日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

「日々」、水仙の夢うつつ

2015年01月31日 | 日記
 「日々」、とだけ書かれた白隠禅師の江戸時代中期の書軸に、無釉の骨董壺に投げ入れられた紅梅の枝を取り合わせた写真がある。白洲正子本人の取り合わせにより「武相荘」の居間で撮られたものだ。一瞬、床の間かとおもったけれど床が板の間なので、あの鶴川の旧邸の居間に違いないだろう。それにしても、これは決まり過ぎの構図、最初から白洲正子と種明かしされるといささか興ざめしてしまうところがあるのは致し方ないかもしれない。

 もし、わたしがこの「日々」に何かいまの時節の花を取り合わせてみよと言われたら迷わず、つと伸びるニホンスイセンの花の何本かを、その白隠の書のまっすぐ下に置いてみたい。花の長さと幾本を挿すかがセンスのとわれるところ。さて畏れ多くも、利休が秀吉を招いた茶会の床の間の朝顔ばりに一輪挿しとするか三本か五本か七本か、いずれにしても奇数の本数にすることは迷いがない。この季節に咲く水仙の花の清楚な立ち姿は、すがすがしい香りにあいまって、冬の寒さと静けさの中の厳しさを引き受けたような、同時にどこかうつむいて妖しく秘め事めいた雰囲気がそこはかとなく漂う気がする。

 手元にある「季節を知らせる花」(白井明大/文、山川出版)では、水仙の妖しい魅力を一休宗純和尚の漢詩「美人陰有水仙花香」をひいて紹介している。あの一休和尚が!とその生々しい自由奔放な性愛と快楽讃歌にドギマギしてしまうくらいだけれど、不思議なくらい生命の歓びをのびやかに肯定した精神にうなづいて圧倒されてしまう。
 このこころもちって、たしかほかにも同様のものが・・・と思い巡らしていたら、しばらくして思い当たった冊子がある。詩/谷川俊太郎&絵/佐野洋子による 詩集「女に」(集英社、装幀と本文レイアウト/平野甲賀)がそれである。

 ところで、清楚な姿の水仙、植物としてはヒガンバナ科で地中海原産、その茎や葉には毒があって、かつてはうっかりニラと間違えて食べてしまった人が中毒で病院に運ばれたこともあったそうだ。その意味では、田舎の畑の片隅に咲くニラの白い花は、確かに素朴でほっとさせてくれる。赤瀬川原平さんの「ニラハウス」の屋根の上に植えられたニラが、初夏の風に産毛のようにさわさわとそよぐ風景が懐かしい。