松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

諸仏(みほとけ)の世に出つるもありがたし  友松圓諦訳『法句経』182

2024-04-01 | インポート

ひとの生をうくるはかたく
やがて死すべきものの
いま生命(いのち)あるはありがたし
正法(みのり)を耳にするはかたく
諸仏(みほとけ)の世に出つるもありがたし
        友松圓諦訳『法句経』182


4月8日はお釈迦さまの降誕会です。降誕会とは、「釈尊の誕生を奉讃する法会(ほうえ)。灌仏会(かんぶつえ)」(広辞苑)です。
キリストさまのクリスマスに比べて、地味で知らない人も多い。やはりお釈迦さまの誕生日にはサンタさんがいないから、盛りあがらないのか。僧侶たるもの、4月には声を大きくして「花まつりだー」と叫ばなくてはいけないと思う。だのに、わが妙心寺教団が発行する月刊誌『花園』令和6年4月号には「降誕」も「花まつり」の文字もない、去年の4月号にも、釈尊誕生に関する読み物は一切なかった、一昨年の4月号には釈尊誕生の話があった。なんでそんなことを憶えているかというと、一昨年4月から去年3月まで巻頭を担当していたのは私で、むきになって一年間の仏教行事、お盆、彼岸、達磨忌、妙心寺開山忌、涅槃会などに関する話題を書いていたから。一年分を小誌にまとめて、松岩寺ホームページ[お便りの蔵]」→[R05]→[12の話]で読めるから読んでみて!(http://www.shoganji.or.jp/contact.html)
そうはいっても、みなさんが「降誕会」をスルーする気持ちがわからないでもない。書きづらいのですよ。どうして書きづらいかというと、あの言葉がいけない。「唯我独尊」です。
言葉の背景を復習してみると、約二千五百ほど前の四月八日、現在のネパールにあるルンビニーで生誕された釈尊は、「手助けなくして四方に行かれること各七歩されて、自ら、天上天下、ただ我のみ独り尊し」。そう、仰ったという。現代語訳を、水谷真成訳『大(たい)唐(とう)西(せい)域(いき)記(き)』(平凡社)から引用しましたが、いくら聡明な釈尊でも、生まれてすぐに歩きはしないし言葉も発しない。後の時代にできた神話です。そんな神話化は、釈尊ご自身にとっても迷惑な話でしょうが、現代日本では、「唯我独尊」を、「ひとりよがり」のたとえと誤解するから深刻です。
深刻で書きづらいならばその部分にふれなければ良いと思うのですが。たとえば、松原哲明師は「あれに触れると、わけがわからなくなってしまう」とおっしゃって、ルンビニまで何度も行って書いた釈尊伝で、生まれ故郷に吹く風の香りは書いても、「唯我独尊」には書いていないと思う。
というわけで、書きづらい降誕会の言葉は、冒頭にかかげた法句經182節の言葉です。法句經は最も古い経典のひとです。古いということは脚色されずに、お釈迦さまが語ったことばに近いものが記録収録されています。
これがなぜ、降誕会の言葉かというと、末の行に「諸仏(みほとけ)の世に出つるもありがたし」があるから。翻訳者の友松圓諦(1895~1973)が著書『法句經講義』(講談社学術文庫)で次のように解説しています。「仏教の正法を身の上に体験せられた釈尊と言う方を歴史上われわれを持っている」、と。釈尊の誕生が「有ること難し」、有り難いというのです。

ちなみに、冒頭の句は漢訳・法句經から日本語に訳しています。もともとはインドの古典語のパーリ語で伝えられています。漢字経由ではなくて、パーリー語の『ダンマパタ(真理のことば)』から直接訳した中村元訳『真理のことば 感興のことば』(岩波文庫)から同じ節を紹介します。

人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。

 友松圓諦訳と原典に忠実に訳した中村元訳。どちらがお好みですか。


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