もしも、徐福が日本に来ていたらの 目次は、ここをクリックしてください。 | |
読み解けた魏志倭人伝(2) さて、佐賀辺りから南を見て75km位のところに女王国、すなわち邪馬台国を探さねばなりません。 75kmというと熊本県の八代辺りになります。これは敵のクナ国の真っ只中です。 おかしい?おかしい? どこかで間違っているのかな? もしもguuchanが徐福ならどういう土地を選ぶ? 船は貴重な財産です。漁民にとって伝馬船でも大きな財産です。 貧乏な漁民が船など持てるはずがありません。 鋸や、鉋や、鉄の道具も少ない時代にどうして簡単に舟が作れるでしょう? 船は攻撃にも、防御にも、有効です。 乗ってきた大きな船を捨てて陸に上がってしまうなど考えられません。 guuchanなら海運会社を作ります。 日本の各地の資源を集めて、それをまた、各地に分けてやれば重宝されて、敵視されず、豊かな生活が営めるでしょう。 広すぎては防備に困ります。 適当な大きさの島がいい。 徐福等は外洋を航海してきましたから、船も大きいのです。 秦の始皇帝の時代、ジャンク船の大きさは積荷で4000~6000石(500~750トン)が通説です。 それを修理したり、造ったりしなければなりません。 そのために100工も連れて来ているのです。 沢山の船を所有しており、それは老朽化しますから新造もしなければなりません。 造船所があるはずだ。造船に適していなければならない。 そういう考えで、徐福が永住地を選んでいるはずだ。 と、そのとき目に入ったのは、佐賀から75kmのところに、天草があるではありませんか! これだ!と思いました。ドキドキしました。 陸ばかりに目が行ってますから、天草が盲点でした。 考えてみれば、徐福らは多数の船で来ていますから、船が自由に出入りできる港がいい。 外海は、波が荒いから船が安全に避難できる内海が重要です。 外洋にも近く、それで居て島の内側は波静か。 故郷の中国にも一番近い。 天草は最適なように思えました。 今度は、天草に古墳や遺跡があるかどうかが心配でした。 ネットで探すとすぐ天草にだけ多いことが分かりました。 古墳・墳墓 天草の神社 guuchanなら天草に根を下ろします。 その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。 (これは注目すべき一文です。道理を計るにということは方向と距離を計って来たらということです。当に会稽の東治の東にあるべし) 会稽といえば、上海の近くです。 ウィキペディアによれば『会稽郡の治所は山陰県(現在の浙江省紹興市)へと移された(129年)。』とあります。 紹興市は杭州湾の奥にありますが、陸の中です。 杭州湾の先端に上海があります。会稽郡の東の突端です。 治所は役所のことです。現在でも良港ですから世界一の都市になっています。こんなところに役所を置かない筈がありません。 役所を置き東治と呼んでいたのではないかと思いました。いつから上海と呼ばれるようになったのか? その前は何と呼ばれていたか? いつか調べたいと思います。 天草は北緯32度10分から32度40分にあります。上海は北緯31度から32度+でしょう。まさに真東と言ってよいではありませんか。 天草に間違いないという確信を得ました。 この続きは明日にいたしとうござりまする。 |