一生

人生観と死生観

j私、私

2007-11-18 09:50:27 | 哲学
11月18日 晴れ
 初めは「自意識」としようかと思ったが難しそうに見えるのでやめた。私と言ってそのあとどうする積りかと、私は自問する。私は私の行動の源であり、私の思想の源である。見る、聞くの主体である。そして複雑、ときに怪奇なこの世に対峙する存在だ。
 そこで私は鏡に映る自分の顔を見る。思えば自分の顔をしげしげと見た幼い頃、頭でかっちの弱々しそうな顔と自己嫌悪を感じ、そして高校の頃にはまあまあの顔と思い、さらに研究者になった後はなんとなく堅物のようだが職業柄、まっ、これでいいっかと受け入れた。
 自分の顔だけでなく、体つきを観察することも必要になった。それは日本人の成り立ちに興味を持った頃からである。ドイツへいったとき、レスラーという人からあのシュランクな日本人と言われた。日本人の多くはチビで愛嬌のある小沢征爾ばりの顔と思っている人には私の顔は少し規格はずれと見えたらしい。
 しかし重要なことがある。私は思っている。私の体形は明らかに出雲系なのだ。
新潟県出身だから当たり前と言うかもしれないが、新潟でも北の方は沿海州の血が入っているような人も居り、またアイヌ的な人も僅かながら居る。
 結局私たち日本人にとって成り立ちは複雑と言うほかない。混血は良いものをもたらすことが多い。自意識を高める作用もあるだろう。宿命感に陥るなかれ。混血万歳。前方には輝く空がある。

ああ児童館問題

2007-11-17 16:20:33 | 生活
11月17日 晴れのち曇り
 渡辺孝男さんからの便りで宮城県中央児童館の存続請願が11月16日付けの河北新報の記事になったことを知った。現在約1万5千の署名が集まったという。街頭署名活動もそのうちにやると書いてある。県当局にとってはかなりのショックではないか。それともこれに便乗してこの問題の政策転換により事態の収拾を図る方向へ行くか。いずれにしても早急に対応してもらいたい。
 県の態度は行政機能重視で児童館活動の実質の評価が落ちているようだ。今まで積み上げてきたジュニア・リーダー育成の宮城方式などすぐれたものを温存し、さらに発展させることだ。場所を増田地区に移すことがよいとは到底思われない。歴史的な観点も重要だ。おてんとさんの碑やいのち像の彫刻を捨て去るごとき態度はまったくいただけない。「機能重視」もここまで来ると「馬鹿のひとつおぼえ」のようで弊害の方が大きくてあきれ果てる。児童館は児童館らしく子どもに分かりやすいことが第一だ。大人の論理で機能、機能というなかれ。子どもに分からぬ機能など結局役に立たぬ。。
 子どもには愛情ーそれが児童館の中にあふれている。児童館とはそういう姿でなくてはならない。そういう児童館であったこの宮城県中央児童館が、そうであり続けるように守ろうではないか。
 

NHKの番組

2007-11-16 11:06:12 | 歴史
11月16日 曇り
 昨夜NHK教育テレビで「知るを楽しむー明治サイエンス事件帳」で千里眼の話を見た。千里眼とか念力とか怪しげな話に虜になる学者もいたが、遂に失脚して高野山にこもることになったと言う。
 長岡半太郎の錬金術は間違いだったが、彼は失脚まではしなかった。万有還銀説を検証すべく実験の舞台裏のトリックを突き止めるまで付き合った丸沢は九州大学を辞職。怪しい学説は人を破滅に陥れる危険性があるのだ。
 ニッポニウムのこの放送番組でのデビューはいよいよ来週とのこと。前にたけしの番組でニッポニウムに関心を示したことがあるが、私は少し迷惑と思った。幸い放送にはならなかった。学問的に厳密であろうとすると、世間の人は難しすぎて分からないと言う。分からせるためには多少曖昧でも面白そうな比喩を使い、論理の飛躍をあえて行ってその場をしのぐ。こういうことは学問の本道ではない。NHKは
そこまで低くはないけれども、分からせるための苦労と科学的厳格の間でとにかく
熱心にやろうという姿勢が見えたから私も協力したのである。

東北とアイヌ

2007-11-15 10:12:05 | 歴史
 11月15日 晴れ
 大野晋の『日本語の源流を求めて』(岩波新書新赤版1091,2007) は面白い本であったが学会では多分評価が分かれる本ではないかと思った。日本人は独創的な見解を中々受け入れない。トヨダ流『改善-カイゼン』の好まれる国である。独創と改良を対立概念とすれば、改良に重きを置くお国柄だ。独創家は変人として社会の隅に追いやられ、たまたま外国人に認められでもすればはじめて日本でも受け入れられる。大野氏の創造性はタミールの学者たちを驚かせた。スケールの大きな学問的越境が彼の学問に見られるのは楽しい。知るを楽しむー己の権威のためでなくー
ことは学者の必須の要件だが、偉くなればなるほどこのことが忘れられる。大野氏は面白い発想が進み、越境して考古学にまで踏み込んだ珍しい日本人言語学者である。尊敬に値する人だ。考古学でやや素人っぽい見解があったとしても、それはそれでよいではないか。
 さてその本の中の東北のアイヌ地名についてだが、以前私は彼に「夏戸城のロマン」と言う自著を送って、猿毛という地名が新潟県に2箇所あり、アイヌ地名でアシの生えている所と言う意味になると言ったことがあるが、そのことは今回の著書では無視された。
 それから東北人がアイヌの勢力下にあったのが徐々にヤマトコトバの民に征服同化されていったとの記事は問題があろう。安倍氏のつくった王国は日高見の国でアラハバキ信仰に立つ国として一定の政体を持っていたらしい。この国はアイヌ族の国ではない。アイヌ系らしい阿曽部の民、出雲系らしいツボケ族、中国渡来系らしい一群、それにナガスネヒコ系の移住民などの混成と見られる。そんれが大和との戦いに破れ、徐々に同化されたと思われる。したがってアイヌ系の割合は少なく、私の見るところ一割あるかどうかである。
 大野氏は顔立ちからするとアイヌ的要素が濃いように見える。それは決して彼をけなしているのではなく、芸術家、学者、詩人を輩出した東北の民に対する敬意と受け取っていただきたい。

終わりなき愛

2007-11-14 10:09:43 | 哲学
11月14日 晴れ
 人生のもろもろの山あり谷ありの旅路を越えてきて、今また新たな難題に立ち向かうことを余儀なくされ、私はもう一度心を引き締めてことに当たる。
 署名活動の中で思う。ふだんはそれほど付き合いのなかった人でも出歩いて会って見れば、いろいろな話が出来る。世界がそれだけ広がるといってもよいだろう。自分の小さな世界に閉じこもっていたときには気付かないことも気付かされる。
 人と人との間に愛憎の感情が発生し、愛するがゆえに憎しみのいや増さって募ることは新聞に見かける殺人事件の報道などの裏によくある。人間の愛は限りがあり、いつか変わる。
 変わらぬ愛、終わりなき愛があるか。それは人間の世界では求めても、求めてもえられない。求める自分がエゴイストであることを覚るだけである。
 信仰の領域ではその発想がまったく違う。艱難は練達を生み、練達が希望を生じ、希望が愛のわざをいとも簡単に生み出す。愛とはこういうスケールのものである。マザー・テレサの愛はヒンズー教徒の群れにさえ向けられたではないか。深い愛、変わらぬ愛、終わりなき愛をここに見る。

大野晋の日本語とタミル語

2007-11-12 23:21:11 | 歴史
11月12日
 日本語についての謎は深まるばかり。大野晋先生とは一度ずうずうしく電話をかけてお話したことがある。タミール語との関わりが言語学的に証明されれば、次の段階はタミール文明が如何様にして日本に到来したか、考古学的な証明が必要になる。それに関する証拠は現在の段階では甚だ少ないけれども、将来の考古学の発展に期待することにしよう。日本人に珍しい独創的な研究を展開した88歳の大野先生に敬意を表する。それは西の話である。次には東北の話が出来る人材が出るように願う。

ミステリー小説の中の奇書問題

2007-11-11 21:50:06 | 歴史
11月11日 
 内田康夫著『十三の冥府』上巻読了。なるほど津軽の奇書『東日流外三郡誌』は偽書扱いになっている。そこまでしなくてよいのではないか。ミステリー文芸だから責任は問えるようなものではないが、あれだけの資料のすべてがでっちあげで出来るとは思えない。キーワード二つ三つあげると、アラハバキ神はこの書だけでなく、日本の方々に痕跡がある。新潟県弥彦神社のアラハバキ門、氷川地方の神社の記録、その他にアラハバキの名が見える。ナガスネヒコと安日彦のうち、ナガスネヒコは秋田物部神社の記録にも見え、安倍氏の祖先と見える。要するに『東日流外三郡誌』は正確な歴史書ではなく、言い伝えなどによる集成だから誤りも多いだろうが、少しは真実もある、日本書紀ヤ古事記と同等のものなのだ。敗者の歴史を扱うための特有の僻みっぽさ(同時におもしろさにもなる)があるのはやむを得ない。偽書と決め付けて大騒ぎするほどの事もない。

侍とは

2007-11-11 15:01:53 | 生活
11月11日 雨
 11月11日は11が二つ重なる日。11は漢数字で士とかくから侍の日となる。侍は封建時代士農工商の4階級の最上階級だったが、とかく名と実は伴わぬものであった。経済的にみても下級武士は農民のうち庄屋などには豊かさが及ばぬ。
武士は威張っているだけで、それはうわべだけ、と言われることもあった。
 人を切ったり殺したりすることのできる武士が職業的になったのは日本歴史の中で平安時代頃からか。奈良時代の防人は農民からの徴発だった。
 侍のよさはある。忠誠心、単純明快を好む習性、卑怯を嫌う、などなど。武士道と言うものが確立して日本人は骨格が出来た。近頃はくずれるばかり、どこに骨があるのか分からない連中が増えてきた。そうは言ってもやはり日本は日本人で構成されているのだから、これからますます悪くならないようにみんなで努めなければならぬ。やっぱり教育、幼児教育の重要性に突き当たるのだ。

わが子の日に

2007-11-09 15:13:58 | 生活
11月9日 穏やかな日 晴れ
 明け方こむら返りの癖が出て寝苦しかった。充の日。今から43年前のこの日、インフルエンザの予防接種により、充は烈しい副作用に見舞われ、そして遂に重度の心身障害をおう身となった。そのときから35年、彼はこの世にあって私たちの光となり、行く手を照らすたいまつのようであった。
 今、児童館の危機に際し、彼がかの国から送ってくるメッセージを聞き取ることが出来ますように。

予感というもの

2007-11-08 15:16:28 | 哲学
11月8日 晴れ
 予感とか霊感とか言うものがある。人にのみ特有なのか、それとも動物にもあるのか詳しいことは分からない。屠所へ引かれる牛や羊が悲しい声を上げると聞いたことがある。600万人が殺された第二次世界大戦下のユダヤ人たちはいのちの限界のぎりぎりを生きた。僅かに生き残った人たち、たとえばヴィクトール・フランクルのような人はその後すぐれた学問的業績をあげた。霊感に充ちたとでもいうような文章がほとばしり出た。
 がんにかかり、いのちの限界を自覚した人々がかえってよく生きるという。死の予感におびえるよりもその日その日の生の充実のために生きようとする、その姿勢こそ我らの鑑である。