松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

お経を読んでも つかめはしない(教外別伝=きょうげべつでん)

2023-07-01 | インポート

お経を読んでも つかめはしない(教外別伝=きょうげべつでん)
言葉で言っても 書いてもだめだ(不立文字=ふりゅうもんじ)
ほんとの自分を しっかりつかむ(直指人心=じきにんしん)
それができたら みな仏(見性成仏=けんしょうじょうぶつ)

重松宗育著『禅の贈りもの』より

「お経を読んでも つかめはしない」のならば、「なんで読んでんのよ」。なんぞとつっこみ満載の七月のことばです。
 引用は重松宗育著『禅の贈りもの』(法藏館)からです。この本、平成三年初版だから、新しい本ではありません。どんな本なのか。それを説明するには、著者の略歴を紹介するのがてっとり早いでしょうか。次のようにあります。
「1943年、静岡県清水市生れ。東京外国語大学、京都大学大学院で英米文学を学ぶ。静岡大学教授(アメリカ文学)、承元寺(臨済宗妙心寺派)住職、さらに欧米への禅文化紹介に努める翻訳家として活躍中」
 つまり、英語に堪能な禅僧が禅語を集めた句集(禅林句集)を英訳した作業の背景をつづった本です。
 その冒頭で、「禅の宗旨をひと言で言うと、」と禅の四大テーマ(教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏)を現代語訳したのが、「お経を読んでも」以下の言葉です。
 禅の言葉に限らないのでしょうが、翻訳というのは辞典で対応することばをあてはめていけばできるってもんじゃなく、困難な作業であったと思います。
 ショッキングな言葉ではじまる、禅の四大テーマの現代語訳ですが、私はかねがね思っていることがあります。「ほんとの自分」とか「もう一つの自分」。あるいは「自分探しの旅」という言い方をよく聞きます。これに、少しばかり嫌悪感を抱いています。
「今の自分は本当の自分ではなくて、もっと良い自分がいるはずだ」とか。「もう一つの自分は、今の自分とは違う」とか。「それを探すために、自分探しの旅に出るのだ」てな具合で、どうしよもない自分からの逃げ口上に使われているのではないか。そう、前から考えています。
 ところで、歌人の俵万智さんに、こんな歌があります。
 
  秋の陽に淡く満たされた野菊らは自分探しの旅を思わず

 歌集『風が笑えば』(中央公論新社)に収められています。作者自身が歌の背景を、次のようにつづっています。「野菊は野菊であることに、疑問を抱いたりしない。野菊は野菊であるがままで、美しい。その完結した潔さに、心が惹かれた」
 そして、こう言い切ります。
「今の自分を肯定できたなら、実は遠くに自分を探しにいく必要は、ないのかもしれない」

「ほんとの自分」なんて必要なくて、「今の自分」しかないのではないか。だから、山頭火の「どうしようもないわたしが歩いている」の句に、多くの人が心を奪われるのではないだろか、と。
「もうひとつの私」「自分探しの旅」「ほんとの自分」。響きはよいけれど、共鳴するわけにはいかないフレーズです。

 


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