みます

 約100mで説明版です
 柳の渡し・中島口大石階段跡・ドンデン場
       所在地 伊勢市中島2丁目
 【柳の渡し】西国・熊野から参宮客が宮川を渡るための船渡し場です。河端町側に柳の木が多くあったことに由来します。
 また、桜の渡し(下の渡し)対して上流に位置していたことから上の渡しともよばれています。
 西国方面からの参宮客は、奈良県の榛原から奥宇陀の山間部を通り、三重県津市三杉町、松坂市飯南町、多気町、玉城町を経て柳の渡しに至ります。
 江戸時代、宮川には造りのしっかりした橋がなかったため、参宮客が山田に入るためになくてはならない渡しでした。
 明治30年(1897)の参宮鉄道の開通、同44年(1911)の渡会橋の架橋でその役割を終え、歴史に幕を閉じました。
 【中島口大石階段跡】江戸時代、宮川の水位を表すのに中島口(柳の渡し)の堤にあった12段の石段が用いられていました。
 通常時の水面より9尺5寸(約288cm)で下の一段を浸すことになり、12段目は3丈6寸(約927cm)とされています。
 外宮鳥居前町の山田は、土地の低い所が多く、度々洪水の被害にあっており、地域にとって、大雨・台風時に宮川の水位を知ることは重要でした。
 【御木曳(おきひき)について】神宮(内宮・外宮)では、20年ごとに社殿を建て替え、御装束と御神宝類を新調して、旧殿から新殿に遷す「式年遷宮」が古くから行われてきました。
 御木曳は、式年遷宮で用いられる御用材を運ぶ行事のことで、遷宮の年の数年前に行われます。
 内宮へは、五十鈴川を利用することから川曳(かわびき)・外宮へは、宮川から陸路を利用することから陸曳(おかびき)とそれぞれ呼ばれています。
 元は、御用材運搬の荷役であったとされ、慶長年間(1596~1614)の遷宮あたりから、奉曳(ほうえい)の順序や方法等が整備され、現在の内容に近いものになったと言われています。
 御木曳に従事することを奉曳と言い、御用材を乗せる車を奉曳車、それを曳く市内の各団を奉曳団と呼びます。
 平成18年に行われた第62回の神宮式年遷宮の御木曳では、陸曳60団、川曳19団が奉曳に参加しました。
 【ドンデン場】宮川から引き上げられた御用材が運ばれる宮川堤上ののことをドンデン場と言います。
 宮川の河川敷に設置された御用材保管場所から各奉曳団ごとに御用材を受け取り、ソリに載せ、お木曳のために宮川堤に臨時に設けられた土盛坂を上ってドンデン場に至ります。
 御用材の前後に綱をつけて陸側と川側に分かれて上下に揺さぶります。水を切るためであると言われ、大きく木を揺らすさまが、ドンデンドンデンと音を立てるかのように見えることからそう呼ばれるようになったと言われています。
 ここで直ぐに陸側へ御用材が引き入れられるのではなく、時間の許す限り、川中へ御用材を再度浸けたり、ドンデン場でせめぎ合いを何度か行ったりし、最後は中島の出発点へ堤を一気に駆け下りていきます。
 御木曳の開幕を告げる重要な場面です。
         令和3年12月    伊勢市文化政策課

 さらに南へ

 約100m「御川神事場跡」です

 説明版です
   御川神事場跡  所在 伊勢市中島町2丁目
 浅間堤北方の右岸河川敷を古くは饗河原(あえのかわら)と呼び、毎年5月3日に御川神事という行事が行われていました。
 神役人たちは、漁人とも呼ばれ、古式にならい、烏帽子と浴衣を着用してこの付近から川に入り、流れに網を使って鮎を取りましあた。
 安永5年(1776)に漁人の最上役、川守という者が神宮へ提出した文書によるっと、この年の漁人は、京町6人、川端11人、下小俣8人で、5月3日から9月6日までの期間に、3333匹の鮎を神宮に奉納したことがわかります。
 伊勢神宮の神官や信仰心の厚い町人は、御川神事が終わるまでは、その年の若鮎を口にしなかったと言われています。
 現在は行われていない神事ですが、この古記録から江戸時代における神宮の御贄の調達や、神宮と町人たちの関わりを知ることができます。
       令和3年12月    伊勢市文化政策課

 東側の県道22号線側に向かいます

 浅間堤入り口の公園です

 大きな鳥居が有ります

 説明版です
   浅間堤と松井孫右衛門人柱伝承
 【浅間堤】 修築年 延享5年(1748)・築造者 山田惣中
 宮川堤に残る4本の水刎堤のうち最上流に位置する堤です。
 洪水時の無事を祈る垢離行者は祠を設け、富士山を拝んだということから浅間堤と名付けられています。
 長さは85間(約155m)で、宮川堤の現存する水刎提の中では最長です。
 水刎堤は、本提から下流側に向けて斜めに突き出た堤で、突き出し堤とも呼ばれています。
 洪水の流れを弱めて本提を守る治水機能があり、現在でもその機能を発揮していることから平成28年に、「土木学会選奨土木遺産」に認定されています。
 堤上には、松井孫右衛門伝承を受け、近隣の人々が、孫右衛門を供養するために石造物を埋納棺上に安置したとされ、それを祀った松井孫右衛門社が鎮座しています。
 下記の人柱伝承から「松井孫右衛門人柱堤」とも呼ばれています。
 現在、松井孫右衛門顕彰会により、8月25日を命日とし、「松井孫右衛門ご命日祭」が営まれており、宮川堤の保全に祈りを捧げた孫右衛門の志は、今も地域の人々の中に息づいています。
 【松井孫右衛門人柱伝承】 出典:「宇治山田市史資料」
 江戸時代、宮川堤は、今のように厳重な造りではなかったため、洪水によって、幾度も決壊していました。その度に宮川沿いの町では家屋が流出するなどの損害が生じていました。
 これ以上の被害を出さないために、中島町字中野の松井孫右衛門という老爺が自ら人柱になることを決心しました。
 役人と共に着袴して堤防の見分に赴いた時に、自分の袴に継当てを縫い付けて、堤上の民衆に向かい、「宮川の洪水から人々を救済するためには、人柱が必要で。袴に継切を当てた者を人柱とする。」と言いました。それを聞いた民衆は青ざめながら、自らの袴を調べました。
 調べはやがて孫右衛門にも及び、その袴からは、先に縫い付けた継当てが見つかりました。孫右衛門は、やむを得ない顔をして人柱になることを承諾しました。
 孫右衛門は、皆に生き別れして棺に入りました。親族は、少しでも長く息が続くように棺内から堤上に竹筒を通し、食物等を入れて埋棺しました。
 その後通夜が執り行われた際には、竹筒より孫右衛門が棺の中で叩く鐘の音が聞こえていましたが、次第にその音が弱くなっていきました。三日目には遂に鐘の音が聞こえなくなり、泣く泣く竹筒が抜きとられました。
        令和3年1月      伊勢市教育委員会

 浅間堤の上を北西へ進むと目的の「浅間堤のケヤキ」です

 東側から

 説明版です
   市天然記念物 浅間堤のケヤキ
     所在  伊勢市中島2丁目
     指定  令和5年1月23日
 推定樹齢はおよそ150年、胸高周囲5.8m、樹高28mです。
 生育する浅間堤は宮川堤最上流の水刎堤(みずはねつつみ)で堤上に人柱になたと伝わる松井孫右衛門を祀る社があります。
 ケヤキ(欅)は二レ科の落葉高木で本州から九州の平野・丘陵地から山地に分布します。幹は直立し枝は扇状に広がって伸びます。樹皮は灰褐色で滑らかですが、老樹の幹では一部が鱗状にはげ落ちます。葉は互生し長卵形で先はとがり、長さが3~7cmで縁に鋸歯があります。春になると、新緑と同時に淡黄緑色の小花を開きます。
 浅間堤のケヤキは市内最大規模で、三重県指定の天然記念物「国津神社のケヤキ」(津市三杉町 胸高周囲7.8m樹高28m)にも匹敵するため、市の天然記念物に指定しています。
         令和6年3月     伊勢市文化政策課

 北西側から  

 西側の道路から見ました

 道路をもう少しだけ南へ行って撮影しました

 次は、北西側の「松井孫右衛門堤のムクノキ」です



 2025・1・26・8・00
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三重県伊勢市、中島1丁目「楠大明神の境楠」(市史跡)です!!

2025-02-27 06:39:07 | 遺跡・史跡
 ここからは、2025年1月26日(日曜日)取材分です

 中島1丁目は、伊勢市役所の西北西約2kmのところです、宮川堤の駐車場に車を止めて周辺を4回分廻りました

 伊勢市役所南側の県道22号線を西へ、約300mの「外宮北」信号を右(北東)へ、県道37号鳥羽松坂線です

 約400mのJR参宮線伊勢市駅前で北西に向きを変え
 
 道成りに約2.1kmの「渡会橋東詰」信号を右(北)へ入ると直ぐ左手の

 駐車場に入りました

 周辺観光案内図です、現在地は図の左側、市役所は右側の日陰の部分の伊勢市駅の下側です

 「三重県指定 名勝 宮川堤 散策マップ」です、まずは⑨の境楠(市指定)から見て行くことにしました

 宮川堤公園案内板です、朝早くから犬の散歩の方々で駐車場も賑わっています

 説明版です
   宮川堤  三重県名勝指定(昭和12年6月)
     所在地 伊勢市中島1丁目・2丁目・宮川1丁目
 宮川はその源を大台ヶ原山に発する、延長およそ91kmにも及ぶ、三重県最大の河川であります。
 古く渡会大河・渡会川・豊宮川などと呼びました。
 豊受大神宮(外宮)の「みそぎ」をする川であったからの名であろうとされています。
 下流では古来しばしば氾濫をくり返し、住民はその度ごとにいいしれぬ苦難にさらされました。
 平安の昔、平清盛の築堤伝承をはじめ、近世江戸幕府から巨額の援助を仰ぐなど、両岸住民の堤防修築保全には、度重なる努力が続けられました。
 宮川橋の辺りは桜の渡しとも呼ばれ、古くから桜の木が多くありました。明治4年(1871)この古木の保存と、さらに若木の補植を大いに奨励しました。
 現在中島1丁目浅間堤の近くから、北へ宮川橋辺りまで約1km余の堤に沿う桜の並木約850本は、神都の春を彩るものとして近郷にきこえています。
 その大部分はソメイヨシノであります。
 平成2年(1990)3月3日、日本さくら名所100選にえらばれました。
              伊勢市教育委員会

 でわ堤の上を北へ進みましょう

 約150m程で、目的の「境楠」の樹冠が見えて来ます

 鳥居です、境楠は土手から河原側に下だった所にありますが、葉がありませんね~

 土手上から見下ろしました

 説明版は土手上にあります
    市史跡 境楠(さかいぐす)
      所在地 伊勢市中島1丁目・宮川2丁目
      指定  令和元年7月25日
 境楠は、宮川下流域右岸の中島1丁目・宮川2丁目の境に位置しています。
 「小祠比路比(しょうしひろい)」という江戸時代の書物によると、北(喜多)家の支配する中島町と榎倉家の支配する中川原町との境を示す木でした。
 樹高約10m、胸高周囲8m程の大木となり、昭和33年(1958)い伊勢市の天然記念物に指定しましたが、平成15年(2003)に老衰枯死しました。
 それでも「楠大明神」として地域の人々の信仰の対象であり続け、宮川堤の堤防改修時に境楠一帯の環境整備が行われました。
 現在は、先代境楠の苗木から二世木が育っており、境楠一帯を史跡に位置付け直し、保護を図っています。
       令和3年1月    伊勢市教育委員会

 南西側から楠大明神です

 根元の鳥居です

 若い二代目が育っています

 北側から見ました

 では、戻って渡会橋の南側に行きましょう


 

 2025・1・26・7・10
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三重県多気町、丹生「本楽寺のイチョウ」です!!

2025-02-26 18:34:57 | 巨樹・大木
 丹生地区は、多気町役場の西約6kmのところ

  多気町役場の西側の県道160号松坂多気線を南南東へ進みます

 約500mの「多気町役場南」信号で左からの国道42号線に合流するように右(南)へ

 道成りに約5.3kmの伊勢自動車道の高架を潜った「丹生大師⇒3km」の標識に従って右(北西)へ、県道702号線です

 すぐに紀勢本線の踏切を越えて、道成りに2.8kmで右(北)へ、県道421号線です

 すぐ先の「丹生大師」仁王門前で左(西北西)へ、約400mで広場の様な所の先にの交差点を右(北)へ

 間も無く左手に東向き参道で本楽寺山門ですが閉まってしまっています

 山門前北側に参拝者用駐車場が有ります

 「真宗 本願寺派 上田山 本楽寺」寺号標です

 文化財説明版です
   快楽園(けらくえん)
     町指定文化財第14号
     指定年月日 平成15年3月20日
     多気町大字丹生字若宮976番地先
 快楽園は勢和村丹生、本楽寺の境内の一部である。
 文化13年(1816年)本楽寺第6代住職尼子合明の時、本堂・庫裏が再建された。
 この時合明は、本堂裏の低地を開削し南北に長い(2000㎡余り) 回遊式庭園を築造し、快楽園と称した。
 当庭園は、池の周囲を一巡できる回遊式であり、周辺には多くの樹木が繁り池の中には。萱ぶきの茶室があった(現在は瓦ぶき)
 池は、近くを流れる丹生川から取水していたが、水質の悪化から現在は取水していない。
     多気町教育委員会 

 もう一枚文化財説明版です
   合明日記(ごうみょうにっき)
     町指定文化財第15号
     指定年月日 平成16年3月18日
     多気町大字丹生972番地
 本楽寺6世住職尼子合明(1785年~1854年)は、焼失した本堂・庫裏を再建するとともに、回遊式庭園「快楽園」の築造を成しとげた。 
 更に合明は、僧職に励むかたわら仏書・医書・雅楽書・歌集等の写本や手記・茶器・版木・刻印・日常生活用品等を数多く残している。
 中でも、文化12年(1815年)31歳の時から嘉永7年(1854年)の亡くなる半年前迄の40年間書き綴られた「合明日記」9冊(総計1794ページ)には、本居春庭との交流や自らの生活、近隣社会の様子が克明に記述されており、近世文化史・庶民史の好資料として注目されている。

 境内には入れませんでしたが、駐車場脇が高いので境内を覗くことが出来ました

 山門脇から

 境内に目的の「イチョウ」の大枝が見えます

 大枝からは多数の乳柱(気根)も見えました

 *グーグルマップの写真一覧には四方に大枝を広げた目通り幹囲8.6mのイチョウの写真を見ることが出来ます

 そろそろ陽が西に傾きます、明日の行動に備えて伊勢市内へ向かいましょう




 2025・1・25・16・20
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三重県多気町、前村「大楠神社の前村の大楠」(町指定)です!!

2025-02-26 06:40:21 | 巨樹・大木
 前村地区は、多気町役場の南西約4kmのところ

 多気町役場の西側の県道160号松坂多気線を南南東へ進みます

 約500mの「多気町役場南」信号で左からの国道42号線に合流するように右(南)へ

 緩く右にカーブした約1.3kmの「右手に佐那神社」を過ぎます

 約2.6kmで右へ入って紀勢本線の踏切を越え右(北)へ、線路沿いを進むと間も無く

 道路脇に目的の「前村の大楠」です

 すぐ先の道路脇に車を止めさせて頂きました

 南東側からは水路の斜面に立っていることが判ります

 南側から、細い注連縄が巻かれています

 南南西側から

 南西側の道路から

 西側から一番太く見えました

 説明版です
   大楠 (樹高36m・樹周囲7.5m・枝張東西40m・南北37m)
     多気町大字前林字橋政379番地の2(大字前林区有)
 この地一帯は、北畠家及び南朝派一族の隠匿地と言われ、神祇を奉祀して壬朝の興復を企図した。
 その後時勢の変遷を受け里人が忠臣の遺蹟を後世に伝えるために一老樹を保存し、記念の表徴として来た。
 かくて、樹木を神木として偉霊の実在を信仰し、小祠を祀って霊木の保存をはかっている。
 樹齢は推定約600年。 
         多気町教育委員会

 根元に大楠神社の祠です

 北北西側から見ました
 
 では、次へ行きましょう



 2025・1・25・16・05
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三重県多気町、仁田「佐那神社の夫婦杉」です!!

2025-02-25 06:31:50 | 巨樹・大木
 仁田地区は、多気町役場の南約2kmのところ

 多気町役場の西側の県道160号松坂多気線を南南東へ進みます

 約500mの「多気町役場南」信号で左からの国道42号線に合流するように右(南)へ

 緩く右にカーブした約1.3kmの「多気町立佐奈小学校」南側校庭の先右手に佐那神社の鳥居が見えました

 北へ入って鳥居前に車を止めさせて頂きました

 佐那神社境内入口です

 佐那神社社號標です

 鳥居を潜って参道に入ります

 手水舎です

 夫婦杉は真っ直ぐ奥ですが・・・

 佐那神社由緒記石碑です
   御由緒記
 当社の御祭神は、上古、天照大御神、岩屋戸に隠れまし時、其の戸を開いて、大御神の大御光を六合に輝かし奉った天手力男神を主神とし、天宇受売神など、23柱、祭神不詳2座をお祀りしている。
 当社の創立年代は不詳であるが、古事記(712)に「次手力男神者坐佐那縣也」とあり、延喜式神名帳には「多気郡52座並2座」とあるなど、千有余年以上を経過している古社であることは明らかである。
 当社の創設者について確証はないが、延喜式神名帳にいう「佐那神社二座」のうち、一神は主神に天手力男神、他の一神について諸説はあるが、、当社においては、古事記に従い「曙立王神」を氏神さまと奉祀している。当社の創設と深い係りのある神と考えられる。
 当社の別名を「中宮」とか「大森社」などと古くから呼ばれいた。これは延喜式内社多気郡巻頭第二の神社であったことや、佐那谷に比類なき高大な鬱林が覆い茂っていたことなどからである。
 当社は、古い文献により、吉野朝以降、室町時代、江戸時代初期に至るまで神宮、特に外宮とは、深い係りを、次のようにして保有していた。
    神宮の造営使によって、二十年に一度の社殿造り替えに預かった十二社中の一社であったこと。
    斎宮の祈年祭に預かれる神社であったこと、外宮禰宜の労社として、祝いの制を定め、神田を設け、毎年2月、神事が    行われていたこと。
 明治43年、ここ佐那神社に、延喜式内社多気郡巻頭の第一の神社「須麻漏売神社」を始め村内の各神社を合祀、昭和18年県社に列せられる。同27年宗教法人佐那神社となった。同年国事国難に殉じた本村出身202柱の祖霊を祀る境内社「和玉神社」を創設した。
 以上のことから、当社の創立年代は極めて古く、且つ、尊い所以を知ることができる。

 大きな石(岩)です

 由緒説明版です
   由緒
 当、佐那神社は古事記に「天手力男神は佐那の縣に坐せり」と記載のごとく、日本神話で天手力男神が「天岩戸伝説」の伝承にあるように怪力無双の力・岩(石)に深いつながりと縁がある神社であります。
 お参りの際には手水舎前に設置している、大力石を持ち上げる如く触れ、そして、拝殿前に設置の力石をもちあげて、撫でて健康や病気に打ち勝つ等の前途を開く力やご加護に頂かれてお参りいただきたくご案内申し上げます。
 尚、拝殿前の力石は古より佐那の縣の神社に祀られていて、祭祀・力試し等に使われていた石と考えられます。
 力石の起源は、石占(いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願いを唱えて持ち上げ、その重い、軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。
 
 左(南西)へ進むと

 注連縄の巻かれた「御神木 手力の大桧」です

 南西側から見ました

 神社社殿は南東向きに建てられています


 こちらが佐那神社拝殿のようです

 こちらは遷座用地のようです

 力石が置かれていました

 戻って石碑の前を「夫婦杉⇒」へ行きましょう

 左手の鳥居を潜って進むと

 目的の「夫婦杉」です

 注連縄を巻かれた、二本の幹を見上げました、目通り幹囲9.1mの巨木です

 石祠が祀られています

 案内板です
   夫婦杉
 江戸時代(西暦1850年頃)よりk御後に植えられたここに生き続けている夫婦杉です。
 素晴らしい神様もお守りし崇敬の皆様を見守っていられる御神木です。

 左手から見上げました

 では、次へ行きましょう





 2025・1・25・15・55
 
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三重県多気町、井内林「津田神社のスギ」です!!

2025-02-24 18:31:43 | 巨樹・大木
 井内林地区は、多気町役場の西北西約3kmのところ

 多気町役場の西側の県道160号松坂多気線を北北西へ進みます

 約800mの「相可駅入口」信号を左(西)へ、県道421号勢和兄国松坂線です

 約2kmの一時停止交差点を右(北)へ、県道421号ビーフロードに入ります

 次の信号約200mを左(西)へ、まだ県道421号線です

 約500mの「多気町立津田小学校」手前の横断歩道の所を右(北)へ、左手にスギの樹冠が見えました

 約100mで左(西)へ入ると右手奥に津田神社が見えました、南側の道路脇の広場に車を止めさせて頂きました

 参道入口鳥居です

 鳥居を潜って参道を進むと右手の石垣の上に目的のスギです

 手水舎です

 津田神社社號標です

 南側から見上げました

 ニノ鳥居を潜ると境内に入って西側から見上げました

 案内板です
 一度見上げて見て下さい・木の回り8m60cm・木の太さ2m35cm・木の高さは約38mあります。
 上記は目の高さです。近くの神社にもない大きさです。

 北西側の拝殿前から

 北側から

 拝殿です


 本殿ですの屋根が見えました

 文化財説明版です
   三重県指定有形文化財 書跡
     多気町大字井内林 津田神社
   神事頭番帳 1巻 室町時代
     指定 昭和31年12月5日
   縦26cm、横30cm
 これは、応永34年(1427)から元亀3年(1572)に至る殆んど室町時代全期にわたり、多気郡相可郷中村天王八王寺社の神事に関する当番帳(神事を行う人名を書いた帳面)である。
 この中には「右結衆等天長地久御願円満皆令満足延徳四年」(1492)とその趣旨を述べて宮座(神事を行う人々の仲間)のあった事なども推測される。

 社殿西側には「伊勢白龍大明神」の石碑です

 では、次へ行きましょう




 2025・1・25・15・35
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三重県多気町、相可「西村廣休植物園跡のフウ樹」(県指定)です!!

2025-02-24 06:31:06 | 巨樹・大木
 相可地区は、多気町役場のある地区です、多気町役場の北北西約1kmの所に「西村廣休宅跡」が有ります

 多気町役場南側の道路を西へ出て、県道160号線を北北西へ進みます

 約1.1km五百銀行の先の「相可」信号を左(西南西)へ、県道421号線ですが

 すぐの約50mでまた左(南南東)へ入ると目的の「西村廣休植物園跡のフウ樹」が見えます

 西村廣休宅跡は、市の「資源物ステーション」になっていますので入り口脇に車を止めさせて頂きました

 入口脇に伊勢湾台風の被災水位標示板があります
   被災水位標示板
 伊勢湾台風は、昭和34年9月26日伊勢湾沿岸に大被害をもたらし、高潮や洪水による死者・行方不明者は、3県下で4637名、市内で114名にも及びました。
 当時の浸水高を現地に表示して災害を再認識し、河川・海岸施設整備の必要性を理解していただくため、この表示板を設置したものです。
    伊勢湾台風30年事業実行委員会
    建設省三重工事事務所
   平成元年9月   多気町
 被災水位  地盤より  1.2m

 南東側から
 *Wikipediaの一部抜粋です
 フウ(楓、学名: Liquidambar formosana)はフウ科フウ属の落葉高木。公園樹や街路樹にされる。
 原産地は台湾、中国南東部。日本には江戸時代中期、享保年間(1716~ 1736)に渡来し、珍しい樹として江戸城と日光に植えられたのが始まりである。
 植栽は日本全土に分布し、関東地方以南で使われている例が多い。
 落葉広葉樹の高木。幹は真っ直ぐに伸び、高さ20~ 25m)ほどになる。原産地では40 ~ 60 mのものもある。
 樹皮は灰色から灰褐色で、縦に浅い筋が入り、老木になると縦から網目状に裂ける。
 葉は掌状にふつう3裂し、しばしば5裂や複雑な裂け方をする葉もみられる。葉縁に細かい鋸歯がある。葉の形はカエデにやや似ているがフウは枝に互生する。秋に紅葉し、赤色や橙色、黄色に色づく]。葉柄に托葉がつくため、枝には托葉痕はない。
 雌雄同株。花は雌雄とも球形で花被がない。春、新葉が出るとともに咲く。
 初夏には枝先に小さなイガのような若い果実がつく。果期は秋の紅葉のころで、光沢のある褐色で、細かい棘と隙間がある球状の集合果が成熟する。果実は蒴果。冬でも果実は枯れ葉とともに残ることもある。
 冬芽は長さ5 ~10mm で卵形から長卵形をしている鱗芽で、11~18枚の芽鱗に包まれている。芽鱗には薄茶色の汚れたような毛がある。枝先につく頂芽は、側芽よりもやや太い。葉痕は半円形から三角形で、維管束痕は3個ある。

 南側から、目通り幹囲3.2mの大木です

 西側から

 植物園跡の説明版です
   多気町指定史蹟
     西村廣休植物園跡
       平成6年8月1日指定
 西村廣休は江戸時代の後期、当地から輩出した著名な本草学者であった。
 廣休は邸内に植物園を設け、各地から珍しい植物を集めて栽培、研究した。
 植物園は現在地と県道をはさんで北側の櫛田川畔の位置とにあった。
 廣休が栽培した植物はおよそ2000種、その中には熱帯植物、寒地高山植物など、当時としては容易に手に入らないものがあり、その多様さが学問的見地から高く評価されていた。
     多気町教育委員会


 南側に離れて見ました

 
 では、次へ行きましょう




 2025・1・25・15・25
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三重県松阪市、殿町「松坂神社の長寿樟」です!!

2025-02-23 06:33:14 | 巨樹・大木
 殿町は、松坂市役所のあるところです、南西約500mのところに松坂神社が東向き参道で鎮座します

 松坂市役所南東側の「殿町」信号を南南東へ進みます、約150mで道成りに斜め右(南西)へ

 約300mで石畳の三叉路交差点に出ます、右手(西側)に松坂神社東参道の鳥居です

 松坂神社社號標です

 説明版です
   🔷主祭神  誉田別命(八幡さま)・宇迦御魂神(稲荷さま)
   🔷合祀祭神(33柱)  天照皇大神・伊邪那岐尊・伊邪那美尊・建速須佐之男尊・天御柱命・國御柱命・稚日女命・栲幡千々姫命・豊受大神・高木大神・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・多紀理毘売命・多岐都毘売命・天棚機姫命・思兼命・天之忍穂耳命・蛭子命・大山祇命・市寸嶋姫命・天之菩卑命・少彦名命・素菟命・火霊神・金山彦命・猿田彦命・安徳天皇・大國主命・事代主命・上筒男命・中筒男命・底筒男命
   🔷御由緒
 当社は古来「意悲神社」と称し、平安時代以前の創立で、飯高の國式内社9社の一座と伝えられているが、その創立年代は詳らかでない。
 室町時代末期の天正16年(1588)蒲生飛騨守氏郷が飯高郡矢川庄の宵の森(古くは意悲の森)と呼ばれていた丘に築城された時、この森の南の丘に鎮座していた当社を新たに御造営され、城の鎮守社と定められた。
 氏郷は、天正12年(1584)秀吉公から伊勢の松ケ島城主に任ぜられ、近江の國日野町から松ヶ島に移ってきたが、その時この宵の森に(現、四五百之森)の地に着目して、この森に築城を急いだ。又この矢川の庄を「松坂」と名付けて、城下町を造り始めた。そして、松ヶ島から強制的に寺社や商人を「松坂」へ移住させ、近江の日野商人も招いた。
 天正16年(1588)に城が完成し、氏郷は入城して「松坂城」と名付けた。
 この時当社に、新たに武士の尊崇の神である「正八幡」を勧請して、誉田別命(応神天皇)を合わせ祀り「八幡宮」と唱えた。
 後世、江戸に雄飛した伊勢商人が生まれた町が松坂であり、近世の商都松坂の繁栄についても蒲生氏郷は、その基を造ったので松坂の功労者と云える。その後、氏郷は会津若松へ移封となり、文禄4年(1595)古田兵部少輔重勝が、松坂城主となって入城し、更に自らの信仰していた宇迦御魂神(お稲荷さん)を勧請して、当社に相殿としてお祀りすることになった。
 その後、元和元年(1619江戸初期)紀州藩徳川頼宣の領地となり、以後、明治維新までの250年余り松坂城は、紀州藩伊勢領18万石の要地となり、上代の居城となった。
 この長い年月、当社の神官を務めたのは、飯高氏の子孫と云われる笠因(カサヨリ)家とい社家が代々当社の社司を務め、雨龍神社も兼務していた。
 代々の紀州藩主は、松坂着城の都度必ず先ず当社に参拝し、又毎年1月元旦には、常に重心を名代として参拝させられた。
 明治維新となり、明治2年天皇伊勢行幸の砌、当社に名代として北小路殿を奉弊使として代参させられるなど、また明治4年には、郷社に列せられ遠近の人々の尊崇を集めた。
 明治41年には、時の政府の方針により全国で神社合祀が行われたとき、松坂に於いても各所に祀られていた17神社が、当社に合祀され、社名を「松坂神社」と改名が許可され、今日に及んでいる。
 又現在の当社本殿は、昭和5年の御遷座の節、伊勢の豊受大神宮な三御殿の中の一つである、西宝殿をそのまま御下附を受け、松坂市内を「お木曳き」行事を行って造営した神明造の本殿であったものに、千木・鰹魚木・銅板屋根の部分を新しくした由緒ある本殿であり、飾り金具や御鍵、御錠も共にその時拝受したものに今回焼き付けの金メッキを施したものである。
 この様な豊受大神宮の拝載は、全国でも当社だけであり、江戸時代以降20年ごとに下附を受け、昭和5年は、第8回目の拝載であった。
 また。境内中央に高く聳える御神木(楠の大古木)は、氏郷が、御造営の頃もすでに、この位置に500年を経過した大古木になっており、現在では900年以上経過した大木で、天空高く四五百之森に聳えている荘厳さは、実に美しい風景である。
  以下略

 鳥居を潜って参道を進みます

 ニノ鳥居脇に車を止めさせて頂きました

 参道を進んで

 石段を上ります

 境内に出ました手水舎です

 社務所前境内中央に太い注連縄が巻かれた目的の「長寿樟」です

 北側から、石鳥居が有ります
 *あったはずの説明版がなくなっていましたので「花と巨樹のページ」さんの記事より一部転載
 私(樟の精)は今から900年前(1092年)の平安時代後期にこの森(意非の森)で誕生いたしました。
 その頃この地の豪族飯高氏がこの森に鎮座されている意非(おい)神社を氏神様として深く崇敬されていました。
 その後天正16年(1588年)、400年前蒲生氏郷公が松阪城を築城し城主となり当神社を城の守護神として崇敬されこの森を四五百の森と名付けられました。
 この長い間私はすくすくと育ち大木となり今もなお健在です。これからも皆様と共に神様のご加護を受け幾く年までも健在長寿でありたいと願つております。

 西側から、環境省巨樹巨木林データによれば、目通り幹囲6.49m、樹高20m、樹齢900年です

 昭和33年に建立された「本居宣長」歌碑です

 説明版です、碑面には「民の戸も ささて月見る よひのもり めぐみのかけ(げ)の くもりなきよは」だそうです

 南側から、薪?が積まれています

 東側から見上げました

 境内北側に舞殿です

 市内に有った紡績会社が閉鎖になって平成10年に境内へ遷座した、「末廣稲荷大神」です

 説明版です

 南側には、昭和38年にに市内から遷座した、境内社の「少彦名命社」です

 説明版です

 拝殿です


 本殿は屋根だけしか見えませんでした

 社殿南側には神輿舎です

 では、次へ行きましょう




 2025・1・25・14・40


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三重県松阪市、嬉野津屋城町「中原神社のスダジイ」です!!

2025-02-22 18:52:30 | 巨樹・大木
 嬉野津屋城町は、松坂市役所の北西約6km、松阪市嬉野地域振興局の南東約1kmのところです

 松阪市嬉野地域振興局北東側の「嬉野地域振興局入口」信号を西南西」へ進みます

 約400mの丁字路で左(南南東)へ、県道58号旧初瀬街道です
 
 約1.4kmで左手に「中原神社」が南南西向きに鎮座します、境内南東角に境内入口です

 境内東側の道路を北へ入ってっ直ぐの広場に車を止めさせて頂きました

 「中原神社」社號標です

 手水舎です

 県道と平行な参道の先に目的の「スダジイ」の幹が見えました

 南東側から、県道側に斜めに立っています

 南側から、注連縄が巻かれていますので御神木のようです

 南西側から

 西側から、目通り幹囲5.2mの巨木です

 北西側から

 拝殿前から見ました

 拝殿です

 
 本殿です
 *旧「津屋城村」に鎮座する白い社殿が特徴的な神社です。明治二十二年に「須賀領村」などとともに合併し「中原村」となりました。
 祭神 豊玉彦命(とよたまひこのみこと)・金山彦命(かなやまひこのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)
 合祀 素盞男尊(すさのおのみこと)・ 五男三女神(須佐之男命と天照大御神の誓約によって生まれた五柱の男神と三柱の女神の総称)・菅原遠津御祖神 天児屋根神(あまこやねのかみ)・ 火産霊神 (別名を迦具土神:かぐちちのかみ)・志貴大神(しきおおかみ)
 創建年代、由緒等は不明。往古は龍玉神社と崇められていたとのこと。「須可・須賀領村」「津屋城村」の氏神であったようです。
 明治四十三年に合併してできた「中原村」全域の大祠小祠を合祀したと伝わります。ただし「須賀領村」には式内比定社 須加神社が鎮座します。
 「初瀬街道」に面しており、里人のみでなく旅人たちにも「灯籠の森」「鶴の宮」として親しまれて来たようです。
 大晦日の夜には、神々の化身である火の玉が上空を舞うという話が伝わっています。
 また雨乞いの宮として知られ、旱魅のときには境内にある空池に村人が集まり、雨乞い祈願をして池を掃除すると願いがかなったとのこと。池さらえをした者には、昔、米三石白衣一枚、鍬・鎌各一丁ずつが授けられたと伝わります。(以上ネットの記事を総合してみました)


 では、次へ行きましょう




 2025・1・25・14・10
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三重県津市、一志町石橋「石橋のエノキ」です!!

2025-02-22 06:33:52 | 巨樹・大木
 一志町石橋地区は、津市役所の南西約12km、津市一志総合支所の西約2.5kmのところです

 津市一志総合支所から「石橋のエノキ」の間には「出雲川」が流れているので遠回りをして行きました

 津市一志総合支所北側の県道15号線を西南西へ進みます

 約2.9kmで右(北西)へ、県道549号線で出雲川の橋を渡ります(手前の橋は普通車通行止めです)

 橋を渡って直ぐに右(北東)へ、まだまだ県道549号線です

 約600mで左カーブの先に交差点を右(北東)へ、道成りに約1.1kmで「近鉄大阪線」の高架を潜ると

 間もなく右手に目的の「石橋のエノキ」です(西側への道路から見ました)

 北側の道路脇に車を止めさせて頂きました

 西側から

 根元に案内板です、令和6年4月に緑の募金交付事業によって剪定作業が行われました

 南西側から

 西側の幹には、大きなキノコが生えています

 南側から、目通り幹囲5.0mの巨木です

 南東側から

 北東側から見上げました

 では、次へ行きましょう

 東側の出雲川に架かる「石橋の潜水橋」です。軽自動車が通っていきましたので、SUVの私も通らせて頂きました

 三重県河川国道事務所の出雲川案内板の、右手(南側)には近鉄大阪線の鉄橋です

 この場所は図の一番上の所です

 *雲出川八景の1つとされている、石橋の潜水橋です。
 一般的には「沈下橋」と言いますが、公式的には「潜水橋」と言われてます。
 雲出川には潜水橋が他にもいくつかありますが、石橋の潜水橋が最大の沈下橋だそうです。
 橋の長さ168m、橋の幅2.8mですので、普通車も通ることが出来ます。
 幅は狭いけど、長さが結構あります、一方通行ではないので対向が居ないかよく見てから渡ってくださいとのことです

 

 2025・1・25・13・35
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三重県津市、分部「櫛形小学校のダイオウショウ」です!!

2025-02-21 18:31:28 | 巨樹・大木
 分部地区は、津市市役所の西北西約5kmのところ

 津市役所東側の道路を北東へ、約200mの信号を左(北西)へ、県道42号線です

 約3.2kmの「津インターチェンジ東」信号を左(南西)へ、県道55号線です

 約900mの時差式信号機を右(西北西)へ

 約1.4kmで左へ南西へ、間も無く登が見えて来ます

 坂の登り口手前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 「津市児童発達支援センター つうぽっぽ」の案内板です

 坂道途中左手に津市児童発達支援センターです

 向い側の道路脇にフェンスに「避難所・櫛型小学校・ここの地盤高は海抜23.9mです」の表示が有ります

 右手に目的の「ダイオウショウ」です

 北東側から

 東側から
 *ダイオウショウ・ダイオウマツ(大王松、学名: Pinus palustris)は、マツ科マツ属の樹木です。
 和名のダイオウマツ(大王松)は、巨大になる形態的特徴から来ている。英名longleaf pine(長い葉のマツ)も形態的特徴から。種小名palustrisは「湿地に住む」という意味で生態的特徴から来ている。
 原産地はアメリカ合衆国のアパラチア山脈以南、フロリダ半島を中心に東はバージニア州などの大西洋岸、西はミシシッピ川を越えてテキサス州に至るメキシコ湾沿いの地域に分布します。
 分布地の年間平均気温は16度~23度、同降水量は1100mm~1800mm程度です。(Wikipediaの一部引用です)

 南東側から

 南側から見ました

 櫛型小学校は更に坂道を登った上です

 では、次へ行きましょう





  
 2025・1・25・13・00
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三重県津市、芸濃町椋本「光月寺のクロガネモチ」は伐られてしまいました!!

2025-02-21 06:36:21 | 巨樹・大木
 芸濃町椋本地区は、津市役所の北西約13km、津市芸濃総合支所の北勢約1kmの所です

 津市芸濃(げいのう)総合支所西側の道路を南西へ、直ぐ約150mの交差点を右(北西)へ

 約800mの一時停止を右(北)へ、約100mで「⇐国の文化財 霊樹大椋」の案内板(文字が薄くなっています)を鋭角に左(西南西)へ

 間も無く右手の斜面に国指定天然記念物のムクノキです

 すぐ先に見学者用の駐車場が有りますので利用させて頂きました

 駐車場の北西端に大きな切り株が見えます

 上側には光月寺が有ります

 南西側から切株を見ました
*巨樹と花のページさんの記事から
 玉照山 光月寺は天台真盛宗の寺院です。
 クロガネモチの巨樹はお寺の境内ではなく、南側の墓地の下にあります。
 すぐ側には国の天然記念物「椋本の大ムク」の駐車場がありますので、見物には好都合です。
 椋本は伊勢別街道の椋本宿としてにぎわったところで、伊勢別街道は東海道の関宿から伊勢街道の江戸橋を結ぶ約22kmの街道でした。
 江戸時代には東海道を通り京都方面からの参宮客で賑わったそうで、常夜燈や宿などの古い家並みが残り往時を偲ばせます。
 クロガネモチは光月寺の石垣の斜面に立っており、根元に空洞が見られます。
 主幹も途中で折れておりちょっと心配です。椋本の大ムクだけでなくこちらも保護して欲しいものですね。
 ・・・と有りましたが残念です。

 西側から

 北西側から、伐られた原因でしょうか、中心部は腐食しています

 もう一枚です

 *2025年2月10日現在グーグルマップのストリートビュー2021年9月の画像に元気なクロガネモチを見ることが出来ました

 では、次へ行きましょう


 2025・1・25・12・25
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三重県津市、芸濃町椋本「椋本の大ムク」(国指定)です!!

2025-02-20 18:32:15 | 巨樹・大木
 芸濃町椋本地区は、津市役所の北西約13km、津市芸濃総合支所の北勢約1kmの所です

 津市芸濃(げいのう)総合支所西側の道路を南西へ、直ぐ約150mの交差点を右(北西)へ

 約800mの一時停止を右(北)へ、約100mで「⇐国の文化財 霊樹大椋」の案内板(文字が薄くなっています)を鋭角に左(西南西)へ

 間も無く右手の斜面に目的のムクノキです、支柱の下を潜ります

 すぐ先に見学者用の駐車場が有ります

 南東側から

 近付いて見上げました

 南側から見上げました

 「天然記念物椋本大椋」の標柱です

 説明版です
   椋本の大椋
 高さ18m余、周囲8mのムクの巨木。樹齢は、1500年以上と言われています。
 「嵯峨天皇(809(即位)~842(崩御))の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の家来、野添大膳父子が伊勢路を流浪し、この地に逃れた時、巨大なムクの木を見つけ、その下に草庵をつくって住んだ。」これが、椋本の発祥だと言い伝えられています。
 明治3年9月18日の夜、暴風雨によって巨枝が折れてしまった。その時の神官、駒田巽氏がその枝をそのままにしておくのはしのびないと考え、獅子頭を彫刻し、明治7年、椋本神社に奉納しました。
 昭和9年1月22日には、国の天然記念物に指定されています。
   ムクノキ
 二レ科の落葉高木。本州の関東以西、四国、九州の山地に生える。
 高さ、20mに達する。葉は、だ円形または卵型で4~8cm。
 春、小さな黄緑色の花が咲く。果実は卵型で大豆大。黒く熟し甘味があり生食される。
 葉は、表面がザラザラしているので、物を磨くのに使われている。

 「新日本名木百選 国指定天然記念物 椋本の大椋」認定証の石碑が有ります
 平成2年6月2日 読売新聞社 国際花と緑の博覧会協会

 南側へ離れて見ました

 南西側から

 西側から

 では、次へ「光月寺のクロガネモチ」ですが・・・



 2025・1・25・12・20

 

 
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