浜松これが日本一

浜松の日本一を様々な角度から紹介します!
浜松を愛し、学び、楽しみましょう。

ホンダ・カブF型

2013-09-30 06:17:33 | ものづくりNo.1
     機械遺産! 日本機械学会選定

 自転車用補助エンジン,カブF型は,1952(昭和27)年に発売されました。「白いタンクに赤いエンジン」という当時としては鮮やかなカラーデザインの斬新な自転車用補助エンジンとして注目されました。
 発売月の6月に3000台,11月には累計で25000台に達し,市場の人気を独占するほどの爆発的な売れ行きを見せました。
 カブF型は,デザインのユニークさや性能が優れていただけでなく,何よりも故障の少ないエンジンとして信頼されたことが市場の好評を得た理由です。

天竜美林

2013-09-30 06:09:43 | 浜松No.1!
 天竜美林の植林は,戦国時代の文明年間(1469~)「火防(ひぶせ)の神」として有名な秋葉神社(春野町)に心願成就を願って植えられた心願造林に始まったと言われています。
 現存する最も古い植林の記録は,元禄9(1696)年に,山住神社(水窪町)の宮司が熊野参拝の帰りに,杉の苗木3万本を持ち帰り植林したものが見られます。
 本格的な植林が始まったのは,江戸時代中期以降です。江戸時代の都市作りに不可欠な良質な木材を供給するための植林が盛んに行われました。生産された木材は筏を組んで天竜川を流され,河口の掛塚港から江戸に帆船で輸送されました。
 明治時代になると,天竜川の氾濫を収めようとした金原明善が植林に取り組みました。「河を治めるには,山を治めること」の信念から行われた植林は700万本にも及びます。
 その後,天竜美林は,昭和10年代,30年代をはじめとする木材需要に応えてきま
した。
 このように,杉と檜の良質な木材を生産し続けてきた天竜美林は,今でも日本を代表する木材の生産地の一つです。

中田島砂丘

2013-09-30 06:07:50 | 浜松No.1!
県西部の南に広がる遠州灘に面して広がっているのが,東西120kmにも及ぶ遠州灘砂丘。そのうち,浜松市の南に位置し,東西4km,南北500mの広さを誇るのが中田島砂丘です。
 中田島砂丘は,その規模だけなく,砂丘の表面に風の力によってできる風紋の美しさでも知られています。砂丘は,冬の乾燥期に強い風によって砂を供給され,発達してきました。中田島砂丘は,アカウミガメが産卵のために上陸するため,保護活動が行われています。

浜松まつり

2013-09-30 05:58:02 | 浜松No.1!
 浜松まつりの凧揚げの起源は,現在確認できる資料から考えると,江戸時代中期以降のことと考えられます。一説には,「永禄年間,曳馬(浜松)城主飯尾豊前守の長男『義廣』の誕生を祝って,名前を大きく書いた凧を揚げたことが始まり」と言われていますが,確かな証拠はありません。
 凧揚げは,江戸時代のころから大変盛んで,水野忠邦が城主の時に「派手な凧を禁
止する」と命じるなど,凧揚げにまつわる記録をいくつか見ることができます。浜松まつりの凧揚げの特徴の一つは,長男が生まれた時に初凧を揚げ,みんなで祝うことですが,江戸時代の末には定着していたようです。
 大正初期には,各町が一か所の会場に集まり,糸を切り合う凧揚げ合戦が毎年行われるようになりました。凧揚げ合戦に参加する町が年々増え続け1967(昭和42)年から今日まで,凧揚げは中田島砂丘で行われています。最近の凧揚げには,170以上の町が参加しています。今後も参加する町は増えていきそうです。
 浜松まつりのお囃子は,明治末期に,ある町が凧合戦の後,鐘や笛,太鼓の鳴り物で賑やかに帰ったのを各町が真似をしたのが始まりと言われています。
屋台は,大正の初めごろ,凧や糸車,弁当や湯茶などを大八車などに乗せて,鳴り物入りで運んだのが始まりだと考えれられています。その後,底抜け屋台で歩きながらお囃子をするようになり,大正末期にはお囃子が乗れる簡単な屋台ができました。昭和になると御殿屋台が作られました。
 今では100台以上の屋台が浜松まつりに参加しています。
 「初凧」と並んで,初子の祝いとして行われるのが「初練り」です。今日では,町内の人々が初子の家の前や周りで練りで祝い,初子の家では,お礼の形で酒や食べ物をふるまいます。

フリージア

2013-09-28 06:11:14 | 日本一の農業
 フリージアは,浜名湖に面した和地・庄内地区を中心に栽培されています。冬でも温暖で日照時間が長い気候を生かし,12月から4月までの長期間にわたって出荷しています。フリージアが浜松市で初めて栽培されたのは1949(昭和24)年で,その後のビニールハウスの改良とともに生産は増えていきました。
 植え付けに使う球根は,鹿児島や八丈島産の物のほか,オランダ産の物も使うようになってきました。

ガーベラ

2013-09-28 06:09:38 | 日本一の農業
 ガーベラは,南庄内・北庄内・伊佐見地区を中心に栽培されています。
 浜松市でガーベラが初めて栽培されるようになったのは1960年代の半ばごろで,1980年代の半ばごろから作付面積が増加しました。
 浜松市の農家は,新品種を積極的に開発し,色とりどりのガーベラが生産されるようになりました。今では,さまざまな花の形や大きさ,色の花が,一年中出荷されています。

ホオズキ

2013-09-28 06:05:50 | 日本一の農業
 浜松市では,1948(昭和23)年に引佐地区でホオズキの栽培が始まりました。
 夏の風物詩として全国的に有名な「浅草のほおづき市」の9割は,今でも浜松市で生産されています。
 浜松市では,引佐・北庄内・都田地区で栽培され,切り花では日本一の生産量を誇っています。
 7月には京浜方面,8月には中京,関西方面へ出荷され,多くの人に楽しまれています。

世界のオートバイ王 本田宗一郎

2013-09-27 00:39:27 | 日本一の人物
本田宗一郎は,1906年(明治39年),今の天竜区光明に生まれました。
宗一郎は,小さいころから好奇心が旺盛で,飛行機や自動車などにとても興味をも
っていました。そして,いつかは自分の手で走る機械を作りたいと思っていました。
宗一郎は,学校を卒業すると東京の自動車修理工場(アート商会)に勤めました。
 そこで技術を身につけた宗一郎は,1928年(昭和3年),22歳の若さで浜松に自動車修理工場(アート商会浜松支店)を開きました。宗一郎は,修理だけでは満足せず自分で自動車を作りたいと考えました。
 太平洋戦争が終わり,物が不足していた1946年(昭和21年)のことです。発
電機を見つけた宗一郎は,自転車に取り付けてみたら走ることができないかと考えました。さっそく宗一郎は,発電機用エンジンを自転車に取りつけ,湯たんぽをガソリンタンクにするなどいろいろと試し,とうとう自転車用補助エンジンを完成させました。その後,本格的なオートバイの研究を続けた宗一郎は,自分の会社のオートバイを世界選手権で優勝させるまでになりました。その後,オートバイは,いろいろな会社で作られるようになり,浜松を代表する産業になったのです。

劇団たんぽぽの母 小百合葉子

2013-09-27 00:35:02 | 日本一の人物
 小百合葉子(本名山下みゑ)は1901(明治34)年,今の北区滝沢町に生まれました。
太平洋戦争の末期に長野県に疎開していた葉子は,次代を担う子供のために劇団を作りました。葉子は,身も心も病んでいた時,ふと目に付いたたんぽぽが,心ない人に踏みつけられてもすぐに立ち直り,たくさんの花が一つになって,それぞれが誇り高く咲いている,しかも温室育ちでないたくましさに励まされ,劇団の名前を「たんぽぽ」と名づけました。
1953(昭和28)年に劇団の本拠地を浜松に移すと,公演数は飛躍的に増えました。浜松に来てからの劇団は,北は北海 道から南は沖縄まで,日本全国に公演の輪を広げています。
 このころ,葉子は,劇団員に次のように語っています。
「わたしたちが,子どものために演じるお芝居は,おもしろければ どんなものだってよい,というようなものではない。子どもの心 に夢を広げてあげること,それからもう一つ,やがてこの子ども たちは,いつか大人になるのだぞってことを,わたしたちはいつ も忘れてはいけないのよ。」
「つまりね,子どもたちが大人になった時に困らないようにと,い ろんなことを教えてあげるのが,大人のしなければならないこと でしょう。」       
 劇団たんぽぽは,今も全国で演劇の素晴らしさを伝えています。

胃カメラを発明した杉浦睦夫

2013-09-25 20:53:44 | 日本一の人物
 杉浦睦夫は,1918(大正7)年,今の東区中野町に生まれました。
睦夫は,今の高校を卒業した後,東京写真専門学校に進み,写真やレンズなどの光学に関する勉強をしました。
光学会社に入社した睦夫は,写真機や顕微鏡の研究開発に取り組みました。顕微鏡を製品化した睦夫がアメリカの発表会で披露すると,「性能は良いが,これも外国のまねだろう」と言われ,今までだれも成功していない物を開発しようと考えました。それが胃カメラだったのです。
 当時,生きた人間の胃の中を直接調べることは不可能だと思われていましたが,睦夫は「できないと言われているからこそ作り上げてみせる。」と挑戦し続けました。睦夫は「胃の中は暗室。光とレンズ,フィルムさえあれば調べられる。」と考え,カメラを胃の中に入れることにしました。
 犬を使った実験をくりかえし,小型ライトやレンズなどの開発を行い,1950(昭和25)年に,ついに世界初の胃カメラの開発に成功しました。
 この発明は医学を進歩させ,多くの人の命を救いました。