浜松これが日本一

浜松の日本一を様々な角度から紹介します!
浜松を愛し、学び、楽しみましょう。

「猿」と呼ばれた藤吉郎

2013-10-31 05:58:00 | 日本一の人物
 武士になろうと決意した藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は、頭陀寺城主松下源左衛門が引馬城へ登城する行列を待ち伏せ、奉公を願い出ました。
 初めて藤吉郎を見た源左衛門は「猿と思えば人。人と思えば猿。」と驚いたそうです。藤吉郎の顔が猿に似ていただけでなく,飛び出した様子が猿のように見えたのかも知れません。
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誕生,武士木下藤吉郎(豊臣秀吉)

2013-10-30 05:58:00 | 日本一の人物
 藤吉郎(後の豊臣秀吉)は,尾張の農家(今の名古屋市中村区)に生まれました。
武士になることを夢見た藤吉郎は,自分をやとってくれるとの様を求めて旅に出ました。
頭陀寺(ずだじ)城主松下源左衛門の評判を聞いた藤吉郎は,引馬城へ登城する行列を待ちぶせ、奉公を願い出ました。
 頭陀寺城のあった芳川地区(南区)には,木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)にまつわる伝説がいくつも残っています。
 木下藤吉郎が頭陀寺城に奉公していたのは,15歳から19歳までの5年間と言われています。どんな仕事を命じられてもいやな顔一つしないで,きちんとやり通し,何でも立派にこなしてしまう藤吉郎は,頭陀寺城になくてはならない存在になってきました。
 藤吉郎は,殿様からの信頼が厚く,ついに納戸役(なんどやく)にばってきされました。こうして藤吉郎は,武士としての一歩を浜松の地で歩み出すことができたのです。
藤吉郎の人としての器の大きさに気づいたとの様は,ひまを出し,新しいとの様に仕えるよううながしました。
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セルリー

2013-10-29 06:01:01 | 日本一の農業
 「冬場の浜松,夏場の長野」と言われ,11月から5月までの浜松のセルリーの生産量は全国の7割を占め、日本一です。
 浜松のセルリーの生産は、露地栽培の秋どり栽培とハウス栽培の冬どりと春どりに分かれ、11月から翌年5月にかけて出荷が行われます。セルリーは収穫までに、半年以上の時間がかかります。
 浜松のセルリーの生産量は、1960年代半ばから増えてきました。
 シャキッとした歯ごたえとジューシーな味が魅力です。 セルリーは栄養豊富な食材です。古代エジプトでは、薬用や香料に使われていたセルリーは、カロテンを多く含み、ビタミンA,B1、B2、カルシウム、鉄などのミネラルと食物繊維も豊富です。

 










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JAとぴあ浜松花き販売センター

2013-10-28 06:01:00 | 日本一の農業
全国有数の花き生産地として菊・ガーベラ・フリージア等、2000種類もの花を栽培。収穫された切り花は統一ブランド名「浜名湖の花」として出荷されています。大量に収穫された切り花を全国に向け安定したペースで出荷するために、荷受けから出荷までバーコードで自動管理する国内最大規模の花の物流オートメーション工場が建設されました。バーコードを取り入れることにより出荷までの作業工程の時間短縮に成功し、高鮮度で品質の高い切り花をより早く出荷することができます。
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江戸三大改革

2013-10-27 07:04:05 | 三大○○が浜松にいっぱい!
江戸三大改革‥‥‥天保の改革(水野忠邦),享保の改革(徳川吉宗),寛政の改革(松平定信)
  水野忠邦は,浜松藩主の時に老中になり,様々な改革に挑 みました。
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三哲

2013-10-27 07:01:04 | 三大○○が浜松にいっぱい!
三哲‥‥‥賀茂真淵,本居宣長,契沖
  江戸時代に盛んになった国学の大家三人。賀茂真淵は,その中でも指導的立場にありました。
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玉ねぎ

2013-10-26 06:34:53 | 日本一の農業
 温暖な気候と砂地の特色を生かし,篠原地区を中心に栽培されるタマネギは,日本一早く,1月から5月にかけて出荷されることで有名です。
 長年の品種改良の結果、サラダやオニオンスライスのような生食に向いた超極早生の白玉ねぎが開発され、「サラダオニオン」という品種が生まれました。農家によっては12月下旬から出荷が始まり、3月下旬にはほとんどの出荷を終えてしまうそうです。「サラダオニオン」は、甘みが強く、非常にみずみずしいのが特徴で、玉ねぎの辛みが苦手な人もおいしくたべることができます。

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 日本初の医学翻訳全書出版 1874(明治7)年

2013-10-25 00:18:52 | 初めて物語
 アメリカの大学で出版された「解剖,生理,化学,薬物,内科,外科,産科」の七科からなる日本初の医学書を翻訳して出版しました。全国の医師を目指す人々に、とても喜ばれたそうです。
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耐えて学んだ徳川家康(3)

2013-10-24 06:00:00 | 日本一の人物
○浜松在城の17年間の家康

1570年 岡崎城を信康にゆずり,浜松城に入城。
1572年 三方原の戦いで,武田信玄軍に敗れる。 
1575年 長篠・設楽ヶ原の戦いで,信長・家康連合軍が武 田軍を破る。
1579年 信長に武田軍への内通を疑われ,家康は正室の築 山殿を殺害させる。
      信長に命じられ,家康は信康を切腹させる。
1581年 駿河・遠江・三河の三国の大名になる。
1586年 家康,駿府府中に移る。


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耐えて学んだ徳川家康(2)

2013-10-23 06:00:00 | 日本一の人物
○築山殿との別れ‥‥‥太刀洗の池
 築山殿は,家康の正室(正妻)です。家康と築山殿の間に生まれたのが信康で,織田信長と家康から一文字ずつもらって名前が付けられました。
 ある日,家康は,築山殿と信康の二人が甲斐(今の山梨県)の武田勝頼と内通しているので亡き者にするようにと,信長から命じられました。
 信長に仕える身であった家康は,逆らうことができず,まず,築山殿を佐鳴湖岸で部下に殺させました。築山殿の無念さからか,首をはねた太刀を洗った池は,その後百年間赤くにごり続けたと言います。

○出世城
 浜松城をよんだ俳句に「浜松は 出世城なり 初がつお」というものがあります。
 浜松城に入城した徳川家康は,領地を三河・遠江の二国から,駿河を加えた三国,甲斐・信濃を加えた五国の大名に出世していきました。家康が浜松城を去った後の約270年間に,再任をふくめて25代の殿様が在城しました。そのうち,老中の6人をはじめ,大阪城代に2人,京都所司代に2人,寺社奉行に4人と,浜松藩の殿様が幕府の重要な役職につきました。
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