わが娘へ「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」蜷川幸雄
今月のことばは、演出家の蜷川幸雄氏です。出典は、日経新聞「私の履歴書」です。
平成24年4月の「私の履歴書」は、蜷川氏でした。記事を引用してみれば、
「商業演劇の仕事をしたぼくは仲間から孤立する。櫻社に帰って新しい舞台をつくろうと思っていたが、ある日参宮橋のスナックに呼び出された。何十人もの俳優やスタッフに「なぜ商業演劇をやるのか」と批判された。その場で解散が決まった。74年夏のことだ。帰り道、蟹江敬三が「キンちゃん、どうするの」と聞いた。「しょうがないから商業演劇やるよ」。蟹江は「ぼくもひとりでやる」と言った。
汝の道を歩め。そして、人々をしてその語るに任せよ。ひとりぼっちになったぼくは「資本論」の序に引かれたダンテの「神曲」の一節を心の支えとした。
幼い実花をぼくは新宿の中央公園へつれていき、口笛の吹き方を教えた。西口の雑踏で、ぼくは自分に言い聞かせるように、実花につぶやいていた。「人がみんな右へ行ったとしても、自分が信じるなら、ひとりでも左へ行くんだよ」(H24.4.24日経新聞朝刊)
不勉強者の筆者はダンテに「汝の道を歩め。そして、人々をしてその語るに任せよ」という言葉があることもしらなかったし、それがマルクスに引用されているともしらなかった。
それにしても、「道」という言葉に弱いんですよね、我々は。たとえば、茶道・華道・柔道・剣道。もともとは、茶の湯であり活け花であり、柔術・剣術でしょう。術を道にしたのは誰で、術が道になったのはいつ頃からなのでしょうか。もっとも、野球道・相撲道なんていうのも流行らせたい方がおられるようだけど、これはちょっと、無理のようで。
白川静『字統』には、「首を携えて道を行く意」とあります。つまり戦でとった敵の首をもって行く、というまことに恐い漢字なのです。そんな字の成り立ちはすっかりわすれてしまって、「わが道は一を以て貫く」(論語)とか「僕の前に道はない」とか、「道」という字が大好きな我々です。
大好きなのですが、自分の道というのはない。なぜかというと、「自分が信じ」られないから。自分が信じられないから、同じ方向へ行ってしまうわけです。
信じる自己がないのも辛いけれど、信じる国がないにのも悲しいことです。寺山修司の次の句を、なぜか思い出した五月です。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや 寺山修司