菅首相の一括交付金、「自由に使える」の看板にウソ偽りあり

2011-01-30 08:44:08 | Weblog



 《2009年民主党の政権政策(マニフェスト)》「一括交付金」について次のように記載、宣言している。

霞ヶ関を解体・再編し、地域主権を確立する

 【政策目的】

☆明治維新以来続いた中央集権体制を抜本的に改め、「地域主権国家」へと転換する。
☆中央政府は国レベルの仕事に専念し、国と地方自治体の関係を、上下・主従の関係から対等・協
 力の関係へ改める。地方政府が地域の実情にあった行政サービスを提供できるようにする。

☆地域の産業を再生し、雇用を拡大することによって地域を活性化する。

 【具体策】

☆新たに設立する「行政刷新会議(仮称)」で全ての事務事業を整理し、基礎的自
☆国と地方の協議の場を法律に基づいて設置する。自治体が対応可能な事務事業の権限と財源を大幅
 に移譲する。
国から地方への「ひもつき補助金」を廃止し、基本的に地方が自由に使える「一括交付金」として
 交付する。
義務教育・社会保障の必要額は確保する。
「一括交付金」化により、効率的に財源を活用できるようになるとともに補助金申請が不要になる
 ため、補助金に関わる経費と人件費を削減する。

 先ず最初に「一括交付金」という名称自体が一括して交付するという意味だから、自由に使える性格のカネでなければならないはずだ。

 「国と地方自治体の関係を、上下・主従の関係から対等・協力の関係へ改める」とは、地方の主体的・自由な行動の保証を言う。

 このことは一括交付金が「基本的に地方が自由に使える」ことと対応している。

 「基本的に地方が自由に使える『一括交付金』」の実現こそが国と地方の「上下・主従の関係」の否定、「対等・協力の関係」の確立の極めて象徴的且つ具体的な事業となる。

 民主国家にあって国と地方が「上下・主従の関係」にあってはならないはずだが、戦後民主主義を導入以後、今日に至るまで民主国家日本では国と地方は「上下・主従の関係」にあった。

 当然、2009年民主党マニフェストに掲げた 「国と地方自治体の関係を、上下・主従の関係から対等・協力の関係へ改め」、その象徴的事業・具体的事業としての「基本的に地方が自由に使える『一括交付金』」は決して変更は許されない民主党の金字塔としなければならない一大公約としなければならない責任と義務を負うはずである。

 だからだろう、菅首相は機会あるごとにヒモつき補助金の一括交付金化を晴れがましげに自慢している。但し断っておくが、あくまでも「基本的に地方が自由に使える」を前提として、地方と国の関係が「上下・主従の関係から対等・協力の関係」への移行を確実明快に証明可能となる、ヒモつき補助金の一括交付金化でなければならないのは断るまでもない。2009年民主党マニフェストに明記・宣言しているからだけではなく、国と地方の関係が「上下・主従」の非民主的支配・被支配の関係ではなく、「対等・協力」の水平関係が当然視される民主国家としての実体を備えるためにもである。

 菅首相の一括交付金に関わる自慢発言を見てみる。

 ます今年に入った1月7日(2011年)「プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム」主催のインターネットに生出演。

菅首相「マニフェストについて、相当程度は進んでいます。例えば子ども手当ですね、初年度は、確かに半分でありますけれども、半分スタートしました。

 それから来年度は、3歳までは2万円というところまでスタートしました。あるいは農業の戸別補償にしても、おー、スタートしました。高速道路の無料化は実験取組みありますが、部分的にスタートしました。高校の無料化も、スタートしました。

 それから、特に私は非常に大きいのはですね、一括交付金、つまりは役所別に補助金を、こう、箇所付けでつけた。これはですね、これは役所にとって物凄い権限なんですね。これを一括交付金という形で、各県に一定の基準で配分する。これも来年度早く5千億円余り、最初、ほーんと、少ししか出てこなかったんですが、大分――、威してとか言うですかね(笑いながら)役人を威して、出てきました」

 菅首相は「基本的に地方が自由に使える」とする文言は直接的には使っていないが、そのことを前提とした主張でなければならない制約を受けていることから判断すると、「役所にとって物凄い権限なんですね」「基本的に地方が自由に使える」と同義語でなければならないはずだ。ヒモつきが少しでも残っていたなら、「役所にとって物凄い権限」でも何でもなくなる。

 いわば「役所にとって物凄い権限なんですね」と言うことによって、「基本的に地方が自由に使える」と確約したも同然と言える。

 大体が地方が自由に使えない一括交付金であったなら、「これも来年度早く5千億円余り、最初、ほーんと、少ししか出てこなかったんですが、大分――、威してとか言うですかね(笑いながら)役人を威して、出てきました」の自慢が意味を成さなくなる。

 役人を威して出させました、自由には使えません、ヒモつきですでは笑えない笑い話となる。

 以下、すべてこの文脈に添った発言と看做すことができるし、そういった発言でなければならない。

 1月12日(2011年)の民主党両院議員総会――

 菅首相「たとえば、待機児童ゼロ作戦をつくった。大都市部に大きな課題があるかもしれない。200億円を予算に積んでいる。一括交付金の話も出たが、28億円しか補助金を一括交付金に変えるものを出してこない。名前を出せと叩いたら、5000億円余りの一括交付金が出た。上田(清司埼玉県)知事や大阪府知事はわが党と微妙だが、『画期的』と評価している。課題についてしっかりと伝えていくことが、地道なようで、これ以外の形でのやり方は他もあるかもしれないが、最も重要な課題ではないか」MSN産経

 相変わらず菅首相の自慢話は同じ繰返しだが、冴えている。

 このような菅発言に誰もが異議を唱える余地はないはずだが、広野允士参院議員が異議を唱えている。いや、異議というよりもケチをつけたのだろう。

 広野允士参院議員「今年最大の政治案件は統一地方選です。勝たないと基盤ができない。地方切り捨てと野党から言われています。農業の問題、地方交付税をもっと自由に使えるように、もっともっと地方主権をやっていく姿勢が見えないんですよ。もっと(首相の)年頭の記者会見でも、地方を大事にする、だから任せてくれ、とならないと」(同MSN産経

 「地方交付税をもっと自由に使えるように、もっともっと地方主権をやっていく姿勢が見えないんですよ」と、「基本的に地方が自由に使える」の基本線が守られず、「上下・主従の関係から対等・協力の関係」に向けた努力が不足しているようなことを言っている。

 この指摘は菅首相の発言・自慢の否定ともなる。より露骨に言うとすると、菅首相をウソつきだと言うに等しい。

 先に進んで、1月12日民主党両院議員総会翌日の1月13日(20011年)民主党大会挨拶菅首相挨拶を見てみる。

 菅首相「また、熊谷市長から地方分権、地方主権の要望がありました。一括交付金についてこの1年間、あるいは従来議論を続けてきた。今年は個別的補助金を一括交付金にまとめて県に交付するその第一歩として役所に出してくれと言いました。一生懸命やって出てきたものがわずか28億円にしかなりませんでした。そこで一体誰がこの程度の数字しか出してこないのか、それぞれの役所の官房長なのか局長なのか名前を私に伝えてくれと申し上げて、片山(善博総務)大臣を中心にがんばっていただいた結果、5100億円を超える一括交付金が来年度の予算に計上できるところまで、実際に物事が進みました

 28億円で終わるところを5100億円まで出させたとこれだけ自慢しているのだから、しかもこの自慢は今回が初めてではないのだから、地方自由使用に違約してヒモつきですでは恥をかくことになる。自慢自体が自由使用の確約となっているはずだ。

 この翌日、1月14日(2011年)菅内閣総理大臣記者会見――

 菅首相「地方主権、長年言葉は言われてまいりましたが、各省ごとの補助金がなかなか一括交付金等に変えることができなかった。当初は28億円しか各役所が出してこなかった、その一括交付金化を5,000億を超える規模で実施をするというのが、来年度の予算であります。こういった予算について、是非、将来の日本の在り方と関連した形で、大いに国民の皆さんの前で議論をしていきたいと、このように考えているところであります」

 ここでも自慢話を通して、「基本的に地方が自由に使える」カネであることを保証している。

 1月24日(2011年)第177回国会に於ける菅内閣総理大臣施政方針演説

 菅首相改革は、今年大きく前進します。地域が自由に活用できる一括交付金が創設されます。当初、各省から提出された財源は、わずか28億円でした。これでは地域の夢は実現できません。各閣僚に強く指示し、来年度は5120億円、平成24年度は1兆円規模で実施することとなりました。政権交代の大きな成果です。そして、我々の地域主権改革の最終目標はさらに先にあります。今国会では、基礎自治体への権限移譲や総合特区制度の創設を提案します。国の出先機関は、地方にsよる広域実施体制を整備し、移管していきます。既に、九州や関西で広域連合の取組が始まっています。こうした地域発の提案で、地域主権に対する慎重論を吹き飛ばしていきましょう」

 菅首相の一括交付金に賭けたこの手の自慢は延々と続くだろうが、菅首相はここで直接的な言葉で「地域が自由に活用できる」とマニフェストに忠実に合致する文言で確約、一括交付金の創設を高らかに宣言している。

 この確約は「地域が自由に活用できる」と理念的一体を成す、地方と国の関係を「上下・主従の関係から対等・協力の関係」へと実現させる確約でもあることは言を待つまでもない。

 果して最初に疑ったように広野允士参院議員の異議申し立ては実態はケチをつけたに過ぎなかったのだ。このような総理大臣にケチをつけるとは何てことだ。

 だがである、この確信をいとも簡単に崩すしてしまう記事――《沖縄県、一括交付金の一部予算計上せず 使途限定に反発》asahi.com/2011年1月26日6時24分)に触れて、現実には菅首相が自慢話と共に確約している実態とはなっていないことに気づいた。

 記事は書いている。〈沖縄県は24日、民主党政権の目玉政策である国から自治体への一括交付金について、2月議会に提出する2011年度予算案に一部を計上しない方針を固めた。使途が限られ、「地方が自由に使える」とする民主党の公約にはほど遠いためだ。〉――

 いわばヒモつきで、「地域が自由に活用できる」状況にはなっていない。そのため、〈仲井知事が近く上京して、未計上分を県が望む政策に使えるよう菅政権に求める。〉という。 

 さらに記事の解説を見てみる。

 〈菅政権は11年度予算案で、初めて一括交付金として都道府県向けに計5120億円を計上し、特定事業への「ひも付き補助金」の一部を振りかえた。だが実際の使途は道路や学校の整備など9事業に限られ、多くの自治体で前年度から継続している事業が対象となっている。このため一括交付金になっても、使途を思うように変えられない。

 勿論、沖縄県も右へ倣えをさせられている。配分される321億円の多くを9事業に充てる形式となっているという。

 沖縄県幹部「メニューの少ないカタログ付き商品券」

 「せめて1割程度は、9事業以外に使いたい」と考える県は、その分を当初予算案に計上しない方針とした。と言うことは、1割程度も「地方が自由に使」うことができない一括交付金がという逆説を踏んでいるばかりか、国と地方が「対等・協力」の水平関係にはなっていなくて、「上下・主従の関係」に縛られているという、民主国家にふさわしくない、従来と殆んど変わらない非民主的状況を風景としていることになる。

 仲井真知事が1月21日に沖縄を訪れた枝野官房長官に要望。 

 仲井真知事「自由度を高めて頂きたい」

 記事は枝野官房長官がどう対応したか書いていない。

 だが、片山総務相の対応を伝える記事がある。《自由度拡大 12年度以降 沖縄振興自主戦略交付金》沖縄タイムズ/2011年1月27日 09時47分)

 仲井真知事と片山地域主権推進担当相(総務相)との1月26日の会談。

 仲井真知事が〈2011年度予算案に計上された沖縄振興自主戦略交付金について、使途対象事業の枠を外して運用の自由度を高めるよう要請〉――

 片山総務相「11年度はこれで精いっぱい。すぐに自由度拡大は難しい」

 〈政府は11年度予算案で、8府省の交付金の一部を「自主戦略交付金」として、対象事業内での予算配分を自由化したが、県は要望とかけ離れているとして戦略交付金の一部を11年度県予算に計上せず、最終的な政府案の確定まで見守る考えだ。〉――

 では菅首相が官僚を威してだ、何だと自慢して、「地域が自由に活用できる」と言っていたことは、少なくとも現時点ではすべて恥知らずなウソで、広野允士参院議員の異議申し立てこそが菅首相のウソに対する警告だったことになる。

 2009年民主党マニフェストに高らかに宣言した、〈明治維新以来続いた中央集権体制を抜本的に改め、「地域主権国家」へと転換する。〉も、〈国と地方自治体の関係を、上下・主従の関係から対等・協力の関係へ改める。地方政府が地域の実情にあった行政サービスを提供できるようにする。〉も、〈国から地方への「ひもつき補助金」を廃止し、基本的に地方が自由に使える一括交付金として交付する。〉も、菅首相の自慢話のための自慢話で終わっているアホ陀羅経といったところではないか。

 まさに「自由に使える」の看板にウソ偽りありの一括交付金となっている。

 まさかマニフェストは4年間で実施が目標だから、実現させるまであと2年の猶予があると言うわけではあるまい。国と地方の関係を対等な関係に持っていくことと一体化させた、その最大・象徴的な一括交付金である以上、政治主導を最大限に発揮して実現させるべき政策であり、政権交代から既に1年4カ月経過していて、政治主導を発揮する時間的余裕と発揮の機会は十二分過ぎる程あったはずだ。

 実現できていないということは逆に言うと、菅首相が政治主導はかなり進んでいると言っていることを今度はウソとすることになる。政治主導もマヤカシ、一括交付金もマヤカシでは政権交代の意味を失う。いや、政権を担っている役目自体が意味がないことになる。

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菅首相インターネット放送生出演から見る自己性善説と第三者性悪説(1)

2011-01-29 09:52:29 | Weblog

 菅首相の「プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム」インターネット放送生出の文字化によるブログ記事の最終。

 宮台社会学者「ちょっといいですか。あのー、ラストの決意表明の前にここだけね。あのー、実はね、既得権益を変えるって言うと、そのー、まさに既得権益に張り付いた敵がいて、それをですね、我々が味方に変えて行くというイメージなんだけど、実は僕はちょっとそれは違うと思うんですね。と言うのは、例えばこんな例があるんだけど、TPP、トランスパートナーシップの問題がね、今話題だから、それにかこつけて言いますが、色々な問題について言えるんですけど、例えば個別所得補償制度を含めてですね、従来の農業行政の、大改革をしようとしたら、これはやっぱりJAという農協を味方につけるしかないんですね。

 で、僕はその、色んなとこのJAの支部で、講演をする、仕事をしてきているので、色んな人を知っていますが、実際には全く一枚岩ではない。で、実は自民党のTPPに絶対反対する会、みたいな方々の、実は絶対反対って方は、むしろ少数で、まあ、要するに後援会に戻って、TPPについてどうするかって聞かれたら、『絶対反対するよ』って言ってるんだけど、本当はそんなやり方じゃ持たないなっていうことを知っている。

 つまり自民党の中にも、JAという農協の中にもですね、実はそのTPPに無条件に賛成だと言えないまでもね、従来のやり方でいいと思っている人はむしろ少数だと思うんですね。

 で、そういう人間たちを味方につけていく。役人もそうですよね。行政官僚とか。行政官僚って一枚岩みたいに言ったけど、本当は色んな人がいますよね。で、そういう人間たちから、やっぱり政権党に忠誠を誓う人たちをピックアップして、自由自在に使う、っていうことはやっぱり重要で、そういう意味で言うと、どうしても民主党の従来のやり方は政治主導という概念にしても、そうだし、農業行政の抜本的な改革にしても、ちょっと単純な敵味方意識――」

 菅首相「ただ、ただ、高台さんが言われることもやや、ないものねだりで、そういう、例えば、あのー、普天間なんかの場合にはですね、私は、今の、あのー、官房副長官の事務の副長官の、に、かなりですね、関係する役所の、事務次官等を含めた、あの、この、チーム的なものをつくってもらって、あの、政治家は政治家でやりますけども、事務方は事務方できちんとやってもらっています。

 ですから、そういうことについて、確かに、その、オー…、まあ、1年半前の、政権交代から、あー、ある意味、初めての経験であることだけは事実ですから、そういう、あのー、官僚組織の、という能力も活かしながら、如何に政治、イー政務三役とのリンクでやるということに段々今、お、議論があの、移りつつあってですね、これも含めてですね、まあ、あのー、あまりこんなことをいうと、あのー、甘いなと、視聴者の人に言われるかもしれませんが、やはり政権交代から1年半なんです。

 で、原理を変えました。その新しい原理の元で、私もやってみて、先程言った国会法39条の話からですね、こんなことになって、一つの壁を壊しても、まだあるのかってことがたくさんあります。ですから、そこまでですね、えー、変えていけるかどうか。

 それからTPP、一つだけ戻らしてもらうけど、私はやっぱ20011年の今日、まあ、色んな、あー…、経緯で、現在総理大臣という立場にいます。その総理大臣という立場で、何をやらなければならないのかですね、やりたいのじゃなくて、何をやらなければならないのか。その一つは確かに宮台さんが言われましたけど、官僚組織をきちっとグリップして、そして一つの方向に向かって、えー、進めることです。

 で、その中に、えー、そうしたですね、えー、自由貿易、の推進と、えー、農業の改革、うー、そして、おー、社会保障と、税制の改革。そういうものを、この時点でやらないと。まあ、20年間遅れていますから。私は、あのー、この国が本当にもう行き詰ってしまうという、その覚悟で臨んでいるということをですね(笑いながら)、あの、最後に申し上げておきたいと思います」――

 やはり菅首相の発言には理路整然とした一貫性を求めたくても求めることはできない。前回宮台氏は官僚主導から政治主導への転換を図ることで既得権益構造を打破するプラットホーム構築の必要性を説いた。ここでは既得権益構造にしても決して一枚岩ではない。既得権益に疑問を抱いている人間もいるから、単純な敵味方意識に拘るのではなく、そういった人間をピックアップしていって味方につけ、意識転換に活用していくといった方法を提案した。

 対して菅首相は「高台さんが言われることもやや、ないものねだり」だと意味不明に答えている。利用するしないは別にして、「そういった方法もあるかもしれません」と言うのが一般的な答だと思うが、そうなっていないところが菅首相なのだろう。頭のアンテナがどうなっているのか理解し難いところがある。

 多分、他人が口出しすることではない。こちらの言うことを聞いていればいい、あれこれ言うなといった思いでインタビューに応じていたのかもしれない。普天間問題を取り上げて、「政治家は政治家でやりますけども、事務方は事務方できちんとやってもらっています」と何の支障もないこと、何ら問題はないことを宣言していることがその証明となる。

 多分沖縄米軍の訓練グアム移転計画、本土自衛隊基地での自衛隊と米軍の共同訓練計画等のことを言っているのだろうが、宮台氏は個別にJAを例に挙げたが、個別の既得権益構造を問題としていたわけではなく、官僚(=霞ヶ関)、永田町、産業界等を覆っている日本の既得権益構造全体をくるめて問題としていたのであって、菅首相はそれが理解できなくて、普天間だ、TPPだと個別問題で対応している。

 訓練の移転計画を「きちんとやってもらっています」としても、肝心の辺野古移設に向けた沖縄側の反対の壁をピクリと動かすまでにはいっていない。

 前回の遣り取りで菅首相は「政治家と官僚の構造がですね、あの、根本的に変わったんです」と断言した。実際に根本的に変えることに成功したなら、官僚側は自らの既得権を守る手立てを失ったことになるが、「全部うまくいっているかどうかっていうのは、まだありますけども」と矛盾した猶予をつけていることを大目に見ても、官僚の既得権の壁はかなり崩れつつあると見なければならない。

 だが、政権交代からまだ1年半しか経過を見ていない、すべてが初めての経験で、「官僚組織の、という能力も活かしながら、如何に政治、イー、政務三役とのリンクでやるということに段々今、お、議論があの、移りつつあってですね」と、政治主導への根本的変化に向けた議論へ移行しつつある段階で、前回言っていた「かなりの権限を持った政治家グループが、それぞれの役所をコントロールしている」とも矛盾して、官僚のコントロールは未だ発展途上だと平気で矛盾したことを言っている。

 コントロールできているならできている、できていないならできていない、どちらであっても、どちらか一方に固定させた発言とすることができない。固定させることができないのは誤魔化しがあるからだろう。理屈では政治主導はこうあるべきだと思い描いていても、あるべき実際の姿を取っていないのか、あるいはあるべき実際の姿さえ理解できていないのかもしれない。

 このことは「原理を変えました」と言っている言葉に現れている。原理を変えたことで、その原理どおりに物事がほぼ動く状態になって初めて原理を変えたと言い切れる。原理を変えた、まだまだ壁があるでは原理が機能していない状況にあるか、新しい原理そのものに間違いがあるかの問題となる。原理そのものに間違いがあった場合、「原理を変えました」とはならない。

 だが、「原理を変えました」と明快に言いながら、「一つの壁を壊しても、まだあるのかってことがたくさんあります。ですから、そこまでですね、えー、変えていけるかどうか」と、原理を変えたことが意味を成さない頼りない矛盾を曝け出している。

 原理や組織を変えても、人間の意識が変わらない、旧態依然だと基本は人間の営みによって社会の出来事は生成されるのだから、目的とした変化は期待できないことになる。男女機会均等法だ、女性の社会参加だと原理を変えたとしても、日本人男性の女性に対する男尊女卑の優劣観、あるいは差別観を引きずった意識を完全に払拭できていないために目的どおりの変化になかなか到達できないのと同じである。

 但し、原理や組織を変えることによって新しい原理・組織が人間の意識に変化を促す場合もある。

 となれば、人間の意識に変化をもたらさない原理の変化や組織の変更は意味を成さないことになる。

 自民党は戦後60年以上、ほぼ一党独裁の状態で一貫して政権の座にあった。だが、自民党の政治家も自民党政権下の官僚も自らの意識の変化を促すことができなかったために官僚主導、族議員化、省益擁護等の既得権益構造を打破することができずに、逆により強固な惰性の方向に持っていったために過大設計を施したムダな公共事業、ムダな予算付け、地元利益誘導政治等を引きずることとなって日本の財政を極限にまで悪化させていった。

 要するに民主党が打ち出した政治主導が官僚の意識を決定的に変えるところまでいっていないということなのだろう。あるいは民主党議員の政治主導意識が官僚の官僚主導意識、省益擁護意識を打ち破るところまでいっていないということに違いない。

 政治主導の進展状況を正直、且つ明確に説明責任を果たすことができずにさも進んでいるかのように誤魔化す政治家に真の政治主導を期待することが果してできるだろうか。

 神保代表「うーん、何か時間がとってもオーバーしてね。でもね、菅さん、まあ、これね、初めての、初めてのインターネット放送登場で、初めての非メディア登場かもしれないけどね、是非ね、あのー、まあ、これを一回きりせずにですね、うちだけに限らず、色々なメディアありますから、あのー、色んなとこに出て行って、それぞれに違う(ゲンセイ?――不明)がついているので、是非、あの、これから発信していっていただければなあって。

 やっぱり、あのー、クラブの中にいて記者会見やってバラす、ぶら下がりですか、やっていうのでは。なかなか今日もね、僕もね、十分じゃなかったけど、やっぱり初めてそういう話を聞いたって方もいると思うのですよ。是非これに懲りずに――」

 菅首相「懲りはしません。懲りはしないんですけど・・・」

 神保代表「総理のスケジュールがないとこを出たのは大変なあり得ない問題で・・・(早口で聞き取れない)」

 菅首相「あの、これからの、あのー、インターネットもテレビも、活字媒体も、含めてですね、あのー、これは、私の方から逆に言うと、そういうみなさんにお願いですけど、あのー、こちらから伝えたいなと思うこと、場合によったらですね、そのー…、見ている人、聞いている人がですね、聞きたいなということと、もう一つあると思うんですよ。

 これが、簡単に言うと、視聴率が上がりそうだな、面白いと。ですから、どうしてもそこにですね、こちらとしてはこれを伝えたい、これが重要だと思っても、その部分は捨象されて、えー、政局的なことに中心がいくとか。

 私はそこを修正できるようなメディアがですね、やっぱり、折角のインターネットですから、あのー、あってもらいたいし、ま、我々自身もですね、あの、この、メディアは自分たちで発信ができますので、私のカンフルTVもですね、是非、あの、視聴者のみなさんに見ていただいて、動画で配信しているのと、カンフルブログの方は活字で配信しておりますので、そのコマーシャルもちょっとさせていただいて、終わりたいと思います」

 嬉しそうにあまりにも無邪気にニコニコしている。既存のマスメディアが「こちらから伝えたいなと思うこと」を伝えずに視聴率狙いで政局中心の面白おかしいことしか伝えないと、要するに自身の内閣支持率の低さの原因をマスメディアに転嫁しているが、メディアは決して政局中心の情報のみを発信しているわけではなく、政策中心の情報をも発信している。そのことを無視できる公正さを欠いた自身の判断能力は如何ともし難い。

 また、国民にしても政局中心の面白おかしい情報のみに頼って内閣を評価しているわけではなく、様々な情報に基づいて菅首相の一挙手一投足をしっかりと観察し、自らの観察に基づいて評価していることをも無視する公平さも欠いている。

 このような公平さの欠如のみならず、国民の観察の中には以上触れてきた菅首相の発言に於ける論理の一貫性の欠如、誤魔化しと矛盾に満ちた話の展開も入っているはずだ。もし国民が既存メディアの政局中心の面白おかしい情報だけに基づいた内閣に対する観察と評価に過ぎないと貶めるとしたら、国民をバカにしていることになる。

 要するに菅首相のマスメディア論は合理的判断能力を欠いていて公平に見ることができないことが原因となっている、安易で身贔屓一辺倒から出ている「こちらから伝えたいなと思うこと」を伝えていない、政局中心の面白おかしい視聴率狙いの情報発信媒体だと言っているに過ぎない。

 このことはカンフルTVとカンフルブログの紹介に現れている。要するにカンフルTVとカンフルブログは既存メディアのような政局中心の面白おかしい視聴率狙いの情報発信媒体ではなく、「こちらから伝えたいなと思うこと」をきっちりと伝えることができる情報媒体だと正反対に位置づけているが、いくら菅首相が「こちらから伝えたいなと思うこと」を100%きっちりと伝えることができたとしても、そのすべてを国民が肯定して受け入れる保証はどこにもないのだから、結果として「こちらから伝えたいなと思うこと」が伝わらない、いわば国民が拒否する、あるいは理解できない等の、既存のマスメディアが情報発信を介した場合と変わらない意思のすれ違いが起こることを前提としなければならないはずだが、前提とすることができずに「こちらから伝えたいなと思うこと」は100%きっちりと伝達可能を前提としている自己情報発信に対する何一つ疑うことを知らない無条件且つ無邪気な性善説は何よりの合理的判断能力の欠如を証明して余りある。

 要するに公平に判断できる頭を持たないということである。その結果、自分が発信する情報は何一つ間違いはない。ただそれを既存のメスメディアが曲げて報道するから、国民に間違って伝わるということになる。自己性善説に対するマスメディア性悪説を固定観念としているということである。

 神保代表「菅さん、ほんとに最後の最後、総理って言うのは、菅さんが総理になる前に思っていたことと比べて、どうですか。もっと、総理というのは、もっと思ったよりこうだったと、一言で言うと、どうなんですか?」

 菅首相(口を結び、顔を上向き加減にして暫く考える)「過去の総理がですね、まあ、あの、小泉さんのように長くやった人と、比較的短くて、辞めた人がいますが、その…、辞められる原因というのが、――何となく分かるんですね」

 神保代表「辞める原因が分かる。何ですか。総理になって分かった、総理を辞める原因とは何ですか」」

 菅首相「気持が萎えるんです。俺はこんなにやっているのにね、何で分かってくれないんだ。俺はこんなにね、頑張っているのにね、何でね、この評価されないんだ。結局、どっかでですね、色んな思いがこう伝わらないことで、どっかでもう、これ以上は、あのー、やってもダメだと、気持が萎えるんです

 ですから私はですね、あのー…、私のような、まあ、えー、やや、変り種と自分で言っていいかどうか分かりません。そのー、なった総理ですから、私は、あの、決定的にやってみようと思うんです。

 つまり、自分の気持が萎えることで、その、やーめたということはしない。やはり折角私のような政治家を育ててくださった、ひろーい意味でですね、まして皆さんも含めてかもしれませんが、そういう人間にとってはやはり選択肢にないんですね。

 そりゃあ、憲法上、色んな手続きはありますから、ですから、私は、あのー、そのことによって、えー、新しいプラットホームと宮台さんが言われましたけれども、まさに新しい地平に届くかどうかなんです。そこまでは見極めたいなと。

 まあ、最後に一言ですね、この間、モンゴルの大統領が来たんですよ。面白い話をしていました。彼が言うのはですね、チンギス・ハーンは馬に乗っているときはどんどん征服して、エー、進んだけども、馬から降りたら大変だったと言うですね。つまりは私たちに直せば、選挙で戦って勝つのは勿論大変なのですが、それはそれなりに大変だけども、それ以上に馬から降りたら、えー、いわゆる統治をするということはですね、如何に大変かと。

 そこに壁があってね、そこで萎えてしまうと。で、また次に移る。そこでまた萎えてしまう。満を持しても、総理を萎えさせるような要素が色んな意味でたくさんありますから、あの、タイトな国会審議もですね、まあ、私がこの間テレビで申し上げたように、質問はですね、24時間前に質問要旨を貰いたいというのは、決してこちらが怠けたいからではなくて、ちゃんとした議論をするためには、それでなければできないんですけれども、結局その時間が取れないようなタイトな時間で進んでいくと。段々自分の頭がですね(頭の近くに両手を持っていって、その手をぐるぐる回す)、こう、まわる余地がなくなってしまって、で、最後は、もうこんなことやっていても、はんなんやって(?ママ)なるってことはですね、まあ、今日、色々と自由に、話をさせていただいて・・・」――

 「俺はこんなにやっているのにね、何で分かってくれないんだ」云々以下にしても、自身の政治的創造能力、リーダーシップ、政権担当能力等何一つ疑うことのない無条件の性善説に立った発言となっている。当然、マスメディア性悪説同様に常に自分以外の第三者に責任があるとすることになる。自身が問題ではなく、周囲が問題なのだと。

 もし自省心を働かせて、自省能力を持っていたならの話だが、自らを省みて自身にも問題点があることを見い出したなら、そこを改める努力を払うだろうし、改める努力は能力の改善、もしくは発展をもたらすことになる。

 だが、常に自分以外の第三者に責任ありとして自らを省みることをしないと、欠陥状態のままの現状維持にとどまることになる。

 チンギス・ハーンの譬えを持ち出して如何に政権運営が困難かの証明としようとしていることも、自身に問題点や責任を置かない姿勢からの発言であろう。総理大臣として自分で切り開いていくしかないのだとの覚悟がないから、野党時代と実際の政権担当との当たり前の違いを持ち出して理解して貰おうといった態度を取ることになる。
 
 自らを恃んで自らの力で切り開いていこうという覚悟があったなら、「変り種」だとか、「私のような政治家」といった言葉は決して口を突いて出ないはずだ。切り開いていくとは結果を出すことを意味する。「変り種」であるとか、「私のような政治家」といった価値付けは結果を見て初めて生きてくる。その結果は他人が評価することなのだから、自分から言うべきことではないはずだ。

 こういったことからすると、萎えることはあっても、「決定的にやってみようと思うんです」の覚悟は相変わらず自身を無邪気な性善説に立たせて第三者に責任転嫁する姿勢に変わりはない中での覚悟と見なければならないから、口で言っているだけの覚悟にしか思えない。

 神保代表「それこそ、それこそ、総理になってから、変えなきゃいけないことではないんですか?」

 質問要旨を24時間前に受け取ったとしても、菅首相の自身に何ら間違いはないとしている無邪気な性善説、自分以外の人間に問題点や責任を置く第三者性悪説に変化がなければ、いわば自身の意識が従来と変わらなければ、指導力や政権担当能力といった本質な問題は何も変わらないはずだ。

 菅首相「ですから、今変えるように言ってるんです」

 神保代表「それこそ、総理がね、非常に、ま、孤独な存在で、自分の思いが伝わらない、やりたいことができるようになっていないとすれば、やっぱ、そこを一番変えなきゃいけない、ことなんじゃー」

 菅首相「国会の仕組みなんですよ」

 神保代表「国会法であるとか――」

 菅首相「ですから、国会の仕組みであって。ですから、今内閣法の改正案を出しております。で、国会の改正案も出しております。で、同時に国会のルールというのは、これは法律に必ずしもなっていない慣例もあります。

 さっき言った、何時か、あのー、24時間以内とか、ま、2日前の昼間とかですね。そういうものはやはり、お互いに野党与党を経験を殆んどの党がしましたから、そいう中でやっていきたいと思っています。

 で、そういうことでですね、ま、先程のぎジンギス・ハーンの言葉で言えばですね、やはり、あのー、地上に降りたわけですから、その中で、えー、20年間、エー、遣り残してきた、日本として遣り残してきた、えー、成長・財政・社会保障、そして、えー、地域主権と外交。この問題を、やはり、何としてでもですね、次の展望が見えるところまでは、あのー、取り組んで頑張りたいと思っております」

 神保代表「はい。えー、もう本当にいよいよ時間と思いますんで、長い間どうもありがとうございます。えーと、菅さん、是非、本当にね、これを機にですね、色んなメディアに、うちを含めて、出てください。本当に今日は長い時間ありがとうございました」

 神保代表と宮台氏が頭を下げる。

 菅首相「ありがとうございました」(ゆっくりと鷹揚に頭を下げる)

 既にケチをつけたように、「20年間遣り残してきた成長・財政・社会保障、地域主権と外交」等を「次の展望が見えるところまでは取り組んで頑張りたい」と言っても、無邪気にして愚鈍な自己性善説と他者に責任と問題点を押し付ける第三者性悪説に立った取り組みに変わりはないだろうから、同じ繰返しが続くことだろう。

 最初はこのインターンネット放送生出演の「萎える」という菅首相の発言を取り上げたWEB記事から入ったが、放送全体を文字化して菅批判を展開することになった。

 勿論、全編方向違い・お門違いの批判で終わっているかもしれない。この程度が限界と思って貰うしかない。

 参考までに、《菅首相インターネット放送生出演から見る自己性善説と第三者性悪説(2)》で、このインターネット放送を取り上げたこれまでのブログ記事を挙げて終了とします。疲れました。
 


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菅首相インターネット放送生出演から見る自己性善説と第三者性悪説(2)

2011-01-29 09:44:31 | Weblog



 《菅首相の「発信力」の正体に気づいていないことが既に首相としての資格がないことの証明となっている - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》
 
 《菅首相のインターネット動画出演で分かったこと/改革者ではなく、解説者だということ(1) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 《菅首相のインターネット動画出演で分かったこと/改革者ではなく、解説者だということ(2) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 《首相インターネット動画出演/宮台社会学者の田中角栄擁護論は小沢一郎擁護論の言い替えか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 《菅首相の言いたいことを言わせて終わらないインターネット動画「日本ビデオニュース」出演(1) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 《菅首相の言いたいことを言わせて終わらないインターネット動画「日本ビデオニュース」出演(2) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 《菅首相は「政権をとればカネなんて出てくると言った」と小沢氏を批判するなら、小沢氏に政権を任すべき - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 《菅首相のトンチンカンな受け答えばかりのインターンネット放送生出演 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》



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安住淳民主党国対委員長が持つ言論弾圧者としての顔

2011-01-28 09:46:01 | Weblog

 

 取りあえず今朝のツイート。菅首相の「疎い」発言の纏め。

「情報ないという意味」 菅首相「疎いので」発言で説明 「そういうことに疎い」はその方面の知識に欠けるという意味。菅首相の弁解、「判断するために十分な情報が上がっていなかったという意味」では「そういうことに疎い」という言葉は使わない。

 その場合は「詳しい」か「はっきりとした」といった言葉を否定語を伴わせて使う。「詳しい情報がまだ届いていないないから」、「はっきりとした報告はまだ受けていないので」等々。

 菅首相は財務大臣を務めている。そして首相は各大臣の職務を管轄し、把握する立場にある。このことに関係した如何なる情報・報告に対して、いつ如何なる場合も「疎い」という言葉は責任上使えないはず。

 昨年11月3日(2010年)、埼玉県狭山市の航空自衛隊入間基地支援の民間団体「入間航友会」会長が同基地航空祭に招かれて挨拶を行った。
 
 《表現の自由と入間基地での航友会会長あいさつ》イザ/2010/11/17 18:38) 

 《入間基地航空祭おめでとうございます。また、普段国防の任に当たられている自衛隊の皆さん、いつも大変ご苦労さまです。祝賀会の主催者として、一言ご挨拶申し上げます。本日は、極めて天気もよく絶好の航空祭日和となりました。これも國分基地指令の日頃の行いのなせるものだと思います。

 私も、随分昔から、入間基地航空祭には、参加をさせて戴いておりますが、このように天気がいいのは、あまり記憶にありません。本当に良かったと思います。

 さて、現在の日本は、大変な状況になっていると思います。尖閣諸島などの問題を思うとき私は、非常に不安になるわけであります。自衛隊は、遭難救難や災害救助が仕事だと思っている世代が増えてきています。早く日本をなんとかしないといけない。民主党には、もっとしっかりしてもらわないといけない。

 他方で、戦後から日本の経済的繁栄などを思うとき、これらが先人の努力・犠牲によってなされたことを思い起こすべきであります。そのように考える時に、靖国神社に参拝するなどは当たり前のことだと思います。靖国神社には、日本人の魂が宿っている。菅内閣は誰一人参拝していない。これでは、日本の防衛を任せられない。

 自衛隊の最高指揮官が誰か皆さんご存知ですか。そうです内閣総理大臣です。その自衛隊の最高指揮官である菅総理は、靖国神社に参拝していません。国のために命を捧げた、英霊に敬意を表さないのは、一国の総理大臣として、適当でない。菅総理は、自衛隊の最高指揮官であるが、このような指揮官の下で誰が一生懸命働けるんですか。自衛隊員は、身を挺して任務にあたれない。皆さん、どう思われますか。

 領土問題がこじれたのは、民主党の責任である。政権は冷静だと言われているが、何もしないだけである。柳腰外交、中国になめられている等の現状に対する対応がなされていない。このままでは、尖閣諸島と北方領土が危ない。こんな内閣は間違っている。まだ、自民党政権の内閣の方がまともだった。現政権の顔ぶれは、左翼ばかりである。みんなで、一刻も早く菅政権をぶっつぶして、昔の自民党政権に戻しましょう。皆さんそうでしょう。民主党政権では国がもたない。

 (以下については、会長の声が聞き取れなかったため、挨拶内容を確認できなかった。)

 まだ、話したいことは沢山ありますが、あまり長くお話ししてもこの後、ブルーインパルスの飛行がありますのでこれで終わります。ありがとうございました。》

 菅首相以下、北沢防衛大臣等がこの挨拶を知って激怒したかどうか不明だが、少なくとも問題発言だと見て、二度とこのような挨拶が行われないための危機管理、防衛措置にでた。「防衛次官通達」である。

 《防衛事務次官通達の要旨》47NEWS/2010/11/17 02:02 【共同通信】)
 
 「隊員の政治的中立性の確保について」

 先般、自衛隊施設内での行事で協力団体の長があいさつし、施設を管理する自衛隊側が自衛隊法や同法施行令の政治的行為の制限(政治的目的のために国の庁舎、施設を利用させること等を禁止)に違反したとの誤解を招くような極めて不適切な発言を行った。

 防衛省・自衛隊としては、かかる事案が二度と起きないよう各種行事への部外団体の参加等については、下記の通り対応することとする。

 一、各種行事への部外団体の参加にかかわる対応

 防衛省・自衛隊が主催またはその施設内で行われる行事に部外の団体が参加する場合は、施設を管理する防衛省・自衛隊の部隊や機関の長は以下の通り対応する。

 ▽当該団体に対し隊員の政治的行為の制限を周知するとともに、隊員が政治的行為をしているとの誤解を招くことがないよう要請する。

 ▽当該団体の行為で、隊員が政治的行為をしているとの誤解を招く恐れがあるときは当該団体の参加を控えてもらう。

 一、部外行事への隊員の参加にかかわる対応

 隊員が防衛省・自衛隊の施設外で部外団体が主催する行事への参加を依頼され、その参加が来賓としてのあいさつや紹介を伴う場合は、当該隊員は以下の通り対応する。

 ▽当該団体に対し、政治的行為の制限について周知する。

 ▽参加を依頼された行事に政治的行為の制限に抵触する恐れのある内容が含まれていないことを確認し、確認できないときは行事に参加しない。

 要するに民間人等の基地部外者の基地内での政治的発言は許可しない、自衛隊員の基地外部集会等での政治的発言と政治的発言が行われる集会への参加は許可しないという通達である。

 もし民主党支持、菅内閣支持の発言をしたら、言論規制に動いただろうか。もし動かなかったとしたら、言論差別となる。言論差別による言論統制ということになる。

 以前ブログに取り上げたとき、次のように書いた。
 
 〈「自衛隊員の政治的中立性」とは職務上の制約を言うはずだ。自身が支持しない政党が政権を取り、政権の代表たる首相が最高指揮官となったとしても、その指示に忠実に従う、その中立性を言うはずである。

 だが、自衛隊員としての公務を離れた私生活の場では、政治に関心ある者は新聞記事、テレビ番組、あるいはインターネット等から数ある情報のうち自身の選択によって政治に関わる情報をそれぞれに手に入れて自身の情報とし、政治的判断の糧とする。

 いわば職務上の政治的中立性を厳格に守りさえすれば、如何なる情報の入手も自由であり、どのような政治信条に立とうと自由である。何人たりとも個々の政治信条を奪うことはできないし、ましてや政治に対する関心を奪うことはできない。〉――

 例え自衛隊基地であっても、それがクーデター計画、反乱計画の類いでなければ、如何なる政治批判も許されるはずだし、批判者は隊員、部外者の選別は行ってはならないはずだ。思想・言論の自由は憲法が保障する国々に於いては場所の制限を設けていないはずだからだ。

 もし自衛隊基地に限って場所の制限を設けているとしたら、自民党政権下では自民党支持者に限った国民を隊員として採用し、民主党に政権交代したなら、全員解雇、新たに民主党支持者に限って隊員採用としなければ、厳密な意味で政治批判の制限を設けることはできない。

 民間人にしても、集会がなくても基地内に入る場合、政治に関する文言は一切口にできないことになる。

 要は隊員がどう判断し、自身の情報とするかだが、職務上の政治的中立性さえ守れば、その範囲内での判断と情報化は許されるはずだ。それさえも禁止した場合、人間が基本的に持つ思想・言論に対する欲求自体を抑圧し、否定することになる。当たり前の人間でなくすることを意味する。

 だが、菅政権は防衛事務次官通達で各種思想・言論の自由を制限することにした。民主党の批判は許さないとする思想・言論の制限であり、制限する場所を設けた。

 如何なる政治性からも無縁の政治的に純粋培養の自衛隊員はどのくらいいるのだろうか。純粋培養の人間程、判断能力の訓練経験が少なく、簡単に他人の主張・考えに同化しやすい。簡単にクーデター計画、反乱計画に乗りやすい。

 逆に自身の責任で判断する能力の育みが必要となる。そのためには様々な思想・言論に触れて、自身で判断する訓練が求められる。

 だが、民主党は菅内閣の批判は許さないとする思想・言論の制限を取る安全策に出た。

 この防衛次官通達は当時防衛副大臣だった安住淳民主党国対委員長の主導による言論統制だと、《防衛次官通達、安住氏が主導 政務官再考促すも耳を貸さず》MSN産経/2011.1.27 01:30) が伝えている。

 「入間航友会」会長の挨拶を知って、安住防衛副大臣が激怒。

 安住防衛副大臣「何でもいいから制裁措置を考えろ」

 内局文書課が通達案を作成、安住、広田一政務官が担当幹部と共に防衛省内で会議を開き、通達案を協議。

  広田一政務官「この通達はやりすぎだ」

 安住副大臣は耳を貸さなかった。

 〈広田氏の懸念の通り、自衛隊やOB組織、後援会などで「思想信条の自由を定めた憲法の精神に反する」と激しい反発が起き、自民党は国会で北沢氏らを追及。民主党からも「後世に残る政権の汚点だ」(党幹部)との批判が上がった。〉――

 国会での追及を受けて、安住副大臣は通達撤回を検討。 

 安住防衛副大臣「撤回しても効力は物凄い。通達を1度出したことに意義がある」

 言論統制が行き渡ったということなのだろう。だが、その代償として自衛隊員の政治に関する判断の萎縮、もしくは抑圧を誘ったはずで、そのことへの視点がない。萎縮・抑圧が過ぎると、時として萎縮し、抑圧した感情は逃げ場もなく蓄積されて膨張することになり、逆に暴発を誘う。

 記事は、〈一度通達を出せば自衛隊内で強く印象づけられ、民間人の政権批判を控えさせる「自主規制」が働くと踏んだからだとされる。〉と解説している。

 だとしても、逆に規制の効かない場所での政権批判を強めることになるだろう。

 北沢防衛大臣「撤回すると非を認めたことになり、さらに野党に追及される」

 通達の非を認めないことによって思想・言論統制の非を許すことになった点への配慮はない。

 〈安住氏は産経新聞の取材に対して「コメントしない」と語った。〉というから、否定したらウソになって、いつかは露見する、肯定するわけにはいかないことからの、否定も肯定もしないノーコメントいうことなのだろう。

 いずれにしても通達によって安住は言論弾圧者の顔を曝した。その顔をもう一つの記事でも曝すこととなっている。《親小沢派に勝手はさせぬ 民主・安住氏が党内引き締め策》sahi.com/2011年1月26日22時46分)

 〈民主党国会対策委員長に就いた安住淳氏がねじれ国会を乗り切るため、まず「身内」を引き締め始めた。党所属議員の質問に政権の方針と異なる内容がないか調べ、議員の「考課表」をつける徹底ぶり。小沢氏に近い議員からは「言論統制になりかねない」との反発も出ている。〉――

 元々の地として持っている言論統制者としての顔を菅首相擁護の立場から曝け出したに過ぎないはずだ。

 安住「誰がさぼっているか、質問をちゃんとしているか、若手議員の考課表をつけてほしい」

 言論統制は何らかの監視によって目的を達する。防衛次官通達では通達が監視の役目を果たした。今回は各委員会の筆頭理事に監視の役目を仰(おお)せつかった。 

 記事は解説している。〈26日の拡大国対役員会議で、衆院の各委員会の筆頭理事に通常国会終了時に出席率などの考課表を報告するよう要請した。閣僚が答弁の準備に手間取るような質問をしないよう、若手を指導することも求めた。野党から追及される隙をなくすのと同時に、党内の「親小沢」派による政権批判の質問を牽制(けんせい)する狙いもありそうだ。〉

 まさしく監視による言論統制を策している。監視役は各委員会の筆頭理事だけではなく、各府省の官房長をも監視役の列に加えている。

 19日に国会内に各府省の官房長を集めて――

 安住「変な質問をする与党議員がいたら連絡して欲しい」

 まさしく政治主導による官僚コントロールと言えるが、そのコントロールが言論統制者としての権力行使となっている。

 民主党議員「言論の府としての国会を否定する発言だ」

 安住(25日の記者会見)「与党として身の処し方とか、発言の仕方は当然ある」

 言論統制を加えることによって成り立たせる「発言の仕方」であり、言論統制下で行われることになる「身の処し方」であって、当然議員各自の判断を許さない「身の処し方」と「発言の仕方」となる。

 そうなってこそ、安住の言論統制者としての権力を完遂させることができる。面目躍如といったところだろ。

 憲法で基本的人権が保障された民主主義国家であっても密かに人権の抑圧が蔓延している。

 参考までに――

 《入間航友会会長の基地祭挨拶に端を発した防衛省通達は表現の自由の侵害に当たるのか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 《防衛省事務次官名通達は言論統制に当たるのか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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菅首相のトンチンカンな受け答えばかりのインターンネット放送生出演

2011-01-27 09:57:45 | Weblog


 菅首相の1月7日(2011年)インターネット放送生出演を取り上げたブログ記事――前回《菅首相は「政権をとればカネなんて出てくると言った」と小沢氏を批判するなら、小沢氏に政権を任すべき - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》の続き。

 前回は宮台社会学者が菅政権の財源不足からのマニフェスト変更の説明不足と小沢問題で何が不透明なのかの説明不足を改めて問うところで終えた。それに対して菅首相はトンチンカンな方向に話題を飛ばした上、相当いい加減な、デタラメと言っても過言ではない論理を駆使して説明不足の代わりとしている。

 菅首相「一番大きなことのもう一つが、あの、今話題になっていないんですが(と話の方向を変えてしまう)、実はさっき官僚のことを言われました。

 この1年半前の政権交代で、その、政治家と官僚の構造がですね、あの、根本的に変わったんです。ただそれが、あのー、全部うまくいっているかどうかっていうのは、まだありますけども、例えば一番典型的なのが、その事務次官会議を廃止する。あるいは政務三役がですね、従来は大臣以外は、あのー、場合によっては、あー、盲腸とまで言われた政務次官制度が変わって、かなりの権限を持った政治家グループが、それぞれの役所をコントロールしている。

 で、これは変わったんです。で、私は最初に申し上げたように、私にとってはやはり、そのー、国民が、選んだ国会議員が、政治を最終的にコントロールするというのは、国民主権ですから。

 しかし残念ながらこれまでの日本は、形は国民主権だけれども、内閣の制度の中では実は官僚主権になっていたと。そこが一つの、まあ、大きなですね。もう一つの柱なんです。それとマニフェストの具体的な政策課題なんです。

 ですから、私は、このー、もう一つの大きな柱は、あの、根本的にエー、変わっています。

 ですから、その二つのことで、まあ、あの、十分なですね、説明がまだできないとすれば、それは、まあ、これから、色んなことが前に進み始めました。例えばの話ですね、あの、今度の、おー、今、ま、今度はそういうテーマは、あまり来ませんでしたけれども、例えば、あー、社会保障の問題。で、この問題も、オー、従来、よく、財務省が財政に厳しいという言い方をみんな言うんですが、私は財務大臣をやって、あるいは今の総理大臣をやって、財務省が財政に厳しいなんて思ったことは一度もありません。財務省というのは、何とか辻褄合わせる能力はあるけれども、その、この、おカネを使ったらですね、こういう効果があるとかないとか、いうのは、基本的に私が見ていると、オー、ま、判断しないというと、ちょっと言い過ぎですが、政治力学がどうなっているか判断して、纏め上げるという、纏め上げる手法はありますが、おー、これをやったら、本当に経済がよくなるとか、福祉がよくなる、こっちが重要だから、こっちにつけよう、こちらが重要だから、こちらにつけよう、というのは、ま、これは官僚の仕事でないと言えばないかもしれませんが、そういうことにはなっていません。

 ですから、そういう点でですね、やはりあのー、政権交代、というものをの、私は大きな変化、それが、確かに、まあ、中にいる立場と、外から見ておられる立場から見え切れていないというのは、これからもっと努力しなければいけませんが、少なくとも政治家と官僚の関係は、あの、大きく変わったというだけは確かです。

 ただ、その変わったことが、より有効な形になっているか、まだまだ試行錯誤の段階ということになれば、それは試行錯誤の問題もあります。

 実は色んな法律があるんです。例えば、もう時間があるのかどうか分かりません。例えば、面白い法律がありましてね。確か国会の39条だったと思いますが、国会議員は基本的に公務員を兼任できないと書いてあるわけです。で、例外として、大臣とか副大臣はいいと。そうすると、例えば、あー、官房長長官、副長官の下に、副長官補…という人がいるんです。これはなかなか、あのー、大きな力を揮えるポジションなんです。

 しかし、副長官補に国会議員を置こうとすると、置けないんですね。その官邸の中の、おー、ポジションに民間人をポンと置いても機能はしにくい。そうすると結果的に色んなところの官僚、OBが、そこに座ると。そういう形でですね、まだまだ、事務次官会議を廃止し、ま、政務三役はできましたけども、実はそういうですね、一歩、中に入ってみたら、さらにそこにですね、壁があり。色んなクモの巣のようなものがあるわけです。

 ですから私は、あー、その政治主導法案、まだ通ってませんけれども、それを順次出していって、ですね、きちんと仕事できるような体制をつくって、効果的なですね、国民主権の、内閣にしていきたいと、そう思っています」――

 宮台氏はマニフェストの変更と小沢問題の国民に対する説明不足を挙げた。だが、菅首相は政治主導と官僚主導の問題を持ち出して、その点の説明不足の問題にすり替えている。だが、言っていることはデタラメなことを並べ立てた過ぎない。

 まず、「政治家と官僚の構造が根本的に変わった」と言っている。だが、その舌の根が乾く暇もない次の瞬間に、「全部うまくいっているかどうかっていうのは、まだあります」と言っている。

 肯定的に取り上げる場合の根本的な変化とは有効な方向への確かな変化を確認できたときに言うのであって、有効か無効か判断がつかない場合は根本的な変化と言うことはできないはずだが、平気で言う矛盾を犯している。

 その確認ができていないにも関わらず、菅首相は「政治家と官僚の構造」が日本の政治にとって有効な形、役立つ形へと変化したとしている。その例として事務次官会議の廃止、政務三役会議の設置を挙げ、「かなりの権限を持った政治家グループが、それぞれの役所をコントロールしている」とまで言い切って、官僚主導から政治主導への変化を確約している。

 だが、少し前にブログに取り上げたばかりだが、菅首相のインターネット放送出演は1月7日(2011年)、それからたった2週間後の1月21日午前、各省事務次官らを首相官邸に集めて、事務次官と政務三役の協力関係に問題があった、「積極的な協力関係を作ってもらいたい」と要望、間接的に政治主導が十分に機能していなかったことを暴露している。

 「政治家と官僚の構造が根本的に変わった」とまで言っていながらである。要するに「全部うまくいっているかどうかっていうのは、まだあります」が実際の姿だったことになり、「盲腸とまで言われた政務次官制度が変わって、かなりの権限を持った政治家グループが、それぞれの役所をコントロールしている」は事実に反する虚言、ウソの類いに過ぎないことになる。

 当然、「政治家と官僚の構造が根本的に変わった」とは決して言えないことになる。単に表面的、あるいは形式的な変化にとどまっていたということだろう。かつて「霞が関なんて成績が良かっただけで大バカだ」と官僚を貶めて、そうすることで自分を何様の位置に置き、尚且つ偉そうに「政治主導、政治主導」と言っておきながら、この場に及んで官僚に協力を求めたことからすると、今後どこでどう官僚に呑み込まれない保証はない。

 また例の如く自慢話を持ち出しているが、その自慢話が自慢話になっていない論理の破綻は滑稽そのものである。財務大臣と総理大臣の経験から、財務省は政治力学がどうなっているか判断して、いわば有力政治家の顔を窺ってということなのだろう、予算配分を「何とか辻褄合わせる能力はある」とその知見振りをひけらかしたはいいが、「これをやったら、本当に経済がよくなるとか、福祉がよくなる、こっちが重要だから、こっちにつけよう、こちらが重要だから、こちらにつけよう、という」能力はないと貶している。

 だが、貶している最中に、「ま、これは官僚の仕事でないと言えばないかもしれませんが」と自身の話の展開を自ら否定していながら、その否定も何その、否定自体を無視して、官僚の仕事だとして、そういった仕事の能力を否定している。

 論理の破綻と言うよりも言っていること自体がデタラメとなっている。この動画を官僚が見ていたなら、こいつバカなことを言っていると腹を立て、軽蔑するに違いない。

 「これをやったら、本当に経済がよくなるとか、福祉がよくなる、こっちが重要だから、こっちにつけよう、こちらが重要だから、こちらにつけよう」はまさしく政治主導でやるべき仕事、政治家の仕事であろう。

 「ま、これは官僚の仕事でないと言えばないかもしれませんが」と言いつつ、その能力を官僚の職分とし、官僚は「そういうことにはなっていません(=官僚はそういう能力は持っていません)」と言っているのは、逆に官僚にそういった能力を求めていることになり、官僚依存の姿勢でいるということであろう。官僚が保持している情報・知識は最大限に利用するが、要所要所の判断・決定は政治家が行うという強い姿勢で臨み、厳格に実行していたなら、 「これをやったら、本当に経済がよくなるとか、福祉がよくなる、こっちが重要だから、こっちにつけよう、こちらが重要だから、こちらにつけよう」は頭から政治家の領分とし、口が裂けても官僚に期待する能力とはしなかったろう。

 ここから見て取ることができる風景は菅首相が普段言っている「政治主導」のかくあるべしの姿自体が、各省事務次官を首相官邸に集めて官僚に協力を求めたこと自体が証明していることだが、確固とした体裁を整えていないということであろう。

 この「政治家と官僚の構造」、あるいは「政治家と官僚の関係」が外からは見え切れていないことを以って説明不足に見えることの説明に代えているが、宮台氏が指摘したマニフェスト変更と小沢問題の説明不足の答になるわけではない。

 菅首相の合理的判断能力の欠如は何度も指摘してきたが、この欠如の程度は一国の指導者としては既に致命傷となっている。その最たる証拠が、「少なくとも政治家と官僚の関係は、あの、大きく変わったというだけは確かです」と政治主導確立に太鼓判を押しながら、続く言葉で、「ただ、その変わったことが、より有効な形になっているか、まだまだ試行錯誤の段階ということになれば、それは試行錯誤の問題もあります」と、最初の方で言っていた「政治家と官僚の構造が根本的に変わった」と言いいながら、「全部うまくいっているかどうかっていうのは、まだあります」と同じ言い回しで、肯定の否定という論理の破綻を平気で犯しているところに現れている。

 有効な形となっていない、試行錯誤の段階だと言うなら、政治家と官僚の関係が未だ大きく変わったとは言えないはずだが、大きく変わったと平気で言える合理的判断能力というのはまさしく倒錯そのものである。

 要するに政治主導に関しては単に口で言っているだけで、実際には自信が持てるところまでいっていないというということなのだろう。

 政治主導法案を国会に順次上程して政治主導の仕事がきちんとできるような体制に持っていき、効果的な国民主権の内閣にしたいという最後の言葉自体も現実にはそういった体制にはまだなっていないことの裏返しとなる言及であって、発言全体の政治主導を確立したとう趣旨自体の否定となる混乱を見せている。

 また菅首相は日頃から「国民主権」という言葉を使い、ここでは「国民が選んだ国会議員が政治を最終的にコントロールするというのは国民主権ですから」と国民主権=政治主導と位置づけているが、実質的には内閣が国民の支持を受けていなければ、いくら政治主導の政治であっても、国民主権とならないことに気づいていない。主たる権利者は国民であるとする国民主権としながら、国民の意思に反する政治が行われていたなら、権利者の権利が損なわれることとなって国民主権から離れることになる。

 この点、菅内閣は内閣支持率から言って、相当に国民主権から離れていると言える。その辺の視点を欠いた菅首相の「国民主権」に過ぎない。

 神保代表「今ちょっと、もう閉めようというカンペも出ていますので、宮台さんね、まあ、色々、番組の中でこれまでやってきたけど、どうですか。そのー、菅さんの話を聞いてね、やっぱ最後、宮台に一言だけ貰いたいのは、その凄く理念だの、哲学だのがないってことが、多くの声で出ると。

 まあね、今までの内閣総理大臣というのは、果してそんな理念だとか哲学だとか問われたかってことは――」

 宮台社会学者「問われていません。ただ――」
 
 神保代表「ただ、考えるとね、ここに来て、それが非常に問われるっていうのは、ある意味では、ある意味では非常に気の毒かもしれないが、ある意味では非常に重要な何かを意味しているんじゃないかな、と。

 つまりこれからの総理は、やっぱそれが問われるようになったんだとすれば、ね、まあ、それはある意味進歩なわけで、そこに大変な重荷を負っているんだと思うけど、それを最後に宮台さん、一言――」

 宮台社会学者「いま、グローバル化が進んで、モノ、カネ、ヒトが移動するので、大変動期なんですね。大変動期なので、色んなところプラットホームを、ゲームのルールを変えていかなければならないんだけども、そこに、別は、良し悪しは別として、自分たちの権益がかかっているので抵抗するのが、先ず行政官僚制のもとで働いている人たちなんですよ。

 特に偉い人たちですよね。あるいは財界に於ける、その既存の産業構造のもとで収益を上げてきた人たち、なんですよね。でー、しかし大変動期だから、まさに政治が主導して、ゲームのプラットホームを変える必要があるんですよね。

 それは産業構造改革であり、霞ヶ関改革、政治主導確立法案みたいなわけですよね。であり、ま、税制改革、なんで、そうしたものを実現するためには、簡単に言うと、官僚の抵抗を排することができるだけの、やっぱ国民の支持が必要で、で、官僚っていうのは、これは既に言っていることだけど、政治家が国民の味方をしているなと思ったら、抵抗できなくなっちゃうんですね。現在の特捜検察なんか典型ですよ。はっきり言えばね。

 行政官僚はそこが弱み。政治家がポピュリズム、いい意味で今使っています。国民の人気を博することに成功すれば、行政官僚はそれまで抵抗していたのが、コロッて変わるっていうことがあるんですね。で、その意味で実は、国民に対する説明っていうのは従来、単なる跡目争い、派閥の間でやっていたような自民党政治と徹底的に違ってね、凄い大事で、行政官僚が、そうか、これからはゲームのルールが変わったんだなと思うことが、合理的であるぐらい、十分な民意の、支持が必要なんですですよね、政治家に対する。

 そういう意味で言うと、ちょっと行政官僚制が抵抗しようとするプラットホームの大変革に必要な、民意の、調達がちょっと、軽視されてるんじゃないかなあって――」

 菅首相、痛いところを突かれたからだろう、戸惑った表情で潤んだ目となっていた。宮台氏が言っている現在の大変動期に於ける「プラットホームの大変革」と言うのは、実質的には国の富の配分を行政官僚上層部や財界主導の「既存の産業構造のもとで収益を上げてきた人たち」が握っていて、一般国民への配分が滞っている現在の、いわば既得権を固定化しているメカニズムの場、プラットホームを変えて一般国民にも十分に配分できるプラットホームに変えることを言っているはずだ。
 
 だから、国民の支持が必要であるし、一般国民への順当な利益配分なくして支持は不可能になるとしている。いくら政治主導と言っても、支持がなければ政治も十分に機能しなくなる。

 だが、菅首相は国民主権という言葉を機会あるごとに使っているが、支持を失っていることが自身の政治が必ずしも国民主権となっていないことに気づいていないから、話が噛み合わない。
 
 神保代表「一方で、二世とか、エスタブリッシュメント(権力や支配力を持つ階層)とかの出身じゃないとかで、まあ、既得権益から自由な立場にいる――」

 宮台社会学者「跡目じゃない方が、その、政治をするということがね、単なる素人のですね、あの、戯れに終わらないためには、やっぱり跡目じゃない、従来とは違う人が政治家になるってことにまさに、あのー、ふさわしいだけのプラットホームの、やっぱ変革っていうのが目に見える形で、やっぱ必要なんですよね」

 確かに二世やエスタブリッシュメント等の出身でない方が一見既得権益から自由な場所を立ち位置とするように見えるが、菅首相みたいに指導力、合理的判断能力共に欠いていたのでは既得権益の打破は到底無理な相談となる。

 神保代表「まあ、テーブルを、ちゃぶ台をひっくり返すようなことを、やっぱ菅さんにやっていただかないと、いけないと――」

 宮台社会学者「特に権益のある程度の利益の変動ですよね――」

 菅首相「あのー、まあ、うちと外の、あの。ギャップと言われれば、そうなんですが。例えば今回、玄葉大臣に、あの、党の政調会長と、それから、あー、国家戦略、担当大臣を、ある意味、党の…中と、党の中と内閣の中を両方持ってもらっています。これは私の、あのー、官僚、を…、の、おー、構造、から言うと、その、非常に大きなですね、あの、力を持ち得る、調整能力を持ち得るわけです。

 つまり、先程宮台さん言われたように、つまり党を通して国民にダイレクトに伝わっています。今までの大臣は、どちらかと言うと、おー、特に自民党時代は、この内閣の中に閉じ込められる。で、内閣全体は官僚が、いわばこの、それを閉じ込めている。

 しかし、それに対して自民党の場合は外に党があって、で、党が二元代表制のような形で、えー、まあ、色々とですね、ま、族議員化というのもありますけれども、そのチェックしたり、あるいは、口を出して。

 しかし我が内閣の場合は、一元化はあるけども、党と内閣の両方に跨って、それをまさに集約して、場合によってはアウフヘーベンしていくというか、そういう機能を持つことによって、あの、新しい形の、まさにプラットホームなんです、これは。

 イギリスは元々こういう内閣制です。しかし日本の内閣制は、あの言葉もですね、与党、野党というように、実は与党という言葉はくみするということなんです。誰が誰に与(くみ)している。そうではなくて、政権党と言うべきなんですね。つまり議員内閣制に於いては、多数を得た党が、内閣を自分たちでつくるという、その発想がこれまで日本には全くありませんでした。

 ですから、その新たな、プラットホームを1年半前にですね、このマニフェストに掲げて、スタートして、え、そういう意味では、私はまだ、そのー、不十分なところがあるのはおっしゃるとおりですが、プラットホームそのものは根本から変えたんだって言うことはですね、是非、ここでも、言っておきたいと思いますね」

 カメラ目線となって、自身ありげににこっと笑う。宮台氏が「権益のある程度の利益の変動ですよね」と、そのような仕組みとなるプラットホームの必要性を解説しているにも関わらず、内閣と党の仕組みを変えたことに話を矮小化するトンチンカンを相変わらず犯している。

 玄葉を党の政調会長と内閣の国家戦略担当大臣に据えたことを以って非常に大きな調整能力を持ち得て、「党を通して国民にダイレクトに伝わっています」とどのような根拠あって言っているのか、請合っている。「党を通して国民にダイレクトに伝わって」いるなら、もっと支持率は上がってよさそうなものだが、現実にはそうなっていない。

 確かに力を発揮し得る組織づくりは必要だが、何よりも指導力がものを言うはずである。指導力がなければ、組織は宝の持ち腐れとなる。

 イギリスの内閣制を持ち出したあとに「議員内閣制に於いては、多数を得た党が、内閣を自分たちでつくるという、その発想がこれまで日本には全くありませんでした」と言っているが、何を言っているのか意味不明。これまで「多数を得た党」が常に「内閣を自分たちでつく」ってきたはずだ。

 「マニフェストに掲げて、スタートして」、「1年半前に」「プラットホーム」をつくったと言っているが、そのプラットホームが従来の既得権益獲固定化の構造を変えて国民にも十分に利益配分されるプラットホームになっているかが問題となっていることから外れていることにも気づかない愚かさを示している。

 また、「与党、野党というように、実は与党という言葉はくみするということなんです。誰が誰に与(くみ)している。そうではなくて、政権党と言うべきなんですね」と言っているが、本人は施政方針演説でも所信表明でも、何度も「与党、野党」の言葉を使っている。勿論「政権党」と言う言葉も使っているだろう。

 だが、名称などどうでもいいはずだ。国民に選択を受けたのだから、国民に与するという意味の「与党」だと解釈してもいいはずだ。野党は国民に与したくても、直接の政治遂行にタッチできない、いわば野(や=政権担当に関係ない場所)にあるから野党だと。

 形式論への拘りが非常に強いが、このことは裏返すと実質性への執着心の希薄さを証明していることになる。政治は「結果責任」だから、形式よりも常に実(じつ=結果)を重要視しなければならないはずだが、そうはなっていないから、菅政治が国民にダイレクトに伝わっているかどうかが問題でありながら、玄葉が党と内閣に跨る要職に就いたことの形式を以って「党を通して国民にダイレクトに伝わっています」などと言うことができる。

 菅首相のバカさ加減だけが伝わるトンチンカンな主張の展開となっていた。

 続きはまたの機会に。 

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前原外相の原爆二重被爆者嘲笑英BBC放送に対する「強い怒りと不快感」は人気取りのスタンドプレーか

2011-01-26 09:14:45 | Weblog


 
 日本政界の若きホープ、その鼻っ柱の強さは線香花火と最大評価を受けている前原外相が英BBCテレビの原爆二重被爆者を差別的に嘲笑した番組に対して昨1月25日(2011年)の記者会見で激しく批判したと言う。

 《前原外相:「強い怒りと不快感」 英BBCの不適切放送に》毎日jp/2011年1月25日 18時58分)

 〈前原誠司外相は25日の記者会見で、英BBCテレビのお笑いクイズ番組が二重被爆者の故・山口彊さんを「世界一運が悪い男」とジョーク交じりに紹介した問題について「強い怒りと不快感を持った」と述べた。〉

 前原外相「山口さんが広島、長崎で目にした悲惨な光景は想像を絶する。自らの経験を世間に伝え、核のない世界をつくる努力をしてきた。(番組出演者や制作者に対し)原爆の被害がどれだけ悲惨なのか再認識し、核(の被害)を二度と起こさせないよう努力をしてもらいたい」

 BBCから在英日本大使館が1月24日に陳謝の意を表す書簡を受け取った。

 具体的にどんな文言で怒りを表現したのか、外務省のHPを覗いてみた。

 「BBCによる原爆の二重被爆者に係る報道」

 出口共同通信記者「数日前の話で恐縮ですが、英のBBCが広島と長崎で二重被爆された山口彊(つとむ)さんをクイズ番組で冗談まじりに伝えたということがありました。すでに大使館の方を経由して、日本政府としての抗議の意思を伝えられ、謝罪も来ていると承知していますが、大臣ご本人は、この問題についてどのように感じていらっしゃるでしょうか」

 前原外相「大使館を通じて抗議をいたしました。今、林景一大使が帰国をされておりますし、その報告も受けたところでございますし、BBCが謝罪をしているということでございますので、ことさら、事を荒げるつもりはございません。

 ただ、あの報道を耳にしたときには、怒り心頭といいますか、強い怒りと不快感を持ちました。山口彊(つとむ)さんが広島、長崎で目にされた悲惨な光景は、想像を絶するものであったと思いますし、そういった経験をされながら生き残られて、そして、そういった自らの悲惨な経験というものを世間に伝えて核のない世界をつくるためにご努力をされてきた、あるいは、被爆者の方々に対する様々な施策の充実について訴えられてきた方を取り上げて、「世界一運の悪い男」ということで、しかもその番組のコメンテーター皆が笑いながら話していたと。極めて不愉快な思いをいたしましたし、日本の国民の皆さん方も同様の思いを感じておられたのではないかと思っております。

是非、BBCの関係者の皆さん、特にテレビで笑いながらこのことを話しておられた方々においては、原爆の被害というものがどのように悲惨なものなのかということをもう一度認識していただいて、むしろ、これからコメンテーター、あるいは、報道関係者という立場で、核を二度とあのような状況に起こさせないための努力を、お詫びをされるのであれば、していただきたいという思いを強く持っています」――

 BBCテレビのお笑いクイズ番組で日本の二重被爆者を「世界一運が悪い男」と嘲笑の対象とした。その報道を耳にしたとき、前原外相は「怒り心頭といいますか、強い怒りと不快感を持」つと同時にコメンテーター、あるいは、報道関係者という立場から、「核を二度とあのような状況に起こさせないための努力」をして貰いたいという「思いを強く持っ」た。

 いわば抗議の意志に覆われた。

 抗議とは不当だという思いから発する。その不当という思いが怒りや不快感を誘う。

 上記「毎日jp」記事はBBCがいつ放送したのか、在英日本大使館がいつ抗議したのかは書いていいない。《英BBC、二重被爆者「世界一運が悪い」笑いの種に》朝日テレビ/11/01/22 07:45)

 この記事では「毎日jp」記事の「お笑いクイズ番組」が「人気コメディー番組」となっていて、放送日は去年の12月。〈「出張先の広島で被爆し、列車で長崎に戻ったら、そこにまた原爆が落ちた」「世界一運が悪い男」などと取り上げ、スタジオからは大きな笑い声が起き〉た。

 〈番組を見た日本人からの指摘を受けて、ロンドンの日本大使館はBBCに対し、「不適切で無神経だ」と書面で抗議し〉たのに対して、番組のプロデューサーが〈「日本の方々の気分を害し、深く後悔している」と書面で陳謝〉。

 大体の放送日は分かったが、いつ抗議をしたのかまでは書いていない。《BBC、日本大使館に謝罪の書簡 二重被爆者笑った放送》asahi.com/2011年1月25日10時4分)

 放送日は昨年12月17日。今月上旬に在英大使館が在英邦人の指摘を受けてBBCと番組制作会社に書面で抗議。1月24日、BBC側から21日付のトンプソン会長名の陳謝の意を表す書簡在英大使館が受け取った。

 そして次の日の25日に記者会見で早速マスコミ側から質問が飛び出して、前原外相の感想を尋ねた。

 記事は最後に、〈問題が報道された後、インターネットの動画サイトで閲覧者が急増。被爆者を笑う意図ではないと番組を擁護する声がある一方で、批判の書き込みも相次いだ。 〉と書いている。

 いずれにしても12月17日放送。抗議は今月上旬。番組制作会社とBBC連名の謝罪声明(asahi.com)。次いで1月24日在英大使館が21日付トンプソンBBC会長名の謝罪書簡を受け取った。

 なぜ前原外相は報道で知ってからではなく、在英邦人の指摘を受けて在英大使館がBBCに対して抗議した時点で、「これこれこういうことがあった。ただ今厳重に抗議を申し入れているところだ。怒り心頭といいますか、強い怒りと不快感を持った」と国民に明らかにしなかったのだろうか。

 それとも在英大使館から外務省に何ら報告がなかったということなのか。報告はあったが、前原外相にまで連絡しなかったということなのだろうか。結果、前原外相は報道で知ることとなったということなのか。

 前原外相まで報告を通してないということなら、外務省はこう言うかもしれない。

 「すべてのことを報告するわけではない」

 前原外相はこう言うかもしれない。

 「すべての報告を受けるわけではない」

 いずれにしても、菅首相が北朝鮮の韓国の島砲撃を報道で知ったように前原外相も外務省から何ら報告がなく、報道で知ったとしなければ、「強い怒りと不快感」はもっと前に示さなければならないことになって正当性を失い、おかしな具合になる。

 しかし報道はBBC側の謝罪を同時に伝えていうようにまだ謝罪しない段階ではなく、謝罪した段階での情報だから、謝罪によって怒りや不快感はある程度和らげられる状況にあったはずだ。そのことは「BBCが謝罪をしているということでございますので、ことさら、事を荒げるつもりはございません」の発言が証明している。

 いわばBBC側からまだ謝罪がない段階、日本側が抗議を申し込んでいる段階の方が「強い怒りと不快感」はより強く発現されるはずである。

 だが、「事を荒げるつもりはございません」と言いながら、「強い怒りと不快感」を示している。なぜなのだろう。

 昨年12月17日放送の出来事から在英大使館が謝罪を受け取って日本のマスコミが報道するまでに1カ月以上経過していながら、「怒り心頭といいますか、強い怒りと不快感を持つ」ことのできる感情の発露からすると、正義感の相当に強い人物像が浮かんでくる。

 だとしても、前原外相の怒りと不快感には当時の国家権力が国体護持(=天皇制維持)に拘るあまりに無条件降伏を国体護持(=天皇制維持)を保障しないものと見て、それを要求したポツダム宣言受諾をためらい、多くの国民を悲惨な目に遭わせ、今もなお後遺症に苦しめている原爆投下を招いた、その結果でもある二重被爆という側面への視点が抜け落ちている。

 普通の感覚の人間であるなら、BBCテレビの番組がお笑いの対象としたことに不当だとする怒り、あるいは抗議の意志を覚えたなら、そもそもの原因の一端をもたらした当時の国家権力の愚かしさにも激しい怒り、あるいは抗議の意志を感じなければ公平さを欠くはずずだ。特に戦後の国家権力に連なる者として前原外相はその思いを強くしなければならない立場にありながら、「核を二度とあのような状況に起こさせないための努力」をBBC側に求める「思いを強く持っ」たのみで、自らは当事者意識を「強く持」つことはなかったのだから、果して本物の強い怒りと不快感、抗議だったと言えるだろうか。

 前原外相の正義感は戦前の日本の国家権力に向けられることはなかった。 

 BBC側は自らの非を認め、正当性を何ら言えない立場にある。正しいか否かの追及の点でいわば負けを認めた相手であり、批判に対して反論権を失った状態にある。
 
 もし前原外相の「怒り心頭といいますか、強い怒りと不快感」が相手の反論権を失った状況を利用して強く出た抗議の発露であるなら、「BBCが謝罪をしているということでございますので、ことさら、事を荒げるつもりはございません」と言いながらの「強い怒りと不快感」を示したことに整合性を見い出し得る。

 但し決して本物の感情からの抗議とは言えず、国民受けを狙った人気取りのスタンドプレーの疑いが濃厚となる。

 もしそうではないなら、前原外相は反論権を保持している相手に対しても抗議すべきは抗議し、例え反論を招くことがあったとしても、その抗議を貫く態度を維持しなければならないし、維持して初めてBBCに対して示した怒りと不快感が心底からの感情から出た、あるいは本物の抗議の意志から発したものであるとの真正な証明となり得る。

 だが、他の例を見ると現実はそうはなっていない。多くが知っているように、そうなっていない例を簡単に挙げることができるから困る。

 前原外相は国交相だった2009年10月17日に北海道根室市の納沙布岬を訪れて対岸の北方領土の島々を視察、その後根室海上保安部の巡視船に乗り洋上からも国後島を視察した後、記者会見して次のように発言している。

 前原国交相「歴史的に見ても国際法的に見ても(北方領土は)日本固有の領土。終戦間際のどさくさにまぎれて不法占拠されたもの。やはり四島の返還を求めていかなければならない」(毎日jp

 ロシア側が日を置かずに反論。

 ロシア外務省「新政権がロシアとの関係発展に前向きな意向を示し、9月のニューヨークでの日ロ首脳会談が建設的に行われた背景の中、受け入れがたく不適当で法的根拠のない発言が再びなされた。(前原氏の発言が)対決的な気分を残している」(asahi.com

 前原国交相の再反論。

 前原国交相「鳩山外交の姿勢と違うとは全く思っていない。自民党政権時代からの日本政府としての法的な立場を改めて申し上げただけだ。お互いの認識が違うからこそ、領土問題が未解決になっている。四島の帰属を明確にし、日露間で平和条約が結ばれた中でさらなる協力関係が結べる状況になればいい」(毎日jp

 だが、「不法占拠」の言葉はどこにも見当たらないし、二度と口にしなくなった。いわば自身の「不法占拠」認識を二度と表に出さなくなった。2010年11月1日のロシアのメドベージェフ大統領国後島訪問から11日経過した11月12日の外務委員会で新党大地の浅野貴博議員に当時外相となっていた前原に国交相時代に根室を訪問したとき、「『日本国民として、望郷の念を強くした。ロシア側に不法占拠と言い続け、四島返還を求めていかなければならない』と発言したが、その認識に今も変わらないのか」と同じ質問を何度かぶつけられたが、何度答えても直接的には変わらないとも変わったとも一言も触れず、相手の質問を巧妙にかわす変節を見せ、かつての「日本国民として、望郷の念を強くした。ロシア側に不法占拠と言い続け、四島返還を求めていかなければならない」の言葉をどこかに追いやってしまった。

 その22日後の12月4日、前原が海上保安庁の航空機で就任後初の上空からの北方領土視察を行った際も同じであった。

  前原外相「北方領土問題をぜひとも解決したい。政治関係がしっかりしないと領土交渉ができないので、政治を安定させて、ロシアと交渉したい。ねばり強い交渉も必要であると同時に、65年かかって、まだ解決しない問題を、あまりダラダラ長くやっているのもいかがなものかと強く思っている」(NHK

 その権利が正しいか正しくないかは別にして、相手が反論権を持ち、反論した場合、一旦口にした抗議の言葉を貫かずに逆に呑み込んで、二度と口にしなくなる変節を演じる。

 昨年9月に発生した尖閣沖の中国漁船衝突事件に端を発した中国の対日圧力のときも同じことが起こった。前原外相は中国側の対日圧力を「極めてヒステリックだ」(時事ドットコム)と批判。しかし中国側から「毎日のように中国を攻撃する発言があり、外交官が口にすべきではない極端なものすらある。このようなことが繰り返されるのは耐え切れない」(時事ドットコム)と反論を受けると、中国を「ヒステリックだ」とした発言を封じて、「世界第2位、第3位の経済大国がしっかりと協力し合うことは大変重要だ。大局に立って問題点を解決する努力が大事だと申し上げてきたつもりだ」(時事ドットコム)と協調姿勢一辺倒に転じる変節を見せている。

 相手の抗議や反論によって簡単に引っ込めてしまう不当だという思い、その不当性に対する抗議の意思、不当性に対する怒りや不快感が果してそもそもからして本物の感情だと言えるだろうか。

 あるいは相手の抗議や反論によって自らの抗議の意思や怒り、不快感を簡単に引っ込めてしまう人間が果して本物の抗議感情を持ち得るだろうか。

 持つことができたとしても、精々自らを利するための意図的な抗議ぐらいのものだろう。

 もしBBCが反論権を持ち、単なる一公共放送という立場ではなく、国家権力という強い立場にあって前原外相の怒りと不快感に強く反論した場合に前原という人間の変節性を考えたとき、一旦は見せた怒りと不快感を呑み込んでしまう可能性は否定できない。

 だからと言って直ちにその抗議の感情がニセモノだとは断定できないにしても、以上見てきた経緯からして、少なくともBBCが反論権を持たないゆえに維持できている「強い怒りと不快感」だとも言えるし、既に謝罪があったことに対応させた「BBCが謝罪をしているということでございますので、ことさら、事を荒げるつもりはございません」の前以ての発言と整合性を欠いた「強い怒りと不快感」の感情表現から見ても、意図的な臭いをどうしても嗅ぎ取ってしまう。

 それが意図的な「強い怒りと不快感」だということなら、勿論前原外相が意図するところは次の首相にふさわしい政治家として世論調査で1位をつけている関係から、人気取りのスタンドプレー以外にないはずだ。


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菅首相の施政演説冒頭発言を支持率30%前後、不支持率60%前後及び冒頭発言から読み解く

2011-01-25 08:55:53 | Weblog



 菅首相は昨1月24日(20011年)の通常国会施政演説冒頭、「発足から半年、私の内閣は、元気な日本の復活を目指し、『経済』『社会保障』『財政』の一体的強化に全力で取り組んでまいりました。これを推し進めた先に、どのような国をつくっていくのか。そのために国政はどうあるべきか。本日は、改めて、私の考えを国民の皆様、そして国会議員の皆さんに申し上げます」と言い、政権発足からの半年間に菅政治を強力に推進してきたかのように言っているが、果して実質的に取組んできたことになるのか、単に自分がそう思っているだけのことかが問題となる。

 このことを問題とする前に昨年12月12日(2009年)夜の菅首相の後援会忘年会での発言との整合性を見てみる。

 菅首相「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間で、いろいろなことに配慮しなければならず、自分のカラーを出せなかった。これからは本免許を取得し、自分らしさをもっと出し、やりたいことをやっていきたい」(NHK記事

 政権発足後のこの半年間は政権運営に不慣れなために満足な政治ができなかったが、これからは本格スタートを目指していくと言っている。以前ブログにも取り上げたが、この発言には時間が短かったのだから、満足な政治ができなかったのは仕方がないとの自己免罪がある。就職問題や失業問題で生活不安や生活困窮に追いやられている切実な状況下の国民にとっては僅か半年であっても猶予ならない問題であるにも関わらず、そういったことに目を向けることができずに「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間」だったと言う。あるいはそのように言うことができる。

 多分、この「仮免許」発言が各方面がら批判を受けたからだろう、「発足から半年、私の内閣は、元気な日本の復活を目指し、『経済』『社会保障』『財政』の一体的強化に全力で取り組んでまいりました」の、さも各問題に全力で取組んできたかのように修正した冒頭発言となった疑いが濃い。

 そうと解釈しないと、「仮免許」発言と整合性を取ることができない。「仮免許」発言から40日程度しか経過していないのである。40日前は「仮免許」だったからたいしたことはできなかった、40日後には全力で取り組んできたでは矛盾そのものである。

 では、「発足から半年」の短い期間が各課題に取り組むに不十分な時間とすることができるかどうかの正当性を、以前ブログに取り上げたが、今回は内閣支持率の面から探ってみる。

 民主党政権は1年4カ月を経過している。鳩山政権を受け継いで合計1年4カ月である。例え鳩山政権と菅政権では政策に違いはあっても、菅首相は野党時代、政権を取った場合に備えてどんな政治を行うべきか、自身の頭に描き、仲間と共に行動もし、政策実行の準備をしてきたはずである。

 その準備期間中のどんな政治を行うべきか蓄積した情報・経験の中には、日本の経済はどうあるべきか、社会保障はどうあるべきか、財政はどうあるべきかは当然含まれていたはずで、あとは実行あるのみの状況にあったはずである。

 でなければ、野党時代何をしていたのかということになる。いつでも登板オーケーのリリーフピッチャーのように肩を慣らしておかなければならなかった。

 また政権運営の点では鳩山政権下では副総理として共に民主党政治を推し進めてきた関係から、政権運営とはどんなものか、多少なりとは学んでいたはずであるし、野党時代、実際の内閣を模して「次の内閣」(=影の内閣)を形成してきた。あとは応用能力の問題となる。

 当然政権を担った以上、その時点でそれぞれの政策チームをつくって自らが思い描いてきた政治を実行していく段階に進まなければならない。「発足から半年」だからと言って、その日数の短さのみを理由に見るべき成果を挙げるところまで進めることはできなかったで済ますことはできない。長い準備期間を経歴としているのだから、例え実質的な政権担当の日数が短くても、
野党時代と副総理時代に思い描いたかくあるべしを土台とした政治の実践に対して少なくとも国民に期待や希望を抱かせる成果を予感させる政治運営でなければならなかったはずだ。

 だが、内閣支持率で見る限り、国民に期待も希望も与えるまでに至っていない。「『経済』『社会保障』『財政』の一体的強化に全力で取り組んでまいりました」と本人がいくら言っても、例えその取り組みを半年の期間のことだとしても、何がしかの共鳴を与えるところまではいっていないということだろう。

 菅首相がオハコとするキャッチフレーズに「20年間の閉塞状況」あるいは「20年間の危機的状況」という言葉がある。「20年間近く続いている日本の閉塞状況を打破し、元気な日本を復活させなければならない」(2011年1月20日の外交演説)とか、「国民の皆さまの閉塞状況を打ち破って欲しいという期待に応えるのが、新内閣の任務です」(2010年6月11日の第174回国会所信表明演説)、「今の日本の置かれた大変危機的な状況、20年間続く経済の低迷、財政の悪化、不安な社会保障、そして進まない地域主権、また外交の問題でも多くの問題を抱えております」(2011年1月14日記者会見)といった具合に。そしてその原因をここ20年の「政治のリーダーシップのなさ」に置いている。

 いわばこの20年間の日本が政治のリーダーシップを欠いていたために如何に危機的状況に陥ったか、閉塞状況に見舞われたかを常々訴えてきた。そうである以上、自身の強力な政治のリーダーシップを以ってして危機的状況打破のために、あるいは閉塞状況打破のために自身の政治を強力に、ときには強引に進めていかなければならないはずであるし、そうすることを自らの使命及び責任としなければならなかったはずだ。

 この点からも政権発足から「半年」などと言ってはいられない立場にあり、何ら意味のない言葉としなければならない。野党時代の長い準備期間と鳩山政権下の副総理時代に蓄積したあらゆる情報、あらゆる経験をフル稼働させて、政権発足早々から猛ダッシュして緊急解決を要する政治課題に取組んでいかなければならなかった。

 そしてその取り組みの過程で、それが半年の期間であるためにさしたる成果を上げることができなかったとしても、国民に何らかの期待、希望を与える強力な政治の推進でなければならなかった。日本の再建を予感させる力強い政治の展開でなければならなかった。

 そのようにできたとき、国民が菅内閣に抱くことになった期待、希望が刻々と世論調査の内閣支持率に跳ね返り、反映されていくことになる。

 だが、各マスコミの世論調査の内閣支持率30%前後、不支持率60%前後を見ると、菅政治はそういった経緯を取っていない。

 ということは、施政演説冒頭の「発足から半年、私の内閣は、元気な日本の復活を目指し、『経済』『社会保障』『財政』の一体的強化に全力で取り組んでまいりました」の発言は昨年12月の「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間で、いろいろなことに配慮しなければならず、自分のカラーを出せなかった」の発言と実体は同じであって、実質的には何ら変わらない菅首相の政治だったということになる。

 いわば内閣を運営している以上、各政策に取り組んではきただろうが、実際には取り組んできたとは言えない、自分でそう思っているに過ぎない取り組みでしかなかったことになる。

 あらゆる情報やあらゆる経験を蓄積させてきたはずの野党時代の長い準備期間と副総理時代のいわゆる見習い期間とプラス政権発足から半年も経ていながら、それらを役立たせることができずに「仮免許」同然の内閣運営、政策の取り組みしかできなかった。何らリーダーシップを発揮することができなかった。

 そのような取り組み、リーダーシップ欠如からは当然のこととして国民に期待や希望を抱かせる成果さえ予感させなかったとしても不思議はない。当然の帰結とさえ言うことができる。

 だからこその内閣支持率30%前後、不支持率60%前後の菅内閣取り組みに対する評価、リーダーシップ如何に対する判断なのだろうが、実質的に取り組んだことにはならない、国民に期待や希望を抱かせる成果さえ予感させない、リーダーシップに期待できないということなら、冒頭発言以降、どう美しい言葉を尽くしたとしても、どう力強く訴えたとしても、実際のところは言葉に尤もらしく強弱の抑揚をつけて原稿を読み上げたに過ぎなかったが、結果は同じだということになる。

 「平成の開国」だ、「最小不幸社会の実現」だ、「不条理をただす政治」だと何度スローガンを掲げようが、「農林漁業の再生」だ、「開国を成長と雇用につなげる新成長戦略の実践」だ、「社会保障の充実」だ、「社会保障と税制の一体改革」だ、「熟議の国会を実現」だと言おうともである。

 さらに、「この国会では、来年度予算と関連法案を成立させ、早期のデフレ脱却により、国民の皆様に安心と活気を届けなければなりません」からと建設的な議論を求めているが、内閣支持率30%前後、不支持率60%前後からすると、60%前後の国民が菅内閣に対してノーの意思表示を示しているのである。このノーの意思表示の中には菅内閣政治運営の骨子となる来年度予算案も含まれているはずである。国民生活に直結するとしても、役に立つ形で直結するわけではないと看做しているということになる。

 いわば頭から“国民”を人質に建設的な議論を求める程の予算案ではないと国民の多くは見ていると言うこともできる。にも関わらず、菅首相は今まで言ってきたことと殆んど変わらない主張を施政演説の言葉とし、「熟議」だ、「建設的議論」だと言い立てていた。そのことにも虚しさを感じた、何ら期待を抱かせることはない一幕であった。


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国民のためではなく、菅内閣延命を唯一絶対の目的とした通常国会乗り切りの動き

2011-01-24 07:23:31 | Weblog



 今日1月24日から始まる通常国会を政治の世界にはあってはならないドタバタ喜劇に陥れそうな予感を持たせる動きが菅改造内閣以後特に執行部の間にいくつか散見されるようになった。すべては菅首相の指導力ゼロ、無能無策に始まり、菅内閣延命を唯一絶対の目的として通常国会乗り切りを策していることから起きているはずだ。

 菅首相始め、執行部が言っているように決して国民のためが目的ではない。特に予算案は国民生活に密着するから与野党協力して国会を通すべきだと言っているが、実際は菅内閣延命だけを考えた程度の低いお願いの類いの主張に過ぎない。

 その動きが今日1月24日の通常国会開催前日の1月23日日曜日NHK「日曜討論」の民主党陣営の出席者安住国会対策委員長の発言に如実に現れていた。《民主 予算案修正応じる用意も》(NHK/2011年1月23日 12時0分) から見てみる。

 安住民主党国会対策委員長「野党に賛同してもらわなければ、法案は1本も通らず、折り合いをつけていくことが新しい国会のあり方だ。どの程度修正するかは、予算委員会などでしっかり話し合えばいい。子ども手当法案は、6月に一括支給するとすれば、4月までにある程度形をつけなければならず、審議を急がなければならない。修正するのであれば、平成23年度予算案と並行する形で話し合う土俵を作ってもらえれば、大変ありがたい」

 「折り合いをつけていくことが新しい国会のあり方だ」と尤もらしく聞こえることを言っているが、「修正するのであれば」と、国会審議入り前の与党案修正前提の与野党折り合いが「新しい国会のあり方だ」としていることにどんな意味があるのか、本人が気づいていないことは恐ろしい。

 修正前提で与党案を提示するとはどのような意思を以ってして可能とすることができるのだろうか。

 もし最善の案だとしているなら、修正を前提とすることはできない。

 他党と比較してより優れた政策だとマニフェストに掲げ、様々な発言の機会を捉えてその優越性を国民各層に訴えて自らの存在意義を誇示したのは優秀な政策づくりの能力があることの訴えでもあり、そのことをも含めて国民の承認を得て政権を担当することになった。

 にも関わらず、肝心のマニフェストの目玉とした子ども手当法案を修正します、国民生活に直結すると自ら散々に言っている、優秀な政策づくりの能力に基づいて作成したはずの予算案を修正しますでは何のために優れた政策だとマニフェストに掲げたのか、あるいは国民生活向上を目的に予算案を作成したのか、さらに政策の優越性を訴える過程で優秀な政策作りの能力があると何のために間接的に訴えたのか、最終的に国民の承認を得て政権担当与党に何のためになったのか、全ての意味を失うことになる。

 修正前提で与党案を提示すること自体が既に矛盾そのものなのである。どのような感覚なのか、その矛盾に何ら気づいていない。
 
 この安住の与党案修正前提論はたちまち野党ばかりか、連立を組む与党の国民新党からも否定される

 下地幹郎国民新党国会対策委員長「自公政権のときと違う個性ある予算を作ったので、しっかり通したいが、そのためには民主党がまとまらねばならない。修正を言い出すのは早すぎで、今は自分を信じてボールをまっすぐ野党に投げなくてはならない」

 「自公政権のときと違う個性ある予算を作った」は政策の点でも政策作りの能力の点でも優越性ある立場を取らなければならない与党としては当然の発言である。双方の点で野党よりも劣ると国民が判断したときは政権担当の座から降ろされることになる。

 「修正を言い出すのは早すぎで、今は自分を信じてボールをまっすぐ野党に投げなくてはならない」

 自らを優秀だとし、国民にその優秀さの承認を受けた政権担当与党としての矜持を示すべきだと与党の一員としてまっとうなことを言っている。

 引き比べて与党の主体を築く民主党の主要な一員である安住の矜持のなさは測り知れない。

 逢沢自民党国会対策委員長「財政が厳しいときにばらまきを強化しようとしている。予算関連法案は、予算案と一体だから論理的には賛成できない。予算案の修正の話し合いを拒絶するつもりはないが、政権与党が国会が始まる前に修正に言及することは、絶対の自信作でないことを明らかにしている。通常国会で政権与党を必ず解散・総選挙に追い込みたい」

 「政権与党が国会が始まる前に修正に言及することは、絶対の自信作でないことを明らかにしている」

 政権与党として意味を失っているとの言及であるが、修正意思は「絶対の自信作でない」からではなく、ねじれ状況の参院を通過させるための妥協が目的で、それを国会で審議する前から持ち出すから、予算案やその他の政策の優越性を疑わせることになる。結果的に政権与党が修正を目的に政権与党として最善の政策をつくった、そのために最善の知恵を絞ったということになり、滑稽な倒錯以外の何ものでもなくなる。絞った知恵自体の価値まで失わせる。

 漆原公明党国会対策委員長「2年続けて国債の発行が税収より多い予算案で、子ども手当や農家への戸別所得補償などは金額を増やしている。財政規律をどう思っているのか、景気回復ができるのか、厳しく追及したい。予算案に反対である以上、予算を執行する関連法案にも慎重にならざるをえない」

 山内みんなの党国会対策委員長「民主党は、マニフェストで示した政策のうち、歳出を増やす方は頑張っているが、減らす方はやっていない。予算案は、思い切った修正をするなら検討の余地はあるが、微修正なら賛成できない」

 穀田共産党国会対策委員長「学生の就職内定率も過去最低で、中小企業には仕事がない。政府は、大企業を法人税減税で助ける一方で、消費税増税を庶民に押しつけようとしている。国会の中で対じしていきたい」

 照屋社民党国会対策委員長「法人税は5%減税、個人所得への課税は増える、さらに計上するなといったアメリカ軍普天間基地の移設関連予算は計上した。徹底的な審議と修正協議を経たうえで対応を決めていく」

 以上4氏は政権与党が予算案、その他を修正前提とする矛盾に何ら触れていない。

 片山たちあがれ日本参議院幹事長「財源の多くを赤字国債と埋蔵金で賄っており、財政規律の観点からいうと今年度より後退した予算案だ。審議が始まっていない段階から修正協議に応じろと言うのもおかしい」

 やはり自民党に長く在籍していたベテランだけあって、「審議が始まっていない段階から修正協議に応じろと言うのもおかしい」とその姿勢の矛盾を突いている。

 本来なら国会審議・議論を通じて与野党共に自らの政策の優越性を訴える手の内をさらけ出し、その上で特に政権与党は政権担当の責任を担う立場から、相手をして自らの政策に引き込む努力を果たした上で、与野党共によりよい政策に仕上げる意思の元、お互いが認め得る修正を図るべきだが、そのようなあるべき手続きを取らずに与党案の修正を先ず最初に持ち出す。

 このことはある意味政権担当の立場を捨てたことになる。

 菅首相に内閣低支持率、指導力なしの批判等と合わせて、政権延命のカギとなる予算案の行方への懸念から、予算案やその他の法案の衆参通過の確約が早く欲しい焦りがあるのかもしれないが、そもそもはねじれ国会乗り切り対策として1998年の参議院の与野党ねじれ状況下で民主党その他の野党の金融再生法を与党自民党に丸呑みさせた例を挙げたことが出発点となっている修正意思なのだろう。

 菅首相は参院選与党民主党敗北による参議院与野党ねじれを熟議の国会を導き出す「天の配剤」とまで言い切った。だが、熟議に持っていく前に修正を言い出す矛盾を最初から犯しているが、そのことへの言及がないのも、菅内閣の延命だけしか頭にないからだろう。延命のみに目を向けていることによって視野を狭くしているから、審議前に修正を申し出るといったことも含めて自身の矛盾に気づくところまでいかない。

 大体が1998年の金融再生法野党案与党丸呑みは民主党が野党の立場として行ったことで、愚かにも与野党立場を変えていることにまで考えに入れないねじれ国会乗り切り策でしかなかった。野党案与党丸呑みをねじれ国会乗り切りの手段とするなら、与党が野党案丸呑みの力関係・メカニズムは変わらないのだから、その丸呑みをねじれ国会乗り切り策とすることによって与野党立場を変えた状況下では菅内閣は野党案を丸呑みする立場に自らを置いたことになるである。

 いわば丸呑みしますよと確約したも同然のねじれ国会乗り切り策の提示だった。丸呑み意志を持ったということである。

 要するに菅首相は政権与党として野党に対して優越性を属性とすべきを、その優越性を放棄することによって政権与党自体の意味を自ら失わせた。「熟議」の機会を提供するとした参院選敗北であり、「天の配剤」だとまで言っておきながら、上記安住の言葉で言うと、「新しい国会のあり方」となるが、実際は丸呑みの力学を内なる姿勢としていた。政権与党を担うことによって自身がその立場に立たされることを考えることもできずに。

 もし考えることができたなら、ねじれ状況下でただでさえ野党が力を得ている関係にあって野党案与党丸呑みの情報を提供することはなかったろう。例え野党の方から気づくことがあってもである。菅首相はとてもとてもアキレスと比較できない小物ではあるが、アキレスが自分の弱点はここですよと世間に教えるようなことをした。

 だが、いきなり丸呑みまでいったなら、既に政権与党としての主体性を失っているものの、それを国民に露骨にさらけ出すことになるから、修正という形式を持ち出したのだろう。修正でうまくいかなければ、菅内閣延命のために丸呑みまでいくに違いない。例え丸呑みまでいって、自らは望みも予想もしていなかったろうが、ねじれ国会乗り切り策として持ち出した最終地点の丸呑みに到達、発言との整合性を獲得できることになる。

 滑稽と言えば滑稽なことだが。

 結局のところ、「熟議」も「天の配剤」も体裁のいい奇麗事でしかなかった。菅内閣に残されているものは菅内閣の1日も長い延命でしかない。もしかしたら、鳩山内閣よりも1日でも長く維持することが目的となっていることさえ予想させる与党としての主体性を失った数々の動きとなっている。

 内閣延命のみを図る与党としての主体性の喪失、矜持の喪失は断るまでもなく国民の意思からの離脱を示している。

 国会審議前の予算案、その他の修正意志がこのことのすべてを証明している。

 野党が通常国会で追及するとしている予算案と与謝野起用に対する国会攻防が見ものである。


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与謝野の「自民票を掘り起こし、自民党にも貢献していた」の比例区当選正当性の情報操作を切る

2011-01-23 09:56:55 | Weblog

  
 菅改造内閣に「どっこいしょ たちあがれ日本」を離党、経済財政担当大臣として入閣した与謝野馨に対して元々の古巣の自民党ばかりか他の野党からもその正当性に疑義を唱える批判が起きている。

 2009年8月の衆院選で小選挙区東京1区で民主党候補の海江田万里に敗れ、比例区で復活当選は有権者が与謝野馨と個人名を書いた当選ではなく、自民党と党名を書いた票の中からの順位による当選なのだから、当選して獲得した議席そのものは与謝野個人の力によるものではなく、自民党の力によるものある。そうでありながら、昨2010年4月に自民党を離党して立ち上げた新党の議員として議席を維持するのは矛盾していると、自民党は与謝野の議席の正当性を批判し、与謝野自身からの離党届を受理せず、除名処分に付している。

 いわば今回が同じ理由で二度目の批判となる。

 どのように批判を受けたか見てみる。《自民各派 首相の政治姿勢批判》(NHK/2011年1月20日 16時33分)

 山本有二自民党・元金融担当大臣「有権者が自民党に票を投じた比例代表で議席を得たにもかかわらず、民主党に行ったのは脱法行為であり、即刻、議員辞職すべきで、国会で徹底的に追及する必要がある」

 《与謝野氏の「問責出したい」=自民・山本氏―公明・高木氏は議員辞職要求》(時事ドットコム/2011年1月15日(土)12:03)

 1月15日朝のTBS番組――

 山本一太自民党参院政審会長「厳しく追及していく。個人的に言うと(24日召集の通常国会の)最初から問責(決議案)を出したい大臣だ。前回の衆院選では自民党の公認で小選挙区で負け、比例で復活当選している方だ」

 高木陽介公明党幹事長代理「与謝野氏は自民党で当選した。その反対側に行くのであれば議員を辞職し、一民間人として(内閣に)入るほうが筋論としては通る」

 《“与謝野氏では協議は困難”》(NHK/2011年1月15日 21時32分)

 石原伸晃自民党幹事長「「自民党の比例代表の議席を盗んでいった与謝野氏を経済財政担当大臣に登用したり、若い人を抜てきすると思ったら70歳や80歳に近いベテランを登用したり、『人手不足』という印象だ。(社会保障と消費税を含む税制改革を巡る与野党協議について)物事を決めるのは信頼関係が大切だ。それをみずから放棄した人(与謝野馨)が先頭に立って物事を決めようと言っても誰もついていかない」

 《仙谷氏 起用批判で野党けん制》(NHK/2011年1月15日 22時35分)

 谷垣自民党総裁「自民党の比例代表で当選した方であり、内閣に入るならば議員辞職し、いち民間人として入るべきだ」

 いずれの批判も与謝野の国会議員としての議席に正当性はないと言っている。

 上記記事題名が伝えている与謝野起用批判に対する仙谷の逆批判――

 仙谷「自民党などを刺激しているようだが、与謝野氏が今まで言ってきたことと、内閣に入るということがどうなのかという整合性の議論はある。しかし、国会で、野党がその問題に終始して、政策議論が行われないとなれば、国民にとって不幸だ」

 「整合性の議論はある」と言うなら、その整合性は問わなければならない。大事なことである。正当性の整合性を無視して政策議論に入った場合、政策議論そのものの正当性を失う。ニセ医者の資格を問わずに治療を優先させるのと同じだろう。

 勿論、他に医者はいない、命に関わる緊急の治療を要するといった特別の例外は除くが、そういったケースは滅多にない。

 「国民にとって不幸だ」と言っていることに対して、Twitterに投稿した。

 〈仙谷22日徳島市で「なかなか熟議の国会がつくれる環境にない。(野党は)とにかくこき下ろして内閣をつぶせばいいということで、国民にとっては大変不幸なことだ」(asahi.com)。内閣支持率30%そこそこ、不支持率が支持率の倍前後あるのだから、国民を人質に熟議を持ち出す資格もなし。 〉
 
 いわば菅内閣自体が国民にとっての不幸の対象となりつつある。

 こういった野党の批判に対して与謝野氏は勿論反論している。枝野と優劣つけ難い詭弁家である。反論がないはずはない。但し、自民党を離党して新党を立ち上げたときも同じ反論を使っている。《税制改革より行政改革が先との考え、逃げの議論=経済財政担当相》(ロイター/2011年 01月 19日 03:47)

 先ず記事題名にある与謝野の発言を伝えてみる。

 与謝野「まず無駄を省き、経済成長してそれから消費税だと、そんなことをしていたら永久にこの仕事は始まらないし終わらない。3つのことを同時並行にやらないといけない。無駄の削除とか行政改革は、大化の改新の頃からやっている、これからも続けないといけない問題。それをやって、次に経済成長をやって、次に税制というのは、ある種の逃げの議論だ」

 誰も「経済成長してそれから」とは言っていないはずだ。一定以上の景気を回復してからと言っている。景気が暫く続くのではないかと国民に希望を与えたところで消費税増税なら、さして景気の腰を折らないだろうとの予定調和を置いているはずだ。

 たちあがれを離党、菅内閣入閣、民主会派入りの正当性について――

 与謝野「私自身がその当時、自民党の票を掘り起こしていた。自民党にも貢献していた。仕組みとして議員を辞めなければならないのであれば喜んで辞めるが、今の選挙制度はそうなっていない」
 
 確かに辞職に関しては「今の選挙制度はそうなっていない」

 このことは昨2010年4月10日の当ブログ《新党関連の石原慎太郎「戦争を体験した人間」云々の戯言と与謝野辞任要求に対する対応は?》「Wikipedia」を参考に書いた。

 〈所属政党の移籍の制限

 日本では2000年以降の国政選挙から、比例当選議員は所属政党が存在している場合において、当選時に当該比例区に存在した他の名簿届出政党に移籍する場合は議員辞職となることになった(公職選挙法第99条の2)。

 ただし無所属になることや、当選時に当該比例区に存在しなかった新政党への移籍は議員辞職の必要はない(当選時に存在した政党であっても、自分が比例選出された選挙で該当比例区に候補者擁立しなかった政党には辞職せず移籍可能。具体的な例として、2009年衆議院総選挙でみんなの党は衆議院比例区では北海道・東北・北陸信越・中国・四国で擁立しなかったので、北海道・東北・北陸信越・中国・四国の比例当選衆議院議員は議員辞職することなく、みんなの党への入党が可能である。)〉――

 だが、「自民党の票を掘り起こしていた。自民党にも貢献していた」と言う点については異議がある。1972年自民党から初立候補して落選したものの、1976年に同じ自民党から再立候補して当選以来、途中選挙区・比例区双方の落選もあるが、比例区の当選を含めて2009年8月の総選挙まで合計10回の当選を自民党公認で果たしている。

 このことは与謝野馨という個人の力だけではなく、自民党の力の有効性、その名前・看板の有効性の恩恵をも受けた当選でもあろう。

 その証拠が2009年総選挙出の選挙区落選である。もし与謝野個人に自民党の名前・看板の力の喪失を超える力を有していたなら、当然当選していたはずだ。だが、当時は民主党の名前・看板の力が、あるいはその有効性が自民党のそれらを上回り、その力・有効性が全国的に吹き荒れていた。2005年の総選挙では選挙区・比例区共に落選し、政治的にはただの人の不遇を囲っていた民主党の海江田万里が2009年総選挙の選挙区で復活当選できたのも海江田の個人的な力だけではなく、全国的に吹き荒れた民主党の名前・看板の有効性の恩恵でもあったはずである。

 また民主党から立候補し当選した新人議員の多くが民主党の名前・看板の力の有効性の恩恵を受けた。

 与謝野が言うように「自民党の票を掘り起こしていた。自民党にも貢献していた」は、少なくとも2009年8月時点では正当性を欠く、逆に正当だとする詭弁そのものの情報操作に過ぎない。与謝野の個人的な名前・看板は、即ち与謝野個人の力は自民党の名前・看板の力の喪失に押しひしがれ、差引きマイナスの状況にあったのであり、だからこそ選挙区で落選の憂き目に遭うこととなった。

 だが、比例区復活当選で議席を確保することができた。あくまでも自民党に残されていた名前・看板の有効性、その力の恩恵が与謝野個人に対して辛うじて有効に働いた比例区復活当選であり、既に触れたように自民党と党名を書いた票の中からの順位によって当選できた自民党としての議席である。

 確かに選挙制度から見た場合は議員としての身分を維持できるが、議席獲得の経緯に関しては与謝野個人の力の関与よりも自民党の力の関与が上回った議席獲得であり、その点で自民党を離れて新党に身を置くことも、無所属に移ったとは言え、民主会派入りして菅内閣に入閣、そこに席を置くことの正当性はあるとは言えないはずだ。

 また、多くが指摘しているように人間性から言っても、議員の身分でいることの正当性は疑わしくなる。既に多くのブログで取り上げていると思うが、人間性を疑うことができる例として記すが、昨年の参院選では反民主を掲げて戦っていながらの菅内閣入閣の矛盾を問われて、与謝野は次のように答えていると《菅首相アップアップ改造、与謝野氏が入閣へ(スポーツ報知/2011年1月14日06時03分)が伝えている。

 与謝野「私は『打倒・民主』という言葉を使った覚えはない」

 だが、「The Wall Street Journal」記事が「時事通信社」記事の配信の形で取り上げている、〈朝日新聞とのインタビューで「打倒、民主党」を叫んでいる。このインタビューは、同氏の公式ウェブサイトにも掲載されている。〉の文章に導かれて与謝野のWEBサイト『心優しき政治』(人格は決して心優しくなく、なかなかにしたたか、狡猾である)を覗いてみた。朝日新聞社からうけたインタビューらしかった。

 「なぜいま新党ですか」(朝日新聞:2010年4月7日 掲載) 

 記者「参院選後の展望は」

 与謝野「いずれにせよ民主党は衆議院で300議席以上をもっている。まずは良識ある批判勢力を参議院に構築するのが第一の目標です。野党の立場で。 もちろん野党。打倒、民主党です

 見事なウソつき名人だが、単にウソをついたで終わらない。やはり「私自身がその当時、自民党の票を掘り起こしていた。自民党にも貢献していた」と同列の自身を正しい人間だと見せかける一種の情報操作そのものである。

 この手の情報操作を菅首相にしても得意としている。たくさんある中で一つの例を挙げるとしたら、何度でも挙げているが、「これまでは仮免許だった」であろう。自身の失政を誤魔化し、自分は間違っていない、正しいとする情報操作である。

 菅首相の情報発信の多くは情報操作だと見て先ず間違いはない。

 昨2010年4月11日記事――《与謝野馨の「民主党には政治に対する哲学や思想がない」は一種の情報操作》で取り上げた与謝野の発言、「民主党には政治に対する哲学や思想がない」も情報操作以外の何ものでもない発言である。

 この記事でこう書いた。〈「民主党には政治に対する哲学や思想がない」と言うからには、己にはどのような優れた哲学や思想があると先ず明らかにしてから、それを以て民主党には欠いている哲学や思想だと指摘すべきではないだろうか。

 いわば自分にはあって、民主党にはないものだと、その哲学・思想がどのようなものかの内容と民主党にはないとする根拠を明示すべきであって、明示せずにただ単に「民主党には政治に対する哲学や思想がない」と批判するのは民主党を一方的に悪者にする一種の情報操作に当たる。〉――

 「人生90年を前提にすると定年延長を考えないといけない。年金支給年齢の引き上げも考えなければいけない」(毎日jp)の発言も、国民の生活よりも歳出を抑え、消費税増税で歳入を増やそうとする、単に財政再建化の視点でのみ見た自己の政治だけを推し進めるための情報操作であろう。

今後とも続けに違いない、与謝野のウソと詭弁に満ちた情報操作には気をつけなければならない。


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菅首相の口程でもなかった官僚を使いこなす能力とその「政治主導」の程度

2011-01-22 09:39:36 | Weblog



 民主党が政治主導を掲げて事務次官会議の廃止等を構造とした政権運営をここに来て菅首相が反省、軌道修正を図る動きに出たらしい。軌道修正とは官僚との連携を深めることだそうだ。

 このことは二つの方面から考えなければならない。事務次官会議の廃止といった内閣運営の組織の構成方法に間違いがあったのか、それとも菅内閣の官僚の使いこなしに問題があったのかである。

 後者なら、組織をどういじろうと、満足な政治主導は確立不可能となる。

 既にご承知のことと思うが、「Wikipedia」の解説を借りると、廃止した事務次官会議とは事務担当の内閣官房副長官が取り仕切って原則すべての府省の事務次官が出席し、首相官邸で開かれていた会議で、各府省の事務次官のほか内閣法制次長、警察庁長官・金融庁長官及び消費者庁長官も廃止時の正規メンバーだったという。

 事務次官会議を廃止して、いわば官僚を原則排除して各省庁の大臣・副大臣・政務官の政治家が政務三役会議でそれぞれの省庁の意思決定を行う組織変更を行った。これがうまくいかなかった。

 各省庁の大臣・副大臣・政務官がそれぞれの政務三役会議でそれぞれの省庁の意志決定を行うにしても、自分たちが勉強し、あるいは収集した情報のみでは政策決定は不可能で、あるいは不十分で、各省庁の官僚が抱える膨大且つ精緻な(かどうかは分からないが)情報の活用が必要となるはずである。官僚が調査、あるいは収集した情報のバックアップがあってこそ、よりよい政策の構築、あるいはよりよい政治主導が発揮可能となる。

 だとしたら、政務三役会議に官僚を交えなくても、その会議以前に必要とする官僚の情報を事務次官に命じて彼のところに集めさせ、その情報を以って大臣、副大臣、政務官のそれぞれ段階で政策構築の活用材としてもいいわけである。

 その上で三人が雁首を揃えた政務三役会議でそれぞれが自分のものとした情報を提示・比較し合う議論を交わして一つの政策に発展・完成させていくプロセスを取る。

 このように見ると、政治主導の組織構成、あるいは態勢に齟齬があったのではなく、官僚を使いこなせなかったために彼らが抱える情報にしても使いこなせなかった、活用できなかった、いわば官僚に対する指示命令能力を欠いていた政治家側の能力の問題に帰結させなければならない政治主導の機能不全ということにならないだろうか。

 この見方が間違っていないとしたら、政治主導の軌道修正としての官僚との連携は政治家側の官僚に対する指示命令能力の欠陥を補う形を必然的に取ることになるだろうから、その必然性は逆に官僚側が政治家側に指示命令する主客逆転現象へと向かせることになるはずである。いわば官僚主導への回帰、政治主導の破綻、あるいは機能不全である。

 このことは12月29日の当ブログ記事《菅内閣の政務三役会議への次官陪席は情報処理能力無能の証明 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で一部触れている。

 この結論はあくまでも、「この見方が間違っていないとしたら」の仮定の上に立っている。実際に間違っていないかどうか、《菅首相“行き過ぎや問題も”》(NHK/2011年1月21日 12時12分)、その他の記事から菅首相が描いていた政治主導とその軌道修正を見てみる。

 1月21日午前、各省事務次官らを首相官邸に集めて訓示。

 菅首相「1年半前に政権交代が行われ、民主党政権では事務次官会議を廃止し、政務三役会議を設けて各省庁の決定を政務三役が中心に行う態勢にした。そのことは本来あるべき内閣の姿に近づいたと思うが、同時に現実の政権運営の中で、いろいろな反省なり、行き過ぎなり、不十分なり、問題があったことも事実だ」

 菅首相「もう一度、そういうプラスとマイナスを、政治家は政治家として、事務次官は事務次官としての立場から振り返り、積極的な協力関係を作ってもらいたい。それぞれの省庁で、大臣・副大臣と遠慮なく話をしてほしい」

 政治主導と称して事務次官会議を廃止し、政務三役会議を新たに設けたことが政治家と官僚の協力関係を退潮させたと言い、その反省を示しているが、「積極的な協力関係」がなかったという構造から見えてくる政治主導とは、官僚側の意思・判断に頼らずにそれを排除して、政治家側の意思・判断のみで物事を決定するシステムとなっていたことになる。

 このこと自体が既に間違いを犯している。例え事務次官会議を廃止したとしても、何らかの機会・場を設けて官僚側の意思・判断をも交えて議論を尽くし、最終結論の意思決定、判断決定を政治家側が行い、その責任を負って初めて生きた政治主導と言えるからである。

 いずれにしても政治主導とは、このことに反して政治家側が官僚と議論を交わすことも戦わすこともなく、意志決定も判断決定も官僚に任せ、その責任さえ官僚に負わせてきた官僚主導の反省に立って導き出した結論であろうから、その逆説を行けばよかったはずである。

 当然、政治主導を掲げる以上、そういった組織、態勢に持っていかなければならなかったが、それができていなかったということは、既に触れたようにあくまでも政治家側の組織作り、態勢作り、あるいは官僚に対する指示命令といった能力に帰することになる。

 こういったことは誰でもが理解できていることだと思うが、菅首相にはそれが理解できていなかったということなのだろうか。だから、官僚は大バカだと言えたのだろうか。この「大バカ」発言自体が官僚主導の悪しき面にしか視線を向けることができなかった、いわば単細胞、合理的判断能力を欠いた評価でしかないが、ここに既に政治主導の本質的なあるべき姿を想定できていない指導性を窺うことができる。

 菅首相はその無能と同時に過去の発言を変えることでも有名人となっているが、官僚に協力を求める発言そのものが「大バカ」発言を180度変えるもので、言行不一致を非難されても仕方があるまい。

 政治主導の本質的なあるべき姿を想定できていなかったからこそ、官僚を「大バカ」に貶めることができ、貶めておきながら、この場に及んで官僚に協力を求めることとなったということなのだろう。

 「大バカ」発言は当時副総理であった2009年10月31日の民主党都連会合の講演で、官僚から説明を受けた「2兆円を使ったら目一杯で2兆円の経済効果だ」(時事ドットコム)の発言を批判する中で飛び出したらしい。

 菅副総理「知恵、頭を使ってない。霞が関なんて成績が良かっただけで大バカだ」(同時事ドットコム

 「知恵を使ってないんですよ。頭を使ってないんですよ。“霞が関”なんて大馬鹿ですからね。成績が良かっただけで大馬鹿ですよ」(TBS

 確かに2兆円使って2兆円の経済効果なら、プラスマイナスゼロで、2兆円以下の経済効果でマイナスになるよりはましだが、投資の意味を見い出すことができない。だが一人の一つの意見を以って官僚全体を「大バカ」は行過ぎていると思うが、それとも官僚の全般的な言動を通してそのような印象を受けていたところへ「2兆円を使ったら目一杯で2兆円の経済効果だ」の説明を受けて怒り心頭に達し、「大バカ」発言となったのだろうか。

 いずれであったとしても、菅直人なる政治家は官僚全体を「大バカ」に価値づけた。逆説すると、自身を「大偉い」、もしくは「何様」に持ち上げたことを意味する。

 だが、首相就任の翌2010年6月8日、官僚活用論を堂々と述べている。《菅首相会見:その4「官僚の力も使って政策を進めていく」》(毎日jp/2010年6月8日)

 菅首相「この間(政権交代を経て鳩山前首相就任の間)、政と官でいろいろ言われました。けっして官僚のみなさんを排除して、政治家だけで物を考え決めればというものではない。官僚のみなさんこそが、政策やいろいろな課題に長年取り組んできたプロフェッショナルであり、そのみなさんのプロフェッショナルとしての知識や経験をどこまで活かして、その力を十分に活かしながら、一方で、国民に選ばれた国会議員、その国会議員によって選ばれた総理大臣が内閣をつくる。国民の立場をすべてに優先する中で、そうした官僚の力も使って政策を進めていく。このような政権を、内閣をつくっていきたい。・・・・政と官のよりよい関係性をつくっていけるように努力したい」

 「官僚のみなさんこそが、政策やいろいろな課題に長年取り組んできたプロフェッショナル」だと最大限の褒め言葉で評価し、「プロフェッショナルとしての知識や経験をどこまでいかして、その力を十分にいかしながら」と、政治主導を行う中で官僚の力を活用していくことを宣言した。

 この政治家と官僚の関係性は、“活かす”(=活用する)という言葉に象徴されるようにあくまでも政治家が主体であって、官僚側を従の位置、働きかけられる側に置いた構造の関係性なのは断るまでもない。これが官僚側が主体となって政治家側に働きかける逆の関係なら、官僚主導となる。
 
 菅首相は翌6月9日(2010年)、昨年の官僚「大バカ」論と昨日の官僚活用論との整合性を記者団に問われると、官僚功罪相半ば論に転じている。《「官僚は大ばか」変えず 菅首相、体質を批判》(47NEWS/2010/06/09 23:15 【共同通信】)

 菅首相「やや言い過ぎだったかもしれないが、最も優秀とされる財務省がいながら、なぜ(国内総生産の)180%の累積債務残高になったのか。考えられない。官僚は自分の任期で発想する。10年、20年で見たら何もいい形になっていない。社会音痴と(専門に)詳しいことは矛盾しない。官僚の経験や知識を活用し、内閣が判断する

 日本の財政が「(国内総生産の)180%の累積債務残高」にまで悪化したのは官僚だけの責任ではあるまい。自民党政治家と官僚の利害の一致が生み出した財政悪化の側面は否定できないはずだ。 一例を挙げると、政治家が地元利益誘導と自身の名を残すために公共事業を過剰に大型化させて税金をムダに垂れ流したこと、官僚にしても公共工事が大型になればなる程、関連会社への天下りで高額報酬が約束されるといった利害の一致である。

 そのほかの事業でも双方の利益とするためにムダな予算付けを相当に行っていたはずである。

 それを官僚だけの責任に帰する判断能力は例の如く合理性を欠いた不公平な評価となっている。

 だとしても、菅首相は官僚は「大バカ」ではあっても、「官僚の経験や知識を活用し、内閣が判断する」と、政治家側を主体に置いて官僚側に働きかけ、その能力を活用し、最終判断は内閣が行うと、勿論責任も伴わせなければならないが、このような関係性を持って自らのあるべき政治主導の姿だと提示した。

 自身がそう発言した、あるいはそう提示した以上、具体化させる首相としての指導力発揮の責任を国民に対して負う。自身の側から言うと、あるべき政治主導実現の指導力を問われることになる。

 だが、昨年の6月9日に政治家側を主体に置いたあるべき政治主導を提示しながら、すぐに手をつけてそのようなあるべき姿へと持っていくべきを7ヶ月も経って、内閣と官僚との協力関係ができていなかった、問題があったと言っている。

 このことはそういった態勢作りができていなかったばかりか、官僚を使いこなす指示命令能力さえ発揮できていなかった無能状況を示す。

 この無能状況は菅首相の「事務次官は事務次官としての立場から振り返り、積極的な協力関係を作ってもらいたい」の発言が如実に証明している。政治家側を主体に置いた政治主導である以上、官僚との協力関係は政治家側がそれぞれの現実場面で官僚を使いこなす中で、あるいはよりよく指示命令能力を発揮する中で自らが構築していくべき協力関係であり、官僚側に「積極的な協力関係を作ってもらいたい」と要請してつくり出すものではないからだ。

 菅首相自身が官僚を使いこなす指示命令能力を持たないことによる履き違えた政治主導であり、政治家側の主体性を放棄することになる、官僚に対する心理的には頭を下げた履き違えた要請であろう。

 ここに菅首相が常々言っている「政治主導」がどの程度のものか、その正体が自ずと現れるている。指導力なき首相の一つの哀れな結末でもあるはずだ。

 指導力がないこと、合理的判断能力を欠いていることがすべてに亘って内閣運営のマイナスとして働いている。


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