ものは分けあうと少なくなるが、苦しみや哀しみは分けあうと軽くなる。喜びは分けあうと大きく広がる 奈良藥師寺・加藤朝胤管主
今月のことばは日経新聞令和5年4月9日(日曜日)朝刊、「文化時評」欄に載っていた、奈良藥師寺加藤朝胤管主のことばです。
同じような言葉を耳にした記憶があるのたが、思いだせない。経典にも同様の文句があるよな気がするのだが、みつからない。どなたか、教えて!というわけですが、新緑5月と、「苦しみや哀しみは分けあうと軽くなる」はどこでリンクするかというと、12年以上かかった、国宝の奈良藥師寺東塔の解体修理がおわり、落慶法要が、今春4月21日からおこなわれていたのだそうだ。ほんとうは令和2年4月におこなう予定だったのが、コロナで延びて、やっと今春営むことになったという。その、様子を伝える新聞記事の末尾に紹介されているのが、管主さまの言葉というわけです。
だから、いっけん5月と関係なさそうなのですが、わずかではあるけれどつながっている。
さて、少し悲しい話を書きます。坊主という役目柄、悲しい現場に立ち会うのが勤めになっています。コロナが流行する前年の春でした。四十歳代の女性が難しい病で亡くなりました。通夜の時のことです。女性には夫がいて、小学校低学年の男の子、中学生の女の子を遺してなくなりました。かたどおりの通夜を済ませて、参列者の方向を振り返った時です。お経を読み始めた時と、ほとんど同じ顔ぶれが、私を見つめています。つまり、ほとんどの人が帰っていないのです。
通夜・葬儀のやりかたというのは、地方地域によってずいぶんと異なるので、イメージしにくいと思うのですが、私が住職する地域では、通夜は焼香をすませると、お経の最中であっても、おおよその人は帰ってしまいます。でも、あの時はほとんどの人が帰らなかった。どういう人たちかというと、小学校に通う男の子の友だちとそのお母さんであったり、中学校へ通う女の子の同級生とそのお母さんたちが、帰らずに本気モードでその場に坐り続けている。何かをはなしかけるわけではない。自分たちが帰らずにその場に居ることで、哀しみを軽くできるのでないか、という決意にあふれています。今、これを書きながら、あり時を思いだして涙がでてます。
「あの時はほとんどの人が帰らなかった」と数行前に書きました。「ほとんど」ということは、帰った人もいるとわけです。故人の夫の勤め先の上司らが、通夜のはじまる時刻に少し遅れてやってきて、焼香をすませると、立ち止まることなく帰って行ったようです。空気が読めないというのは、ああいうことをいうのでしょう。
悲しい話を書いてしまいました。