中地区は、掛川市役所の南東約12km、掛川市役所大東支所の北北東約2kmのところ
掛川市役所大東支所の東側道路を北へ進みます
約700mの一時停止を右(東)へ、約300mの大東坂橋を渡った三叉路を右(北東)へ
約800の一時停止の交差点を右(北東)へ、県道69号線です

約300mで左手に満勝寺が南東向き参道であります
手前左手に広い
駐車場が有ります

山門です

参道を進むと境内左奥には金色の鳥居の稲荷社が有ります、軒下には「經王大菩薩」の額が懸けられています

右手に「清正公堂」です、熊本清正公より分霊され、厄除・交通・安全・勝負の守護神として仰がれています

説明版です
吉長山満勝寺縁起
由緒
当山は、室町時代、人皇第102代御花園天皇の文安3年3月(西暦1446年)に雑貨肥後守吉長によって創建され、寺域は雑貨城の跡である。
吉長は、かつて「戦功を立てようとするならば、法華経を信じ、教えのままに行じなさい」という霊夢を見ました。
その頃、京都の本満寺開山、玉洞妙院日秀上人は、近衛関白左大臣道嗣公の子として生まれ、幼名を命一丸と称しました。
宗祖日蓮大聖人から5世の法孫日伝上人の法脈をうけ、知行兼備、宗徳高く、のの名は洛の内外の多くの人々に慕われておりました。
吉長はその高徳を聞き、日秀上人の許に参り、霊夢のことを語るとともに、法華経の戒を受けて入信し、霊夢がもし空しいものでなかったらお寺を一宇建立させていただきましょうと誓いました。
その後、まもなく朝倉氏の反乱があり、吉長は武衛に従って、この討伐に加わり、霊夢のお告げどうり、大いに戦功を挙げ、 遠江国中村を賞録として与えられました。
そこで誓願のとおり一寺を建立し、遠州における法華経流布の拠点にしようと日秀上人に願い出たところ、上人は行学衆に秀でた仏種院日住上人を遣わして中村の郷に当寺を草創せしめました。
その深重な因縁から玉洞妙院日秀上人を当山の開山と仰ぎ、日住上人を第二世とし、さらに戦勝の故に寺号を満勝寺、開基壇越吉長の名をとどめて山号を吉長山と称します。日秀・日住両上人のゆかりから京都本満寺四ヶ聖跡の一つに数えられております。
雑賀氏はさらに寺田を寄進し、満勝寺はいよいよ隆盛になり、その後、今川義元、大須賀康高氏らは諸役を免許の上、寺領を寄せ、徳川三代将軍家光公からは累代朱印二十五石を賜り、以来五百有余年連綿として法灯を現在に伝えております。

参道石段を上ります

右手に鐘楼です



石段を上り切った左手に目的のイチョウです

「市指定天然記念物 満勝寺イチョウ」の標柱です



北東側から、目通り2.8m、樹高25m、樹齢300年上だそうです

本堂です

境内本堂南側からイチョウを見ました
では、次へ行きましょう

2025・3・1・10・50
掛川市役所大東支所の東側道路を北へ進みます
約700mの一時停止を右(東)へ、約300mの大東坂橋を渡った三叉路を右(北東)へ
約800の一時停止の交差点を右(北東)へ、県道69号線です

約300mで左手に満勝寺が南東向き参道であります

手前左手に広い


山門です


参道を進むと境内左奥には金色の鳥居の稲荷社が有ります、軒下には「經王大菩薩」の額が懸けられています


右手に「清正公堂」です、熊本清正公より分霊され、厄除・交通・安全・勝負の守護神として仰がれています


説明版です
吉長山満勝寺縁起
由緒
当山は、室町時代、人皇第102代御花園天皇の文安3年3月(西暦1446年)に雑貨肥後守吉長によって創建され、寺域は雑貨城の跡である。
吉長は、かつて「戦功を立てようとするならば、法華経を信じ、教えのままに行じなさい」という霊夢を見ました。
その頃、京都の本満寺開山、玉洞妙院日秀上人は、近衛関白左大臣道嗣公の子として生まれ、幼名を命一丸と称しました。
宗祖日蓮大聖人から5世の法孫日伝上人の法脈をうけ、知行兼備、宗徳高く、のの名は洛の内外の多くの人々に慕われておりました。
吉長はその高徳を聞き、日秀上人の許に参り、霊夢のことを語るとともに、法華経の戒を受けて入信し、霊夢がもし空しいものでなかったらお寺を一宇建立させていただきましょうと誓いました。
その後、まもなく朝倉氏の反乱があり、吉長は武衛に従って、この討伐に加わり、霊夢のお告げどうり、大いに戦功を挙げ、 遠江国中村を賞録として与えられました。
そこで誓願のとおり一寺を建立し、遠州における法華経流布の拠点にしようと日秀上人に願い出たところ、上人は行学衆に秀でた仏種院日住上人を遣わして中村の郷に当寺を草創せしめました。
その深重な因縁から玉洞妙院日秀上人を当山の開山と仰ぎ、日住上人を第二世とし、さらに戦勝の故に寺号を満勝寺、開基壇越吉長の名をとどめて山号を吉長山と称します。日秀・日住両上人のゆかりから京都本満寺四ヶ聖跡の一つに数えられております。
雑賀氏はさらに寺田を寄進し、満勝寺はいよいよ隆盛になり、その後、今川義元、大須賀康高氏らは諸役を免許の上、寺領を寄せ、徳川三代将軍家光公からは累代朱印二十五石を賜り、以来五百有余年連綿として法灯を現在に伝えております。

参道石段を上ります


右手に鐘楼です




石段を上り切った左手に目的のイチョウです


「市指定天然記念物 満勝寺イチョウ」の標柱です




北東側から、目通り2.8m、樹高25m、樹齢300年上だそうです


本堂です


境内本堂南側からイチョウを見ました

では、次へ行きましょう


2025・3・1・10・50