ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

諏訪でひとり言

2011年10月22日 | Weblog
建御名方神(たけみなかたのみこと)は「事代主神はああ言ったが、それならば力競べをしようではないか」と言って建御雷神(たけみかづちのみこと)の手を掴んだ。すると、建御雷神は手をつららに変化させ、さらに剣に変化させた。逆に建御雷神が建御名方神の手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、建御名方神は逃げ出した。
 建御雷神は建御名方神を追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめた。建御名方神はもう逃げきれないと思い、「この地から出ないし、大国主神や事代主神が言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と言った。
 古事記が伝えるところでは、天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、建御雷神(たけみかづちのみこと)が、出雲を支配していた大国主命に国譲り、つまり出雲王朝の支配権を譲渡するように迫ったという。これに対して、大国主の長男である建御名方命が、国譲りに反対し、建御雷神と相撲をしたが負けてしまった。そこで建御名方命は諏訪まで逃れ、その地で王国を築いたという。諏訪大社の起源は、この神話にあるといわれている。

 地元では紅葉はまだ早いが、建御名方神が逃げた諏訪まで行けば、10月中旬でも紅葉が見れるだろうと思い、神話と縄文の世界に紅葉をプラスした贅沢なプランで高速中央道を飛ばした。
 地図で諏訪湖を検索し、倍率を下げていけば諏訪湖の北に糸魚川が現れる。大国主命は出雲神であるが、その長男が逃げ込むのに、アルプス山脈に囲まれた内陸の諏訪だったとは不思議だ。建御名方神(たけみなかたのかみ)は、大国主と沼河比売(奴奈川姫)の間の子であるという伝承が残る。妻は八坂刀売神とされている。お母さんの沼河比売(ぬなかわひめ)は『万葉集』に、「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」の歌に詠まれる。「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し、「底なる玉」はヒスイ(翡翠)を指していると考えられ、沼河比売はこの地のヒスイを支配する祭祀女王であるとみられる。
 だんだん見えてきた!神宝である勾玉のNo1は糸魚川の姫川産のヒスイであり、この地と諏訪は姫川を遡れば安曇野から諏訪湖に届く。諏訪では古来より洩矢神(もりやしん)が統べる神であった。しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。洩矢神はミシャグジと同一視されている。そのミシャグジ信仰は東日本の広域に渡って分布しており、当初は主に石や樹木を依代(よりしろ)とする神であったとされる。地域によっては時代を経るにつれて狩猟の神、そして蛇の神で蛇の姿をしているという性質を持つようになったと言われている。信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジ神の御神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事等からこの信仰が縄文時代から存在していたと考えられている。
 ほらほら、縄文の臭いがプンプンです。西日本を中心に住んでいた弥生人が、平和だった東日本に攻めてきた。武力の大きな違いに、出雲の国譲り同様、この地の住民も勝負にはならなかったと思う。諏訪の御柱もミシャグジの依り代と言われている。前宮のすぐ近くに、神長官守矢史料館がある。諏訪上社の神長官という役職を勤めてきた守矢家は、建御名方神に負けた洩矢神の子孫で、その神事の御頭祭(おんとうさい)が前宮で行われ、鹿の首70頭余りを供える神事で、その様子が史料館に復元されている。他の神事とはぜんぜん違うこの迫力は、まさに縄文だ!さらに、諏訪大社のご神体は守屋山で神殿がない。これは奈良の大神神社と同じ古代信仰の証だ。
 遥か縄文に思いを巡らせているうちに、夜明け前に出発して4時間が過ぎ、すっかり辺りがまぶしい日差しに照らされていた。楽しみにしていた、今日会える「縄文のビーナス」が、すばらしい秋晴れで迎えてくれたようだ。
 初日は、諏訪大社下社→上社→唐沢阿弥陀寺→尖石遺跡→尖石縄文考古館→白樺湖→車山高原→横谷渓谷乙女滝→宿
 2日目は、ピラタス蓼科ロープウェイ→横岳頂上→駒ヶ根光前寺→飯田市光明寺→元善光寺→天竜峡→自宅