川の深きところを捨て 橋を架けて 流れを渡る者をこそ、賢き者なり 釈尊
2月15日は涅槃会(ねはんえ)です。涅槃のもともとの意味は「消滅する」。そこから転じて、釈尊の入滅をさすようになります。では、何時だったのか。中村元著『釈尊伝』(法藏館)によれば、誕生は世紀前463年、入滅は383年だという。
80歳になつていた釈尊最期の旅は、生まれ故郷のルンビニを目ざすかのように、インド大陸を北上していきます。入滅される半年前、釈尊はパータリという村で河を渡りました。その時の様子を増谷文雄著『仏教百話』(ちくま文庫)から引用します。
パータリ村の渡し場には、多くの人々が、仏陀と比丘たちに名残りを惜しむために集まって行た。マガダ(摩掲陀).の国の大臣ブッサカーラ(雨行)も、その中にあった。彼は、仏陀のすぐあとに従い、最後の名残りを惜しんで言った。「世尊よ、今日世尊の出でたもうこの門を、ゴータマ門と名づけたく思います。また、今日世尊の渡りたもう渡し場を、ゴータマの渡しと名づけたく思います。」いま、その渡し場をまえにして仔む仏陀は、すでに齢八十におよぶ老耄(ろうもう)の人であった。その身にまとうものは壊色(えしき)の衣、その手に持てるものはただ一箇の鉢のみである。一毫(いちごう)の権勢も彼のものでなく、一片の財宝も彼の所有ではない。その人のまえに、人々は、いま最高の尊敬をささげて名残りを惜しむ。世尊とは、かかる人にこそふさわしい名称なのである。やがて、渡しを渡って、かの岸についた仏陀は、もう一度、ガンガの岸辺に立って、つぎような偈を説いたという。それを、後代の仏教徒は、いつまでも、感銘をもって心にきざみつける。
「世の人々が籠いかだを結ぶあいだに、
深きところを捨て、橋を架けて、
よく流れを渡る者をこそ、
渡りたる者、賢き者なりという。」
(注)壊色=Kasayaの訳。音写して袈裟。茶色にちかい黄色。
このエピソードの原典は、「長阿含経」「大般涅槃経」「遊行経」にあると、増谷博士は教えてくれます。大蔵経データーベースを検索したのですが、未だ原典には行きついていません。
さて、この後、釈尊は体調をくずし寝込む。だが、やっと回復して、ふたたび歩き始めて、クシナーラで入滅するわけだから、今月のことばは遺言にちかい。それにしても、河を渡るのに、「筏なんか作っていないで、浅いところを見つけて橋をかけて渡ってしまえ」というのは、面白い。橋をかければ、後の人もみんな楽になれる、というのでしょう。話は深いけど、河の浅いところを探すのは難しい。釈尊自身、お悟りをひらくのに、6年とも7年ともいわれる難行苦行を山中でしたあげく、それは無駄だとわかり山里へ下りてくるわけですから。
ところで、釈尊最期の言葉は諸説あるけれど、「自灯明、法灯明(自らを頼りとし、法(真理)を頼りとしなさい)」がよく知られた遺言でしょうか(本ブログ、H25年10月のことばを参照ください)。
だというのに、下重暁子著『極上の孤独』(幻冬舎新書)は、次のように書き出されます。
「犀の角のようにただ独り歩め」仏陀の言葉である。死を前にして、沢山の弟子たちに囲まれて言ったとされる。
「犀の角のように」は『スッタニパータ』という初期仏教書に収められているけれど、遺言ではないと思う。中村元著『ブッダのことば』(岩波文庫)第一章の三「犀の角」をごらんください。同様のことばは、中村元著『真理のことば・感與のことば』(岩波文庫)にもあります。「孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところ少なくあれ。林の中にいる象のように」、と。
だというのに、『極上の孤独』は「犀の角」の引用元を明らかにしていない。これはベストセラーになった本だから、すごくたくさんの読者がいるでしょう。今頃、釈尊の遺言は「犀の角のようにただ独り歩め」だというのが、広まっているでしょうか。「それは、ちとまずい」と思い、冒頭にこの本を掲げました(勧めているわけではありません)。