住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

[『もしも、徐福が日本に来ていたら』 (6)

2007-04-01 00:56:17 | もしも、徐福が日本に来ていたら
もしも、徐福が日本に来ていたらの
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ー 対馬到着 ー


 301-1 厳原で
 翌日の4月13日朝返事がもたらされた。上陸を受け入れるというものだった。
 それから、上陸の準備が始まり、午後、徐福と主だったもの20名、兵士20名、若い男子20名女子20名、それに朝鮮語の通訳が上陸した。
 若い男子は従者として、女子たちは、料理をする場所で、配膳の手伝いをする傍ら、非衛生な料理や、食器が用いられないよう、また、万一にも毒などが加えられないように見張る役目も負っていた。
 食卓は、魚、貝、若布などの海草、野草類を大きな瓶で煮たスープたっぷりの御馳走であった。食器は、太い竹を一節分、斧で切り取ったもので、それを半割にしたものと、中央で上下に切った二種類があった。
 上下に切った方は、指は底まで届かず、熱いスープにあっては絶対に箸が必要であった。
 住民は竹を割って、手ごろな幅と長さを持ったずんべらぼうの板を匙のように使っていた。
 徐福らは、このとき二本の箸を銘々用に作り、これを使って、住民を感心させた。
 日本では箸は、弥生末期に神と天皇だけが使用できた。それも竹製で折り曲げて使うピンセット型のものだったと記したものがある。(その根拠が何か知らない)
 しかし、中国ではBC300年以前に、王侯貴族の間では、スープの具をとるために箸を使うようになったとある。
 もしこのとき、日本の住民が二本の箸を使ったことがなかったとしたら、徐福一行の妙技に感心しただろう。これを住民が真似てなかなかうまく行かず、大笑いになり、座の緊張はほぐれ、和やかに展開されたと考えるのはguuchanだけであろうか?
 ピンセット型の箸が有ったとすれば、それは瓶(大鍋)から注ぎ分けてやる時に、菜箸代わりに使用したであろう。
 もしそれを天皇だけが使うしきたりが残っているとすれば、食べ物を分配するのは、家長の役目であったかもしれない。

 徐福らは玄米、豆等を竹で編んだ籠に入れて持参した。他に彼等には珍しい衣服を送った。島民を大いに喜ばせた。
 歓迎の歌や踊り、またそれに応える歌や踊りで和やかな宴になった。

 徐福らは一度に700人づつを2日間上陸させ、10日の間そこに滞在した。
 その間に、徐福は6隻の船を用いて、対馬の大きさを測量させた。
 3隻づつを組にして、北と南に分けて出発させた。
 船の上から測量が出来るのか?

 海が穏やかであれば、かなりの精度で行い得た。
 徐福は琅邪を出発する前に、琅邪の近海でその訓練を若者たちにさせていた。

 その方法は驚くべきものであった。
 まず、隣の船とどれだけの距離があるかを測量する訓練をした。
 それは、こちらの船のマストの下から隣の船のマストを見上げて、その仰角を測るものであった。
 すなわちTanθが隣の船のマストの高さである。Cotθを求めるのは簡単だ。
 図上でTanθの直角三角形を描くと、その底辺の長さがCotθである。
 すでに甲板上に分度器が描かれていた。図からコンパスでCotθを求め、それにマストの高さを掛算すればよいのである。
 古代の人たちを侮ってはならない。彼等は天文学に通じ、測量技術に通じていたのだ。
 だから、中国において広大な墳墓や、宮殿、城郭、万里の長城などの巨大建造物をやすやすと建設できた。
 隣の船との距離が測れれば、2隻の船から同時に島の一点を見させ、その仰角や平面角を測ることで三角測量できるのである。
 勿論伊能忠敬が、計ったように正確には行かない。忠敬は陸上を歩いて計ったのだから。
 そのかわり、僅か10日の間で、かなりの精度の対馬の地図が甲板に広げた『あるもの』の上に書き取っていった。
 恐るべし徐福。

 紙の代わり『あるもの』
 当時の紙といわれるものは、はじめ絹糸のくず糸を漉いて作ったものであった。それ故紙という文字には糸偏が当てられたと言われている。しかし、これは弱い上にたんぱく質であるから水に溶けるという弱点があった。それで、麻の屑糸などの植物繊維で漉いたのが現れた。BC150年頃に、蔡倫が製紙法を改良したと言われるのがこれである。
徐福が琅邪を出発して60年ぐらい後の話だ。
 徐福が使用したのはカンバスである。
 薄くて広い箱を想像していただきたい。中に適当に仕切りを入れると箱は広くても丈夫になる。これに漆喰を入れたて乾かしたものだ。(これはどこかからそういうものが出土したと言うのでなく、guuchanの想像だが、古墳から出土する正座を描いた壁画を見れば当然であろう)。木簡や竹簡では絵はかけない。羊皮紙がたとえ中国にあったとしても、正確な地図や正座などを書くには向かない。
 徐福恐るべし。