9月30日月曜日の天気予報で、明日午後から明後日にかけて、台風17号が東日本の東岸沿いを北上しそうです
被害の無い事を願っていますが、今年は日本に近付く台風が多かった様に思います
では、今回の投稿です
水沢大手町1丁目は、奥州市役所のあるところというか奥州市役所(水沢庁舎)の敷地内です
南側の駐車場(合同庁舎東側)に入りました
目的のスギは、市役所庁舎の南東側にあり大手通りから良く見えます
南側駐車場から見上げました、幹が真っ白になっています
大手通りへ出て南東側から、手前に若い木が入ってしまいました
東側から見上げました、樹高15m、目通り幹囲5.5m、推定樹齢400年以上の巨木です
説明版です、一部壊れています
三之曲輪「姥杉」
水沢城は、1629(寛永6)年、伊達家一門の留守宗利が入城してから幕末までの約230年間、1万6千石の留守氏の居城でした。
城は、正確には水沢要害と呼ばれ、一之曲輪(本丸)、二之曲輪(ニの丸)、三之曲輪(三の丸)、南曲輪などにわかれ、曲輪を囲む土塁に杉や松などが植えられていたが、現在は、この姥杉1本だけが残っています。
市役所、合同庁舎敷地が三之曲輪に含まれ、市役所正面玄関北側付近に大手門や太鼓櫓、後に子弟の教育の場であった立生館が置かれました。
(水沢市指定天然記念物) 水沢市
東北東側から見ました
東側の市役所入口です
西側から見ました
水沢城の説明版です
水沢城(水沢要害)跡
水沢城は、いつ、誰が最初に築いたか明らかではない。
中世末期の天正19(1591)年、豊臣秀吉が葛西大崎一揆を鎮圧した後に修復され、伊達政宗の支配するところとなり、伊達氏の家臣白石宗実、柴田宗朝等が水沢城(水沢要害)を治めた。
寛永6(1629)年伊達宗利が水沢要害の主となった。以後1万6千石となり、明治維新まで約240年間居住した。
江戸時代の水沢要害の絵図によると。中心部には一の曲輪、南曲輪、二の曲輪、三の曲輪がある。その周囲には次第に町場が形成された。
廃藩置県後は、胆沢県庁、小学校などと変わり、現在は市役所と剣の合同庁舎となっている。
一の曲輪、二の曲輪などのあったところは住宅地となり、城跡の面影はほとんど失われているが、わずかに三の曲輪の土塁上に植えられた「姥杉」と城下入口の丁切に設置されていた冠木門と考えられる「黒門」が増長寺から移設されて今に残る。
吉小路、新小路、日高小路、大畑小路などには城下町の面影が残る。当時をしのぶ武家屋敷は、武家住宅資料館として公開されている。
要害とは
仙台藩における支配拠点の呼名の一つ。
幕府に公認された「城」に準ずる扱いを受けた。
中世城館を引き継いだところが多い。
ふるさと名所50景「庁舎・姥杉と大手通り」です
では、次へ行きましょう
2024・9・11・12・25
被害の無い事を願っていますが、今年は日本に近付く台風が多かった様に思います
では、今回の投稿です
水沢大手町1丁目は、奥州市役所のあるところというか奥州市役所(水沢庁舎)の敷地内です
南側の駐車場(合同庁舎東側)に入りました
目的のスギは、市役所庁舎の南東側にあり大手通りから良く見えます
南側駐車場から見上げました、幹が真っ白になっています
大手通りへ出て南東側から、手前に若い木が入ってしまいました
東側から見上げました、樹高15m、目通り幹囲5.5m、推定樹齢400年以上の巨木です
説明版です、一部壊れています
三之曲輪「姥杉」
水沢城は、1629(寛永6)年、伊達家一門の留守宗利が入城してから幕末までの約230年間、1万6千石の留守氏の居城でした。
城は、正確には水沢要害と呼ばれ、一之曲輪(本丸)、二之曲輪(ニの丸)、三之曲輪(三の丸)、南曲輪などにわかれ、曲輪を囲む土塁に杉や松などが植えられていたが、現在は、この姥杉1本だけが残っています。
市役所、合同庁舎敷地が三之曲輪に含まれ、市役所正面玄関北側付近に大手門や太鼓櫓、後に子弟の教育の場であった立生館が置かれました。
(水沢市指定天然記念物) 水沢市
東北東側から見ました
東側の市役所入口です
西側から見ました
水沢城の説明版です
水沢城(水沢要害)跡
水沢城は、いつ、誰が最初に築いたか明らかではない。
中世末期の天正19(1591)年、豊臣秀吉が葛西大崎一揆を鎮圧した後に修復され、伊達政宗の支配するところとなり、伊達氏の家臣白石宗実、柴田宗朝等が水沢城(水沢要害)を治めた。
寛永6(1629)年伊達宗利が水沢要害の主となった。以後1万6千石となり、明治維新まで約240年間居住した。
江戸時代の水沢要害の絵図によると。中心部には一の曲輪、南曲輪、二の曲輪、三の曲輪がある。その周囲には次第に町場が形成された。
廃藩置県後は、胆沢県庁、小学校などと変わり、現在は市役所と剣の合同庁舎となっている。
一の曲輪、二の曲輪などのあったところは住宅地となり、城跡の面影はほとんど失われているが、わずかに三の曲輪の土塁上に植えられた「姥杉」と城下入口の丁切に設置されていた冠木門と考えられる「黒門」が増長寺から移設されて今に残る。
吉小路、新小路、日高小路、大畑小路などには城下町の面影が残る。当時をしのぶ武家屋敷は、武家住宅資料館として公開されている。
要害とは
仙台藩における支配拠点の呼名の一つ。
幕府に公認された「城」に準ずる扱いを受けた。
中世城館を引き継いだところが多い。
ふるさと名所50景「庁舎・姥杉と大手通り」です
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2024・9・11・12・25