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改めて4・8月の会合はデッチ上げで、安倍派幹部西村以下は還付金の収支報告書不記載承知の証明

2025-08-24 03:43:20 | 政治
 安倍派による石破茂退陣要求は自民党衆院選、都議選、参院選各敗北の主原因が安倍派還付金収支報告書不記載裏ガネ化等の政治スキャンダルを棚に上げた盗人猛々しいお門違い

 自民党が衆院選、都議選、参院選で都議選は第一党から転落、他は第一党を維持したものの大きく議席を減らし、過半数割れを招いた敗北は旧統一教会の悪徳商法を駆使した資金集めと組織拡大に与党自民党議員として広告塔となることで結果的に貢献し、見返りに選挙での議員の当選に力を借りた安倍晋三が築いた国民の信頼を蔑ろにする不当な相互協力関係と安倍派政治資金パーティー利用の還付現金政治資金収支報告書不記載を手段とした政治資金裏ガネ化の不法行為に端を発した自民党政治に対する国民の政治不信が大本の原因となったことは明らかである。

 当然、旧統一教会と関係の深かった自民党幹部議員や本人は知らないことだったと釈明しているが、還付金を不記載処理していた安倍派幹部の選挙敗選の責任は重い。ごく普通に考えたとしても、肩身を狭くしていると思いきや、特に裏ガネ化に関与していた安倍派幹部たちは選挙敗北の責任を首相の石破茂一人に被せて、辞任を迫る動きを露骨に見せている。

 時事通信が伝えていたことだが、旧安倍派で裏ガネ事件の処分により離党中の元経産相世耕弘成、衆院選で非公認処分を受けたものの当選を果たした元政調会長萩生田光一と前官房長官松野博一、さらに元経産相西村康稔が2025年7月23日に会食、「石破首相は交代しなければいけない」との認識で一致し、西村康稔が自身のXで、「(衆院選、都議選と)3連敗した責任はうやむやにできない」と投稿したと伝えていた。

 敗因をつくったのは誰かを置き去りにした自分たちの責任に対してカエルの面にショウベンでいられる神経は安倍晋三に勝るとも劣らない羞恥心を欠いた、見上げた神経の持ち主と言えるが、こういった面々がベテラン政治家でございますとのさばっているのだから、日本の政治の前途は明るい。

 参院選敗北後、自民党内や地方組織から石破茂退陣を求める声が挙がる中、ここにきて低空飛行を続けていた石破内閣支持率が上向いている状況は石破政治を選挙敗北の主原因と捉えていない有権者の無視できない存在の根拠とすることができる。

 改めて裏ガネ問題に焦点を当て、今までブログに書いてきたように安倍派幹部、特に2022年4月に安倍晋三と会合を持ち、その場で現金還付中止を指示されたとする西村康稔、下村博文、世耕弘成、塩谷立の各証言から4月の会合ばかりか、7月の安倍晋三の銃撃死後の8月の会合もデッチ上げの作り話ではないかということ、特に2022年4月と8月の会合に出席していた上記安倍派幹部4人は収支報告書不記載を承知していたのではないのかという証明を、多くは前に書いたことの繰返しになるが、試みてみる。

 2024年3月1日の衆議院政治倫理審査会での西村康稔の2022年4月の会合に関する証言。

 西村康稔「ただ今、思えばですね、事務総長として特に安倍会長がですね、令和4年、22年の4月に現金での還付を行ってる。これをやめるということを言われまして、私もこれはやめようということで、幹部でその方針を決めまして、そして若手議員何人かをリストアップして、電話も致しました。私自身も若手議員にかけ、電話をしてもやめるという方針を伝えたところ、伝えたわけであります。

 従って、会長はその時点で何らかのことを知っておられたんだろうというふうに思います。全体のこと、どこまでご理解、把握しておられたのか分かりません。けれども、兎に角、現金は不透明で疑念を生じかねないから、こうして現金の還付はやめると、まあ、還付そのものをやめるということで、我々方針を決めて対応したわけであります」

 安倍派派閥会長の安倍晋三から、「現金は不透明で疑念を生じかねないから、こうして現金還付そのものをやめる」と指示された。一方で「全体のこと、どこまでご理解、把握しておられたのか分かりません」と言っていることは矛盾するが(西村自身、釈明のところで前以って、「この清和会主催の政治資金パーティー収入の還付にかかる処理は歴代会長と清和会の事務職である事務局長との間で長年慣行的に扱ってきたことであり、会長以外の私たち幹部が関与することはありませんでした。先程申し上げた通り、事務総長(注:自身のこと)はこのことを含め、会計には関与しておりません」と証言していることが矛盾の根拠となる。)、派閥会長安倍晋三を庇っての控えめな物言いが矛盾を生じせしめたのだろう。

 2024年3月18日の下村博文の衆議院政倫審でも、西村康稔の上記証言に添った発言をしている。

 下村博文「2022年の4月に安倍会長の国会の事務所に私と塩谷さんとそれから当時西村事務総長、それから世耕参議院幹事長が呼ばれました。そのときに安倍会長の方から還付について現金の還付は不透明だからやめようということと、そのものをやめようという話がありましたが、還付が不記載であるとか、あるいは違法であるとかいう話は全く出ませんでした」

 他の2名の出席者である世耕弘成と塩谷立は安倍晋三が使ったとしている「不透明」とか、「疑念」とかの言葉は使わずに「現金還付の中止の指示があった」程度の証言で済ませているが、西村康稔と下村博文が耳にした安倍晋三の現金還付制度の性格付けの言葉は同じく耳に止めていなければならない。

 下村博文は「還付が不記載であるとか、あるいは違法であるとかいう話は全く出ませんでした」と話しているが、他の3人の幹部も同様の発言をしている。

 西村康稔「まさに現金での還付は不透明、そして様々な疑念を生じかねないということで、還付そのものをやめるということが安倍会長の意向として示されたわけであります。そのときに何か収支収告書の話をしたわけでもありません。還付そのものが適法なのか違法なのか、そういった議論もしたことはありません」

 塩谷立「確かに今申し上げましたように現金あるいは不透明な点だからやめようということで、それ以上の具体的な話は我々した記憶がございません。そういうことで、一応安倍さんの判断で、あの還付をやめたということでございます」

 要するに現金還付は不透明だから中止するとの指示はあったが、「それ以上の具体的な話」はなかったと間接的に違法性の話は出なかったとしている。

 世耕弘成「そのミーティングではですね、違法性についての議論は一切行われなかったと思います。先程申し上げましたけれども、安倍会長からですね、ノルマ通りの販売にするからというご指示が出た場だというふうに思っています。私はそこで意見を述べるというよりは、参議院側にそのことをしっかり伝達をする役割として呼ばれてるというふうに認識をしておりました」

 世耕弘成「これはですね、当然、政治資金の処理っていうのは合法的にやるのは当たり前だと思ってました。だからその確認ということで私は申し上げました。4月7日の安倍会長がいらっしゃった幹部の会合でも、あるいは8月5日の安倍会長が亡くなった後の会合でもですね、少なくとも私は違法性の認識は持っていなかった。そこはチェックは甘かったと思ってます」

 安倍晋三は現金還付方式を"不透明"で、"疑念"を与えるといった性格付けを行った。もし4月の会合が実在した会合であったなら、安倍派幹部の面々は還付された現金が不記載処理されていた事実を関知していなかった場合は安倍晋三のこの性格付けのキーワードから人間のごく当たり前の感覚としてどこが"不透明"で、どこに"疑念"が存在するのだろうかと不審に思い、安倍晋三に「どういうことでしょうか」と尋ねているだろう。

 もし不記載を承知していて還付を受けていたなら、「何かヤバいことが起きたのかな」ぐらいは思い、安倍晋三に「何かあったのですか」ぐらいは尋ね返していたはずだ。

 ところが、"不透明"、"疑念"のキーワードから適法・違法いずれなのかを考えも、受け止めもせずに、「適法なのか違法なのか、そういった議論はなかった」とか、「違法性の議論はなかった」等、話がなかったことを以って「現金還付が違法とは知らなかった、2022年11月からのマスコミ報道で違法性を知らされた」とする、現実にはあり得ないストーリー仕立てにしている。

 この非現実的なストーリー仕立ては4月の会合が事実存在していなかった会合とすることによって一貫性を持ちうる。もし事実存在していたなら、"不透明"、"疑念"のキーワードから現金還付が少なくとも違法性の領域に足を踏み入れていたことを察知していなければならないからである。安倍派幹部にまで上り詰めるについては政治の裏も表も舐め尽くしているはずである。

 西村康稔、世耕弘成、下村博文、塩谷立の幹部4人が、あるいは他の幹部も加えて口裏を合わせてデッチ上げた会合でなければ、こういった常識外の展開はお目にかかることはできまい。

 さらに付け加えると、4月と8月の会合を現実にあった話だと仮定すると、安倍晋三が4月の会合で指示した現金還付中止を全員で決めたというのが事実なら、中止に代わる合法的な手段での若手議員や中堅議員に対する資金手当ての方策をどう講じるか、自らが決めるか、幹部たちに講じるよう指示するか、いずれかの選択をするのが派閥会長としての安倍晋三の責任と義務だが、そのような姿が一切見えないこと自体も、4月の会合がリアリティーを失わせる要因となっている。

 要するに現金還付中止を指示した以上、安倍派の政治資金パーティーが1ヶ月後に迫っていたのだから、"今後どうするか"の方針の検討、あるいは決定が緊急を要する欠かすことのできないプロセスだったはずが、欠かしたままの会合仕立てとしていること自体が会合の実在性を疑わせている。

 結果、安倍晋三は中止指示以後、その指示を電話で派閥議員に知らせる派閥幹部の背後に隠れてしまって、派閥会長として演じるべきそれ相応の役割を一切見せていない点も、会合としての全体性を失わせていて、虚構と見る以外に整合性は取れない。

 さらに8月の会合での幹部たちの動向も、会合が作り話であることを十二分に窺わせる内容となっている。

 安倍晋三亡き後の8月の会合ではノルマよりも多く売った分の還付を求める議員がいて、どうするか4月の会合と同じ顔ぶれの幹部たちが還付中止の安倍会長の意向を維持しながら、どう対応すべきか様々に議論したが、結論は出なかったとしていて、結果として誰が指示したのか不明のまま、現金還付が継続されていたことになっている。

 本来なら4月の会合で安倍晋三自身が現金還付中止に代わる若手議員や中堅議員の資金手当の方策を講じるか、講じる手立てを考えるように幹部に指示するのが常識的な方向性だと既に指摘しているが、そういった常識的な展開はなく、8月の会合でも、幹部たちは安倍晋三亡き後の安倍派という派閥を運営・発展させていくべき責任と義務を背負いながら、その能力を発揮できずに現金還付中止に代わる資金手当の方策を考案することもできなかった。

 その結果、安倍派を瓦解させることになった。安倍派幹部としての名誉も、本人たちは痛くも痒くもないようだが、剥ぎ落とすことになった。

 国会議員としての経歴も経験も豊富なはずの4人が雁首を揃えていながらのこのような体たらくは4月の会合と8月の会合を虚構としなければ、彼らの責任と義務の不履行は理解し難いレベルと見なければならない。

 虚構だからこそ、責任と義務の不履行を持ってきて、辻褄合わせをしなければならなかった。

 現金還付と還付現金の収支報告書不記載の制度は森喜朗が始めたと噂されているが、事実そのとおりであったとしても、制度を派閥所属議員全員にまで広げる徹底した活用は安倍晋三が考案した可能性は否定できない。

 なぜなら、首相の座を維持できる唯一の方策は自分が考える国民のための政治を行うことによってではなく、選挙に勝つことだという考えに立っていて、毎年4月の首相主催の「桜を見る会」を利用、自身や自民党国会議員の後援会会員にまで招待客の対象を広げて、招待の名誉を票に結びつけるべく画策したり、旧統一教会と持ちつ持たれつの関係を築いて、信者個人個人を票に仕立てたり、選挙中は国民に不人気な政策は争点から外したり、消費税増税を二度延期したりの選挙に勝つためのなりふりの構わなさは天下一品で、還付した現金を不記載処理扱いし、選挙や政治活動に自由に使える裏ガネとしたのも、選挙に勝って、首相の座を維持する方策の一環としていたからであり、票を最大化するためには現金還付制度の派閥の全員適用化が必要条件となるからであろう。

 ところが2022年11月に入って現金還付と還付現金の収支報告書不記載が世間に知れることとなり、現金還付制度に深く関わっていた安倍晋三に還付を中止したという功績を与えて、その功績に注目させ、現金還付制度の徹底化を謀った罪から目を逸らせる役目を持たせる必要上、4月と8月の会合をデッチ上げるに至ったということは十二分にありうる。

 功績を与えるためには現金還付制度の違法性を一定程度は明かさなければならず、明かすことになったが、そうすること自体が還付現金の収支報告書不記載を承知していたことになる。

 安倍晋三と安倍派幹部、派閥所属国会議員の政治資金に関わる不正行為の罪は重い。衆議院選挙、都議会選挙、参議院選挙と主要な選挙で自民党の退潮を招く要因を成した。
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参政党神谷宗幣の「日本人ファースト」は議席獲得の方便 一部国民置き去りの「日本国家ファースト」が正体

2025-08-13 04:52:46 | 政治
 7月の参院選後初の参議院予算委員会が2025年8月5日に開催され、躍進した参政党代表の神谷宗幣が初質疑を行った。当然、その質疑に神谷宗幣の人格が示され、その人格が参政党に反映されて、本質的な人格を成すことになる。

 神谷宗幣の追及の一部を取り上げて、「日本人ファースト」が題名どおりであることを証明しようと思う。質疑中の意味の取れない発言には(?)で表し、留意点には文飾を施すことにした。

 神谷宗幣「参政党の神谷宗幣です。我が党初めての予算委員会になります。よろしくお願いします。

 参政党はですね、この夏の参議院選挙で『日本人ファースト』というキャッチコピーをかけて選挙を戦い、たくさんの国民の方から支援を頂きました。この『日本人ファースト』という言葉に込めた意味はですね、国境を超えた経済競争による行き過ぎた新自由主義、多国籍企業に富が偏在し、それぞれの国の中間層が没落してしまうようなグローバリズムと言われる、そういった状態にですね、警鐘を鳴らすということで、我々は反グローバリズムを意味するキャッチコピーだということで、国民の皆さんに訴えてまいりました。

 これ、一部メディアから排外主義だということで叩かれたりしましたけれども、全くそうではなくて、我が党が目指すのはやはり日本は日本として自立をして強く豊かに存在して、殆どの協調関係をしっかり作っていく。一つの世界の中に飲み込まれるんではなくて、我が国には実勢を持ちながら他国としっかりとした協調関係を作っていくということを強く訴えて、支持を受けたものと理解をしています」――

 グローバリズムを利用して企業規模を拡大した多国籍企業への富の偏在が各国(それぞれの国の)中間層の没落を招いたと見て掲げることになった反グローバリズムを意味するキャッチコピーが参政党の「日本人ファースト」だと主張している。

 但し中間層の没落をグローバリズムによる各国共通の弊害と見て主張することになった反グローバリズムがなぜ「日本人ファースト」限定となるのかの整合性ある論理的な説明は省いている。

 「日本人ファースト」は決して排外主義ではなく、日本国家の強くて豊かな自立を望むものの、「他国としっかりとした協調関係を作っていく」と言うことなら、全ての国の中間層を視野に入れた"中間層ファースト"のキャッチコピーでなければならなかったはずだ。

 だが、世界と協調していくと言いながら、「日本人ファースト」に限定している。大体が「日本人ファースト」という言葉自体に、「日本人第一」、「日本人優先」といった意味を読み取ることはできても、"世界との協調"を読み取ることは可能とは言えないはずだ。

 神谷宗幣「そういった中で我々はですね、自国の生産力を強化することによって、内需を強化・拡大していったりですね、安い労働力としての移民の受け入れを制限していくことだとか、あとは社会インフラや土地・水源などの外資買収の規制をやったりとか、大企業に有利な税制を見直して、しっかりと内需を拡大し、そして中間層の復活をするといったことをですね。 国民の皆さんにお約束をして、今日この場に立たせて頂いているということを前提として、質問をさせて頂きたいと思います」――
 
 ここに掲げた中間層の復活政策のうち、前者の安い労働力としての移民の受け入れ制限と社会インフラや土地・水源などの外資買収の規制は「日本人ファースト」の政治思想に合致することになり、参政党の政策として十二分な納得を与える。

 但し後者の自国生産力の強化に基づいた内需の強化・拡大、大企業に有利な税制の見直し策を用いた内需拡大を手段の中間層の復活はほかの野党も主張していることで、参政党に特有の政策というわけではないが、そこに反グローバリズムと「日本人ファースト」を基本ベースに加えた場合、中間層の復活を策すとしていることは果たして可能と言えるだろうか。

 二つの疑問を残したまま、次の質問を見ていく。

 神谷宗幣はアルゼンチンのミレイ大統領が対米関税交渉を有利に進めて、有利な関税で収めたのはWHOの脱退等、トランプの政策を見習って、いわば気に入られたからだと前置きしてから、首相の石破茂も見習うべきではないかとする追及を行っている。

 神谷宗幣「石破総理にお聞きしたいんですけども、これまで交渉もされたりとかですね、電話会談もされてると思います。これまでトランプ大統領からですね、例えば日本が進めてきたSDGs(注:貧困、飢餓、不平等、気候変動など、地球上の様々な課題を解決し、持続可能な社会を実現することを目標とした政策)という政策をやめるとか、パリ協定(注:地球温暖化対策に関する国際的な枠組み)とか含むとですね、脱炭素政策を廃止するとかですね、パンデミック対策の見直しを含めたWHOの脱退、ウクライナ支援の見直し、DEI(注:多様性、公平性、包摂性)政策の廃止、政府によるSNS規制の撤廃といったトランプさんが表明されてるような政策をですね、一緒に日本もやらないかというふうに声をかけられたとか、提案されたという事実はないでしょうか」――

 こられの脱退、廃止、撤廃は、「世界との協調」に反する政策であり、排外主義者の顔を露わにしていることになるが、神谷宗幣が先に発言した「日本人ファースト」は排外主義ではなく、「他国としっかりとした協調関係を作っていく」とした発言を自ら否定することになるにも関わらず、本人はこの矛盾に気づかない。

 つまり、「日本人ファースト」は本人がいくら否定しても、この言葉の響きそのものが持つ外国人よりも日本人優先という排外主義を思想としていることは誰の目にも明らかで、神谷宗幣以下参政党員とその支持者以外は否定し得ない事実であろう。

 上記神谷宗幣の追及に対する石破茂の答弁。

 石破茂「具体的な提案はございません。それは対面でも電話でも、随分多くお話はいたしました。トランプ大統領が一方的にお話になるということはありますが、それを日本も一緒にやらないかという提案を受けたという記憶は私はございません」

 神谷宗幣「今の総理の答弁、聞きますと、トランプさんこういうこと、自分はやるんだということは一方的にお話になることはあるけれども、一緒にやらないかというようなことはなかったというふうに受け止めました。

 今回のですね、関税交渉、これから進めていくときにここがポイントなんではないかなと、ずっと私はあの財政金融委員会でも加藤大臣とかにも提案をしてきました。ま、日本の今の政策っていうのは、かつてのバイデン政権のときの政策と非常に近いわけですね。で、トランプさんはですね、結構そこのところ、今挙げたようなところですね、変えていっているというふうに考えています。

 ここのところですね、今6点程挙げましたけれども、何か総理としてこういったところはですね、一緒にやろうというふうにご提案されたりとか、あの話し合いを、直接お会いしてですね、 されようというのはおつもりはないんでしょうか」

 石破茂「それは今SDGsの廃止、脱炭素政策の脱退、ウクライナ支援の見直し、DEI政策の廃止、政府によるSNS規制の撤廃等々、これは我が国には我が国として国益に資するかどうかは我が国が主体的な判断をするものでございます。

 アメリカに言われて、関税の取引の材料としてこういうものを使うということは必ずしも正しいと私自身思っておりません。先程アルゼンチンの例をお話になりました。アルゼンチの大統領がトランプ大統領と非常に親密であるというようなことは私どもよく注目は致しておるところでございますが、アルゼンチンと我が国は違いますので、何が違うかと言えば、先ず全く貿易構造が違うということがございます。 そして我が国とアメリカは同盟国です。軍事姿勢、失礼、安全保障上、非常に緊密な同盟関係にあるということでございまして、そこはアルゼンチンと全く同列に論じるべきではございません。

 それは安全保障の観点も、今回の関税交渉に於いて安全保障の議論というもの組み合わせたということはございませんが、それはそれとして日本国としてアメリカと共に如何にしてこのアジアの安全、そしてまた、・・・(?)で申し上げたことですが、ウクライナが、中東、このアジアと全部繋がっておりますので、そこはアメリカときちんと議論をしながら、我が国の国際的な責務を果したいとところでございます」――

 神谷宗幣がトランプの政策のうち、SDGs政策の廃止、パリ協定からの脱退と脱炭素政策の廃止、パンデミック対策の見直しを含めたWHOからの脱退、ウクライナ支援の見直し、DEI政策の廃止、政府によるSNS規制の撤廃の6点を挙げて、その政策を見習うことで関税交渉を有利に進めるべきだとする主張したのに対して石破茂は厳格な物言いで、「我が国には我が国として国益に資するかどうかは我が国が主体的な判断をするものでございます」と拒否している。

 だが、この6点の政策を挙げたことによって神谷宗幣の「日本人ファースト」が日本国民をターゲットに置いた優先政策とは全然無関係で、勿論、中間層の復活を目的とした主義・主張でもなく、日本国家優先を眼目とした「日本国家ファースト」そのものであるあることの正体を露わにすることになる。

 SDGs政策とは国連サミット採択の「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された貧困や飢餓、不平等、気候変動など、地球上の様々な課題を解決し、持続可能な社会を実現するための国際目標だそうで、SDGsからの脱退は中間層以下の生活者の生活困難を視野に置かない振舞いとなることから、神谷宗幣が言う「中間層の復活」を全くの絵空事にする主張となり、一方でSDGs政策に必要とする兆円規模の予算や投資から政府や民間企業を解放する方向に向かうことになり、「日本人ファースト」とは正反対の「日本国家ファースト」を意味することになる。

 また、パリ協定からの脱退と脱炭素政策の廃止は地球温暖化が豪雨や洪水や山火事といった大規模な自然災害を招く原因とされていて、多くの命が失われ、その被害は低所得層程甚大となる傾向から、一部の日本国民の命を軽視し、経済活動にのみに国の予算を振り向ける狙いの「国家ファースト」の目論見そのもので、結果として階層に差別を設ける意思を隠した「日本人ファースト」となる。

 ダイバーシティ(多様性)、エクイティ(公平性)、インクルージョン(包括性)を重視し、推進するDEI政策の廃止にしても、性別や性的指向等々に関係なしに個人の多様性や公平性を生きて表現する命の自由な選択と活動にストップを掛け、不自由な社会活動を強いる方策は「日本人ファースト」に差別を設ける仕掛けを隠していることになり、結果、神谷宗幣等の国家主義者が考える正常な人間だけを選別する「国家ファースト」のみを露わにすることになる。

 これが参政党の神谷宗幣が唱える、実体は「日本国家ファースト」そのものである「日本人ファースト」の正体である。この正体は参政党が考える「新日本憲法(構想案)」が如実に証明することになる。

 天皇を元首に据え、日本国の代表とし、主権は国民にはなく、国家が有し、国民の要件は父母の一方を日本人とする日本民族としての血を基準とし、母国語を日本語のみとする国家主義を骨組みとしている点、「日本人ファースト」は装いでしかなく、その実、「日本国家ファースト」を精神の根っこに据えている。

 「日本人ファースト」を反グローバリズムを意味するキャッチコピーとしていて、その主義・主張を背景とした参政党の諸政策の目的を「中間層の復活」が狙いだとしている点についても、国家優先の精神を体現している以上、「日本人ファースト」という言葉から目を逸らせるためのカムフラージュとして用いている「中間層の復活」であり、その訴えが多くの有権者に生活上の実利性を心情的に訴え、それが功を奏した議席の飛躍的な獲得といったところであるはずである。

 神谷宗幣は優れた国家主義者であり、SNS等を駆使した優れたアジテーター(大衆を扇動して行動を促す人物)と言える。
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蓮舫の都知事選敗北「国政に戻るっていうのは渡り鳥みたい」は最大の強がり だからこそ、簡単に翻意できた

2025-07-29 07:28:04 | 政治
 ――強がりでなければ、発言どおりの意志堅固な出処進退を見せただろう。言葉の軽さを証明したに過ぎない――。

 蓮舫は2024年7月7日東京都知事選挙に立憲民主党を離党、無所属で立候補した。政治的立場を超えた幅広い支持を集めるための無所属立候補ということなのだろうが、結果は第3位に沈んだ。当選した小池百合子は2,918,015票。得票率42.8%。2位に石丸伸二の1,658,363票。得票率24.3%。3位に蓮舫の1,283,262票。得票率18・8%。

 小池百合子との得票差は1,634,753票の見るも無惨な惨敗。だが、蓮舫は都知事選6日後の7月13日、長男の村田琳を相手に都知事選について自分自身の心境を語る「インスタグラム」を配信、敗れた結果に反して立候補したことの有意義性を様々に述べている。

 「何かねえ、達成感があったんだよねー。あの、確実に選挙戦を通じて、繋がっている人達がいるってのが分かったし、ここぞと応えていたし、それに対してこうだよねとそれを説明していた方もいたし、政治というのは双方向なんだというのがすごく感じて、楽しい選挙でした」――

 「政治って、多分、マスに対して、票を持っている人に対して、カネを持っている人に対して、力を持っている人に対して働きかけるのが自分の当選だったのが、そうじゃなくって、一人じゃないんだよっていう人に語りかけることで、こんなに熱を帯びた街頭演説の双方向ができたってのは私にとって誇りなんです。達成感なんです」――

 都知事に当選して、自分なりの政治の実現を目指すべく一大決心して立候補した人間が第3位に沈んだものの、「達成感があったんだよねー」と満足できる。

 「確実に選挙戦を通じて、繋がっている人達がいるってのが分かった」、「こんなに熱を帯びた街頭演説の双方向ができた」は当選に必要な不特定多数のマスとして遥かに届かない規模であるにも関わらず、達成感を与えてくれたとすることができる。

 あるいは「120万を超える人が蓮舫と書いてくれた」と達成感の対象としているが、当選を目指して立候補している以上、小池百合子と書いた2,90万を超える人、石丸伸二と書いた1,60万を超える人との比較で「120万を超える人」を捉えるべきだが、変えようのない現実を無視できる才能は自身に対する過大評価なくして成り立たないはずだ。

 蓮舫は9月9日、自身のXに次のような投稿をしている。「惜敗した者に対し、面識もなく取材もなきまま根拠なき見解を拡散することは社の記者行動基準を踏み越えています。負けた人には何を言ってもいいことを黙認していては、これから挑戦する人を萎縮させる恐れがあります。『権力』『言論統制』との指摘は残念ながらどうでしょうか。私との見解が違いますね」――

 マスコミが拡散したとしている「根拠なき見解」が蓮舫に対する何らかの批判記事で、そのことに物申したところ、マスコミ側が「『権力』『言論統制』」といった拒絶反応で応じたが、蓮舫は見解の相違で片付けたといったところなのだろう。

 具体的な遣り取りが分からないから、見解の相違という言い分に対して何とも言えないが、都知事選の結果が小池百合子に対して1万票程度の僅差で敗れたということなら話は別だが、160万票もの差を付けられ、石丸伸二にも30万票も少なかったにも関わらず、自身を「惜敗した者」と呼べるのは、どう公平に見ても、自己自身に対する尊大な過大評価なくして成り立たない価値づけであろう。

 大体が過去に背負うことになった閣僚や党代表も務めたことがある20年の政治経歴が選挙に好影響を与える・与えないを含めて、選挙の評価は選挙ごとの獲得票数そのものが示すという現実認識を厳しく保持できていたなら、"惜敗"云々は出てこないはずで、口にしたこと自体が現実認識を欠いていることになる。

 となると、都知事選を戦って自身に達成感を与えたとしている「熱を帯びた街頭演説の双方向」にしても、「120万を超える人が蓮舫と書いてくれた」、その他にしても、いずれにしても当選には遥かに届かなかった現象として捉えるべきで、捉えることができなかったこと自体が現実認識を欠いた過大な自己評価に基づいていることになり、その正体は単なる強がりでしかないことを暴露することになる。

 蓮舫の達成感が言葉どおりの実体を備えていたなら、達成感は都知事選という戦いそのものに満足感を与え、心に精神的余裕をもたらしたはずである。例え都知事選で敗者の立場に立たされたとしても、閣僚経験もある政治歴20年の政治家としての矜持ある精神状態を静かに保つことができただろうし、マスコミの根拠なき見解の拡散も、東国原英夫が蓮舫の敗因としてテレビで述べた「蓮ちゃんは生理的に嫌われているから」の発言にしても、デープ・スペクターがXに投稿した「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」云々にしても、わざわざインスタグラムで取り上げ、反論に出ることなく、「言いたい奴には言わせておけ。私は私」とばかりに無視することができたろう。

 だが、無視できずに執拗に反論を試みている。「女政治家負けた。何やってもいい的構図で、凄いよね」と自身に対する批判をバッシングと看做し、選挙戦で手に入れたとする達成感をかなぐり捨て、無視する心の余裕とは正反対に激しい憤りに囚われ、否応もなしに蓮舫の言う"達成感"が強がりでしかないことの顔を見せつけることになる。

 そして2025年7月の参院選全国区立候補によってそれが最大の強がりに過ぎなかったことを
露わにしたのはインスタグラムの次の個所である。

 長男村田琳「次の選挙は?」

 蓮舫「今はねえ、国政選挙を考えていない。だって、国政から卒業して、都知事に手を挙げて、凄い景色を見たんですよねえ。まあ、千人単位で聴衆が増えてくる演説会場って初めてで、2009年のときもなかったから、そうするとやっぱり毎晩帰ってきて、自分の演説をここが悪かった、ここが足りなかった、実は今でも言うんだけども、あそこの言葉がこれが足りなかったとか、演説を含めてあそこまで聞いてくださった人たちがいて、残念ながら結果を出せなかったんだったけれども、それでも120万を超える人が蓮舫と書いてくれたことに対してこれでまた国政に戻るっていうのはちょっと私の中では違う」

 長男村田琳「うん?そうなの?」

 蓮舫「だって、私からは何か渡り鳥みたいじゃない?」

 長男村田琳「言い方は悪いけど、そういうものだと思って・・・。あの結果を見て、蓮舫にまだまだ期待をしてくれていると言うか――」

 蓮舫「あれは都知事として頑張った応援なんだから、次のステップでまた国政ですかっていう声は聞いていないんですよ、今回。自分の中で整理をつけなければいけないと思ってて、一旦ピリオドだなって思うんだよなあ。

 結果が出せなかったし、もう一度経験しての声があるから、何ができるのかなって実は今、考え始めていて、考えてみたら、大学2年のときから芸能界デビューして、大学出て芸能界に入って、18年ぐらい芸能界に行ったり、中国に留学行ったり、それから政治家を始めて、10年は経って、突っ走り続けてきたから、自分は他の何かになれるんだってことを考えたことがなかったの。

 ほかの何かになれるのかなっていいうのも、今ちょっと不安が半分ありながら、無職なんだね(息子と同時にアハハハと大笑い)」――

 ここでも都知事選が与えてくれた達成感に触れ、「それでも120万を超える人が蓮舫と書いてくれたことに対してこれでまた国政に戻るっていうのはちょっと私の中では違う」、あるいは「渡り鳥みたい」と、このインスタライブ配信の2024年7月13日から約1年後の2025年7月の参院選を頭に置いた国政復帰否定の意志を示した。

 但し一方で、「次のステップでまた国政ですかっていう声は聞いていないんですよ」と周囲の声次第との意思表示を示してもいる。政治家は自らの再起を「支持者の求めに応じて」とか、「支持者の声に押されて」等を常套手段としている。支持者の声や求めを方便として参院選出馬もありうることになるが、出馬した場合、「120万を超える人が蓮舫と書いてくれた」としている支持都民に対しての強い信頼表明も、「渡り鳥」となることへの拒絶意志もただの安っぽい強がりだったことを示すことになる。

 強がりでなければ、一旦口にしたことは頑なに守り通すだろう。

 蓮舫は2025年6月24日、自らのXで参院選比例区出馬を告げた。

 れんほうです。
このたび、立憲民主党より参議院議員選挙比例区における公認を頂きました。
昨夏は、多くのご支援を賜りながらも、私の力が及ばずに想いを届けることができず、一度は区切りをつけました。
しかし、その後も多くの方々の声や「政治への思い」に触れる中で、さまざま寄せて頂く想いを国政の場で実現したいという気持ちが強まり、再び歩みを進める決意をいたしました。
改めての挑戦となりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

 蓮舫が如何に言葉の軽い政治家か正体を曝している。「多くの方々の声」、「さまざま寄せて頂く想い」という言葉の使い方をしているが、支持者の声・求めを
立候補の方便とすることは分かっていた。

 但し「一度は区切りをつけました」との物言いで政治活動に一旦は終止符を打ったとする意味合いを持たせているが、このことと渡り鳥になるからと国政復帰を否定したこととは似ても似つかない出処進退であって、後者を前者と同じ意味とするの誤魔化しそのものとなる。

 なぜなら、蓮舫は、いわば渡り鳥みたいになるからと否定した国政復帰を単なる一定期間の政治活動の休止に置き換えているからである。

 「120万を超える人が蓮舫と書いてくれた」の達成感は当選には遥かに届かない投票数なのだから、強がりに過ぎないのは当然だが、渡り鳥になるからとした国政復帰否定の意思表示も、簡単に覆したのだから、強がりでしかなかったことを暴露することになる。

 2025年6月27日付け「東京新聞デジタル」が東京都目黒区自由が丘駅前での蓮舫の第一声と前説を務めた立憲幹事長の小川淳也の発言を伝えている。

 《蓮舫氏「もっと強く、優しくなれる」 東京都知事選の敗北から1年…再出発の街頭演説で何を語った?》

 小川淳也「蓮舫さんの再出発を期しての街頭演説を企画した。ニュー蓮舫の産声を一緒に聞きたく、党執行部として立ち会う責任もあると思い参りました。この方の放つ強い力を最大限に活用させてもらいたい。

 (都知事選敗北は)蓮舫さんにとって初めての挫折だったかもしれない。挫折ほど政治家を強くしなやかにするものは他にない。これまでの何倍も人の痛みを知った蓮舫さんになるでしょう」――

 挫折を素直に挫折と受け止め、何が挫折を強いたのか、冷静・合理的に判断して反省材料とするなら、政治家本人を「強くしなやかにする」かもしれないが、強がりで敗戦を処理するような政治家は小賢しさが勝ち過ぎているからで、だから東国原に「蓮ちゃんは生理的に嫌われるから」と言われるのであって、蓮舫が人の痛みを知ることは政治家としての利害と社会的要請との関連であり得ても、損得を離れた純粋な立場で関わることは期待できないだろう。

 理由は蓮舫が可愛がっている立憲区議の30代のうすい愛子なる女性が街頭演説で自身がレズビアンであることを初めてカミングアウトできて心の整理をつけることができたとしているのに対して蓮舫はインスタグラムで、「(カミングアウトの声等が)届かないと思って諦めている子たちにやっぱり政治は届けないといけないって思うのと、政治以外でそれが届けられるのかなっていうのを実はもどく感じて、私もう政治家じゃないかと、探してみようと思って、様子を見てたんだよねえ」と酷薄な発言をしている点から窺うことができる。

 同性同士の結婚が認められていないのは憲法に違反するという裁判所の判断にしても、夫婦同姓の義務付けは合憲との判断の一方で、両判断共に国会の合理的な立法裁量に委ねられるべきとする立場を示している以上、政治こそが唯一無二の解決策であることを理解できずに、「政治以外でそれが届けられるのかなっていうのを実はもどく感じて」などと的外れで悠長なことを口にできるのは真の理解心を欠いているからで、この欠如が強がりと小賢しさが災いしていると考えると、「これまでの何倍も人の痛みを知った蓮舫さんになる」は額面通りには受け止め難い。

 記事は蓮舫の街頭演説を次のように伝えている。

 「(知事選に落選した後の)この1年間、誰よりも寄り添える気持ちを学んだ。もっと強く、優しくなれるとあらためて思っている。渡り鳥になってもいいから、もう1回国会で蓮舫を使っていただきたい」

 インスタグタムの「渡り鳥になってしまう」は国政復帰を否定する意思表示。その否定を違えたのだから、単なる強がりに過ぎなかったことを明らかにしただけではなく、「渡り鳥になってもいいから」は、本人は理解心を欠いていて鈍感だから気づきはしないだろうが、自分の強がりを自分でチャラにする一種の開き直りで、そこに巧妙な狡猾さなくしてできないチャラであるはずだ。

 なぜなら、求められている態度は「渡り鳥になってもいいから」と開き直ることではなく、「渡り鳥になってしまうと一旦は言いながら、渡り鳥になってしまったことを謝ります」と謝罪する素直さであろう。

 その素直さなくして、「この1年間、誰よりも寄り添える気持ちを学んだ」はブラックユーモアそのものでしかない。

 しかも、「渡り鳥になってもいいから、もう1回国会で蓮舫を使っていただきたい」と自分から"渡り鳥"を認めさせようとする。

 但し蓮舫は参院選全国区で34万票近く獲得して、立憲候補の中ではダントツ1位の実力を見せつけた。2位は15万票近くだから、倍以上の獲得票となる。"渡り鳥"になることを認めたのは有権者側であって、蓮舫が認めさせることではない。

 有権者側に"渡り鳥"を認めるか認めないかの承認権があるはずだから、承認を厳密に確認するには全国区ではなく、元々の地元である東京選挙区に立候補、自身を厳しい環境に曝した上で当選して初めて、"渡り鳥"が許されたとすべきだったろう。だが、全国区という安全パイを選んだ。厳密には"渡り鳥"が承認されたとは断定はできない。

 例え承認されたとしても、2025年参院選を念頭に国政復帰を否定した"渡り鳥発言"だったのだから、簡単に翻した以上、単なる強がりだったという点では変わりはない。

 改めて強がりであることを裏付けてみる。

 都知事選敗北後のインスタグラムで、「何かねえ、達成感があったんだよねー。あの、確実に選挙戦を通じて、繋がっている人達がいるってのが分かったし、ここぞと応えていたし、それに対してこうだよねとそれを説明していた方もいたし、政治というのは双方向なんだというのがすごく感じて、楽しい選挙でした」、「国政から卒業して、都知事に手を挙げて、凄い景色を見たんですよねえ」、「残念ながら結果を出せなかったんだったけれども、それでも120万を超える人が蓮舫と書いてくれたことに対してこれでまた国政に戻るっていうのはちょっと私の中では違う」等々、経験したことのない達成感を口にし、その達成感を与えてくれた有権者の思いを優先させるべく、「これでまた国政に戻るっていうのはちょっと私の中では違う。何か渡り鳥みたいじゃない?」と国政復帰を否定した。

 いくつか挙げた達成感が強がりでしかないことは見え透いていたが、国政復帰そのものが、前以って復帰を否定した「渡り鳥みたいじゃない?」の言葉を参院選全国区立候補でいとも簡単に反故にしたのだから、強がりに過ぎなかったことを暴露するだけではなく、言ってみれば、都知事選敗北に対する最大の強がりに当たると指摘できる。

 強がりでなければ、国政復帰否定は2025年参院選を頭に置いたものだから、2025年は否定を守り通したはずだ。
 キレイゴトと強がりは自身に対して不正直であることを母とする。
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参政党神谷宗幣:終末期延命措置医療費全額自己負担等に社会保障給付費圧縮を置くのは愚かな政治家のワザ

2025-07-19 06:18:42 | 政治
 参政党は2025年参院選公約で高齢者の終末期医療の見直しを訴える公約を掲げている。

 『多くの国民が望んでいない終末期における過度な延命治療を見直す』

70歳以上の高齢者にかかる医療費は年間22兆円と全体の半分程度を占め、特に85歳以上になると一人あたりでは100万円を超える。終末期における過度な延命治療に高額医療費をかけることは、国全体の医療費を押し上げる要因の一つとなっており、欧米ではほとんど実施されない胃瘻・点滴・経管栄養等の延命措置は原則行わない。

主な施策
本人の意思を尊重し、医師の法的リスクを回避するための尊厳死法制を整備。
事前指示書やPOLST(生命維持治療に関する医師の指示書)で、医師が即座に心の負担なく適切な判断ができるプロセスを徹底。
終末期の点滴や人工呼吸器管理等延命治療が保険点数化されている診療報酬制度の見直し。
終末期の延命措置医療費の全額自己負担化。

 2019年12月12日付け「神戸新聞NEXT」記事、《延命治療95%「望まない」 高年齢ほど割合多く》が伝えている神戸新聞社が行ったアンケートでは、「延命治療を望む」が5%、「望まない」が95%となっていて、「望まない」の内訳年齢は回答者380人のうち高年が97%、中年が96%、若年回答者91人のうち86%という、高年齢程割合が多いという結果を得たとしている。

 にも関わらず、現実問題として終末期延命治療が広く行われているとしたら、尊厳死法制が日本では未だ整備されていないとしても、治療をしても回復が見込めない状態になったときに「心臓マッサージなどの心肺蘇生法」や、「延命のための人工呼吸器装着」、「鼻チューブ/胃ろうによる栄養補給」等々を、「希望する」・「希望しない」の意思表示を前以って行うことのできる「リビングウィル(事前指示書)」をネットからダウンロードできるから用意し、どのような治療を受けたいか、自らの意思を記入し、家族に保管させ、万が一、終末期医療を受ける段になったなら、家族から医療機関に提出するよう指示しておくことを広範囲に慣習化できたなら、「延命治療を望む」5%、「延命治療を望まない」の95%を現実の治療状況に限りなく近づけることができ、結果として延命治療に掛かる医療費を抑えることも不可能ではなくなる。

 もし尊厳死法制の成立を望むなら、「リビングウィル(事前指示書)」の記入を義務付ける法内容となるだろうが、成立が実現するまでの手続きとして「リビングウィル(事前指示書)」の終末医療への利用普及を広める活動を展開すべきだが、そうする前から自己の命の選択に関わる終末医療という極めて個人の自由な意思に基づくべき受診行動を、「本人の意思を尊重し」と言いながら、その"意思"を考慮外に置いて政治の側が終末医療に関わる診療報酬制度の見直しだ、終末期の延命措置医療費の全額自己負担化だとコストの面からのみ主張するのは個人の尊厳を無視する専横以外の何ものでもない。

 参政党は国民の立場から国の在り方を考えるのではなく、国家の立場から国民の在り方を考える国家主義的政治集団に見える。当然、国民は国家を支える要員、あるいは道具に位置づけていることになる。

 大体が年々高騰する社会保障費の抑制に尊厳死法制のみで片付くと考えるのは極めて考えが浅い。『さいたまこくほweb』に次のような趣旨の記述がある。

 WHO(世界保健機関)が発表した『世界保健統計2023年版』によると、日本人の男女合わせた平均寿命は84.3歳、世界第1位。男性は81.5歳で、スイスの81.8歳に次いで世界2位。女性は86.9歳で、2位韓国の86.1歳を0.8歳上回って世界1位。

 対して男女合わせた平均健康寿命は74.1歳で、同じく世界第1位で、具体的内訳にしても、男性72.6歳、女性75.5歳で男女共に世界第1位ということだが、平均寿命と平均健康寿命の差は"不健康な期間"を表していると紹介。

 このことは男性72.6歳で健康状態は終了していて、男性の平均寿命81.5歳までの8.9年間は不健康状態にあり、女性の平均寿命86.9歳から女性の健康寿命75.5歳を引いた11.4年間は不健康な心身状況を引きずっていたことになり、この男性の8.9年間の不健康状態と女性の11.4年間の不健康状態に対して参議院の『令和2年度(2020 年度)社会保障関係予算』に当てはめてみると、社会保障関係費のうち、おもなところで医療給付費12兆1,546 億円+介護給付費3兆3,838 億円=合計15兆5,384億円もの国費の多くが費やされていると考えると、男女共に平均寿命に健康寿命を近づける国の政策――「要介護状態の発生をできる限り防ぐ(遅らせる)こと、そして要介護状態にあってもその悪化をできる限り防ぐこと、さらには軽減を目指す」としている介護予防の効果や効率性、その不足を検証する必要があるし、さらには若年時代から病気にならない自助努力の習慣づけを促す政策も必要となる。

 こういった全般的な政策を掲げて、国民の判断を仰いだ上で法制化に持っていき、実効性を持たせることができれば、社会保障費給付費の圧縮に役立ち、終末医療を望む意思にも応えることができるはずだが、そういった丁寧な手続きを経ずに「終末期の延命措置医療費の全額自己負担化」を一方的に掲げてコストだけに拘る。

 国家の運営だけが頭にあって、国民の福祉を頭に置かない、まさに国家主義的発想の終末期延命治療費自己負担の政策となっている。

 参政党のこの国家主義的「終末期の延命措置医療費の全額自己負担化」が実現した場合、自己負担能力を欠いた国民は延命措置を望まない選択を強いられるが、自己負担能力を十分に備えた国民は、いわばカネ持ちは延命措置を望む・望まないは自らの財力で自由に選択できるし、終末期医療状態となる前の段階まで保険外でスローエイジング(老化遅延)治療を受けることができて、医療技術で長寿を手に入れることもできる。

 いわば「終末期の延命措置医療費の全額自己負担化」はカネ持ち優遇税制となる危険性を持つ。

 やはり法律で強制するのではなく、介護予防の普及と実効性を持たせた予防方法の創出、そして若年時代から病気にならない自助努力の習慣づけを促す政策等を連携させて、平均寿命と健康寿命を可能な限り近づけることができれば、この両者の接近は終末期医療患者の減少という形でも現れることになるが、医療に関わる社会保障給付費は自ずと抑えることができる。

 政治がこういった努力を果たした上で終末期医療の選択は個々人の意思を尊重して自由意思とすべきだが、参政党の神谷宗幣にはこの発想はサラサラない。

 若年時代から病気にならない自助努力の習慣づけについては2006年4月17日に当ブログ、《国におんぶに抱っこの予防医療》に書いた。

 妥当性あるある案かどうかは他者の判断を待たなければならないが、1歳6ヶ月の幼児の健康診査から始まって医療機関で診察を受けた場合は運動習慣の記録と共に身長・体重・体脂肪値・筋肉量・血糖値等の身体上の各記録、成長に応じた飲酒量や喫煙量、食べ物の嗜好等の食習慣を記録、病気との関連、病歴を全て記録して、自らの不注意や不摂生で糖尿病等の病気にかかったと見られる場合は自己責任として割高の治療費とし、そうすることで若年時代から病気にならない自助努力を習慣づける――健康管理を自己責任性とするというものである。

 勿論、自己責任外の筋萎縮症といった難病や、相手の不注意からの交通事故による身体障害といった本人の意志に関係なく襲う重大被害に対しては逆に手厚い保護を行い、自己の不注意からの自動車事故による身体障害に関しては、それなりの窓口負担を負うといった自己責任性を厳格に線引する必要性を提示している。

 医療に関わる社会保障給付費の圧縮を終末医療の点からのみ政策を形作ろうとするのは性懲りもなく愚かな政治家のワザに過ぎない。
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神谷宗幣の"日本人ファースト"は国家主義的立場からの外国人を悪者とする情報操作に基づいた排外主義

2025-07-15 09:27:45 | 政治
 2025年7月3日付「NHK NEWS WEB」記事が党総裁、代表等の参院選「公示第一声」を伝えている。その中から、「参政党神谷宗幣第一声演説全文」のうち、その優れた人間性を窺うことのできる訴えを取り上げてみる。記事は次のような断りを入れている。

 〈※原則、発言内容をそのまま掲載しています。ただし、個別の候補者の名前のほか、誹謗中傷などは無音などの加工をしています。〉――

 記事に各第一声の動画が添付されていて、好ましくない発言は無音加工しているということだが、テキスト箇所は*(アスタリスクマーク)4個に置き換えられている。誹謗中傷の場合はそこにも本人の人間性が埋め込まれているのだから、その人間性の質、程度、内容、是非等の判断は情報の読み手それぞれの受け止めに任せるべきなのだが、そうはさせずに意味不明にするということは公共放送の立場としても、マスメディアの立場としてもふさわしくない一種の情報隠蔽を行っていることになるように思えるが、局の方はそうは考えなかったらしい。

 当方は文章の繋がりを簡単にするために記事の改行を無視して繋げることにする。

 神谷宗幣は最初に2020年に参政党を作ったイキサツ、2022年の前回参議院選挙で176万票を獲得して神谷宗幣自身が当選したこと、2024年衆院選挙で187万票を獲得し、3名の衆議院が当選したこと、地方議員は150名いること、205年6月28日に参議院議員の「****」が加わって国会議員5名の国政政党となったこと等、いわば党勢伸長が勢いに乗っていることを示してから、「そんな参政党の今回の選挙の訴え、キャッチコピーは日本人ファーストです」と述べ、この言葉を選んだ意味を披露している。

 「30年、経済成長しない中で、だんだん、だんだん中間層がいなくなって貧困層が増えてきました。逆に一方で、富裕層も増えてるんですね。これ、数年前からよく言われてきた格差というやつです。

 この状態をわれわれはよくないというふうに考えています。1億総中流と言われた頃の日本は豊かで活気がありました。私は昭和52年生まれ、今、47歳ですが、私たちが子どものころは日本の未来に希望がもっと、皆さん、ありませんでしたか。

 将来もっと日本がよくなるという展望がありましたよね。今、それがなくなっちゃってるんですよ。国民の心から希望とか夢がなくなってる。そして、若者たちが何か日本を諦めて海外に行こうとしている。

 もっと言えば希望がないから、子どもを授かることすら、躊躇してしまっている、そんな日本を変えたい。それが日本人ファーストに込めた思いです。

 まず国民の暮らしをしっかりと守っていく。これを我々はやりたいと思います」――

 要するに日本は1億総中流時代から格差時代へと暗転した。国民は希望とか夢を持てなくなって、若者たちが何か日本を諦めて海外に行こうとしている。同じ理由で子どもを持つことを躊躇する風潮が生じている。このような、いわば閉塞した「日本を変えたい」。「それが日本人ファーストに込めた思い」だと訴えている。

 つまり「日本人ファーストに込めた思い」イコール国民の暮らしを守ることのできる日本社会変革への実現ということになる。但しここまでの発言では「日本人ファースト」という言葉そのものが備えている日本人に対する優先性を誰を対象としているのか、どの程度のものかは不明である上に優先性がそのまま排他性を背中合わせとする場合が往々にしてあるが、日本社会変革にどう絡ませ、国民の暮らしを成り立たせ可能へとどう持っていくのかの具体論は触れていないが、これから触れることになるはずだ。

 神谷宗幣は更に言葉を継ぐ。

「でも、なぜ国民の生活が貧困者が増えてきたか。

 その背景に参政党は結党当時からグローバリズムというものがあるということを訴えてきました。カタカナなんでね、難しいグローバル化って、皆さん、聞いたことあると思います。

 どんどんと世界が小さくなって国境がなくなり、移動が楽になったり、通信が便利になったり、これ、グローバル化です。でもその一方で、グローバル企業というものも生まれて国の垣根を飛び越えていろんな規制を取っ払い、多国籍の大企業がどんどん、どんどんと世界の経済を席けんしてるという現実がありますよね。

 そうなると、ここに、どんどん富が集まっちゃうんですよ。

 そして、富が集まって力を持つから国の規制とかを、どんどんお金とか献金とかそういうものを使って国会議員なんかにお願いして変えていってしまう。

 そうすると規制緩和、自由化だって、一見、聞こえはいいけど、その結果、どんどん、どんどん自由競争が厳しくなって、規制がなくなって、結局、みんな貧しくなったじゃないですか。

 結局、地方が衰退したじゃないですか。

 こういう現象を、われわれはグローバリズムと言っています。今、世界で、このグローバリズムの流れに対して、あらがおうという政治の流れ、生まれてるんです。アメリカではトランプ大統領もこの流れで生まれてきた大統領だと、我々は考えています。

 そして、ヨーロッパでも南米でも、そういった反グローバリズムといわれる、そういう政党が力を持ってきてるんですね。

 課題意識は、われわれと一緒です。まず、自国民の生活をしっかりと守っていこう、です。

 そこでバランスを取って、もちろん経済活動、大事だし、グローバル化は止められないから。そのバランスを取りながら国民の生活をしっかり守ろうというのが、われわれの日本人ファーストに込めた思いでもあります」――

 神谷宗幣は「国民の生活が貧困者が増えてきた」、「みんな貧しくなった」、「地方が衰退した」原因をグローバル化に置くことで、"日本人ファースト"が反グローバル主義=日本一国主義だという顔を覗かせる。尤も絶対反グローバル主義=絶対日本一国主義ではこれまでのグローバル化の行きがかり上、あるいはグローバル主義にどっぷりと浸かってきた関係上、やっていけないから、必要悪と不要悪を切り分けて、前者は利用し、後者は排斥、いわば、"バランスを取りながら国民の生活をしっかり守る"、これが"日本人ファースト"だと宣言している。

 つまり"日本人ファースト"の対立概念は外部からの侵入者=外国人というところまで判明したことになる。

 最初に1億総中流時代から格差時代への暗転が富裕層と貧困層の二極分化の格差を生み出したといった趣旨の主張をしていた二極分化の格差もグローバリズムを根本原因としていることになるということを押さえておかなければならない。。

 但しグローバリズムは国民生活の隅々にまで浸透している。どの点を不要悪扱いしているか、次の発言によって明らかになる。

 「だから、外国人の資本がどんどん入ってきて、東京の土地がいっぱい買われるとか、マンションが買われるとか、インフラが買われるとか、水源が買われるとか、企業の株がどんどん買われて経営者が外国人になっちゃうとか。

 そういったことに一定の規制をかけていこうというのが参政党の訴えです。

 どんどんと外国人の方は来られています。観光で来られるのは別に構わない。けれどもですね、安い労働力だと言って、どんどん、どんどん野放図に外国の方を入れていったら、結局、日本人の賃金、上がらない。

 そして、いい仕事に就けなかった外国人の方は資格を取ってきても、どっか逃げちゃうわけですね。そういった方が集団を作って万引きとかをやって大きな犯罪が生まれています。

 まだ万引きぐらいだったらと、いうと語弊があるかもしれないけれども、そういった人たちがね、違法な薬物とかをね、売り出したら日本の治安が悪くなるでしょ。窃盗や強盗が始まったら安心して暮らせないでしょ。

 そういった治安の悪化を、我々は防ぎたいと思っています。だから、ここにしっかりと焦点を当て、警察の皆さんや行政の皆さんに人員を配置することによって治安維持を図る。

 これも、われわれがやっていきたいことです」――

 外国人の資本が東京の土地やマンションやインフラや水源を買収する、あるいは企業の株を買収して乗っ取り、経営者になる、こういったグローバリズムは不要悪として一定の規制をかける。但し外国人が観光で訪日するのは、いわば必要悪であって、全然構わない。安い労働力としての来日は日本人の賃金抑制要因となる上、資格を取って来日しても、いい仕事に就けなかった外国人はどっか逃げちゃって、集団万引きから始まって違法薬物売買、窃盗や強盗等、いわば大きな犯罪の温床となって日本の治安が悪化させるゆえに必要悪そのもので、「ここにしっかりと焦点を当て、警察の皆さんや行政の皆さんに人員を配置することによって治安維持を図る」

 つまり参政党の政治主張、"日本人ファースト"の対立人種は主として生産資産としての日本の資本や土地を買い占め、乗っ取る富裕外国人と日本人労働者の賃金上昇の障害となる上に途中から勤務先から逃亡し、不法滞在状態となって犯罪集団化する危険性を抱えることになる安価な労働力として入国する外国人に置いているということになる。

 この二種類の外国人に対する警戒感は耳に入りやすいし、受け入れられやすい。何しろ違法性の色付けを施して有権者の前に差し出しているからである。

 しかも規則に従った仕事及び生活態度を守っている合法的存在としての外国人については伏せておく巧妙な情報操作を用いているのだから、結果的になおのこと違法性をより印象付けることになり、神谷宗幣が例に挙げた外国人に対する有権者の忌避感情を一層煽ることに成功し、支持率の上昇に役立っているのだろう。

 正当な手続きを経て、正当な経済活動をし、日本社会に雇用やサービス・商品の提供、納税等の利益をもたらしている外国資本も多く存在しているだろうし、正規の手続きで入国し、真面目に働いて就職先企業に対して有益な人材となっている外国人労働者も数多く存在するはずである。

 さらに労働力として入ってきた外国人に対する契約とは異なる低賃金、長時間労働、残業代未払、劣悪な労働環境等の人権侵害等々に耐えかねて失踪し、犯罪に手を染めてしまうケース等々、数多く指摘されている問題点は情報として耳に届けない。

 オレオレ詐欺グループやときには住人の殺害にまで及ぶアポ電強盗等、少なくない人数の日本人特殊詐欺グループの存在は外国人の犯罪ばかりではないことを教えているが、そういった諸々の情報は伝えないままに違法性の色付けを施した外国人のみを対象にして不要悪とし、"日本人ファースト"の対立概念として持ち出している関係自体が外国人に対する排外主義を精神の骨格としていることを自明とする。

 要するに神谷宗幣がしていることはグローバル化=悪玉外国人のイメージを刷り込み、日本人を善玉に位置づけて、その日本人をグローバル化や悪玉外国人から守ると主張する参政党を守護者に仕立てているようなもので、そのカラクリで支持者を増やそうという魂胆が見て取れる。

 「で、そういったこと(不法外国人に対する治安維持)をやりながらですね、国民経済を復活するために、われわれが訴えている一丁目一番地の政策は減税です」――

 あくまでも不法外国人取締まりを前面に置いた日本の建て直し、日本人の生活の建て直しを意図させていて、排除の構造、いわば"日本人ファースト"を精神の骨格としていることに変わりはない。

 神谷宗幣の減税政策は国民の税金と社会保険料の合計である国民負担率を約46%から35%に下げるというもので、「消費税だけ下げるとか、所得税だけ下げるとか、社会保険料だけ下げるとか、そういうことを我々は言っていない」と宣伝しているが、国民の税金の内訳は所得税、法人税、消費税等の国税と住民税、固定資産税等の地方税であり、所得税や法人税、社会保険料などの減税が行われると、所得の多い層ほど金額ベースでの恩恵が大きくなるという構造を抱えているという。

 つまりカネ持ち程利益を得る。「30年、経済成長しない中で、だんだん、だんだん中間層がいなくなって貧困層が増えてきました。逆に一方で、富裕層も増えてるんですね。これ、数年前からよく言われてきた格差というやつです」と言い、「1億総中流と言われた頃の日本は豊かで活気があった」、「日本の未来に希望を持っていた」といったことを口にしながら、富裕層を利して相対的には格差を却って拡大させることを隠したまま国民負担率の軽減を何か素晴らしい政策であるかのように言う情報操作は、先に見た、外国人を悪者のみと見せかける情報操作と巧妙さの点に於いて甲乙つけ難い。神谷宗幣の人間性及びその信用性がどの程度かを窺い知ることができる。

 「財源どうすんだというふうに、いっぱい言われてますけども、今まで取りすぎて、この疲弊ですからね。だから、5年間なら5年間、10年間なら10年間なり1回決めてですね、国民の皆さんにお金を使ってもらう」

 政府が税金を取り過ぎて「疲弊」ということはあり得ないから、国民の側が税金を取られ過ぎて「疲弊」ということでなければ、国民負担率を下げることと整合性は取れない。

 さらに続けて、国民負担率軽減で手に入れたカネは外国製品ではなく、国産品を買うか、国内投資に回す仕組みを政府に促す。そうすることで30年間停滞してたGDPを5年から10年の間で倍ぐらいにする。

 「自民党のGDPは15年で1.5倍は少な過ぎる。それでは日本の経済、立ち直れない。世界は2倍3倍になっている。「だから外国の方はこんなにたくさん銀座に買い物に来れるんですよ」――

 日本のGDPは中国、ドイツに抜かれても世界4位だが、円安政策で対ドルに対しても、対ユーロ、対ポンドに対しても円安となり、外国貨幣の価値が上がっている上に購買力平価と比較した日本の物価水準は2025年7月時点での計算だと、ドル円レートは146.23円で、2025年の総合の購買力平価は対米国が169.45 円/ドル、対米比較で約116円となり、実際の対米為替レート146.23円よりも+30円の割安感で円を使うことができる状況となっていて、さらにユーロに対しても、ポンドに対しても日本の物価水準の安さから観光客が集まるのであって、その分、円安由来の物価高で中間層以下の生活を苦しめているのだから、そういった点に目を向けずに、また、違法性の色付けを施した外国人を"日本人ファースト"の対立概念として持ち出した排外主義をケロッと忘れて、「だから外国の方はこんなにたくさん銀座に買い物に来れるんですよ」と無邪気にインバウンド需要を口にできるご都合主義には感心する。

 物凄い勢いで人口減少が進んでいる。参政党は少子化にも力を入れていく。女性の社会進出はいいことだが、男女共同参画とかは間違えていたとしている。

 「けれども、子どもを産めるのも若い女性しかいないわけですよ。これ言うと差別だという人がいますけど違います。現実です。いいですか、男性や、申し訳ないけど、高齢の女性は子どもが産めない。

 だから、日本の人口を維持していこうと思ったら、若い女性に、子どもを産みたいなとか、子どもを産んだほうが安心して暮らせるなという社会状況をつくらないといけないのに、働け、働けってやりすぎちゃったわけですよ。やりすぎたんです。

 その代わりに子育てだけだったら収入がなくなるから、月10万円、子ども1人あたり月10万円の教育給付金を、参政党は渡したいというふうに考えています。子ども1人だから、0歳から15歳、1人1800万円。2人いたら3600万円。

 これぐらいあれば、パートに出るよりも、事務でアルバイトするよりもいいじゃないですか。だって、子どもを産み育てるって、ものすごい労力かかるし、国の未来をつくる仕事なんですよ。そういった女性や子育てをする方々、これは男性も含めて、応援しないと国が滅ぶ。

 経済合理性や個人の自由だけを求めていたら社会がもちません。だから、そこをしっかりとバランスを取って日本人の暮らしを守る日本人ファーストです」――

 勿論、自由選択だが、国の政策によって金銭と交換に女性を出産と子育ての一本化に持っていくのは、引き受けた場合、そこに否応もなしに国に対する義務感が生じ、戦前の"産めよ殖やせよ"の二の舞いを招く危険性が生じないだろうか。

 その恐れは出産を「若い女性」限定とし、「高齢の女性は子どもが産めない」と排除の対
象とする効率重視と選別の精神性から窺うことができる。

 この手の精神性は女性の真の自由と尊厳と権利を尊重する土壌からは芽吹かない。内心に女性
に対する差別感情を隠している。「経済合理性や個人の自由だけを求めていたら社会がもちませ
ん」と言いながら、個人の自由を排除し、カネの力で差配しようとする経済合理性を打ち出して
いる。言葉は聞こえはいいが、聞こえだけで、信用できない。

 「われわれは自公政権の政策にはノーです。しかし、選択的夫婦別姓とか、LGBTとか、そ
ういうイデオロギーの絡んだ共産党や立憲民主党の政策にもノーです。そして、積極財政、子育
て支援、治安の維持、そういったことにしっかりと力を入れて日本人の暮らしを守る」――

 選択的夫婦別姓やLGBTを「イデオロギー」(政治思想)の範疇で捉える。個人の尊厳の問
題、基本的人権の保障、あるいは個人の本質的な存在性の問題として捉えることができない。ここには個人よりも国家優先の思想が隠されている。

 「日本の子どもたちの未来を守る。日本の地方を守る。そういった国民中心で国民を守っていきたい。国民に安心して暮らしてもらいたい。そういったことを一丁目一番地に訴えるのが、われわれ参政党です」――

 "日本人ファースト"の思想自体が対立概念とする他人種や他国籍者を全体的に価値づけて、日本人全体の価値をその上に置く全体主義性を抱えているのだから、「国民中心」を言っているが、国民主権に基づいた"国民中心"ではなく、国家主権に寄り添わせた"国民中心"でなければ、"日本人ファースト"としている全体主義性は整合性を自ずから失わせることになる。

 今回の選挙の争点は自公政権過半数維持可能か否かで、多くの議席を与えてくれれば、参政党がキャスティングボードを持つかもしれないと言っているが、参政党の全体主義性、他人種や他国籍者に対する排除の論理に見る不寛容性、女性の出産数をカネの力で支配しようとする優しくない経済合理性等を考えて投票しなければならない。

 参政党のご都合主義に対しても警戒感が必要である。「選択的夫婦別姓とか、LGBTとか、そ
ういうイデオロギーの絡んだ共産党や立憲民主党の政策にもノーです」と拒否していながら、その拒否を、「今度、立憲民主党のほうが勝ったらば、立憲側に、われわれ、参政党がキャスティングボートを持って提案していきたいと思います」と舌の根も乾かぬうちから無効にする無節操にも気をつけなければならない。

 そして参政党への投票のお願いに入る。「この政党に国民の皆さんの希望をかけてください。われわれに皆さんの思いや力を貸してください」

 「参政党は国民中心の国民主権の政治をやっていきます。それをね、やらないって言っている人がいるけど、全部、うそです」

 『参政党が創る新日本憲法』の「第1章天皇 第1条」には「日本は、天皇のしらす君民一体の国家である」と記している。「しらす」は「治める」の意味持つ古語。「君民一体」は天皇を上に置き、国民を下に置いた天皇と国民の協力一体を指す。

 天皇と国民が対等の協力関係にあるなら、「日本は、天皇のしらす」云々ではなく、「日本は、天皇と国民のしらす」云々としなければならない。

 大体が「しらす」などといった古語を用いること自体が戦前の天皇中心の国家を想定していると受け止めなければならない。当然、参政党が「国民中心の国民主権の政治」をどう掲げようと、「やらないって言っている人」の判断は「全部、うそ」とは断罪できない。予見性優れた見解と見るほかない。

 最後に神谷宗幣は最初の方で30年間の経済成長停滞が格差を招いたと主張しているが、格差は富の再配分政策の機能不全が主たる一因となっている社会的・経済的不平等状態なのだから、的確な富の再配分政策を行い、格差是正に努めて、希望が持てるような社会へ持っていくことが肝心なことであり、そうできていないことを問題とすべきで、富の再配分政策を機能不全とさせている要因に外国人が関わっているなら話は別だが、外国人と比較する要素を与えて、「日本人ファースト」と呼ぶのは無理がある。富裕層が外国人で占められていて、日本人の入る余地がないと言うなら、正統性はあるが、そうはなっていない。

 所詮、国家主義的立場からの日本人絶対主義に根ざした排外主義な"日本人ファースト"にしか見えない。
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西田昌司の歴史認識にしても本人の"事実"に過ぎないが、多数派を握ると、天皇制の戦前回帰が始まる

2025-07-13 07:13:48 | 政治
 戦前国家信奉者西田昌司の2025年5月3日沖縄憲法の日講演の続き。

 西田昌司「歴史をですね、どんどんどんどん自分で調べていけば、色んなことが見えてくるわけです」――

 このあと、西田昌司は「日本の中では」ウクライナの現状はロシアの侵攻の結果と言ってロシアを非難し、経済制裁するんだと言っているが、自身は大反対で、「そういうことあってはダメなんです」と断言。

 断言の理由は ウクライナで正式に投票で大統領になった親ロシアのヤヌコーヴィッチ大統領を2014年のマイダン革命というクーデターで追い出して、反ロシアの人を大統領に選び、その後に出てきたのが同じ反ロシアのゼレンスキーで、反ロシア勢力をどんどん増やしていって、NATOという軍事同盟に入るということを宣言している。

 NATOはソ連主導のワルシャワ条約機構に対抗するために組織された軍事同盟で、ソビエト消滅後になくなっていて、「NATOもなくしますということをアメリカ側も約束した。少なくともNATOをそれ以上大きくする話にはならないと約束していたのがですね」と前者なのか、後者なのか、不確かな情報提供の元、欧州に於ける現在の軍事的緊張状態についてはNATOの東方拡大を元凶説に当てている。

 「全く逆にどんどんどんどんNATO、東側に広めていって、最後はウクライナという、ロシアの本当の一番の、自分の兄弟国のような分までですね、クーデターで政権を覆されて、ロシアと敵対する軍事同盟になると。

 これはとんでもない、まさに宣戦布告そのものなんですよ。だから、それに対する防衛措置として、この問題(注:ロシアの対ウクライナ侵略)があったんじゃないでしょうか」

 これが西田昌司自身の「どんどんどんどん自分で調べていけば、色んなことが見えて」きた歴史認識ということになる。要するにNATOの東方拡大を阻止するためのロシアの自国安全保障上のウクライナ侵略だと支持・肯定している。

 だからと言って、独立国家として保持している、ましてや「自分の兄弟国のような」相手の主権や領土、国民の生命を踏みにじっていいのかという問題にまで考えを巡らす頭は持っていないようだ。

 プーチンは2000年に第2代ロシア連邦大統領に就任している。2008年5月7日から2012年5月までの4年間はメドベージェフが大統領を務めたが、以後は再びプーチンがロシアの大統領とて収まっている。メドベージェフはプーチンに引き立てられて権力の各段階を経て、大統領にまで上り詰めたのであり、2000年から現在に至るまでプーチンが実質的には一貫して大統領の権力を握っていたと見ることができる。

 メドベージェフが大統領となって3ヶ月後にかつてのソビエト連邦構成共和国の一つであり、1991年のソビエト連邦の崩壊に伴い独立を回復したグルジアから分離独立を主張するロシア系住民やロシア支持住民が多数を占めるアブハジアと南オセチアで政府軍との間に武力衝突が起きると、ロシアは「南オセチアのロシア系住民を保護する」という名目で軍事侵攻し、政府軍を駆逐、2008年8月に南オセチアとアブハジアの独立を承認(ロシア以外は認めていない)、以後ロシア軍が駐留し、経済支援を行なっていて、いわば両地域の保護国の地位を築いている。

 2014年のロシアによるウクライナのクリミア自治共和国の併合にしても、60%以上を占めているロシア系住民のロシアへの編入を求める活動の活発化が発端で、主としてロシアから派遣されたと疑われている武装勢力のクリミア自治政府庁舎と議会、首都の空港の占拠と続くロシア軍の侵攻と実効支配、ロシアへの編入を問う住民投票の実施、賛成9割以上の結果を以ってロシアは2014年3月にクリミアの編入の宣言という経緯と取っていて、ソ連崩壊後独立を果たし、国民の選挙意志によって西側寄りとなったものの、ロシア系住民が多く住む地方を抱える旧構成国はロシアの介入を恐れて自国の安全保障を求め、NATO加入を果たすか、加入を求める動きが出てきた結果、そのような状況を受けたNATOの東方拡大だが、西田昌司の"歴史調査"にはそういった事実は排除されている。

 要するに西田昌司にとってロシア支持に不都合な情報は自我防衛機制の忌避対象となっていて、意識することなく本能的な自然行為として取捨選択されているに過ぎない。

 プーチンがかつての旧ソ連構成国家に対する領土拡張欲求を露骨に示したのは2022年2月24日のロシアのウクライナ侵攻約3ヶ月半経過後の2022年6月9日の若手企業家らとの会合のことで、自身を初代ロシア皇帝のピョートル1世に擬えた発言から窺うことができる。

 《プーチン氏、初代ロシア皇帝引き合いに「領土奪還は我々の任務」と侵攻正当化》(YOMIURI ONLINE/2022/06/11 07:26)
  
 領土拡大やロシアの近代化に取り組んだピョートル1世生誕350年の節目の2022年6月9日、プーチンは帝政ロシアのピョートル1世(大帝)が1721年にスウェーデンとの北方戦争に勝利したことを引き合いに「領土を奪還し、強固にすることは我々の任務だ」と述べ、ウクライナ侵略を正当化したという。

 「彼は何かを奪ったのではない。奪還して強固にしたのだ」

 領土の拡大がその領土が備えている人的資源や生産資源、鉱物資源等をもたらし、国家をより強固にする。プーチンの旧ソ連復活を願う領土拡張欲求に基づいた大ロシア主義を如実に言い表した発言となっている。

 こういったプーチン式の領土拡張意思――ロシア系住民を使い、社会不安を引き起こし、その不安に乗じた軍事力を背景とした侵略意思にしても、西田昌司の対ロシア認識の目には入らない仕組みとなっている。プーチン支持が度を越しているゆえの偏った依怙贔屓に気づかずに仕向けることになっている、自らに向けた情報操作のもとの歴史認識に過ぎない。

 西田昌司はNATOの東方拡大に対する防衛措置としてのロシアの対ウクライナ侵略だと正当化した返す刀で、却ってウクライナ近隣国家にNATO加盟の必要性を高めた対ロシア危機感は抜きにして、日本の対米英戦争を大東亜戦争と呼び、自分で調べた歴史的事実を持ち出して正当化している。

 西田昌司曰く、東京裁判では先制攻撃とされている真珠湾攻撃の前に、いわば1930年代後半(昭和10年頃)から大日本帝国の海外進出や紛争に対抗して行われた石油や屑鉄など戦略物資の輸出規制・禁止を用いた米英蘭中各国による経済的な対日制裁、各国の英語名の頭文字を取ったABCD包囲網によって、「石油がもう一滴も日本には入らない」、「この石油が出るそういうところから一切、この石油は日本に入れないということがされてたですね」と前置きしてから、当時陥った日本の存亡危機に対するアメリカ利用説を持ち出している。

 「あとはもう座して死を待つより他ないわけで、これはもういくら交渉してもアメリカ側がですね、日本に先制攻撃をさせることによって戦争をしようと。その裏にあるのは日本と軍事同盟をしているナチスに戦争するための口実を作るために日本をカマシ役にしたわけですよね? だからそういう形でやったというのは、ベースに考えれば、そういうことなんですけれども、そういうことを少なくとも自民党の議員が『おかしいじゃないですか』と、私は自分の派閥の会合で言ったわけですね。安倍さんの前で。そうすると、どうなったのか。みんなシーンとしてたんですけどね。

 その後ね、もう少しあと、シーンとしたあと、『はいはい(手を上げ)。西田さんは間違ってるよ』とね。『何言ってるんだ』ね、『ウクライナに先制攻撃したのはロシアが悪いんだ』という話でね。もうみんな『ワー』言って、それを見た安倍さんはですね、その会合を終わってから、(手招きするジェスチャーをしながら)『あー、西田さんが言ってるとおりだよ』と。『しかしこれがね、今の自民党のね、実力なんだよ。何にも分かってないんだよ』

 安倍さんは非常に情けない顔で、私の話を聞いてそういう反応されてました。ですから、安倍総理はそういう歴史観も含めてね、非常に深いところをよくご存知でした」――

 NATOの東方拡大がロシアをして自国の安全保障上の理由からウクライナへの先制攻撃を仕向け得たように日本がABCD包囲網によって存亡の危機に立たされて敢行した真珠湾先制攻撃はアメリカが対ドイツ参戦を目的に仕組んだ謀略だと、両先制攻撃をそれぞれの理由付けで正当化している。

 但しハメられた先制攻撃であったとしても、先制攻撃を行うに当たっては最終的には勝利の道筋を描くことができなければ、決行できず、外交的解決の道筋を模索したはずだが、1941年(昭和16年)9月6日に第3次近衛内閣下の御前会議で10月末を目途に戦争準備を完了させ、それまでの交渉で日本の要求が通らなければ、開戦に踏み切るという内容の「帝国国策遂行要領」を決定、3ヶ月後の1941年12月8日に真珠湾奇襲攻撃という形で対米戦に突入したのは勝算あってのことでなければならないはずだ。

 ところが2年以内の短期決戦を対米戦勝利の方策としていながら、2年を経たずにアメリカ側に戦争の主導権を握られた。

 だが、西田昌司の歴史認識はアメリカ側を悪者、日本側を善玉とする単純二元論のみで成り立たせていて、戦争犯罪も東京裁判の、いわば捏造(「この東京裁判を執行して戦争犯罪人が生まれてるわけですね」)だとしているからこそ、戦後の占領政策によって変えられることになった日本の「歴史を取り戻さなきゃならない」と、戦前日本との歴史的連続性を求めることになる。要するに天皇制回帰を願ってやまない。

 以下、アメリカ悪者・日本善玉の単純二元論の繰り返し。

 「そして報道という力を使って、やられてるんですよ。なんでか。占領中にそういう新しいね、間違ってるんだけれども、新しい間違った歴史がいわゆる連合国、アメリカが正しいという歴史観に塗り換えられて、それが正しいんだという、当時のね、あの先人たちはその間違ってることみんな知ってますよ。知ってるけど、知ってる人は全部大学から追い出すんですよ。

 で、公的な職業から追い出すんですよ。これ完全なパージされたわけですね。それで残ってるのはそのアメリカが書いた絵が正しいという人しか残らないんです。そういう形でずっとされてきて、当時の新聞社も本当そういうことは分かってるはずですよ。しかし、そういうことを分かって書いたらですね、GHQにこういうね、デタラメなことを書かれてる、どうなってんだと書いた瞬間、発行停止した。 これがプレスコード(注:1945年、占領軍総司令部が、日本の新聞に対して発令した規則。占領政策への批判の取締りが目的。1952年、講和条約発効によって失効。新聞編集綱領。)ですからね。要するにGHQに対して反対することができない。そういう占領下の仕組みだった。

 で、そしてそれを7年間やられて、完全に日本人はですね、洗脳されてるんですよ。しかし7年経ったらですね、占領は終わったんですから、この基本的にはプレスコードも何もないはずなんです。もう一度日本に主権が戻って、日本人が自分で頭考えてやったらいいんだけれど、もはやもうその能力をなくしてるんですよ。だから、昭和30年に自民党ができまして、自民党ができた目的は先程国場先生が仰った憲法改正をすると、そのためにやってるんですけれどもね、これも私から言うと、そういう言ってることを言ってるけど、見せかけ」――

 いっていることは次のとおり。7年間の占領政策で戦前の歴史は間違っているとされて、アメリカが正しいという歴史観に完全に洗脳されてしまった。占領が解けても、いわば正誤逆転した歴史を元に戻す能力をなくしてしまっている。自民党立党の使命とした憲法改正も口で言うだけで、見せかけに終わっている。
 
 戦前の日本国家を肯定し、戦後の占領政策に基づいた日本国家を、いわば否定しても、私は首にはならない。その理由は、「西田さん言ってることがどうも本当みたいだねと。と言うのは色んなですね、この教育の現場ではまだ左教育をしてますけれどもね、インターネットや様々なこれがどんどんどんどん明らかになってきてですね、案外、西田さんが言ってることも正しいみたいやなって思ってる人が物凄く増えてるからです」と、自分の歴史認識こそ正しいと自信を示す一方で、異なる歴史認識で論争となった場合、「全部国会図書館で調べた事実ですからね。受け入れられない場合はどういう対応するかというと相手にしないということですね。短い言葉で言うと、相手にしない。

 相手にすると、餌食になるから、相手にしないというね。まあ、ネグレクトですね。家庭内の子供に厄介物だなんて言ってるけども、国会内でも私もネグレクトになっているということですね」と相手の歴史認識を打ち負かして、自らの歴史認識で塗り替えらせる気概はなく、「全部国会図書館で調べた事実です」の"事実"は説得力を失う。

 今まで見てきたように西田昌司が言う"事実"は本人にとっての事実であり、それ相応の人数で賛同者は存在するだろうが、戦前国家を否定して、戦後の民主国家を支持する歴史認識とは相交わることはなく、当然、前者・後者の歴史認識に関わるその事実にしても、それぞれの本人にとっての解釈で成り立っているに過ぎない。

 歴史認識が本人にとっての"事実"であり、それが本人にとっての"解釈"によって成り立っている以上、共にそれぞれの歴史認識が多数派を占めるかどうかの戦いとなる。但し戦後の民主主義を信じる歴史認識にとって戦前日本国家を肯定する立場からの西田昌司が抱え込んでいるような
歴史認識は決して多数派を取らせてはならない。戦前日本国家への逆戻り現象が起きることになるだろうからである。
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蓮舫「日本で暮らすすべての人々のお役に立ちたい」に見る政治の万能性は"政治は結果責任"意識欠如の証明

2025-07-07 11:29:13 | 政治
 ――蓮舫がそうであるように自らの政治能力の万能性を安請け合いする政治家は信用できない。"政治は結果責任"に対する常日頃からのシビアな自覚不足が政治家を口先だけの万能感に誘い込む――

 蓮舫Xのプロフィールには2025‎年‎7‎月‎3日時点で次のような自己紹介が記されていた。

 「この夏、【全国比例】で挑戦する予定です。日本で暮らすすべての人々のお役に立ちたいです。貴女、貴方の声を代弁する。誰もがその生き方を尊重されるために。他人の夢を笑わない社会を創りたいと強く思っています。趣味は登山、好物は激辛。宝物は双子と猫の美、麗くんと日本スピッツうるるくん」――

 7月7日は「日本で暮らすすべての人々のために働きます」とより確信的な誓約へと言葉を変えている。厳密に言うと、蓮舫は「すべての人々」の役に立つことができる、あるいは「すべての人々」のために働くことができる程に万能の政治能力を備えた政治家と言うことになるが、そんな政治家など存在しない。

 当然、「すべての人々のお役に立ちたい」は自らの政治能力の万能性の訴え、あるいは誇示となるから、「すべての人々のために働きます」は自らの政治能力の万能性をより強めた断言ということになる。

 「すべての人々」を対象にしている以上、喩えて言うと、同性婚や夫婦別姓賛成派のためにも、反対派のためにも両方に役に立つことができる、あるいは両方のために働くことができると宣言していることになって、蓮舫がどう逆立ちしても、本人に限って万能な政治能力を備えているスーパーウーマンというわけにはいかないにも関わらず不可能を可能とすることができるような政治能力の万能性を誇示するという矛盾を曝け出していることになる。

 政治は全ての集団、すべての団体、全ての階層、あるいは全ての個人の利益を等しく代弁できる程に万能ではないし、完璧性を備えているわけではない。

 例えば第2次安倍政権は2012年12月26日から2020年9月16日まで7年8か月に亘って長期政権を築いたが、日銀と一体となった円安・株高政策は大企業の史上最高益年々の更新に最大限貢献した一方で、中低所得層は円安を受けた生活関連物資の高騰に賃金が追いつかずに苦しい生活を強いられることになった。この状況は政治が自らの万能性を大きく欠いていることに連動することになる政治の恩恵そのものの大きな偏りの反映以外の何ものでもない。

 だが、蓮舫は万能な政治など存在しないという自覚が持てずに、万能であるかのような言説を振り撒いている。そしてこういった政治家が意外と多い。

 第一生命経済研究所の《実質賃金低迷の主因は低労働生産性の誤解》(2024.11.25)なる記事に、〈2007年を100とした1人当りの日米欧比較の実質賃金は2023年時点で米国が2007年対比で+16.8%、ユーロ圏が同+3.1%増加しているのに対し、日本は同▲4.2%減少している。〉といった趣旨の一文が載っているが、野党は第2安倍政権下で政治は万能ではないことの宿命を目の当たりにしてきたはずだし、野党側にしても、それを正すための政権交代に無力であった自らの政治の万能性の欠如を抱えていたはずだが、蓮舫はそのことの自覚を持てずに、「日本で暮らすすべての人々のお役に立ちたいです」、あるいは「すべての人々のために働きます」と自らの政治の万能性を安請け合いしている。

 蓮舫は自分を相当に優秀な政治家だと思い込んでいるはずだ。思い込んでいなければ、これ程までに自らの政治能力の万能性を振り撒くことはできない。

 蓮舫はここに来て自民党の政治資金収支報告書不記載という派閥ぐるみの一大政治スキャンダルの敵失が影響して2024年衆院選で自公過半数割れが実現、スキャンダルの尾を引いた石破内閣の超低支持率によって2025年参院選で同じく過半数割れに追い込める予想可能性の高さから政権交代が視野に入り、指をくわえて眺めているわけにはいかず、閣僚での活躍の機会到達を計算した参院選立候補ということかもしれない。

 そのためにも自分の政治能力の高さを宣伝しなければならない。

 だが、自分が政治に関してオールマイティであるかのように自らの政治能力の万能性を訴えるのは行き過ぎている。

 例え政権交代が実現したとしても、自らの政治能力の万能性を安請け合いする政治家であることに変わりはない。無数の利害が限られたパイを奪い合うことになるのである。勢いパイの配分によって、あるいはパイのお裾分けに預かることがでるかできないによって満足・不満足の差が生じて、政治の万能性は限りなく影を潜めることになる。

 蓮舫が吹聴する政治の万能性を言葉どおりに受け止めたものの政治の現実を見せつけられて、失望する有権者が数多く出てくるに違いない。

 もし蓮舫が如何なる政治も万能ではないことの指摘を受けて、「日本で暮らすすべての人々のお役に立ちたい強い思いで」、あるいは「すべての人々のために働きたい強い思いで」「政治を行っていますが、思いを形にできないこともありますし、形にできたとしても、その思いがすべての人に届かない場合もあります」と言い逃れたとしたら、それこそ"政治は結果責任"の自覚を欠いている何よりの証明となるだろう。

 "政治は結果責任"の意味は、断るまでもなく、結果を十二分に計算し尽くして政治を行い、結果を出せなければ責任を負うというもので、思いを形にできなければ、結果を出すまでに至っていないことを示し、責任はさらに重くなるだけではなく、形にできても、届かない人たちが存在するなら、届かないことの結果責任を負わなければ、自身の政治に対しても、有権者に対しても謙虚さを欠いた政治家となる。

 謙虚さを欠いた最大・最適な例は安倍晋三を措いてほかに存在しない。アベノミクスの経済政策で生活に困窮を来たした階層が存在することの政治の万能性の不完全さには目を向けずに国の成長を示す各経済指標の伸びのみを誇って、自らを優れた政治家の数に置いていた。

また、それ相応に結果を出したとしても、政治が万能ではない理由から結果としての国民向けの政治の恩恵は全ての階層、すべての個人に等しく行き渡らない限界を抱えることになり、行き渡らない対象に対しては別途対処療法となる何らかの政治の手当を施していくことになるが、それさえも万能の役目を果たすわけではないことを自覚しなければならない。

 もし政治が万能であるなら、社会のあらゆる不公平はとっくの昔に消滅している。

 蓮舫にはこういった自覚がないから、安易に「すべての人々のお役に立ちたい」とか、「すべての人々のために働きます」と持ち合わせてもいない自らの万能性を安易に振り撒くことになる。

 蓮舫は2025年6月25日のX でも、「新しい気持ちで。日本で暮らすすべての人たちのために、声をあげさせてください」と説明文で自らの政治の万能性を前面に出し、字幕入りの動画を投稿している。立候補に向けて"立ち上がる"姿勢を象徴付けているのだろう、上半身を勢いよく起こすところを画面に見せてからマイクを握って演説する姿を映し出している。

声を上げよう。その声を残して。
残した声は絶対無視しない。
そういう「れんほう」でいたいと思っています。

みなさんこんにちわ。
れんほうです。
立ち止まって考えて、
私の道は
誰かの声を代弁する
政治家であるということに
答を導き出しました。

それでもう一度国政です。
高額医療費の自己負担をいきなりあげられるって
言われた時の
切り捨てられ感
こんなにみんなが
物価高で困ってるのに
「米は売るほどある」って
言えちゃう人が
大臣だったんだ

選択的夫婦別姓。同性婚。
最も遅れてる。
やっぱり政治に対する憤りとか悔しさとか
立ち上がれるのって
私なんじゃないかって
思ったのが
すごく強かった

お肉屋さんに買い物に行ったときに
ふっと手をつかまれて
「戻ってきなさいよ」って
いわれたりね

そういう声がすごく私の中では
積み重なって
背中を押してくれてます

20年間で日本中を回りました
北海道から沖縄まで
その地域の人たちの顔は
今でも思い出すことができます

やっぱり東京に
一極集中になっている
シニアの人たちとか
ひとりで暮らす選択をした人たち

東京で暮らす不安よりも
重いと思うんです
商店街がなくなっていくし
移動手段もなくなっていくし
病院が閉鎖されていくとか

そうか、日本に暮らす
すべての人たち
すべての人たちの声を
私はあげ続けたいって
すごく切に思ったのが
全国で挑戦をしたいという
私の思いです。

あなたのための政治を
ここから

(キャプション)
あなたのための政治。
立憲民主党 (川面 波がキラキラと眩しい)

 政治の万能性約束満載の文章となっている。最初の「声を上げよう。その声を残して。残した声は絶対無視しない」の「その声を残して」は声を残して"欲しい"の意味で言っている「残して」なのだろう。だが、如何なる政治家と言えども、残した声の全てを掬い上げることなどできない。掬い上げたとしても、"政治は結果責任"、全ての声が望むどおりの"結果"まで持っていく万能性は政治にはない。

 例えば今回2025年7月参院選挙では各党教育政策で奨学金問題を取り上げている。貸与型奨学金の廃止、給付型奨学金の拡充、貸与型奨学金返済の減免等々を訴えている。

 主な理由の一つとして修士号取得者数や博士号取得者の減少、結果としての若手研究者の減少傾向と日本の研究力低下に危機感を抱いているからだろう。

 2021年(令和3年)2⽉に⼀般社団法⼈⽇本若者協議会が立憲民主党に対して、「若⼿研究者の課題に関する要望書」を提出している。

 冒頭、〈主要先進国が軒並み博⼠号取得者を増やす中、⽇本は2008年度の⼈⼝100万⼈当たり131⼈から減少し、2017年度には119⼈と、アメリカ、ドイツ、韓国の半分以下の⽔準にまで
落ち込んでいる。〉と貧しい現状を訴え、給料や給付型奨学⾦の支給、学費減免、研究費の増額等々の実現努力を要求している。

 元々国際的に見て日本の教育費に於ける公的負担の低い水準を出発点とした教育機会の問題点ということになるが、こうったことは今に始まったことではなく、今に始まったことではないこと自体が"政治は結果責任"の約束事を履行できていない何よりの証明となるが、この証明は関係各方面からの国民の声を政治側が「絶対無視しない」という関係性を築くことができているわけではないことを示す。

 だが、蓮舫は政治というものが万能ではないことを自覚できずに、「残した声は絶対無視しない」と政治の万能性のみならず、議員にならないうちから、"政治は結果責任"の結果を保証してしまう自己絶対性を前面に押し出すことができる。

 だが、一転して矛盾したことを言っていることには気づかない。「私の道は誰かの声を代弁する政治家であるということに答を導き出しました」――

 そもそもからして政治家という職業は誰かの声を代弁する役目を負っている。政治家を目指す誰もの道がその役目を負うのであって、蓮舫のみが負うわけでもないのに、何か特別なことをするかのような言い回しと代弁行為を何の障害もなく担うことができるかのような言い回しは鉄則とすべき"政治は結果責任"のルールをどこか鉄則とし切れない甘さを抱えているからだろう。

 「残した声は絶対無視しない」は全体に対するその全てを指し、「誰かの声を代弁する」は全体の一部分を指す。精々可能なのは前者ではなく、後者であるが、この相互矛盾に気づかずには前者をも可能としているのは政治家としては致命的な客観的な認識能力の欠如から来ているはずだ。

 矛盾を無視するとしても、"政治は結果責任"に結びつけることができるかどうかの成果の実現はやはり別の問題として浮上する。

 野党の立場ではなおさら、与党の立場に立ったとしても、全ての国民が利益とすることができる政治の実現を図ることができるわけではない。政治家としての評価が"政治は結果責任"の評価
と相関係していくことへのシビアな気持ちの希薄さが言葉を安易に紡ぎ出す原因となっているに違いない。

 蓮舫が"政治は結果責任"意識を欠き、当然、保証する資格がないにも関わらず自らの政治の万能性を自ら保証している極めつけは次の文章である。

 「選択的夫婦別姓。同性婚。最も遅れてる。やっぱり政治に対する憤りとか悔しさとか立ち上がれるのって私なんじゃないかって思ったのがすごく強かった」――

 「立ち上がれるのって私なんじゃないかって思った」とそれなりの特別な自負を示すには示せるだけの"結果責任"を果たしていることが条件となる。果たしもせずに自負だけ示したのでは、思い上がりとなる。

 政治の場で夫婦別姓がいつ頃から言われだしたのかネットで調べたところ、1996年に法制審議会が選択的夫婦別姓制度の導入を盛り込んだ「夫婦別姓を認める民法改正の法律案要綱」を法務大臣に答申。しかしこの改正案は国会に提出されなかったと言う。

 この11年前1985年の「女性差別撤廃条約批准」、3年後1999年の「男女共同参画社会基本法」等が刺激になったのか、2011年5月25日に憲法13条違反、憲法24条違反、女性差別撤廃条約違反等を理由に夫婦同氏を強制する民法750条は違憲であるとして、東京地方裁判所に訴状が提出された。

 東京地方裁判所は合憲判断を下し、高裁控訴審も合憲、2015年12月16日の最高裁判所大法廷は、夫婦同姓を義務付ける民法750条は憲法24条に違反するとする反対意見があったものの合憲とされ、一方で夫婦別姓制度のあり方は国会の合理的な立法裁量に委ねられるべきとされた。

 現在の夫婦同氏制度は憲法違反と訴えた裁判の2021年6月23日最高裁大法廷判決にしても合憲判断を下しながらも、「この種の制度の在り方は、平成27年大法廷判決の指摘するとおり、国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならないというべきである」と国会での議論に委ねている。

 当然、夫婦別姓を憲法上合憲とする戦いは国会が主戦場と思い定めなければならないのは誰の目にも明らかである。

立憲民主党は2025年4月30日、「民法の一部を改正する法律案」(通称:選択的夫婦別姓法案)を衆院に提出している。しかし野党側が過半数を握っていながら、国民民主党の同種の法案と一本化できず、賛成多数を得ることはできなかった。

 衆院を通過したとしても、参議院に回された場合、過半数を自公が握っている状況にあった以上、成立の可能性は低かった。当然、蓮舫は夫婦別姓にしても、同性婚にしても、7月20日投票の参議院選挙で立憲民主党が第一党を確保する形で自公を過半数割れに追い込み、次のステップとして政権交代に持っていくことが合憲を可能とする近道と考えて、全体的な協調作業の必要性に触れるべきを、「立ち上がれるのって私なんじゃないかって思った」と自分一人の力で進めることができるかのような万能性を披露する。

 元々、何でも自分は正しいとする自己正当化バイアスの傾向があると見ていたが、自己評価が過剰に高いところは相変わらずである。

 大体が、「選択的夫婦別姓。同性婚。最も遅れてる」としている以上、その遅れている状況は選択的夫婦別姓や同性婚の憲法容認に向けた活動に関して蓮舫自身にしても役に立つ程の政治力を示し得ていなかっことの証明、いわば、"政治は結果責任"に関して何ら"結果"を出していなかったことの証明でもあり、にも関わらず、「立ち上がれるのって私なんじゃないかって思った」と自らの政治力を両者を進める拠り所とするのは矛盾そのもので、その矛盾からは自己の政治力に対する根拠のない過信しか見えてこない。

 そしてこの根拠のない過信は、「20年間で日本中を回りました 北海道から沖縄まで その地域の人たちの顔は今でも思い出すことができます」の言葉にも現れている。立憲民主党は、「政権交代で『分厚い中間層の復活』を」掲げることで主として中間層の利益を代弁することを党の存在意義としている。

 蓮舫は自身が日本中を20年間走り回って、自民党政治に対して中間層の生活に余裕を持たせるどのような政策を迫ることができたのだろうか。あるいは2024年7月7日の都知事選で第3位に沈み、参議院議員の職からは離れていたものの、2024年10月の衆院選で自公与党を過半数割れに追い込むどのような力を発揮できたというのだろうか。

 自公過半数割れは旧統一教会問題や政治資金収支報告書不記載の政治とカネに関わる一大スキャンダルが国民の怒りを買った自滅――敵失に過ぎない。「20年間で日本中を回りました」は回ったという事実だけのことであって、これといった見るべき"政治は結果責任"を政治の成果として上げているわけではないから、言葉だけで勇ましいことを言っているに過ぎない。

 「やっぱり東京に一極集中になっている」現象、そしてその反動としての地方の過疎、人口減少、このことに付随した商店街の衰退、移動手段の減少、病院の閉鎖は1950年代の高度経済成長期に地方から東京圏への人口移動の急増が端緒の既に久しい問題であり、与野党全体の政治の力不足が加速させてきた現象である以上、一朝一夕には片付かない問題であるのは誰の目にも明らかであろう。

 蓮舫にしても問題解決に特段の政治力を発揮できたわけではなく、政治力不足を曝してきた一人であって、当然、"政治は結果責任"を果たしてきていないのだから、その自覚を持つことができずに「そうか、日本に暮らすすべての人たち すべての人たちの声を私はあげ続けたいってすごく切に思ったのが全国で挑戦をしたいという私の思いです」と、自らの政治能力の万能性を言い立てることができる。

 この自信過剰は、勿論、解決困難な政治上の諸問題に対して実質的にどれ程の"政治は結果責任"を見せることができたのか、冷静に自らを省みる謙虚さの欠如から来ている。謙虚さを持ち合わせていたなら、自信過剰は影を潜めるはずだし、政治の万能性に安易に取り憑かれることもないはずだ。

 だが、蓮舫の言葉に動かされ、その万能感に感動して、一票を投じる有権者が数多くいるに違いない。
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蓮舫の西田発言「自分たちが納得できる歴史を作らないと」への「歴史から学ぶことを歴史から学んだ」の独善

2025-06-30 16:21:01 | 政治
 蓮舫のインスタグラムからブロックされた。

 2025年6月29日に「維新離党の梅村みずほ参院議員、参政党比例区から立候補表明で調整」題名の新聞記事を読んで、蓮舫のインスタに、「"渡り鳥"が最近のはやりなのだろうか?『渡り鳥になってしまう』からと国政への復帰を否定していた、その場限りでカッコいいことを言う蓮舫も見事渡り鳥へと変身」と投稿したら、一発でブロックを食らい、アクセスできない状態になった。

 7月の参院選(3日公示、20日投開票)に立憲民主党から比例代表に立候補することになった元参院議員の蓮舫(57)が6月27日夕、公認内定後、初の街頭演説を東京都目黒区内で行い、
「『渡り鳥』になってもいいから、もう1回国会で使ってほしい。いろんな声があると思うが、いろんな声を受け止める蓮舫でありたい。おかしいことはおかしいと言わせてほしい」と訴えたと「日刊スポーツ」が報道していたが、ブロックは「いろんな声を受け止める蓮舫でありたい」の信念を真っ赤なウソにする思いの吐露となるだろう。

 それがバッシングといった批判の類いであったとしても、一応、吟味するだけの政治家としての度量を持たないと、自身が正しいとしている事柄に関して批判を受けた場合、その批判を吟味もせずに自分は正しいという思いに引きこもってしまった場合、独善に陥る危険性を抱え込まないとも限らないからである。

 蓮舫は自身の「X」も、「返信」を制限している。耳に痛い、耳障りな投稿を遮断して、耳に痛くない、耳に心地よい情報だけに接していると、自分にとって無害なお友達だけを集めることになり、逆に批判や攻撃に対する免疫を弱めて、自分が正しいとしている知識・情報等の的不的確の判断を鈍らせて、独善性を纏い付かせかねないことになる。

 蓮舫が最近陥った独善性の例を一つ挙げてみる。

 2025年5月3日の「憲法の日」に沖縄県那覇市で開催された憲法に関わる講演で自民党参議院議員西田昌司が講師の一人を務め、自身の歴史認識を様々に披露した。

 西田昌司「特に沖縄の人に私をお願いしたいのはですね、かつて私も何かひめゆりの塔とかね、何か何十年か前にですね、まだ国会議員になる前でしたけれども、お参りに行ったことあるんですけれども、あそこ、あの、今どうか知りませんけど、ひどいですね。あのひめゆりの塔で亡くなった女学生の方々がね、たくさんおられるんですけども、あの説明のしぶり、あれ見てると、要するに 日本軍が、ね、どんどん入ってきて、ひめゆりのあれが、あの、死ぬことになっちゃったと。そしてアメリカが入ってきてね、沖縄は解放されたと。そういう文脈で書いてるじゃないですか、あそこは。

 そうするとね、あれで亡くなった方々本当救われませんよ、本当に。だから、歴史を書き換えられて、そういうことになっちゃうわけですね。

 それで沖縄の中では今の知事さんもおられますけれどもね、 そういう話は結構それなりの市民権持っているわけですよ、これは。で、これ我々京都の中でもですね、共産党が非常に強い地域ですけれどもね、ここまで、あのー、何ていうか間違った歴史教育はまだ京都ではしてません。沖縄の場合にはやっぱり地上戦の解釈を含めてですね、かなりむちゃくちゃな、この教育のされ方をしてますよね。

 だから、そのことも含めてもう一度我々自身がですね、自分の頭で考え、自分の頭で物を見てですね、そしてこの流されてる情報が何が正しいのかということをですね、自分たちで取捨選択して、そして自分たちが納得できる歴史を作らないといないと思います。

 で、それをやらないと日本は独立できない」――

 この発言に対して蓮舫は2025年5月8日に自身の「X」に次のような書き込みを行った。

 〈歴史から学ぶことを私は歴史から学びました。

 「自分たちが納得できる歴史を作らないと」
 もはや弁明すらもできない愚言です。〉――

 そして伊波園子著作の『ひめゆりの沖縄戦-少女は嵐のなかを生きた』の表紙の画像を添付している。その著作からもひめゆり学徒隊の歴史を学んでいるとの指摘だろう。

 だが、蓮舫一人だけが"歴史から学ぶことを歴史から学んでいる"訳ではない。西田昌司にしても、歴史から学んで、自らの歴史認識を構築している。同じ歴史から学んだとしても、答はそれぞれに異なる場合がある。あるいは左右正反対の答を出す例にしても稀ではない。

 所詮、歴史認識は歴史に対する解釈なのだから、自らの主義・主張、政治的立場等を歴史に反映させ、読み解くことになるから、答に違いを生じさせる原因となる。

 GHQが戦前の天皇制国家主義を否定し、その国家体制の柱となっていた憲法、国家主義思想の培養を目的とした教育制度、財閥が牛耳る経済の仕組み等を含めて廃止し、180度民主主義体制へと転換した。安倍晋三や西田昌司のような戦前の天皇制支持者、天皇を崇拝の対象としている天皇主義者たちにとって耐え難い歴史の転換に相当し、戦前の国家体制への"回帰"を衝動として抱えることになっている。

 戦前回帰は戦後の歴史を戦前の歴史と連続性を持たせることによって可能となることから、それが西田昌司の場合、「自分たちが納得できる歴史を作らないといけないと思います」と主張していることの意図であり、その達成への強い願望が「それをやらないと日本は独立できない」としている民主的彩りをほんのちょっと付け足した戦前の国家体制への転換が自らの歴史認識に於いて真の独立国家日本の建国ということになるのだろう。

 蓮舫は西田昌司の"歴史から学ぶことを歴史から学んでいる"歴史認識を読み解こうともせず、多分、講演内容を精査せず、マスコミが切り取った発言にのみ反応したのだろう、誰もが"歴史から学ぶことを歴史から学んでいる"にも関わらず、ほかに何から学ぶと言うのだろう、自分だけがそうしているかのように自らの有能性を印象付けて、西田発言を「もはや弁明すらもできない愚言です」のみで片付ける発言は独善性そのものを示す。

 その理由は、アメリカにトランプが現れて、バイデン前政権のDEI(多様性・公平性・包括性)政策を撤回。いくつかの世界的企業がトランプ政権の意を酌み、DEI政策の見直しを表明する状況が出てきたことにある。

 さらに性別は男と女のみを認め、LGBTQを認めない、世の慣習に逆らう政策を強行した。超保守的な一人の大統領の出現で歴史に逆行する政策が簡単に実現し、世の中がそれに倣おうとする。

 西田昌司が言っている「自分たちが納得できる歴史」作りが現在の政治的・社会的状況に照らして実現する可能性は低くても、時代の針が突然変異的に国家主義的方向に急激に振れた場合、振れない保証はない、その方向に向けた歴史への塗り替えが強行される恐れはなきにしもあらずである。

 西田昌司の国家主義的政治性を多分に含めた歴史認識の本質を理解することができないために上記のような可能性に配慮することもせず、「自分たちが納得できる歴史を作らないと」とした発言を「もはや弁明すらもできない愚言です」程度に狭めることのできる蓮舫の歴史的感性は、あるいは政治的感性は自分だけが正しいとする独善性を纏い付かせていなければ見せることはできない代物と言える。

 蓮舫の発言自体が"愚言"そのものとしか言い様がない。
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西田昌司の沖縄憲法の日講演:戦前日本国家を善と価値づけ、戦後日本国家を善なき存在と価値づける歴史認識

2025-06-25 07:18:54 | 政治
 国家主義者西田昌司の2025年5月3日沖縄憲法の日講演の続き。皇位継承問題を取り上げているが、相変わらず戦前日本国家の立場に立った、しかも杜撰な歴史観の披露となっているが、本人はこの上なく正統な歴史観だと信じ込んでいる。

「皇統の危機」だと言い、「このままでは秋篠宮に皇嗣になって欲しいのに殿下しかですね、おられないわけになってるわけですけれども、何でそういうことになったのかというとですね」と前置きして、「11の宮家」が皇族の身分を離れ、臣下の籍に入る臣籍降下をされたからだ「というふうに教えられてます」と説明している。

 皇嗣とは皇位継承順位第1位の皇族を指すのだから、現在の該当者は秋篠宮が一人なのは当然のことで、それを"しかおられない"と表現するのは不自然だが、現天皇が男系男子の皇嗣を持たないことを不本意に思っているとしたら、"しかおられない"の表現は不自然でも何でもなくなる。

 但しこの考え方は分家よりも本家といった家の格に価値を置く戦前の思想の現れであって、このことは現在では皇籍を離れることを「皇籍離脱」という言葉が一般的に用いられているのに対して天皇家を上に置き、一般国民を下に見て、"降ろす"という文字を用いた「臣籍降下」という戦前の言葉を使っている点にも現れていて、西田昌司が如何に戦前日本国家に軸足を置いているかを窺うことができる。

 安倍晋三は明らかに天皇を全ての正統的価値の中心とする国体思想に基づき、国民の天皇への忠誠を至高とする皇国史観に取り憑かれているが、西田昌司にしても、似たような皇国史観を自らの精神としていることを窺うことができる。

 11の宮家が実質的に皇籍を離脱するに至った理由を、「この誰も教えられてないでしょ?」と言い、「実は私国会図書館で調べて、多分、私しか知らないと自分では思ってます」と専売特許だと自慢して、戦時中は戦費調達のために大量の国債を発行していたが、インフレにならなかったのは「欲しがりません、勝つまでは」の国民経済の統制が原因だったが、戦後統制が解除されて、いわば抑えられていた物価のタガがはずれて急騰したということなのだろう、このことと生産機能が戦争で壊滅状態になっていて、生産が需要に追いつかなかった等の理由で招いた急激なインフレの抑制と戦中に乱発した国債をゼロにするために「最高90%の累進税率というね、とてつもない税金をかけた。1回だけだけど」と言いつつ、莫大な自己所有の財産の運用で運営していた皇室も財産税徴収の対象とされて、その影響で皇族の多くを養うことができなくなって臣籍降下することになったと理由付けている。

 だが、財産税は財政再建や戦後のインフレの抑制だけが目的ではなく、戦時利得吸収をも目的としていたと言うから、戦前の階級制度やコネ、あるいはカネを利用して戦争をカネ儲けの道具にし、「勝つまでは欲しがりません」のバカっ正直者を腹の底でせせら笑いながら不当利益を上げる不届き者が、いつの時代も変わらないだろうが、相当に存在していて、そういった者への懲罰を兼ねていたということも歴史認識していなければならない点であるはずだが、戦前の日本国家を肯定の対象とし、戦後日本国家を否定の対象としている手前、戦前の不都合な事実は視野の外に置くことにしているのだろう。

 西田昌司は戦前の皇室費は「予算の外側」にあったが、「今のようにですよ、皇室のおカネをですねえ、この予算で決めているというはまさにこの憲法の元で皇室自体をこの国会が支配する形になってますよね」と望まない形式となっていることを言外に滲ませているところは戦前型皇室の擁護論そのもので、戦前日本国家に立った歴史認識と呼応した関係を取ることになる。

 「その財産を税金で全部取り上げた。そもそもですね、普通に考えて、そういうことがそもそも有効なのかって話。あの当時から、今もそうですけど、天皇陛下が納税義務者でないですから」云々とその非有効性を主張しているが、戦後は国から支給を受ける「内廷費」、「皇族費」、「宮廷費」以外は納税義務があるということだから、この間違った情報の提示は戦前型皇室の擁護論の露骨な反映そのものの現れとなる。

 「その方々に要するに戦事立法そのものですよね、終戦後ですけれども、法律で全部90%以上の財産を皇室から取り上げた。そうするとどうなります。天皇陛下初め皇族の方々、これはもう生活する術がなくなるわけです。今までのような形で皇室財産の配当で生活できない。そこで、この皇族の方々臣籍降下しますと、明日からは我々は普通の臣下に降りるということになったわけですね。

 しかしそのときは宮様には始めはですね、何人も男性の、男子の皇族の方々もおられました。おられたけれども、そのあと、それがどんどん、どんどんどんどんですね、先細りになってですね、今はもうたった一人秋篠宮殿下しかおられないということになった」――

 多くの一般兵士と多くの国民を犠牲にし、生存生活者に多大な忍苦を強いながら、そのことは歴史認識の外に置いて、戦後の皇室の様変わりに不満を抱き、占領施策を悪の原因とする。

 大体が必要な物資を戦争遂行に集中投資させたものの、形勢悪化が戦争資源の消耗率を高めて極端な物不足を招き、それでも戦争遂行に物資を確保しなければならず、一般家庭からも鍋釜や門扉等の金属や衣料品や食料品まで供出させてなおも物不足を深刻化させておきながら、配給制度と価格統制によってインフレが起きなかったと言うのは眉唾である。

 物不足だから始める配給制度ということだから、国民に満足な数量は行き渡らず、我慢を強いた一方、金銭に余裕のある層相手にヤミ取引が雨後の筍のように跋扈するのは疑いの余地のないことで、見えないところでインフレが起きていた見るべきだが、西田昌司は国家の立場に立った歴史認識を専門としていて、国民の立場に立つことができないから、一般国民の苦労もインフレも目に入ることはなかったのだろう。

 《第二次大戦下生活資財闇物価集計表》から昭和18年10月の闇価格を見てみる。

 白米1升公定価格48銭のところ、売る相手によって価格差があるが、高いところで売買価格は3円、公定価格を100とした闇価格指数は625、安いところで2円、闇価格指数は418とそれぞれ記されているが、6倍強から4倍強の価格差を生み出していて、あからさまには表面に現れないところでインフレは発生していた。

 もっと分かりやすいように、《『砂糖の価格をどう見るか??』~最終回~》(社長コラム/2020/03/23)からは昭和18年(1943年)の砂糖価格を見てみる。

 砂糖の公定価格は53銭。ヤミ価格が6円67銭。対して大工職の日当がヤミ価格の半分の3円30銭。大卒初任給が70円。

 大卒者はヤミ物資にたやすく手が出て、物不足にそれなりに対処できるだろうが、職人階級は砂糖を乏しい少量の配給で我慢するしかないだろう。

 「(皇嗣が秋篠宮殿下一人に)なったのはですね、まさに終戦直後に作った占領政策の時限爆弾が今、効いてきてるわけです。で、こういうふうにこの占領中に大きなこの日本の国力を弱めるための政策がされてきた。それが一つが憲法である。教育勅語に対する措置である。そしてこの財産課税である」――

 占領政策は日本の国力弱体化を目的としていた。弱体化の生贄とされたのが国家形成の柱と位置づけられていた大日本帝国憲法の日本国憲法へ改正であり、教育政策の柱であった教育勅語の廃止であり、皇室財産を取り上げ、皇室人材の流出を招いて国民の精神的支柱としての皇室の存在感を低下させた財産課税であるとしている。

 全て戦前日本国家を善と価値づけ、戦後日本国家を善なき存在と価値づける歴史認識となっている。

 当然、行き着く先は「この憲法改正、当然やらなきゃならない」となるが、占領政策が日本の国力弱体化を目的としていたといった「私が言ったようなこと全く知らないわけですよ。全く知らない。なぜかと言えば、学校で教えてないからですよ。学校で今私に言ったことは教科書にも書いてないし、学校の先生も教えてません。むしろ逆さま教えてるわけですよ。日本がね、悪かったから、日本が軍国主義だから、あの戦争になったんだ。東京裁判で言ってることを教えてるわけです」と占領政策を間違いの極みに置いて日本の戦争を正当化し、「何でかと言えば、憲法が何でこんなおかしな憲法になってるのか?何のために作ったのかという根本的な歴史の事実を教えてないじゃないですか。

 先ず我々がやらなきゃならないのは憲法改正しようと思うんならですよ、我々自らがこの歴史を取り戻さなきゃならないじゃないですか」と主張し、憲法を改正するためにも、「先ず歴史を取り戻す。もうこのことに尽きると思ってるんです」と戦後の学校が教えている歴史認識ではなく、西田昌司が口にしている歴史認識を日本国民の一般常識とすることを憲法改正の前提と位置づけている。

 この憲法改正意思は西田昌司の戦前日本国家の立場に立ち、占領政策を否定する歴史認識からして、許されるかぎり大日本帝国憲法に近づけた内容の改正を目指していることになる。

 杜撰な情報混じりであるにも関わらず、「私が言ったようなこと全く知らないわけですよ」と自らの歴史認識に絶対的価値を置くことのできる自信は一面、滑稽ではあるものの、その執念は侮れない。クソ真面目なドン・キホーテもどきに見えるが、時代の空気次第では多数派を形成する偶然が生じないとも限らない。多数派を形成すれば、必然的に戦前回帰に向かうことになる。

 戦後日本の民主主義を維持・発展させたいと思うなら、当然、この手の歴史認識に心してかからなければならない。

 以上、ここまで。以下の講演内容は次回に譲る。
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西田昌司の沖縄講演「あの戦争一体何だったのか」は戦前日本国家の立場に立った杜撰な歴史認識

2025-06-22 06:25:18 | 政治
 2025年5月3日沖縄憲法の日講演の続き――

 西田昌司「もう一つ大事なことはですね いわゆる歴史観と言われていることですね。あの戦争は一体何でなったの? あの戦争一体何だったのかということをですね。東京裁判という戦勝国が敗戦国を、この裁くという、これ、国際的には許されないことですよ。あの当時でも許されないことですが、それをやったということですね。

 そして東京裁判の中でその戦争犯罪人にというのをですね、認定してそれを絞首刑に処す。そ
れをしなければ占領を解かない。で、占領を止めて欲しかったら、その東京裁判を受け入れて、その刑を執行する。こういう条件ですから、この東京裁判を執行して戦争犯罪人が生まれてるわけですね。

 で、そしてそれは正しいということですね。ずっと歴史の中で、教科書の中でもずっと教えてきてるわけ。ですから、日本はあんな戦争は何でしたのかというとアメリカが、じゃなくて、日本が一方的に悪かった。一方的に海外に進出して、一方的にですね、アジアね(フッと笑う)、そこを支配する。でやってきたと。で、そういう形で裁かれてるんですが、しかしどう考えてもそうじゃないわけですよね。

 で、段々、教科書でそういうこと教えられていなけども、この頃はですね、インターネットなどを通じてですね、ま、アメリカの公文書なんかも、次々新しい記録が発表されたり、新聞やテレビやラジオでは報じていないけれども、インターネット上この正しい情報が出てくるようになりました。

 で、私もそういうのを見ながら勉強ずっとこの何十年してきたわけですけれども、ま、そういう事実があります。で、このように占領中にですね、憲法とそれから教育勅語を廃止させられる。それ、さらには東京裁判という歴史をですね、新たに書き換えられる」――

 日本の戦争に正当性を与え、その正当性を裏打ちした歴史認識となっている。靴の底にニセモノの皮を裏打ちして、それを論拠もなくホンモノの皮ですと偽証しているに過ぎないのだが、自身は色々と勉強して到達した正しい結論だと信じ込んでいる。

 「インターネット上この正しい情報が出てくるようになりました」と言っているが、自身の歴史認識にマッチした情報を"正しい"としているだけのことで、自己相対化を柔軟にこなすだけの省察能力を欠いているから、独善的な蛸壺にはまり込んで抜けることができず、失言を繰り返すことになる。

 「東京裁判という戦勝国が敗戦国を、この裁くという、これ、国際的には許されないことですよ。あの当時でも許されないことですが、それをやったということですね」と主張していることの妥当性を「Wikipedia」等の情報を頼りに探ってみる。

 第2次世界大戦末期の1945年2月のヤルタ会談でイギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦の連合国4ヵ国が国際軍事裁判所憲章を取り決め、1945年8月8日に調印。特徴は従来の戦争犯罪概念が拡張され、検討されたことだと記している。

 人類史上類を見ないナチスのユダヤ人に対する大規模で残虐な行為を知るに及んで、ドイツ帝国の戦争指導者を厳しく罰する必要性に迫られ、戦争犯罪概念が拡張される至ったのだろう。

 当然、法令の効力はその法の施行時以前に遡って適用されないとする法の不遡及の原則に突き当たる。法の不遡及を厳格に適用したなら、ドイツ帝国の戦争指導者たちが命じた残虐な戦争行為を的確に裁くことはできない考えた結果なのだろう、その適用を例外規定とすることになったという。

 そしてこの国際軍事裁判所憲章に基づいてドイツ・ナチス軍の戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判が1945年11月20日に開廷、1946年10月1日に結審。日本軍の戦争犯罪を裁く極東国際軍事裁判(東京裁判)が1946年5月3日に開廷、1948年11月12日に結審することになった。

 西田昌司は「東京裁判を執行して戦争犯罪人が生まれてるわけですね」と言っているが、東京裁判が戦争犯罪人を作り出した訳ではない。ナチスの戦争犯罪程には残虐で大規模ではなかったものの、米比軍の捕虜を100キロも徒歩で移動させ、1万人前後の死者を出したバターン死の行進やマレーシアのボルネオ島サンダカンで英豪軍捕虜2千人余に対して約260キロの距離を徒歩で移動させ、その殆どを死亡させたとされるサンダカン死の行進、その他に見る捕虜虐待、現地住民に対する虐待、見せしめのための殺害、邦人住民保護放棄、対住民自決強要、あるいは兵士に向けた「生きて虜囚の辱を受けず」の戦陣訓が民間人にまで刷り込まれて、アメリカ軍に捕虜となることを恥としてサイパン島最北端の岬の崖から1万人に登る兵士や民間人が「天皇陛下万歳」や「大日本帝国万歳」と叫んで身を投げ、自決者が1万人にも登ったというバンザイクリフ事件、その他十分な訓練を施さないままの命を無視した兵士の戦場投入、戦術も成算もないままの死を招くだけの自殺行為でしかない兵士の敵陣突撃の強要、例を挙げたらキリがない戦争犯罪行為を日本軍は戦場で犯していて、そのような犯罪行為を東京裁判法廷が裁き、判決によって戦争犯罪の刑が下されたのだが、西田昌司は戦争犯罪行為の前提もなしに東京裁判が戦争犯罪人を生み出したかのような言説を振り撒いている。

 このような言説を可能としている原因は、戦前日本国家の立場から「憲法改正」、「教育勅語廃止」、「東京裁判判決を受けた軍人、政治家、外交官等の戦前要人の排除」等、戦後の国の形に否定的に目を向けた歴史認識を形成しているからで、国民の立場に立った歴史認識が抜けていることから起きているはずである。

 だから、「あの戦争一体何だったのかということをですね」と言っていることは東京裁判や日本国憲法、教育勅語等、自分たちが望まずに変えられることになった戦後の国の形から見た戦前の国の形との対比のみで戦争を振り返った物言いとなる。  

 陸軍参謀本部は1940年冬に陸軍省整備局戦備課に対して1941年春季の対英米開戦を想定した米英対日本の物的国力の判断を仰いだと言う。その回答は次のようになっていたという。

 〈「短期戦(2年以内)であって対ソ戦を回避し得れば、対南方武力行使は概ね可能である。但しその後の帝国国力は弾発力を欠き、対米英長期戦遂行に大なる危険を伴うに至るであろう。」と回答し、同年3月25日には「物的国力は開戦後第一年に80-75%に低下し、第二年はそれよりさらに低下(70-65%)する、船舶消耗が造船で補われるとしても、南方の経済処理には多大の不安が残る」と判定。〉(『陸軍秋丸機関による経済研究の結論』(牧野邦昭:摂南大学)

 さらに勅命設立の総理大臣直轄総力戦研究所が行った日米戦想定の机上演習報告が近衛文麿首相や陸軍大臣東條英機立ち会いのもと、1941年8月27・28日両日に首相官邸で開催、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」、いわば対米戦争などもってのほかと結論付けられた。

 長期戦が無理なら、短期戦でと戦勝の可能性に賭けたのだろう、そして1年後の1941年12月8日に真珠湾奇襲攻撃を以って対米戦争へと突入。翌年の1942年6月5日から6月7日にかけてのミッドウェー海戦の敗北で日本軍は制空・制海権を失い、戦局の主導権がアメリカ側に移行したという。

 いわば1941年12月の対米戦争開始から2年以内の短期戦で決着をつけるつもりが、2年を持つどころか、たったの6ヶ月で戦争の主導権はアメリカ側に帰した。

 杜撰な物的国力判断に基づいた、それゆえに杜撰とならざるを得ない不完全な対米英戦略を下敷きに勝算の見込みなしと気づかずに戦争に無理矢理に突入、当然、満足に機能するはずもない軍事作戦を展開、しかも戦場で後方に位置し、前線部隊のために兵器・食糧・馬などの供給・補充や後方連絡線の確保などを任務とする兵站との連携を最重要視しないままに供給・補充物資が欠乏していても顧みずに「突撃!」の掛け声だけの精神論で無理矢理に戦わせ、多くの兵士を無駄死にさせた。

 結果、日中戦争と太平洋戦争での日本軍戦死兵士約230万人のうち約6割の140万人近くが餓死や栄養失調による病死で占められていた上に約80万人の民間人を巻き添えにした。

要するに2年以内の短期決戦であっても、耐えうる戦争資源の保障がないままに無謀にも戦争に突入し、一般兵士や民間人にそのツケを回した。

 『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)の昭和16年1月9日の日付に次のような記述がある。

 〈御予定通り、葉山御用邸の行幸啓(注:天皇と皇后が一緒にお出かけになることを指す言葉)あらせられる。
 夕方約2時間、常侍官候所〔じょうじかんこうしょ=侍従詰所〕に出御。種々、米、石油、肥料などの御話あり。結局、日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき旨、仰せありたり。〉――

 昭和天皇は日中戦争を停戦に持ち込み、10年程度、国力の回復と充実に努めるべきではないかと仰った。但し仰った相手が侍従であった。

 このような発言を可能とする力関係の裏返しとなる現象がこの記述に続く昭和史研究家の半藤一利氏の解説に現れている。

 〈(注:昭和)15年10月12日にも同様の発言があったが、天皇は日中戦争の拡大には終始反対であったとみてよい。たとえば、13年7月4日口述の『西園寺公と政局』にはこんな記載がある。
 「昨日陛下が陸軍大臣と参謀総長をお召しになった、『一体この戦争は一時も速くやめなくちゃあならんと思ふが、どうだ』といふ話を遊ばしたところ、大臣も総長も『蒋介石が倒れるまでやります』といふ異口同音の簡単な奉答があったので、陛下は少なからず御軫念(注:深く心を痛めること)になった」〉――

 大日本帝国憲法「第1章 天皇」で、「神聖にして侵すべからず」、「天皇は陸海軍を統帥す」、その他で絶対的権力を保障されていながら、陸軍大臣と陸軍参謀総長に日中戦争の早期停戦を諮ったにも関わらず、昭和天皇の意思を検討することも、今後の戦局についてどう見通しているのかの説明もなく、「『蒋介石が倒れるまでやります』といふ異口同音の簡単な奉答があった」と陸軍の意向だけが伝えら、以後の戦略についての説明もなく、昭和天皇は心を痛める。

 この陸軍要人に対する天皇の無力は天皇の絶対的権威は憲法上の作為に過ぎず、その権威は国民を統治するためにのみ与えられていることが如実に読み取ることができる。

 西田昌司は、「日本が一方的に悪かった。一方的に海外に進出して、一方的にですね、アジアね(フッと笑う)、そこを支配する。でやってきたと。で、そういう形で裁かれてるんですが、しかしどう考えてもそうじゃないわけですよね」と海外進出にしても、アジア支配にしても、"一方的"であることを否定している。

 要するに植民地主義は欧米が始めたことではないか、日本が後発参入してどこが悪いと主張していることになるが、理論的には正しくても、現実問題として後進国という限られたパイを奪い合う植民地の軍事的・外交的争奪戦に加わったのである。当然、そこには勝ち負けが付き纏う。

 アメリカがスペインからフィリピンの領有権を獲得し、フィリピンを植民地とするに至ったのは1898年の米西戦争で勝利しからだった。

 そして日本軍のフィリピン攻略は真珠湾攻撃と同じ日の1941年12月8日に両面作戦を敢行、ルソン島に上陸を開始し、マッカーサー司令官の米比合同軍を破り、1942年6月9日までにほぼ全部隊を降伏させ、全島を占領することになった。

 但し45日間の攻略予定が3倍以上の150日間を必要としたというから、2年以内の短期決戦想定で対米戦争を開始していながら、僅か6ヶ月で主導権が日米逆転したという事実との関係で何か象徴的である。

 初っ端から計画立案した戦略の的確性が不完璧であったことを曝すことになるからである。

 真珠湾攻撃は米戦艦に打撃を与えて、米海軍や米国民の戦意を挫くことを目的としていたということだが、フィリピン攻略は植民地戦争の本格的な参入と開始を意味していたから、そこでの戦略の不満足な適応性は以後の植民地戦争に影響を与えない保証はないとは言えない。

 日本軍のフランス領ベトナム進出はナチスがフランスを占領、ナチス傀儡のヴィシー政権の協力という時の利に恵まれていたからで、インドネシアを植民地としていたオランダはナチスの占領下にあり、本国からの支援が回らないことと防衛に参加したアメリカ軍の態勢が整わないうちの出来事という時の利に恵まれていたからで、英国の植民地であったシンガポールを攻略できたのも本国イギリスがナチスの攻撃を受けて防衛に手一杯という時の利に乗じることができたからだろう。

 だが、アメリカ軍の反撃の態勢が整ってからは、アメリカを主力相手として戦うことになって、国力と国力が真正面からぶつかり合うこととなり、それまで手に入れた"時の利"は効力を失い、当時、対米比で20分の1と言われた日本の貧弱な国力の貧弱ゆえの消耗率の高さと杜撰な戦争計画に基づいた杜撰な戦略と相まった無理矢理な戦争ゆえに様々な戦争犯罪を繰り広げ、最終的に植民地戦争から弾き出されて、東京裁判で戦争犯罪の審判を受けることになった

 最後の最後には無条件降伏の敗戦という形で終わりを迎えているが、植民地戦争に率先して加わわり、生半可ではない自国兵士や自国民の犠牲のみならず、同じく生半可ではない敵国兵士や敵国民の犠牲を強いている以上、勝敗に応じて正当性の獲得か喪失かで判断すべきで、戦勝国からそれ相応の裁きを受けるのは、例え戦勝国に有利に進められたとしても繰り返されてきた世界の習いであって、当然、西田昌司が言うように日本は一方的に悪くないといった言説は現実世界を厳しく見る目を欠いているからできる手並みに過ぎない。

 そういった人間が尤もらしげに歴史認識を振りかざす。当然、その歴史認識たるや、自分に都合がいいだけの粗雑で独りよがりな内容にならざるを得ないのだろうが、信じてやまないから始末に悪い。

 それが次の言葉。

 教科書では教えていないし、新聞やテレビやラジオも報じていないが、インターネットなどを通じてアメリカの公文書が次々と新しい記録を発表されたり、正しい情報が出てくるようになり、西田昌司自身がそれらの新しい記録や正しい情報を何十年と勉強してきた。

 それが具体的に何が"新しい"のか、どう"正しい"のかの詳しい証明も抜きに「発表された」、「出てきた」と言うだけで、「そういう事実があります」と事実証明の代用とし、そのような具体性を欠いた"事実"なるもので、占領中に憲法と教育勅語が廃止され、東京裁判という歴史を新たに書き換えられたと主張、その主張を以って自らの歴史認識の正当性を証明しようと試みている。

 所詮、戦前日本国家の立場に立ち、自分が望まない戦後の国家の形を否定するだけで、戦前日本国家の無謀な戦争が内容とした一般兵士、一般国民の過酷な犠牲を頭に置くことのできない歴史認識だから、杜撰にならざるを得ないし、杜撰な感覚を素地としているのは明らかで、この手の杜撰な歴史認識に共鳴するには同じく杜撰な頭に限定されるに違いない。

 以上、西田昌司の自らは正しいとしている戦前国家の立場に立った杜撰な歴史認識について触れてみた。以下の講演内容についても、その杜撰さを確かめてみる。
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