浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

謙虚であること

2014-09-08 00:23:05 | 日記
 学問研究に従事する知人があんがいいるが、そのなかには、2種類の系統がある。ひとつは、ものすごい力をもった研究者なのに、決してそういうことを誇らないで、ボクのような人間に対等に接してくれる人、もうひとつは「ボクは・・・なんだ、すごいでしょ!」と、いかに自分自身は博識で立派な人間であるかを語る人、その二つである。このように分けても、後者のほうが圧倒的に少ない。ボクの知人には、3人いる。今日、一人増えた。

 帰宅してから、友人からすごいひとがいるから来い、という連絡を受けた。20時頃、来いといわれたところに行ってみると、年老いた方が大きな声を張り上げていた。一目で、後者の系統の人であると見抜いた。来なければよかった、と思ったが、我慢して対応した。

 その方は、自治体問題の研究者であり実践家のようだが、たとえば長野県で合併しなかった町村は、「俺が講演に行ったからだ」というようなことを話された。また、浜松市に併合された三つの町村でも、合併前に講演に来たことがあるとも話された。矛盾である。しかしその人は、この矛盾に気がつかない。

 後者の人の特長は、たとえばボクがあることについて話すと、それについて「ボクはそれはよく知っている、それについては○○年も研究している」などと受ける。いろいろな分野で、「知ったかぶり」を示す。分野が全く異なっていることでも、すべてよく知っているという。話していると、それが早とちりであることが判明してしまうのだが・・・

 ボクは、学問というものは、いかなる分野であっても、研究には終わりがない、無限であると思っているので、どの分野についても「俺は知っているぞ」なんていう人は信じられない。

 昨日講演をお願いした学者は、ほんとうはすごい学者であり、『新憲法の誕生』という本は、読んだときに「これは名著だ!!」と直感したほどの研究者なのに、みずからそれを誇ることはしない、実に謙虚に対応して下さる。ほんとうに「能ある鷹は爪を隠す」なのだ。

 ボクの周辺には、第一の類型の学者が多いので、ほんとうにありがたい。ボクはそういう人びとの姿勢をみて、みずからも謙虚でなければならないと戒めている。

 今日昼間、富士市に行ったが、そこは第一の類型の方ばかりなので、たいへん落ち着いて仕事が出来た。

 後者の類型の方には、敬意を表しながら遠ざかるということをモットーにしている。今日夜お目にかかった方についても、二度と会わないようにしよう。

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