1月23日(2018年)に草津白根山の本白根山が噴火、スキー訓練中の49歳自衛隊員が部下を守ろうと覆いかぶさり、背中に噴石の直撃を受けて死亡した。
1月25日の衆院本会議での代表質問で共産党委員長志位和夫が米軍ヘリの不時着等を質した際、内閣府副大臣の松本文明(68歳・比例東京ブロック)が「それで何人死んだんだ」とヤジを飛ばしたという。
要するにヘリからの窓枠の落下だろうと不時着だろうと、誰も死んでいないのだから、大した問題ではない、大騒ぎするなという意味を込めたヤジなのだろう。死者を出すか出さないかの結果を事故の重大性・些末性のバロメーターにしていることになる。
1月29日(同2018年)衆院予算委員会で最初の質問に立った自民党議員福井照が庇う気持ちがあったのか、松本文明の名前を出さずに「同僚議員」という呼び方で沖縄県民の心に添わない発言だと批判、沖縄の基地移設の問題は最優先の課題であり、「沖縄の心に更に更に寄り添わなければならない、このことを全員の誓いにしたい」といった発言をしたあと、「先日の草津白根山で痛ましい事故でお亡くなりになりました方への心からの哀悼の意を表します。そして怪我をされた方々に御見舞を申し上げたいと思います」と述べた。
1月29日午後に質問に立った立憲民主党の長妻昭も同じ内容の発言をしている。
長妻昭「先ず、草津白根山で噴火によって亡くなられた自衛官に心からの哀悼の意を表します。被害に遭われた皆様に心から御見舞を申し上げます」
白根山噴火翌日の衆院代表質問でも立憲民主党代表の枝野幸男も希望の党代表の玉木雄一郎も同様の発言をしている。
枝野幸男「草津白根山の噴火によって、訓練中の自衛官の方が亡くなられました。心から哀悼の意を表します。また、被害にあわれた皆さんにお見舞い申し上げます。二次被害に十分注意しながら、万全の対応を政府にもお願いします」
玉木雄一郎「先ず冒頭、昨日発生した草津元白根山の噴火で被害に遭われた方々にお見舞い申し上げるとともに、今なお、深刻な状態にある方々の回復を祈ります。そして、訓練中、殉職された陸上自衛隊員に心からお悔やみを申し上げます」
安倍晋三は枝野幸男の代表質問に対する答弁では噴火について何も触れていなかったが、誰かに注意されたのか、玉木雄一郎に対する答弁では触れている。
安倍晋三「冒頭、本白根山の噴火により亡くなられた自衛官の方に心から哀悼の心を捧げると共に怪我をされた方々にお見舞いを申し上げます」
自然災害や人為的事故に遭遇して予期せずに死を結果とする限りに於いてこれだけの命惜しまれる手厚い扱いを受ける。そして自然災害そのものはその限りではないが、死を結果とした人為的事故の場合は与えた側は激しい批判を受けることになる。
国会で自衛官の事故死に哀悼の意を表したこれらの面々は松本文明と同様に死者を出すか出さないかの結果を事故の重大性・些末性のバロメーターとする類いなのだろうか。結果的に死者を出さなくても、事故の重大性を読み取らなければならない死者を出さなかった結果というものが存在することに鑑みて、何事もなかった結果の先にある可能性としてその存在を否定できない死を見つめることのできる心の持ち方で哀悼の意を表していたのだろうか。
昨年2017年12月13日、普天間所属の大型輸送ヘリコプターCH53が飛び立ったばかりの距離にある 沖縄県宜野湾市の普天間第二小学校の校庭に約90センチ四方のアルミ製の窓枠を落下させ、校庭で体育の授業を受けていた男児1人が落下時に撥ねた石が飛んできて手に軽い怪我をした。
日本政府は小学校上空の飛行を控えるよう、米軍側に求め、防衛省と在日アメリカ軍は普天間基地を発着する航空機について周辺にある学校上空の飛行を「最大限、可能な限り避ける」ことで合意した。
ところが、約1カ月後の2018年1月18日午後、米軍ヘリ3機が普天間第二小学校上空を飛行した。日本政府は直ちに抗議、防衛相の小野寺五典が「監視カメラの記録や監視員の目視で上空の飛行を確認している」としているのに対して米軍側は「小学校上空を飛行した事実はない。レーダーの航跡記録や操縦士への聞き取りから、学校上空は回避した」と回答。
沖縄防衛局が普天間第二小学校校舎の屋上と隣接の幼稚園に設置した監視カメラには小学校のほぼ真上を旋回しながら飛行する様子が撮っていたという。
米軍側はその後、面会した沖縄県議に航跡記録を提示したが、航跡記録の持ち帰りは拒否した。
日本側の監視カメラと監視員の目視が確認している上空飛行が事実で、アメリカ側のレーダーの航跡記録や操縦士への聞き取りによる上空回避が虚偽だとしたら、上記バロメーターに基づいて何事もなかった結果の先にある可能性としてその存在を否定できない死を見つめることのできない精神性を宿した小学校上空の飛行ということになる。
アメリカ側の上空回避の証言が事実だとしても、上空近辺を飛行した事実に変わりはなく、上空を一定の距離を持って回避しなかった飛行事実はやはり上記バロメーターに根ざした同じ精神性の飛行と見ない訳にはいかない。
この精神性をアメリカ海兵隊のロバート・ネラー総司令官も宿していることを2018年1月26日「琉球新報電子版」を読むと、十分に理解できる。
1月25日、ワシントンにある米シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)で講演。昨年度、機体の全損や死者が出るなどの事故の規模が最も重大な「クラスA」の航空機事故が12件発生、これらの大半が「機体の物理的な問題ではなかった」と述べ、訓練・整備不足や人為的ミスを示唆したという。
ロバート・ネラー「(昨年は)ひどい1年だった。海外(沖縄)で予防着陸があったが、率直に言って、予防着陸で良かったと思っている。負傷者もなく、機体を失うこともなかった」
米軍はエンジントラブル等で予定していない場所に緊急に着陸する不時着を予防着陸と呼称しているらしいが、「予防着陸で良かったと思っている」と言っていることは、死者を出さなかった結果だけを見て良しとしていることになる。
そのような思いが「負傷者もなく、機体を失うこともなかった」という発言に繋がっている。
この手の判断は「予防着陸」は死者を出さないことを確定的な前提としていることになる。していなかったなら、「予防着陸で良かったと思っている」といった発言は成り立たせ不可能となる。
当然、ロバート・ネラーにしても、上記バロメーターで事故を判断、何事もなかった結果の先にある可能性としてその存在を否定できない死を懸念することのできない精神性を宿した人物ということになる。
多くの人間がちょっとした事故で人1人を簡単に殺してしまう、それ程にも重大な凶器となり得るという認識で車を運転する。そして万が一事故を起こした場合、それが大した事故ではなくても、その先に人1人を死に至らしめる事故の可能性を否でも予想せざるを得なくなる。何事もなかった結果の先にある可能性としてその存在を否定できない死を見てしまうからである。
松本文明とロバート・ネラーは事故に対して持っている死者を出すか出さないかを判断基準とした精神性を奇しくも響き合わせた。
沖縄で米軍のヘリが不時着したり、ヘリから部品を落下させる事故が起き、対して日本政府が厳しく抗議したとしても、簡単に飛行再開を許可してしまう、米軍側も簡単に飛行を再開する日米それぞれの対応を見ていると、死者を出すか出さないかの結果のみを事故の重大性・些末性のバロメーターとする精神性に日米共に侵されていて、そのために死者を出さなくても、その先にある可能性としてその存在を否定できない死を恐れる慎重な姿勢を窺いたくても、些かも窺うことができない。
上記1月29日の衆院予算委午後の質疑で立憲民主党の川内博史が松本文明の発言について安倍晋三を質した。
川内博史「沖縄県、沖縄県民に対して大変な暴言・冒涜ではないかと思います。勿論、任命責任はご自覚になってるでしょうし、任命権者として辞表をお受け取りになられたんだと思いますが、私は松本内閣府副大臣のみならず、任命権者として沖縄県民に対して『大変申し訳ない発言であった』という謝罪を先ずすべきではないかというふうに考えますが、如何ですか」
安倍晋三「沖縄の方々の気持に寄り添いながら、基地負担の軽減に全力を尽くす。これが政府としての一貫した方針であります。そうした中で松本副大臣から先週金曜日、自らの発言によって沖縄県民並びに国民にご迷惑をかけたんで辞任したいという申し出がありましたので、辞表を受理することとしたわけであります。
政治家は発言に責任を持ち、有権者から信頼を得られるよう自ら襟を正すことは当然でございます。そして任命責任でございますが、任命責任は当然、内閣掃除大臣たる私にあるわけでございまして、今回の発言は国会議員としても、各党における国会議員としての活動における発言ではありますが、内閣の一員であり、沖縄の皆さん、国民の皆様に対して深くお詫びを申し上げたいと思います。
速やかに後任の大臣を任命し、内閣府の業務に遅滞を生じさせることがないよう、国政への責任を果たしていきたいと、このように思います。改めて深くお詫びを申し上げたいと思います」
川内博史は安倍晋三に対して松本を任命するとき、その人間性に気づかなかったのかとなぜ問い質さなかったのだろうか。「それで何人死んだんだ」は太々しい人間性の持ち主でなければ飛ばすことのできないヤジである。
安倍晋三が「沖縄の方々の気持に寄り添いながら」といくら言おうが、「沖縄の皆さん、国民の皆様に対して深くお詫びを申し上げたい」と言おうが、死者を出すか出さないかの結果のみを事故の重大性・些末性のバロメーターとする精神性に侵されているようなら、飛んでもないしっぺ返しを食うことになるだろう。
政府側や沖縄米軍にとってはしっぺ返しであっても、可能性としての命の犠牲は沖縄県民が負うことになる。