訪米安倍、ハコモノ政治家の正体を曝す

2007-04-29 07:04:13 | Weblog

 07年4月28日「朝日」朝刊≪首相、誤算の初訪米≫。

 副題の<米、北朝鮮へ際立つ譲歩 親密演出も晴れぬ表情>が記事の趣旨をすべて物語っている。冒頭部分も趣旨そのままの内容となっている。

 <就任からちょうど7ヶ月。満を持しての安倍首相の初訪米は、米議会指導者の前で従軍慰安婦問題について謝罪することから始まった。北朝鮮に強い姿勢で臨む首相にとって「守護神」であるはずのブッシュ政権も、この半年あまりで余力を失ってしまった。イラク問題は泥沼化し、議会の多数派を失い、支持率低迷にあえぐ。首相がこの訪米で、日米間のすきま風を止めるのは簡単ではない。>

 どのような謝罪であっても、謝罪で始まる首相の訪米は初めてのことではないだろうか。決して晴れ舞台とはならない意に反した場面であったに違いない。

 もし安倍首相が訪米時でも北朝鮮に対して強い姿勢でいることを示したいと思っていたなら、従軍慰安婦問題で謝罪すべきではなかったのではないか。問題点はあくまでも国の関与があったかどうかに焦点が当てられているのだから、そのことを曖昧にせずに、「広義の意味での強制性はあったが、国が関与した狭義の意味での強制性はなかった」とする本来の姿勢を美しく正直に維持して、「個人としては大変苦労したことに同情を禁じえないが、国には責任はないと考えている。当然首相の立場として公式の謝罪は示し得ない」と強い態度を示した上で北朝鮮に対する自らの強い姿勢を語っていたなら、北朝鮮としても安倍首相の強い態度を感じ取っていただろう。

 しかし安倍首相が米下院で議会指導者と会談したときの従軍慰安婦に言及した、彼女たちの訴えを他人事の災難であるかのように一般論に終始させた謝罪は、裏返すと触らぬ神に祟りなし、穏便に済ませよう一点張りの毅然さを置き忘れたもので、首相が拉致問題でいざ強い姿勢を示そうとしても、アメリカ側の譲歩を抜きにしても、謝罪の腰の引けた印象に相殺されて、どのような強いメッセージも与えることはできなかったに違いない。

 4月27日付(07年)の「朝日」夕刊≪首相 慰安婦問題で謝罪≫から、議会指導者との会談でどのように謝罪したか拾ってみる。

 <せっかくの機会なので、慰安婦問題について一言、念のために申し上げたい」・・・・「私の真意や発言が正しく伝わっていないと思われるが、私は辛酸をなめた元慰安婦の方々に、個人として、また首相として心から同情し、申し訳ないという気持ちで一杯だ」>と、「申し訳ない気持」で片付けている。そして<「20世紀は人権侵害の多い世紀であり、日本も無関係ではなかった」・・・・「21世紀が人権侵害のない良い世紀になるよう全力を尽くしたい」>と、訪米前に米紙インタビューに語ったと同じく20世紀という人権侵害時代に日本も巻き込まれたと、従軍慰安婦たちと同様の被害者の立場に置く一般化を行っている。

 ブッシュ大統領との首脳会談での言及にしても同じ趣旨で、<「非常に困難な状況のなかで、辛酸をなめられた、苦しい思いをされたことに対し、人間として、首相として心から同情する。その状況に置かれたことに申し訳ない思いだ。21世紀を人権侵害のない世紀とするために、私も日本も貢献したい」>(07.4.27.「朝日」夕刊≪首脳会談要旨≫)

 「心から同情」し、「申し訳ない思いだ」といった事務的な言い回しを思いのすべてとする他人事の態度は、そのような態度自体に自ずからそれ相応の一貫性を持つこととなって、
拉致問題その他の問題で変えようとし、自分では変えたつもりでも、一貫性を失うことになって、転換が効かないことになる。

 そのことは現代でも生きている「狼と少年」の寓話が証明している。安倍首相自身が立ち位置としている「広義の意味での強制性はあったが、国が関与した狭義の意味での強制性はなかった」とする主張を自ら封じることによって、自らの姿勢を中身のないハコモノ(=形式、あるいは心にない体裁)としてしまったことによって生じた裏返しの一貫性なのだろう。

 安倍首相のハコモノ的態度は次のことからも証明できる。

 安倍首相は星条旗と日の丸に固い握手をあしらった特性のバッジをブッシュ大統領への手土産としたそうだが、日米両国の国旗の前でがっちりと握手する絵柄に両国の固い絆を託したのだろうが、友好関係・同盟関係に実効性を持たせる力は両首脳の政治的創造性にかかっているのであって、バッジにどれ程にカネをかけ、有名デザイナーに作らせたものであっても、それ自体がどのような政策を生むわけではなく、所詮情緒的な意味合い以外は中身のない、体裁で始まって体裁で終わるハコモノ表現・形式表現でしかない。

 人間がハコモノにできているから、ハコモノ演出を可能とすることができるのだろう。以上のことと安倍首相の中身の国民よりも外側の国家を優先させる、戦前は正統性を獲ち得ていたが、戦後はその正統性を失ったはずの国家主義的ハコモノ性を併せて考えると、教育基本法改正も、これから狙っている憲法改正も、改正した首相として戦後日本の歴史に名を刻もうとする形式優先のハコモノ思想から出た改正意志でないかとする疑いがどうしようもなくますます確信に近い形を取ってくる。

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集団自決「軍強制」を修正検定

2007-04-28 09:48:26 | Weblog

 沖縄は日本から独立せよ

 <文部科学省が30日に公表した06年度の教科書検定で、地理歴史・公民では、沖縄戦の集団自決を巡って、「日本軍に強いられた」という内容に対し修正を求める意見がはじめてついたことが分かった。強制性を否定する資料や証言を根拠に、従来の判断基準を変えたためだ。
 ・・・・・・
 「日本軍に強いられた」という趣旨を書いた7点すべてが「命令したかどうか明らかとは言えない」と指摘され、「集団自決に追い込まれた」などと修正。・・・・>(07.3.31.「朝日」朝刊≪集団自決「軍強制」を修正≫
  
 文科省はその理由を<①「軍の命令があった」とする資料と否定するの双方がある②慶良間諸島で自決を命じたと言われてきた元軍人やその遺族が05年、名誉棄損を訴えて訴訟を起こしている③近年の研究は、命令の有無よりも住民の精神状況が重視されている>(同記事)

 「命令したかどうか明らかとは言えない」ということなら、「命令し」なかったと言うこともまだ「明らかとは言えない」状況にあるのだから、日本軍の強制があったとする意見になかったとする意見もあるとの注釈をつけるか、なかったとする意見にあったとする意見もあるとする注釈をつけるかすべきで、現時点で〝強制〟のニュアンスを文科省なる官憲が一方的に抹消処分にするのは国家権力による思想・言論の誘導に当たらないだろうか。

 2004年05月13日のasahi.com ≪沖縄、基地求人に殺到 失業率、全国一≫)

 <失業率が全国一高い沖縄県で、米軍基地で働く従業員の04年度募集に申し込みが殺到している。基地従業員の雇用をあっせんしている独立行政法人・駐留軍等労働者労務管理機構那覇支部によると、10日までの応募件数は3478件。今月21日に締め切られ、秋には追加募集がある。ここ数年、競争率は25~30倍になっており、今年も例年並みになりそうだという。
 沖縄県内の基地従業員は3月末現在、8813人。出納事務や電気装置修理工、警備員、コックなど約1300の職種に従事している。就職先としては沖縄電力や地元銀行などをしのぎ、県職員2万2000人に次ぐ大きな職場である。
 03年度は675人の採用に対し、1万5582人の申し込みがあった。
 1972年の本土復帰前後には、基地従業員の大量解雇があって社会問題化した。しかし、今では定年まで働く人も少なくなく、「安定した職場」とみなされ、給与や休みなどが「国家公務員並み」という待遇が人気を支えている。
 同機構が書類選考し、米軍側が面接する。面接を受けられる人は10人に1人程度だ。採用は米軍側の要求に応じて随時実施されるため、人数は確定していない。
 沖縄の03年度の完全失業率は7.6%(全国平均5.1%)。特に15~24歳の若年層は18.6%(同10.0%)と高い水準になっている。>

 <失業率が全国一高い沖縄県>は日本の美しい歴史・伝統・文化となっている。基地反対にも関わらず、米軍基地は<就職先としては沖縄電力や地元銀行などをしのぎ、県職員2万2000人に次ぐ大きな><安定した職場>と見なされている。3分の1弱の従業員数で<県職員2万2000人に次ぐ大きな職場>だとは、沖縄がどれ程の産業規模なのか、一目瞭然である。まさに米軍基地は沖縄では一大産業の偉大なる地位を占めている。

 こういった背景事情を受けて、終えたばかりの沖縄知事選では基地問題は争点にならず、生活問題が争点となったのだろうか。しかし米軍基地が大きな雇用先であると同時に沖縄の失業率が全国一高い事情はこれまでと変わらなかったのだから、基地問題を争点とした場合は痛し痒し、愛憎相反するアンビバレンスの状況を生じせしめていたのではないだろうか。

 元々沖縄の全身である琉球は独立国家であった。≪沖縄-Wikipedia≫を参考に説明すると、1609年の幕府の許可を受けた薩摩軍の侵攻によってその支配に甘んじてから明治維新までに様々な経済的搾取を受ける。廃藩置県に伴って明治政府は1879年に軍隊と警察を派遣して琉球王国を廃止、日本に組入れる「琉球処分」を行って沖縄とするが、明治政府の皇民化圧力を自ら応えようとする沖縄側からの過剰な〝ヤマト〟への同化意識は内地の人間の元々は〝ヤマト〟に属していなかった遠い新参者(しんざんもの)である沖縄人に対する差別をなくそうとする努力でもあったという。

 その手段としての皇民意識の共有、沖縄風から日本風への改姓改名運動、沖縄方言の撲滅と標準語奨励運動等のヤマト化があった。

 本土の人間の沖縄人に対する象徴的な差別を1999年5月16日の「朝日」夕刊(≪邊境論 これで、あんたたちと同じ≫)は次のように伝えている。

 沖縄出身の女性の戦争中の内地での体験記である。<奥さんはどこで情報を集めたのか、サイパン島の、住民を巻き込んだ悲惨な戦闘の模様を、こと細かに話した。
 最後に何気なく言った。
 「玉砕したのは、殆ど沖縄の人だったんですって。内地人の犠牲が少なかったのは、せめてもの救いだったんですって」>

 そう、差別とは命の差別まで含む。命に軽重を生じせしめる。「これで、あんたちと同じ」の題名の由来は、帰郷したその沖縄女性が沖縄風の名前をヤマト風に改姓改名して、<「これで、あんたたち(本土)とおなじでしょ・・・・」>と内地の日本人と同等の立場に立てたとしたときの述懐である。

 しかし、沖縄人がいくらヤマト風を装っても、沖縄の人間の命を自分たちの命よりも一段低く見る本土の人間の意識はそのまま残る。

 <奥さん>の「沖縄の人だったんですって」の「人」は丁寧語であろう。「どこそこの方(かた)」と同じく、よその国やよその土地の人間を指すときの日本人得意の丁寧語となっている。「中国の人」、「中国の方」、「韓国の人」、「韓国の方」――というふうに。だが、「沖縄の人だったんですって」の場合は言葉は丁寧語を当てていても、込められている意識は本人は気づいていなくても、〝丁寧〟の意図とは反する差別意識を含んでいる。政治家がよく使う「国民の皆様」と同様に、丁寧語・敬語等が額面どおりの丁寧さを表していないことの証明であろう。

 沖縄上げてのそういった努力にも関わらず、戦争では本土防衛のための捨石とされた上に敗戦と同時に1972年までアメリカの統治下に置かれる内地が味わわない辛酸を舐めされられた。

 【捨石】――「囲碁で、より以上の利益を得るために作戦としてわざと相手に取らせる石」(『大辞林』三省堂)

 沖縄の辛酸に対して、それ相応の代償で報いるならまだしも、米軍基地の集中と失業率全国一の名誉が戦後経済大国日本の富の配分として与えられた報奨であった。

 沖縄の米軍基地は国の防衛政策に深く関与している。そして失業率全国一という固定化した日本の歴史・伝統・文化としてある格差・差別も国の政策が深く影響しているはずである。それらを同時に断ち切るためには独立しか方法はないのではないだろうか。元々国は違ったのである。台湾や中国、ベトナムと近いのだから、輸送費が安くつく利点を生かして、それらアジアの国々の元々安い製品をより安く輸入して、日本人に提供する一大商業国家を形成する。中国は日本車と比較にならない安い国産乗用車を生産・販売にこぎつけている。日本人が買いに来て、本土へはフェリーボートを利用しなければならないが、あとは陸路ドライブしながら持ち帰るといった手も悪くはない。 

 と同時に自由に行き来でき、自由に住める出入国管理を国の政策として、アジアの国々の人間と日本人の一大保養地とする。もし成功すれば、沖縄オリンピックも夢ではない。

 沖縄独立すべし。

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道徳教育教科化/政治家を教材とすべし

2007-04-27 08:26:10 | Weblog

 暗記教育下ではスローガンで終わる

 安倍美しい首相の強烈なリーダーシップによって安部・教育再生会議は小・中学校での道徳の教科化を実現させそうな勢いを見せている。どうせ痩せ馬の先っ走りで終わるのは目に見えている。実際に教科化されたとしても、まずは効果は上がらないだろう。

 共産党の石井郁子議員が17日(07年4月)の衆院本会議で<政府の教育再生会議で道徳教育の教科化が浮上していることに触れ、「国による特定の方向の押し付け」と批判。首相は「すべての子供に規範意識を身に付けさせることが重要で、思想、良心の自由に反することはない」と反論した。>(時事/平成19年4月18日教育ニュース)と我が道を行くさすがの態度である。

 「道徳の時間」は1958年(昭和33)の学習指導要領で高校を除いて小・中学校で週1時間、教科外で行うこととされた。何をテーマとし、具体的にどのような方法で実施しているのか、<道徳の時間-Wikipedia>から引用してみる。

 <1998年に改訂された小学校・中学校の学習指導要領は、道徳の時間を「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念」、さらには「未来を拓く主体性のある日本人」という言葉に示される道徳教育を目標とし、この時間を小学校1・2年、3・4年、5・6年、中学校というように学年段階別に挙げている。それらの内容をもとに各学校では「道徳教育の全体計画」と「道徳の時間の年間指導計画」を作成し、道徳の副読本その他の読み物資料、テレビ放送などを教材としながら、道徳的諸価値の内面化を図る。>

 「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念」に「未来を拓く主体性のある日本人」――言っていることは安倍首相が普段言っていることとイイとこ勝負の感動ものである。「美しい国づくり」と同じく、この上なく立派なスローガンの一つに収めることはできる。

 道徳の教科化が効果を上げないと推測する第一の理由は、学力不足の強迫観念に怯えて学校授業が従来以上にテスト教育化へ向かおうとしていることである。その尻を叩いていたのは小泉純一郎前首相であり、現在はその役目を受け継いでいきり立っている安倍晋三なのは断るまでもない。

 そのような圧力を受けてテストの点数獲得、あるいはテストの点数の底上げが学校にとっても生徒にとってもこれまで以上に最大かつ優先的な利害へと向かいつつある。当然、学校及び生徒に於ける最大関心事であるテストの点数獲得授業を集中的により多く割かなければならない中で、例え教科化された「徳育」という名の道徳授業を行ったとしても、高校受験、あるいは大学受験に向けたテストの点数獲得という利害の前に道徳教育は埋没し、無視との戦いを強いられることになるだろうからである。いわば受験科目に関係のない世界史の必修無視が起こったと同じようにである。

 「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念」とか「未来を拓く主体性のある日本人」とかの教えは、高校受験・大学受験に利益をもたらしてくれるオマジナイにもならないだろうし、それよりも暗記に暗記を重ねたテストの成績で有名大学に入学・卒業し、有名企業に就職してそれなりの経済力を獲得することの方が誰にとっても利害優先事項であり、それを果たせば、安倍首相みたいに言行不一致の人間であっても見た目にはそれなりに「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念」を持った人間らしく見え、安倍首相みたいにチャンスがあって著名人に列することがあれば、「未来を拓く主体性のある日本人」の一人に数えられる可能性も出てくるというものである。

 だからこそ、成績の評価対象とすべきだとの主張があるのだろうが、例え評価対象としたとしても、事情は変わらないに違いない。他の受験科目との比較で、高い評価点を占めることはないだろうし、それを避けるとして、高い評価点を与えることになったとしても、それが受験目的であるなら、「思想、良心の自由」といった価値観とは一切関係のない次元の表面をなぞる暗記で凌ぐだけのことだろう。

 いわば一番の問題はここにある。道徳教育にしても、日本の教育が暗記教育となっている関係から、暗記で解決できる点が成功しない何よりの最大の理由となるだろう。

 日本の教育は教えたことを言葉どおりに暗記してテストの設問に暗記したことをなぞり当てはめる暗記教育が主体となっている。道徳教育にしても単に暗記するだけのことで、道徳を発揮する場面に迫られた場合は、自己利害に反しない範囲で記憶した道徳行為をその場面になぞり当てはめる形式止まりとする公算が大きい。

 このことの証明として、朝日新聞の07年4月16日朝刊の≪ひと「ベビー・ビジネス」を書いたハーバード大教授デボラ・スーパーさん≫を示すことができる。

 <代理母のあっせんや卵子売買など、米国では年に30億ドルもの金が赤ちゃんをめぐって動いているという。
 「これは紛れもなく、一つの『市場』です」。その実態に迫った「ベビー・ビジネス」(ランダムハウス講談社)を昨年出版した。
 国際商取引が専門。新規ビジネスと規制の関係を追ううちに、この世界に足を踏み入れた。「我が子」を得られる保証はないのに大金が動く、この市場のありように驚いた。
 遺伝病の兄や姉に骨髄を提供するためにつくられた弟や妹。年齢が上がるにつれ引き取り手がなくなる国際養子・・・・。取材で会った子供たちを思い執筆しながら何度も泣いた。自分自身、2人の息子は「昔ながらの方法」で産んだが、娘は4年前、6歳のときにロシアから迎えている。ひとごとではなかった。
 米国へは多くの日本人が渡り、代理出産や卵子提供を利用している。「禁じる法律がない以上、理解できる。ただ、国民的議論がそろそろ必要だと思う」。タレントの向井亜紀さんの代理出産をめぐる裁判には、「子供が生まれる前に解決されるべきだった」。
 3月下旬に来日し、次のテーマの再生医療について日本の研究者や官僚を取材した。「誰に聞いても物の見方が同じ。この一貫性が経済成長の原動力だったのね」日本経済についても、新たな解釈を得たようだ。>――

 「誰に聞いても物の見方が同じ」

 これこそ暗記教育なくして果たせない最大の成果だろう。同じ教えを与えられ、与えられたそのままになぞって自らの知識とし、その同じ知識をそれぞれが自分の考えとする。その結果の「物の見方が同じ」。そこにあるのは幾重もの暗記形式の知識の授受なのは言うまでもない。

 いわば「物の見方が同じ」の「見方」は与えられた「見方」であって、自らが考え、自分で創り上げた「見方」であったなら、みな同じであろうはずはなく、自己性(=自分自身)を持たない「見方」と言い換えることができる。

 ハーバード大教授デボラ・スーパー女史は「誰に聞いても物の見方が同じ」という「一貫性が経済成長の原動力だったのね」と言っているが、「一貫性」には主体性・自律性の要素を含む。「貫く」は自らの強い意志を条件とするからである。「物の見方が同じ」は自己性を排除した相互従属を条件とする。「一貫性」とは似て非なるものであって、「同調性」、あるいは「従属性」と言うべきではなかったかと思うが、日本語訳が不適当だったのだろうか。

 道徳教科に於いてもこの暗記主義(=暗記形式の知識の授受)を踏襲することとなって、「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念」といった価値観は単に自己性(自分自身)とは無縁の従属性として形式的に受け継がれることになりかねない。ハーバード大教授デボラ・スーパー女史の言葉を借りて説明するなら、規範意識に関しても「物の見方が同じ」という結果に終わるだろうと言うことである。その人間の精神に真に根付いた規範意識ではなく、それが右へ倣えで同じと言うことなら、単にスローガンを背負ったに過ぎない。実際の姿は正反対なのだから、安倍首相の「美しい、規律を知る凛とした――」と同じスローガンの仲間入りで決着を見るだけである。

 道徳教育の教科化が暗記教育に阻害されて実質的な道徳性の涵養に役立たなくても、別の成功要素は考えられる。道徳教育が安倍首相が体現している国家主義的権威主義を主導として行われた場合の従属圧力が暗記教育の知識授受の形式に則って国家主義に染まった道徳観で統一された「同じ」「物の見方」に生徒たちをこぞって向かわせる成功である。

 それを補強する道具立てとして、生徒を揃って同じ規律で動かす奉仕活動の教科化の狙いがあるのだろう。

 戦前の日本国民の軍国主義への従属は、上の命ずるままになぞる暗記形式の知識授受を許している自分の考えを持たない自己性の排除(自分自身を持たないこと)の精神構造が可能とした国民規模の同調性としてあったものだろう。

 その再実現が暗記教育形式を利用して、戦前主義の安倍国家主義によって実行されようとしている。

「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」と言っているように、戦前の軍国日本を「成り立」たたせた〝命の投げうち〟を〝国家顕彰〟の賛美対象とすることで戦前の戦争をも肯定しているのである。

 そのような主義・主張の線に添った国家主義的な「物の見方が同じ」道徳価値を暗記形式の知識授受を利用して生徒のうちから国民に植えつけようとしている。

 安倍首相のこのような意図的な国家主義志向を避け、道徳観をスローガンとならない形で生徒に涵養しようとするなら、人間の現実の姿を教える教育が最適ではないだろうか。

 具体的に説明するなら、「ウソをついてはいけません」とか、「人間は正直でなければなりません」とかストレートに暗記できてスローガン化しやすい、元々スローガンでしかない教えを用いるのではなく、「人間は自分に都合が悪い状況に立たされると、ついウソをついて自分を正当化してしまう生きものだが、君たちはそんな経験をしたことがないか」と訊ねて生徒それぞれに経験を語らせる。いいか悪いかといった評価を下すのではなく、人間の弱さや狡さを追究する議論を生徒同士で行わせ、人間という生きものについての姿(=人間の存在性)を自覚させて、自己意識化させる教育とする。ウソを用いた自己正当化行為に関わる自己意識化は自分が同じような立場に立たされて同じ過ちを犯してしまったとき、その自己意識は目覚め、自分への戒めとなって働く。

 勿論目覚めさせない人間もいる。それは特に松岡といった政治家を見れは簡単に理解できることだが、議論を通して美しいだけの生きものではない人間の存在性を学ぶことは多くの生徒の規範意識に役に立つはずである。松岡とは違って、当たり前の感覚、当たり前の感受性を持った人間なら、人間の持つ美しいだけではない負の面に陥らないように気をつけようと自ら心がけるようになるだろうからである。

 美しいだけの生きものではなく、つい美しくない生き方をしてしまう人間に、日本にはこういった美しい自然があるとか、美しい文化・伝統がある、早寝早起き、あるいは老人を敬うという素晴らしい習慣が日本にはあるとか、負の面を排除して美しいだけを教えるのでは、逆に安倍首相みたいな客観的認識性を欠いた人間に育ててしまうことになるだろう。

 他人が持っているカネや異性に対する嫉妬、自分と考え方・行動の違う人間に対してどうしようもなく持ってしまう憎悪や憎悪を超えた殺意、あるいは困難な事態に陥ったとき、
その解決に親に頼ったり、カネの力に頼ったりしてしまう他力本願等の人間の持つ負の面も、反面教師とすべき格好の教材となるに違いない。

 また、現実社会に生きる世間の大人の負の面の教育も社会性教育には欠かせないだろう。子供は大人社会の空気を吸って育っていく。当然、教師の女子高生のスカートの中の盗撮や未成年少女に対する買春なども道徳教育の教材としなければならない。だが、何よりも不正行為・犯罪行為を犯して恥じることのない破廉恥な松岡農水相のような国家議員を一番の教材としなければならない。

 国民の負託を受けて選良の地位にありながらの美しくない存在性はどこから来ているのかの学習は自己を自覚させる何よりの人間教育・人間の存在性の教育となるだろうから。

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倒錯的妄想及び栄光浴としての安倍「美しい、規律を知る凛とした国」

2007-04-25 06:10:51 | Weblog

 「統帥乱れて信を中外に失う」

 再引用――『文藝春秋』・「『小倉庫次侍従日記』昭和天皇戦時下の肉声」(解説・半藤一利/07年4月号発行)<昭和15年9月26日――河内(ハノイ)に於いて中央よりの命令に違反し、出先陸軍に於いて重大事件ありたる模様なり>

 半藤氏解説<軍令部次長、参謀総長の上奏は、この日に行われた北部仏印進駐に関するものである。国策となった南進政策の実行で、はじめはフランスとの交渉妥結を見てからの平和進駐の予定であった。そこへ参謀本部作戦課が割り込んでくる。時間のムダであるというのである。結果、強引に陸軍部隊を越境させ、フランス軍との交戦という失態を招いた。平和交渉のため苦心していた現地の責任者は窮地に立ち、東京に打たれた電報「統帥乱れて信を中外に失う」は、昭和史に残る名言となっている。日本の武力進駐に対抗して、アメリカは屑鉄の全面禁輸という強硬政策を断行した。>
 
 「強引に陸軍部隊を越境させ」た軍人はWikipediaによると、陸軍特攻隊の創設者でもある富永恭次なる陸軍中将らしい。

 『富永恭次――Wikipedia』、<富永恭次(とみなが きょうじ、1892年1月2日 - 1960年1月14日)は長崎県出身の大日本帝国の陸軍中将。陸軍士官学校第25期。陸軍特攻隊の創設者。海軍中佐富永謙吾の兄。

 経歴
 1939年9月に参謀本部第1部長に就任するが北部仏印進駐時の専断が咎められ左遷される。のち1941年4月人事局長として中央に復帰、東條英機の腰巾着のあだ名を持つ。1943年3月陸軍次官と兼任、東條内閣総辞職と共に失脚。1944年8月、新陸相杉山元によって第4航空軍司令官に転出させられる、9月8日マニラに着任した。杉山が「やっといい口があったので富永を出せた」と言っていたという証言もあり、左遷であったことは疑いない。

 特攻隊出撃前の訓示では「諸君はすでに神である。私も必ず後を追う」と言ったが、特攻隊をすべて出撃させたあとは、1945年1月16日出征先のフィリピンのエチャーゲ南飛行場から台湾台北へと護衛戦闘機を伴って会議を口実に撤退した。その後胃痛を理由に温泉療養で体を休め、十分英気を養う。2月13日、大本営は第4航空軍司令部の解体を発令した。

 台湾への移動は一応口実をつけてはいたものの、上官である第14方面軍司令官の山下奉文大将にも無断でおこなわれるなど、誰が見ても敵前逃亡そのものであった。陸軍中央でも問題になり、1945年2月23日待命、5月5日予備役編入の処置をとったが、「死ぬのが怖くて逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのじゃないか」という声があり、7月に召集されて第139師団の師団長に任ぜられた、満州の敦化(とんか)に赴かせた。この部隊は関東軍の主力が南方に転出した後の穴埋め用根こそぎ動員部隊の一つである。8月ソ連参戦、そして終戦ののち富永はシベリアのハバロフスク収容所に抑留され、1955年4月18日引揚船の興安丸で舞鶴港に帰国している。

 参考文献
 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』 1~3 (文春文庫、1986年)>――

 なぜかあの美しい松岡農水相を富永恭次に重ねたくなる。社会的・国家的に重要な上層に位置していながら、無責任な人間はどの時代にも、どのような社会にも存在する。これからも存在し続けるだろう。「美しい、規律を知る凛とした国」など、国次元で表現しようがない。

 直接の名指しはないが、このことはベネディクトが『菊と刀』でも取り上げている。

 <俘虜たちは彼らの現地司令官、とくに部下の兵士たちと危険と苦難とをともにしなかった連中を、口をきわめて罵った。彼らはとくに、最後まで戦っている令下部隊を置去りにして、飛行機で引き上げていった指揮官たちを非難した。>(『世界教養全集7』平凡社)

 富永以外にも美しき同じ穴のムジナがいたのか、ここでは複数扱いとなっている。だがこの言及は戦前の日本人の天皇に対する絶対的忠誠との対比に於いて書いたものである。

 <多くの俘虜たちがいっていたように、日本人は「天皇の命令とあれば、たとえ竹やり一本のほかになんの武器がなくても、躊躇せずに戦うであろう。がそれと同じように、もしそれが天皇の命令ならば、すみやかに戦いをやめるであろう」「もし天皇がそうお命じになれば、日本は明日にでもさっそく武器を捨てるであろう」「満州の関東軍――あの最も好戦的で強硬派の――でさえその武器をおくであろう」「天皇のお言葉のみが、日本国民をして敗戦を承認せしめ、再建のために生きることを納得せしめる」
 この天皇に対する無条件、無制限の忠誠は、天皇以外の他のすべての人物および集団に対してはさまざまな批判が加えられる事実と、著しい対照を示していた。
   ・・・・・・
 天皇の最高至上の地位はごく近年のものであるにも関わらず、どうしてこんなことがありうるのであろうか。>(同『菊と刀』)

 「俘虜たち」の何と「美しい、規律を知る凛とした」態度だろうか。安倍晋三が知っていたなら、涙を流して喜ぶだろう。「これこそ目指す日本だ」と。

 日本人「俘虜」たちは自分の言っていることの矛盾に気づいていない。戦陣訓で「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と規定されていながら、「たとえ竹やり一本のほかに」武器を持っていたはずであろうに、「躊躇せずに」アメリカ軍に降伏し、「天皇の命令」もなく、兵士個人としては「すみやかに戦いをやめ」、「武器をお」き、「武器を捨て」、「生きて虜囚の辱を受ける」といった天皇への「忠誠」に反する不忠誠を犯しながらの〝天皇賛美〟なのである。

 何とも気楽な美しい言行不一致・自己矛盾だが、天皇を賛美することで、その絶対的姿と自分たちを結びつけて、「生きて虜囚の辱を受け」た自分たちの情けない醜態、卑小さに代えようとする一種の栄光浴がなさしめた矛盾なのだろう。

 友達にバカにされた子供が「ウチのお父さんは会社の社長で偉いんだぞ」と言うようなものである。偉いお父さんと自己を結びつけて、僕だって偉いんだと思わせようとする。

 【栄光浴】とは<高い評価を受けている個人・集団と自己との結びつきを強調することによって自己評価や他者からの評価を高めようとする方略>『社会心理学小事典』有斐閣)とある。

 天皇は「大日本帝国憲法・第1章 天皇」で以下のように規定されている。

 第一条
  大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第二条
  皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
 第三条
  天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

 第十一条

  天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」

 にも関わらず、その統帥権は絶対ではなく、軍部に握られていた。「神聖ニシテ侵スヘカラス」の扱いを受けていなかった。だから、「統帥乱れて信を中外に失う」といったことが起こり得た。中国の戦線拡大も軍部の独断専行で行われたものであろう。

 明治以降の天皇の絶対性は、最初は藩閥政府が、次いで軍部が自分たちの思うが侭に国民を動かすための魔法の杖として利用した絶対性に過ぎなかった。国民だけが信じていた絶対性であり、〝天皇賛美〟に過ぎない。

 かくかように安倍首相が賛美する戦前の日本は「美しい、規律を知る凛とした国」とは無縁の状況にあった。「戦後レジーム」によって、それが失われたわけではない。「戦後レジームからの脱却」を手段として、戦前の存在しなかった「美しい、規律を知る凛とした国」を目指そうすること自体、矛盾でしかなく、倒錯的妄想に過ぎない。

 最初に言ったように、国次元では表現しようがない「美しい、規律を知る凛」なる倫理観でもある。人間は自らの自己利害性に邪魔されて、個人的にも表現することは難しいだろう。

 しかし、倒錯的妄想に過ぎないにも関わらず頭から信じているところを見ると、安倍晋三の「美しい、規律を知る凛とした国」といった主張は、「俘虜」たちが「天皇に対する無条件、無制限の忠誠」を一生懸命に言い立てて、その絶対性と自己を結びつけることによって自己の卑小さを高めようとした栄光浴と同じく、「美しい、規律を知る凛とした国」とするには、「美しい、規律を知る凛とした」人間でなければその資格はないことを利用して
さも自分がそのような人間であると見せかける栄光浴次元の取り繕い、自己美化なのだろう。

 そのことは選挙対策で消費税隠しや郵政民営化造反除名議員を復党させるといった美しくない政策が既に証明していることで、どうしようもなく「美しい、規律を知る凛とした」人間とは無縁な人間に出来上がっていることを暴露してしまっている。無縁だからこそ、「美しい、規律を知る凛とした国」なる栄光が必要なのだろう。

 「美しい、規律を知る凛とした」態度を自分自身が常に体現し、周囲に示せば完結する問題でありながら、それさえもできず、国全体としては表現しようがない「美しい、規律を知る凛とした国」を掲げる。普通の目の持主なら、自民党議員の面々を一目見ただけで不可能な国づくりだと理解できるはずだが、人間の人間知らず、客観的認識性ゼロの幸せな美しい脳ミソに出来上がっているからなのだろう。

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初めに認めまいとする意志ありの従軍慰安婦認識

2007-04-24 16:17:20 | Weblog

 世の中の動きが慌しい今の時代で2週間も前の出来事となると、既に昔の部類に入るのだろうか。だが、問題自体は引き続いている。

 4月8日(07年)日曜日、フジテレビ朝7時半からの「報道2001」で従軍慰安婦問題を扱っていた。軍の強制があったとする立場となかったとする立場が相互に議論を闘わせる形式を取っている。

 なかったとする立場は初めから認めまいとする意志を基本姿勢とし、それを固定観念化させているから、最初から平行線を辿ることは分かっていた。但し、否定の上に否定を重ねても、言っていることに矛盾がないわけではない。録画の関心があった一部分を文書化して、分析を試みることにした。

 <秦郁彦(現代史家)、縦書きの二つの従軍慰安婦募集広告文を纏めて写したフリップを見せる(向かって右側の広告は、「軍」慰安婦急募、とあり、左側が、慰安婦至急大募集、広告主に、今井紹介所とある)。

 「昭和、これは18年なんですが、今の韓国ですね、当時日本の統治下にあった京城、ソウルですね。その京城日報というですね、朝鮮じゃあ一番大きな新聞です。だから、首都と言うことを考えますとね、まあ、ワシントンポストのようなものと考えていいと思います。最大の新聞に堂々とこういう広告が出ていたわけです」
 小池アナ「慰安婦募集しますと。大募集――」
 秦「ええ、至急、大募集。こち側(左側)はハングルがちょっと、ちょこちょこと見えますけども、これは、ですから、その、もうちょっと小さい朝鮮人向けの新聞でもあったわけです」
 小池「月収が書いてありますけど、これは当時かなり高いんですか?」
 秦「ええ、京城帝国大学のね、卒業生の初任給が75円と言うときで、300円で、前借が3000円ですから」
 小池「これで、じゃあ実際に応募した人がいるんでしょうね?」
 秦「これはもうたくさんいたと思いますよ。あの、こんな条件。但しこれは日本内地でも、それから朝鮮もですね、非常に多くの人は朝鮮の内部の、中の慰安所じゃなくて、その遊郭で働いていた人――」
 小池「こうやって募集したんだから、強制連行じゃない?軍が連れてきたんじゃない」

 藍谷邦雄・弁護士「こうして広告したから、これで全部を否定するという、まず、ことが言えるのかということですね。それと、当時この、今慰安婦の募集というふうに出してあるのでね、今秦さんはその実証をなさらないけども、これによって応募があったのかどうなのかと。それからもう一つは当時、慰安婦と言う言葉がですね、どう市民の間で、いや京城なり、まあソウルですね、ソウルの市民の人たちにどう受け止められていたのかと。例えば言葉をですね、どう受け止めるのかというのは、色々その後にもあります。例えば韓国では女子挺身隊というので、日本に連れてこられた工場で働いた女性たちがいます。で、これと慰安婦の問題を非常に混同してですね、女子挺身隊というのがイコール慰安婦であるように把えていた時代もある」

 小池アナ「こういう募集をして、応募した人たちもいる、だろうと。これは推定されますか?」
 藍谷「それは分かりません」
 小池アナ「分からない?」
 高嶋伸欣(のぶよし)・琉球大学教授「証拠があるかっていう話はここでは必ず出てくるんですけども、それに対してもう一つ大事な事実があって、敗戦になったときですね、日本政府はそういう証拠類を焼けという指示を出しているわけですよ。日本軍全軍に対してと、それから実は内務省。警察関係ですね。に対して、戦犯の追及をするという条項がポツダム宣言の中にしているということもあるから、特に捕虜虐待の件が焦点だったのですけど、それと付随するような、ええ、危険な記録はできるだけ焼けと、言うことを敗戦の混乱の中の交通事情の悪い中、内務省課長だった奥野さんがね、自分は全国を駆けまわって指示を出して、見事それをやったと、それを自慢話で繰り返し自身で――」
 小池アナ「ちょっと待ってください。ちょっとコマーシャルいかせてください」
 ――CM――
 小池アナ「資料がないからと言って、それで証明することにならないんだということを高嶋さんはおっしゃってる。それについて一言」
 秦「最初はそういうことを言う人はいなかったんです。ところが色々と探してみてもですね、見つからないので、探し方が悪いと最初はそう言っていた。で、やっぱり見つからない。最近になってですね、高嶋さんのようにね、いや、それは軍が意図的に滅失したからだと。しかしね、この世の中に一つしかない文書って、滅多にないんですよ。特に上から下へ流す文書っていうのは宛先が数百通も流れていくわけです。そのうちのどれか、残ってるんです。ですから戦後ですね、戦後防衛庁戦史室(?)で、その今数10万点の旧軍の資料ありますね。それはみな集めてきたんですよ。その焼け残ったやつを。それから命令出した場合、記憶によって覚えている人もいるわけです。さらに言えば、さっきこれ目撃証言についての話が出なかったんですけど、韓国の女性、元慰安婦たちですね、、出てきた一人たちの中で、身の上話がずっとあるわけです。誰一人証人がいないんです」

 小池アナ「自分で言ってるだけ?」
 秦「言ってるだけでね。普通はですね、そういうひどい目に遭ったとか近所の人だとか、友達だとか、家族だとか、連れてきて証言させますよね。そうしないともう法廷では取り上げてくれない。一人も出ていないです」>(以上)――
* * * * * * * *
 「京城日報」を『日本史広辞典』(山川出版社)で調べてみると、次のように出ていた。<1906年(明治39)9月に創刊され、第2次大戦終戦まで発行された統監府・朝鮮総督府の機関新聞。――>

 秦郁彦は巧妙にも「京城日報」を「ワシントンポスト」と同等と比較したが、当時の朝鮮が「日本の統治下にあった」は日本の植民地として統治下にあったのであって、当然体制内容は日本政府そのものであり、全体主義に彩られていたのである。「京城日報」はその機関紙、言ってみれば政府系御用新聞、政府の代弁者である。「ワシントンポスト」と比較できようがなく、当然「ワシントンポスト」を持ち出して「広告」を正当付けしようとすること自体狡猾に過ぎる。

 逆にそういった政府系御用新聞に「『軍』慰安婦急募」の広告が載ったと言うことは、朝鮮総督府(朝鮮支配の最高機関)公認の「広告」であり、政府が軍と一体となって軍慰安所を積極的に認知していたということを示す。

 また広告に記載されている慰安婦の給与だが、ただでさえ女性の地位が低かった戦前の日本で、慰安婦なる類の職業は社会的にまだ蔑まれていた場所に置かれていた。親によって自分たちが食うために売られた女性の場合は買主でもある雇い主の投資したカネの回収手段として寝る場所と着る物・食い扶持を支給されるぐらいで男を取らされる搾取される存在でもあった。そういった社会的地位の低さから判断しても、社会的境遇の過酷さ・悲惨さから判断しても、彼女たちが一般的には恵まれた報酬を受けていたとは常識的には考えにくい。そのような常識を覆す「京城帝国大学の卒業生の初任給が75円」に対して「300円」という、帝大卒業生の4倍の破格の月給であり、さらに40倍もの「3000円」の前借という、普通なら出さないに違いない金額状況の裏を返すなら、人件費は需要と供給の関係で決まっていくのだから、女性側の供給不足状況にあり、なかなか集まらなかったから、それだけの金額を提示しなければならなかったという募集事情にあったことの逆証明でもあろう。

 とすると、それだけの金額を出したのだから、「これはもうたくさんいたと思いますよ。あの、こんな条件」とストレートに推測するのは短絡的に過ぎる。

 当時の朝鮮と中国とでは国の違いはあるが、破格待遇の有効性を疑わせる記事がある。一度ブログで引用しているが、1944年日本軍天津防衛司令部が天津特別市政府警察局に<軍人慰労のため「妓女」を150人出す>よう<1944年5月30日>に通知、天津特別市政府警察局は公娼業者の集りである<「天津特別市楽戸連合会」を招集し、勧誘させた>ところ、<229人が「自発的に応募」して性病検査を受けたが、12人が塀を乗り越えて逃げ出>す「自発的」状況を曝した。<残った86人が「慰安婦」として選ばれ、防衛指令部の曹長が兵士10人とともにトラック4台で迎えに来た>が、<86人のうち半数の42人も逃亡した>という事実。

 秦現代史家が示した「慰安婦募集広告」は昭和18年、1943年のことで、上記状況に限った額面上からの判断からすると、1年後の1944年の中国の天津では軍は「広告」という中間過程を省いた軍の指示による直接募集の形式を取っている。

 破格の待遇という条件は変わらないのだから、「広告」で応募があるなら、その条件も維持されるはずで(公娼業者への直接広告という手もある)、それが取り除かれて警察を仲介者に仕立てた直接的な勧誘の形を取っているのは、やはり応募が少ないことを物語っているのではないだろうか。

 いわば軍や警察が正面に出なければならない程に集まらない状況にあった、秦の言う「これはもうたくさんいたと思いますよ」云々とは反対の状況にあったことを示していると言えるだろう。

 軍や警察が正面に出ることで、公娼業者は広告業者のように中間に位置するのではなく、一切の主導権もなく軍の指示に従うだけの立場に立たさる。

 「借金などはすべて取消して、自由の身にする」、本人に1カ月ごとに麦粉2袋。家族に月ごとに雑穀30キロ。慰安婦の衣食住・医薬品・化粧品は軍の無料配給。花代は兵士「一回十元」、下士官「二十元」、将校「三十元」と事細かく提示された条件はなかなか集まりにくい状況にあったことの反映としてある破格の待遇であり、事細かく条件を提示しなければならなかった応募確保のための丁寧さでもあろう。

 あるいは実行するつもりもない約束だから、逆に事細かな提示と破格の待遇とすることができたという疑いも可能となる。今で言う架空話でウソみたいな高利回りを(実際にはウソなのだが)約束する投資話同様にである。慰安所に閉じ込めるまでが勝負で、逃げ出せないだけの監視を設けさえすれば、いくらでも破格の待遇が提示可能となる。
 
 軍の強制を受けた警察当局の強制があって、「天津特別市楽戸連合会」は従わざるを得ない止む得なさから、表面は「自発的応募」を装いつつ、女たちを威したりすかしたりの強制で応募させた。そういった強制の段階を受けた「自発的」だからこそ、「229人」のうち「12人が塀を乗り越えて逃げ出し」、さらにトラックで輸送中に「86人のうち半数の42人も逃亡した」強制への拒絶があったのであり、そのことから判断できることは、「借金などはすべて取消して、自由の身にする」といった破格の待遇の有効性である。最初に逃げた12人に86人を足して、さらに逃げた合計を54人と計算して割り出すと、直接募集という強制を働かせても、半分に満たない45%の有効性しかなかった。この有効性が日本軍に対する印象のすべてを物語っている。

 朝鮮人の間に日本人・日本軍に対する印象を広くつくり出すことに大きく貢献したに違いないと思われる新聞記事がある。≪朝鮮人 強制連行示す公文書 外務省外交史料館「目に余るものある」≫(『朝日』98.2.28)

 <アジア・太平洋戦争末期に、植民地だった朝鮮半島から日本へ動員された朝鮮人に対して、拉致同然の連行が繰返されていたことを示す旧内務省の公文書が、外務省外交史料館から発見された、「強制連行」についてはこれまで、被害者の証言が中心で、その実態が公式に裏付けられたのは初めてと見られる。 水野直樹・京都大学助教授が発見、整理した。28日、「朝鮮人強制連行真相調査団」を主催して千葉市で開かれるシンポジウムで発表される。
 問題の文書は、内務省嘱託員が朝鮮半島内の食料や労務の供出状況について調査を命じられ、1944年7月31日付で内務省管理局に報告した「復命書」。
 その中で、動員された朝鮮人の家庭について「実に惨憺(さんたん)たる目に余るものがあるといっても過言ではない」と述べ、動員の方法に関しては、事前に知らせると逃亡してしまうため、「夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的掠奪(りゃくだつ)拉致の事例が多くなる」と分析。朝鮮人の民情に悪影響を及ぼし家計収入がなくなる家が続出した、などの実情を訴えている。また、留守家族の様子について、突然の死因不明の死亡電報が来て「家庭に対して言う言葉を知らないほど気の毒な状態」と記している。
 水野助教授によると、植民地に関する42年以降の大半の内務省文書は、自治省の倉庫にあると言われながら、存在は明らかにされていないという。「植民地の実態を明らかにするためにも一連の内務省文書の公開を急ぐべきではないか」と指摘する。
 今回、水野教授らが集めた資料を東京都内の出版社が復刻出版しようとしている。だが、外交史料館は「外務省に著作権がある」と不許可にした。>――

 「外務省に著作権がある」と「復刻出版」を拒否したとは相変わらずの不誠実・不正直な歴史隠蔽の体質ぶりを示している。この隠蔽体質からして、従軍慰安婦問題でも、その「狭義の意味での強制性」を示す文書・資料の類がありながら、隠蔽もしくは処分済みの疑いも可能となる。

 「復命書」の報告は「1944年7月31日付」、いわば昭和19年で、中国・天津の軍の慰安婦募集と同じ年となっている。秦郁彦氏が提示した広告は「昭和18年」とその1年前である。朝鮮人の強制連行はHP「強制連行」を参考にすると、1939年(昭和14)9月から「自由募集」の形で開始されたということだが、朝鮮総督府の地域ごとへの割り当てがあったということだから、強制力の働いた「自由募集」である。当然、「自由募集」の名前に反する強制に初期状態から反発を生じせしめたはずである。

 そらがその5年後の1944年には「夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的掠奪(りゃくだつ)拉致の事例が多くなる」といった飛躍の道を辿った。日本側の情け容赦のないそのような目覚しい飛躍に比例して、当然朝鮮人の反発も高まっていっただろう。

 いや、反発は反発の上に反発を重ねて、既に重層化していたのである。1919年(大正8)3月1日の朝鮮人の3・1運動に対する日本軍による死者7500人、負傷者4万5000人、検束者4万6000人の犠牲者を出すに至った過酷な弾圧、1940年(昭和15)の8月までの改名期限に<改名しない者には公的機関に採用しない、食糧の配給対象から除外するなどの圧力をかけた>(『日本史広辞典』)創氏改名の強制。

こういった日本の有無を言わせない弾圧も、朝鮮人の反発の層を成す無視できない契機となっていっただろうことは容易に想像できる。日本人と結びついて経済的利益を貪ることができる朝鮮人を除いて、日本人は歓迎されざる存在だったことは疑いもない。

 いわば絶対多数の朝鮮人にとっては、最小限に見積っても、避けることができるなら、避けていたい日本人であったに違いない。当然、避けたい気持を中和させ、差引きゼロとする破格の待遇を用意する必要が生じる。

 但し破格が避けたい気持を上回って、有効化するかが問題となる。

 となれば、業者が「広告」を出した募集の形だから強制はなかったとする主張は、破格の待遇が有効であった場合にのみその正当性が認められ、無効であった場合、正当性はかなり疑わしいものとなるだけではなく、無効が強制へ向かわない保証はない。

 有効でなかった証明の一つとして、国は違っていても、天津の半強制的な慰安婦募集が破格の待遇を用意しながら45%の有効性しかなかった例を挙げることができるし、無効が強制へと向かった証明として、朝鮮人労働者の強制連行が「自由募集」の形から「夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的掠奪(りゃくだつ)拉致の事例」へと移行した例を挙げなければならない。

 またよ過ぎる待遇は、それが往々にして、これだけ出しているのだから文句はないだろうといった支配力を生じせしめ、敵意と憎悪増幅の悪循環を生まなかった保証はない。

 日本軍がポツダム宣言の受け入れ時に重要書類を焼却するよう全軍に命じたとする主張に対して、秦の「この世の中に一つしかない文書って、滅多にないんですよ。特に上から下へ流す文書っていうのは宛先が数百通も流れていくわけです。そのうちのどれか、残ってるんです。ですから戦後ですね、戦後防衛庁戦史室(?)で、その数10万点の旧軍の資料ありますね。それはみな集めてきたんですよ。その焼け残ったやつを。それから命令出した場合、記憶によって覚えている人もいるわけです。」に対する反論。

 確かに「上から下へ流す文書っていうのは宛先が数百通も流れていく」ケースもあるだろうが、各受取り先は1通か2通であろう。同じ書類を「数百通」も受け取ったとしても、ありがたくも何ともない。1通や2通なら、処分は簡単である。直接的に戦闘行為に関係のない、いかがわしい反道徳的な「文書」なら、極秘文書ゆえ、内容を確認次第処分するよう追伸で指示して、その場で証拠隠滅を図ることもするだろう。

 その場合は秦が言うように「記憶によって覚えている人もいる」だろうが、重要書類・極秘文書を先に目を通すのは上官と決まっている。上官となれば、地位に応じた期待を担う。反道徳的命令を自らが仲介して実行したとなれば、期待を裏切ることとなって、自らの人間性に絡んでくる。当然そのことは名誉の問題へと発展する。中身はいくら薄汚くても、名誉という体裁だけは維持しなければならない。そういった自己利害上、あるいは自己保身上、自分から進んで告白したいと思う人間はそうはいまい。

 さらに言えば、下の者は上の者に従う権威性を日本人は行動様式としているだけではなく、上が命令したことに忠実に従っただけだを口実に、自らの責任を回避する無責任性を多くが日本人性としている。今でも会社のためにしたことで、俺には責任はないといったふうに。そういった罪悪感を持てない人間は取調べといった強制力が働かない限り、自ら申し出るだろうか。

 また、軍中央の命令ではなく、出先部隊が勝手にした強制的な従軍慰安婦募集であったなら、「文書」などは上官が余程の文書マニアでなければ、最初から存在しないだろう。インドネシアのオランダ人抑留所で起きたオランダ人女性の強制的従軍慰安婦狩りは「2カ月後、事件は軍の中央の知るところとなり、慰安所は直ちに閉鎖された」(NHKスペシャル・「ソニアの日記」)ということだから、インドネシア日本軍という出先部隊が勝手にした強制行為であろう。

 07年4月号発行の『文藝春秋』・「『小倉庫次侍従日記』昭和天皇戦時下の肉声」(解説・半藤一利)の<昭和15年9月26日(木)>日付の記述中に、<后四・四○軍令部次長、后五・○○参謀総長、河内(ハノイ)に於いて中央よりの命令に違反し、出先陸軍に於いて重大事件ありたる模様なり>とある。

 半藤氏は<注>で次のように解説している。<軍令部次長、参謀総長の上奏は、この日に行われた北部仏印進駐に関するものである。国策となった南進政策の実行で、はじめはフランスとの交渉妥結を見てからの平和進駐の予定であった。そこへ参謀本部作戦課が割り込んでくる。時間のムダであるというのである。結果、強引に陸軍部隊を越境させ、フランス軍との交戦という失態を招いた。平和交渉のため苦心していた現地の責任者は窮地に立ち、東京に打たれた電報「統帥乱れて信を中外に失う」は、昭和史に残る名言となっている。日本の武力進駐に対抗して、アメリカは屑鉄の全面禁輸という強硬政策を断行した。>

 統帥権は天皇にあり、その統帥を無視する程に<出先陸軍>は傲慢・放縦であった。その傲慢・放縦が陸軍内部でも、各出先部隊で演じられていなかった保証はない。インドネシアのオランダ人女性狩りは、その傲慢・放縦の典型例であろう。

 <秦郁彦「さらに言えば、さっきこれ目撃証言についての話が出なかったんですけど、韓国の女性、元慰安婦たちですね、出てきた一人たちの中で、身の上話がずっとあるわけです。誰一人証人がいないんです」
 小池アナ「自分で言ってるだけ?」
 秦「言ってるだけでね。普通はですね、そういうひどい目に遭ったとか近所の人だとか、友達だとか、家族だとか、連れてきて証言させますよね。そうしないともう法廷では取り上げてくれない。一人も出ていないです」>

 『日本史広辞典』(山川出版社)で【従軍慰安婦】の項目を見てみると、<昭和初期の戦地で日本軍将兵の性的慰安をさせられた女性。軍慰安所は1932年(昭和7)上海事変時に存在していたが、南京大虐殺直後の37年末から軍の政策として本格化した。占領地女性への強姦防止、性病罹患による戦力低下防止を目的とし、若く性病の心配のない植民地下の朝鮮人女性が大量に連行され、占領地では現地女性も駆り出された。91年(平成3)に元慰安婦の証言や補償請求裁判が行われ、92年に軍の全面関与を示す公文書が発見されて日本政府は公式に謝罪したが、補償は解決済みとしたため、国際的な議論をよんでいる。>

 1937年から本格的に<若く性病の心配のない植民地下の朝鮮人女性が大量に連行され>た。そして54年後の1991年に<元慰安婦の証言や補償請求裁判が行われ>た。15歳で従軍慰安婦にされたとしても、69歳となっている。敗戦の年の1945年の15歳だったとしても、1991年は46年後で、61歳である。

 本人がそういった年齢にあるというだけではなく、平均年齢が現在程には高くない時代だったのだから、「近所の人だとか、友達だとか、家族だとか」がどれ程生き残っているというのだろうか。例え生き残っていたとしても、年老いた者がどれ程に4~50年前のことを記憶しているだろうか。平和な時代の平和な土地で起きたことではなく、植民地下の日本兵が好き勝手をやっていた混乱状況での出来事であるし、狩り出すについても、目的を正直には伝えなかっただろう。「お前ら、素っ裸になって天皇の大日本帝国軍人を相手に日本兵の士気を高めるんだ。有難く思っておとなしくついてこい」と追い回しはしなかったはずだ。

 大体が売春を職業としていた女性でも、恥ずべき職業としてひた隠に隠さなければならなかった時代だったのだから、ましてやそういったことに無関係な一般女性であったなら、後で知ることとなった役柄は誰にも知られたくなかっただろうし、隠すだけが精一杯で、あとになって裁判で訴えることになるかもしれないといった心の準備は当時の一般生活者の意識にあったとは考えにくく、それらを総合的に考慮すると、秦郁彦の「証人」云々は、権利意識がまだ薄かった二昔も三昔も前に強姦被害にあった若い女性に裁判を起こしてやるから証人を出せと求めるのと等しい無理難題ではないだろうか。現在でも泣き寝入りする強姦被害者が存在するくらいである。

 いずれにしても秦郁彦の主張に誠実さを些かも感じなかったが、「広義」でも「狭義」でも従軍慰安婦強制性肯定派に属することからの色眼鏡がなさしめた印象なのだろうか。

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従軍慰安婦問題/安部の「規律ある凛とした」謝罪

2007-04-22 07:35:06 | Weblog

 安倍首相が米メディアに従軍慰安婦問題で謝罪したという記事が新聞・テレビで報じられた。どんな風に謝罪したのか、調べてみた。

 「朝日」
 <首相は「当時の慰安婦の方々に人間として心から同情するし、そういう状態に置かれたことに対し、日本の首相として大変申し訳ないと思っている」と語った。さらに「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀だが、日本にも責任があり、例外ではない。慰安婦として彼女たちが非常に苦しい思いをしたことに対して責任を感じている」と述べた。>(07.4.21/夕刊≪慰安婦問題 首相「日本に責任」 訪米控え 米メディアと会見≫

 「Sankei Web」
 <「当時の慰安婦の方々に心から同情するし、日本の首相として大変申し訳ないと思っている。彼女たちが慰安婦として存在しなければならなかった状況につき、われわれは責任があると考えている」と、日本側の「責任」に言及して謝罪の意を示し、平成5年の河野談話を継承する考えを改めて表明した。
 一方で、首相は「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀だが、日本も例外ではない」とも述べ、戦時の人権侵害が日本だけの問題ではないことをにじませた。>(2007/04/21 13:34/≪首相、慰安婦問題の「責任」に言及 米紙インタビューで≫)

 「読売」
 <「慰安婦の方々に人間として心から同情する。日本の首相として大変申し訳ないと思っている」と改めて謝罪した。
 さらに、「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀で、日本にもその責任があり、例外ではない」と述べ、慰安婦問題を人権問題と位置づけ、日本の責任を明確に認めた。
 また、「我々は歴史に常に謙虚でなければならない。彼女たちが慰安婦として存在しなければならなかった状況に我々は責任がある」と語ったうえ、1993年の河野洋平官房長官談話を継承する考えを重ねて表明した。>(07年4月21日13時55分≪首相「慰安婦問題は人権侵害」、責任認め改めて米誌で謝罪≫)――

 「朝日」は<首相としては米メディアを通じて「謝罪と責任」を明確にすることで、米国内の反発を沈静化させたいとの狙いがあるようだ。>とし、「読売」は<訪米を前に、米メディアの批判の鎮静化を図ったものだ。>として、訪米という自己都合が仕向けた態度表明であることを示唆している。

 一方「Sankei Web」にはそのようなニュアンスの言及は一切なく、代わりに<戦時の人権侵害が日本だけの問題ではないことをにじませた>と、「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀」とした安倍首相の言及に解説の重点を置く、「朝日」と「読売」にはない配慮を示している。

 だが、そのような配慮を超えて、安倍首相の「慰安婦の方々に人間として心から同情する」、「日本の首相として大変申し訳ないと思っている」、「日本にもその責任があり、例外ではない」とする反省のすべてを「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀」が打ち消している。

いわば「Sankei Web」の<戦時の人権侵害が日本だけの問題ではない>が安倍首相の美しいホンネをものの見事に簡潔に表現していたのである。

 このことは「読売」が伝えている「彼女たちが慰安婦として存在しなければならなかった状況に我々は責任がある」としたことにも現れている。あくまでも責任主体を従軍慰安婦に置き、「存在しなければならなかった」のであり、〝存在させた〟とはなっていない。だからなのだろう、国側の「責任」の基準を従軍慰安婦を直接的に対象としているのではなく、「存在しなければならなかった状況」に置いている。

 中国や韓国、その他のアジアの国々と日本の間に横たわり。、問題となっている従軍慰安婦問題は日本の戦争がつくり出した女性の人権に関わる特殊な日本の問題であるにも関わらず、「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀」だと人権一般の問題・世界の問題とする一般化によって、日本の問題であることを拡散させ、「20世紀」という時代の責任に転嫁して自らの責任を曖昧にしようとした、そこに安倍晋三の美しいホンネがあったというわけなのだろう。

 いわば「日本に責任がある」か「日本に責任はない」のいずれかであって、決して「日本にも責任があり」と分析する事柄では決してないにも関わらず、「責任なし」としたこれまでの自分の主張を自ら隠して、部分的関与を認める巧妙な態度に出た。

 と言っても、「日本にも責任があり」の一般化・部分的関与は「広義の意味での強制性」があったことに対する国の責任は認めるが、軍・官憲が関与した「狭義の意味での強制性」に対する国の責任は認めないとする姿勢と対応しあう論理で、「広義・狭義」の解釈を間接的に正当化した「日本にも責任があり」の一般化・部分的関与なのだろう。

 いわば何層にも自己正当化の巧妙な煙幕を張った〝謝罪〟だったのである。にも関わらず、訪米を控えて、そうせざるを得なかった。そこが「美しい」国の「凛とした」首相にしては苦しいところだったに違いない。

 また「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀」は、侵略戦争は日本だけが行ったのではなく、欧米先進国も行ったとするのと同じ線上をいく論理であろう。事実そのとおりではあっても、日本の侵略は日本の侵略として個別に扱うべき問題である。

 いずれにしても安倍首相は「広義」と「狭義」を使い分けて、「狭義」に関しての国の責任は認めないとする姿勢を「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀」だったとすることで、どうにか守り通した。そうできたことは、苦しい部分があったとしても、自己嫌悪を感じることもなく、自らが掲げる「規律を知る凛とした国」を自ら裏切らない一線とすることができたということでもあろう。

 今朝(07.4.22)早い時間の「日テレ24」で、<安倍首相は、以前、慰安婦について「軍が直接関与した証拠はない」と発言したことについて、「今までの政府の調査を述べたものだ」などと釈明した。≫と解説していたが、「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀」だったとするだけでは足りず、「政府の調査」がそうなっていた、自分の考えではないとする美しい変心のご都合主義まで臆面もなく成功させている。

 ただ残念なの訪米に合わせた機を見て敏なる態度が最近そうあるべく努力し、支持率回復に一役買っている安倍首相の強気に打って出る悲壮感滲ませた姿勢の一環とはどう贔屓目に見ても見えないことである。これも態度の使い分けの一つに過ぎないのだろうか。首相就任以来見せてきた「美しい」「凛とした」態度の使い分けである。

 訪米に吉と出るか凶と出るか、見ものではある。

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国家主義的視野狭窄からの少年法改正

2007-04-21 08:29:06 | Weblog

 子供は親の背中だけ見て育つわけではない

 04年4月19日朝日朝刊≪少年法改正、今国会成立へ 与党修正案を衆院法務委可決≫

 主な内容は――
①刑事責任を問えない14歳未満の少年について任意の事情聴
 取しかできなかった警察に押収・捜索など強制調査権限を
 与える。
②おおむね12歳以上の少年を、家裁の判断で少年院に送致で
 きる。
③法改正は長崎県佐世保市で04年に起きた小6女児の同級生
 殺害事件などがきっかけ。
④政府が提出した法案の眼目は、「将来罪を犯す恐れのある
 虞犯(ぐはん)少年」を調査対象にすることと少年院送致
 の下限年齢(14歳)の撤廃
⑤上記2点について、今国会では野党だけでなく、与党から
 も「定義があいまいで乱用の危険性がある」「福祉の観点
 がおろそか」などの慎重論が出ていたが、18日(07年4月) 
 の衆院法務委員会で与党の強行採決により、可決、今国会
 で成立する見通し。

 「虞犯少年」とは、「その性格・行動・環境などに照らして、将来犯罪於かす恐れのある20歳未満の男女」(『大辞林』三省堂)となっている。

 「おおむね12歳以上」とはケースに応じて自由裁量が許されるということだろう。10歳以下を送致して、寛容性なき美しい国家主義国家としてギネスブックに記録されるのも「美しい国づくり」には役に立つかもしれない。

 上記与党の法案が国家主義的視野狭窄からの内容だと言うのは、少年犯罪の凶悪化・低年齢化のみに目を向けて、教育全体・社会全体に目を向けるだけの思想を持てず、国家管理による厳罰化の方向にのみ目を向けた思想を背景として成り立たせているからである。

 要するに子供たちのありようだけを見て、大人のありようを見ることができない半端な客観的認識性が仕向けた管理一辺倒・国家管理意志が法の形を取ったに過ぎない。

 そのことは安倍首相のコメントを見れば分かる。<18日夜、「残念ながら、最近、少年による犯罪が凶悪化している。被害者の方々のお気持ちも踏まえれば、やむを得ない」と首相官邸で記者団に語った。>(2007年4月18日22時31分 読売新聞)

 「少年犯罪の凶悪化」のみに目を向けて、そこからたいして足を踏み出せない視野狭窄の発言となっている。せいぜい「被害者の方々のお気持ち」までである。〝なぜ〟という視点が一切ない。なぜ、少年犯罪は凶悪化しているのか、低年齢化しているのかという視点である。
 
 この〝なぜ〟は教育に関わっている。となれば、教育関連の法律を整備してから、それとの関連を持たせた少年法にかかるべきで、原因追究と解決方法の模索なし、教育要素は「少年院送致」という名の後付けの対症療法のみの厳罰化に過ぎず、順序も込めるべき思想内容もズレたものとなっている。

 もっとも安倍式教育関連3法案を成立させたとしても、少年法改正案に必要とされる教育思想を込めることもできないのだから、相変わらず国家主義者ならではの国家管理を主体としたハコモノ(=形式)で終わるのは目に見えている。言葉を駆使することで〝形式〟は立派に装うことができても、込めるべき中身の思想・哲学が空疎なものだから、形式(あるいは規則)に応じたり、形式(あるいは規則)に応じさせることはできるだろうが、形式(規則)を超えて、主体的にあるべき姿を獲ち取っていくだけの自覚性の糧とさせるところまではいかないだろう。管理・規則だけで、糧となる思想・哲学が最初から存在しないからだ。

 アメリカ教育使節団の提言で纏められた1947(昭和22)年3月31日公布の戦後教育基本法の精神に添って画一的・中集権的戦後教育の反面教師としての内容を込め、主体的な自律性の獲得を求めて同じ年に定められた学習指導要領を、その精神を裏切って、1958年に文部省告示とすることで国の基準として法的拘束力を持たせる改正を行っている。その結果、全国一律性による画一化への回帰、中央集権化への回帰、いわば戦前日本への回帰の姿を取り、その姿のもとで様々な学習指導要領改訂や政策を通して教育を改革してきながら、それらが教育の荒廃にのみ役に立ったのも、戦後一貫して自民党教育政策が生徒の中身まで届かない画一・中央集権の色彩を持ったハコモノ(=形式)で終わっていたからだろう。

 子供は親の背中を見て育つ。誰でもがそう言う。

 しかし親の背中だけ見て育つわけではないことにまで思い及ばない。家族の間では親だが、社会にあっては、親は一般の大人としての地位を占める。大人の姿を取る。親であると同時に社会一般の大人としての背中を持つ。画然と分けることはできない。否応もなしに社会と家庭は密接につながっている。社会が情報化へ進む程に家庭は社会との境界を失っていく。

 子供は小学校にも入れば、家庭と小学校、それに登下校のエリアだけを自分の世界としていいるわけではなく、自分や友達の家からテレビ、漫画、インターネットその他とつながった様々な社会を間接的にだが、自分の世界とする。

 そこでは親とは違うたくさんの大人がおり、それぞれの背中を見せている。例えば学校の教師は情報が未発達な時代では、ほぼ自分が通う学校にのみ存在する大人であったが、現在の情報時代に於いては自分の学校にのみ存在しているわけではなく、新聞やテレビ、漫画・雑誌を通して窺うことのできる様々な社会にも存在していることを知っていて、彼らの背中からも無意識的、あるいは自覚的に様々なことを学んでいく。

 自分の父親についても言えることだが、学校の教師しか知らない時代は、ほぼその背中しか知らなかったから、その背中がすべての位置を占めていたために学校の教師が口にすることの多くを無考えに素直に受け入れることができた。だが一般社会に存在する様々な教師の背中まで見てしまうことになって、それとの比較で学校の教師の背中を否応もなしに見るようになっている。背中を見るとは、背中を判断するということでもあろう。

 教師の背中を判断し、親の背中を判断する。大人の背中を判断する。そして新聞やテレビといった社会の情報が率先垂範して伝える学校教師だけではなく、政治家や官僚まで含めた社会一般の大人たちの背中は殆どが既に如何わしさと胡散臭さに彩られたものとなっている。

 社会という場で如何わしいばかりに胡散臭い背中を見せている大人たちが家という場で親でございますといった顔をして親らしく見せた背中を子供に見せたとしても、そのように親を装った背中を子供は社会の親や大人の持つ背中との比較から、形どおりには受け取らない。親子の対話の欠如は、親の背中を知ってしまったことへの拒絶反応ではないだろうか。あるいはもっと直線的に、親の背中への拒絶反応としてある会話拒否ではないのか。

 安倍以下の国家主義者たちが、「教育は親の責任」だとか、「家庭の教育は大切だ」とか言って国家の思うままに上からの規則で管理しようと衝動するのではなく、子供が見るに耐える、あるいは学ぶに耐える背中を親が持つべきであるし、そうするには社会にあるときの背中と家にいるときの背中に首尾一貫性を持たせなければならない。社会で見せている如何わしい背中を家で取り繕って親でございますと装っても、社会の情報がその化けの皮剥がしを手伝ってしまう。

 例えば、女子高生のスカートの中を盗撮しようとして学校の教師が逮捕される事件がマスコミによって大きく報道されれば、中学校や高校の生徒ともなれば、自分たちの学校の先生を逮捕された教師と重ねて見ることになるだろう。女子生徒に何気なく向けた目であっても、いやらしい目で見たということになりかねない。

 中学生や高校生でなくても、小学生のうちから、はっきりとした答を見い出すまでには至らなくても、親の背中・大人の背中を何気なく感じ取る感覚、嗅覚を備えているだろう。まだ子供のうちだから気がつかないだろうと、家でも子供の前で胡散臭さを曝け出しようものなら、子供は何となく感じ取った胡散臭さの影を引きずって年齢を重ね、何年もたたないうちに社会の情報の助けを借りてそのことにはっきりとした回答を与えることになるだろう。子供が年齢を重ねると共に情報の世界が広がり、嗅覚が鋭くなっていくのに対して、親も胡散臭さを重ねて俗物化していくから、いくら美しく装うとしても見破られやすくなるということもあるに違いない。

 この社会は初期的には大人がつくり出している。子供がつくり出すはずはない。大人の産物として社会はある。そして子供の姿も大人の姿がつくり出している。背中ということで言えば、子供の背中は大人の背中の産物として存在する。

 勿論、大人の背中から子供の背中への一方的な反応で終わるわけではなく、大人の背中の影響を受けてつくられた子供の背中のありようの影響を大人の背中も受けるようになり、相互反応の形を取る。

 今回の与党の少年法改正案も、大人の背中がつくり出した子供の背中であるにも関わらず、子供の背中のみに反応して、いわば大人の背中は無視してつくったものだろう。それゆえにハコモノ(形式)の宿命を授かることになっている。

 子供の背中が社会のルールに反する背中であった場合、大人たちが協力してつくり出した背中であることに気づかずに、自らの背中を修正せずに子供の背中だけを修正しようとすると、当然物理性を持った強制力として子供の背中に働きかけることになる。

 子供は親の背中を見て育つという子の感性と、そう仕向ける親の感性とがお互いに反応し合ってそれぞれの背中を形作る相互力学に反する一方的力学のみをつくり出すからだ。いわば、親の背中、社会の大人の背中を見ずに育つことは不可能なのに、その背中とは異なる育ちようをしろと不可能を強制するようなものである。

 大人がこの社会をつくっている以上、子供の教育は親の責任ではなく、大人の責任としなければならない。親の責任とするのは、政治家や官僚の責任逃れの発想に過ぎない。国の過ち、あるいは国の教育政策の過ちはなしとしたいからだろう。

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伊藤市長銃撃/安倍晋三が望んだ〝広義の意味でのテロ〟

2007-04-20 07:20:43 | Weblog

 前回ブログ記事『安倍式従軍慰安婦「強制性」解釈からの伊藤長崎市長銃撃事件』の最後の部分、「他の者のテロ反応に対しての安倍首相の「真相究明を望む」は、従軍慰安婦問題の強制性とのバランスから、テロ以外に動機を求めた「真相究明」――〝広義のテロ〟を望んだことから発した言葉ということなのだろうか。」を自分で読み直して、一瞬、何を言おうとしたのだろうと疑った。

 書いた本人が言おうとした意味を受け取れなかったのだから、意味不明とした読者もいたと思う。何を言おうとしたのだろうと暫く考えて、やっと分かった。要するに言葉足らずが原因なのが分かった。言葉足らずでも理解できた読者には余計なお世話となるが、抱えてしまった消化不良を改めてアルコールを注いで活性化させたいと思う。最終部分を今一度書き出すと、

 <但し政治活動阻止が直接の動機ではなく、私怨が動機であったが確定されたとしても、結果として自由であるべき政治活動を停止させることになったし、市長自身の言論を奪うこととなった。

 このことは一般の殺人事件にも言えることで、殺害することによって、殺害された者の自由であるべき活動・自由であるべき言論を結果として奪うこととなる。いわば広義の意味でのテロ被害と言えないことはない。

 このような構図を厳密に解釈するなら、戦時中の従軍慰安婦は行きたくはなかったが、行かざるを得なかったような広義の意味での強制性はあったが、軍や官憲が直接家に乗り込んで連れて行ったりした狭義の強制性はなかったとする安部式従軍慰安婦「強制性」解釈に習うなら、「広義の意味でのテロ、もしくは言論の封殺はあったが、狭義のテロ、言論封殺はなかった」と解説すべきではないだろうか。

 とすると、他の者のテロ反応に対しての安倍首相の「真相究明を望む」は、従軍慰安婦問題の強制性とのバランスから、テロ以外に動機を求めた「真相究明」――〝広義のテロ〟を望んだことから発した言葉ということなのだろうか。>――

 前ブログ記事で『朝日』の社説(07.4.18.<またも長崎市長が撃たれた。――>)を取り上げた。前回は引用しなかったが、伊藤市長の反核活動を伝える箇所だけを取り上げてみる。

 <伊藤氏は被爆地ナガサキの市長として核廃絶運動の先頭に立ち続けてきた。>
 <伊藤市長は95年には国際司法裁判所の法廷で証人として立ち、「核兵器使用が国際法に違反していることは明らかであります」と世界に訴えた。核保有国の核実験には抗議を重ねた。>
 <北朝鮮の核実験に関し、日本国内で自民党幹部から核保有論議の容認発言が出ると、「看過できない」として非核三原則堅持と外交での解決を求めた。>

 以上の経緯と伊藤氏が自民党の支援を受けて市長選に当選したという経緯から考えると、自民党や自民支持派の核容認派には確実に面白くない存在であったろう。

 そのような存在状況にあった伊藤長崎市長に対する銃撃が純粋に襲撃対象の政治主張を圧殺して自らの政治主張を満足させようとした、あるいは実現させようとした暴力行為としてのテロであったなら、まず第一番に疑われる攻撃主体は核容認派であろう。

 犯人が逮捕されて、その人間が狂信的な民族派の核保有主義者の一人であったなら、核容認派としては都合が悪い。家宅捜査が入って、安倍晋三著『美しい国』が何冊も部屋の本棚に並べられたりしていたなんてことがあったなら、なおさら始末に悪いし、そのことが世間に報道されたなら、核保有派の国家主義者安倍晋三の立場・人気を貶めることになりかねない。

 事件を知らされるや、テロだった場合の自分に降りかかるかもしれない状況を咄嗟に嗅ぎ取ってテロでないことを願い、いわば従軍慰安婦問題と同様に、いつの日かの核保有に向けて日本国家の責任を逃れることができる「広義の意味でのテロ」を望み(こんなテロまで起きていて、まだ核議論があっていいなどと言っているのかということになりかねない)、「狭義の意味のテロ」とはならない「真相解明を望む」というコメントになったのではないかという、十分に考えられる勘繰りというわけ。

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安倍式従軍慰安婦「強制性」解釈からの伊藤長崎市長銃撃事件

2007-04-19 10:11:23 | Weblog

 「狭義の意味でのテロ、もしくは言論封殺はなし」

 18日(07.4)の早朝の「日テレ24」だったと思うが、市長選さ中の長崎市長がピストルを撃たれて病院に搬送されたと聞き、最初は市長が掲げていた核廃絶主張を封殺する目的のテロなのかと思った。

 自民党政調会長・中川昭一が北朝鮮が核実験を行ったとき、「核があることで攻められる可能性は低いという論理はありえるわけだから、議論あっていい」とか、「欧米の核保有と違ってどう見ても頭の回路が理解できない国が(核を)持ったと発表したことに対して、どうしても撲滅しなければいけないのだから、その選択として核という(論理はありうる)」(06.6.15「朝日」朝刊)と発言していて、その発言に理解を示したり、容認する勢力が一方にある。当然そのような勢力の主張を阻む非核政策堅持勢力、あるいは核廃絶勢力が存在し、相互に対峙する関係を持つことによって、言論を超えた攻撃が生じることも考えられるからだ。

 18日「朝日」朝刊の社説も、≪長崎市長銃撃 このテロを許すまい≫となっている。その出だしは、<またも長崎市長が撃たれた。
 この卑劣なテロは断じて許すことはできない。>となっている。

 記事半ばではこのようにも言っている。<相手が言うことをきかないからといって、暴力で封殺するようなことがまかり通れば、言論の自由が封じ込められた結果、国の進路を誤った戦前の暗い時代に後戻りすることになりかねない。>

 思想・信教の自由、言論の自由といった基本的人権の保障を否定する挑戦に対しては、過剰すぎるくらいに過剰に反応すべきであろう。国家権力からの、あるいは国家権力に組する勢力からの基本的人権の保障は常に絶対ではなく、今後とも絶対となることはないだろうから、常日頃から絶対に向けて努力しなければならないからだ。

 国家権力はその内側に暴力団性を衝動として抱えている。あるいは眠らせている。時と場合に応じて、その目を覚まし、牙を剥く。国家権力が右翼と近い関係にあるのはそのためだろう。左翼国家権力は極左勢力と結びつき、利用する。

 だが、市長を銃撃した指定暴力団山口組系水心会会長代行城尾哲弥なる容疑者の動機が、昨日の日中既にテレビで報じていたが、「市発注の歩道工事のくぼみに車が転落した事故に対する補償や知人の会社への融資などをめぐって市とトラブル」(07.4.18「朝日」夕刊)ということが事実なら、現在のところは私的トラブルを原因とした逆恨みからの殺人行為であって、民主主義の手段を超えて一定の政治目的を実現させようとした暴力行為、いわば「テロ」であったとは言い難い。

 私的トラブルが実際は表向きの理由で、政治目的を隠していた犯行ということが判明したと言うことなら、勿論のこと、テロに姿を変える。

 動機が私怨であるなら、凶器が拳銃は暴力団会長代行だから使用可能とした、あるいは入手可能だったという簡便性と実行の確実性、それらを利用した私怨の強さの表現でもあるだろう。一般の犯罪者の入手可能な凶器がナイフや包丁類であることの簡便性と実行の確実性(一般人にしたら、ナイフや包丁はより確実度の高い凶器であろう)とさして変わらないことになって、拳銃に特別な意味づけは難しいのではないか。

 因みに一般犯罪者は刺す行為・殴る行為の反復度によって恨みや憎しみの程度を表現する。

 勿論今回の事件が政治的な言論封殺・言論弾圧を目的として拳銃を使用したと言うことなら、言論に対する言論を民主主義の基本的ルールとする以上、暴力団だから使用可能としたということを超えて、民主主義のルールを言論に代えて破壊する手段の程度の問題としての意味・象徴性を持つ。

 伊藤一長市長の前市長だった本島等氏を地元の右翼団体構成員が1990(平成2)年1月18日に拳銃で襲撃し、重傷を負わせた動機は、市長が市議会で行った「天皇に戦争責任はあった」とする発言を封殺する、天皇擁護の立場からの明らかに政治目的を持ったテロであったろう。言論の自由、思想・信教の自由の一線を超えて本島市長一人の口を封ずるのではなく、主だった一人を封じることによって、天皇に戦争責任があるなどといった発言をする人間は誰だって許さないぞという見せしめを持った、一人を超えて、全体に向けたテロ――言論及び思想・信条の自由に対する挑戦であったろう。

 また60年安保騒動で騒がしいさ中の1960年(昭和35年)10月12日に右翼少年の山口二矢(おとや・17歳)が日比谷公会堂で行われていた3党首立会演説会で壇上で演説中の旧社会党委員長の浅沼稲次郎をナイフで襲い殺害した行為も、その政治活動を停止すべく謀った政治目的からのテロ――政治的な口を封じるための凶行だったと確実に言える。

 山口二矢は内ポケットに一通の書面を忍ばせていたという。

 「汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日  山口二矢」(「浅沼社会党委員長暗殺事件」このHPは当時の状況を詳しく解説している。

 決行期日に「皇紀」を使ったことと、決行前に口ずさんだ自作の和歌の内容(「千早ぶる神の大御代(おおみよ)とこしへに、仕えまつらん大和男子(おのこ)は」/同HP)、さらに決起文の時代がかった言い回しから判断すると、固定観念に凝り固まった天皇主義者であり、日本民族主義者、今で言う原理主義者であったのだろう。

 勿論、動機が明らかになるまでの今回の政界の反応には止むを得ないものがあるが、それにしても似たり寄ったりの内容には驚かされる。

 (テレビ朝日/4月18日・昼)
 東国原宮城県知事「そういった暴力が自由を奪う、言論を奪うというのは卑劣な行為だと思いますね。民主主義に対する冒涜・挑戦、あるいは否定につながりかねない行動ですので、なくしていかなければならないと、私はそう思います」
 記者「同じ首長としてですね(「くびちょう」と言っていたが、「主張」といった言葉と分かりやすく区別するために「くびちょう」なる使い方を慣習としているのだろうか)、選挙期間中に銃撃されるっていうのは、どうです?」
 東国原「非常に、あのー、由々しき問題ですよね。まことに遺憾だと言うしかないですね」
 
 (TBS・夕方の「イブニングニュース」/4月18日)
 安倍首相「選挙運動中の凶行というのは民主主義に対する挑戦です。断じて許すわけにはいかないと思います。(以下、4.18「朝日」夕刊から)こうした暴力を断固として撲滅していかなければならないと思う」
 小沢民主党代表「本当に残念でありますと同時に強い憤りを感じております」(勿論、時間のかかる物言いで)
 大田公明党代表「如何なる理由があろうと、暴力は談じて許されることではないと――」
 志位共産党委員長「自由と民主主義に対する最も凶暴な攻撃であって、絶対に許すことはできない――」
 福島社民党党首(マイクを3本握っていたから、選挙応援演説中の訴えなのだろう)「表現の自由や政治活動の自由を侵害するという行為を本当にみなさん、許さないように一緒に、本当に心を合わせましょうと申し上げたいと思います」

 それぞれが言っていることのキーワードを一纏めにして眺めてみると、みな同じで、内容もごく当たり前のこと、紋切り型の発言となっていることが分かる。

 「自由を奪う」、「言論を奪う」、「卑劣な行為」、「民主主義に対する冒涜・挑戦、あるいは否定」、「自由と民主主義に対する最も凶暴な攻撃」、「民主主義に対する挑戦」、「表現の自由や政治活動の自由の侵害」

 17年前の本島等前市長のテロ襲撃のときも似たり寄ったりの言葉を使って、同じように言ったのではないだろうか。逆説するなら、17年前の言葉が何ら有効ではなかったことを物語っている。今回の言葉も、どれだけ有効かはなはだ疑わしい。

 そして安倍首相の「こうした暴力を断固として撲滅していかなければならないと思う」はこれまで「撲滅」が何ら機能していなかったことへの意識が一切ない。言うや易く、行うは難しの問題であることへの意識もない。決まり文句として口に出しただけだからだろう。

 一方、<事件発生直後は「真相究明を望む」と短いコメントを出すにとどめた安倍首相の姿勢に対し、野党から批判の声も上がった。社民党の又市征治幹事長は「表現・政治活動の自由、選挙運動を暴力で圧殺することに対し、一国の総理としては極めて残念なコメント」と指摘。国民新党の亀井久興幹事長は「暴力行為で言論を封殺することへの憤りをまず言われてしかるべきではないか」と疑問を示した>(asahi.com/ 2007年04月18日17時20分)と批判されているようだが、それに対して安倍首相は18日夜の首相官邸で、<「こういうことでお互いに批判をすることはやめた方がいい。私も3回目の選挙だったが、選挙期間中に深夜、自宅に火炎瓶を投げられたこともある」と語った。その上で、「真相が究明されることを望む」としたコメントについて「(発生)直後だから、まず真相を究明すると言うのが私は正しいと思う」と反論した。>(『朝日』朝刊≪対応批判に首相反論≫)と今朝の『朝日』朝刊(07.4.19)で抗弁している模様が報じられているが、だからと言って、テロなのかどうか判明しないうちのテロと判断した対応が間違っていて、「真相究明を望む」だけの安倍首相の美しい対応の方が正しかったとするわけにはいかない。
 
 「深夜、自宅に火炎瓶を投げられたこともある」と言うならなおさら、自分の経験の学習からテロの可能性に言及があってもよかっただろう。 

 安倍首相はかつて衆院特別委で「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持するのは憲法によって禁止されていない。そのような限度にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」と美しい発言を行っている。

 伊藤市長が自民党の推薦を受けて市長選に当選しているものの、核保有衝動に関して安倍首相とは反対の立場にあることから、ついよそよそしい反応をした、あるいは距離を置いたことからの短いコメント反応ということもあり得る。しかも批判されたからなのだろう、上記したように18日の夕方のTBSが伝えているように、「選挙運動中の凶行というのは民主主義に対する挑戦です」と対応を非難の方向に変えている。その夜になって「私は正しいと思う」などと自己正当化するのは自己都合のキレイゴトでしかない。

 安倍首相の「選挙運動中の凶行」という非難は、それが民主主義の手段を超えて一定の政治目的を実現させるべく謀ったテロでなく、単なる私怨から発した凶行ということなら、拳銃を凶器としたのと同じく、「選挙運動中」は犯行決行の一つのチャンスに過ぎなかったということになって、特別に非難の対象とすべき事柄ではなくなる。犯行対象に容易に接触可能とさせる〝よい折〟だったと機会の問題に帰す。

 いわば政治家であり、たまたま「選挙運動中」であったが、政治活動そのものを狙った犯行ではなかった。厳密にはテロではないし、言論封殺でもないとなるなら、一般市民の一般生活中の犯罪被害と同列に入る部類と言えるのではないだろうか。

 元来から恨みに思っていた伊藤市長がマイクに向かって喋る選挙演説がスピーカーを通して音量を増幅させ場所を弁えずに流れてくる。その声が遮る術もなく耳に入ってくること自体に苛立ち、かねてからの恨み・憎悪を煮えたぎらせたということもあるかもしれない。

 もし今回の事件でテロ非難から「選挙運動中の凶行」非難へと方向転換するなら、一般生活者の一般生活中の事件も同じ経緯を取る関係から、あらゆ事件を取り上げて、首相自らが「生活中の凶行」と非難するのでなければ、公平を欠くのではないだろうか。政治家が特別というわけではないからだ。

 自民党の中川昭一政調会長の「公衆の面前でああいう事件が起きることは日本の治安と民主主義への挑戦だ」(asahi.com/2007年04月18日17時20分)にしても、「公衆の面前」で起きた一般殺害事件も「日本の治安と民主主義への挑戦だ」と非難するのでなければ、はやり公平さを欠くことになる。

 但し政治活動阻止が直接の動機ではなく、私怨が動機であったが確定されたとしても、結果として自由であるべき政治活動を停止させることになったし、市長自身の言論を奪うこととなった。

 このことは一般の殺人事件にも言えることで、殺害することによって、殺害された者の自由であるべき活動・自由であるべき言論を結果として奪うこととなる。いわば広義の意味でのテロ被害と言えないことはない。

 このような構図を厳密に解釈するなら、戦時中の従軍慰安婦は行きたくはなかったが、行かざるを得なかったような広義の意味での強制性はあったが、軍や官憲が直接家に乗り込んで連れて行ったりした狭義の強制性はなかったとする安部式従軍慰安婦「強制性」解釈に習うなら、「広義の意味でのテロ、もしくは言論の封殺はあったが、狭義のテロ、言論封殺はなかった」と解説すべきではないだろうか。

 とすると、他の者のテロ反応に対しての安倍首相の「真相究明を望む」は、従軍慰安婦問題の強制性とのバランスから、テロ以外に動機を求めた「真相究明」――〝広義のテロ〟を望んだことから発した言葉ということなのだろうか。

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政権交代ソング

2007-04-18 02:27:19 | Weblog

 「政権交代ソング」を作ってみました。役に立つかどうかは不明。誰か楽譜に直してくれる人はいませんか。よりよい曲・よりよい詩があるなら、変更自由。連絡は、wbs08540@mail.wbs.ne.jpまで。

 (バックコーラス/低音)
 オーレー、オレ、オレ、オーレー
 (木魚の音と共に低い音量のバスでお経のように唱える)
 政権交代、政権交代、政権交代
 (一)
 (モーツアルト子守唄曲をバックにカバちゃんふうに)
 美しい国だって?
 美しいを口にする政治家は信用できないわよ
 安倍のどこが美しいのよ

 (木魚の音と共に低い音量のバスでお経のように唱える)
 政権交代、政権交代、政権交代      
 (モーツアルト子守唄風替え歌)
 美しくない自民党 眠れすやすや
 暫くお休みください
 美しくない自民党
 民主党が替わって 政権担当
 日本が安心できる 国となるまで
 暫くお休みください。

 (呼びかけ)
 ヘイ、政権交代へ バンジージャンプ!
 世界が見守ってるぜ!

 オーレー、オレ、オレ、オーレー
 (木魚の音と共に低い音量のバスでお経のように唱える)
 政権交代、政権交代、政権交代、
 (二)
 (モーツアルト子守唄曲をバックにカバちゃんふうに)
 愛国心だって?
 愛国心を言い立てる政治家は胡散臭いわよ
 党利党略 自己都合が政治家の習いでしょ?

 (木魚の音と共に低い音量のバスでお経のように唱える)
 政権交代、政権交代、政権交代      
 (モーツアルト子守唄風替え歌)
 美しくない自民党 眠れすやすや
 暫くお休みください
 政権交代の冒険へ 
 飛び出すべき時だ チャンスを逃すな
 怖がっていたら いついつまで
 日本は何も変らない     

 ヘイ!政権交代へ バンジージャンプ!
 世界が見守ってるぜ!

 オーレー、オレ、オレ、オーレー
 (木魚の音と共に低い音量のバスでお経のように唱える)
 政権交代、政権交代、政権交代、

 (三)
 (モーツアルト子守唄曲をバックにカバちゃんふうに)
 美しくない日本に誰がしたのよ
 戦後自民党政治でしょ
 ハッタリとカネで動かす政治が
 今じゃ松岡を代表選手にしちゃったのよ

 (木魚の音と共に低い音量のバスでお経のように唱える)
 政権交代、政権交代、政権交代      
 (モーツアルト子守唄風替え歌)
 美しくない自民党 眠れすやすや
 暫くお休みください
 美しくない自民党
 創りあげたい日本は 民主党にお任せ       
 自民党には できない相談            
 暫くお休みください。

 ヘイ!政権交代へ バンジージャンプ!
 世界が見守ってるぜ!

 オーレー、オレ、オレ、オーレー
 (木魚の音と共に低い音量のバスでお経のように唱える)
 政権交代、政権交代、政権交代、

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