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尾木直樹オーサービジット:自分のことは自分で決める自己決定論と子どものスマホ利用の自己決定排除の矛盾

2025-03-25 11:40:47 | 教育

Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 その教育思想が学校のイジメと不登校の認知件数の著しい低下に役立ち、世の学校教師や保護者から並々ならぬ感謝と称賛を受けている人気教育評論家の尾木直樹が本の著者が学校を訪ねて特別授業をする「オーサー・ビジット」を2019年12月も行っている。

 《自己決定が自立への道 教育評論家・尾木直樹さん@埼玉・三郷市立新和小学校》(朝日新聞社運営本の情報サイト「好書好日」/2020.02.23)

 先ず次のように紹介している。

 〈文・安里麻理子 写真・首藤幹夫

 本の著者が全国各地の学校で特別授業をする朝日新聞社主催の読書推進事業「オーサー・ビジット」。「尾木ママ」としてテレビやラジオでもおなじみの教育評論家・尾木直樹さんは昨年12月に三郷市立新和小学校を訪れ、5、6年生のこころと日常に寄り添った熱い授業を展開した。(このビジットはベルマーク教育助成財団との共催です)〉云々⋯。

 この"オーサー・ビジット"が5、6年生対象だということが分かる。高学年相手だから、それなりに中身の濃い、高度な言葉の伝達だったに違いない。何しろ、〈5、6年生のこころと日常に寄り添った熱い授業を展開した。〉と情景描写しているのだから。

 この学校に教師として赴任している訳ではないから、身体的には生徒の日常に寄り添うことなどできない。ほんのいっときの寄り添いしかできないが、5、6年生の心に鋭く、深く突き刺さる、感銘を与える刺激的な言葉を発信できたからこそ、それが心にいつまでも刻み込まれて、その言葉と共に生きることになる結果、尾木直樹がその場に存在していなくても、精神的にはいつまでも日常に寄り添っている、いわば影の存在足りうることができているということなのだろう。

 結果、あの眼鏡越しに目を細めたニコニコ顔が脳裏に張り付き、見守ることになって、自分までもが穏やかな気持ちに支配され、誰かを面白がって過度のからかいに走ったり、懲らしめてやろうと制御の効かない痛めつけに走ったりは他処の世界の出来事とするようになる。

 怒りや侮蔑の衝動と無縁にしてくれるのだから、子どもたちにとっては何と心強いことだろう。いわばイジメに走ることから守ってくれるだけではなく、イジメを受けることからも守ってくれて、そのことがイジメ認知件数の減少、不登校児童・生徒数の減少へと反映されることになっているのだから、その恩恵の源は尾木直樹の誰に対してもいい顔をする八方美人の効用以外に
考えられない。

 この"オーサー・ビジット"は授業対象の児童に対して事前にアンケートを取る形式を採用しているらしい。そのアンケートには、〈「どうしてママになったの?」という質問が多く、それに答える形で授業は始まった。〉と、そのことを第一声として伝えている。

 〈発端は2009年の年末、明石家さんまさんの特別番組に、教育問題を語る専門家として出演したときだった。さんまさんに突然、「あんた、飲み屋のママに似てる。ママ、ママ~」と連呼され、当時、私立大学の教授も務めていた尾木さんは仰天。「やだ、まじめな研究者のイメージが崩れちゃう!大学もクビになるかも」

 必死に阻止したものの、あたふたする様子がウケて、バラエティー番組から引っ張りだこに。「あのときの1秒でママになっちゃったの」

 ただ、そうして広く顔が知られたことにより、教育や子育てに関する専門的な話も、たくさんの人に聞いてもらえるようになったという。〉と、テレビ番組出演時の言葉遣いがいわば、"おネエキャラ"の発端となったイキサツを紹介している。

 このおネエキャラが関心の的となって、尾木直樹の教師長年勤務の経験に基づいた簡明にして子どもの成長に向けて役立つ教育論に広範囲に触れるキッカケを提供することになり、その教育論が与える有用性の実感によって多くの小・中・高生、学校教師、保護者に歓迎される状況を作り出しているのだろうから、明石家さんまの貢献は日本の教育界に大きな足跡を残していることになる。

 尾木直樹はこの経験を財産として、「人生ってそんなふうに、いつ、どこで何が起きるかわからない。だから、そのときそのときを精いっぱい生きておくことが大切」という貴重な教訓を自ら手に入れることになり、その教訓を小・中・高生、学校教師、保護者に機会があるごとに伝えていて、今回のオーサー・ビジットでも伝えることになったということなのだろう。

 まさかおネエキャラだけが受けているという訳ではあるまい。

 記事がこの教訓を大学教員を含めて中学、高校と40年間の教員生活を通して、「教育現場に情熱を傾けてきた尾木さんの実感だ」と共感し、讃えているのは当然中の当然なのだろう。

 アンケートには「勉強しろと言われるとやる気をなくす」という悩みも多くあったとしている。

 尾木直樹「私も同じという人は?」
 ほぼ全員が手を挙げる。
 尾木直樹「では、後ろの保護者の方で、勉強しなさいと言ったことがない人は? あ~ら、1人もいない」
 子どもたちのニヤニヤが止まらない。

 尾木直樹「なぜ、やる気をなくすのか。答えは明確です。自分で決めたことではないから」

 解説、〈尾木さんによると、5、6年生といえば思春期に入る年頃。体も心も変化する。「自分でコントロールできなくて、イライラしたり、感情を爆発させたり。それが親子関係や友だち関係にも影響するの」〉

 尾木直樹「どんなとき、親に反抗する?」
 5年生「やりたいことがあるとき」
 尾木直樹「それが普通。だいたい勉強できる子って、親に言われなくてもやる。自らやる、これを自立といいます」

 解説、〈そうはいっても自ら勉強する子なら苦労しません! 保護者席からそんな心の声が聞こえてきそうだ。〉

 尾木直樹は自身の子ども時代のエピソードを披露する。

 尾木直樹のお母さん(学校から帰ると毎日)「直くん、今日はどんな予定なの?」
 尾木直樹「小学生に予定って聞かれてもねえ。遊びに行く、くらいしかないわよ!でも、それだけじゃまずいと思って、帰ったら勉強するって言っていた」

 〈言った以上、やらなくては。そうしないと大人のことも、「言っていることとやっていることが違うじゃないか」と批判できない。〉

 尾木直樹「今思えば毎日、自分の考えを問われていたようなもの。その上で、自分で決めさせていたんじゃないかな」

 ホワイトボードに「自立」「自己決定」と書く。

 尾木直樹「だから、何かしなさいと言われたら、自分で決める、というクセをつけるといいのよ」――

 ここまでのご高説を自分なりに噛み砕いて、その素晴らしさを伝えたいと思う。

 母親が学校から帰ると毎日、その日の予定を聞く。遊びの予定ばかりでは済まないから、「帰ったら勉強する」と約束した。約束を守らないと、大人の有言不実行を批判できないから、約束をしたことを守るようにした。思い返すと、母親は子どものすることは子どもに決めさせていたのであって、この経験が尾木直樹少年に幼くからして自己決定力を育ませ、自立への歩みを促した。

 結果、何事も自分で決めて自分で行動する自立ができていれば、親の干渉を最小限にとどめることができるという教訓の形を取るに至った。尾木直樹自身が子どものときから自立に向かって歩むことができたのは母親の教えがあったからだと、この子ども時代のエピソードは貴重な教育的財産となり、機会あるごとにウリにしているのだろう。

 逆に子どもに自分のすることは自分で決めさせる自己決定力を育む機会を与えずにその能力を欠いた状態で、「勉強しろ」だ、「何々をしろ」だと頭ごなしに言いつけたとしても、却って「やる気をなくす」ことになり、5、6年生といえば思春期に入る年頃で、「自分でコントロールできなくて、イライラしたり、感情を爆発させたり。それが親子関係や友だち関係にも影響」して、却って子どもの成長の阻害要因となるから、いわば一にも二にもなく自分のすることは自分で決めさせる自己決定力を育む機会を最初に用意してやることが要点だとの主張である。

 但し尾木直樹が子どものときから自立できた自身の経験が事実そのとおりであり、現在の子どもにも同じような経験をして貰いたいと思ったなら、教育者である以上、一歩も二歩も踏み込んで、学校に対して、あるいは文部科学省に対して宿題の休止日を設けるよう、申し込むべきだろう。

 なぜなら、宿題と予習や復習の自主学習とは自分のすることは自分で決めさせる自己決定という点では決定的に違うからである。宿題は決められた科目の決められた箇所を勉強させる一つの強制であって、予習や復習の自主学習は必ずしも強制とはならない。

 但し自主学習任せでは勉強したかどうか判断できないから、レポートを提出させなければならない。この提出は一見、強制に見えるが、何を予習するか、何を復習するかは自分で決める自己決定の余地を残す。宿題に対するその解き方、解答はほぼ決まっているが、レポートの内容は予習や復習の対象科目によって異なってくるし、自身の取り上げ方によっても、自己決定の要素の違いに大きく左右される。

 さらに学期が進むに応じて、あるいは学年が進むに応じて自主学習の成果が学校の成績に反映されてきたと見たなら、レポートの提出は廃止して、放課後の家での勉強は全て子どもたち自身に任せる。究極の自己選択となる自己決定となり、自立を強く動かす動機となるはずである。

 勿論、子どもの一般的な姿に持っていくまでの道のりは困難で遠いだろうが、学校から家に帰って、母親と約束した勉強をするかしないかを自己決定の誘因に置いて、そこを起点として、"自立へのプロセス論"を振り回す以上、その勉強が宿題なのか、予習や復習の自主学習なのか、前者と後者では自己決定に相当な差があるのだから、教育者なら、しっかりと区別すべきだろう。

 だが、尾木直樹は母親に約束した「勉強」が宿題なのか、予習、復習の自主学習なのか明らかにしていない。ここに否応もなしに胡散臭さを見てしまう。

 家での勉強がレポートの提出さえも義務付けられていない予習、復習といった完全な自主学習であったなら、自己決定の要素は確かに大きいと言えるが、レポートの提出を義務付けられた予習、復習の自主学習であった場合でも、自主学習の対象科目に何を選択するか、どういう学び方にするのか、レポートとしてどういう内容に纏めるのか、自己決定が要請される。

 それが宿題の類いだったなら、義務の履行という強制的な要素が大分占めることになって、十分な意味で自己決定の育みに役立つとすることはできない。

 もし尾木直樹自身の「勉強」がレポートの提出も義務付けられていない予習、復習といった、するかしないかは全て自己決定に任された自主学習の類いだったなら、尾木直樹は子どもたちに自己決定の習慣を育み、自立ある存在へと向かわせるために宿題の一定程度の中止にまで踏み込む主張をしていたはずだ。

 さらに言うと、日本の教育に未だ色濃く残っている暗記教育も教師が教える知識・情報を児童・生徒が自らの解釈を加えずにそのまま自分の知識・情報として受容する従属性によって成り立っている以上、知識・情報の習得に関しては自己決定権を持たず、他者の知識・情報から自立を果たしているとは言えず、このことは日本の小中高生が他国と比較して自己肯定感が低い状況と無関係ではなく(自分なりの知識・情報を持つことができていたなら、自己肯定感は高くなるはず)、宿題や予習、復習の自主学習が暗記教育の影響下にあるとしたら、自己決定や自立に大きく関係することになり、自己決定や自立を言うなら、暗記教育の是正にまで踏み込まなければならなかったはずだ。

 だが、そこまでの道筋を示すことはできていない。その底の浅さは自身の自己決定の習慣づけに役立ち、それが自立の歩みの手助けになったことを自分の子どもの頃の経験に基づいた優れた出来事と印象付けて、人に伝えるための教訓としての価値をウリにするために仕込んだエピソードのようにも見える。

 なぜなら、その教訓が、「何かしなさいと言われたら、自分で決める、というクセをつけるといい」と教える程度で終わらせているからで、自己決定と自立に向けたインパクトある刺激的な言葉になるとは思えないからだ。

 大体が、「言われたら」何かするのは、その何かをするしないは自分で決めたことだとしても、何らかの従属性を纏うことになり、従属性を纏う割合に応じて主体性が損なわれることになる。自己決定と自立は極めて主体性を必要とする。

 「何かしなさい」と言われるのを待つのではなく、放課後の大まかな時間割を子どもたちそれぞれに作るように仕向ける。強制ではない。作る、作らないかは本人の主体性、自主性に任せる。時間で行動する習慣づけは計画性を養うだろうし、時間の観念の発達を促す。

 時間割を作ったらという教師や親の指示に対して強制ではなく、本人任せとしながらも、効果を上げるためには時間で行動するよう、習慣化させる。

 例えば、「もうベッドに入りなさい、8時よ」、あるいは「もう寝なさい、9時になったでしょ」と、行動を基準に時間を付随させのではなく、「8時だから、ベッドに入る時間よ」、あるいは「9時だから、もう寝なさい」と常に時間を基準にした行動を求める。あるいは時間での行動に持っていく。

 それが常態化することができたなら、放課後も、時間割での行動にさして抵抗を受けることはないだろう。

 宿題のある日はゲームとかサッカーの遊びの前にそれをするのか、遊びから帰ってからするのか。宿題のない日はその日に応じて予習・復習の自主学習を行うのか、ときには何もせずにその日は思い切り遊びのみの時間とするのか、自らの時間割の作成のもと、そういった日を設けるのも、主体性色満点の精神の解放を自ら作り出し、リフレッシュさせた自分を自ら味わうことに役立つ。

 尾木直樹が親子関係や友だち関係に悪影響を与える、ときとして爆発させてしまう、思春期特有の不安定な感情の起伏を言うんだったら、子ども自身に精神の解放日を設けさせるのも、感情の働きというものに意識を向けさせることになり、感情のコントロールの訓練ともなるだろうから、ただ単に思春期の精神の不安定を指摘し、「何かしなさいと言われたら、自分で決める」と言うだけではない、精神の不安定の確かな回避策にまで踏み込むべきろう。

 踏み込むところまでいかない点に教育者としてホンモノなのかを疑わせる側面を見ることになる。

 放課後に何をするのかの各行動ごとの時間割を作らせることができたなら、寝る前にでも、それぞれの時間割を守れたのか、守ることができなかったのか、自己採点を求めるのもいいだろう。守ることができたなら、自信がつき、できなかったなら、反省が生まれ、自信と反省は自分のことを省みて、その善悪・是非を考える自己省察を刺激し、自己省察が自分はどんな人間なのかの存在性を少しずつ知らしめることになり、自身の存在性の把握が他者の存在性との比較、他者省察へと進み、この自分を知り、他者を知るプロセスが自分を確立していく自我確立の道へ進む基礎となる。

 このようにすることが効果があると見込めると認めるなら、学校は一斉の宿題休日を設けて、時間の活用を全て子どもに任せた放課後の時間割とすべきだろう。宿題がない代わりに自習・復習の自主学習に時間を割り振るのも自由、全て遊びの時間に割り振るのも自由、何事も自分で決めさせる。

 否でも主体性・自主性に基づいた自己決定が関わり、守れたり、守れなかったり、自信を持ったり、反省したり、その繰り返しの過程で自分という人間を考えたりする。友達はどうしているのだろうかと他者を頭に思い浮かべたり、自立の道を歩み始めることになる。

 母親が学校から帰ると毎日、その日の予定を聞いたことが自己決定の習慣づけに役立ち、自立を促したとする幼少期のエピーソードが教育評論家の教訓としての価値をウリにするために仕込んだエピソードではないかという疑いは尾木直樹が次に取り上げたスマホに関する主張からも窺うことができる。自己決定のススメを説きながら、そのススメをケロッと忘れて、「日本は子どものスマホ利用に対する規制がゆる過ぎ!韓国や中国では政府が、未成年の深夜のオンラインゲームを禁止したくらいなのに」云々と国や学校の公権力を用いて上からの規制を主張、自己決定をどこかに放り投げているからである。

 記事のその個所を取り上げてみる。

 尾木直樹「どうしても言っておきたいことがある。今年、世界保健機関(WHO)が、スマホなどでのゲーム依存は病気で、程度によっては入院治療も必要だと正式認定しました。知ってた?」

 記事がネット依存の現状を紹介。

 〈ゲームだけではない。インターネットやSNSの利用も含め、全国の中高生約93万人がネット依存の疑いあり、という推計を厚生労働省が発表した。SNSを介して小学生が誘拐された事件もあった。〉――

 そこで尾木直樹が考案した、"自分で決める"を置き忘れた、上からの強制となる「スマホルール7か条」

 記事は「スマホの使用は夜○時まで」と「使用・充電する場所は、リビング・ダイニングに限る」の2ヶ条の紹介のみで、尾木直樹の、「詳しくは、7つのルール 尾木ママで検索してみて」の言葉を紹介しているから、ネットで検索、「7か条」を挙げておく。

【ルール1】スマホは「親が買って契約し子どもに貸している物」ということを忘れません。
【ルール2】スマホの使用は、夜〇時までとします。
【ルール3】スマホを使用・充電する場所は、リビング・ダイニングに限ります。
【ルール4】食事中にスマホは使用しません。
【ルール5】スマホをいじらない時間に、家庭で楽しく過ごせることを考えましょう。
【ルール6】スマホによるトラブルが生じたら、すぐに親に相談します。
【ルール7】守れなかったときには、〇日間、親にスマホを返します。

 児童の反応。

 𠮷川晴翔(はると)くん(5年)は、「ゲームはやっていないけれど、依存の話がこわかった。スマホを使う時間を決めたい」
 大塚くるみさん(6年)「ニュースで誘拐事件を見ました。スマホを持ったら気をつけようと思う」
 
 記事は肝心なことであるはずなのに、スマホの使用制限時間や使用・充電する場所に対する児童の反応は何一つ伝えていない。

 要するにスマホの良識ある使い方をそれぞれが自ら考えて、それぞれに独自の使い方を個別決定させ、その先に自立的(あるいは自律的)存在の確立を促していくのではなく、ルールを先に持ってきて、全員をそのルールに従わせて、ルール通りの子どもにはめ込もうとしている。

 決してそうはならないから、救いとなっているが、尾木直樹が言っている「何かしなさいと言われたら、自分で決める、と言うクセをつけるといいのよ」を無効とする言葉を平気で垂れ流している。

 ここに尾木直樹の教育者としてのニセモノ性を顕著に窺うことができる。

 この信用の置けない言動は、勿論、尾木直樹自身の性格の反映以外の何ものではない。オネエキャラとして用いている言葉の柔らかさ、いつも目が笑っている、その親しみの装いが目眩ましとなり、ニセモノであることを隠すのに役に立っている。

 何事も自分で決めること、自己決定が自立の育みに必要不可欠な習慣化だと言うなら、スマホの使い方も使用時間も自己決定させる方策を創造して、こういう使い方をすれば、スマホ中毒に陥らず、時間に規律を持たせることができると、そこまでの道筋をつけるべきが教育者としての責任であるはずだが、その責任を果たすことができない。

 例えばサッカーや野球、ソフトボール等々を運動部活として行なっている男女児童・生徒、演劇や吹奏楽等々の文化部活として行なっている男女児童・生徒は、それぞれの部活に熱心に取り組んでいたなら、スマホを通信手段としたネット依存にはまり込む時間的余裕も精神的余裕もあるだろうか。

 要するに可能性の問題である。何らかの活動に自身の可能性を見い出していたなら、あるいは自身の可能性を託していたなら、他の様々な活動との間に、あるいは日々の自身の様々な活動に自ずと優先順位をつけることになって、秩序だった時間の使い方をするようになるだろう。

 勿論、全員が全員、そうなるとは限らないが、確率的には高いはずである。

 勉強に関しても、運動部活動に関しても、文化部活動に関しても、あるいは趣味の類いに関しても、親の家業に関しても、自分がしたいと思うことを見つけることができないと、そのしたいことが学校生活や将来に向けた試してみたい自らの可能性へと持って行くこともできず、結果、簡単にできる上に楽しく時間を過ごせて、夢中になれる活動、と言うよりも、娯楽や遊びに走ることになる。その代表的な娯楽、あるいは遊びがスマホを使ったネット依存ということであるはずだ。

 となると、「スマホルール7か条」などと得意げに掲げている場合ではなく、教育者なら教育者らしく、どのような小さなことでもいいから、自分がしたいと思うことを見つけて、それを各自が学校生活や将来に向けた可能性へと高めていくにはどうしたらいいのかを説くべきだろう。

 できたことは、繰り返しになるが、「何かしなさいと言われたら、自分で決める」自己決定が自立を促すといったことを言いながら、スマホの利用に関しては自己決定を奪っていることに気づかずにルールを作って規制をかけ、当たり前の顔をしていることのみである。

 尾木直樹は、〈時折、「テレビでは文化人枠だからギャラ安いの」など、オトナの事情を笑い話にして挟みながら、最後は「いじめ」〉問題を取り上げている。

 尾木直樹「人が嫌がっていることは今すぐやめてください。(「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭したうえで)友だちにムカムカしないですむ方法があるの。

 すぐ口を出してくるからムカつく。でも、そういう子は活発な子。態度がはっきりしないからムカつく。だけど、そういう子は慎重な子。

 そんなふうに、誰かを否定したくなったら別の見方をしてほしい。だって、みんな違って当たり前。だからいいのよ」――

 要するに尾木直樹は相手にムカムカしたなら、ムカムカした相手の性格・態度を別の見方で捉えれば、人が嫌がるイジメは前以って避けることができる、いわばムカムカからのイジメはなくすことができると考えていることになる。

 言っていることは以前取り上げているが、尾木直樹の2019年に神奈川・横浜市立川上北小学校を訪れて行なったオーサー・ビジットでも、その効用を伝えている、物事の捉え方や枠組み(フレーム)を変えて、別の視点から見直す心理学用語だという"リフレーミング"という方法であろう。

 「誰かを否定したくなったら別の見方」への誘導は自他の省察力を刺激することになるから、自律(あるいは自立)に向かわせる有効な入口となりうる。特にちょっとしたことでムカつく人物像は他人と適度な距離を取り、自分は自分という精神の余裕が持つことが不得手な自己中心的な性格で、年相応の自律(あるいは自立)ができていないと見ることができるから、その効果は十分に予測しうる。さすが尾木大先生であると言える。

 但しムカつく原因はすぐ口を出しするとか、態度がはっきりしないということに対してだけではなく、成績が良い、クラスの人気者だ。先生の質問に対する答をほぼ独占している。先生に気に入れられている、カネ持ちだ、いい家に住んでいる等々、他人の可能性に対する羨ましさを心理的背景として自分は逆の状況にあると見る劣等感が強いる不愉快な感情が発端であることも多いはずである。

 他人の可能性に対する羨ましさに基づいた劣等感は自身の可能性を見い出し得ていない状況下で頭をもたげやすい。可能性を見い出し得ていたなら、その可能性を伸ばすことに目を向けることになるから、他人の可能性に煩わされることは避け得る。

 となると、自身の可能性を見い出し得ていない状況下で他人の可能性に感じる羨望を見方を変えて打ち消し、他人の可能性であっても、受け入れることのできる要素とするには相当に心の広さ、心の余裕が必要となるが、元々そのような心の広さ、心の余裕を見せることができたなら、他人の可能性が羨ましくなり、劣等感からムカつくなどといった負の感情を引き起こすことはないだろう。

 当然、こういった負の感情からのムカつきに対して「誰かを否定したくなったら別の見方」をする"リフレーミング"を用いたイジメの回避策よりも、スマホを通信手段としたネット依存のところでも触れたが、目をつけるべきは学校社会に対応できる可能性の発見に力添えできる体制の構築であるはずだ。

 学校社会は「多様な可能性」、「可能性の多様化」等々、スローガンは立派に掲げるが、勉強の成績やスポーツの成績、文化部活動の成績等々、限られた可能性にのみ光を与えて、それ以外の可能性を拾い出して光を与えることを忘れていて、学校社会で可能性を見い出し得ない子どもたちを取りこぼしている。

 だが、尾木直樹はイジメが可能性を見出し得ているか得ていないかに深く関係することにまで踏み込むことができずに、友だちにムカムカしたら、相手に対する否定的価値観を肯定的価値観に変えなさいと、公式を当てはめさえすれば解決できる、簡単な数式の問題であるかのように片付けている。この安易さは引く手あまたの人気教育評論家にふさわしい。

 安易さと人気はホンモノの教育者にはなし得ない両立に違いない。ニセモノの教育者だからこそできる両面性だろう。

 また、尾木直樹は見方を変えることで友だちにムカムカしないですむ方法があるとご託宣はしているが、見方を変えることができずにムカムカの発散から始まった場合のイジメについては何も触れていないのは御託宣の効果を100%信じているからだと思えるが、ムカムカが原因であっても、なくても、ちょっとからかったら、相手が嫌がったのが面白くなって、嫌がらせて面白がるために一定の行為を繰り返し、イジメとなる、決して少なくはないケースの場合はどう考えているのだろう。

 このようなケースはどのようにエスカレートさせた嫌がらせであっても、面白がっているだけのことで、イジメになっているとは気づかない点が始末に悪い。

 成長も自律(あるいは自立)も、年齢相応にできていないから、相手を一個の自律(あるいは自立)した個人として扱うことができないままに嫌がる様子、困った様子が面白いという感覚を味わうことが目的だから、"嫌がる"、"困る"は必要不可欠なステップであって、そのステップがなければ、自分、あるいは自分たちは面白がることができない。それどころか、相手が嫌がれば嫌がる程、困れば困る程、自分、あるいは自分たちは面白いという感覚を味わうことができて、満足できることになる。

 当然、ここまで進んでしまったイジメ相手にムカムカしないですむ方法を勧めたとしても、相手は理解できない顔をすることになるだろう。

 テレビのお笑い番組でお笑いタレントという他人が笑わせるのを眺めて面白がるのは、いくら面白いという感覚を味わうことができても、自分で作り出した面白さではないから、その番組を見ることができた程度の自己達成感しか手に入らない。

 だが、誰か友達を嫌がらせたり、困らせたりして面白がるのは自分、自分たちで作り出した面白ネタだから、面白ければ面白い程、自己達成感を手に入れることができて、自分、自分たちにとっての活躍行為となり、病みつきになるのに時間はかからない。

 病みつきになれば、人が嫌がったり、困ったりすることが逆に快感となり、面白がるのがどこが悪いと、そのことだけを優先させることになる。闇バイトが他人が財産を失って困ることは考えずに自分が財産を手に入れて、オイシイ思いをすることだけを考えるようにである。

 当然、こういった面白がるイジメには、「人が嫌がっていることは今すぐやめてください」は通じない警告となるが、通じないケースもあることもありうることを頭に置いた言葉とは思えない上から目線の指示となっている。

 この手のイジメに関して伝えるべき言葉は、「友達相手にしていることで、相手が面白がってもいないのに、自分、あるいは自分たちだけが面白がってしていることはないか、5分の時間を与えるから、目を閉じて、友達との間で普段していることを思い出してみて欲しい」であろう。

 5分後に、「友達相手にその友達が自分、自分たちと同じように面白がっているのでなければ、不公平なことをしていることになって、それはイジメそのものの嫌がらせ行為となっている場合もある。自分、自分たちも面白がることができ、相手も面白がることができて、初めて公平・対等な付き合いとなって、嫌がらせ行為でも、困らせ行為でもなくなる」

 この問い掛けは、この手のイジメが少なくない以上、教師が授業中に折に触れて発すべき義務事項としなければならない。こうすることが自己省察と他者省察を養う訓練となる。強がって、「面白がって、どこが悪いんだ」と反発し、殊更に面白がるために嫌がらせ行為をエスカレートさせる児童・生徒もいるだろうから、そのことを前以って予測し、「こういったことを言われて、反発し、これこれこういったことをしてしまう児童・生徒もいるかもしれないが、同じ友達付き合いする以上、公平で対等な付き合いとなっているか、不公平で不平等な付き合いとなっていないか、考えることだけはして欲しい」

 このように付き合いの公平・不公平、対等・不平等を常々問い掛けることでイジメとなっていることを自覚せずに、単に面白がるためだけのために友人に対して不公平・不平等な付き合いを強いている者をして自他を考えさせる二重三重の心理的なブレーキを掛けるよう仕向けていけば、自己省察と他者省察を作動させる可能性は捨てきれない。

 お互いを考えさせることが年齢相応の成長を促し、自律(あるいは自立)への歩みを強めていく背中押しとすることができる。

 最後に役に立つという意味からだろう、自著の名前を挙げて、「図書館で借りて」と伝え、見送る子どもたちにもみくちゃにされながら校舎を後にしたと、その人気ぶりを伝えている。

 現状の子どもについて記者にか、学校教師や授業参観の保護者にか、次のような解説を伝えている。

 尾木直樹「今の小学生には大人が想像する以上の情報が入っています。そのため親が言いそうなことは分かっている、言われるとうるさく感じてしまう。それでもダメな子にしたいなら、過干渉な親になればいい。

 子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら。今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ」――

 尾木直樹は最後に5、6年生に自分の本を図書館から借りて読むように勧めたが、ニセモノの教育者の本を読んで役に立つとしたしたら、反面教師的な読み方ができる生徒に限るが、5、6年生でそういった読み方ができる子どもはどれ程にいるだろうか。逆に頭から信じて、考える力を麻痺させてしまったら、恐ろしいことになる。

 記事が紹介している尾木直樹の最後の発言を改めて取り上げてみる。

 「子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら。今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ」

 「すでに」の意味は、もうその状態になっていることを表し、「十分に主体的である」という意味を取る。

 だとすると、最後の発言の前段と後段を逆転させると、矛盾が浮き出てくる。「今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ。子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら」

 十分に主体的であるなら、学校が主体性(自己表現、積極的な行動、自己決定力)を育む教えに取り組んでいることの成果としてあるのだから、「子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる」教えが"大事だ"と指摘することは学校が既に取り組んでいることを取り組むべきだと勧める余分なお節介となる。優秀な教育者ともなると、こういったことをするのかもしれない。

 この余分なお節介を解消させるには次のような発言としなければならない。

 「今日の新和小の子たちは、既にみんな主体的でしたよ。子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる教えを一層前に進めていく。それが大事じゃないかしら」

 大体が十分に主体的であるなら、それぞれが自分なりの意志を持って行動していることになり、その意志は理性を纏うことになり、その理性は自制心を養い、自制心は感情のコントロールを機能させることになる。

 つまり、「すでにみんな主体的」であるなら、例え誰かの行動にムカつくことがあったとしても、基本的には自らの意志と理性で自制心を働かせることができて、自制心によって自らの感情をコントロールし、悪感情を自力で修正する方向に持っていくまでに成長しているはずだから、
尾木直樹から、「友だちにムカムカしないですむ方法があるの」などと尤もらしく、"リフレーミング"を教わる他力は必要なくなる。

 と言うことは、前以ってのアンケートで「すでにみんな主体的」であるかどうかは確認できなかったために"リフレーミング"を持ち出し、コミュニケーションを取っている間に「すでにみんな主体的」であることに気づいたという手順を踏むことになったと解釈できる。

 「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭したこと自体が、当初は主体的でないと見ていたからであろう。

 もし尾木直樹が正直な教育者なら、学校側が以後の参考にできるよう、アンケートの回答に対する解釈が悪かったぐらいは伝えるべきで、伝えていたなら、記事は読者の理解に供することができるよう、その内容を紹介するはずだが、紹介していないところを見ると、何も触れていないことになる。

 それとも、「すでにみんな主体的でしたよ」は教育者として子どもを見る目があるところをウリにするために、さも見抜いたようなことを言ったのだろうか。

 誰にでもいい顔を見せる八方美人だから、その可能性は否定できないが、この可能性が単なる下司の勘繰りであったとしても、記事紹介の最後の発言が矛盾していることは事実で、この底の浅さは最後の発言に限らず、以上指摘してきたとおりに随所に見受けることができる傾向となっているはずである。
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2025-03-13 07:13:16 | 政治


Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 今までの記事では安倍晋三が現金還付を中止したという事実を打つ立てることで、いわば、それを一つの功績として、安倍晋三自身の裏ガネ関与の罪薄めを図るために4月・8月の会合をデッチ上げたと見る内容で書いてきたが、安倍派幹部4人の政倫審証言を読み直して、異なる視点を取り入れ、改めて一つの記事に纏めてみた。

 4月・8月の会合が実際には存在しなかった会合、デッチ上げと見る点は変わりはない。

 4月の会合の出席者は派閥会長の安倍晋三、派閥幹部の衆議院議員西村康稔、同塩谷立、同下村博文、そして参議院議員の世耕弘成、派閥事務局長兼会計責任者の松本淳一郎で、8月の会合の出席者は7月に銃撃死した安倍晋三を除いたそれ以下の同じ5名ということになっている。

 この両会合に出席していた西村康稔は2024年3月1日政倫審で安倍晋三の4月の会合での現金還付中止について自民党の武藤容治に対して次のように答弁している。

 西村康稔「ただ、今思えばですね、事務総長として特に安倍会長がですね、令和4年、22年の4月に現金での還付を行ってる。これをやめるということを言われまして、私もこれはやめようということで、幹部でその方針を決めまして、そして若手議員何人かをリストアップして、電話も致しました。私自身も若手議員にかけ、電話もしてやめるという方針を伝えたところ、伝えたわけであります。

 従って、会長はその時点で何らかのことを知っておられたんだろうというふうに思います。全体のこと、どこまでご理解、把握しておられたのか分かりません。けれども、兎に角、現金は不透明で疑念を生じかねないから、こうして現金の還付はやめると、まあ、還付そのものをやめるということで、我々方針を決めて対応したわけであります」――

 立憲民主党の枝野幸男には次のように答弁している。

 西村康稔「えーと、私の理解、私の認識はですね、安倍元会長は現金で戻す。これは疑義を生じかねない、不透明だと、還付そのものをやめるというふうに意向を示されて、そして先程申し上げたように4月の段階では幹部が手分けをして、所属議員に連絡をいたしました」――

 公明党の輿水恵一には次の答弁。

 西村康稔「安倍総理が、元総理会長がですね、還付を行わないという方針が示されましたので、これを少なくとも令和4年は徹底すればよかった。こうしたことは今となってもう反省することばかりでありますけれども、二度とこうした事態を招かないようにですね、これまで以上に厳格に政治資金の管理、自分自身も行ってまいりたいと思いますし、より透明でクリーンな政治に向けてですね、今回のことを教訓として、是非これまで以上にして参りたいというふうに考えております」

 共産党の塩川鉄也に対して。

 西村康稔「まさに現金での還付は不透明、そして様々な疑念を生じかねないということで、還付そのものをやめるということが安倍会長の意向として示されたわけであります。そのときに何か収支収告書の話をしたわけでもありません。還付そのものが適法なのか違法なのか、そういった議論もしたことはありません」

 西村康稔の4月の会合での安倍晋三の現金還付中止の説明描写は主としてこの程度である。次に4月の会合に出席していた塩谷立の安倍晋三の現金還付中止についての描写を同じ2024年3月1日の日本維新の会の岩谷良平に対する政倫審答弁から見てみる。

 塩谷立「先程も申し上げましたが、あのいわゆる資金の流れというか、透明性をということで、現金はやめようというようなことだったと思います。正確にちょっと私記憶してませんが、そういったことで兎に角還付はやめようということだと思います」

 同じく岩谷良平へのほぼ同じ繰り返しの答弁。

 塩谷立「確かに今申し上げましたように現金あるいは不透明な点だからやめようということで、それ以上の具体的な話は我々した記憶がございません。そういうことで、一応安倍さんの判断で、あの、還付をやめたということでございます」

 塩谷立と共産党の塩川哲也との4月の会合に関する遣り取り。

 塩川哲也「そこで令和4年の会長が出席をしたあの会合についてお尋ねをいたします。4月の会議、8月の会議、それぞれ主な議員の出席をされておられたということで、この4月において会長から還付をやめるという話があったと。

 で、現金の取り引きをやめた方がいい、透明性を高めるために現金をやめた方がいいという話だったということですけれども、一方でお話されておりましたが、若手の資金集めを派閥パーティーで支援をするということは重要だったと。そうであれば、その現金支給をやめても、他の方法で還付する方法を取るっていうことは検討されたのか。例えば口座取引きにするとか、そういうことにはならなかったんですか」

 塩谷立「安倍総理の考え方はやはり還付はやめた方がいいというのが一番のテーマだと思いますんで、あの先ずは他の方法でということはその点では考えませんでした」

 塩川哲也「そうしますと、そもそもその若手に対しての支援というシステムを行われてたとおっしゃっておられるので、そういう意味ではまるっきり還付するものをやめるっていうのは矛盾する話になります。そのものをやめるっていう判断っていうのが安倍会長の元でどういう理由だったのか、 改めてお聞きしたいと思いますか」

 塩谷立「あの、何回も申し上げますが。透明性、あるいは現金でということが問題ではないかということで、還付はやめようということになったわけでございます」

 次は世耕弘成の2024年3月14日午前中に行われた参議院政倫審だが、4月の会合での安倍晋三の現金還付中止の指示に関わる自民党佐藤正久への答弁。

 世耕弘成「安倍会長からは5月に、2022年の5月のパーティーでしたけども、4月上旬に幹部が集められて、ノルマどおりの販売にしたいってことは即ち還付金はやめるというご指示が出ました」

 では最後に下村博文の2024年3月18日に行われた政倫審での4月の会合での安倍晋三の現金還付中止についての日本維新の会岩谷良平に対する答弁。

 下村博文「2022年の4月に安倍会長の国会の事務所に私と塩谷さんとそれから当時西村事務総長、それから世耕参議院幹事長が呼ばれました。そのときに安倍会長の方から還付について現金の還付は不透明だからやめようということと、そのものをやめようという話がありましたが、還付が不記載であるとか、あるいは違法であるとかいう話は全く出ませんでした」

 以上で4月の会合での安倍晋三の現金還付中止の指示に関する安部派幹部の言及は大体、この程度である。

 西村等ほかの幹部が「現金還付中止」とのみ説明していることに対して世耕弘成だけが安倍会長からの指示の形として、「ノルマどおりの販売」だと説明している。要するに今後も従来通りにノルマをつけた売り上げを指示した。

 但し現金還付中止・ノルマどおりの販売は安倍派清和政策研究会という政治団体側の「今後どうするか」の対応であって、所属議員に対する「今後どうするか」の対応に関しては安倍晋三は派閥会長でありながら、何ら触れていないことになるし、会合そのものから抜け落ちていることになる。

 既に上で取り上げているが、共産党の塩川哲也が塩谷立に対して現金還付中止は若手の資金集めを支援するという派閥パーティーの趣旨に、いわば添わないことになるが、口座取引き等の他の方法で還付する方法は検討されたのかと質問したことに対して塩谷立は「安倍総理の考え方は現金還付中止が一番のテーマで、他の方法は考えませんでした」と答弁する形で所属議員に対する「今後どうするか」の対応はなかったと証言していることになる。

 そんな会合が果たして存在するだろうか。自分達の都合だけを伝えて、相手の都合は考えない。トランプならやりかねないが、一般的には想定不能で、4月の会合の存在自体を怪しくさせる。

 西村康稔も弁明で、「(現金還付は)自前で政治資金を調達することが困難な若手議員や中堅議員の政治活動を支援する趣旨から始まったのではないかとされていますが、いつから行われたのかについては承知をしておりません」と述べているし、塩谷立も弁明で、「還付が行われたのは個人でのパーティー開催など、政治資金を自前で調達することが大変な若手や中堅の政治活動を派閥のパーティーを通じて支援するとの趣旨であったように理解しております」と同じことを述べている。

 4月の会合が現金還付の本来の趣旨であるところの若手議員や中堅議員の政治活動支援を置き去りにした安倍晋三の現金還付中止指示と安部派幹部の中止指示の受諾となっていて、派閥会長と派閥幹部がわざわざ顔を揃えて現金還付について話し合う会合にしては常識では考えられない片手落ちのものとなっている。

 安倍晋三の中止理由、"現金還付は不透明で疑義を生じかねない"をクリアして、なおかつ若手議員や中堅議員の政治活動を今後共に派閥の政治資金パーティーを通した支援を継続するとしたら、ノルマ超えの売り上げを例え現金で還付したとしても、寄付や政治活動費名目で収支報告書への記載を指示すれば、それだけでこちらもクリアできるはずだが、そのような手も打たず、現金還付は一旦中止したが、誰の指示か不明で再開されることになったという、4月の会合が事実存在するものなら、その会合を無意味とする無責任な事態を引き起こしたことになるが、幹部としての責任を一切無にしていることになり、このあり得なさから言っても、4月の会合が存在したとすることはできない。

 このことのタネ明かしは現金還付して、還付した現金を収支報告書に何らかの費目を用いて記入するというごくごく常識的な手を打つことになったという筋書きとした場合、安倍晋三の現金還付中止以後、安部派幹部の関与外で現金還付・不記載がいつの間にか再開されていたという、4月と8月の会合を使ったストーリーは成り立たなくなるだけではなく、このストーリーの不成立は現実には現金還付と不記載が延々と続けられていて、途中一旦停止も、一旦停止に伴う再開というプロセスも存在しなかったこと、当然、4月と8月の会合も存在しなかったことを逆に証明することになるからとしか、答は出てこない。

 当然、安倍派幹部たちの政倫審証言のみで成り立たせている、4月の会合を利用した「不記載の話はなかった」としている自分たちの不記載無関与説にしても成り立たなくなり、結局は安倍晋三の死人に口なしを利用したことが露見することになる。

 そもそもからして自前での政治資金調達困難な若手議員や中堅議員が安倍派清和会政治資金パーティーの売り上げに自らの政治資金調達を頼る理由は清和政策研究会の名前は、特に安倍派清和政策研究会の名前は日本では一大ブランドとなっているからだろう。若手議員や中堅議員にとっては議員個人の政治資金集めパーティーでは売り上げに苦労しても、派閥の政治資金パーティーではそのブランド力ゆえに購入する企業が多くて、結果、ノルマ超えの売り上げが比較的容易で、その分、自らの政治資金にプラスされることになる。

 当然、現金還付の中止に伴って、若手議員や中堅議員の政治資金集め支援を今後どうするかの議論は是非とも欠かすことができない4月の会合となるが、現金還付と不記載がいつの間にか再開されたというストーリー仕立てを優先させる必要上、今後どうするかのルールを厳格に決めたというストーリーにすることはできなかった。

 つまり4月の会合も8月の会合も拵え事に過ぎないことを露見することになる

 次の点、8月の会合で「ノルマを超えて売り上げた若手議員等から返して欲しいという声が挙がった」理由を4月の会合の現金還付中止指示の前に、いわば還付中止指示を知らずに売り出していたからだと、幹部の全員がほぼ同じことを答弁しているが、ここからも矛盾を見い出すことができる。

 先ず最も理解できる答弁として立憲蓮舫に対する世耕弘成と塩谷立の日本維新の会岩谷良平に対する二例を挙げてみる。

 世耕弘成「5月のパーティーを、ま、4月にノルマ通りという指示が出ていますから、売ってしまった人もいるので、そういう人はやっぱり政治活動の資金として当てにしている面もあるんで、何らかの形で返すべきではないかという意見も出ました」

 塩谷立「パーティーは1月から2月頃から売り始めていますので、多くの人がもう売ってしまったという状況の中で、8月に売った分を是非お願いしたいという声が出てきたというふうに私は理解をしております」

 ここで問題となるのは売りに出した時期ではなく、派閥事務局への入金時期であろう。4月と8月の会合に共に出席していなかった同じ安部派幹部の高木毅は2024年3月1日の衆院政倫審の弁明の中で、「私の事務所では、清和研のパーティー券代金専用の銀行口座を開設し、基本的に購入者の方にはその口座に振り込み入金して頂くという形で売上金を管理しており、パーティーが終わった段階で口座から引き出した現金を清和研事務局に持参して全額を収めるという運用をしていました」と述べていて、派閥への入金はパーティー終了後となっているが、手違いとか、失念していたとかの理由でパーティー前日、あるいはパーティー当日ギリギリに入金される例もあるだろうし、あるいは売り手側の人情としては開催日寸前になっても売れることを期待して、その日まで待つこともあるはずで、派閥への入金はパーティー終了後が一般的であることは予想がつく。

 だが、幹部の誰もが返して欲しいと申し出た議員は4月の現金還付中止の指示前にパーティ券を売りに出して、ノルマ以上に売ってしまった結果のこととしているが、派閥事務局への入金時期には誰一人触れていない。

 入金時期が現金還付中止の指示を出した4月の会合以前ということはあり得ないことで、5月のパーティー開催日前後と考えると、4月の現金還付中止の指示が出たが事実と仮定したとしても、4月の会合後となるはずで、それでもノルマを超えた分の売り上げを返して欲しいという声が挙がるのは従来のままノルマ付けの販売を求め、ノルマを超えたとしても、これまでは行なってきた超過分の現金還付方式はやめ、いわば安倍晋三の指示通りに現金還付を中止し、ノルマ超えだろうと何だろうと全額入金を求める、いわば、"やらずボッタクリ"式の"ノルマどおり"だったことになる。

 それを受け入れるかどうかは議員の立場に応じて違いが出るはずである。人事や待遇で見返りを求めているなら、そのための投資と考えて、"やらずボッタクリ"に仕方なく応じるだろうし、派閥議員としての役目として義務的に行なっているだけのことだったなら、中抜きするなりして、自ら"やらずボッタクリ"を免れる手を打つ議員も存在するはずである。

 ところが、ノルマを超えた売った若手や中堅の全てが返して欲しいと声を挙げたかのような印象操作を行なっている。8月の会合を事実あったこととするためのストーリー作りでなければ、このような印象操作はできない

 この事実を裏返しすると、8月の会合など、存在しなかったということである。

 根拠はほかにもある。安倍晋三は4月の会合で、"現金還付は不透明で疑義を生じかねない"を中止の理由としていた。だが、幹部の誰一人、この言葉から、現金還付の違法性も合法性も一切嗅ぎ取ることをしていない。人間としての当たり前の感覚を麻痺状態にして出席していたと見るほかない。

 西村康稔の立憲枝野幸男に対する答弁。文飾は当方。
 
 西村康稔「(現金還付中止の)方針をずっと継続をして、5月のパーティーを開くわけですが、7月で安倍さんが撃たれて亡くなられた後、返して欲しいという声が出始めて、8月の上旬に集まったと。その段階で、繰り返しなる部分もありますが、還付は行わないと。

 しかし返してほしいという声にどう対応するかということで、色んな意見がなされたわけであります。で、その時点でこの還付が適法であるとか、違法であるとか、この法的な性格について何か議論したことはありませんし、収支報告書についても話はしておりません

 西村康稔の共産党塩川鉄也に対する答弁。

 西村康稔「まさに現金での還付は不透明、そして様々な疑念を生じかねないということで、還付そのものをやめるということが安倍会長の意向として示されたわけであります。そのときに何か収支収告書の話をしたわけでもありません。還付そのものが適法なのか違法なのか、そういった議論もしたことはありません

 塩谷立の立憲寺田学に対する答弁。

 塩谷立「私も真実を申し上げてますが、その(不記載の)話は出ませんでした。今までもその不記載のことが話題になったこともありません

 同じく立憲寺田学に対する答弁。

 塩谷立「その時点で多分、法令違反とかそういうことですから、我々はそのことは話はしなくて、ただ還付をやめようということで、それを行ったわけでして、その点では我々は別に嘘ついてるわけではなく、事実も今私してるところであります。だから会長は直そうとしたんでしょ」

 日本維新の会岩谷良平に対する答弁。

 塩谷立「確かに今申し上げましたように現金あるいは不透明な点だからやめようということで、それ以上の具体的な話は我々した記憶がございません。そういうことで、一応安倍さんの判断で、あの還付をやめたということでございます」

 塩谷立の公明党中川康洋に対する答弁。

 塩谷立「あの先程来申し上げておりますが、不記載についての話は一切出ておりません。そして、私もあの不記載についてもそれまで、今日今回この問題は起きるまで全く知りませんでしたので、その点で仮に不記載の話が出ればですね、当然、そのことを議論して何らかの対応していたと思っております

 2024年3月14日参院政倫審世耕弘成の立憲蓮舫に対する答弁。

 世耕弘成「(8月の会合で出たとしている、ノルマ超え分を議員個人のパーティーに上乗せして還付するという案について)誰が言ったか記憶ありません。で、違法性の認識は全くありません。私は上乗せなんていう案は出てないと思っています」

 世耕弘成の日本維新の会音喜多駿に対する答弁。

 世耕弘成「(4月の)そのミーティングではですね、違法性についての議論は一切行われなかったと思います。先程申し上げましたけれども、安倍会長からですねえ、ノルマ通りの販売にするからというご指示が出た場だというふうに思っています。私はそこで意見を述べるというよりは、参議院側にそのことをしっかり伝達をする役割として呼ばれてるというふうに認識をしておりました」

 世耕弘成の同じく日本維新の会音喜多駿に対する答弁。

 世耕弘成「(4月の会合は)ただ、ここはもう話し合いとか違法性を議論する場ではなくて、ノルマ通りの販売とするという指示が伝達された。そういう場だったというふうに思っています」
 
 既に取り上げているが、2024年3月18日衆院政倫審下村博文の日本維新の会岩谷良平に対する答弁。

 下村博文「2022年の4月に安倍会長の国会の事務所に私と塩谷さんとそれから当時西村事務総長、それから世耕参議院幹事長が呼ばれました。そのときに安倍会長の方から還付について現金の還付は不透明だからやめようということと、そのものをやめようという話がありましたが、還付が不記載であるとか、あるいは違法であるとかいう話は全く出ませんでした

 下村博文の同じく日本維新の会岩谷良平に対する答弁。

 下村博文「私自身も同時にそのときに地元でも、あるいは選挙区以外でも、個人の資金集めパーティーをしておりましたから、安倍会長からそのとき(現金還付中止の話が)あったときに、それは私自身は当然だろうというふうに思っておりましたので、還付そのものが不記載であるとか、違法であるとかいう話も出てませんし、私もそういうふうに認識したわけではありません

 要するに4月の会合で安倍晋三から現金還付中止の指示があった際、不記載とか、違法性とかの話が直接出なかったから、安部派幹部の誰もが不記載であったことや、その違法性を全く知らずにいた。

 と言うことは、安倍晋三の"現金還付は不透明で疑義を生じかねない"の文言から、どのような意味・解釈を付け加えることも、如何なる認識を働かせることもなく、どういったことなのか、尋ね返す気持ちも起きず、その文言を文言のままに、いわば無色透明な状態で受け取ったことになる。世間の善悪をまだ弁えない幼い子どもが大人の言うことを理解もできずにただ「ウン、ウン」と頷くに似た様子を幹部4人は安倍晋三に見せたことになる。

 だが、各幹部共に議員歴が長く、政治の世界の裏も表も知り尽くしているだろうし、海千山千の性格部分も抱えているはずだから、安倍晋三の"現金還付は不透明で疑義を生じかねない"の言葉が持つ意味内容を無色透明にしてしまうことなどできようはずはなく、できないことを平気でしているのだから、4月の会合を存在したこととすることはできない。

 例え不記載であることを承知していなかったとしても、あれ、これはどういうことなのだろうと疑問に思う気持ちが起きていいはずで、そこから合法性・違法性、いずれなのかを見極めようとする判断が働いていくものだが、それさえもなく、いわば意味のない言葉としてのみ虚心坦懐に耳に受け止めたように見える。

 世耕弘成は「ノルマ通りの販売とするという指示が伝達された。そういう場だった」と言っているが、現金還付中止の指示に対して当たり前の常識や感覚の持主なら自然と働かせることになる、"なぜ"という思いも働かなかったようで、人間存在として極めて不自然なこの形式いは4月の会合を現実には存在しなかった作り事としない限り、釣り合いは取れない。

 カラクリはこういうことでなければならない。現金還付を中止する理由を拵えるためにはある程度違法性を装わせなければならない。装わせたとしても、即政治生命に関わることだから、その違法性に対して自分達の関与を認めることはできない。この矛盾を解消するために常識ある人間なら持ち合わせているはずの善悪の判断力を鈍らせた状態に持っていき、現金還付が正しい行為なら使われるはずもない、"不透明"、"疑義"なる単語を敢えて無色透明な響きに変えることになった。結果、自分達を常識的な認知機能さえ持ち合わせていないリアリティを備えていない人間に見せることになった。

 人間として非現実的なこのような存在形式に関わる設定は安倍晋三から現金還付中止の指示が出た、我々はそれを受けて、各議員に連絡した、その際、違法性について議論もされなかったし、不記載の話も出なかった、それゆえに我々は現金還付の違法性も、不記載処理されていることも知らずにいたことにしようと幹部間で申し合わせた作り話――デッチ上げであることを否応もなしに逆証明することになる。

 全員が重度の認知症を患った人間にしか見えない。「不記載であるとか、違法であるとかいう話は出なかった」といくら言おうと、安倍晋三の死人に口なしをいくら利用しようと、4月と8月の会合を事実存在した会合とすることができない以上、不記載を知っていたことの証明としかならない。
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蓮舫を叩く:女だからではない、「私はこの20年、道を作ってきたつもり」は言い過ぎのインスタグラム

2025-03-02 07:32:24 | 政治
 livedoor blog 《八方美人尾木ママのイジメ論を斬るブログby手代木恕之》に、《25/2/27:清和政策研究会事務局長松本純一郎参考人聴取後の安住予算委員長会見文字起こし》を載せました。関心のある方はアクセスしてみて下さい。

 4月8月の安部派幹部の会合が安倍晋三の現金還付・収支報告書不記載の罪を薄めるためのデッチ上げの確信は変わらず、近々、《安倍晋三の「今後どうするか」の対応策検討の跡がない現金還付中止の指示4月会合の不思議》と題したブログをgooブログに載せる予定です。

 《テレビの世界でレポーターやキャスター等を約5年間務め務め、中国に留学し、参議院議員20年務めながら、相も変わらず合論理的思考力を欠いた発言の羅列となっている。》

 《・・・・・・》

Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 2024年7月7日投開票都知事選敗北後の2024年7月13日蓮舫インスタライブの続き、最終回。

 蓮舫「あのね、今回面白かったんだけども、何て言うのかなあ、『あっ、何て言ったらいいんですか』って言われるの。こういうこと平気で言われますと。『お前、まだ子どもは作らへんか』とか言われて、未だにあるんだって、それでまだ結婚しないのかも知れないし、『何て言えばいいんですか』て言われるから、キツイな、こんなにまで踏ん張っている子たちがいるんだってのが凄く分かって、なる程なあ、まだこんなに頑張ってくれる人たちがむしろ働いて、この国を支えている一人がいるってことを誇りに思えない上司って、何か、クソじゃん?

 私、最近言葉がキツイんだけど、『コンチクショウ』とか、今まで公人としてメッチャ言ってはいけない言葉と思ってんだけど」

 長男村田琳「『女性』だからっていう言葉はすごく軟らかい。『シングルマザー』って言葉は・・・」

 蓮舫「『シングル母』って実はまだきつくって、泣きつく先がないんだよ。シングルマザーって、窓口がまだある。だが、その窓口って施しでね、相談しに来い的な行政の。でも、それは違うと思ってて、それはシングルファザーの窓口にしないといけなくって、きっと何か施す場所って福祉で、お前ら相談しに来い的な空気で、未だにまだ残っていて、実は私、変えたかったんだけど、どうやったらそれを変えられるかなってのは議会時の仲間に託していないんだけどねえ」

 長男村田琳「やっぱり女性の権利ってのは凄く大事なことだし、今回の・・・」

 蓮舫「何か、いくつになっても、やれることがある社会なんだよっというのを体現したときにそれはそれで公人の道を作るのかなって、後輩たちにね、私はこの20年、道を作ってきたつもりです。

 で、面白かったなって、面白いって言い方変なんだけど、あの敗選の会見をやったときに終わって、後輩の地方自治体議員とかが私にメッセージを一言ずつくれたときに、うすい愛子ちゃんていう女の子がいて、彼女はレズビアンなんだけど、それを公言して区議になってね、凄く大好きな子で、彼女が一人で生きる選択とか、パートナーと暮らす選択って、堂々と街当演説言われた言葉を切望してたってんですよ。

 私、切望っていう言葉の重みをあんときにすごく感じて、あ、そうか、届かないと思って諦めてる子たちにやっぱり政治が届けなきゃいけないって思うのと、政治以外でそれが届けられるのかなっていうのを実はもどく感じて、私はもう政治家じゃないかと、探してみようって冷静に見てたんだよね」

 長男村田琳「でも、今まで公人としてこうやってて、それを反対する声を聞いてきて、その人たちも未来はあるし、家族もあるし、自分が民間人になったとき、自分の人生が豊かでないと、自分は民間人じゃないけど、まあ、クソだから、何かを語っていないと、やっていけない人っていると思うんだよ」

 蓮舫「多分、そっちなんだよね。別に何かを語るときは、何となくいいかなあみたいな」

 長男村田琳「気持ちいいじゃん。今まで自分が社会に認められていないから、SNSという特定の場で、何でだろうと考えたときに地位が低いと自分の中で思っている女性にこう噛みついている人間を考えている自分、カッコいいなあって思っていると思う」

 蓮舫「有名な人が噛みつき魔みたいなことを言っていると、私、最近ね、残念だな、この人の視野って思うんですよ。私も今までそうだったから、相手を否定して、自分はこうなんだっていうマウントじゃなきゃあ、女性とかやってられなかったのか、最近ね、この人可哀想だな、この人も子どもがいるのに子どもがその背中を見たらどう思うんだろうとか、何か、意外にそこはね、ああ、可哀想だなって思って、如何にもしわくなって・・」

 長男村田琳「・・・(意味不明)」

 蓮舫「面白いなあと思ったのはちょっと看過できない、うちの家族のこととかに言っている、SNSとかに、ちゃんと反論するようにしたんですよ。それに対していきなり閉じてアカウントを停止(?)した人が凄くたくさんいて、ああ、病んでるな。あ、多分この人、現実社会で病んでるなと思ったときにこの人が病んでるのをどうやったら取り除くことができるんだろうかとか、多分、辛いんだろうな、と思うようになって、凄く勉強になったなあ、それが」

 長男村田琳「寂しい人も一緒に戦っていこうよと言ってた方が凄いよと思うよ」

 蓮舫「一緒に戦っていこうよと思うんだよね。ただ、病んでるところが、活路がSNSって、凄く勿体なくて、SNSってやっぱり、こうだよねっていうのがいい形で連鎖すると楽しいじゃない?だけど、辛いものを更に辛くして引っ張り続けることができちゃうのは、勿体なあと思って。おんなじ時間だったら、反省した方がいいじゃん。」

 長男村田琳「分かんないなあ。自分のストレスの捌け口を人に当たったり、誰かの悪口を言うってのを、僕はそういうことを、蓮舫を通して貰って、その価値観を僕は教えられてなかったから、サッカーしたり、友達と電話したりとかするから」

 蓮舫「立場のあり方をちゃんと知ってるよね。琳もそうだけど、うちの娘も」

 長男村田琳「周りもそう」

 蓮舫「そうね。確かにそうね」

 長男村田琳「SNSで悪口言ったら、・・・(不明)・・・、SNSで何か言うのは自分の看板を掛けていることになるから、・・・正しい形のどうやったらいいんだろう、どうやったらもっともっと明るい世にできるんだろうと戦ってきた20年間は凄いと思う」

 蓮舫「琳の友達って何気にラインで繋がってたりするんだけど。今回これに挑戦したけど、(声を大きくして)残念でした、落ちました、でも、頑張りますみたいな。見事前向きな、こういうね、何で私に直接報告してくるのかって、かわいいなって思うんだけど、何かそういうふうにインセンティブを持って前向きになったら、諦めない理由になってくれると思ってて、今回それを感じてて、諦めない理由が、それには何が足りないのか、何を悩んでるのかっていうのを、それを解いていくのが政治だと思ったんだけど、多分、政治以外の社会のあり方もそういう価値観をもう過去のものだと言えちゃうような、何かそういう社会の一員になりたいなと思っているんだよねえ」

 長男村田琳「20年間戦ってきた蓮舫だからできる次のステップじゃない?」

 蓮舫「うん、だからもう、次のステップが全然見当がつかない。私失業して、どこへ行くんだろうと思って」

 長男村田琳「国政やってた人間が、(大きな声で)明日からは国政してます」

 蓮舫「言ってることは言ってるんだけど、国政とは言ってないよ。何を勝手に間口を広くしているから」

 長男村田琳「国政以外にやりたいことがあるかも知れないけど・・」、

 蓮舫「何がやれるんだろう、(カメラの向こうの視聴者に向かって)教えてみんな。私、何ができるんだろう。何もやってこなかったような気がして。ずうーっと何かやっぱり法律しか見てなかったし、行政監査しかしてこなかったし。自分は何がやれるのかって、それを探すのもあっていいなと思ってて」

 長男村田琳「でも、法律とさ、行政のスペシャリストって、やっぱ多くはないわけだから、そういう人材を使って――」

 蓮舫「ハートが飛っぶって何だろう。えっ、凄い、(視聴者が)2000人超えてる、しかも。ハート飛ん出る。それに今気づかされるって、バカじゃない?(笑って)ありがとう。

 でも、楽しいなあ、そう考えるとと思ってて。こんなに私の話を聞いてくれる人がいるのは嬉しいし、定期的にやろうかなあ。」

 長男村田琳「今の時代、SNSで誹謗中傷している方がいいかもの時代じゃないけど、入会員制としてやった方がいいと思うけど」

 蓮舫「それは考えている。それは考えている。ちゃんとやっていこうと思って。ただね、会費請求する前にちゃんと反応してて、どういうことかしらって言うと、大抵そういう人たちはみんな閉じていなくなっていくから、その数は一杯いるんだけど、ちゃんとやることは大事で、それはおかしいですよねっていうのはちゃんとやっていこうと思っている」

 長男村田琳「いいんじゃない、もう」

 蓮舫「(コメントを見て)こんなにさあ、『お疲れ様』とか、『頑張ってください』とかさあ、言ってくれるの本当に有り難いなあ。ねえ、何ができるんだろう。また皆さんにアイディアを貰いながら、自分でも模索していきたいと思います。あっという間に30分。あっ、テルくん?(左手を振る)テルくんとルック(犬?)だ。

 テルくんはルックライク(?)でしょ?犬も人もいない端っこをそおっとポテ、ポテ、ポテと歩いて、トップランニングの犬じゃないんです。本当に。今日朝、上野に息抜きに行ってきたんですよ。6時半に家を出て、テルくんと。普通の快感を得ながら。『テルくん歩く?』って言ったら、端っこをポテ、ポテ、ポテと。どこへ行ってもこの子は変わらないんだと思って。

 今日は蓮がきれいでした。暇だったら、暇だったらと言うより時間があったら、上野の不忍池?本町公園、凄い綺麗です。見に行って貰いたい。あー、こんなに蓮池が広がっているっていうのは美しかった。

 うん、そのきれいな蓮、可愛かった。多分8月ぐらいは満開なんじゃないかなあ。美しいんで是非、いらっしゃれる人は行って欲しい。東京のど真ん中でああいう自然があるっていうのは凄い素敵だと思うんで。

 (着ているTシャツを指でつまんで広げて見せて。猫の図柄)Tシャツいいんでしょ。娘が作ってくれたんです。こんだガビちゃんのTシャツあるんで、ガビちゃんのTシャツ。うるちゃんの前にいた18歳で、で、~の橋を渡ったところなんですけど、その子も~犬で、飼い主がもう飼いきれない、8歳とかそのくらいだったかなあ、いきなり帰ったら、家にいたんですよね。家にいたよね、いきなり。小学生の時。

 二人が帰ってきたとき、ガビがいたよね。この子何みたいな」

 長男村田琳「(犬の話。聞き取れない)」

 蓮舫「中型犬だけどね。テルくんね、お腹を出して投げていいよっていうのが1年半掛かったの。お腹出せない子だったのよね。今じゃデコぺンしてるけどね、普通に。腹出しているけどね。ほんとにホッとする」

 長男村田琳「(ワンちゃんの話だが、聞き取れない)」

 蓮舫「で、びっくりしたよね。だから、日本てやっぱり異質なんだなっていうのを考えてみるのが大事だったと思うし、異質だったら、それを何とか変えていきたいなと。変える立場に今までいたんだけど、飛び降りちゃったし、何ができるかを考えていきたいと思ってる」

 長男村田琳「(聞き取れない)

 蓮舫「今回溝の口(?)まで行ったんだけど、フェリーがワンちゃん、猫ちゃん連れていけるかなって、やっぱり小型犬でキャリーに入れなきゃって言うから、テルくんは行けないんですよ。・・・・

 あー、時間だから。(居住まいを正し)またやります。2000人もの人が見てくれて、ありがとうございます。ホントーはみんなの悩みとか、相談とか子育てで、これ聞いて欲しいみたいなことやりたかったんだけど、琳がいるからやれなかった」

 長男村田琳「やれよ」

 蓮舫「ハハハハッ。だから今度から一緒にやりましょう。(コメント欄にコメントされていたのか)お笑いを一緒にやろうと言っている。やっちゃう?色々可能性は考えたいんだよ。これやってほしいとか、ハハこう言ってほしいとかいるんだったら、教えて下さい。今日もおつきあいありがとうございました。良い週末をお迎えください(左手を振る)。では、またです、ありがとう」

 上司から、「お前、まだ子どもは作らへんか」と言われる女性がまだ存在していて、「あっ、何て言ったらいいんですか」と聞かれる。それを「あのね、今回面白かったんだけども」と面白かったこととする。その感性は凄い。

 そして女性たちがそれぞれに抱えているプライベイトな事情を考慮することのできない上司を、「まだこんなに頑張ってくれる人たちがむしろ働いて、この国を支えている一人がいるってことを誇りに思えない上司って、何か、クソじゃん?」と批判する。この言葉の展開の非合理性に気づかない。

 部下として働いている女性一人ひとりを一個一個の人格を有した自律した存在と見て尊重する当たり前の精神を欠いているからこそ、女性の内心にずかずかと土足で踏み込むことができるのであって、そのような上司にとって、そういった女性を「誇りに思えない」のは当然の結末で、結末に至る誘因を問題とせずに、それを「何か、クソじゃん?」で片付けて済ます蓮舫自身の感性はやはり凄い。

 女性を自律した存在として尊重できないのは女性の役割を結婚して、子どもを生んで、育てることだと昔からの慣習を通してしか見ることできないからだろうが、テレビドラマの世界では姑が嫁に対して、「早く孫の顔を見たい」、「早く跡継ぎが欲しい」と暗に妊娠・出産を望む、あるいは急かすシーンに出食わすことがあり、現実にはあり得ないこととすることができないから、女性の役割を固定化しているのは男ばかりでないのだろう。

 上司から「お前、まだ子どもは作らへんか」と言われる女性の一般的な年齢は30歳を超えていると思うが、その年令近辺の女性を蓮舫は、「こんなにまで踏ん張っている子たちがいる」と、一個の自律した存在と扱うことができずに、ここでも、「子たち」と軽んじた下の者扱いをしている。

 この軽視はクソだとけなしている上司の態度とさして変わらない。

 すぐあとで、「まだこんなに頑張ってくれる人たち」と言い換えているが、「頑張ってくれる」は、「踏ん張っている」の主体性を相手に置いた蓮舫自身による評価であるのに対して相手の主体性は蓮舫自身の評価を基準とした、その範囲内に置いていて、その分、相手の主体性を軽んじている。

 例えば母親が「自分の子どもは毎日元気に学校へ行っている」と言うのと、「自分の子どもは毎日元気に学校へ行ってくれている」の評価の違いである。

 ここからも蓮舫の、年下相手であっても、対等な存在と見るのではなく、自身を上に置く何様意識が見えてくる。

 相手の主体性を重んじて、自律した対等な個人として扱うには、蓮舫が何様でなかったなら、年令に関係なく、「頑張っている女性たち」という言葉を使うべきだろう。
  
 蓮舫は現在の福祉は「お前ら相談しに来い的な空気」が「未だにまだ残ってい」る、「施す場所」の感じがすると言い、そういった福祉を「変えたかったんだけど」と言いながら、「どうやったらそれを変えられるかなってのは議会時の仲間に託していない」と打ち明けている。

 要するに「変えたかった」は思いだけで、変えようと挑戦する具体的なアイディアにまで踏み込むことも、「議会時の仲間」にそのようなアイディア作りの着手を託すこともしていなかったことになる。例え託したとしても、自身が手つかずにしていた以上、丸投げになるのだから、蓮舫自身のこの「変えたかった」に反して何もしなかった政治的不作為は蓮舫が頑張っている女性を誇りに思えない上司に投げつけた「クソじゃん?」という言葉を借りるとすると、「クソじゃん?」そのものとなる。

 自らの有言不実行を自ら明かしたのである。

 蓮舫は「何か、いくつになっても、やれることがある社会なんだよっというのを体現したときにそれはそれで公人の道を作るのかなって、後輩たちにね、私はこの20年、道を作ってきたつもりです」と誇っている。

 確かに国会追及の活躍は華々しく見えるが、実質的な成果を上げてきたわけはないから(安倍晋三の政治の私物化・権力の私物化追及には、その無策が延命に手を貸しただけであった)、華々しさは見せかけでしかなく、経歴上は党の役職を様々に消化してきているが、取り立てて素晴らしいと言える足跡を残しているわけではなく、その役職の数はそれなりにあるから、後輩の中には第2の蓮舫、第3の蓮舫を目指す女性議員は存在するかもしれないが、蓮舫は自身に対するバッシングを流してしまうと「次の子たち」が流しきれないと反論に出たが、その反論も人を唸らせるようなものでは全然なく、その程度の反論よりも、批判やバッシングに負けない自分自身の言葉を持つことを勧めることが肝心な点だが、本人自身はその肝心な点が何もできていないだけではなく、今まで見てきたようにこれといった素晴らしい言葉を発信してはいないのだから、その程度の発信能力、認識能力では、「私はこの20年、道を作ってきたつもり」は表向きの道は立派に見えるが、一本筋が通った、これこそと言える政治姿勢は見えてこない。

 このことは区議になってからレズビアンを公言したといううすい愛子ちゃんについての言及からも窺える。その発言を改めて取り上げてみる。

 「で、面白かったなって、面白いって言い方変なんだけど、あの敗選の会見をやったときに終わって、後輩の地方自治体議員とかが私にメッセージを一言ずつくれたときに、うすい愛子ちゃんていう女の子がいて、彼女はレズビアンなんだけど、それを公言して区議になってね、凄く大好きな子で、彼女が一人で生きる選択とか、パートナーと暮らす選択って、堂々と街当演説で言われた言葉を切望してたってんですよ。

 私、切望っていう言葉の重みをあんときに凄く感じて、あ、そうか、届かないと思って諦めてる子たちにやっぱり政治が届けなきゃいけないって思うのと、政治以外でそれが届けられるのかなっていうのを実はもどく感じて、私はもう政治家じゃないかと、探してみようって冷静に見てたんだよね」――

 どうもすんなりとは理解できない言葉の羅列となっている。うすい愛子なる女性が「一人で生きる選択とか、パートナーと暮らす選択」を堂々と街当演説で発言した言葉を誰が「切望してた」のか、主語が全然見えてこない。情報を共有している人間には通じるのだろうが、情報の門外漢には意味不明以外の何ものでもない。

 で、ネットで調べてみた。「OUT IN JAPAN」なるサイトに彼女のことを紹介していた。「OUT IN JAPAN」とは、LGBTQ+の性的マイノリティを可視化することを目的としたフォト・プロジェクトだそうだ。

 「OUT IN JAPAN」の意味は、多分、「日本の中から外へ」ということなのだろう。あるいは「日本の因習を切り離して、自由な世界へ」といった意味を含ませているのかもしれない。

 うすい愛子なる女性自身の大きな写真と自身の言葉が記されている。年齢31歳。いつの記事か日付なしだったから、立憲民主党の議員情報で調べてみると、1990年生となっている。現在34歳か、35歳ということになる。

 要約すると、高校生のときに自分自身のセクシャリティに気づき、付き合い始めた友人にカミングアウトし、"ふつう"に受け止められた。但し、「政策の柱も、私の想いも、ジェンダーやセクシャリティが大きくかかわっているにも関わらず、私は自分の背景を半ば隠したまま議員になった」としている言葉とその他の言葉から、カミングアウトを切望しながら、そのことは区議となっても限られた個人関係のレベルにとどまり、世間に対しては当事者であることを隠したまま、いわば理解者の態度、あるいは支援者の態度にとどまり続けた。

 その心苦しい見せ掛けの姿を取り払って、一人の人間として、一人の区議として、世間に向けてやっとのこと堂々とカミングアウトができた。それが蓮舫が言っているところの、「堂々と街当演説で言われた言葉を切望してたってんですよ」に当たるのだろうが、「切望してた」の主語は、勿論、うすい愛子なる女性自身だろうが、「街当演説で言われた言葉」の「言われた」が敬語扱いになっているから、うすい愛子なる女性以外の格上の人物を主語として口にした言葉を「切望してた」という意味を取らせてしまい、素直には通じない言葉になってしまっている。

 要するに本人は街当演説でカミングアウトして、本当の自分の姿を見せることを切望していながら、なかなか果たせなかったが、やっと踏ん切りがついて、カミングアウトを切望どおりに果たすことができた。その「切望」なる言葉に重みを感じたということなのだろうが、意味の通じない起承転結だから、言葉の重みが何も伝わってこない。

 「私はこの20年、道を作ってきたつもり」の自負をこの上なく怪しくさせる。参議院議員20年もやっていると、こうなるのかもしれない。

 蓮舫のうすい愛子なる女性に関わる問題点はこれだけではない。レズビアンが、ゲイも同じだが、自らの固有の生き方を"切望"しても、その声が「届かないと思って諦めている子たちにやっぱり政治は届けないといけないって思う」の"政治は何"を届けるのかには何も触れていないだけではなく、「政治以外でそれが届けられるのかなっていうのを実はもどく感じて、私もう政治家じゃないかと、探してみようと思って、様子を見てたんだよねえ」と様子見の風見鶏を呑気に決め込んでいる。

 この程度では、「私はこの20年、道を作ってきたつもり」は言い過ぎだろう。▲

 2024年7月7日都知事選4ヶ月前の札幌高裁の2024年3月14日、同性婚を認めないのは憲法違反だと示した初の違憲判断に対する同日付「NHK NEWS WEB」記事。

 次のような内容となっている。〈齋藤清文裁判長は婚姻の自由を保障した憲法の条文について「人と人との間の自由な結びつきとしての婚姻についても定める趣旨を含むものだ。同性間の婚姻についても異性間の場合と同じ程度に保障していると考えるのが相当だ」という踏み込んだ判断を示しました。

そのうえで、「同性愛者は婚姻による社会生活上の制度の保障を受けられておらず著しい不利益を受けアイデンティティーの喪失感を抱くなど個人の尊厳を成す人格が損なわれる事態になっている。同性愛者に対して婚姻を許していないことは合理的な根拠を欠く差別的な扱いだ」として、憲法に違反すると判断しました。〉――

 蓮舫は政治以外に何を届けられると思っているのだろう。如何なる社会の成り立ちも国の政治と深く関わっている。結果、人間の存在形式は憲法の保障を含めて政治と大なり小なり関わることになる。とはいえ、個々の生活に於ける理解・不理解は周囲の人間関係に応じることになるが、社会全体の理解・不理解は政治が手を打つことが必要になる。札幌高裁判決が「解釈の違いだ」で片付けられないように政治が日本国憲法第24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」を、「婚姻は、両性もしくは同性の合意に基いて成立」と書き改めることによって時間の掛かる遠回りであっても、人権上の尊厳ある確実な保障をもたらす近道となるはずだ。

 同性婚への理解が広がっていけば、同性愛者が同性同士の集まりを開きやすくなるし、その集まりに参加しやすくなり、そのことへの社会的認知がカミングアウトの容易な環境へと導いていく。

 蓮舫は理解ある者の装いを見せながら、寝ぼけた綺麗事を口にしているに過ぎない。愛子ちゃんとの関連で、同性婚の憲法容認しかないな、憲法容認がカミングアウトをより容易にし、生き方の保障に繋がっていくはずだとすぐさま飛びつく長年政治をしてきた人間の嗅覚を働かすことができないのだから、その政治的感性はお粗末としか言いようがないし、20年間、どのような"道"を歩んできたのか疑わしくなる。

 東京都の区議会議員の被選挙権は25歳以上、2022年4月1日以降なら、成人から7年、以前なら、成人から5年。それなりの社会意識が備わり、それなりの社会的認知機能が身についた一個の人格であるはずの社会人相手に「あきこちゃんという女の子」と相変わらず"子扱い"する。一見、親しみを込めているようだが、年齢差に関係なく、年齢の上下に関係なく、自分も一個の人格であるが、相手も一個の人格であるとする、その人なりの価値や重要性を尊重する人権意識を欠いていなければ、成人男女を"子"と呼ぶことはできないはずだ。後輩であろうと何だろうと、個人として尊重する精神が蓮舫からは見えない。自身を相当に何様に置いているのだろう。  

 長男村田琳が他者を攻撃したり、バッシングする話を再度持ち出して、「何かを語っていないと、やっていけない人っていると思うんだよ」と母親の蓮舫と同じく、高みからの物言いで批判している。

 例えば熱狂的な蓮舫ファンの女性が蓮舫の言動全てを称賛して、自身のSNSに称賛の言葉を書き連ねることができるのは自己を絶対真としているからであって、蓮舫が徹底的に嫌いなアンチファンがそれを読んで、クソだと思い、激しい攻撃の言葉をそのSNSに投稿するのも自己を絶対真としているからであろう。

 このように相互に自己を絶対真と思っているから、どちらか一方を、あるいは両方を「何かを語っていないと、やっていけない」、いわば心の空白を埋めるためだなどと自己認識させることは困難で、なかなか止めることはできない。現実にも、止まらない光景は延々と続いている。

 このように相対的に捉えるだけの認識力を働かすことができずに、「何かを語っていないと、やっていけない人」と批判することも自己を絶対真としているからで、いわば自己正当化バイアスを通して他者を価値判断していることになる。

 このことは村田琳の以下の発言にも強く現れている。

 「気持ちいいじゃん。今まで自分が社会に認められていないから、SNSという特定の場で、何でだろうと考えたときに地位が低いと自分の中で思っている女性にこう噛みついている人間を考えている自分、カッコいいなあって思っていると思う」

 では、東国原英夫もデープ・スペクターも、蓮舫が「地位が低いと自分の中で思っている女性」であって、そういう女性に噛みついている自分がカッコいいと想像して、その快感のために「蓮ちゃんは生理的に嫌われているから」と発言したり、「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」と投稿したりしたのだろうか。人間は簡単に規格化できる程には単純には出来上がっていないはずだが、簡単に規格化して、そこに自己絶対真を置いている。

 蓮舫は「相手を否定して、自分はこうなんだっていうマウントじゃなきゃあ、女性とかやってられなかった」と以前の自分自身の視野の狭さを自己批判しているが、誰かに対する否定が即、視野の狭さを示すわけではない。その否定がどれ程に聞く者の判断によって受け入れられるかであって、多くに受け入れられた場合は視野は逆にその広さを評価される。その否定がその時代の多くに受け入れられなくても、次の時代に受け入れられて、その視野の広さを見直されるということもある。

 但し受け入れられるか受け入れないかは別にして、自身にとっての合理的思考を最大限に駆使した否定でなければならないということであろう。あとはその否定の正当性は周囲の判断に任せる。視野が広いか、狭いかも、その判断に負う。

 つまり自己絶対真で終えてはならない。そのためには常に第三者の判断を仰ぐ姿勢でいなければならない。

しかし蓮舫の「相手を否定して」の「否定」という言葉の扱いは"間違い"と位置づけていて、反省して出てきた答ということになる。その反省は相対的思考力や合理的思考力の成長を背景としているはずである。両能力の成長なくして、自身の過ちを正す反省は生じない。

 だが、蓮舫の次の発言は相対的思考力も合理的思考力も、備えているのか疑わしくさせる。

 「有名な人が噛みつき魔みたいなことを言っていると、私、最近ね、残念だな、この人の視野って思うんですよ」、「最近ね、この人可哀想だな、この人も子どもがいるのに子供がその背中を見たらどう思うんだろうとか、何か、意外にそこはね、ああ、可哀想だなって思って、如何にもしわくなって」――

 「有名な人」とは東国原やデープ・スペクターを指すのだろう。「噛みつき魔」とは合理的な根拠も理由もなく、自身の基準で無闇と好んで批判を繰り返す人物を言っているのだろう。当然、その視野は狭いと言える。

 だが、東国原やデープ・スペクターを「噛みつき魔」に結びつけるには、これまた合理的な根拠、あるいは理由の提示が必要となる。東国原が「蓮ちゃん、生理的に嫌いな人が多いと思う」と発言したことが「噛みつき魔」に相当する根拠も理由もないことだとの証明である。

 その証明を経ずに子供が見た場合の本人の背中(=生き方)を問題にして、気づかない本人を可哀想だとか、しわい(=ケチ臭い)とか批判する。一体何様だと思わせる程に傲慢な考えであって、相対的思考力も合理的思考力も窺うことはできない。

 蓮舫が「相手を否定して、自分はこうなんだって」云々と過去の自分を反省の文脈で発言していることは相対的思考力や合理的思考力が成長したからではなく、話のバランスを取るために持ち出した方便に見える。

 蓮舫は単なる民間人ではない。その発言は党役職を含めた政治家としてのキャリアを背景にしている。当然、それ相応の社会的責任を負っている。具体的根拠や理由を示さずに「可愛そうだ」、「しわい」と好悪の感情を示すだけでは、その正当性は第三者には判断できない。だが、蓮舫自身は自分の感情に正当性を置いて喋っている。その矛盾に気づかない。自己正当化バイアスしか窺うことができない。

 蓮舫はSNSでの家族に対する批判には反論することにしていた。その反論に対してアカウントをいきなり閉じた人が凄くたくさんいた。多分この人、現実社会で病んでるなと思ったとき、この精神の病みをどうやったら取り除くことができるんだろうかと考えた。多分、辛いんだろうな、と思うようになって、凄く勉強になったと。

 ネットではX(旧Twitter)にしても、インスタグラムにしても、匿名アカウント作成が可能であるようなことが紹介されている。最も匿名性が高いSNSはXだとされている。多くが本名を名乗らず、ハンドルネームを名乗っている。当ブログに対するコメントも、数少ないが、「Unknown」やニックネームが多く、本名を名乗るコメントはごく少数派となっている。

 蓮舫の家族に対する批判への蓮舫自身からの反論に直ちにアカウントを閉じたということは本名を名乗っていたことになる。匿名だったら、放置しておけば済むからなのは断るまでもない。本名を名乗っていて、アカウントを閉じるという行為は蓮舫の反論に再反論できなかった恥となる証拠となる。どこそこの誰々は私の反論に何も言えず、アカウントを閉じたという指摘を可能とする証拠ということである。

 そういった危険を犯して、反論できないような批判を行うだろうかということを第一番に考えなければならない。

 蓮舫が先に挙げた「有名な人」は証拠を残して恥となったとしても、当然、閉じることはできない。無視する措置に出るだろう。とすると、「閉じた人が凄くたくさんいた」は「有名な人」以外の一般人ということなのだろう。但し一般人と言えども、知人、同僚、面識のないその他と繋がっている場合はSNSによっては再反論できなかった恥かしい証拠は繋がっている彼らには周知の事実となる可能性を抱えることになる。

 閉じて、恥を残すくらいなら、閉じないままにして無視するか、最初から匿名にするか、いずれかの選択をしなかったのだろうか。閉じる手間も省くこともできる。

 但し、アカウントを停止した人の「凄くたくさん」は蓮舫自身が確認できる人数ではあるが、その不特定多数が「現実社会で病んでる」かどうかは確認できない事実であるはずで、ただ単にアカウントを閉じただけで判断する蓮舫の主観的判断ということになる。

 但し往々にして主観的判断はそうあってほしいという思いが描き出してしまう景色ということもあり得て、「現実社会で病んでる」の「現実社会」は蓮舫をSNSで批判する社会を指していて、だからこそ、蓮舫が病んでいて欲しいというだけの主観的判断である可能性は否定できない。

 いずれにしても、好き勝手な批判、根拠のない批判を振りまくアカウントの多くは責任回避の備えからも匿名を武器にしていることが多いはずだ。SNSの匿名率を見てみる。 
 
 《平成26年版 情報通信白書のポイント》(総務省)によると、

「Twitterの実名・匿名利用の割合」は――
日本(匿名75.1%:実名利用9.4%)
米国(匿名35.7%:実名利用56.4%)
英国(匿名31.0%:実名利用60.3%)
仏国(匿名45.0%:実名利用42.4%)
韓国(匿名31.5%:実名利用54.5%)

 10年前の調査だが、国民性も絡んでいるだろうから、10年で実名率が格段に向上するとは思えない。

 かくも日本の匿名率は諸外国と比べて高い。このことは、いわば元々匿名率が高いのだから、誰かを批判して反論され、その反論に再反論を加えることができなくても、アカウントを閉じる必要率の低さをも物語ることになる。この低さは蓮舫が「アカウントを停止した人が凄くたくさんいた」とする発言と矛盾する。当然、反論できなくなるとアカウントを閉じるという行為を匿名率の点から言っても、世間的に一般的な現象とすることはできない。蓮舫が自身に対する批判の多さを説明するために誇張したとも考えられる。

 この匿名率の割合は、《我が国と諸外国のこどもと若者の意識に関する調査(令和5年度)》(こども家庭庁)の中の国別の「自分には長所があると感じている」割合と、同じく国別の「私は、自分自身に満足している」割合とほぼ同傾向を取ることを必然としなければならない。5カ国の調査だが、日本と米国とドイツの3カ国を取り上げてみる。

「自分には長所があると感じている」
「そう思う」「どちらかといえば 「どちらかといえば 「そう思わない」
そう思う」     そう思わない」
日本  21.1%   44.4%       22.0%        12.4%
米国  44.7%   37.9%       12.5%        17.5%
ドイツ 33.9%   51.3%       11.4%         4.2%

「私は、自分自身に満足している」
「そう思う」「どちらかといえば 「どちらかといえば 「そう思わない」
そう思う」     そう思わない」
日本  16.9%   40.5%       25.4%        17.2%
米国  36.4%   36.8%       16.45%        10.3%
ドイツ 32.3%   41.3%       19.1%         7.0%

 要するに日本のこどもと若者の自己肯定感は5カ国の中で最も低くて、上記両質問から平均を取ると、アメリカと比較して約50%近く、ドイツと比較して約60%近くの低さとなっていて、この低いことがSNSを使った他人に対する誹謗中傷や歪んだ正義感の強要を通して自己肯定感の不足分を充足させている可能性が考えられることになる。

 誹謗中傷にはまり込むことも、歪んだ正義を振り回す快感も、考える力(=論理的思考力)の欠如によって生じる。この欠如の原因は教師が伝える知識をなぞって頭に叩きむだけで、思考の回路を通さずに完結できる暗記教育に主としてあるはずである。

 蓮舫が反論を返すと、アカウントを閉じてしまうSNS利用者を「現実社会で病んでるな」と看做して、「この人が病んでるのをどうやったら取り除くことができるんだろうかとか」と言いかけたが、その方策を考えずじまいにして、ただ単に「多分、辛いんだろうな」、「凄く勉強になったなあ」と何が勉強になったのか読取り不能の発言をしているが、誹謗中傷や歪んだ正義に走る原因は社会的な善悪や社会的な常識・非常識を考える力(=論理的思考力)が未熟だからであって、その成長を抑える原因は学校教育が暗記が主体となっていることによって考える力(=論理的思考力)の育みが阻害されいるからと見て、暗記教育主体から考える教育主体へと転換して考える力(=論理的思考力)を育んでいき、その成果としてSNSの匿名率を減らし、実名利用率を上げていく方向に持っていくことであろう。

 考える力が身につけば、善悪の判断も、常識を弁える分別も自ずと働く。蓮舫は参議院議員20年やってきて、こういったことの道理すら考えつかない。できることは「多分、辛いんだろうな」、「凄く勉強になったなあ」と、精々自己満足に過ぎない情緒的な反応を示す程度に収まっている。

 考える力(=論理的思考力)を欠いていることが誹謗中傷やニセの正義感に走る原因になっていると考えると、それらの誇示を有意義な時間の過ごし方と勘違いしているだろうから、蓮舫が言っている、「病んでるところが、活路がSNSって、凄く勿体なくて」、「辛いものを更に辛くして引っ張り続けることができちゃうのは、勿体なあと思って。おんなじ時間だったら、反省した方がいいじゃん」の指摘は反発を招くことはあっても、素直に受け入れられる言葉となる可能性は低く、やはり時間のかかる遠回りになったとしても、暗記教育主体の学校教育から考える教育主体の学校教育への転換を政治の力で図ることに思い至るべきだろう。

 長男村田琳が「自分のストレスの捌け口を人に当たったり、誰かの悪口を言う価値観を蓮舫を通して教えられてなかったから、そういう価値観は理解できない」といった趣旨のことを言い、蓮舫が「長男も娘も立場のあり方をちゃんと知ってるよね」というふうに答えている。要するに蓮舫は子育てに優れた母親だった。

 蓮舫の父親はバナナの日本への輸入を手がけて財を成したという。そういった裕福な家庭で蓮舫は育ち、大学に行かせて貰い、大学在学中にモデルとなり、それからテレビの世界に活躍の場を移し、政治家へと転身した華麗な経歴の持ち主ちとなっている。そういった家庭で長男も娘も育ったはずだ。

 生活の貧しさが与えるストレスに負けることなく考える力が優って、貧しくても逞しく生きる男女が多く存在する一方でストレスに考える力が伴わずに負けてしまう男女も多く存在する。特に後者の多くは自身の貧しさの原因を社会が不当だからと考えて、自らをその不当性が生み出した社会的弱者と位置づけ、その対極に社会的強者を置いて同じ不当な存在と看做して、自身ができる能力で彼らを攻撃する者が出てくる。
 
 あるいは同じ社会的弱者を自分を見ているようで苛立ち、そのうちの誰かを攻撃しても安全な自分より弱い者と見る、例えば身体障害者や性的マイノリティを見つけて、苛立ちの捌け口として何らかの方法を用いて攻撃する。それを可能とする能力が現在の社会ではSNSを使った攻撃であり、それが最も簡便な方法ということであろう。

 蓮舫や長男村田琳が考えるように、自分のストレスの捌け口を人に当たったり、誰かの悪口を言う価値観は親に教えられなかったといったことで収まりがつく程に世の中は単純ではない。特に蓮舫は国民の生活を考える国政政治家だった。個人的な収まりで片付けていいはずはない。

 だが、親子共々、単純な考えで収まりをつけている。収まりをつけていられるのは二人が共に自己正当化バイアスに囚われていて、相対的思考力を失った状態にあるからだろう。

 相対的思考力を持たない人間が政治家を務めていたというのは逆説でしかない。社会的弱者に目を向けなければならない機会が訪れたときにだけ目を向ける慣習が身についているから、アンテナがどんなときでも臨機応変に必要とする方向に感度を働かせるということはないのだろう。

 だが、長男村田琳は母親の蓮舫に対して「SNSで何か言うのは自分の看板を掛けていることになるから、・・・正しい形のどうやったらいいんだろう、どうやったらもっともっと明るい世にできるんだろうと戦ってきた20年間は凄いと思う」と最大限の賛辞を送っている。

 対して蓮舫は長男村田琳が母親に「残念でした、落ちました、でも、頑張ります」と連絡してきた等、内輪には即通じるだろう会話を紹介しているが、不特定多数の視聴者相手のライブ配信であるにも関わらず、内輪の話と分かる設定を前置きしない不用意な会話であることに蓮舫は気づかない、

 要するに長男が蓮舫の都知事選落選をニュースで知り、スマホか何かでメールか電話をしてきて、「残念でした、落ちました、でも、蓮舫は頑張ります」と蓮舫の身になって落胆を和らげると同時に頑張り宣言を促したといったところなのだろうが、政治家として演説や国会追及で会話し慣れているはずなのに、うすい愛子なる女性が「一人で生きる選択とか、パートナーと暮らす選択って、堂々と街当演説で言われた言葉を切望してたってんですよ」の発言を初めとしてストレートには通じない会話を披露して、

 そういった性格の会話であることに気づかないでいる。

 だが、続けて話している内容もストレートには通じないものとなっている。

 「何かそういうふうにインセンティブを持って前向きになったら、諦めない理由になってくれると思ってて、今回それを感じてて、諦めない理由が、それには何が足りないのか、何を悩んでるのかっていうのを、それを解いていくのが政治だと思ったんだけど、多分、政治以外の社会のあり方もそういう価値観をもう過去のものだと言えちゃうような、何かそういう社会の一員になりたいなと思っているんだよねえ」

 どうも意味不明で、素直に頭に入ってこない。目標もなく頑張りますと言っても始まらないのだから、"頑張る"という気持ちそのものがインセンティブとなるわけではなく、何らかの行動目標を立てて、その達成に向けた活動自体をインセンティブとすることが常識的な成り行きであるはずである。

 都知事選に落選しても、多分政治家をということなのだろう、「諦めない理由」として何が不足しているのか、何を悩んでるのか、「それを解いていくのが政治だと思ったんだけど」と言っているが、政治家を続けるべきかどうかは政治が解くわけではなく、政治家を続けるにしても、続けないにしても、以後何をしたいのか、何を成すべきなのか、自身の意志・意欲が解く進路であって、そこに「政治」を持ってくるのは敗選で終止符を打つことになったとしても、過去から現在までの自身の政治家としての関わりをタダ者と片付けられたくない虚栄心、裏返すとそれ相応の政治家だったと知らしめたい虚栄心が働いている部分もあるに違いない。

 次に言っている「多分、政治以外の社会のあり方もそういう価値観をもう過去のものだと言えちゃうような、何かそういう社会の一員になりたいなと思っているんだよねえ」も意味不明で、大体が社会は常に政治と大なり小なり関わっているのだから、「政治以外の社会のあり方」など存在しないはずだ。

 勿論、政治という職業に関わらない社会の一員という存在形式はあるが、「社会のあり方」そのものを指すわけではない。

 「そういう価値観」とはどういう価値観なのか、蓮舫のこの発言の前に長男村田琳との間の会話で「価値観」という言葉が出てきたのは、村田琳が自分のストレスの捌け口を他人を攻撃することで見い出す価値観は理解できないという文脈で使っている。この「価値観」を当てはめると、ストレスの捌け口を他人を攻撃することに価値を置く社会が「もう過去のものだと言えちゃうような」、いわば攻撃等に煩わされない、「何かそういう社会の一員になりたいなと思っている」という意味を取ることになる。

 但しこの解釈が間違っていたとしても、蓮舫が発言していること自体はそういう社会を実現させたいという自らの意志を示した発言ではなく、自然発生的にそういう社会になっていることを望む発言であって、その姿は過去に於いて政治家の姿をしていたとも、あるいは現在に於いても政治家の姿をしているとも言い難い。自分からが働きかけてそういう社会に持っていきたいとしているのでなく、他力本願そのものの実現願望だからだ。

 また、この実現願望は東国原やデーブ・スペクターの、蓮舫本人が言っているバッシングが相当応えていることをも示していることになる。敗選という結果に反して都知事選は「達成感があった」、「確実に繋がっている人達がいるってのが分かった」、「120万を超える人が蓮舫と書いてくれた」等々、並べ立てていた選挙の有意義性の、その効力を跡形もなく消し去った、何ものにも煩わされない「社会の一員」への同化願望――平穏無事を願望しているからだ。

 この点からも、都知事選挙の有意義性は強がりでしかなかったことを証明することになる。あるのは自己正当化バイアスのみとなる。特に東国原の「蓮ちゃん、生理的に嫌いな人が多いと思う」の批判が応えていて、生理的に嫌っている多くの有権者の存在を頭に置いてしまい、敗因の大きな一つと気に病んでいる可能性は否定できない。

 以下、今後の身の振り方として何がいいのだろうかという話、入会員制でライブ配信する話、愛犬との散歩の話等をしてから、ライブ配信を閉じている。最後に蓮舫の思考力を疑いたくなる2点を取り上げてみる。

 長男村田琳が「入会員制」でライブ配信を勧めると、蓮舫はそれはちゃんと考えているとした上で、「ただね、会費請求する前にちゃんと反応してて、どういうことかしらって言うと、大抵そういう人たちはみんな閉じていなくなっていくから、その数は一杯いるんだけど、ちゃんとやることは大事で、それはおかしいですよねっていうのはちゃんとやっていこうと思っている」と答えている。

 蓮舫はかつて有料会員制のライブ配信を試みたことがあったのか、社会的な常識としていたのか、会費請求する段になると、「閉じていなくなっていく」。しかも「その数は一杯いる」。と言うことは、会費制を承知して登録を行なったものの、一度か二度視聴してみて、カネか払ってまで視聴し続ける価値はないと見る視聴者が多くいて、その多くが月額制なら、その月の分を支払い後、会員登録を解除してしまうということであろう。

 要するに配信内容に対する視聴者側の費用対効果の問題に尽きることになり、それが配信側の精神的不満足を生み出すことになるのだが、蓮舫はこのことが理解できないだけではなく、会員登録及び会員登録解除は自由意志であることを理解することができないで、「ちゃんとやること」、いわば視聴し続けること、あるいは登録し続けることは「大事で、それ(登録解除)はおかしいですよねっていうのはちゃんとやっていこうと思っている」と言うことのできる蓮舫のこの思考力は疑わざるを得ない。

 蓮舫が指摘している日本の異質性について。長男村田琳が蓮舫の愛犬について話していたが、聞き取れなくて、続けて蓮舫が次のように発言している。「で、びっくりしたよね。だから、日本てやっぱり異質なんだなっていうのを考えてみるのが大事だったと思うし、異質だったら、それを何とか変えていきたいなと。変える立場に今までいたんだけど、飛び降りちゃったし、何ができるかを考えていきたいと思ってる」

 長男村田琳が日本の異質な点を指摘したのだろう。その指摘を蓮舫は「日本てやっぱり異質なんだなっていうのを考えてみるのが大事だったと思う」と肯定した。いわば蓮舫と長男はある事実が日本の異質な点であることに意見が一致した。

 にも関わらず、蓮舫は「異質だったら、それを何と変えていきたいなと」と言って、日本のその異質点を「だったら」と仮定の問題としている。最初は「日本てやっぱり異質なんだな」と断定しながら、次の瞬間、異質でない場合もあり得るニュアンスの発言に変えている。

 もし事実異質であるなら、「異質だったら」とするのではなく、「異質である以上、それを何とか変えていきたいなと」したなら、"異質"に向けた自身の変革の意志を明確に示すことができると同時に例え政治家をやめても、一般国民が持ちうる変革に向けた政治的意志をも明確に示すことができる。

 小さな問題で、揚げ足取りのように見えるかもしれないが、論理的思考力の問題となることと論理的思考力の欠如が誘い込む落とし穴が自己正当化バイアスであって、両者は深く関係することだから、最後に取り上げてみた。

 以上で、「蓮舫を叩く:女だからではない」の6回に亘ったブログ記事は終えることになるが、"叩き"具合の正当性は、当然ながら、数少ない読者それぞれに任すことになる。
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