ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

岩手県奥州市、水沢大手町1丁目「大手町のスギ」(市指定)です!!

2024-09-30 18:30:29 | 巨樹・大木
 9月30日月曜日の天気予報で、明日午後から明後日にかけて、台風17号が東日本の東岸沿いを北上しそうです

 被害の無い事を願っていますが、今年は日本に近付く台風が多かった様に思います

 では、今回の投稿です

 水沢大手町1丁目は、奥州市役所のあるところというか奥州市役所(水沢庁舎)の敷地内です

 南側の駐車場(合同庁舎東側)に入りました

 目的のスギは、市役所庁舎の南東側にあり大手通りから良く見えます

 南側駐車場から見上げました、幹が真っ白になっています

 大手通りへ出て南東側から、手前に若い木が入ってしまいました

 東側から見上げました、樹高15m、目通り幹囲5.5m、推定樹齢400年以上の巨木です

 説明版です、一部壊れています
   三之曲輪「姥杉」
 水沢城は、1629(寛永6)年、伊達家一門の留守宗利が入城してから幕末までの約230年間、1万6千石の留守氏の居城でした。
 城は、正確には水沢要害と呼ばれ、一之曲輪(本丸)、二之曲輪(ニの丸)、三之曲輪(三の丸)、南曲輪などにわかれ、曲輪を囲む土塁に杉や松などが植えられていたが、現在は、この姥杉1本だけが残っています。
 市役所、合同庁舎敷地が三之曲輪に含まれ、市役所正面玄関北側付近に大手門や太鼓櫓、後に子弟の教育の場であった立生館が置かれました。
   (水沢市指定天然記念物) 水沢市

 東北東側から見ました

 東側の市役所入口です

 西側から見ました

 水沢城の説明版です
    水沢城(水沢要害)跡
 水沢城は、いつ、誰が最初に築いたか明らかではない。
 中世末期の天正19(1591)年、豊臣秀吉が葛西大崎一揆を鎮圧した後に修復され、伊達政宗の支配するところとなり、伊達氏の家臣白石宗実、柴田宗朝等が水沢城(水沢要害)を治めた。
 寛永6(1629)年伊達宗利が水沢要害の主となった。以後1万6千石となり、明治維新まで約240年間居住した。
 江戸時代の水沢要害の絵図によると。中心部には一の曲輪、南曲輪、二の曲輪、三の曲輪がある。その周囲には次第に町場が形成された。
 廃藩置県後は、胆沢県庁、小学校などと変わり、現在は市役所と剣の合同庁舎となっている。
 一の曲輪、二の曲輪などのあったところは住宅地となり、城跡の面影はほとんど失われているが、わずかに三の曲輪の土塁上に植えられた「姥杉」と城下入口の丁切に設置されていた冠木門と考えられる「黒門」が増長寺から移設されて今に残る。
 吉小路、新小路、日高小路、大畑小路などには城下町の面影が残る。当時をしのぶ武家屋敷は、武家住宅資料館として公開されている。
   要害とは
 仙台藩における支配拠点の呼名の一つ。
 幕府に公認された「城」に準ずる扱いを受けた。
 中世城館を引き継いだところが多い。

 ふるさと名所50景「庁舎・姥杉と大手通り」です

 では、次へ行きましょう


 2024・9・11・12・25
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県奥州市、江刺岩谷堂舘下「館山史跡公園・館山八幡神社のイチョウ」です!!

2024-09-30 12:31:31 | 巨樹・大木
 江刺岩谷堂舘下地区は、奥州市役所の北東約7km、奥州市役所江刺総合支所の北東側約1kmの丘の上です

 丘の上は藤原氏の舘跡・岩谷堂城址となっています

 奥州市役所江刺総合支所東側の県道14号線を北へすぐの「奥州地区合同庁舎江刺分庁舎」前の信号を右(東)へ

 約150mで右へ鍵の手に曲がって「岩谷堂地区総合運動場入口」の急な「岩谷堂城御舘坂」を上って行きます

 約300mの体育館北側で左(北)へ、約300m更に急な坂道を上がって行くと鋭角に右へ曲がって館山史跡公園に入ります

 約400mで館山八幡神社入口です

 約150m先の夢乃橋の駐車場に入りました

 夢乃橋へ行ってみましょう
 *桜の名所・向山公園と奥州藤原氏ゆかりの館山史跡公園を結ぶ架け橋で、橋上からは東に種山高原、西に市街地を眼下に焼石連峰の山々が一望できる名所ですが、ネット上では神霊スポットとして有名になってしまっています

 南西側です

 北東側です

 岩谷堂城址へ行ってみます

 舘山史跡公園です

 案内図です

 八幡神社入口まで戻って来ました

 藤原氏御舘跡の石碑です

 参道を進みます

 左手には東屋がある曲輪です

 西側の切岸です

 東側の切岸です

 八幡神社の鳥居です 

 鳥居を潜った左手土塁上に祠です

 八幡神社拝殿です、南南東向きに鎮座します

 本殿です


 社殿右手には延慶4年(1311年)の古碑です

 八幡神社社殿前左手に目的のイチョウです

 東側から

 北東側から、ヒコバエが大きく育っています

 北側から

 西側から、樹高24m、目通り幹囲7.3mの巨木です

 南側から

 南東側から見上げました

 八幡神社東側に八角堂(二清院)です

 説明版です
   「二清院」について
 「二清院」は、藤原経清、清衡父子を顕彰する施設です。
 藤原経清は、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫に当たり、陸奥国府の役人でした。
 当時、岩手の内陸を支配していた安倍氏の娘を妻にしており、江刺の豊田舘を拠点にしていました。
 息子は後に奥州藤原氏の初代となる藤原清衡です。
 経清は前九年合戦で安倍氏と共に朝廷軍と戦いますが、敗れて処刑されます。
 清衡の母(経清の妻)は朝廷軍に味方した秋田の清原氏に嫁ぐこととなり、清衡は清原氏一族として育ちました。
 清衡氏の跡継ぎ問題で清衡が兄弟と戦ったのご後三年合戦で、最終的に清衡が勝利しましたが、この戦いのなかで清衡の妻子は殺害されました。
 その後、清衡は康和年間(1099~1140)に江刺の豊田舘から平泉に拠点を移し、合戦によって亡くなった人々を敵味方区別することなく弔うための中尊寺を建立し、平和な世の中を目指して国造りをおこないました。
 この清衡の思想は素晴らしいものであり、藤原経清、清衡父子を顕彰するために、「二清院」を平成11年3月に建立したものです。

 説明版です
   岩谷堂城跡について
 岩谷堂城は中世から近世にかけての山城で、現在も土塁や空堀、水堀の一部が残されています。
 発掘調査の結果から、築城年代は中世まで遡ることが分かっており、葛西氏の家臣である江刺氏によって築城されたと考えられます。
 江戸時代には伊達氏の支配下におかれ、幕末まで伊達氏一門の岩谷堂伊達氏(岩城氏)の居館として機能し、岩谷堂要害と呼ばれました。
 また本丸跡には延慶4年(1311年)の古碑やイチョウの古木が残されています。

 長く成ってしまいました、では、次へ行きましょう



 2024・9・11・11・20
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県奥州市、江刺玉里上樋茂井野「瑞徳寺のスギ2本」です!!

2024-09-30 06:35:22 | 巨樹・大木
 江刺玉里上樋茂井野地区は、奥州市役所の北東約15km、奥州市役所江刺総合支所の東北東約8km、奥州市役所玉里地区センターの南東約1kmのところです

 奥州市役所玉里地区センターを北へ出て、信号を右(東)へ、県道8号線です

 約800mで斜め右(南南東)へ、約500m坂道を上って右から回り込む様に進むと

 瑞徳寺の西側に大きな杉が見えて来ます

 駐車場入り口に車を止めさせて頂きました

 目的のスギは墓地の入り口です

 南側から、太い注連縄が巻かれています

 南東東側から、樹高33m、目通り幹囲5.4m、推定樹齢は300年(以上)の巨木です

 東側から

 北西側から見上げました

 南側にも注連縄を巻かれた一回り細い杉です
 
 東側から

 境内の西側入口から入って本堂です、山門は境内南側です

 鐘楼です

 では、次へ行きましょう



 2024・9・11・10・45
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県奥州市、江刺藤里智福「智福毘沙門堂の湯桶杉とカヤ」です!!

2024-09-29 18:41:02 | 巨樹・大木
 江刺藤里智福地区は、奥州市役所の東北東約14km、奥州市役所江刺総合支所の東約9km、奥州市役所藤里地区センターの北東約2kmのところです

 奥州市役所藤里地区センター北側の県道156号線を東へ進みます

 道成りに約1.8kmで、国道397号線に合流するように信号機ですが、国道に出ずに東の側道へ

 道路脇に毘沙門堂の案内板が有ります

 北へ約1.3km道成りに一度上がってから下って行くと

 毘沙門堂の参道入口です

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 説明版です
   重要文化財
     兜跋毘沙門天
 堂内にある多くの棟札のうち、永禄10年(1567)のものは、江刺市最古のものであるが、現堂宇は元禄5年(1692)の再建のもので、代表的社寺再建として、平成3年岩手県指定文化財(建造物)となった。
 由緒及び宝暦風土記に、「嘉祥3年(850)慈覚大師御作の刀八(兜跋)毘沙門天像を祭り開基」とある。
 棟札に吉祥山智福寺とあることから、古来羽黒派の修験寺が別当であったが、明治維新の神仏分離、修験道廃止によって、軻遇突智神を祭神に愛宕神社として今日に至った。
 トチ材の一本造兜跋毘沙門天立像は、平安後期、11世紀の作といわれ、地天女の肩に立つ総高232cmの堂々たる像容と、顔面を除くほぼ全身に残る丸ノミの跡は、日本屈指の鉈彫像として、昭和34年重要文化財に指定された。
 昔から王城鎮護の軍神、北方の守護神、庶民には福徳の神として、今尚厚い信仰に支えられている。
 平成6年新築の収蔵庫には、ほかに県指定文化財の毘沙門天三像(毘沙門天、吉祥天、善弐師童子)と、金箔を残す十一面観音の4体、市指定文化財の木像、木器多くが保存されている。

 収蔵庫まで管理者の方の自宅の脇から毘沙門堂脇の駐車場まで行けるようですが、約200mの参道を歩いて向かう事にしました

 参道を進みます

 鳥居が見えて来ました南南東向きの参道です

 一ノ鳥居です

 更に参道を進みます

 目的のスギの樹冠が見えて来ます

 竹藪の影に鳥居が見えました

 ニノ鳥居でしょうか

 目的の湯桶杉です

 南側から

 説明版です
   スギ(愛宕神社)
 ・樹齢   1200年(伝承)
 ・樹高   27m
 ・根回り  6.90m
 境内入口「湯桶杉」は昔、太い枝で湯桶作ったことによる呼び名という。
 境内裏のものは樹齢1100年といわれている。
      胆江地方林業振興協議会
 *目通り幹囲は6.8mの巨木だそうです

 参道石段脇(東側)から

 西側から見上げました

 境内東側にはカヤの木が二本あります、東側のカヤが太い方です

 西側から

 説明版です
   カヤ(愛宕神社)
 ・樹齢   1100年(伝承)
 ・樹高   21m
 ・根回り  5.20m
 岩手県内有数の巨樹で、枝下2mほど。
 毎年、多数の果実を実のらせる。
 カヤの種子は過去には食用とされていた。
      胆江地方林業振興協議会
 *目通り幹囲は4.4mあるそうです

 東側から見ました

 水盤です

 鐘楼です

 愛宕神社(毘沙門堂)です

 境内のイチョウです

 社殿西側の赤鳥居です

  一段高い所に湯桶杉の説明版にあった樹齢1100年のスギの大木です

 では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県奥州市、江刺伊手荒谷「秋葉神社の夫婦杉と御神木杉」です!!

2024-09-29 12:54:14 | 巨樹・大木
 江刺伊手荒谷地区は、奥州市役所の東北東約16km、奥州市役所江刺総合支所の東12km、奥州市役所藤里地区センターの東約5kmのところです

 奥州市役所藤里地区センター北側の県道156号線を東へ進みます

 道成りに約1.8kmで、国道397号線に合流するように信号機を左(東)へ

 道成りに約2.8kmで「伊手町方面・⇐・秋葉神社の杉」の案内板を斜左(東)へ

 約400mで消防屯所前の交差点です

 屯所前の大きな石碑です

 屯所の北側が秋葉神社参道入口に成っていますので車を止めさせて頂きました

 南西向きの参道石段ですが、草苅がされていません

 中段の石碑です

 もう少しですが、日向は暑いです

 石段を上り切ると左に曲がって鳥居です

 目的の夫婦杉ですが、横からなので1本に見えます

 南東側から、注連縄が巻かれています

 説明版です
   スギ(秋葉神社)
 ・樹齢   500年(推定)
 ・樹高   27m
 ・根回り  8.60m
 日本特産種として馴染み深い。
 2本のスギが初めは離れたものが時間をかけて接合したようである。
 地元では「夫婦スギ」として親しまれている。
    胆江地方林業振興協議会
 *合体木としては、目通り幹囲は5.57mと4.48mの幹で、10.05mの巨木です

 すぐ脇に「八躰佛」の石碑です

 東側一段下側から見上げました

 北東側から

 御神木の杉です

 南東側から、こちらにも注連縄の巻かれています

 北側から

 後方に夫婦杉が見えています、御神木の杉は胸高幹囲は6.76mの巨木です

 社伝へ向かいます

 拝殿前から杉を見ました

 拝殿です

 後方に回り込むと

 本殿です

 では、次へ行きましょう




 2024・9・11・09・30 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県奥州市、江刺伊手小中田「戸隠神社のスギ」(市指定)です!!

2024-09-29 06:40:56 | 巨樹・大木
 江刺伊手小中田地区は、奥州市役所の東北東約16km、奥州市役所江刺総合支所の東南東約12km、奥州市役所藤里地区センターの東南東約4kmのところです

 奥州市役所藤里地区センター北側の県道156号線を東へ進みます

 道成りに約1.8kmで、国道397号線に合流するように信号機を左(東)へ

 道成りに約2kmで赤い枠の「戸隠神社⇒」の案内板を右(南東)へ

 約800mで「源龍水・戸隠神社の杉⇒」の案内板を斜め右(南)へ

 約600mで戸隠神社参道入口です

 標柱と案内板に表参道は急な385段の為裏参道に廻る様にと記されています

 参道石段を見上げると厳しそうです

 道路の先に「戸隠神社入口⇒」の看板が見えます、行ってみました

 看板から右へ急な砂利道を上ります

 住宅(宮司宅)脇に「宮司宅裏駐車場へ」とあるので、右から回り込む様にさらに砂利道を更に上り駐車場に入りました

 裏参道入口です、社殿まで50mです

 最初の石段は踏み面が水平でないので歩きにくいですが、登り切ると参道には人口芝マットが敷かれています

 境内に入ります

 境内に入ると左手一段高くに目的のスギが見えました

 南西側から

 南東側から見上げました
 
 天然記念物標柱です

 説明版です
   スギ(戸隠神社)
 ・樹齢   700年(伝承)
 ・樹高   35m
 ・根回り  7.34m
 途中から幹が二つに分かれている。
 地域のシンボル的なスギである。
 青森・岩手県はスギの天然林分布の北限地帯でもある。
     胆江地方林業振興協議会
*目通り幹囲は6.0mの巨木です 

 南東向きに拝殿です

 本殿です

 説明版です
   戸隠神社
御祭神  手力雄命(たちからおのみこと)
御由緒
 延暦年間(782年~806年)第50代桓武天皇の御宇征夷大将軍、坂上田村麻呂守護神として勧請にして、後の蝦夷平定に際し信濃から討征に参加した配下の者が創建したとも伝えられてている。
 古代この地は、江利郡四郷の一つ信濃郷と呼ばれていた。
 又第70代御冷泉天皇の時代(1045年~1067年)鎮守府将軍源頼義・義家親子前九年後三年の両役に於いて当社に立願したと伝えられている。
 古くより日本三社の一つといわれている。
 明治6年水澤県第16大区郷社に列せられたが、同8年5月伊出村村社に改められる。
 明治40年4月弊帛供進社に指定される。
 本社は長野県戸隠村の戸隠神社である。
 昭和54年岩手県神社庁より三級社に、平成6年三級上の認定を受ける。
 平成11年12月神社本庁、岩手県神社庁より第9期神社振興対策神社の指定を受ける。
御神徳
 天照大神が天の岩戸にお隠れになった時、無双の力を以て天の岩戸を開いたという力技神様、五穀豊穣の神様、虫歯の神様として信仰されている。
お祭り
 例大祭  4月23日   秋祭り  9月23日   虫歯平癒祈願祭   6月4日
        戸隠神社  江刺市伊手字小中田54番地
          第9期神社振興対策神社の指定記念
        平成13年6月建立
*第70代天皇は後冷泉天皇ですので、書き間違いですね

 御札やお守り・ご朱印は宮司宅で頂けます

 石祠です

 石碑ですが読めません

 隣に説明版です
   祈念の碑について
 この碑は、明治28年日清戦争終戦を機に暮らしの安寧を願い、伊手村民子、総代有志が戸隠様へ石鳥居、石段を奉納、その内容を記録したものです。
 表題の揮毫は明治30年より江刺初代郡長を務めた、沼宮内出身の板垣政徳氏である。
 その子息の征四郎氏は陸軍大将、陸相をも務めた人で著名人一家でもある。
      明治33年9月23日建立

 表参道を覗いてみました

 やはり裏参道で正解でしたね

 戻って「源龍水」を頂きました

 では、次へ行きましょう




 2024・9・11・09・00
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県奥州市、江刺田原宮地「五十瀬神社のスギ」です!!

2024-09-28 18:31:07 | 巨樹・大木
 江刺田原宮地地区は、奥州市役所の東約8km、奥州市役所江刺総合支所の南東約7kmのところ

 奥州市役所江刺総合支所東側の国道456号線を南へ進みます

 約600mで国道456号線を左に分けて直進します、県道14号線です

 約2.5kmで斜め左(南東)へ、間も無く東北新幹線の高架を潜ります
 
 約1.4kmで先ほど別れた左からの国道456号線に合流するように右(南東)へ

 道成りに約2.3kmで右(南東)へ坂道を下って行きます

 約400mで国道397号線を横切って、更に約400mで「⇐興国寺」の案内板を左(北東)へ

 すぐ左手に五十瀬神社の参道が南東向きに出ています

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 五十瀬神社西側の住宅への街道に成っている部分から神社の参道です

 鳥居です

 草だらけの石段を上がります

 手水鉢です

 社殿です

 記念碑です



 社殿の西側に目的のスギです

 南側から、目通り幹囲5.1mの巨木です

 東側から

 北東側から見ました

 では、次へ行きましょう



 2024・9・11・08・35
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県奥州市、水沢羽田町粟ノ瀬「羽田八雲神社のイロハモミジ」(市指定)です!!

2024-09-28 12:31:22 | 巨樹・大木
 水沢羽田町粟ノ瀬地区は、奥州市役所の東約4kmの北上川東側です

 奥州市役所北東側の信号から東へ進みます、約800mの「一関・国道4号線⇒」の標識に従って信号を右(南)へ、水沢バイパスです

 約400mの「花園町」信号を左(東南東)へ、約1.2kmで信号を右(南)へ、国道4号水沢東バイパスですが

 すぐ先の「⇐大船渡・住田・国道397号線」の標識に従って信号を左(東)へ北上川を「新小谷木橋」で渡ります

 約1.4kmの「新小谷木橋」を渡り切った交差点を斜め左(北東)へ

 約300mで横断歩道手前を左(北西)へ入ります

 約200mで右(北)へ、約200mで左手住宅の直ぐ先に

 鳥居が見えました

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 参道を進むと手水舎です

 境内真ん中に目的のイロハモミジです

 右手に八雲神社社殿が南西向きに鎮座します

 手前には境内社です

 北側から、北西側の枝は切り取られてしまっています

 東側から

 奥州市指定天然記念物「いろはもみじ」の標柱です

 説明プレートです
   羽田地区名木巨木
 樹名   イロハモミジ
 根本周囲 5m70cm
 樹高   13m
 推定樹齢 300年
 所有者  八雲神社
   平成元年3月 羽田公民館選定

 南東側から、目通り幹囲は4.0mの大木です

 南側から見ました

 伊手川を見に行きました

 下流側です、この直ぐ先で北上川に合流します

 上流側です

 土手上から八雲神社境内を見ましたが、遠くてわかりませんでした

 では、次へ行きましょう

 *鳥居に札がぶら下がっていました、境内でスズメバチが発生しているようですので気を付けて下さい




 2024・9・11・08・35
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県奥州市、水沢羽田町門下「千養寺のカヤ」(市指定)です!!

2024-09-28 06:45:51 | 巨樹・大木
 水沢羽田町門下地区は、奥州市役所の東南東約7kmのところ

 奥州市役所北東側の信号から東へ進みます、約800mの「一関・国道4号線⇒」の標識に従って信号を右(南)へ、水沢バイパスです

 約400mの「花園町」信号を左(東南東)へ、約1.2kmで信号を右(南)へ、国道4号水沢東バイパスですが

 すぐ先の「⇐大船渡・住田・国道397号線」の標識に従って信号を左(東)へ北上川を「新小谷木橋」で渡ります

 約2.6kmで東北新幹線の高架の手前を右(東南東)へ入って高架を潜ります

 約200mで鍵の手に曲がって南東へ向かいます

 約2.4kmで道路左手に千養寺(黒田助千手観音)が南向きにあります

 ここからは前回「千養寺の姥杉」の続きです

 鳥居下から道路南側の「カヤ」を見ました

 北東側から、少し斜めに立っているのが分かります

 説明版です
   北限のカヤ
 カヤ(榧)は本州北部から九州・四国・屋久島まで分布する裸子植物イチイ科の常緑高木です。
 カヤの自生地は気仙郡が北限とされ岩手県が栽培地の北限とされています。
 このカヤは自生かどうかは不明ですが北限のものとして有名です。
 根回り4.56m、樹高15m、樹齢は500年位と推定され、現在水沢区の指定天然記念物として保護されています。

 東側から沢山の実を付けています

 北西側から

 西側から

 南西側から見上げました

 南側にはゲンジボタルの観られるビオトープが有るようです、大きな「ゲンジボタルの里」の看板が有りました

 では、次へ行きましょう



 2024・9・11・08・15
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県奥州市、水沢羽田町門下「千養寺の姥杉」(羽田地区名木巨木)です!!

2024-09-28 06:45:50 | 巨樹・大木
 水沢羽田町門下地区は、奥州市役所の東南東約7kmのところ

 奥州市役所北東側の信号から東へ進みます、約800mの「一関・国道4号線⇒」の標識に従って信号を右(南)へ、水沢バイパスです

 約400mの「花園町」信号を左(東南東)へ、約1.2kmで信号を右(南)へ、国道4号水沢東バイパスですが

 すぐ先の「⇐大船渡・住田・国道397号線」の標識に従って信号を左(東)へ北上川を「新小谷木橋」で渡ります

 約2.6kmで東北新幹線の高架の手前を右(東南東)へ入って高架を潜ります

 約200mで鍵の手に曲がって南東へ向かいます

 約2.4kmで道路左手に千養寺(黒田助千手観音)が南向きにあります

 前のバス停のある広場脇に車を止めさせて頂きました

 「奥羽19番・江刺6番 黒田助千手観音」の標柱です

 鳥居が有ります

 説明版です
   天台宗黒田山千養寺
  由来
 当寺は、慈覚大師の開基である。
 嘉祥3年(850)慈覚大師が当地方を遊化の際、神示を得て丈7尺(2.1m)余の千手観音の立像を刻み、一庵を建立して樹淵山千養寺と号し同年6月15日千手観音を安置した。
 この千手観音は、地方稀に見るものでその彫刻の妙と年代に古きは、目をみはるものがある。
 天仁元年(1108)藤原清衡が9尺(2.7m)四面の本堂を再建し、代々国主祈願所として歳月を重ねたが、慶長7年(1602)住僧の示寂によって長い間無住となった。
 その後、延宝5年(1677)5月羽州(山形県)羽黒山正穏院覚翁源正が来住し、当寺を再興し仙台・仙岳院の末寺とした。
 同7年(1679)伊達綱村公が祈願のため3間(5.4m)四面の本堂を建立し、更に客殿・庫裡・鐘楼堂などの修繕を行なった。
 宝永5年(1708)5月19日より正徳2年9月22日に至るまで綱村公の命によって諸事祈願のため、普門品33万巻を読誦し、伊達家のためには100座の護摩修行を行なったといわれている。
 現在は中尊寺の末寺であって奥州霊場33ヶ所第19番札所として名高く昔は春・夏・秋・冬を通じて参拝人の絶えることがなかった。
 祭典は、春・秋・二期、3月17日、9月17日である。
 天然記念物(水沢市指定)   かや(榧)1本
 かやの自生地は、気仙郡が北限とされているが、当地方としては貴重なもので、樹齢は500年と推定される。
 有形文化財(水沢市指定)   梵鐘
          平成2年3月

 目的の姥杉は境内南西端に立っています

 鳥居下(東側)から

 説明書きが幹に取り付けられています
    羽田地区名木巨木
 樹名   ウバスギ
 根本周  6m30cm
 樹高   24m
 推定樹齢 250年
 所有者  千手観音
   平成元年3月 羽田公民館選定
 *目通り幹囲は5.1mの巨木だそうです

 北東側から

 東向きに境内社が並びます

 本堂です

 東側には鐘楼です

 説明版に有った市指定有形文化財の梵鐘です

 説明書きです
  水沢市文化財指定
    指定番号   第7号
    指定年月日  昭和32年3月30日
 1、名称    梵鐘
 1、所在地   水沢羽田町字門下
 1、所有者   千養寺
 1、管理者   千養・・郎
     水沢市教育委員会
  供出を逃れた梵鐘
 この鐘は寛政7年(1795)に羽田町田茂山で鋳造されました。
 直径63.5cm、高さ1.15m、重さ109.3kgあります。
 第二次世界大戦末期に、軍需品の原材料として供出の命令が出されましたが,名鐘を失うのを忍びず、地域住民の手により、観音様の西隅に隠され危機をのりこえた鐘です。
 戦前の鐘として貴重なもので、昭和32年(1957)に水沢市の指定有形文化財にされています。

 本堂東側にはヒイラギの古木です

 南側から見上げました

 幹に取り付けられている説明書きです
    羽田地区名木巨木
 樹名   ヒイラギ
 根本周  2m70cm
 樹高   9m
 推定樹齢 200年
 所有者  千手観音
   平成元年3月 羽田公民館選定

 長く成りそうなので続きとさせて頂きます、次回は向かい側(南側)のカヤ(市指定)を見てみましょう

 *9月29日に投稿漏れに気が付いたので、日時を修正して投稿させて頂きました<m(__)m>


 2024・9・11・08・10
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県一関市、東山町田河津夏山「遠應寺の双根のモミ」(市指定)です!!

2024-09-27 18:31:33 | 巨樹・大木
 東山町田河津夏山地区は、一関市役所の北東約20km、一関市役所東山支所の北約5kmのところ

 一関市役所東山支所南東側の信号を北東へ向かいます、県道106号線です

 約500mで「⇐前沢・県道106号線」の標識に従って、猿沢川を渡って直ぐを左(北西)へ

 道成に約1.9kmの「水沢・国道343号線⇒」の標識に従って右(北)へ、県道289号線です

 約3.7kmの丁字路で国道343号線を右(南東)に出ます

 間も無く左手に「遠應寺」への入口があります

 参道へ入って直ぐ左の駐車スペースに車を止めさせて頂きました

 参道左手に目的のモミです

 曹洞宗 横澤山 遠應寺寺号標です

 南東側から見上げました


 天然記念物標柱です
*モミは岩手県南部から九州・四国の山地などに自生する常緑針葉の高木です。
 現在は庭園樹や公園樹としても植栽されていますが、市内でも自生と見られるモミが日当たりのよい斜面などに、他の樹種と混生しているものが確認されます。
かつて遠応寺の旧参道の両側には、一抱えもある太い根で連なってそびえる大きなモミがあり、地域の人々から「ふたつ根の樅」と呼ばれ、尊崇されていました。
 そのうち一方は1970年代後半に枯死してしまったものの、もう一方は良好な形で現存しており、樹齢は約580年と推定されます。(以上は一関市教育委員会のホームページから)

 東側から

 北側から見上げました
 
 参道を上に進みます、傍らのサクラは暑さのせいで黄葉してしまっています

 遠應寺本堂です

 入口前からモミを見ました

 では、次へ行きましょう




 2024・9・11・07・15
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県一関市、大東町猿沢伊沢田南沢「猿沢の箒カヤ」(県指定)です!!

2024-09-27 13:01:27 | 巨樹・大木
 大東町猿沢伊沢田南沢地区は、一関市役所の北東約20km、一関市役所大東支所の西約11kmのところ

 一関市役所大東支所を南西へ出て丁字路を左(南東)へ砂鉄川の橋を渡ります

 約200mで一時停止を右(西)へ、国道343号線です

 道成りに約9.5kmの「⇐東山・県道105号線」の標識に従って左(南)へ

 約900mで斜め右(西)へ入るところに「箒カヤここから650m」の案内板があります

 約400mで左(西南西)へ入りますここから箒カヤが見えました

 約200m先の道路脇に車を止めさせて頂きました

 住宅(倉庫)の後側にカヤの樹冠が見えています

 説明版です
   岩手県指定天然記念物(植物)
     猿沢の箒カヤ
      所在地   一関市大東町猿沢字伊沢田南沢
      指定年月日 昭和51年(1976)3月23日
 イチイ科の常緑針葉樹であるカヤは、九州、四国、本州南部に分布する暖地性の植物で、その天然分布の北限は岩手県の南端部分一帯であり、川崎町や大船渡市、陸前高田市に点在しています。
 カヤの成長は極めて遅いものの、その寿命は長く耐陰性が強いため、あまり日の当たらないところでも育ち、毎年大量の実をつけます。
 その実は油分を多く含み栄養価値も高いため、農家では古くから救荒植物として屋敷内に植えられることが多く、食用のみならず虫下しや喘息の薬としても用いられたとも伝えられています。
 指定当時の樹高は約20m、目通り周(地上1.2mの高さの幹周)が約6.6m。樹齢は約600年と推定される雌株のカヤで、旧家の庭先にそびえています。
 岩手県内のカヤとしては最大木です。根元は1本であるものの、地上2.5m付近で10本の枝に分かれている樹姿が特徴的であり、箒を連想させることから「ホウキガヤ」と呼ばれ、知己の人々に親しまれています。   

 東へ進んで道路からカヤノキを見ました

 もう一枚

 太い幹が見えましたので「良し」としましょう

 では、次へ行きましょう




 2024・9・11・07・00

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県一関市、大東町鳥海小山「興田神社の大スギ」です!!

2024-09-27 06:36:00 | 巨樹・大木
 大東町鳥海小山地区は、一関市役所の東北東約27km、一関市役所大東支所の北西約6kmのところ

 一関市役所大東支所前から南西へ出て、約300m砂鉄川の橋のところの丁字路を右(西北西)へ、県道10号線です

 道成りに約5.8km「一関市立興田小学校」西側の十字路を左(南西)へ

 約500mのゴミ集積所の所を右(北北西)へ坂道を上ります

 約700mで丁字路を右(東)へ

 間も無く左手に興田神社が南東向きに鎮座します

 ここかが前回の続きです


 隋身門を潜ったすぐ左右に門杉の様にスギの大木が並びます、右手のスギです

 石段中段南西側から

 石段上北西側から、目通り幹囲5m(目測)の巨木です

 北側から

 随身門東側から見上げました

 左側にも一回り細いスギです

 石段中段から、目通り幹囲4mの大木です

 境内に上がると北東端に目的の大杉です

 南西側から、太い注連縄が巻かれています

 西側から

 北側から、目通り幹囲7.2m、樹高33m、樹齢は伝承で1000年だそうです

 すぐそばの石段を降ります

 東側から

 南側から見上げました

 では、次へ行きましょう





 2024・9・11・06・20
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県一関市、大東町鳥海小山「興田神社」です!!

2024-09-26 18:31:18 | 文化財・寺社
  大東町鳥海小山地区は、一関市役所の東北東約27km、一関市役所大東支所の北西約6kmのところ

 一関市役所大東支所前から南西へ出て、約300m砂鉄川の橋のところの丁字路を右(西北西)へ、県道10号線です

 道成りに約5.8km「一関市立興田小学校」西側の十字路を左(南西)へ

 約500mのゴミ集積所の所を右(北北西)へ坂道を上ります

 約700mで丁字路を右(東)へ

 間も無く左手に興田神社が南東向きに鎮座します

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 文化財説明版です
   興田神社の指定文化財
  岩手県指定有形文化財(工芸品)
     銅鰐口
      所在地   一関市大東町鳥海字小山
      年代    鎌倉時代(14世紀)
      指定年月日 昭和49年(1974)2月15日
 この鰐口は、鋳銅製両面式で裏面に鍍金を施し、表面の撞座に五弁撞蓮華文が配され、鋳出し銘には「元徳2年壬申3月1日施主平重村」とあることから、制作年代は元徳2年(1330)とかんがえられますが、壬申は正徳元年(1332)となることから、そのいずれかと推察されます。
 撞座には破れがあるものの、意匠は鎌倉時代の図案が見られ、形式も古様を呈しており、在銘の鰐口としては本県最古のものといわれています。
  岩手県指定有形文化財(工芸品)  
     金銅製前立
      所在地   一関市大東町鳥海字小山
      年代    南北朝時代(14世紀)
      指定年月日 昭和59年(1984)5月1日
 この前立ては、高さ70cm、最大張97.2cmで、銅版前立に鍍金を施した左右対称の2枚の角形を、立会雲を唐草風に毛彫りされた中央部受座金具に挿入固定した半月形を呈しています。
 社伝によれば、源頼義が前九年合戦の勝利を謝して安部貞任着用の前立を奉納した、あるいは天正18年(1590)に和賀氏は落居の際に当社に奉納したものと伝えられていますが、調査により南北朝時代の作と判明しています。
 

 参道石段上には隋身門です

 随身門を潜ると右手上に鐘楼です

 更に参道石段を上がります

 手水場です

 拝殿です


 本殿です


 社殿の見事な彫刻です



 本殿右手には境内社が並びますがお名前が分かりませんでした

 石碑や石祠も並びます

 北東側の石段を下ると、社務所前には神楽殿(舞殿)です

 水盤です 

 では、境内のスギを見て行きましょう




 2024・9・11・06・25
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手県一関市、大東町大原川内「山吹城址の大銀杏」です!!

2024-09-26 12:46:47 | 巨樹・大木
 大東町大原川内地区は、一関市役所の東北東約29km、一関市役所大東支所のあるところです

 一関市役所大東支所の北側の丘の上に山吹城址があります、大東体育センターと春日グラウンドの間の道路を北へ坂道を上がります

 坂道を上った所が山吹城址入口に成っています

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 城跡まで150mです

 説明版です
   市指定史跡
     山吹城本丸跡
       所在地    一関市大東町大原字山吹
       所有・管理者 一関市・大東支所
       指定年月日  昭和54年3月20日
 山吹城は葛西七騎の一つ、東山旗頭と称された大原千葉氏の居城で、大原中学校北側の丘陵に位置し、高さ80m、東西400m、南北200mの東磐井地方を代表する中世の山城です。
 山吹城という名前は、路地に植えた八重山吹から付けられたといわれ、別名大原城ともいわれています。
 奥州藤原氏の滅亡後、寛喜2年(1230)奥州探題として関東から派遣された千葉頼胤の子、宗胤が築城したものと伝えられており、大原町誌には東西55間(約99m)、南北22間(約40m)の本丸と東西54間(約97m)南北22間(約40m)の二の丸があったと記されています。
 大原千葉氏は、第17代葛西晴信の弟である信茂が山吹城主となり、領内を固めました。
 また最後の城主である千代竹丸は、天正18年(1590)8月に1700騎の大将として神取(宮城県石巻市桃生町)に出陣し、豊臣秀吉の奥州仕置軍に抗したものの敗れ、ついには山吹城も落城しましたが、翌年の9月には石田三成によりこの地方の要地として山吹城は修復されました。
 菅江真澄は天明6年(1786)、二度にわたって大原の地を訪ねていますが、その日記「はしわのわか葉はしが記」には、山吹城も含めた大原の旅情を記しています。
 現在は散策路が整備されており、町並みなどの眺望を楽しむことができます。
     平成28年3月    一関市教育委員会
 
 案内図の中央部分の本丸に「大銀杏」が表示されています

 草だらけの坂道を上って行きます

 この辺に案内図に有った東側の曲輪が有るはずですが、雑草が伸び放題です

 空堀状の道路を進むと土塁が左から延びています

 本丸の丘に大きなイチョウが見えます

 ニの丸の堀切のような所です

 ニの丸の北側切岸です

 二の丸と東側の曲輪との間の堀切です

 二の丸へ上ります

 広い二の丸を南西へ進みます

 目的のイチョウは、一段高い本丸<の東斜面に立っています

 ズームアップしました

 北東側から、本丸側に切岸と二の丸の狼煙台のようです

 北側の本丸切岸です
 
 北側から、目通り幹囲7.0mの巨木です

 東側から見上げました

 足元に太いイチョウの枝が落ちています、先日の台風の被害でしょうか

 では、次へ行きましょう


 2024・9・11・06・00
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする