goo blog サービス終了のお知らせ 

蓮舫の西田発言「自分たちが納得できる歴史を作らないと」への「歴史から学ぶことを歴史から学んだ」の独善

2025-06-30 16:21:01 | 政治
 蓮舫のインスタグラムからブロックされた。

 2025年6月29日に「維新離党の梅村みずほ参院議員、参政党比例区から立候補表明で調整」題名の新聞記事を読んで、蓮舫のインスタに、「"渡り鳥"が最近のはやりなのだろうか?『渡り鳥になってしまう』からと国政への復帰を否定していた、その場限りでカッコいいことを言う蓮舫も見事渡り鳥へと変身」と投稿したら、一発でブロックを食らい、アクセスできない状態になった。

 7月の参院選(3日公示、20日投開票)に立憲民主党から比例代表に立候補することになった元参院議員の蓮舫(57)が6月27日夕、公認内定後、初の街頭演説を東京都目黒区内で行い、
「『渡り鳥』になってもいいから、もう1回国会で使ってほしい。いろんな声があると思うが、いろんな声を受け止める蓮舫でありたい。おかしいことはおかしいと言わせてほしい」と訴えたと「日刊スポーツ」が報道していたが、ブロックは「いろんな声を受け止める蓮舫でありたい」の信念を真っ赤なウソにする思いの吐露となるだろう。

 それがバッシングといった批判の類いであったとしても、一応、吟味するだけの政治家としての度量を持たないと、自身が正しいとしている事柄に関して批判を受けた場合、その批判を吟味もせずに自分は正しいという思いに引きこもってしまった場合、独善に陥る危険性を抱え込まないとも限らないからである。

 蓮舫は自身の「X」も、「返信」を制限している。耳に痛い、耳障りな投稿を遮断して、耳に痛くない、耳に心地よい情報だけに接していると、自分にとって無害なお友達だけを集めることになり、逆に批判や攻撃に対する免疫を弱めて、自分が正しいとしている知識・情報等の的不的確の判断を鈍らせて、独善性を纏い付かせかねないことになる。

 蓮舫が最近陥った独善性の例を一つ挙げてみる。

 2025年5月3日の「憲法の日」に沖縄県那覇市で開催された憲法に関わる講演で自民党参議院議員西田昌司が講師の一人を務め、自身の歴史認識を様々に披露した。

 西田昌司「特に沖縄の人に私をお願いしたいのはですね、かつて私も何かひめゆりの塔とかね、何か何十年か前にですね、まだ国会議員になる前でしたけれども、お参りに行ったことあるんですけれども、あそこ、あの、今どうか知りませんけど、ひどいですね。あのひめゆりの塔で亡くなった女学生の方々がね、たくさんおられるんですけども、あの説明のしぶり、あれ見てると、要するに 日本軍が、ね、どんどん入ってきて、ひめゆりのあれが、あの、死ぬことになっちゃったと。そしてアメリカが入ってきてね、沖縄は解放されたと。そういう文脈で書いてるじゃないですか、あそこは。

 そうするとね、あれで亡くなった方々本当救われませんよ、本当に。だから、歴史を書き換えられて、そういうことになっちゃうわけですね。

 それで沖縄の中では今の知事さんもおられますけれどもね、 そういう話は結構それなりの市民権持っているわけですよ、これは。で、これ我々京都の中でもですね、共産党が非常に強い地域ですけれどもね、ここまで、あのー、何ていうか間違った歴史教育はまだ京都ではしてません。沖縄の場合にはやっぱり地上戦の解釈を含めてですね、かなりむちゃくちゃな、この教育のされ方をしてますよね。

 だから、そのことも含めてもう一度我々自身がですね、自分の頭で考え、自分の頭で物を見てですね、そしてこの流されてる情報が何が正しいのかということをですね、自分たちで取捨選択して、そして自分たちが納得できる歴史を作らないといないと思います。

 で、それをやらないと日本は独立できない」――

 この発言に対して蓮舫は2025年5月8日に自身の「X」に次のような書き込みを行った。

 〈歴史から学ぶことを私は歴史から学びました。

 「自分たちが納得できる歴史を作らないと」
 もはや弁明すらもできない愚言です。〉――

 そして伊波園子著作の『ひめゆりの沖縄戦-少女は嵐のなかを生きた』の表紙の画像を添付している。その著作からもひめゆり学徒隊の歴史を学んでいるとの指摘だろう。

 だが、蓮舫一人だけが"歴史から学ぶことを歴史から学んでいる"訳ではない。西田昌司にしても、歴史から学んで、自らの歴史認識を構築している。同じ歴史から学んだとしても、答はそれぞれに異なる場合がある。あるいは左右正反対の答を出す例にしても稀ではない。

 所詮、歴史認識は歴史に対する解釈なのだから、自らの主義・主張、政治的立場等を歴史に反映させ、読み解くことになるから、答に違いを生じさせる原因となる。

 GHQが戦前の天皇制国家主義を否定し、その国家体制の柱となっていた憲法、国家主義思想の培養を目的とした教育制度、財閥が牛耳る経済の仕組み等を含めて廃止し、180度民主主義体制へと転換した。安倍晋三や西田昌司のような戦前の天皇制支持者、天皇を崇拝の対象としている天皇主義者たちにとって耐え難い歴史の転換に相当し、戦前の国家体制への"回帰"を衝動として抱えることになっている。

 戦前回帰は戦後の歴史を戦前の歴史と連続性を持たせることによって可能となることから、それが西田昌司の場合、「自分たちが納得できる歴史を作らないといけないと思います」と主張していることの意図であり、その達成への強い願望が「それをやらないと日本は独立できない」としている民主的彩りをほんのちょっと付け足した戦前の国家体制への転換が自らの歴史認識に於いて真の独立国家日本の建国ということになるのだろう。

 蓮舫は西田昌司の"歴史から学ぶことを歴史から学んでいる"歴史認識を読み解こうともせず、多分、講演内容を精査せず、マスコミが切り取った発言にのみ反応したのだろう、誰もが"歴史から学ぶことを歴史から学んでいる"にも関わらず、ほかに何から学ぶと言うのだろう、自分だけがそうしているかのように自らの有能性を印象付けて、西田発言を「もはや弁明すらもできない愚言です」のみで片付ける発言は独善性そのものを示す。

 その理由は、アメリカにトランプが現れて、バイデン前政権のDEI(多様性・公平性・包括性)政策を撤回。いくつかの世界的企業がトランプ政権の意を酌み、DEI政策の見直しを表明する状況が出てきたことにある。

 さらに性別は男と女のみを認め、LGBTQを認めない、世の慣習に逆らう政策を強行した。超保守的な一人の大統領の出現で歴史に逆行する政策が簡単に実現し、世の中がそれに倣おうとする。

 西田昌司が言っている「自分たちが納得できる歴史」作りが現在の政治的・社会的状況に照らして実現する可能性は低くても、時代の針が突然変異的に国家主義的方向に急激に振れた場合、振れない保証はない、その方向に向けた歴史への塗り替えが強行される恐れはなきにしもあらずである。

 西田昌司の国家主義的政治性を多分に含めた歴史認識の本質を理解することができないために上記のような可能性に配慮することもせず、「自分たちが納得できる歴史を作らないと」とした発言を「もはや弁明すらもできない愚言です」程度に狭めることのできる蓮舫の歴史的感性は、あるいは政治的感性は自分だけが正しいとする独善性を纏い付かせていなければ見せることはできない代物と言える。

 蓮舫の発言自体が"愚言"そのものとしか言い様がない。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 西田昌司の沖縄憲法の日講演... | トップ | 蓮舫「日本で暮らすすべての... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

政治」カテゴリの最新記事