武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

137. 自転車泥棒 Ladrões de Bicicletas

2016-08-31 | 独言(ひとりごと)

 ヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」(1948年)は誰でもが1度は観たことがある名画だと思うが、これほど悲しい、観ていて辛い映画はない。

 戦後間もない頃のはなしで、世界中が貧しく、失業者も街に溢れていた。

 

露店市で見つけた2人乗り自転車と花柄のティシャツ

 その頃の自転車というと、今の様にスポーツに使ったり、サイクリングに使ったりは未だあまりなく、実用的なものであった。

 今の軽トラの様な役割を果たしていたいわゆる運搬自転車と言ったかと思うが、そんな自転車も多くあった。我家の筋向いに、はじめちゃんという幼馴染がいたが、そのおじいさんが運搬自転車にリヤカーを付けて、運送屋をしていた。引越しなどを請け負うのだが、父も天王寺美術館まで100号の絵を搬入するのにそのはじめちゃんのおじいさんに頼んでいたこともある。はじめちゃんのおじいさんは大きな自転車とリヤカーを操っていたが150cm程しかない当時としても小男であった。それから1軒おいた、たかしちゃんのお父さんも小男であったが、肩には桜吹雪が舞っていた。たかしちゃんのお父さんは運搬自転車でグリコのおまけを作る内職の運搬をするのが仕事であった。ご近所の各家にそれぞれの部品を配達し、それにあった機械を置いてゆく、部品のどの部分かもわからずにごっとんごっとんと機械を動かす、10個こなして1円とかいう内職である。そんなものの元締めとでも言おうか、そんな仕事で運搬自転車を使っていた。

 中学生になった頃、級友たちは家業の仕事を既に手伝っていた。牛乳屋の五郎は朝早くから運搬自転車で牛乳配達である。笑顔の絶えない健康優良児で力自慢であった。クラスで腕相撲なら五郎にかなう奴は居なかった。軟式野球部のピッチャーをしていた宮田君の家は傘屋であった。本町辺りにある大手傘屋の下請けで傘の布を裂いてミシンで縫う仕事である。宮田君の家に行くと近所の奥さんたちが女工さんとしてたくさん働いていた。宮田君は出来上がった布を運搬自転車に載せて本町まで届ける手伝いをしていた。ある日、若い女工さんが宮田君の家に入った。まさに金の卵である。お父さんはことのほか喜んで、宮田君に家まで送り届けることを命じた。運搬自転車の荷台に座布団を敷いて女工さんを横座りに乗せて家まで送り届けるのである。女工さんは少し恥かしそうにしていたと思うが、宮田君はまんざらでもなかったようである。宮田君は背も高く変化球の得意なピッチャーであったが、エースにはなれなかった。公式試合ではいつもベンチを温めていた。五郎は工業高校に宮田君は商業高校に進学したが、将来は家業を継ぐ事が約束されていた様に思う。高校に入った頃は2人の家とも運搬自転車がミゼットに代っていた。いや、五郎の家にはミゼットが入ったが、配達には未だ運搬自転車を使っていた。

 ヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」も仕事に使う自転車のはなしである。長いこと失業していた男が広告貼りの仕事にようやくありつくことが出来た。自転車を持っていることがその仕事が出来る条件である。張り切って広告貼りの仕事に出かけた初日、自転車を盗まれてしまう。自転車がないと失業してしまうことになる。それからの顛末は辛くて書くことができない。

 僕は小学校高学年の時、買ってもらったばかりの自転車を盗られたことがある。それまで子供用自転車に乗っていたのだと思うが、そろそろ、という訳で24インチの3段変則大人用自転車を買ってもらった。3段変則などは出始めたばかりであった。クラスの友人と3人で自転車に乗って少し離れた町の夏祭りに行く約束をした。南田辺駅近くの山阪神社の夏祭りである。夕方薄暗くなってから友人2人が自転車に乗って迎えにきた。僕が出かけようとすると、仕事から帰ってきた父が反対した。子供が夜に出かけることは許さん。という訳である。僕は友人たちとの約束を破るわけにもいかないので、父を振り切って夏祭りに出かけた。山阪神社に着いて、鳥居の側に3台の自転車を並べてそれぞれしっかりと鍵をかけ駐輪した。夜店の屋台をひと回りして戻ってくると、自転車は2台しかなかった。僕の自転車だけがなかった。一応、お巡りさんに報告したのだったと思う。山阪神社からはとぼとぼと歩いて家に帰った。家に帰って父に「自転車を盗られた。」と言うと父は「そうか」と言ったきり、僕を叱ろうともしなかったが、その時の父の悔しそうな顔は今も忘れられない。我家は決して裕福な家庭ではないのだ。そしてそれは怒られるよりもっと辛かった。大人達の意見は「ほとんど戻ってこない、諦めるしかない。」と言うものだった。案の定、その後、警察からは何の連絡もなかった。

 それから暫くして、その事件は忘れたかのように、父は同じ様な自転車を買ってくれた。父もその自転車を使った。結局僕が家を出た後にもいつも実家には自転車があった。父も自転車が必要なのである。

 それより以前、やはり小学生の時、クラスの友人6~7人で二上山まで子供用自転車で行ったことがある。二上山で僕たちより少ない4人の小学生から喧嘩を売られた。4人の内1人は相撲取りほども大きかった。他の3人は僕たちとほぼ同じ学年で同じ様な大きさであった。その小さいのが僕たちの中で「誰でも良いから、このナイフを持って、俺たちの仲間(大きいの)と決闘しろ。」と言ってナイフを差し出す。僕たちに決闘する意思は毛頭ない。多分、謝ったのだったと思う。怪我もなく、お金を恐喝された訳でもなかったと思うが、とにかく地元の警察へ行った。警察物のドラマを見ている想いだった。事情を聞いた警察官はすぐに判ったのだろう。取調室にすぐに写真を持ってきた。その相撲取りの様な大きな男が写っていた。僕たちと同学年だそうである。取調室には大きな鏡があった。僕は「ははん、これがマジックミラーか。」などと思って見ていた。警察では卵どんぶりの出前を取ってご馳走してくれた。そして「きょうはもう遅いから、自転車は警察で預かるから電車で帰りなさい。」と言って森永ミルクキャラメルを1箱づつお土産にくれた。幼き日の思い出である。*

 ニューヨークでも自転車を買って使っていた。車輪が小さくサドルやハンドルを自由に伸縮できるタイプの自転車である。ニューヨークでは自転車などすぐに盗まれてしまう。と言うので太い鎖と錠を同時に買い揃えた。前輪と本体に鎖を絡ませて電柱などに繋いでおくのである。前輪だけなら本体を盗まれてしまうし、本体だけだと前輪だけ盗まれてしまう。と言われていた。事実ニューヨークでは自転車の前輪だけ持って地下鉄に乗っている人も時折見かけた。僕は自転車でマンハッタンのアップタウンからダウンタウンまで縦横に走り回った。休みの同じでないMUZもセントラルパークなどを走り回ったそうである。幸い自転車を盗まれることはなかった。

 ポルトガルに移り住んでからは、宮崎の自宅に自転車を1台づつ置いてある。1年の内2~3ヶ月を日本で過すが、自転車に乗ることが出来るのは僅かである。1番安いのを買って25年にもなるが、ポルトガルに戻る時には部屋の中に入れているので、未だ丈夫に使っている。帰った時にはタイヤの空気は抜けているが空気を入れるだけですぐに乗ることが出来る。空港までも20分くらいだし、宮崎市内はもちろん、青島や綾町までも自転車で行くことができる。そして宮崎市は結構自転車道が整備されているので自転車が1番便利だ。でも最近になって架け替えられる橋は設計が以前の橋とは違って橋脚が少なくなっているからか、アーチ型になっていて、橋を渡るのに結構脚力がいる。そして体力の衰えを感じる。

 ポルトガルは坂道が多いし、歩道は石畳で走れないし、自転車は馴染まない。でもやって来た当初に比べると自転車が増えた。急激に増えた。増えたといってもママチャリや普通自転車ではなくて競技用自転車である。土日にでもなれば、老いも若きもまるでツール・ド・フランスの選手の様な本格的な格好で国道を走らせている。いや、ポルトガルにもツール・ド・フランス同様、ボルタ・デ・ポルトガルという大会があり盛んだ。でもお喋りな国民性は治しようがないらしく、国道を2列にも3列にもなりお喋りをしながら走っている。

 

 それは宮崎の女子高生も同じだ。下校時間などになると、2列、3列に横に広がってお喋りをしながら自転車を走らせていてすれ違っても、除けようとも、道を譲ろうともしない。

 父は94歳に病気をするまでずっと自転車に乗っていた。その頃はシルバー自転車であった。「なかなか前へ進まんし、坂を登らん。」などと言いながら乗っていた。数年前100歳でこの世を去ったが、そのシルバー自転車は実家の玄関横に銀色のシートを被せられて淋しげに置かれている。 VIT

 

*寄り道のおまけ

 二上山(にじょうざん)は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山。かつては大和言葉による読みで「ふたかみやま」と呼ばれ、万葉集にもいくつか詠われている。

 金剛山地北部に位置し、北方の雄岳(517m)と南方の雌岳(474m)の2つの山頂がある双耳峰である。

 僕が生まれ育った北田辺。その高架になった北田辺の駅ホームからも晴れた日には間近に見ることが出来る。北田辺から直線距離で25kmほど。近鉄南大阪線、北田辺から16個目の駅が二上山駅で、大人普通乗車券は440円である。

 『いにしえより、その美しい山容へ日が沈んでいく様子から、神聖な山として崇められてきた二上山。

 悲運の皇子・大津皇子は都から遠く離れたこの双峰の山に葬られたと万葉集は伝える。急峻な山道を登り、奈良盆地や大阪平野を見渡す頂へ。時代の渦に巻き込まれ、自害に追い込まれた若き皇子の、その短き人生に思いを馳せてみたい。

 大津皇子の遺体が二上山に移し葬られる時、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が哀しみ悼んで詠んだ歌が2首ある。

 ①「うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟世(いろせ)とわが見む」(万葉集 巻2-165)(現世の人である私は、明日から二上山をわが弟の君であると見て偲ぶだろう)。そして②「磯の上に 生ふる馬酔木(あしび)を 手折らめど 見すべき君が ありと言はなくに」(万葉集 巻2-166)(岸のほとりに咲く馬酔木を手折ろうと思うけれど、見せるべきあなたはもうこの世にいない)。そびえる二上山を見ないようにして暮らすのは、さぞ至難であったことだろう。弟を山に重ね見る大伯皇女の辛さが伝わる。

 大津皇子は、天武天皇を父に、天智天皇の長女・大田皇女(おおたのひめみこ)を母にもつ皇子。文武ともに優れていたうえ、高貴の身分に奢ることもなく、誰からも愛されていたと、『懐風藻』や『日本書紀』は伝える。しかし、謀反の嫌疑をかけられ、24歳の若さで自害に追い込まれる。皇子の亡骸は二上山に移葬されたが、その真意はわからない。荒ぶる魂によって境界の守りとするためという説もある。かつて、太陽の沈む西には死者の世界があったと信じられていたからだ。

 現在、雄岳の山頂付近には皇子の墓とされる場所があり、「大津皇子 二上山墓」と呼ばれ、宮内庁が管理する。

 大津皇子には、石川女郎(いしかわのいらつめ)という、心から愛する女性がいた。③「あしひきの 山のしづくに 妹待つと わが立ち濡れし 山のしづくに」(万葉集 巻2-107)(あしひきの山の雫に妹を待つとて私は立ちつづけて、山の雫ですっかり濡れてしまった)とうたっている。男が女のもとに通う風習があった時代に、身分の高さをいとわず山の雫に濡れながら愛しい人をずっと待ったとある。

 また、陰陽師の津守連通(つもりのむらじとおる)の占いで二人の関係が露見したときは、④「大船(おおふね)の 津守(つもり)が占(うち)に 告(め)らむとは まさしに知りて わが二人宿(ね)し」(万葉集 巻2-109)(大船の泊(とま)る津守の占いに出るだろうことを知っていて二人で寝たのだ)と、二人の関係が世間に知られても構わないと開き直っているように捉えることができる。それほどこの恋に身を焦がした。

 石川女郎は、大津皇子の皇位継承のライバルであった草壁皇子にも慕われていた。なんとも皮肉な三角関係だ。』(奈良の歩き方、新提案「歩く・なら」より抜粋)

 

 馬酔木(あしびき、アセビ)ツツジ科、アセビ属の常緑の大形低木、学名:Pieris japonica、関東以西の山野に自生し、庭木ともする。早春、壺形の白い小花を枝先に総状に多数つける。有毒で、馬が食べると麻酔状態になるというので「馬酔木」と書く。葉は殺虫剤に、材は細工物にする。別名:アセボ、アシビ、アセミ、アシミ、 〔「馬酔木の花」は [季]春〕

 小倉百人一首に「あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む」という柿本人麻呂の歌がある。あ行の最初に出てくるので、多くの初心者が最初に覚える歌かも知れない、僕も子供の頃に最初に覚えた歌である。VIT

 

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