住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

321 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (20)

2007-04-18 09:26:16 | もしも、徐福が日本に来ていたら
もしも、徐福が日本に来ていたらの
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読み解けた古事記(3)

321-1 別天神

古事記の始めに出てくる神は「別天神」という記述が出てくる。
guuchanはベツアマの神と呼ぶ。
それはどういうことだろう。



guuchanの読み下し

次國稚如浮脂而久羅下那洲多陀用幣流之時流字以上十字以音
次いで国(くに)稚(わか)く脂(あぶら)を浮かすごとく、くクラゲナスタダヨヘルの時、流の字以下十字は音を以って、

如葦牙因萌騰之物而成神名宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音
葦(あし)の牙(つの)ぐむ如く大国(おおくに)に萌(も)エ騰(あ)がるの物、而(しか)うして、
成れる神の名は宇摩志阿斯訶備比古遲神(ウマシアシカビヒコチノカミ)、神の名は音を以って。


次天之常立神訓常云登許訓立云多知
次いで天之常立神(アマノトコタチノカミ)、常の訓(くん、よみ)は、トコ、立の訓はタチ。

此二柱神亦獨神成坐而隱身也
この二柱の神また独り神、坐と成りて身を隠す也。

上件五柱神者別天神
上件の五柱(いつはしら)の神は別天(べつあま)の神。 



guuchanの解釈

次いで国が若いので浮いた脂のように、くらげのようにただよっている時
(何も、島が海の上を固まらずにふわふわと浮いている時という意味ではない。アメリカの独立前の状態を想像してみよ。言わば無政府の状態。)、
葦の若芽のごとく大国(原因の因の字が用いられている、囲いの中が大なので、大国とした。これは国々を統一した国のことを言う。
この時期には大国は成立していなかったので、大国が成立した後に書かれた可能性がある。
あるいは因幡の因を指しているかもしれない。)

に萌え上がるの者の成功した神の名はウマシアシカビヒコ後に神、
(つまり、ウマシアシカビヒコは若いがぐんぐん伸びて立派な働きをした若者だったが、大臣にまだなってなかったので亡くなって、
何年か後に神とされたようだ、遅神にはそういう意味があると思う)。

徐福が連れてきた3000人の童男女の一人だったかもしれない。

次いでアメノトコタチノ神。
アメノトコタチは席の暖まる暇のない、そして多くのことを知る、天(アマグサ)の国の神だったのではないだろうか。
(天の国は、二つの意味がある。一は先住の倭人だけの集団と区別して、徐福集団全体を指している時。
二は、天草を中心とする、数万戸の国で、天族の他の国と区別していう時。)


上記の五柱の神は別天の神。

(別天(べつあま)の神とは何だろう?

5人とはアマノミナカヌシ、タカミクラヒネモス、カミウムヒネモス、ウマシアシカビ、アマノトコタチ。
これは、別天(中国)生まれ、つまり一世のことだと思う。)

きょうは、ここまでにいたしとうござりまする。



320 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (19)

2007-04-17 07:02:46 | もしも、徐福が日本に来ていたら
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倭語辞典まえがき

言語考古学というものがあっても良かろうと思って、インターネットで調べてみると既にそういう言葉が用いられているようだ。
ただ、あまり進んではいない。ちょっと見ただけだが、何をどうして良いか手法も成果も纏まったものはないようだ。

そこで、guuchanは「倭(やまと)語辞典」を備忘録的に作成していくことにした。

倭語とは何か、現在の日本語は随所に漢字が入っている。どこまでが倭語でどこまでが外来語かわからない。
現代の日本語は倭語と外来語から成っていると考える。
すなわち次の等式が成立すると仮定する。

1.倭語の定義
  
  日本語=「倭語+外来語(中国語+韓国語+その他)」×(発展)

それをしなければならない理由がある。古事記の解読に不可欠なのだ。
guuchanは徐福集団が日本国の成立に強く関わっており、その中心をなしている。大和朝廷はそのものだという説である。

このように、大和朝廷が中国系であるにもかかわらず、その当時も、今も、日本語はその基本が中国語でも朝鮮語でもない。
したがって、次のような仮説を立てた。


1)徐福集団が倭人島に来た時は、既に先住民の倭人が多く住んでいた。
2)徐福はBC219~212年の約7年間の第1回来倭の間に倭語を習得した。
3)その間に驚くほど広く倭人島の調査をした。彼等は相当の大型船で来ており、調査を主たる目的としていた。
4)3000人の童男女を伴う第2回の来倭後も、自分たちだけで塊まって住むのでなく、分散して倭人の間に入っていった。
5)大和の国語を倭語と定めた。。(国語の定義が問題になる。国民に広く言うとき、それを、倭語で行った。古事記の記録は漢文で行われており、その中の神々の会話は、倭語でなされている。)

国語を倭語とすることを決めた理由を幾つか揚げておく。
 徐福が倭に来て、倭語を習得するのに、その音と意味とを竹簡に書き留めた。その過程で、倭語はほぼ50音(濁音、甲類、乙類をいれるともっと多くなるが)に近い音声で、表記できることを知った。

 徐福にとっては大きな驚きであったろう。中国語では同じ発音の漢字が多数存在する。意味を搾るためには、幾つかの漢字を組み合わせ、一語とする。
 漢字の数も無制限に多数有り複雑化す一方であった。言ってみれば倭語はローマ字表記しやすかったのだ。 これは、光通信や暗号化に極めて便利であった。
 次に、言葉が文法的に極めて単純明快で覚えやすかった。

 倭語をはじめて記録し、倭人島中を辺巡り(へめぐり、guuchanも倭語づいてきました。)、多くの倭語に接した徐福は誰よりも倭語を知るものとなった。
 倭語の良さを知り、新たな可能性も心に浮かんだのである。将来性有望と直感したのだ。
徐福は倭語を愛した。

倭語を国語とした理由。
1)倭人と共に住むのに、倭人島の中に中国人種が住む小国を作るのでなく、倭人と一体となって一つの国を作る。(倭人を支配してというと、征服者と被征服者のイメージが強いので言葉を避けた。このことについては別に述べる。)
  (徐福には、統一中国(大中国)と最初から対等となるような国を作る意図はなかった。秦の中の一国として、倭国を大中国の一国として政治を行うことしかか、考えなかっただろう。このことについては別に述べる。)
2)1国2国語は、煩雑で好ましくない。
3)倭人を教育して中国語に統一するのは不可能。
4)倭語は習得するのが容易であり、表記も簡単である。

倭語辞典

もしも、徐福が日本に来ていたらの
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連弧文銘帯鏡

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 お気楽さんから、綾羅木の考古博物館には、「やすらがおか」から出土した屈原の詩を書いた鏡があるとコメントしてきたので、半信半疑で見に行った。
 「あった!」やすらがおかの出土ではないが、下関市内だ。「稗田」だ、そう遠くない。隣町ぐらいのものだ。
 しかし、驚いた。屈原といえば徐福より100年位前の人で、濁った政治の世界を悲憤慷慨して海に身を投じて死んだ人だ。
 徐福にも共感するところ、多かったろう。

 「連弧文銘帯鏡」と名づけてある。

 難しい名前に見えたが、円弧状に文字を連ねて、銘を帯びた鏡ということだろう。
 「連弧文帯銘鏡」の方が、よさそうに見えるがそれは、guuchanが浅学なるが故であろうか?

 これを見た時、ああ、徐福と同時代だと思ったが、まさか徐福のものという考えまで起こらなかった。
 しかし、次のを見て仰天した!



蓋弓帽
 
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 なんと!蓋弓帽は、前漢の身分の高い人が乗る馬車の覆いにつけた飾りだという。
 身分の証明に、最低の記念品を持って来たかもしれない。
 徐福か、もしかしたら、徐福が仕えた徐王もしくはその子孫。
 始皇帝に滅ばされた王、またはその子孫、もしくは徐福その人のものという、可能性は大だと思う。

 特に鏡はそうだ、徐福は方士だから鏡は七つ道具の一つである。
 しかも、屈原の詩が刻んであるとなれば、徐福が愛用したくなる。否、徐福がその詩を刻ませた可能性大である。
 屈原の心境に共感するのは王自身よりも、王に近い忠臣である徐福のほうがピッタリ来るだろう。

 徐福徐福と思っているからそう思い込んでしまうのかもしれないが、徐福以外に、誰も知らないからし方がない。
 徐福の友人であったかもしれない。
 そう簡単に徐福に死んで欲しくない。
 これが、徐福のものだったとしたら、徐福が来日してどれくらい経ってのことであろうか?
 旅に病んで、遂にこの土地で終焉を迎えたのであろうか?
 
 それにしても、徐福自身のもの、徐福の友人のものであったとしても、極めて徐福に近い存在で、古いものと思われる。
 たとえそれが、日本に来た後に、そういう銘文を刻んだものを作らせて、身内に渡したものであったとして、最も古いものといわざるを得ないのではないか?
 そういう文を鏡に刻むとは?
 
 まさか、そういうものが当時中国で流行していたと言う人はいないだろう?
  
 これはレプリカだが、本物は三種の神器にも劣らぬ貴重な文化遺産だ。国宝であろう。
 
 屈原の詩が鋳込まれていると書いてあるが、guuchanには一字も読めない。丸いのは日かなとおもうが、、日なのか曰くなのか、隣が読めないし、縦書きか横書きか、裏か表かもさっぱり分からない。
 折角、屈原の詩と呼んだのなら、その貴重な努力の結果を、ここに添えて展示しておくべきではないか。
 誰が読んだか知らないが、国公立大学の先生なら、税金から支払われている給料だ、結果を私化せず、是非披瀝していただきたい。披瀝する義務があるといいたい。

 博物館の人には、判明したら、知らせてもらうようにお願いして帰った。

 こんなことってあるだろうか?
 たまがった。


 




318 御衣黄、八重桜、小手毬

2007-04-15 00:53:03 | 風景
徐福には、ちょっと一服してもらいましょう。
その間、お花でも楽しんでださい。


318-1 御衣黄

桜ですが、色が変化します。薄緑からピンクに。
爽やかな、春風が吹いていました。

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318-2 八重桜

ソメイヨシノとはまた違ったあでやかさですね。

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318-3 コデマリ(小手毬)  バラ科シモツケ属

オオテマリはずいぶん前に咲いてたように思いますが、コデマリは今からですね。

318-4 ツツジ(躑躅) ツツジ科ツツジ属

むかし中国で毒性のある「ツツジ」を羊が誤って食べたところ、もがいて蹲(うずくま)ってしまったことから「躑躅」になったそうです。
へえ?本当ですかね?
ツツジに毒があるなんて知らなかった。
花を取って、細い方から蜜を吸っていたような気がするけど、、、。

みんな2輪づつくっついて咲いていました。今まで気付きませんでしたね。
みんな、花がびっしり咲くことが多いので気付かなかったのかも知れません。


318-5 寄せ植え

チューリップとヴィオラの寄せ植えですが、チューリップの色がちょっと変わっています。それに葉も。
とにかく斑入りの葉っぱを見ると、何でも集めたがる人が居ましてねえ。

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317 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (17)

2007-04-14 06:18:29 | もしも、徐福が日本に来ていたら
     
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北斗の剣物語

 これは中国にそういう物語や、伝説が存在しているわけではない。 guuchanの創作した物語である。

 紀元前300年頃、徐の国に刀鍛冶が居た。
 この刀鍛冶には息子が居たが後を継がず方士になりたいといって聞かないので、仕方なく方士の処に弟子入りさせた。
 刀鍛冶は腕が良く大変繁盛していた。研ぎや、鞘の手入れに預かった刀が床一面に置いてあった。
 あるとき、息子が家に帰ってくると、お父さんが武士から叱られていた。
 父が客人の刀を探すのに、それらの刀を跨いだり、足に触ったりして、客人には蹴飛ばしているように見えたのだ。
 それを見ていた息子は、武士が帰っていくと父に言った。
 「床に広げるからいけないんだ。」
 「しかし、これ以上壁に掛けるところがないし、束ねておいたら、探すのが大変なんだ。」
 「いっそ、天上から吊るしたら?一目で分かるし、頭の上なら誰も怒らないでしょう。」
 「おう、それはいい考えだ。」
 こうして、二人は夜までかかって、刀を天上から吊るしました。


 
翌朝、二人が起きてみると、何か変です。
「何か、みんなくっついてるね。」
「昨日は、皆ぶらんぶらんしてたのにな。」
 そのとき、お客さんが来て預かっていた刀を渡しました。また、お客さんが来て渡しました。
すると、一本はくっつく相手がなくなりました。
 しばらく、皆揺れていましたが、気が付いたら動きが止まったいて、三本がほぼ一直線に並んでしまいました。
 刀鍛冶は言いました。

「それは、お前、何故か知らんが、刃金(鋼)は引き合うのだよ。」と教えてくれました。
 そして、一本の刀を抜くと、鉄を鍛える辺りの床をそっとかき回しました。
 すると、刀に鉄の粉がくっついて来ました。「ふうん、ジャア1本だけだったらどうなるの?」
 「さあ、そいつあ、俺にもわからねえ。あの辺りに刀がいっぱい置いてあるからそっち向きかもしれないな。」
といって、息子が一晩試したいというので、一本だけ残してみました。
 翌朝、見てみると、刀は束ねた刀の方向ではありませんでした。「もしかしたら、どっかそっちの方向に、鉄が埋まっているのではないか?」などと冗談を言いながら、もう一晩試してみることにしました。
 縄が撚ってあるのは、いつまでも回転してなかなか止まらないので、撚ってない布の紐にしました。
 翌朝見てみると、昨日と同じ方向を指していました。

 わけが分からないまま。ほんとに鉄の塊りが、そちらの方角に有るのかもしれないと話しながら二人は別れました。

 方士は、お師匠さんの家に帰っていきましたが、その日から、毎晩刀を吊るして寝ることにしました。
 刀の鞘には、刀の重心に近いところに、吊り下げる金具が付いていました。
 少しの違いは、錘をくっつけて水平にバランスを取るようにして寝ました。
 毎日、結びなおして10日試しました。
 しかし、いつも同じ方向を向いていました。
 それはどうも北斗の方角であるように思いました。

 刀鍛冶の息子は、方士にこのことを話しました。
 方士は、その夜、他の弟子たちも集め、刀鍛冶の息子がしたようにして寝させました。
 翌朝、ほとんどの弟子の刀がやはり、北斗の方向を指していました。
 あまり上等の剣でないのは、北斗を指しませんでした。
 刀が鍛えられて、良い刃金になってないと北斗を指さないのです。

 「良い剣は、北斗を指す。」
 これは知る人ぞ知る事実です。
 まあ、しかし飛び切りの銘剣でなければ、北斗の剣にならないということはありません。なまくらでは駄目だということです。
 

 北斗の剣という名前をどうしてつけたのか、メールで尋ねましたが、答えは返ってきませんでした。

 そして、磁石が北斗を指すことが方士たちの間では、知られるようになって行きました。


 中国では、BC300年頃に、磁石が南北を指すことが一部では知られていたそうです。
 しかし、磁石の針を水に浮かべて方向を知る方法が中国らアラビアを経てヨーロッパに伝わったのは11世紀頃とされています。
 さらに、水に浮かべる方法では、船では水がこぼれて役に立たないため磁石を吊るして方向を指すようにした羅針盤が1,560年ごろ発明され、
 15.16世紀の大航海時代を迎(むか)えたそうです。


 コロンブスは磁石を使ったと思うですがね?

ひょっとしたら、徐福さんはこの、刀鍛冶の息子の方士から直接、色々な知識を伝授して貰ったかもしれませんね。