長谷川保は,1903(明治36)年,今の中区高町に生まれました。
保が18歳の時のことです。キリスト教の信者として礼拝していた保は「この国を救うために働くのだ」という神の声を聞き,その後の生涯をかけて力を尽くしました。
昭和のはじめごろ,保は,死に至る伝染病として恐れられていた結核を病み,「天地の間に身の置き所もない」と悲嘆にくれていた青年のために,病舎を建てました。 保は,その後も苦しんでいる人々を進んで受け入れていきました。
保は,戦後初の衆議院議員選挙に立候補し,生活保護法の制定など,日本の福祉充実のため,様々な取り組みをしました。議員生活は7期に及び,保の活躍の場は医療から福祉の世界へと広がっていきました。
戦後の混乱期を生きた保は,「日本の復興は青年の精神の復興にあり」と考え,教育の分野にいどみました。その精神が,今日の聖隷クリストファー大学,聖隷高校などに生かされています。
医療・福祉・教育と先駆的な活躍をした保は,生涯にわたって私的財産を持たないという考えを貫き,病院敷地内のバラック小屋に住み続けました。
保が18歳の時のことです。キリスト教の信者として礼拝していた保は「この国を救うために働くのだ」という神の声を聞き,その後の生涯をかけて力を尽くしました。
昭和のはじめごろ,保は,死に至る伝染病として恐れられていた結核を病み,「天地の間に身の置き所もない」と悲嘆にくれていた青年のために,病舎を建てました。 保は,その後も苦しんでいる人々を進んで受け入れていきました。
保は,戦後初の衆議院議員選挙に立候補し,生活保護法の制定など,日本の福祉充実のため,様々な取り組みをしました。議員生活は7期に及び,保の活躍の場は医療から福祉の世界へと広がっていきました。
戦後の混乱期を生きた保は,「日本の復興は青年の精神の復興にあり」と考え,教育の分野にいどみました。その精神が,今日の聖隷クリストファー大学,聖隷高校などに生かされています。
医療・福祉・教育と先駆的な活躍をした保は,生涯にわたって私的財産を持たないという考えを貫き,病院敷地内のバラック小屋に住み続けました。