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淡路島洲本・益習館・稲田学問所

2014-08-14 | 歴史
お盆のなか、淡路島へ出張。関係者6名のスケジュールがあう
のがこの日だけだった。早朝の新幹線は何とか予約できたけど、
車が混みに混む。

神戸高速が大渋滞。明石大橋もそこそこ混んでて、淡路島は空
いてるかと思ったら、四国里帰りの車で、また大渋滞。通常なら
1時間で着くところが、3時間近くかかる。こんなこと初めて。


斎藤畸庵 (1805-1883) 『益習館 稲田学問所』

打ち合わせも無事済んだので、「益習館跡地」を見に行く。淡路
島が明治時代になって、それまで属していた徳島県ではなく兵庫
県に組み入れることになる「庚午事変」の舞台の一つ。

江戸時代は淡路島は阿波藩が統治し、城代は家老の稲田家が送り
込まれ、代々務める。

8代当主・植久が学校というか学問所を開設。規模の拡大によって
13代当主・芸植が別荘にしていた下屋敷へ学問所を移し「益習館」
と改称。



16代当主・邦植の時、明治になって、阿波藩蜂須賀家と稲田家の身
分問題から「庚午事変」が起きる。明治3年(1870)に洲本在住の
蜂須賀家臣の武士達が、筆頭家老稲田邦植の別邸や益習館を襲う。

稲田家側は一切無抵抗だったそうで、自決2人、即死15人、重傷6人、
軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り、焼き払われた屋敷は
25棟!



「庚午事変」の詳細はwikiなどに譲るとして、幕末期における徳島
藩と稲田家のズレが背景にある。阿波藩側は佐幕派であったのに対
し稲田側は尊王派だったのね。幕末だなぁって思う。

桂小五郎・西郷隆盛・山縣有朋等の尊王派達が「益習館」を訪れて
いる。どんな会話がなされたのだろうか。

稲田家は予想以上に厳しい処分で、新政府より北海道静内郡及び色
丹島の開拓を命じられ、過酷な運命を迎える。2度ドラマ化された
『お登勢』や、映画『北の零年』でも描かれたそうだ、見てみよう。



益習館の家はその後再建されたが、所有者が転々とする。最後の
所有者が洲本市に寄贈しはったのが2013年のこと(記事はこちら)。
庭が整備され始めてられていて、往年の姿が復活されつつある(家
部分は手つかず)。

益習館のことは、こちらを参照。絵や図面も。

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