Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

吃驚仰天 マルコ14:32-34

2007年10月14日 | Celebration
 本日の聖書箇所は、あのゲッセマネの祈りのシーン。十字架に架けられる前夜、イエス様が苦渋の思いで祈られる感動の場だ。中村透師を通して語られたAmazing Graceは、まさに吃驚仰天のメッセージ。

 メッセージ前に「強くあれ雄々しくあれ」を讃美した。ヨシュア記にある御言葉であり、また聖書全体に幾度も繰り返されている神様の励ましだ。新約聖書には何と365回の「恐れるな」を意味する言葉があるそうだ。365回、つまり一日一個の「恐れるな」。毎日何かしらの恐れを抱いて生きている人間に、神様は「恐れるな」と仰る。神様は根拠もなく、また私たちに無理強いを仰る方ではない。その根拠は何だろう?

 ゲッセマネの園で、イエス様も「ひどく恐れて」と書かれている。人間の感情のひとつとして「恐れ」があるのは確かで、イエス様は人として「恐れ」を抱かれた。この「恐れ」の原語の意味を辿ると、ひどく驚く、肝をつぶす、あまりの驚愕に恐れおののく、とあり、そして“吃驚仰天”ともある。また続く「もだえる」の意味は、半狂乱になることだ。イエス様は、翌日には自分が十字架に架けられることをご存知だった。天の父なる神様の御旨が成ることを祈り、そして吃驚仰天された。半狂乱になった。何に?罪のないイエス様が立ち向かう『人間の罪』の恐ろしさ、想像を絶する『神様のいない闇の世界』にだ。

 十字架刑だけがイエス様の戦いではない。公生涯に入られて以来、いや、その前からイエス様は私たちのためにずっと戦っていらっしゃっる。ゲッセマネの祈りから、イエス様の戦いはいよいよ本格化した。悪魔を退かせ、悪霊を追い出し、自然すら治めるイエス様が、戦いの最中に見た倒すべき敵=『罪』のおぞましさ、嫌らしさ、その呪いの引力は、吃驚仰天し、そして半狂乱になるほどのものだった。人間は、そんな罪を解決できないまま抱え込み、滅びへと歩みを進めている事実を目の当たりにした。

 忠臣蔵や特攻隊に思いを寄せる日本人は「美しく死ぬこと」「散際の美学」を滔々と語る。そしてこのシーンのイエス様を見て、神の子なのになんと弱い姿と言うかもしれない。そんな私たちは、「死」の恐ろしさを軽んじてはいないだろうか。永遠の滅びとしての死を。神様から完全に離されてしまう死を。私たちが持ち続けてしまう『罪』の結果である死を。死は決して美しいものではない。ルターは、イエス様を「このお方こそ死を恐れた人だ」と語った。イエス様の苦しみの源である『罪』の恐ろしさ、その結果にある『死』の重さを感じられない私たちは、「死」のもたらすほんとうの意味をわかっていない。

 おののくイエス様に対して、神様は父としての痛みを沈黙を通して示された。そして、イエス様はその沈黙に従順であることで唯一の正しき方を示し、全人類に代わって天の父より呪われ、怒りの裁きを受けられた。十字架上で神様と断絶したイエス様は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫びながら、私たち人間の『罪』を負ってくださった。そして「死」も「恐れ」も滅ぼしてくださった。だから神様は仰るのだ、「恐れるな」と。イエス様が全身全霊全力を懸けて成し遂げられた御業なのだから、もはや「恐れ」はない。

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(Ⅱテモテ1:7)

 「死」の意味とその対極にある「永遠の命」のことを霊が受け入れた時、救いが与えられる。解放される。もはや恐れはなく、神様からの「I love you」が聞こえる。わかるのだ、イエス様がこんなに凄まじい悲しみと苦しみと呪いと孤独を越えて為された御業は、ただこの「私はあなたを愛している。」というメッセージを伝えるためだけだということが。次は私たちが吃驚仰天する番だ、神様の驚くべき恵みに。

 だから今、「ここを離れず、目を覚ましていなさい。」というイエス様の求めに応じよう。主の真実の祈りによって罪の購いは完成され、今、私たちは共に祈る幸いを与えられている。共に祈ること、共に戦うこと、そして福音を伝えること。これらもまた、まぎれない恵みなのだから。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)