一生

人生観と死生観

わが行く道

2007-11-05 14:44:18 | 哲学
11月5日 晴れ(下り坂)
 仙台での忙しい日程を終わりいわきに戻る。
 今日の表題「わが行く道」(哲学)と書けばなにか偉そうに聞こえるかもしれないが、私の心境と信条を書くしかないのでこんな題をあえて選ぶ。
 少年時代、貧しいというほどではなかったが、母子家庭にあって、母はつましい暮らしを子どもたちとともに送った。その昭和十年代の十年、われわれ兄弟は小さな幸せの中にあった。そして世の中がひっくり返った敗戦後、貧しいのは私たちだけではなかったが、私の家は兄が慣れない農業を始めて苦労を重ね、姉と妹は結核のため相次いで亡くなり、私も感染して学校を二度にわたって休まざるを得なかった。大学を出れば大変な就職難がまっていた。卒業前の私は確かによく勉強した時期があった。戦後の昭和二十年代の私は遊びもしたし、文学青年気取りの読書道楽もしたが、後半は真面目に努力する理学部の学生であり、科学に魅せられていた東北大生だった。国家公務員の試験に合格して電気試験所へ就職。
 やっと化学者らしくなった昭和三十年代、理学博士になって、日本原子力研究所から派遣されてアメリカ留学も果し、子どもが二人できたところへ、二男のワクチン禍に襲われた。途方にくれる日々が続く。
 昭和四十年代,私に転機が訪れた。母校東北大の助教授として教職についたのだ。そしてそれはワクチン禍と真正面から向き合う契機となった。そして憧れのドイツへ。客員教授という身分はどうでもよかった。少し無理してでもワクチン禍の子どもたちを助けることが私の使命と信じた。信じる人間がどんなに強くなれるかを私は否応なしに経験した。その中でとても考えられないほどの僥倖も味わった。
超越者のこの世への介入を見る思いであった。研究もワクチン禍児の救済も、という両刀使いの私の行き方は、見えざる神の加護によって進められたのだ、と私は信じている。私が主役ではなく、神は必要あって私を取り上げて下さった。この日本の苦しむ家族たちのためにどうしても私の登場が必要になった。
 そして昭和が終わり、平成のはじめ、訴訟は勝訴。被害者保護の法律も制定された。
 そしていのち像が宮城県中央児童館に設立をみた。幾多の困難を乗越えての奇跡の成就のようにさえ私には思えた。理解ある支援者に恵まれ、いのち像を囲む集いを十年やったところである。なんと恵まれた十年だったことか。
 そして今、次なる大きな難問が出てきた。中央児童館の閉鎖問題である。建物は年が経てば老朽化するのは当たり前のことだ。その時は建物を建て替えるのだ。ところが宮城県は児童館の使命と意義は終わったとして、これを捨てるという。
 しかしいのち像をどうするのか。いのち像は捨てるようなものではない。いのち像を捨てるようでは宮城県は滅びるとさえ思っている。いのち像を守り通すために私は同志とともに全力をあげねばならぬ。