3月29日TBS放送の昼のワイドショー「ひるおび!」が大相撲春場所千秋楽の白鵬の対日馬富士戦での変化を取り上げていた。白鵬の名古屋場所以来4場所ぶり36回目の優勝がかかった日馬富士との横綱同士の対戦で白鵬は右手を突き出して正面から低く当たっていく姿勢を見せながら、相手が突っかかってくるのを見て咄嗟に左に体をかわすと、日馬富士は突っかかった勢いのまま一直線に土俵外に飛び出してしまった。
全く呆気ない幕切れであった。
この変化に場内のファンから、「勝てば何でもええんか」、「恥を知れ」、「変わって勝ってうれしいんか」等々の罵声が飛んだとマスコミは伝えている。
私は白鵬の変化に人間のある種の弱さを見た気がした。年齢的な体力の衰えへの自覚と万全ではなくなった自らの強さへの確信、新しい強い力の出現への恐れ等々が勝負に抱く自らの力の確実性を蝕み、相撲の内容よりもともかく優勝すること、優勝回数を重ねることを選ぶという守りに入ったのではないかと。
勿論、推測が当たっているとは限らない。だが、幾ら能力優れた者でも、人間である以上、肯定的評価の感情のみに支配されているわけではなく、否定的評価の感情を常に背中合わせさせている。
若い年齢にある強くて勢いのある者は否定的評価の感情を抑え、肯定的評価の感情をより前面に出すコントロールをよりよくし得ることができて、強さと若さと勢いを維持しているのであって、否定的評価の感情が皆無というわけではなく、常に両方の感情を併せ持っている。
それが年齢に応じた体力の衰えと共に肯定的評価の感情と否定的評価の感情をそれぞれにコントロールする力が弱まって、思うようにそれができなくなって両者が拮抗していく過程で、あるいは逆転していく過程で否応もなしに守りに入っていくことになる。
そして守りに入っていく中で一つでも優勝を重ねようとそれでも努力する。あるいは最後の力を振り絞る。優勝する力を失ったと自覚した時が引退の時となる。
白鵬にしたら千秋楽最後の一番、横綱同士の対戦で変化して優勝を決めたことは不本意であったとしても、肯定的評価の感情と否定的評価の感情――強気と弱気それぞれをコントロールする力が弱まっている中で咄嗟に選択した一手が否定的評価を受ける変化であったとしても、兎に角勝って優勝回数を重ねる守りを優先させたということではないだろうか。
ところが29日の「ひるおび!」でスポーツライター玉木正之が白鵬の変化を強い口調で批判していた。
玉木正之「格闘技的には勝ち負けであるが、相撲というのは単なる格闘技とかスポーツと違って、美しさを求める。そういう意味では(白鵬の変化は)美しくなかった。横綱の取る相撲ではない」
要するに玉木正之は横綱は人間が併せ持つ肯定的評価の感情と否定的評価の感情を年齢や体力の衰えに無関係に完璧にコントロールし得て、自身の意志を常に肯定的評価の感情のみで成り立たせることができる存在――完璧な人間でなければならないと規定していることになる。
そのような存在がどこに存在するのだろうか。
どう見ても、人間とはどのような生き物なのか、そのことを知らないままに完璧さを求める無理難題に見えて仕方がない。
白鵬の変化に「勝てば何でもええんか」、「恥を知れ」、「変わって勝ってうれしいんか」等々の罵声を飛ばした相撲ファンにしても言葉では表現していなくても、人間とは常に完璧な生きものではないにも関わらず、白鵬に横綱としてこうあるべきだとの固定観念を一歩も譲らずに完璧な人間性を求めたことになる。
弱気や迷い等の否定的評価の感情をも抱えた人間であるにも関わらず、そのことに目を向けることができないことも無理難題を強いる一因となる。