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☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

聖書流子育てのススメ エペソ6:1-4

2010年01月31日 | Celebration



 ある社会評論家が、日本は今、最も無作法な若者を抱えた国であると言った。電車で二人分の席を占領し、イヤホーンから騒音を撒き散らしている青年や、徒党を組んで大声でバカ笑いをしている女子学生、地べたに座り込んでタバコをふかしている若者達は、日本では普通に見る光景である。そんな彼らをよく観察して見ると、彼らには、故意に人に迷惑をかけているような悪意は感じられないが、彼らの目には自分達だけの世界しか見えず、自分の周りの人間が介在しているということが、全く分かっていないのだ。

 確かに現代は、周りとコミュニケーションがを取ることが出来ない人達で溢れている。何故そうなったのか? それは、彼らが子供の時に、親とのコミュニケーションが取れていなかったことに原因がある。子育てというものは、民族によって、時代によって、また親によって、その方針は流動的であり、しかも徹底されていないという現実がある。子育てには、人生論とか、成功哲学とかといった黄金律が存在していないのである。

 ちなみに日本では、戦後から現代にわたって、基本的な価値観となっているのが、『自由民主主義』である。つまり、大人も子供も平等の権利があり、各人の自由意志が尊重されるべきだ。しかし、それは放任と過保護を生み出し、結果的に、無作法で骨抜きの若者を大勢輩出することになったのである。

 此間、ショッピングモ-ルの通路の真ん中で、手足をバタつかせて、大声で泣き叫んでいる子供がいた。その子の親は、子供の激しい反応に屈して、子供の要求を呑んでいたようだった。子供は親に要求して拒否されると騒ぐ。更に拒否されるともっと騒ぐ。そして親は仕方なく与える。そうやって育てられた子供は、自分の要求が通るまでこういった行為を繰り返す。そして彼らは何と大人になっても、同じことを繰り返すのである。

 ところが、親は与えてくれても、社会は与えてくれるほど甘くはない。すると、彼らは、自分の要求が通らない事態に遭遇する度に、大きな混乱と衝突を起こしてしまうのである。彼らは、自分では動かし難い現実を前にすると、「逃げる」か、「キレル」か、「閉じる」かしか出来ない『三ル人間』になってしまうのである。それは、彼らが子供の時に、親との関係がしっかりと形成されていなかっことに原因がある。では、聖書は子育てに関しどのように言っているのだろうか? それを、5つの要点に分けて述べてみよう。


第一ポイント:親子関係のあり方が、その子の人間関係の基本となる

子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。(エペソ6:1-4)

 それは、子供が生まれて初めて接するのが親だからである。この世は、一人で生きて行くことは出来ない。またこの世は、自分とは違う考え方、価値観を持った人間が存在している。従って、この世で生きていくためには、彼らと共存していかなくてはならない。そのためにはどうしてもルールが必要である。自分が王様なのではない、この世には、自分が従わなければならない権威、ルールといおうものがある、このことを教えるのは、子供の時しかないのだ。何故なら、彼らが最初に従うべき存在対象が親だからである。それ故、親に従うことが出来ない子供は、大人になってからもルールに従うことが出来ない人間になってしまうのである。

 モーセの十戒は、人間がこの世で生きていくのに必要な永遠不滅な規則である。その5条が「父と母を敬いなさい」である。大切なことは、この規則が「殺すなかれ」、「姦淫するなかれ」「盗むなかれ」の前にあることである。つまり、そのような罪を犯さないためには、父と母に従うことが必要であり、それが幸福になるための最低条件なのである。


第二ポイント:何故ルールが必要なのかを教える

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ8:32)

 大人は、赤信号で止まることに、何の疑問も感じていないが、子供は、何故赤で止まらなければならないのか、教えてもらわなければ分からない。信号はごく基本的な社会的ルールである。もし、街に信号がなければ、私たちは、定時に教会に到着することは出来ないし、それ以上に危険過ぎて、街を車で走ることなど出来なくなる。赤信号で止まるということは、私たちを束縛することではなく、私たちを守るためにあるのだ。何故、ルールというものが存在するのか、何故、ルールを守らなければならないのかという理由を、ちゃんと分かり易く子供に教えてあげなければならない。


第三ポイント:家庭内でルールをつくる

 ルールを実体験で子供教える。このポイントは、罰が必要かということである。もし赤信号を無視したら、罰金が科せられることになるが、この罰金がなければ、信号というルールは成り立たないだろう。罰金は、人を守るために必要なのである。しかしながら、家庭内における罰は、なかなか徹底することが出来ない。その理由は二つある。一つは子供が可愛すぎるからであり、もう一つは、子供が反抗する時のエネルギーは凄まじいからである。このことに屈し、親は子供にルールを教えることが出来ないのである。

鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。(箴言13:24)

若者の心には無知がつきもの。これを遠ざけるのは諭しの鞭。(箴言22:15)

若者を諭すのを控えてはならない。鞭打っても、死ぬことはない。鞭打てば、彼の魂を陰府から救うことになる。(箴言23:13-13)

懲らしめの杖は知恵を与える。放任されていた子は母の恥となる。(箴言29:15)

 これらの御言葉にあるように、親は何故ルールが必要なかということを、子供に教えると同時に、親自身がそのことをちゃんと理解しておく必要がある。この世の悪の根源は、放任と過保護だからである。すべての悪の根源はここから出ているのだ。教え諭す鞭とは木の杖である。羊飼いは杖で羊を叩くことはせず、羊を危険から守るために、杖で地面を叩いて羊を教える。懲らしめの杖は、子供を育てるために必要な愛なのだ。

 また、家庭内でルールを作る時に重要なことは、必ずルールに一貫性を持たせることである。例えば、子供がルールを破った時、昨日は罰を与えられたが、今日はなかったとか、お父さんは許してくれたけど、お母さんは許してくれなかった等、ルールや罰の与え方にばらつきがあると、子供は混乱する。両親同士でしっかりと話し合い、一貫性を持たせること。また、子供の教育方針について、子供の前では絶対にもめないこと。一度決めた事は家族全員でしっかりと守ることが大切である。


第四ポイント:親は子供との戦闘に勝利しなければならない

あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」(ヘブル12:4-6)

 すごく神経質で、夜寝かし付けるまで毎晩1時間以上かかる子供がいた。そこで夫婦は二人で相談した結果、今夜から子供を一人で寝かせる決断をした。さて当日、一人で寝かせつけものの、当然子供は泣き叫び、絶叫し、ベッドの柵をがんがんと叩き始め、必死でベッドを乗り越えようとする。そんな状態が実に2間続き、母親は半泣き状態。ほとんどの親は2時間も持たない。部屋に入って子供を抱いたほうが、(親が)楽だからである。

 さて次の日も同じ状態であった、子供は泣き叫び、絶叫が始まった、しかし、初日よりも大きな進歩があった。戦闘が初日の半分、1時間で済んだのである。3日目は55分、4日目は45分、そして一週間後、何と子供は一人でベッドに行くようになったのである!! 結果的にこの戦闘は1週間続き、子供は親との戦闘に負けた。しかし、子供はこの戦闘に負けたことで、親を憎んだり、恨んだりするようなことは決してない。むしろ、親の権威というものを知り、逆に親を尊敬するようになるのである。子供にとっても早く寝たほうが、次の朝、さわやかに起きることが出来るからである。

 このように、家庭内でルールを徹底させることは、子供に、自分が親に従うということは、自分のためになるんだ。ルールは、自分を守るためびあるんだということを、子供は無意識の内に学ぶのである。それでは反対に、ここで親が子供との戦闘に負けた場合はどうなるか? 親との戦闘に勝った子供は、親を尊敬するどころか、逆に親に反抗し続け、親を軽蔑するようになってしまう。このパターンこそ、『三ル』の子供の元凶になっているのである。だからこそ親は、子供との戦闘に勝利しなければならない。これは、子供が成長するために必要なことなのである。


第四ポイント:戦後処理が大切

わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。(Ⅱコリント1:6)

 子供との戦闘が終わり、子供が泣き止んだ時、ほとんどの子供は、非常に素直な状態になっている。(夫婦喧嘩も同様)その時に、愛しているからこそという、理由を話し、しっかりと抱きしめてあげる。ここで親子のコミュニケーションが取れるのである。愛と義は、聖書の両輪である、真の愛には責任が伴う、愛とは、自分のことよりも、相手のことを優先するという、犠牲を伴った行為である。

 聖書を知らなければ、人間は罪を犯し、子供も何にも教えなくても悪いことをする。聖書的子育ては、私たちと神様のあり方である。神様は、イスラエルの民を愛するが故に、彼らが罪を犯し続けることをほっておくことが出来なかった。真の優しさは、真の強さに裏付けされていなければならず、真の強さは、真の正しく裏付けされていなければならない。そしてその真の正しさとは、聖書に裏付けされた、イエス・キリストの愛に基付いていなければならない。杖は、神の主権の象徴である。愛しているからこそ、戒めが必要なのだ。「罪を憎んで人を憎まず、ましてやわが子をや」これが聖書流子育ての基本である。(執筆担当: 暢夫)


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