一生

人生観と死生観

東北とアイヌ

2007-11-15 10:12:05 | 歴史
 11月15日 晴れ
 大野晋の『日本語の源流を求めて』(岩波新書新赤版1091,2007) は面白い本であったが学会では多分評価が分かれる本ではないかと思った。日本人は独創的な見解を中々受け入れない。トヨダ流『改善-カイゼン』の好まれる国である。独創と改良を対立概念とすれば、改良に重きを置くお国柄だ。独創家は変人として社会の隅に追いやられ、たまたま外国人に認められでもすればはじめて日本でも受け入れられる。大野氏の創造性はタミールの学者たちを驚かせた。スケールの大きな学問的越境が彼の学問に見られるのは楽しい。知るを楽しむー己の権威のためでなくー
ことは学者の必須の要件だが、偉くなればなるほどこのことが忘れられる。大野氏は面白い発想が進み、越境して考古学にまで踏み込んだ珍しい日本人言語学者である。尊敬に値する人だ。考古学でやや素人っぽい見解があったとしても、それはそれでよいではないか。
 さてその本の中の東北のアイヌ地名についてだが、以前私は彼に「夏戸城のロマン」と言う自著を送って、猿毛という地名が新潟県に2箇所あり、アイヌ地名でアシの生えている所と言う意味になると言ったことがあるが、そのことは今回の著書では無視された。
 それから東北人がアイヌの勢力下にあったのが徐々にヤマトコトバの民に征服同化されていったとの記事は問題があろう。安倍氏のつくった王国は日高見の国でアラハバキ信仰に立つ国として一定の政体を持っていたらしい。この国はアイヌ族の国ではない。アイヌ系らしい阿曽部の民、出雲系らしいツボケ族、中国渡来系らしい一群、それにナガスネヒコ系の移住民などの混成と見られる。そんれが大和との戦いに破れ、徐々に同化されたと思われる。したがってアイヌ系の割合は少なく、私の見るところ一割あるかどうかである。
 大野氏は顔立ちからするとアイヌ的要素が濃いように見える。それは決して彼をけなしているのではなく、芸術家、学者、詩人を輩出した東北の民に対する敬意と受け取っていただきたい。