竹下亘の国賓同性パートナーの宮中晩餐会出席「日本国の伝統には合わない」 安倍晋三も同感か聞くべし

2017-11-24 11:50:03 | 政治

 自民党総務会長で人格者の竹下亘が11月23日(2017年)、岐阜市で開催の自民党会合で国賓同性パートナーの宮中晩餐出席には「日本国の伝統には合わない」から反対だと述べたと11月23日付マスコミが伝えていた。

 「発言要旨」産経ニュース/2017.11.23 22:00)
   
 竹下亘「フランスにオランドさんという大統領がいて、日本に来て宮中晩餐(ばんさん)会があった。オランドさんが連れてきたのはパートナー。女性は奥さまではない。天皇、皇后両陛下と並んで座るのでどう対応しようかと、宮内庁は悩んだ。その時はパートナーとして宮中晩さん会にお入りになった。

 問題はここからだ。もし(国賓の)パートナーが同性だった場合、どう対応するのか。日本国として近い将来、必ず突き付けられる課題になるのではないか。

 私は(出席に)反対だ。日本国の伝統には合わないと思う。それぞれ皆さんの人生観の中でご判断いただければ、このように考えるわけだ。

 竹下亘は同性パートーナーの国賓が宮中晩餐に出席するのは「日本国の伝統には合わない」という理由のみで反対だと、そのことだけを言っているわけではない。

 「天皇、皇后両陛下と並んで座るのでどう対応しようかと、宮内庁は悩んだ」、「もし(国賓の)パートナーが同性だった場合、どう対応するのか」との表現で同性パートーナーが天皇・皇后と同席することに反対の意思表明を示している。

 日本の伝統の問題は後に回すことにして、同性パートーナーを天皇・皇后と同席させる訳にはいかないということは“人間としての存在そのものの価値”を同性愛者よりも天皇・皇后を遥か上に置いていることになる。

 つまり人格者竹下亘は同性愛者を性的指向が一般とは異なるという理由で不健康・不健全、あるいは異常者と見ているのだろう、そのように差別していることになる。

 人間をそれぞれの心がけの良し悪しで価値づけるならまだしも、断っておくが、心がけの良し悪しの判断も絶対とは言えないが、果たして“人間としての存在そのものの価値”は同性愛者よりも天皇・皇后の方が遥か上なのだろうか。

 「日本国憲法第1章天皇 第1条」は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定している。主権は日本国民にあり、その日本国民の総意によって天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴としての地位が決定づけられる。

 いわば国民との間に於いてもお互いの存在を上下に計ることはできない。

 天皇・皇后に尊敬の念を持ったとしても、同性愛者であろうと異性愛者であろうと、“人間としての存在そのものの価値”は天皇・皇后との比較に於いて何ら変わらないはずだ。

 “人間としての存在そのものの価値”とは、それぞれが人間としてそれぞれの喜怒哀楽の感情を持って生き、存在していることの価値を言う。年齢も関係ない、職業も関係ない、性別も関係ない、学歴も関係ない。地位も関係ない。同性愛者を含めた一般国民と天皇・皇后とどこに違いがあるだろうか。

 これらそれぞれの“存在そのものの価値”に違いがあるとしたら、大人の価値と子どもの価値に上下をつけることになる。子どもよりも天皇・皇后の価値を上とすることができるだろうか。同性愛者にしても同じである。この世に一個の人間として生き、存在している。男性でありながら、性自認を女性に置く、あるいは逆に女性でありながら、性自認を男性に置く。だとしても、“存在そのものの価値”に違いがあるはずはない。

 当然、日本に国賓として招かれた外国の首脳、あるいは王族等が同性パートナーを伴い、宮中晩餐会に列席したとしても、天皇・皇后と同席することにどこに不都合があるだろうか。

 もし不都合があるとしたら、天皇・皇后主催の春と秋の園遊会も、同性愛者、あるいは性同一障害者を人間としての価値を認めることができないからと天皇・皇后と同席することが許されないことになる。

 きっと表に出ない形で密かに選別することになるだろう。

 竹下亘の国賓の同性パートナーを“人間としての存在そのものの価値”の同等性を認めずに天皇・皇后を遥か上の価値に置くことは大日本帝国憲法で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と絶対的存在とした戦前の価値を今以って天皇・皇后に纏わせていることを意味する。

 竹下亘が国賓の同性パートナーの宮中晩餐への出席反対の理由として挙げた「日本国の伝統には合わない」との主張の妥当性を見てみる。

 要するに天皇・皇后に関わる「日本国の伝統」は宮中晩餐会に国賓の同性パートナーを招待した例は一度もなかった。一度もなかったことに望ましさの根拠を置き、その望ましさを一つの当たり前とすることになって引き継いでいく。そしてこのことを以って「日本国の伝統」だと価値づける。

 伝統に重きを置く場合、当たり前を健全と考え、当たり前でないことを不健全と価値づける膠着した規範が横行することになる。

 こういった横行は現代に於ける人間の存在形式の多様性を伝統という形で望ましいとして引き継ぎ当たり前となった古くからある決まりきった存在形式で把握しようとするが、把握できるはずはなく、把握しきれないことによって世の中から排除する動きとなって現れる。

 これが性同一性障害者に対する差別であり、その他の差別ということになる。

 要するに人格者竹下亘は「日本国の伝統」を後生大事な価値観として崇め奉る余り、人間の存在形式の多様性を認めることができる程の度量ある寛大な心の持ち主とは正反対の人間差別主義者の仮面を被った人間性を自らの資質としていて、その人間差別主義者の顔が今回の発言で図らずも表に曝け出されることになったというわけなのだろう。

 伝統に拘って地位や権威で人間の価値を判断し、“人間としての存在そのものの価値”に違いがないことにまで考えが回らない、人間の存在形式の多様性を認めることができない、結果、差別主義を心に宿すことになっている。

 国賓となる可能性なきにしもあらずの同性パートナーが存在するか、ネットで調べてみた。2015年5月15日付の「ロイター」記事が、〈ルクセンブルクのベッテル首相(42)は、2010年から同性パートナーとして交際しているベルギー国籍の男性建築家ゴーティエ・デストネさんと(5月)15日に結婚する。〉と伝えている。

 2013年12月4日に首相に就任、現職である。

 人口60万人弱の国だが、多種多様な産業での経済活動が活発で、〈ヨーロッパにおける情報通信産業(放送メディア産業)の中核を担うことになった。〉と「Wikipedia」には紹介されている。

 2016年の日本の1 人当たりのGDP38,894.47USDに対してルクセンブルクの一人当たりのGDP102,831.32USD、日本の約2.7倍となっている。

 例え首相が同性愛者であろうと、様々な背景を抱えている。侮ってはいけない。

 上記「ロイター」記事は、〈2010年には、当時アイスランド(EU非加盟)首相だった女性のジグザルドッティル氏が現職首脳として世界で初めて同性婚をした。〉と、在任期間2009年2月1日から2013年5月23日までのアイスランド首相を同性婚の例として挙げている。

 自民党には戦前型の天皇主義を引き継いだ国家主義者が多く存在する。そのトップは安倍晋三であろう。天皇を戦前型同様に絶対的存在としていること自体、いわば絶対的存在として国民の上に置いていること自体が既に「日本国の伝統」に縛られて人間の存在形式の多様性を認めることができないばかりか、“人間としての存在そのものの価値”で人間を見ることができない人間差別主義者であることを示している。

 表向きは違うと答えるだろうが、安倍晋三も竹下亘と同じ考えなのか一応は聞いておべきだろう。

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