『ソフト開発脱「社内」 「オープンソース」増殖』(06.8.30.『朝日』朝刊)という見出し記事がある。コンピューターソフトを一つの企業内で開発するのではなく、ネット上にオープンにして、基本ソフトのリナックスと同じように開発に誰でもが参加できて力を合わせて最良の製品に仕上げ、誰もが無料で利用できるようにする「オープンソース方式」の開発の動きが日本でも広がり始めたという内容の記事である。利益は「システム開発会社などから不具合が起きた際のサポートサービス付きで購入」してもらうことで上げる。
その中の別囲みで「視点 『輸入国』日本に好機」なる解説記事がある。
「ものづくり大国を自負する日本だが、ソフトウエアは輸入額が輸出額の100倍を越す極端な輸入超過。インドや中国に到底太刀打ちできないという悲観論もある。そのなかでオープンソース方式のソフト開発は、他流試合の経験を積む絶好の機会といえる。
PHP(オープンソース言語)ユーザー会で、最新の技術動向を紹介したパネリストの多くは、振興ネット企業で働く20代から30代前半のプログラマーだった。そんな草の根活動が、日本のソフト力を向上させる一歩になるかもしれない」――
「ものづくり大国を自負する日本だが、ソフトウエアは輸入額が輸出額の100倍を越す極端な輸入超過。インドや中国に到底太刀打ちできないという悲観論もある」とは驚きである。日本の歴史・伝統・文化を優越したものだと誇る美しき大国日本の現実とは思えない。そのような現実はあってはならないことだろう。それらを絶対だと掲げる安部晋三以下の政治家はウソをついているウソつきということになるが、美しいウソとして許し、止むを得ないウソつきと許すべきか。
日本の教育が暗記教育を制度としていることから考えると、「輸入超過」も「悲観論」も当然の成果と言えなくもない。いや、当選の成果であろう。機会あるごとに言っていることだが、暗記教育とはなぞり(モノマネ)教育――教師が提示するコマ切れの項目的知識を単になぞって暗記していく(そのままマネる)だけの教育であって、そこには教師から生徒への言葉の一方通行はあるが、教師と生徒とが双方向的にお互いに言葉をキャッチボールし合うことで言葉の内容を高め合っていくことがないために、与えられたコマ切れ知識の外に飛び出していくような生徒の想像力(創造力)を刺激するどのようなプロセスも導き出し得ないからである。
その一つの証明となる上記記事から3日後の記事がある。
『小学生調査 数式理解力に課題 計算技術は98年と同等』(06.9.2.『朝日』朝刊)
「単純計算よりも理解力に難点――文部科学省所管の財団法人『総合初等教育研究所』が全国の小学生約9千人を対象に実施した計算力調査で、単純に数式を解く計算技能よりも、計算技能を支える『理解力』に課題があることが分かった。理解力を試す問題では正答率が3~6割と低いものもあった。単純な計算技術については、98年の調査結果とほぼ同じ水準だった。
同研究所が1日、発表した。この結果について、同研究所は、学力低下への懸念から、この数年計算技能を伸ばす指導に力点が置かれたためとみている。
調査は、小学校36校の1~6年を対象に昨年3月実施。どの学年にも、計算の意味や演算の決定などの理解力をみる文章題と計算技能をみる数式問題の計約30問を出した。
調査結果によると、計算技能については、どの学年も大半の問題で正答率が7割以上となった。理解力については、設問のうち2割が正答率6割以下だった。
これら理解力を見る文章題の典型例は表(―省略―)に示したもので、数式の意味などを理解する力が不足しているとみられる。
計算技能の問題で、同研究所による98年調査時に出したのと同じ約10問と比較すると、平均正答率は1~4年生で1~3ポイント上昇した。5,6年生はほぼ同程度だった。
調査に関わった筑波大学大学院の清水静海助教授(算数・数学教育)は『理解力を伸ばすには国語の授業と協力するのも一つの方策だと思う』とはなしている(及川健太郎)」――
しかしこの手の内容の記事は前々から繰返しマスコミが取り上げているものであって、その点日本の美しい歴史・伝統・文化となっている記事の繰返しと言えなくもない。計算能力はまずまずだが、多角的見方が劣るとか、文章理解に欠けるとか、そういったところが歴史認識ならぬ日本の教育認識となっている。
問題点を要約してみると、
①「単純な計算技術については、98年の調査結果とほぼ同
じ水準だった」
②「計算技能については、どの学年も大半の問題で正答率
が7割以上となった。」
③「理解力については、設問のうち2割が正答率6割以下」
で、「数式の意味などを理解する力が不足しているとみ
られる。」
「単純計算よりも理解力に難点」という能力格差は「同研究所は、学力低下への懸念から、この数年計算技能を伸ばす指導に力点が置かれたためとみている」としている。
この説明一つに日本の教育が如何に暗記教育で成り立っているか、そして日本の「学力」とは暗記知識の学力を指すということを如実に証明している。尤も「総合初等教育研究所」は少しもそのことには気づいていないようだが。日本の歴史・伝統・文化が絶対ではないことを安倍晋三以下が気づいていないのと同じである。
「計算技能を伸ばす指導」は時間をかけた機械的な反復訓練で解決可能な課題である。そこにあるのは強制的な暗記のプログラムのみである。お手やお座りができない犬に命令の言葉をかけながら前足を取ったり、尻を押さえて座らせたりの反復訓練を施して覚えさせるのと本質的には同じ構造の学習方法であって、成果が約束されなければならない「指導」であるが、それでも「正答率は7割以上」にとどまっている。犬に譬えるなら、お手は覚えたが、お座りは今ひとつできたりできなかったりの不完全さといったところか。
「学力低下への懸念から、この数年計算技能を伸ばす指導に力点」を置いたとは、「学力」なるものを「計算技能」能力だと見なしていることを示している。いわば「理解力」は「学力」のうちに入れていなかった。入れていたなら、「学力低下」しているとするなら、「計算技能」能力と「理解力」を平行して「伸ばす指導に力点」を置いたはずで、「理解力」の指導を置いてけぼりはしなかったろう。
置いてけぼりにした上で一点集中的に「この数年計算技能を伸ばす指導に力点」を置いて獲得した「学力」(=成果)が9年も前の「98年の調査結果とほぼ同じ水準」の「学力」だったとは、どういった「力点」だったのだろう。
つまり、「98年」当時からさらに「計算技術」が低下するのを防ぎ、「ほぼ水準」を保つ効果はあった学力「指導」であり、反復訓練だったということなのだろう。
③の「理解力」不足が日本の教育が暗記教育となっていることからの成果である正真正銘の証明となっている。〝理解する〟ということは、考える(=考察する)作業を言う。ただ単に考えるのではなく、その言わんとしている(指示している)内容(=意味内容)を考察を通して把握し、その上で内容が示す指示に従って必要とされている対応をやはり考察を媒介として導き出して指示に的確に対処することが〝理解〟であって、常に〝考察(考える)〟という手順を必要とする。
教師と生徒とが双方向的にお互いに言葉をキャッチボールし合い言葉の内容を高め合うことがなければ、生徒に〝考察(考える)〟のどのような機会も与えない。この〝考察(考える)〟という段階が暗記教育がなぞって受け止めるプロセスのみを構造としていて用意されていないから、当然の宿命のように「理解力」不足が恒常化する。日本の大方の教育者が日本の教育が暗記教育であることを認識していない――と言うよりも認めたくないものだから(認めたら暗記教育から転換できない自分たちの無能も認めなければならなくなる)、当然そこに〝考察(考える)〟という段階を欠落させていることも認めようとしないから、「理解力」不足が必然的に日本の教育に於ける美しい歴史・伝統・文化となる。
生徒に与える知識量(=教科内容)が少なかった時代は、暗記に時間を割いた分、それなりの成果を挙げることができたが、情報社会の情報量の増加に応じて教えるべき知識量が増えた今日、例え暗記に時間を割いたとしても、知識量の多さが逆に全体的な暗記密度を薄めていることと、生徒の側がマスメディアやマンガ・雑誌、インターネットその他が与える自分にとって面白い興味ある情報にもアンテナを広げている関係から、その情報自体も量的な面も含めて学校が与える知識に対する暗記密度を下げる役目を果たしていて、例え反復訓練を土曜授業だ、放課後授業だと集中的に課したとしても、暗記教育自体が以前ほどの力を持てないでいるのではないだろうか。その結果の「学力低下への懸念から、この数年計算技能を伸ばす指導に力点が置かれた」ものの「98年の調査結果とほぼ同じ水準」程度の成果しか上げることができなかったということだろう。
日本人自らが創造したものではない外国生まれのソフトウエア開発方法の「オープンソース方式」を暗記教育で受け継いだ習性そのままにマネし、なぞる形で取り入れる。それが成功して画期的なソフトウエアを制作することができたとしても、インターネット上で行うことだから、日本人だけではなく、外国人の手も入る〝オープン方式〟である。なぞりとモノマネを重点的に訓練づけられ、〝考察する〟過程を欠く学校教育を思考ベースとしている日本人が、なぞり・マネで可能とすることができる範囲の創造性で片付く製造物に関するモノづくりの技術と異なって、それだけでは許さない創造性を必要とする技術(だからこそ〝入超100倍〟という状況を解決できないでいるのだろう)を独自に獲得できて「他流試合の経験を積む絶好の機会」と果してなり得るのかどうかである。
例えなったとしても、中国・インドが同じように「オープンソース方式」を取り入れたら、同じ条件を獲得することとなり、〝入超100倍〟という差は差として残りかねない。いや、インド・中国とも「オープンソース方式」といった「他流試合」は元々必要としない創造性を自らのものとしていて、日本側から見た場合、何をしても「到底太刀打ちできない」優位性ということなのかもしれない。
例えどれ程に遠回りになったとしても、暗記教育では片付かない「理解力」をつけることから始めなければならないのではないだろうか。そのためには当然暗記教育から脱却して、教師と生徒との言葉のキャッチボール(〝考察〟作業)を習慣づける教育への転換を図らなければならない。
一番喜んだのは皇太子妃雅子?
皇位継承権第2位の秋篠宮に男系天皇制を保証する待望?の継承権第3位となる男子悠仁誕生。一番ほっとしたは男系天皇派ではなく、皇太子妃雅子ではないだろうか。
04年5月12日からの皇太子のデンマーク(当地皇太子の結婚式列席)、ポルトガル、スペイン(当地皇太子の結婚式列席)3カ国訪問では雅子の同行は病気療養のため見送られ、皇太子一人の旅立ちとなった。皇太子は2日前の10日に東京元赤坂の東宮御所で記者会見して、雅子の同行見送りについて説明している。
「雅子には外交官としての仕事を断念して皇室に入り、国際親善を皇族として大変な重要な役目と思いながらも外国訪問をなかなか許されなかったことに、大変苦悩しておりました」
「誕生日の会見の折りにもお話ししましたが、雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れきってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」
――先ほどのお答えの中で、妃殿下のキャリアや人格を否定するような動きがあったとおっしゃいました。差し支えない範囲で、どのようなことを念頭におかれたお話なのかお聞かせください。
「そうですね、細かいことはちょっと控えたいと思うんですけど、なかなか外国訪問もできなかったということなども含めてですね、そのことで、雅子もそうですけど、私もとても悩んだということ、そのことを一言お伝えしようと思います」――
雅子の「経歴」とはハーバード大学経済学部卒業、英語、フランス語、ドイツ語に堪能、東京大学法学部に学士入学、外務公務員I種試験に合格、東大を中退して外務省入省、外交官として活躍等々――で、それらを「十分に生かし、新しい時代を反映した活動」を皇太子妃として行うとしたら、現天皇が皇太子だった頃の皇太子妃美智子もよくしなかった、いわば従来からの慣習に照らし合わせた場合、悪く言うと皇太子妃の領分をはみ出す活動ということになるだろう。
しかし、雅子は皇太子妃としてそういった活動に希望を抱いて皇室に入ってきた。その希望はさまざまな障害にあって砕かれた。だからと言って、皇太子妃として期待される役目とはこんなものか、皇室とはこういった世界なのかと悟り、あるいは諦め、要求される役目に同調することで皇室世界のしきたりに妥協して、外交官の血を殺し、キャリアを断ち切り、〝籠の鳥〟となることはできなかった。その結果の体調不良――。
希望していた活動が実現不可能ということなら、皇太子妃にとどまる限り、いわば離婚しない限り、雅子の体調回復の最良のクスリは外交官の血を殺し、過去の一切のキャリアを断ち切る以外にないはずである。即ち皇室の〝籠の鳥〟と化す。あるいは皇太子妃という名の小鳥と化し、その鳥に課せられた鳴き声だけを囀る。
だが、皇太子妃雅子静養目的のオランダ訪問ではあれだけ生きいきとした姿を見せていたのに、9月19日(06年)に行われたトンガ前国王の国葬への列席のためのトンガ訪問は皇太子一人のみで、体調が完全には回復していないのか、同伴を見送っている。あるいは下手に国葬に列席して、各国の王族や随員と顔を合わせたら、外交官の血を却って騒がせてしまい、まずいことになると予防線を張った同行取り止めということだろうか。
どちらであっても、外交官の血を殺し切れていない証明でしかない。外交官の血を殺すことは雅子にとって望みもしない薬だということだろうか。だとすると、ますます厄介なことになる。
皇室典範が改正されて、女性天皇、あるいは女系に道が開かれたとしても、母親の雅子が外交官の血を今以て引きずり、過去の活動に充実した自分を見ているとしたら、娘の愛子が年頃になって誰を夫に迎えようと、過去に女性天皇が存在したとしても新たな実験として注目されるという点で心理的に従来の皇太子以上に女性皇位継承者として〝籠の鳥〟を強いられる人生を送らざるを得ないだろうことは簡単に予測のつくことで、そういった人生を果たして娘に望むだろうか。
言葉を変えて説明すると、自分が失った自由以上の自由のない生活を娘が送ることを黙ってみていられるだろうか。
秋篠宮妃紀子に男子が誕生して叶うこととなった男系継承への夢の〝復古〟が逆に愛子を皇位継承の軛から解き放った。結婚が皇籍離脱の機会となり、職業選択の自由を獲得する。外交官であろうとなかろうと、自分が望む職業・役目に就けるのである。男子誕生を喜ばないことがあるだろうか。
雅子自身、皇太子よりも秋篠宮と紀子の方が皇室にふさわしい人間、あるいは皇位継承にふさわしいと見ているに違いない。そう見ていないとしたら、外交官としての過去のキャリア、その能力が疑われる
皇太子の「公務のあり方については、私は、以前にもお話ししたように新しい時代にふさわしい皇室像を考えつつ、見直して行くべきだと考えます」とする皇室観は「経歴を十分に生かし、新しい時代を反映した活動」に道を開こうとする新しい皇室のあり方、皇太子妃の在り方を視野に入れたものだろう。これは国民統合のふさわしい装置から外れることを警戒する宮内庁や保守政治家の好みに反する態度と言える。既に装置に予定外の動きが発生することを恐れて望む外国訪問を抑えてきているのである。皇太子から見たら、「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあった」のである。
対する秋篠宮の皇室観は、「私個人としては、自分のための公務はつくらない。自分がしたいことが公務かどうかはまた別で、公務はかなり受け身的なものと考えています」と極めて現行の皇室制度(=国民統合のふさわしい装置)に従属的な姿勢を示すもので、その従属性こそが、皇族としてのふさわしい姿を可能にすると同時に、宮内庁や天皇主義者にとって意に適う予定内の扱いやすい装置とすることができる。
とすれば、どちらが皇位継承者としてふさわしいか、皇太子が生存している限り制度は変えようがないが、気持の上では残念ながらと皇太子を排除して、秋篠宮に軍配を上げているに違いない。
雅子にしても上記秋篠宮の発言こそが誰が皇室にふさわしいかを決定的に証明する決定的な物証と見ていたに違いない。自分がふさわしくないと承知している場合、その正当性を獲ち取るためにも、どんな人間こそが皇室にふさわしいか、その人間像を洞察するものである。白を知っても、黒を知らなければ、その白を証明することはできない。洞察する際、殆どの場合身近な人間をサンプルとし、ふさわしいかふさわしくないか振り分けるものである。
秋篠宮が現在の皇室にとって皇太子以上に天皇継承にふさわしい皇族であるように秋篠宮妃紀子は皇太子妃雅子以上に皇后継承がふさわしい人間と言えるだろう。雅子が過去の外交官姿を引きずって従来からの皇太子妃像に従属的ではないから既に失格者だからということだけではない。紀子が意識の上で雅子に遥かに優って皇后美智子に似せた自分を常日頃から演じているからである。似せるには似せるなりの目的があるはずである。
美智子は軽井沢の皇太子とテニス・デート以来、国民的人気を博してきた。それは小泉人気の比ではない。皇太子妃となり、皇后となって、その間皇室用公用車の窓から国民に手を振るときの軽い、ゆったりとした会釈と優しげに細めた目、口許の笑みに現れるそれとない念入りさ・意識的な丁寧さは昭和天皇の皇后にはないものだった。それは華族出でもない、皇族出でもない、初めての平民出身であったがために皇族入りした者にふさわしい恥じない態度・恥じない仕草を演じようと意識するあまりの懸命さ・努力が仕向けた入念な人工的動作ではなかったろうか。尤も繰返すうちに身につき、本人のものとなっていく。
そのような演技はハーフレディーが女性を演じようとするあまり、グラスを手にしたときなど殊更に小指を曲げたり、笑うときに手の甲を口元に当てたりする、普通の女性はしない〝しな〟を見せる人工的な懸命さ・努力にある種通じていないことはない。
皇太子妃美智子がそのように演じたこと自体、それが既に〝美智子スタイル〟となっていたのだが、美智子の子供の紀宮以下、紀子、雅子と皇室の女性が同じスタイルを踏襲していくことによって、〝美智子スタイル〟は皇室の女性が見習うべき正統性、もしくは基準の地位を獲ち取ることとなった。
秋篠宮妃紀子が皇后美智子にそっくりな、いや、それ以上に意識的に懸命に目を細め、懸命に口許に優しげな笑みの形をつくり、会釈も話す口ぶり(抑揚)もそっくりといった所作を見せていることは、皇太子妃としても皇后としても高い評価を受けてきている美智子を目指そうとする意志の表れであろう。その意志が皇后美智子と同じ高い評価を得ようとする、そのことだけにとどめた種類のものなのか、あるいはそれを超えて皇后という地位まで希望して――とまで行かなくても、雅子よりも自分の方が皇后にふさわしいのではないかとの思いがあって、その思いが否応もなしにそっくりさんを演じさせ、高い評価と共に地位にふさわしい態度・物腰を持っていると認知されたい意志からなのか。
後者だとすると、皇位継承権第3位の男子を得て、ふさわしいとする意識と自信をさらに強めたことは間違いないだろう。当然、立ち居振る舞いの点でも、対人距離的にも皇后美智子になお一層近づこうとして、自分の中でイメージした皇后のそっくりさんを今まで以上に演じることになるだろう。皇后との結びつきを心身共に強め、皇后と似た自己を形成することで、そのことを以てふさわしいとする想いを正当化しようとするだろうからである。
雅子も皇后美智子と似た物腰(=美智子スタイル)を見せるが、皇后そっくりという点で紀子ほどには完成されてはいなくて、自分を残している。紀子ほどの念入りさ・徹底さがない。外交官の血を断ち切れていないからだろう。紀子には美智子にそっくりであると言うこと以外、自身がどこにも見当たらない。〝ふさわしさ〟を演じきっている。それはなぜか都庁職員の黒田さんと結婚した紀宮以上のなりきりに見える。
秋篠宮が天皇を受け継いだなら、紀子は現在の皇后である美智子以上に皇后役を全うするに違いない。既に自分の物腰に自信たっぷりな気配を十二分に漂わせた、皇后美智子にそっくりの立ち居振る舞いを演じ切れているからである。
雅子自身が外交官の血をどうしても断ち切れない(これ以上籠の鳥となることができない)ということなら、離婚も選択肢の一つかもしれない。外交官の仕事に復帰するのに年齢的に遅いということはない。あるいは離婚という形で皇籍から離脱した、男性ではなく、特に女性を受け入れるだけの進取の気性は望めないに違いない保守的な自民党には立候補のチャンスはないだろうが、当選したら〝次の内閣〟での外務大臣就任を交換条件に民主党から選挙に打って出て、当選間違いないだろうから、外国訪問して外交活動で自己の可能性に再度挑戦するという道もある。
皇太子夫妻が離婚というハプニングは、皇族も喜怒哀楽、愛憎を抱えた同じ人間であること、同じ男女だということを国民に思い知らせて、権威に対して無闇有り難がる特別視を剥ぐ効用を与えるに違いない。
皇太子としたら、離婚後頑丈な腰をした若い女性と再婚して男子が生まれるまで子づくりに挑戦し、秋篠宮とその子悠仁から皇位継承権を奪い返す――というのも面白い展開ではないだろうか。
「首相は11年にプライマリーバランス(基礎的財政収支)の黒字化を達成する目標を掲げ、07年度予算で新規国債発行額を06年度発行額(29兆9730億円)より低い額に抑制する考えを表明。その姿勢を率先して見せるため、自身の給与を30%削減し、閣僚給与も10%カットする方針を示した」(06・9.27.『朝日』朝刊)。
政策実行に向けた何と美しい決意表明か。「美しい国づくり内閣」と命名した意気込みも頷ける「30%削減」である。不退転の姿勢で臨むべく、自らの給与を30%もカットし、他の閣僚に対しても給与カット10%の強制追従を行わせて、それを自らにプレッシャーをかけた率先姿勢と見せて美しい宣伝とする。
まさか内閣官房機密費て内々にカット分を補填なんていうことはしないだろうと思うけど、分かったものではないが、一般国民の生活を犠牲にしてでも数字上の達成を果たして、自らの決意表明の正しさ・政策遂行の正しさ、実行力を証明し、誇ることは間違いない。
その理由を次に述べると、先ず07年度予算に於ける新規国債発行額の前年度比減の強制達成はいくら景気が回復して税収増が望めたとしても、国債償却にも振り向けなければ「プライマリーバランス(基礎的財政収支)の黒字化」の11年度達成は覚束なく、歳出削減が主体となると、小泉内閣相応か、あるいはそれ以上に予算編成を窮屈にすることを意味する。
消費税増税を予定しているわけではなく、まあ、ゆくゆくは打ち出すことになるのは目に見えているが、それまで経済成長優先と歳出削減による財政再建政策を取り続けるとなると、経済成長に関わる分野を対象とした活動促進のための税制面での優遇を小泉内閣に続いて取り続けざるを得ず、窮屈な予算編成を機能化するためにも〝優遇〟を補う、歳出削減の主たる発動対象を定めた〝冷遇〟でバランスを取る必要に迫られることも小泉内閣同様に運命づけられるだろう。
当然〝冷遇〟は経済成長に関わる分野以外の経済成長に直接関係しない分野に課せられる構造を、やはり小泉内閣と同様に取ることとなる。例えば製造業等の親会社が下請会社に請負単価カット等の犠牲を要求することで自社利益確保を図るのと同じく、一方を優遇するために一方を犠牲(=〝冷遇〟)にする構造の扱いが国の歳出削減を主とした予算編成と税政策でも行われるということである。
小泉内閣では企業にかける法人税等の減税や高額所得者に絶対的有利なゼロ金利政策といった〝優遇〟で税収入を減らした分を、「改革は痛みを伴う」を口実とした、削れるところはなりふり構わず削る手口で情け容赦もなく個人に対する所得税に関わる各種優遇措置の廃止、もしくは削減、及び社会保障関係の増税と自己負担増等で歳出削減に結びつけた〝冷遇〟で補い、それらに相互対応させた国債発行額を含めた予算編成政策を行ってきた。
その結果の大企業や都市部、高額所得者と、それに対する中小企業と地方、あるいは低所得者との間の格差であり、一方の発展に対する他方の衰退であった。一方の〝冷遇〟の上に成り立たせたもう一方の〝優遇〟とも言える。
歳出削減と増税の標的対象にされた中で、社会的弱者が最も犠牲を受けたと言うことだろう。公共事業予算の削減はゼネコン関係に向かったように見えるが、ゼネコン自身の利益獲得のための下請事業者への下請単価のカットが最終的には下請従業員を標的とした地位と給与の不安定をより多くもたらした。
安倍首相はかねてから、「勝ち組と負け組を固定化しない社会の構築」を掲げ、その実現のための「再チャレンジ政策」を打ち出したが、安倍政策が経済成長による税収増と歳出削減を予算編成及び「プライマリーバランス(基礎的財政収支)の黒字化」の核とする以上、経済成長優先の税政策・予算配分政策の〝優遇〟を必要とし、それを補う〝冷遇〟を必然化させざるを得ず、結果として「負け組」の妊娠・出産につながり、ごく自然に小泉格差政策の踏襲に向かうことになる。
そのことは「再チャレンジ政策」が〝優遇〟と〝冷遇〟を前提として提唱されている政策であることも証明している。「再チャレンジ」が〝負け組〟を存在要素とすることで可能となる活動だからである。つまり「再チャレンジ」の舞台には勝ち組は登場せず、負け組のみが登場して「再チャレンジ」を演ずる構造上、常に負け組の存在が必要となる。逆説的に聞こえるだろうが、安倍晋三が「再チャレンジ政策」を成功させるためには負け組が必要であり、そのためにこそ負け組をつくる政策に取り組んでいると言える。
小泉格差づくり内閣に竹中平蔵と共に三人四脚で協力して、負け組をゴマンとつくり出して置きながら「勝ち組と負け組を固定化させない」などと言うから、マッチポンプだと批判される。要するに、負け組をつくらない原因療法政策ではなく、負け組を一生懸命つくっておいて、それを「固定化しない」という美しい対症療法政策を行おうとしているに過ぎない。ということは、マッチポンプであり続ける美しい宿命を抱えることにもなる。
当然、首相給与30%カット・閣僚給与10%カットなど、意味もないことになる。「給与カット」がある一方で生活上の〝冷遇〟を受ける格差が他方にあるようでは、「給与カット」は国民の腹の足しにもならないポーズでしかない。
大体が「給与カット」でどのくらいの国費を節約できると言うのだろうか。その数字を弾き出して、それがどのような継続的な効果を持つか国民に説明すべきである。〝姿勢〟を示すといった継続性を持たない、一時的な措置など必要ない。全公務員の大胆な給与削減を行い、それを恒常的制度とするというなら、拍手の一つも送ってもいい。
公務員宿舎やその他保養施設等にかける贅沢なまでのムダ遣い、無駄な交際費や使わなくてもいい高級公用車の使用、贅沢な福利厚生施設。その中には高額の経費をかけた贅沢な専用娯楽施設もある。あるいは集客施設に於けるコスト無視のズサン経営で赤字を抱えた各種公営事業、官公庁ぐるみの談合がつくり出す予算上の無駄・損失、随意契約という名の天下り元公務員に私益を与える故意に高額に設定した契約に含まれる余分な経費、タクシー券や出張費、ホテル宿泊費等の水増し請求がつくり出すムダ、公務員の生産性の低さの原因を成している非効率・非能率・怠惰・無能力を金銭で換算した場合のムダ――等々がもたらす国費の全体的な損失額から比較した場合、首相給与30%カット・閣僚給与10%カットの総額が上回ってムダがつくり出している国費の損失を補うということなら、意味ある〝カット〟となるだろうし、ポーズでないことの有力な証明ともなる。
ムダな国費の損失改善を出発点とすることによって、歳出削減を削減することが可能となり、そのことが予算配分の自由度を高めることになって〝優遇〟に対する〝冷遇〟を和らげることにつながっていくだろうし、そのような〝冷遇〟の緩和が「負け組」づくりの防止に役立ち、「再チャレンジ政策」を不要としていく。
ところが安倍晋三及びその〝美しい国づくり内閣〟は歳出削減政策と経済成長路線の維持に向けた勝ち組に対する各種〝優遇〟を行うことで、富の配分に〝冷遇〟面をつくり出して負け組を産出し、その負け組みを固定状態化させないために「再チャレンジ政策」を実施するという、言ってみれば〝悪循環〟を目指す政策を取っている。
このことはパレスチナのイスラム過激派ハマスがイスラエルの生存を許さずテロ攻撃し、イスラエルの反撃でパレスチナの悪化した経済によって生活困窮に陥った住民にカネや医療行為を施して人気を得るマッチポンプと同じ構造ではないか。
あるいはレバノンのヒズボラの自らの愚かしさが招いた災厄でしかないイスラエル兵拉致に対するイスラエルの報復攻撃によって家を追われ、負傷したレバノン住民に施しを行って熱狂的な人気をなお熱狂的に高めるマッチポンプと同じ穴のムジナに位置する政策であろう。
ハマスやヒズボラの施しをありがたいと感謝するパレスナチ人やレバノン人も美しく素晴しいが、安倍晋三とその美しい国づくり内閣の美しいマッチポンプに気づかずに高支持を与える日本人も美しく、素晴しい。
「天下り先へ、国費支払い6兆円超…延べ1078法人」(読売・2006/04/03)
中央省庁などの幹部OBを天下りとして受け入れた法人のうち、契約事業の受注や補助金などにより国から2004年度に1000万円以上の支払いを受けたのは延べ1078法人にのぼり、支払総額は6兆円を超えていたことが、読売新聞などの調べでわかった。また、契約事業の9割以上が随意契約だった。
これら法人の天下り受け入れ数は計3441人。防衛施設庁を舞台にした官製談合事件では、天下りOBの受け入れ企業に工事が重点的に配分されていたことが判明したが、中央省庁全体でも、天下りと契約や補助金交付との間に密接なつながりがあることをうかがわせている。
調査対象は、全府省庁と公正取引委員会や最高裁判所などを含めた計17の機関。民主党の要求を受け、各機関が、OBが役員に就任している公益法人と独立行政法人や、課長・企画官相当職以上で退職した幹部OBを受け入れた民間企業など各種法人のうち、公共工事などの事業受注、物品調達、補助金などで、年間1000万円以上の支払いを国から受けた法人について出した資料を調べた。
それによると、法人数は延べ1078で、これらの法人に在籍している天下り幹部OBは、役員2604人、職員や社員が837人だった。また、支払件数は計5万2054件で、総額6兆1686億円。このうち、業務などが随意契約で発注されたケースが4万9320件で全体の95%を占めた。支払総額は、国の今年度一般会計予算規模の約8%に達している。(以下略)」 ――
このうちの何%が天下り人間の懐に流れたことだろうか。徹底的に手をつけるべきところを殆ど手をつけず、放置したままなのは、それが解決困難な分野だからで(解決簡単なら、既に誰かが行っていて、解決済みとなっているはずである)、自らの給与カットにしても、低所得者を標的とした増税・歳出削減にしても、相手が政治圧力団体を構成しているわけでもないから、簡単に行える政策だからだろう。〝困難〟を放置・排除して、〝簡単〟を優先させる安易な方向への傾斜が〝美しい国づくり〟と言うわけである。
安倍美しい国づくり内閣は内政の困難さを拉致問題などを利用した外交政策上のパフォーマンスで美しく誤魔化すのではないだろろうか。
最初にお断り――2006-09-14 04:10:22の記事「第89代日本国総理大臣天皇主義者安倍晋三」の「第89代」は誤りで、「第90代」でした。謝罪し、訂正します。小泉首相が、87・88・89代を占めていたようで、最後の1代を抜いていしまったようです。実際に抜いてしまった方が日本にとってよかったのか、抜かないままの方がよいのか、後になってみないと分かりません。
あるいは安倍氏の頭が一つ抜けているという気持があって、1代抜いてしまったかもしれない。
昨日9月26日(06年)のテレビで、民主党議員が「今度の安倍内閣の組閣で、自民党には自分のところにポストが回ってくるだろうと考えていた人が50人程いたと平沢さんが言っていた」と発言したのに対して、当の平沢勝栄自民党衆議員が「総裁選出で安倍さんを政治理念や政策で支持したわけではなく、自分のところにポストが回ってくるかもしれないと支持した人がいて、そういった人のことを考えると、ポストが回ってくるだろうと考えた人は50人くらいいたのではないかと言ったまでです」といった説明をした。
50人は控えめな数字ではないか。将来的なポスト願望支持を含めたら、400人といった数字に撥ね上げた方がより正確な数字になると思うのだが。
平沢議員の説明に対して民主党議員は「そこが安倍新内閣の脆いところです。政治理念や政策で支持したわけではなく、打算で支持した人が混じっている」とバカ正直にまともに応じていた。
民主党もあまり頭のいい人間がいないなあとそのとき思ったが、と言うと私自身頭がいいように見える。少なくとも批判相手よりも頭がよくなければ、批判する資格を持ち得ない。正直言って、そう発言した民主党議員より頭はいいと思っている。生き方・人生の選択に関しては、まるきり頭は悪かったけど。
あまり頭のいい人間がいないなあと思ったのは、簡単に反論を許してしまう発言内容だったからだ。事実名前は知らないわけではないが、頭に思い浮かんでこない安倍支持の別の自民党議員の「安倍さんはそのことは承知で組閣している」といった反論に答えることができないでいた。
そういった人間にはポストは回していませんよと言われれば、物的証拠が出てくるわけの問題ではないから、それまでである。例え誰が見ても派閥均衡人事に思えたとしても、人事を決めた首相自身が、いや、適材適所で決めていったら、ああいう人事になったと言い張れば、黒も白となる。
私だったらこう反論する。
常々言っていることだが、「人間利害・打算の生きものだから、利害・打算程強いものはない。ポスト欲しさの打算の上に安倍支持は成り立つこととなった。これで強力な内閣ができないわけはない。下手をすると、民主党にとっては都合悪いことだが、小泉内閣よりも長期政権になるのではないのか。民主党への政権交代を許さない最強力の安倍打算内閣と名付けるべきかも知れない」
皮肉を用いることによって、少しはインパクトを持たすことができる反論となっているのではないだろうか。
内閣運営がうまくいかなければ、利害・打算でトカゲのシッポきり、首のすげ替え、人気取り政策で乗り切る。女性多用の内閣人事と自慢しても、その女性のうちの何人かに関しては宣伝広告塔・人気取り目的の利害・打算人事が必ずと言っていい程に含まれている。
自民党は1998年の参議院選挙での大敗による橋本内閣の総辞職を受けて小渕政権が誕生すると、自民党を離党して一時期自民党政権を奪いニックキ敵としていた小沢一郎を、その敵意の首謀者の野中広務は政治手法が陰湿的で、一緒には政治はやれないと批判していたが、背に腹は代えられない政権基盤安定のために「個人の感情は別として、小沢さんにはひれ伏してでも国会審議にご協力を戴きたい」と、「一緒にやれない」どころか、一緒にベッドに入りましょうといった具合のなりふり構わない豹変の利害・打算を見せ、1999年1月に小沢一郎を取り込んで自由党との連立に成功、さらに欲張って、それまでは味噌クソに批判していた公明党に対しても批判の手のひらを返してすりより、政権に取り込んで自自公連立政権を発足させた利害・打算の美しいまでに見事な実績・前科を抱えている。現在の自公連立政権は当時の自自公から自公に姿を変えてそっくり引き継いだ利害・打算連立であろう。
政策・理念なんかクソ喰らえ、利害・打算こそすべてだと言えなくもない。
ホリエモンが「カネで何でも買える」と言ったが、カネが実社会にあっては、ときには政界・官界に於いても、利害・打算を実現させる最も強力な武器となっているから、その事実を言ったまでで、政党にあっては政治理念・政策を無視した支持・一票が利害・打算実現の最強力の武器となっているというだけのことに過ぎない。堂々巡りの議論になるが、それは人間が利害・打算の生きものだからに他ならない。
今回の安倍支持、安倍首班指名で、それが最も美しく有意義に活用されたということだろう。
「脆い」どころか、安倍晋三は、あるいは安倍内閣は最強力の武器を手にしたわけである。最強力のであることを即座に認識できるように、「安倍打算内閣」と命名すべきではないか。
「美しい」という言葉を口にできる資格
2006年9月26日火曜日――美しい日本に美しい新総理大臣誕生
心の美しくない男が、女性のどこが美しいとか、美しくないとか言う資格があるだろうか。
女性の美しい・美しくないを言う男について周囲の人間は、その男がそう言う資格のある心の美しさを持っている人間だとの無意識の前提を持つ。ときにはそれが思い過ごしだったと思い知らされることもある。
第89代日本国総理大臣安倍晋三は「美しい日本」という言葉を連発しているが、本人が美しい政治家でなければ、「美しい日本」を言う資格はないだろう。美しくない政治家が「美しい日本」を実現させようがないからである。
「A級戦犯は日本に於いて彼らが犯罪人であるかといえば、それはそうではないんだということだろう」
A級戦犯を日本一国のみの問題とする。中国とも無関係、他のアジアの国々とも無関係。否定し難いまでに他国との重大な関わりの中で発生した歴史事項であるはずなのに、それを無視して、国内感覚のみで把え、それで済ます一国主義的神経は何と美しい感性なのだろうか。
日本は鎖国の時代を通してきたわけではない。日本国内で起こった戦争行為、あるいは戦争に関係した政治行為を対象として生じたA級戦犯問題ではない。誰が戦犯と断罪しようと、そう処遇されても仕方のない戦争行為、あるいは戦争に関係した政治行為が外国との関わりの中で事実として発生したしたはずである。
時の総理大臣の歴史認識は世界に向けた日本の一つの顔となる。捻じ曲げた歴史認識は醜い日本の顔をさらすことになる。
日本の顔を醜く見せておいて、果して「日本を美しい国にする」という資格が第89代日本国総理大臣安倍晋三にはあるのだろうか。
前総理大臣小泉純一郎は日本を醜い競争社会・醜い格差社会に仕立てた。それはそうだろう。歴史認識を捻じ曲げて醜い日本の顔とした、その無神経な醜さを抱えた政治家が美しい社会を築きようがないからである。醜さは醜さへと対応していく。自然の理である。
何事もプラスばかりではない。プラス・マイナスの二面性を宿命とする。
いよいよご退任の小泉純一郎氏、19日朝日新聞朝刊(06.9.)に「分裂にっぽん 5」と題する記事が載っている。「誰でもどこでも公平に医療を受けられるという『国民皆保険』」の崩壊を告げる内容である。その原因を箇条書きに纏めると、
①卒業医師が出身大学の大学病院の臨床研修を受け、そのまま大学病院に残る従来からの慣習が04年から研修先の選択が〝自由化〟となった結果崩れて、4割近くが、収入がいいからだろう、一般病院に就職、結果として大学病院が人手不足に陥って、救急の看板を下ろしたり、時間外診療を中止する大学病院が出現することとなった。勿論最終的なしわ寄せは急患やいつ調子が悪くなるかも分からない健康に不安を抱えている一般市民である。
②大学病院が自らの人手不足を解消するために地方の公立病院に派遣していた医師を引き揚げさせることとなり、今度は地方の公立病院が人手不足に陥る悪循環が起きている。結果、常勤医師の労働量が増え、退職していく医師が出始めている。これも最終的なしわ寄せは一般市民に向かう。
③小泉政権が診療報酬のうち、医師の技術料を含む部分を初めて下げる医療費削減を進めたが、政治力の強い医師会の中心である開業医の勤務医に比べて一般に収入が高い構造への〝競争原理〟の導入、コストカットを放置したため、地方の勤務医離れを加速して、これまたしわ寄せが地域の病院に頼る住民に及んだ。水は低きに流れるが、人間はカネの高きに流れる。
④地方医師不足の解消策に厚労省が開業医や病院長になる資格許可と交換条件に僻地勤務の義務づけを行おうとしたが、「職業の選択と居住の自由を奪う」と医師会と自民党が反対。政治力が政治を左右する結果、政治力を持たない一般市民が被害を蒙る。
⑤介護保険制度見直しで、介護用ベッドレンタル料が1割負担から全額負担、入院患者の食費の自己負担等、低所得患者の生活を直撃。
⑥介護認定の見直しで、「要介護1」の約130万人を「要支援」に変更する生活困難者・低所得者には例外を設けない情け容赦ない改革。――等々。
退任間近となって21日(06年9月)に首相公邸を引き揚げ、都内のホテルに移ったそうだが、小泉首相は「構造改革は痛みを伴う」と宣戦布告して改革断行に向かった、相手は国民全般ではなく、最終・最大被害者となる生活困難者・低所得者だけに向けた宣戦布告だったのである。高額所得者は宣戦布告の相手ではなかった。言ってみれば弱い者いじめの宣戦布告であり、弱い者をさらに窮地に陥れるための構造改革という名の戦争が実態であった。逃げ惑う市民の命を狙うのではなく、面白半分に足元を狙ってヘリコプターから機銃掃射し、なお慌てふためかせる――そんな状態に追い込もうとしていたのである。尤も逃げ惑うだけの体力のある者はいいが、寝たきり状態を強いられている人間はどう逃げ惑ったらいいのか。
低所得者の中には小泉首相が悪魔の化身に見えてきた者もいるだろう。大体が世の中は三途の川もカネ次第、地獄の沙汰もカネ次第と相場が決まっている。高度成長で忘れていた格言を小泉構造改革は思い出させてくれた。これは大きな成果である。「カネで買えない物はない」――ホリエモンは偉大なことを言ったものだ。日本人1億総カネ亡者の悪魔となるべきである。愛国心なんぞ、何の足しにもならないことを知るべしである。
一方で景気回復で全国的持ち直し傾向にある土地価格が土地所有者に福をもたらし、「吉本興業が過去最高益」、「キヤノン、最高益更新」、「ホンダ第1四半期決算、過去最高益」、経営破綻し一時国有化されている地方銀行の「足利銀行、2期連続最高益」、「横浜銀行3期連続で最高益」、「トヨタ最高益」、「最高益を競う不動産各社」といった見出しが新聞紙上に踊る。株で大儲けした株長者もいるだろう。
多大な利益を受けることになる者にしたら、それを小泉構造改革の成果だと見なして、小泉首相が神・仏に見えるに違いない。「首相官邸の方向に足を向けて寝たらバチが当たる」――
小泉首相は「死ねばみな仏になる」と自分の靖国神社を正当化したが、小泉センセイ、生きながらに神・仏の地位を獲得することになる。悪魔の化身と神・仏の二面性。
勿論、その二面性は日本社会の現在の〝格差〟なる二面性と相反照し合う。小泉首相自身がつくり出した政治成果であることを歴史に書き記しておかなければならない。日本の歴史・伝統・文化が美しく出来上がっているどころか、多くの矛盾を含んでどろどろしていることを忘れないために。
人間の営為が何事もプラスだけではなく、マイナスもつくり出す二面性を抱える宿命を無視して事を行うとすると、プラスの面にのみ視線が向かうこととなる。小泉改革の副産物である〝格差〟はそのことを教えているのではないか。プラスの方向にのみ改革を進めて、眼を向けることをしなかったためにマイナスも生じることを考えなかった。
9月22日(06年)の『朝日』朝刊に『安部政権への視点 上』に次のようなくだりがある。
中曽根元首相と「共通するのは『占領憲法』へのいらだちであり、戦後日本社会への否定的な視線である。
『やっと王様は裸だったと言えるようになった』。6年前、安倍氏は発足間もない衆院憲法調査会で発言した。現行憲法は、『大きな制約の中で制定された』のであり、それが『日本人の精神に悪い影響を及ぼしている』。
近著でも『憲法改正こそが、「独立回復」の象徴』と書いた。改憲が後回しにされた結果、『地域への愛着、国に対する想いが、軽視されるようになってしまった』」――
「地域への愛着」も「国に対する想い」も要求されてするものではない。「地域への愛着」、「国に対する想い」への要求を受けて従属したなら、それは単なる従属的選択、従属行為でしかなく、自律的・主体的行為からの発現とは異なる。いわば「地域への愛着」も「国に対する想い」も要求されてするのではない、自律的・主体的行為でなければ意味を成さない。
自律的・主体的行動からのものではなく、要求された従属行為として行う活動が「地域」・「国」にどれ程に役立つというのだろうか。従属として行う活動は馴れ合いと腐敗だけを生む。現在の政治家や官僚がやらかしているようにである。
要求が過度のものとなったとき、「地域」を絶対とし、「国」を絶対と位置づける危険な場所に限りなく近づいていくことになる。〝絶対〟との位置づけは全体主義の網をかけることを意味する。全体主義とは地域・社会・国家といったそれそれぞれの領域を一つの全体・すべてと把えて絶対化し、その絶対化の前に個人の権利・自由が力を失うことを言う。
当然そこでは個人は全体に対する奉仕者と化す。自由・権利を失うことで個人は個人として存在することができなくなり、全体の一部に埋没させられるからである。
戦前がいい例ではないか。個人の自由・権利を認めず、「天皇陛下のために・国のために」と全体への奉仕者とさせられ、戦争では命を投げ出すことを要求された。防空訓練や防火訓練、竹槍訓練、あるいは地域の奉仕活動に有無を言わせずに駆り立てさせられた。個人的用事で断ろうものなら非国民扱い、国賊扱いされ、村八分を覚悟しなければならなかった。国家権力の笠を着て訓練や奉仕活動を口実に権力を振りまわすミニ天皇と化したバカな日本人がゴマンといたからであり、またそういったバカに追従して虎の威を借りる何とやらで尻馬に乗って自分たちも権力を振りまわし、違反した者を無闇やたらと虐げた。そう、自分たちの偉さを見せ付けるために。そういったことでしか偉くなれなかった程度の低い日本人たち。
また要求から生まれた〝従属〟は「独立」とは相反する概念を成す。安倍晋三は「地域への愛着」、「国に対する想い」を要求することで、日本人から「独立」に関わる精神性を奪って依存人間に仕立て、地域・国家なくして生きれない人間、地域・国家をすべてとする人間に変えようとしている。国家主義者である本人にとっては何ら矛盾ない政策であろうが、自由と民主主義・個人の権利を信奉する人間にとってはこれほどの矛盾行為はない。
安倍晋三自身が「裸の王様」と化している。重要なことは上の人間の立場から下の者(国民)を従属させようとする自らの権威主義性を捨て去ることだろう。「地域への愛着」要求にしても「国に対する想い」への要求にしても、その現れとしてあるものだからである。
日本人が権威主義的行動様式から解放されたとき、自律性・主体性の獲得が可能となり、そのとき初めて日本人は誰に対しても自律的・主体的に行動できる「独立の回復」を果たすことができる。国民一人一人の「独立」を「回復」した行動が国全体に及んだとき、国も「独立の回復」を果たし、どこの国にも追従しない自律的・主体的行動が取れるようになる。
改正憲法や改正教育基本法でいくら安倍晋三が国家主義者だからといって、直接的には自由・人権の制限まで要求して、その言葉の削除を求めることはしないし、できもしないだろう。だが、「国を愛せ」、「地域に愛着を持て」と要求して国民が従属した場合、その時点で国民は自ら自由・人権を放棄したこととなり、その文言が憲法や教育基本法に残されていたとしても、単なる飾り言葉へと姿を変えるだろう。
それを狙っての「地域への愛着」、「国に対する想い」の要求なのだろう。我々日本人は戦後に至って初めて、戦前と同様の東条英機みたいな完璧な国家主義者・全体主義者を国の指導者として迎えることとなった。A級戦犯を擁護するわけである。
戦後生まれの戦前派というパラドックス
戦後当時は、確かに食糧難の飢えと闘わなければならなかった苦しい時代ではあったが、戦争から解放された時代として〝戦後〟という言葉はある種の輝きを持って語られたはずである。自由のなかった暗い苦しい戦前に対する自由と平等を保障する新生民主主義国家日本の出発点であり、その歩みを刻む道のりが戦後であった。
多くの日本人が例え微かにではあっても、〝希望〟という期待を塗り込めていた時代であったはずである。しかし戦後はもはや色褪せてしまった。
2006年9月20日、自由民主党に新総裁が選出された。初の戦後生まれだという。しかし新総裁は確かに時間的には戦後生まれだが、戦前の日本を自らの精神的バックボーンとした政治姿勢の持ち主である。多くの日本人が戦後を基点として未来に目を向けていた時代に生まれながら、自らの精神的基盤を戦前に置く、当時の日本人とは倒錯的な位置に姿している。A級戦犯を擁護し、侵略ではなく、自衛自存の戦争と規定すべく歴史を塗り替えたい欲求を抱え、日本の歴史・伝統・文化を絶対としたい国家主義の衝動を疼かせた戦後生まれとは、どのようなパラドックスを意味するのだろうか。
国家の基幹を規定する憲法と教育基本法を改正して国家主義をそれとなく植え込み、愛国心を基盤に日本を戦前の日本へと〝再チャレンジ〟させようとしているのだろうか。
NHKニュース「飲酒運転 1126件を検挙――この一斉取締りは、全国の警察が『飲酒運転取締強化週間』の一環として、先週の木曜日と金曜日の2日間(06.9.14~15)、警察官1万8000人余りの態勢でおよそ3100カ所で行ったものです。その結果、酒酔い運転や酒気帯び運転で検挙された件数はあわせて1126件に上り、このうち27人が逮捕されました。この中には▽松山市で酒を飲んで軽乗用車を運転していた土木作業員がお年寄りをはねて逮捕されたケースや▽愛知県で酒気帯び運転で検挙された建設作業員が2時間後に再び車を運転しているところを検問で見つかり逮捕されたケースなどがありました。警察庁は『世の中の目が厳しい中で、依然としてこれだけの違反があるのは飲酒運転に対する意識の低さがある』として、21日から始まる秋の全国交通安全運動でも飲酒運転の根絶を重点に取締りを進める方針です」
『飲酒運転取締強化週間』は断るまでもなく福岡市東区の一家5人が乗ったRV(レジャー用多目的車)が乗用車に追突され海中に転落・幼児3人が死亡した事故を受けてのものであろう。
一方こういった記事もある。「飲酒運転を厳罰化した改正道交法が施行された昨2002年6月からの1年間で飲酒運転による死亡事故が前年同期より3割減ったことが19日、警察庁のまとめでわかった。人身事故も大幅に減っており、同庁は『厳罰化が効果を上げている。今後も厳しく取り締まりたい』としている。
同庁によると、この1年間の飲酒運転による死亡事故は830件で、前年同期より357件減った。月別でみると、昨年8月だけは3件増えたが、ほかの月は16~45件減った。死者数は894人で、386人減った。人身事故も4月までの集計で月に308~757件減った。また、この1年間の飲酒運転による摘発人数は20万2985人で、前年同期より1万5000人余減った。・・・・」(「法改正:厳罰化から1年、飲酒運転による死亡事故が3割減」『朝日』03.6.19)。
「3割減った」と言っても、「1年間の飲酒運転による死亡事故は830件」もある。それが「前年同期より357件減った」数字だったとしても、飲酒運転事故で死亡させられた被害者の遺族には何の意味もない数字だろう。
「前年同期より1万5000人余減った」ということに関しても、「1年間の飲酒運転による摘発人数は20万2985人」もいる。摘発されない飲酒運転者を含めたらどれくらいの人数になるのだろうか。死亡事故を起こした加害者はすべて摘発されない飲酒運転者である。摘発を免れたがために結果として死亡事故を起こしてしまったとも言える。
ということは、当然のことながらすべての飲酒運転を摘発できないということを証明している。このことはどう法改正を試みたとしても、絶対的事実として今後とも推移する。
実際には法の厳罰化がさして効果を上げていないということではないか。そのためか、2001年11月に刑法を改正して同年12月25日より施行した新設の「危険運転致死傷罪」をさらに2004年に改正して、〝致死〟の場合、それまで1年以上15年以下の懲役だった罰則を20年以下の懲役刑とする厳罰化に踏み切っている。このことは厳罰化の効果がなかったことの証明であろう。効果があったなら、厳罰化する必要は生じないからである。
但し、血中内のアルコール濃度を薄めて「危険運転致死罪」を逃れようと〝ひき逃げ〟が増えたという。酒酔いをなるべく覚ましてから自首する、あるいは逮捕まで待つ。
警察は酒酔い運転だと判明した時点でなぜ現場検証をしないのだろうか。事故現場だけの検証ではなく、飲食店等で飲酒したなら目撃者がいるだろうから、目撃者立会の下、同じ時間で同じ量を飲ませ、クルマに乗ったところで呼気を検査する。例え一人で飲んでいたとしても、自己申告で同じ量を飲ませる。飲ませている過程でウソをついているような様子だったら、事実かどうか追及し、実際に飲んだ量を飲ませて、呼気を計るといったことをすれば、例え轢き逃げでも事故時の血中アルコール濃度を推測できるのではないだろうか。
欧米では飲酒したものが運転席に座ると呼気中のアルコール濃度を検知してエンジンがかからない仕組みのクルマが開発されていて、法律で義務づけている国もあるそうだが、日本でそのようなクルマが開発・普及されたとしてもすべての運転者に行き渡るまでには相当時間がかかるだろう。その間飲酒運転を中止してくれるなら、事故は起こらないのだが。
もっと確かと思われる(あくまでも〝思われる〟)飲酒事故防止の方法がある。厳罰化しても効果がないことの逆の発想である。それは一切の飲酒運転を許可する、解禁と言ってもいい。好きなように飲んで、好きなように車を運転してくださいとする。
飲酒運転解禁といっても、事故を起こすことまで解禁するわけではない。飲酒運転で人1人死亡させることがあったら、確実に死刑と決め、厳密に実行する。死亡させなくても、過度に重い傷害を与えた場合も、被害者の人間としての存在性を重大なまでに傷つけたとして、やはり死刑とすべきだろう。
どの程度までを死刑とするか、それ以下は無期とするか、懲役刑とするか、与えた被害に応じた罰則を事細かに法令化して、被害の規模に従って速やかに処罰する。
つまり、加害者の呼気中のアルコール濃度が問題ではなく、被害者の被害の程度を問題とし、その程度に応じて罰則を加える方法である。これは飲酒運転ではなくても、青信号で横断歩道を渡っている歩行者を信号を無視して突っ込み多数死傷させたといった場合にも当てはめなければならない。
人1人殺したら死刑、重大な障害を与えても死刑ということになったら、飲んでいようといまいと、当たり前の感覚を持っている人間なら下手な運転はできないぞと自覚するのではないだろうか。また飲食店内のイヤでも目につく要所要所に罰則を箇条書きした札を貼っておいて貰えば、飲酒運転して事故を起こしたた場合の自分が置かれれる状況を理解しない者がいるだろうか。効果はないだろうか。
飲酒運転を含めた無謀な運転で死亡させられた被害者の家族に対しては死刑が罰則ということなら、少しは納得のいく気持を持たせることができるという点では効果はあるだろう。
9月14日にブログに載せた「第89代日本国総理大臣天皇主義者安倍晋三」に対して次のような〝コメント〟が寄せられました。
始めまして吉田と申します。
本日はじめてブログを読ませて戴きました。
些か気になった事がありコメントを残させて頂きます。
貴方は、この文を書くにあたりSF条約11条に関しどのように考えているのですか?
または、国家の独立性に関してもです。
安倍氏が正しい歴史認識を持っているか問うなら自身の認識も問うべきと思いますがいかがでしょう?
「この文を書くにあたりSF条約11条に関しどのように考えているのですか?」ということですが、頭が悪いもので、すぐには質問の意味を理解しかねた。「SF条約11条」は「極東国際軍事裁判所」及びその他の裁判の受諾と被拘禁者の赦免・減刑・仮出獄の取り決めを記した条文に過ぎないと思うのだが。参考までに11条を記載してみると、
【サンフランシスコ平和条約】
第11条【戦争犯罪】
日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。
国際社会復帰のためにサンフランシスコ平和条約に締結したことと、それが「11条」によって東京裁判受諾につながったとする一部考えについてどう思うかの質問であるなら、8月12日記載のブログ「東京裁判否定を考える」に述べています。
「国家の独立性」についてどう考えているかの質問に答えます。
私は国家を社会の観念で把えています。国家は独立した一つの全体社会ではあるが、世界を構成する全人類社会の中にあっては、その下位社会にあって、下位社会を相互に構成する組織体の一つに過ぎず、その関係上、主権や領土以外の国家の独立性は相対化される。つまり、他国との関係で存在することになる。
主権や領土は絶対としなければならないかもしれないが、国家という全体社会の所属構成員である国民は常に絶対性を確保しているわけではないし、絶対だと価値づけられるものではないということです。この関係は社会と人間との関係と同じ構造にあります。それぞれは一個の独立した存在ではあるが、社会にあってはその構成員との関係で存在する。
そう考えているからこそ、一国の歴史・伝統・文化の優越性の主張――いわば自民族を絶対とする考えに反対しています。他国との関係で存在している以上、歴史も伝統も文化も、また民族も他国のそれらとの関係で評価されるものと考えています。自国のそれらが優越的であるとすると、他国のそれらを下位に置くこととなり、自己存在性の他国との関係性(=相対性)を否定することになるからです。
「安倍氏が正しい歴史認識を持っているか問うなら自身の認識も問うべきと思いますがいかがでしょう?」
他の私のブログを読んでもらえれば、私なりの歴史認識を述べているつもりです。その歴史認識たるや、色々と矛盾を含んでいるでしょうが、基本のところは自分なりの信念を持って書いているつもりですが。