耳を信じて目を疑うは俗の常の弊なり 『平家物語』
掲示日H21.11.1
今月の言葉は「どこからか流れてきた噂を信じて、自分自身で見て体験したものを疑うのが普通の人が陥りやすい悪しき習慣だ」といった意味でしょうか。さて、禅に「不立文字(ふりゅうもじ)」という言葉があります。文字を立てない。言葉ではつたえることのできない真理がある、といった意味でしょうか。言葉で伝えられないならば、どうすれば良いか。体験して実感するしかないというのです。
体験といえば、ちょっとへそ曲がりな禅思想史の学者・沖本克己先生に次のような著作が有るのを思い出しました。
「これまで長い間、本と頭で何でも理解できると思い込んでいた。しかし、新たな、そして様々な経験がその思い込みを突き崩してきた。所詮、頭も身体の一部にしか過ぎなかったのである。かくしてあっさりと素朴な観念論者から経験主義者に変わって既にずいぶん時が経った。経験を鼻にかける輩は相変わらず胡散臭いと思うけれども、直面してみなければ、体験してみなければわからない、という言葉のもつ圧倒的な迫力には奈何とも抗し難い。」禅の思想とその流れ (ぼんブックス)
引用したのは、『禅の思想とその流れ』の「あとがき」です。けっして、まっすぐにに書くことのない、曲線的なリズム感ある文体は魅力的です。へそ曲がりなどと書いてしまいましたが、ご本人にすれば「至極真っ当で、曲がっているのは周囲」なのでしょう。
禅は「体験してみなければわからない」というけれど、さて、私自身の体験は何なんだろうかと思ってしまう、秋の夕暮れです。