浜松これが日本一

浜松の日本一を様々な角度から紹介します!
浜松を愛し、学び、楽しみましょう。

「とと姉ちゃん」とは (4)

2016-01-31 05:55:55 | 浜松アラカルト
【 あらすじ 2 】

 竹蔵は死の間際、常子だけを呼び、「ととの代わりになって、かかと妹たちを守ってほしい」と遺言します。
 「とと姉ちゃん」となった常子は、「当たり前の生活を大切にする」という父の生前の教えを胸に、恋も遊びもそっちのけで家長として母や妹のために奮闘します。
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「とと姉ちゃん」とは (3)

2016-01-30 05:55:55 | 浜松アラカルト
【 あらすじ 1 】

 昭和5(1930)年のことです。
 繊維の街(静岡県遠州地方:浜松のあたり)で育った主人公・小橋常子(10歳)は、3人姉妹の長女で、妹の面倒をみるしっかりもののお姉ちゃんです。常子たちは、子ども思いの父・竹蔵を「とと」、優しい母・君子を「はは」と呼び、家族仲良く幸福な毎日を送っていました。
 そんな中、竹蔵が結核にかかったことで、常子たちの暮らしは一変します。
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「とと姉ちゃん」とは (2)

2016-01-29 05:55:55 | 浜松アラカルト
作 西田征史
主演 高畑充希


小橋家の人びと

小橋常子 高畑充希
小橋竹蔵(父) 西島秀俊
小橋君子(母) 木村多江
小橋鞠子(次女) 相楽樹
小橋美子(三女) 杉崎花
小橋鉄郎(叔父) 向井理


【材木屋「青柳商店」】 (祖母宅)

青柳滝子(祖母)大地真央
隈井栄太郎(番頭)片岡鶴太郎
青柳清(跡取り養子)大野拓郎


【仕出し屋「森田屋」】 (小橋家が住み込みで働く)

森田まつ(大女将) 秋野暢子
森田宗吉(板前、大女将の息子) ピエール瀧
森田照代(宗吉の妻) 平岩紙
森田富江(宗吉と照代の娘) 川栄里奈

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「とと姉ちゃん」とは (1)

2016-01-28 05:55:55 | 浜松アラカルト
 平成28年4月4日(月)から放送が開始されるNHK連続テレビ小説。全156回を予定しています。
 物語は、静岡・遠州からスタートします。≪父親代わりの長女≫ヒロイン、小橋常子が、生前の父が教えてくれた「当たり前の暮らしがいかに大切か」という教えを胸に、2人の妹と母を守って型破りの大奮闘をします。女ばかりの常子一家が激動の昭和を駆け抜けていく、小さな家族の大きな年代記です。
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井伊直政 初陣の具足

2016-01-27 05:55:55 | 浜松アラカルト
 井伊直政が、、天正4(1576)年、16歳で遠州芝原に初陣、功を立てた時の所用品です。

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井伊直政の甲冑

2016-01-26 05:55:55 | 日本一の人物
朱漆塗仏二枚胴具足

 井伊直政が関ケ原の合戦で着用したと伝えられる甲冑です。「井伊の赤備え」の名前の通り、兜と胴は赤で統一されています。兜は数枚の鉄板を組み合わせた頭形兜で、胴は漆で表面を滑らかに仕上げた仏胴です。本作の鉄板は厚く、重量は27キログラムを超えます。

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浜松城築城期の様子

2016-01-25 05:55:55 | 浜松アラカルト
徳川家康が浜松城を築城したころ(1580年頃)の様子

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井伊直虎連署判物

2016-01-24 05:55:55 | 浜松アラカルト
浜松市指定文化財

 現存する井伊直虎の名前と花押のある唯一の文書です。
 直虎が、永禄11(1568)年にこの判物を発行し、徳政令を実施することになりました。

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井伊直政木像

2016-01-23 05:55:55 | 浜松アラカルト
徳川四天王の一人、井伊直政の木像です。
 正徳元(1711)年、龍潭寺第9世祖山法忍禅師の頃、彦根藩主井伊直該の申し出により造立され、龍潭寺に所蔵されています。

 
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犀ヶ崖と遠州大念仏

2016-01-22 05:55:55 | 浜松七不思議
 昔,昔の話です。
 浜松城の殿様であった徳川家康は,三方原の合戦で武田信玄の大軍に負けてしまいました。家康は城ににげ帰ると,城門を全て開け放し,城内にかがり火をたいて昼間のように明るくしました。城の近くまでせまった信玄軍は,「敵に策略があるのでは?」とせめるのをためらい,城のすぐ近くの犀ヶ崖の北に陣をはりました。
 犀ヶ崖は,長さが約2km,深さ約40m,幅約50mにおよぶ断崖で,昼でも樹木がうっそうとしげり,暗く深く入り組んだ崖でした。
 家康の家来は,その崖に布で作った橋をかけました。信玄軍が布と気づかずに橋を渡ろうとすれば崖の下に落ちてしまうように,橋への道まで作りました。
「このままでは,信玄軍に総攻めに合い,わが軍はぜんめつだ。」
「なんとか、ひとあわ吹かせたいものだ。」
 家康の家来は,夜おそく,生き残った十数人の鉄砲隊と百人ほどの兵で信玄軍の陣の後ろに回り,突然おそいかかりました。信玄軍は,奇襲に驚きにげまどいました。布の橋を渡ろうとして崖の下に落ち,命を落とした人も数多く出ました。
 その後,家康軍は,信玄軍にせめられることなく,何とか生きのびました。

 次の年のお盆のころになると,崖の底から人のうめき声が聞こえるようになりました。最初は小さな声でしたが,日に日に大きくなり,何日も続きました。周りに住む人々は不安でたまりません。ちょうどこのころ,浜松の各地で,いなごの大群が現れ,稲の葉を残らず食ってしまうなど,困った出来事がいくつも起きました。
「きっと谷底の信玄軍の亡霊のしわざだ。」
「なんとかのろいをとかなくては‥‥‥。」
 人々の不安は,家康にも伝わりました。家康は,おぼうさんに犀ヶ崖で命を落とした人々の霊をとむらうように命じました。おぼうさんは,周りの人々と力を合わせ,七日もの間,供養しました。すると,あれほど人々をこわがらせたうめき声は聞こえなくなり,いなごもいなくなるなど,不安な出来事は次々に収まりました。
 こうして始まった死者の供養は,遠州大念仏として,遠州地方の各地に今でも伝えられています。
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