今回の大地震の被害に遭われたハイチやチリの人たちも、年初めには、私たちと同じように、「今年はどんな年になるだろうか?」「今年は良い年にしたい。」と言う思いを持っていたことと思います。人生は本当に何時、何があるか分かりません。それは、私たちとて例外ではありません。このロサンゼルスも、東京も、火山列島帯の上に位置し、何時、大地震が起きてもおかしくない状態にあるからです。
しかし、私たちクリスチャンは、何があっても、「天国に行ける!」と言う希望を持っています。ところが、私たちはそのような確信があるにも係わらず、普段、この確信と正反対のことをしていると言う現実があります。私たちは、今の自分の信仰の状態で、天国に行くとは案外考えていないのです。例えば、光り輝く天国の門の前で、あなたは人の噂話をしたりしますか?煙草を吸いますか?夫婦喧嘩をしますか? 誰もそんなことするはずはないですよね。
では何故、私たちは普段の生活でこういったことをしているのでしょう?それは、「今、自分がしていることは、そのまま天国にはつながることはない」と考えているからです。でも、本当にそうでしょうか?私たちは、自分の今の信仰の状態が天国に行くと言うことを、常に考えておく必要があります。何故なら、何時自分が天に召されるか、何時イエス様が再臨されるか、私たちには分からないからです。勿論、私たちには成長の過程があります。それでも、「今が大切」という気持ちを、決して忘れてはなりません。
年の初めに、私は車をスーパーマーケットの駐車場でぶつけられてしまいました。所謂、当て逃げです。「さあ、今年も新しい気持ちで張り切っていこう!特に今年は経済的に締めていかないと」と、思っていた矢先の出来事でした。実は、4ヶ月前にも、ほとんど同じような事故に遭っていたものですから、私はとても失望しました。
前回の事故の際、私なりに最善を尽くしたつもりでした。にも係わらず、また、同じ箇所を壊されてしまったのです。このような状況に陥ると、私たちクリスチャンも、「神様がいるなら、どうしてこんなことになるの?」と思ってしまいます。車が壊れたことなど、世の中の悲惨に比べれば、実に些細なことです。ですが、そんな些細なことでさえ、信仰が揺らいでしまうことがあるのです。
「神様がいるなら何故?」そういったこの世の不条理に直面した時に、クリスチャンとノンクリスチャンでは対応の仕方が違います。ノンクリスチャンは、この世の不条理に対して、世の中を変えていかなければならないと考え、外的変革を求めます。しかし、クリスチャンは、自分の内側を変えようとします。つまり、内的変革です。物事に対する理解によって、私たちの意志が構築され、理解によって感情が生まれ、その感情が行動へと移って行くからです。
「神様がいるなら何故?」と言う状況に立たたされた時、私たちはクリスチャンとして、どのようなスタンスに立つべきなのか?と言うことを、今日は、皆さんと分かち合いたいと思います。この三つの秘訣をちゃんと理解することが出来れば、もう私たちは繰り返し、こういった疑問を持つ必要がなくなるのです。
問題に感謝するのではなく、問題を益と変えてくださる神に感謝する
いつも喜んでいなさい。絶えず、祈りなさい。どんな時にも感謝しなさい。(Iテサロニケ5:16-18)
人生には、どうしても感謝できないことが起こって来ます。家族を失った時、家を失った時等々、何故、そんなマイナスの出来事に感謝しなければならないのでしょう?ここに知恵が必要です。災害や病は、雨がすべての人の上に降るように、誰の上にも起こります。クリスチャンだから、病気にならないとか、死なないと言うことはありません。であるなら、クリスチャンになる意味はいったい何処にあるのでしょうか?
私たちがここで知るべきポイントは、世の中の様々な悪や病や不条理は、神様から来たものではないと言うことです。この世の悪は、サタンか人間の罪によって引き起こされているのであって、決して神様が引き起こしているのではないのです。クリスチャンとして、この理解をはっきりさせておく必要があります。聖書は、イエス・キリストを中心にして読まなければなりません。「神様と私たちの関係」は、「親子の関係」に喩えて考えると良く分かります。
例えば、私の息子は、運転が荒いといくら私が注意をしても、言うことを聞きません。そこで私は、「一度事故に遭って痛い目をすれば、自分の運転の荒さを自覚するだろう」と思います。ですが、それだからと言って、私がわざと息子が事故に遭うような状況を作ったりするようなことは絶対にしません。神様も同じです。100%聖いお方である神様は、自ら悪を引き起こすようなことは、決してなさいません。神様の本質に、悪を引き起こす要因自体が存在しないのです。
ですから、神様はここで、問題に感謝しなさいと、おっしゃっているのではありません。そうではなく、どのような問題に“あっても”感謝しなさいとおっしゃっているのです。何故なら、神様の御心は、私たちの安全であり、平和であり、どんな問題をも、それを益と変えてくださるからです。だから、それを感謝しなさいとおっしゃっているのです。「神様がいるなら何故?」と言う状況が起こった時、「これは、神様が引き起こしたのではなく、神様はこの問題を必ず益に変えてくださる!」この理解があれば、もう私たちは、そのような疑問を思うことはなくなります。
自分にとっての最善が、必ずしも神の最善とは限らない
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8:28)
日本にある女性伝道師の方がおられます。彼女は、27-8歳までに結婚し、30歳までには、必ず子供をつくりたいと願っていました。しかし、伝道を一生懸命されていて、ふと気づくと30代半ばを過ぎ、まだ独身の状態でした。周りの友人のほとんどが結婚して子供がいると言うのに。
彼女は、何故私は結婚出来ないのだろう?神様のためにこんなに一生懸命に働いているのに、何故神様は私を祝福してくださらないのだろう?と思い悩んでいました。そんなある日、彼女は神様にこう語りかけられました。「確かにあなたには、肉の子供はいないけれど、霊の子供が沢山いるではないか。あなたはその霊の子供を養いなさい」と。そして、彼女は、教会に神様から托された子供が沢山いたことに改めて気付かされたのです。
ここで、私たちが考えなければならないのは、すべてを益とするという、「益」と言う言葉です。この益は何を意味するのでしょうか? 私たちが、益と言われる時、真っ先に考えるのが「自分の益」についてです。しかし、私たちが考えている益が、必ずしも神様にとっての益とは言えないことがあるのです。このことを、預言者エレミヤを例にとって考えてみましょう。
エレミヤは「悲しみの預言者」と呼ばれています。彼は、南ユダ王国の人々に「バビロンが攻めてくるから、悔い改めなさい」と警告し続けましたが、政治家も宗教家も、イスラエルの住民も、誰一人エレミヤの言葉に耳を傾けず、逆に彼を迫害します。結果的に、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされ、人々は捕囚の民として、国を離れなければなりませんでした。その後、エレミヤはエジプトで殉教したと伝えられています。
人間的な見地からすれば、エレミヤの人生は苦難の連続でした。誰にも預言者と認められず、迫害され、悲惨な辛い人生でした。では、神様はエレミヤを愛しなかったのでしょうか?いいえ、神様はエレミヤを愛し、信頼していたからこそ、彼を人類の救いのために用いられたのです。このように神様は、エレミヤ一人の最善だけではなく、全人類の最善を考えておられます。神様は、私たちを愛しておられるように、全人類も同じように愛しておられるのです。
神様の目的は、私たちの幸せと共に、全人類の幸せを考えておられ、そのために私たちをお用いになられます。少し理不尽に感じられるかも知れませんが、神様の最善に従うことが、結果的に、それが私たちの最善となるのです「神様の最善は、すべての人の最善、自分一人の最善だけではないのだ」と、理解したとき、「神様がいるなら何故?」と思うことはなくなるはずです。
神様の計画は必ず成就する
自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。(ヘブル10:35-36)
エレミアに限らず、モーセもパウロも、彼らの人生は、ほとんど苦難と試練の連続でした。しかし、彼らは決して希望を失うことなく、自らの使命を全うしました。神の使命を遂行するためには、時間がかかります。しかし、それは、神様の故に時間がかかるのではなく、私たちの故に時間がかかるのです。
今、カリフォルニアに新幹線を走らせようと言う計画があります。この新幹線の開発は、当時は実に画期的な開発でした。新幹線が出来る前は、東京-大阪間は、電車で7時間半もかかりました。ところが、その時間の半分以下で東京から大阪まで行くことができると言う新幹線構想は、当時の人々にとって、「とても信じられない話」でした。更に、その新幹線を走らせるためには、専用のレールが必要だと言うのですから、それは全く常識外の発案だったのです。
この新幹線を開発した三木忠直さんは、第二次世界大戦中に戦闘機をつくっていた航空技術者でした。しかし、戦争が終わり、三木さんは、自分の開発した戦闘機によって、多くの人命が失われたことに、大きな罪責感にさいなまれていました。しかし、クリスチャンだったお姉さんに導かれて、三木さんはクリスチャンとなり、これからの自分の人生は、社会の平和に役立つものの開発に奉げたいと言う思いが与えられました。
三木さんは、戦争に利用される可能性のある、航空機関連、自動車関連、船舶関連の仕事は選ばず、あえて自分の専門外である鉄道会社に就職しました。そして、彼が航空理論を応用して開発したのが新幹線です。三木さんは、挫折した人生を経験しながらも、神様によって救われ、変えられ、そして、諦めることなく、自分に与えられた能力を、平和のために役立てたいと言う願いから、新幹線が開発されたのです。
このように、神様の御心が成就するには、時間がかかります。私たちは、福音を正しく理解するのに時間がかかりますし、自我やプライドを捨てるのにも時間がかかります。ましてや、神様の御心を私たちの行動として生活に習慣化させることはもっと時間がかかります。私たちの愛は、概して条件付きの愛です。夜8時までの電話は優しく応対できても、夜10時過ぎの電話には、「何で、こんな遅くに?」と感じます。
私たちは、そこそこ良い人、そこそこ正直な人にはなれるかも知れませんが、イエス様に似たような人には、なかなかなることは出来ません。では、どうしたら良いのでしょうか? 私たちは礼拝を通して、神様の愛を知り、教会の交わりを通して、祈り合い、励まし合い、愛し合う実践をし、弟子訓練を通して、神様の真理を日々、学んでいくことが出来ます。この自己変革は、私たちの信仰によって、必ず実現可能なのです。この確信を持って一歩一歩、天国に近付いて行きましょう。この一週間も神様の最善の中を歩んでいることに感謝して。(執筆担当: 美鈴)
メッセージ(音声)はこちらをクリック!↓
http://goodnewsstation.com/celebration.html
☆Good News Stationのメインページはこちら!
しかし、私たちクリスチャンは、何があっても、「天国に行ける!」と言う希望を持っています。ところが、私たちはそのような確信があるにも係わらず、普段、この確信と正反対のことをしていると言う現実があります。私たちは、今の自分の信仰の状態で、天国に行くとは案外考えていないのです。例えば、光り輝く天国の門の前で、あなたは人の噂話をしたりしますか?煙草を吸いますか?夫婦喧嘩をしますか? 誰もそんなことするはずはないですよね。
では何故、私たちは普段の生活でこういったことをしているのでしょう?それは、「今、自分がしていることは、そのまま天国にはつながることはない」と考えているからです。でも、本当にそうでしょうか?私たちは、自分の今の信仰の状態が天国に行くと言うことを、常に考えておく必要があります。何故なら、何時自分が天に召されるか、何時イエス様が再臨されるか、私たちには分からないからです。勿論、私たちには成長の過程があります。それでも、「今が大切」という気持ちを、決して忘れてはなりません。
年の初めに、私は車をスーパーマーケットの駐車場でぶつけられてしまいました。所謂、当て逃げです。「さあ、今年も新しい気持ちで張り切っていこう!特に今年は経済的に締めていかないと」と、思っていた矢先の出来事でした。実は、4ヶ月前にも、ほとんど同じような事故に遭っていたものですから、私はとても失望しました。
前回の事故の際、私なりに最善を尽くしたつもりでした。にも係わらず、また、同じ箇所を壊されてしまったのです。このような状況に陥ると、私たちクリスチャンも、「神様がいるなら、どうしてこんなことになるの?」と思ってしまいます。車が壊れたことなど、世の中の悲惨に比べれば、実に些細なことです。ですが、そんな些細なことでさえ、信仰が揺らいでしまうことがあるのです。
「神様がいるなら何故?」そういったこの世の不条理に直面した時に、クリスチャンとノンクリスチャンでは対応の仕方が違います。ノンクリスチャンは、この世の不条理に対して、世の中を変えていかなければならないと考え、外的変革を求めます。しかし、クリスチャンは、自分の内側を変えようとします。つまり、内的変革です。物事に対する理解によって、私たちの意志が構築され、理解によって感情が生まれ、その感情が行動へと移って行くからです。
「神様がいるなら何故?」と言う状況に立たたされた時、私たちはクリスチャンとして、どのようなスタンスに立つべきなのか?と言うことを、今日は、皆さんと分かち合いたいと思います。この三つの秘訣をちゃんと理解することが出来れば、もう私たちは繰り返し、こういった疑問を持つ必要がなくなるのです。
問題に感謝するのではなく、問題を益と変えてくださる神に感謝する
いつも喜んでいなさい。絶えず、祈りなさい。どんな時にも感謝しなさい。(Iテサロニケ5:16-18)
人生には、どうしても感謝できないことが起こって来ます。家族を失った時、家を失った時等々、何故、そんなマイナスの出来事に感謝しなければならないのでしょう?ここに知恵が必要です。災害や病は、雨がすべての人の上に降るように、誰の上にも起こります。クリスチャンだから、病気にならないとか、死なないと言うことはありません。であるなら、クリスチャンになる意味はいったい何処にあるのでしょうか?
私たちがここで知るべきポイントは、世の中の様々な悪や病や不条理は、神様から来たものではないと言うことです。この世の悪は、サタンか人間の罪によって引き起こされているのであって、決して神様が引き起こしているのではないのです。クリスチャンとして、この理解をはっきりさせておく必要があります。聖書は、イエス・キリストを中心にして読まなければなりません。「神様と私たちの関係」は、「親子の関係」に喩えて考えると良く分かります。
例えば、私の息子は、運転が荒いといくら私が注意をしても、言うことを聞きません。そこで私は、「一度事故に遭って痛い目をすれば、自分の運転の荒さを自覚するだろう」と思います。ですが、それだからと言って、私がわざと息子が事故に遭うような状況を作ったりするようなことは絶対にしません。神様も同じです。100%聖いお方である神様は、自ら悪を引き起こすようなことは、決してなさいません。神様の本質に、悪を引き起こす要因自体が存在しないのです。
ですから、神様はここで、問題に感謝しなさいと、おっしゃっているのではありません。そうではなく、どのような問題に“あっても”感謝しなさいとおっしゃっているのです。何故なら、神様の御心は、私たちの安全であり、平和であり、どんな問題をも、それを益と変えてくださるからです。だから、それを感謝しなさいとおっしゃっているのです。「神様がいるなら何故?」と言う状況が起こった時、「これは、神様が引き起こしたのではなく、神様はこの問題を必ず益に変えてくださる!」この理解があれば、もう私たちは、そのような疑問を思うことはなくなります。
自分にとっての最善が、必ずしも神の最善とは限らない
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8:28)
日本にある女性伝道師の方がおられます。彼女は、27-8歳までに結婚し、30歳までには、必ず子供をつくりたいと願っていました。しかし、伝道を一生懸命されていて、ふと気づくと30代半ばを過ぎ、まだ独身の状態でした。周りの友人のほとんどが結婚して子供がいると言うのに。
彼女は、何故私は結婚出来ないのだろう?神様のためにこんなに一生懸命に働いているのに、何故神様は私を祝福してくださらないのだろう?と思い悩んでいました。そんなある日、彼女は神様にこう語りかけられました。「確かにあなたには、肉の子供はいないけれど、霊の子供が沢山いるではないか。あなたはその霊の子供を養いなさい」と。そして、彼女は、教会に神様から托された子供が沢山いたことに改めて気付かされたのです。
ここで、私たちが考えなければならないのは、すべてを益とするという、「益」と言う言葉です。この益は何を意味するのでしょうか? 私たちが、益と言われる時、真っ先に考えるのが「自分の益」についてです。しかし、私たちが考えている益が、必ずしも神様にとっての益とは言えないことがあるのです。このことを、預言者エレミヤを例にとって考えてみましょう。
エレミヤは「悲しみの預言者」と呼ばれています。彼は、南ユダ王国の人々に「バビロンが攻めてくるから、悔い改めなさい」と警告し続けましたが、政治家も宗教家も、イスラエルの住民も、誰一人エレミヤの言葉に耳を傾けず、逆に彼を迫害します。結果的に、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされ、人々は捕囚の民として、国を離れなければなりませんでした。その後、エレミヤはエジプトで殉教したと伝えられています。
人間的な見地からすれば、エレミヤの人生は苦難の連続でした。誰にも預言者と認められず、迫害され、悲惨な辛い人生でした。では、神様はエレミヤを愛しなかったのでしょうか?いいえ、神様はエレミヤを愛し、信頼していたからこそ、彼を人類の救いのために用いられたのです。このように神様は、エレミヤ一人の最善だけではなく、全人類の最善を考えておられます。神様は、私たちを愛しておられるように、全人類も同じように愛しておられるのです。
神様の目的は、私たちの幸せと共に、全人類の幸せを考えておられ、そのために私たちをお用いになられます。少し理不尽に感じられるかも知れませんが、神様の最善に従うことが、結果的に、それが私たちの最善となるのです「神様の最善は、すべての人の最善、自分一人の最善だけではないのだ」と、理解したとき、「神様がいるなら何故?」と思うことはなくなるはずです。
神様の計画は必ず成就する
自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。(ヘブル10:35-36)
エレミアに限らず、モーセもパウロも、彼らの人生は、ほとんど苦難と試練の連続でした。しかし、彼らは決して希望を失うことなく、自らの使命を全うしました。神の使命を遂行するためには、時間がかかります。しかし、それは、神様の故に時間がかかるのではなく、私たちの故に時間がかかるのです。
今、カリフォルニアに新幹線を走らせようと言う計画があります。この新幹線の開発は、当時は実に画期的な開発でした。新幹線が出来る前は、東京-大阪間は、電車で7時間半もかかりました。ところが、その時間の半分以下で東京から大阪まで行くことができると言う新幹線構想は、当時の人々にとって、「とても信じられない話」でした。更に、その新幹線を走らせるためには、専用のレールが必要だと言うのですから、それは全く常識外の発案だったのです。
この新幹線を開発した三木忠直さんは、第二次世界大戦中に戦闘機をつくっていた航空技術者でした。しかし、戦争が終わり、三木さんは、自分の開発した戦闘機によって、多くの人命が失われたことに、大きな罪責感にさいなまれていました。しかし、クリスチャンだったお姉さんに導かれて、三木さんはクリスチャンとなり、これからの自分の人生は、社会の平和に役立つものの開発に奉げたいと言う思いが与えられました。
三木さんは、戦争に利用される可能性のある、航空機関連、自動車関連、船舶関連の仕事は選ばず、あえて自分の専門外である鉄道会社に就職しました。そして、彼が航空理論を応用して開発したのが新幹線です。三木さんは、挫折した人生を経験しながらも、神様によって救われ、変えられ、そして、諦めることなく、自分に与えられた能力を、平和のために役立てたいと言う願いから、新幹線が開発されたのです。
このように、神様の御心が成就するには、時間がかかります。私たちは、福音を正しく理解するのに時間がかかりますし、自我やプライドを捨てるのにも時間がかかります。ましてや、神様の御心を私たちの行動として生活に習慣化させることはもっと時間がかかります。私たちの愛は、概して条件付きの愛です。夜8時までの電話は優しく応対できても、夜10時過ぎの電話には、「何で、こんな遅くに?」と感じます。
私たちは、そこそこ良い人、そこそこ正直な人にはなれるかも知れませんが、イエス様に似たような人には、なかなかなることは出来ません。では、どうしたら良いのでしょうか? 私たちは礼拝を通して、神様の愛を知り、教会の交わりを通して、祈り合い、励まし合い、愛し合う実践をし、弟子訓練を通して、神様の真理を日々、学んでいくことが出来ます。この自己変革は、私たちの信仰によって、必ず実現可能なのです。この確信を持って一歩一歩、天国に近付いて行きましょう。この一週間も神様の最善の中を歩んでいることに感謝して。(執筆担当: 美鈴)
メッセージ(音声)はこちらをクリック!↓
http://goodnewsstation.com/celebration.html
☆Good News Stationのメインページはこちら!
大きな真理とは、聖書は「イエス・キリスト」を中心にして考えること。聖書には、キリストによる神と人間との関係の回復が約束されている。このことは、頭ではなく、心の奥深いところで大きな慰めをいただいた。そして三つのポイントからは、私の信仰の在り方を確認させられた。神はどんなお方なのか、神は私に何を願っておられるのか?そして私はそれにどう応答しているのか。頭では分ったつもりでも、それを実行に移せないでいるために変革出来ていないことが沢山ある。自分の思いではなく、神にただ忠実に従うべく行動に移す。自分の都合を手放し、神の約束を掴む。そこから内的変革の一歩を踏み出したい
■我々クリスチャンは、天国のことを考えるが、大切なのは、今現在の心の状態、信仰の状態が大切である。
■神様は、100%完全に聖い方なので、何事であろうが、すべて益に変えてくださり、全人類の幸せを旨とされ、我々が神の聖さに近く忍耐を期待されている。
■今の自分を振り返ると、実に本日のメッセージとは程遠い存在であると、深く反省させられました。であるからこそ、教会で皆で神様の真意を理解することが常に大切であると考えさせられました。