浜松これが日本一

浜松の日本一を様々な角度から紹介します!
浜松を愛し、学び、楽しみましょう。

医療・福祉・教育に尽くした長谷川保

2013-09-24 20:52:18 | 日本一の人物
 長谷川保は,1903(明治36)年,今の中区高町に生まれました。
 保が18歳の時のことです。キリスト教の信者として礼拝していた保は「この国を救うために働くのだ」という神の声を聞き,その後の生涯をかけて力を尽くしました。
 昭和のはじめごろ,保は,死に至る伝染病として恐れられていた結核を病み,「天地の間に身の置き所もない」と悲嘆にくれていた青年のために,病舎を建てました。 保は,その後も苦しんでいる人々を進んで受け入れていきました。
  保は,戦後初の衆議院議員選挙に立候補し,生活保護法の制定など,日本の福祉充実のため,様々な取り組みをしました。議員生活は7期に及び,保の活躍の場は医療から福祉の世界へと広がっていきました。
 戦後の混乱期を生きた保は,「日本の復興は青年の精神の復興にあり」と考え,教育の分野にいどみました。その精神が,今日の聖隷クリストファー大学,聖隷高校などに生かされています。
 医療・福祉・教育と先駆的な活躍をした保は,生涯にわたって私的財産を持たないという考えを貫き,病院敷地内のバラック小屋に住み続けました。

「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進

2013-09-24 20:50:12 | 日本一の人物
 古橋廣之進は,1928(昭和3)年,今の西区雄踏町に生まれました。
 浜名湖沿岸の町で育った廣之進は,小さなころから水泳の練習に進んで取り組みました。小学校6年の時,100mと200mの自由形で学童新記録を樹立しました。あまりの速さに当時の新聞に「豆魚雷」と名づけました。
 戦争が激しくなると,勤労動員に参加した廣之進は,機械に左手の中指をはさまれ,指先を切断する事故にあいました。「もう泳げない」とあきらめかけましたが,大学進学後にもう一度水泳に挑戦しました。
 1947(昭和22)年,日本選手権では400m自由形で当時の世界記録を上回る記録で優勝しました。その後の大会でも何度も世界記録を上回る記録を出しましたが,敗戦国の日本の記録は公認されませんでした。廣之進の活躍は敗戦でうちひしがれた国民に地震と希望を与え,多くの国民に感動を与えました。
 日本の世界復帰が認められ,1947(昭和22)年,全米選手権に招待された廣之進は,400m,800m,1500m自由形で世界新記録を樹立し,アメリカの新聞に「フジヤマのトビウオ」と驚かれました。
廣之進は,現役を退いた後も,世界水泳連盟副会長,日本オリンピック委員会会長などの要職を歴任し,日本をはじめ世界のスポーツの発展に貢献しました。


「三ヶ日みかん」を生み出した三人

2013-09-24 20:44:57 | 日本一の人物
 甘くておいしい「三ヶ日みかん」が作られるようになったのは,次の三人の力によるところが大きいと言われています。  
【山田弥右衛門(やえもん)】
 江戸時代の中ごろのことです。今の三ヶ日町に住んでいた弥右衛門は,旅の途中,紀伊国那智地方(今の和歌山県)の農家で黄金色の実をたわわにつけた紀州みかん(小みかん)の木を見つけました。弥右衛門は,その苗木を1本わけてもらい,大切に持ち帰りました。弥右衛門の持ち帰った小みかんは,近隣の農家に次々に伝わり,いつの間にか三ヶ日全体に広まりました。
【加藤権兵衛】
 権兵衛は,江戸時代の終わりごろに今の三ヶ日町に生まれました。 権兵衛は,三河国吉良地方(今の愛知県)から温州みかん(当時は「唐みかん」と言った)の苗木を持ち帰って,自分の家で育てました。すると,今まで育てていた小みかんよりも実が大きく,味もよく,種ができないみかんの実ができました。
 温州みかんは,明治時代になると山の斜面や畑にも植えられるようになりました。,
【中川宗太郎】
 1920(大正9)年,宗太郎は,三ヶ日地区の農場の専任技術員として赴任しました。宗太郎は,新しく開墾した土地に,みかんの木を植え,熱心に選定・消毒などの栽培技術を指導しました。
 宗太郎の教えは三ヶ日町だけではなく,浜名湖北岸の農家全体に広がっていきました。