オリンピック・パラリンピックと被災地復興 (東京2020オリンピック競技大会公式ウェブサイト/公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会)
コンセプト:「つなげよう、スポーツの力で未来に」
スポーツには、「夢」、「希望」、「絆」を生み出す力があります。
2011年に発生した東日本大震災からの復興の過程においても、スポーツが子供たちを笑顔にする一助となってきました。
東京2020組織委員会は、世界最大のスポーツイベントであるオリンピック・パラリンピックを通じて、被災地の方々に寄り添いながら被災地の魅力をともに世界に向けて発信し、また、スポーツが人々に与える勇気や力をレガシーとして被災地に残し、未来につなげることを目指します。
また、東京2020大会が復興の後押しとなるよう、関係機関と連携して取組を進めながら、スポーツの力で被災地の方々の「心の復興」にも貢献できるようにアクションを展開します。
東京2020大会はかくこのように被災地復興に積極的に関わることを大きな目標としている。勿論、その復興たるやスポーツを通した精神面からの関与ということになる。政治も精神面からの復興への関与を推し進めてきた。東日本大震災発災3年後の記者会見で安倍晋三は「これからは、ハード面の復興のみならず、心の復興に一層力を入れていきます」と発言している。
「心の復興に一層力を入れていきます」の物言いはこれまでも「心の復興」に力を入れてきたが、今後は今まで以上に力を入れていくという意味を取る。本来なら少なくともハード面の復興と心の復興を同時進行させなければならないのだが、心の復興よりもハード面の復興を先行させてきた。
2020年9月25日の「復興推進会議」で菅義偉は「来年3月で、東日本大震災の発災から10年の節目を迎えます。これまでの取組により、復興は着実に進展している、その一方で、被災者の心のケアなどの問題も残されております。そして福島は、本格的な復興・再生が始まったところであります」と発言。この「心のケアなどの問題」とは、勿論、安倍晋三が言っているところの「心の復興」に当たる。
そしてこの半年後の2021年3月11日の「東日本大震災十周年追悼式」で菅義偉は[被災地では、被災者の心のケア等の課題が残っていることに加え、一昨年の台風19号、昨年来の新型コロナ感染症に続き、先般も大きな地震が発生するなど、様々な御苦労に見舞われています。特に、新型コロナ感染症により、地域の皆様の暮らしや産業・生業(なりわい)にも多大な影響が及んでいます」と発言、依然として「心のケアの問題」=「心の復興」が依然として課題として取り残されていることを告白している。本人としたら、告白などしていないと言うだろうが、告白そのものである。
そして東京2020大会でも競技を通して「東京2020大会が復興の後押しとなるよう」、と同時に「心の復興に貢献できるアクション」の展開を図っている。言って見れば、政治の力だけでは「心の復興」は成し遂げることができずにいた。当然、問題は大会競技を通して果たして「心の復興」の面で「復興の後押し」に貢献できるのかできないのかということになる。できなければ、看板倒れ、見せかけ倒れということになる。
なぜかくまでも政府にしても大会組織委員会にしても、発災から10年経っても、「心の復興」を全面に出さなければならないのか。勿論、「心の復興」が遅れているからなのだが、その本質的な原因は「ハード面の復興」自体に格差が生じているからである。「ハード面の復興」が被災者各人の生活の復興となって現れていたなら、つまり格差を免れることができていたなら、被災者は自ずと「心の復興」をも果たしていく。その逆の被災者が多い。つまり「ハード面の復興」の格差がそのまま「心の復興」の格差となっている。
だが、どちらの格差であっても、政府自らがそのことを口にすることができないから、格差是性の言い換えとなる「心の復興」を叫ばなければならなくなり、政府は東京2020大会にコンセプトの一つとして「被災地の復興」を掲げることになった。このコンセプトに従って大会組織委員会は「ハード面の復興」は政治の役目だから、「心の復興」のみを取り上げて、競技を通した「心の復興に貢献できるアクション」を掲げざるを得なくなったといったところなのだろう。
復興に格差が生じていることは、「2021年2月27日実施 東日本大震災10年・被災3県世論調査」(社会調査研究センター/2021.3.3)を見れば一目瞭然である。(一部抜粋)
「復興は順調に進んでいる」と「期待したより遅れている」は宮城県では半々で、岩手県では「期待したより遅れている」が「復興は順調に進んでいる」の1.7倍、福島県では1.8倍で、「期待したより遅れている」が半数か、半数以上を占めていて、復興の格差そのものを示すことになっている。格差が生じていなければ、「期待したより遅れている」は0に近い少数派となっていなければならない。「政府の予算の使い方」に対する評価も被災3県共に「適切だと思わない」が「適切だと思う」の1.6倍から1.7倍となっていて、格差が生じていること自体を示している。
このように復興に大きな格差が生じている状況下で東京2020大会がオリンピック・パラリンピックを通して「心の復興」に、いわば精神面で復興の格差を補う貢献を果たすについてのどのような具体的な手立てを念頭に置いているのかを見てみる。
先ず大会組織委員会が「東京2020オリンピック競技大会公式ウェブサイト」に挙げた復興に関わる目標を纏めてみる。
1 オリンピック・パラリンピックを通じて被災地の魅力をともに世界に向けて発信する。
2 スポーツが人々に与える勇気や力をレガシーとして被災地に残し、未来につなげることを目指す。
3 スポーツの力で被災地の方々の「心の復興」に貢献できるアクションを展開する。
以上を以って東京2020大会を復興の後押しとして活用する。
どのような具体的な手立てを考えているのか、2021年7月21日付「NHK NEWS WEB」記事から大会組織委員会会長橋本聖子の東京江東区メインプレスセンターでの記者会見の発言を覗いてみる。メインプレスセンターのサイトを覗いてみたが、誰の記者会見も載せてなかった。
橋本聖子「大人以上に感性がある子どもたちの将来の考え方の形成にとって重要だと思っているので、少しでも多くの人たちに見ていただきたかったという思いが正直ある。
新型コロナウイルスの対策に追われたこの1年も、東北の復興なくして大会の成功なしという思いで活動してきた。東北で最初の試合が行われた東京大会が“復興オリンピックだった”とのちのち思ってもらえるように組織委員会として努力してきたい」
言っていることが矛盾している。大会の成功は東北の復興があって初めて成し遂げることができるという思いで活動してきたという意味を取るが、現実には東北の復興は十分には成し遂げられていない。菅義偉も「東日本大震災十周年追悼式」で、「震災から10年が経ち、被災地の復興は着実に進展しております」
と言い、「復興の総仕上げの段階に入っています」との表現で復興が未完成であることを伝えている。その上、復興に格差が生じている。当然、このような不満足な復興状況では橋本聖子の発言からすると、大会は成功しないことになるが、東北が復興しようがしまいが、東京大会は粛々と進められていく。現実にも既に進められている。要するに「思いで活動してきた」という「思い」が鍵となる。「思い」なのだから、結果的に現実が伴わなくても止むを得ないと逃げることができる。
「東北の復興なくして大会の成功なしという思いで活動してきた」がいくら「思い」に過ぎなくても、現実を少しも反映していないのだから、危険な綺麗事に過ぎない。
大体が「復興オリンピック」と掲げること自体が僭越である。政治が満足な復興を成し遂げることができていないのに東京大会がどう成し遂げることができると言えるのだろう。だから、「思い」なのだと言い逃れるだろうが、論理的に合わないことを「思い」に過ぎなくても、口にするだけで危険なペテンとなる。
橋本聖子は無観客となったことについての残念な思いを特に子どもたちから観戦の機会を奪ったことに置いている。オリンピック観戦が「大人以上に感性がある子どもたちの将来の考え方の形成にとって重要」だとしている。確かにテレビ観戦するのと競技場で直に観戦するのとでは肌感覚として伝わってくる感動や臨場感に大違いがあるだろうし、これらが違えば、記憶の強弱や記憶の時間の長さも違いが出てくる。被災地で行われる宮城の女子サッカーは有観客で、福島のソフトボールと野球は無観客と決まっている。政府が五輪開催に向けて感染を極力抑えることができなかったツケなのだから、悔やむなら、政府の無策を悔やむべきだろう。
記事は橋本聖子が、〈この中で大会の理念である復興について、選手村で提供される料理に東北の食材が使われていることや、表彰式では被災地で育てた花を使ったブーケを贈ることなどを紹介しました。〉と解説しているが、これらのことで「オリンピック・パラリンピックを通じて被災地の魅力をともに世界に向けて発信する」一助とするということなのだろうが、オリンピック・パラリンピックという世界の一大イベントが持つスケールから見たら、チマチマし過ぎている。これらのことをしただけで、特に風評被害を未だ受けている福島の農水産物全体の売れ行きに良い影響を与えるだけの力を発揮できるのかは疑わしい。
また、被災地の全ての競技を有観客で行い、被災地の観客が勇気や力を与えられたとしても、レガシーとなるのは被災地のどこそこの競技場でどんな競技が行われた、競技者の成績、金メダルを取った、銀メダル取った、銅メダルで終えたといった業績であって、被災者自身が置かれている「ハード面の復興」に於いて生じている格差のうち、復興が進んでいる境遇に置かれているならまだしも、遅れている境遇に位置させられているとしたら、その遅れがそのまま「心の復興」の遅れとなって現れていることになり、競技によって与えられたレガシー、競技の業績に対する記憶など、一時的なものとなって、腹の足しにならないものとして打ち捨てられかねない。
要するに「ハード面の復興」の進展に応じて「心の復興」が進展している境遇に恵まれた被災者にとってはレガシーも業績も精神面の支えとなって役に立つかも知れないが、「ハード面の復興」の停滞がそのまま「心の復興」の停滞となって現れている境遇に置かれた被災者にとっては少しぐらいのレガシーにしても業績にしても精神面の足しにはならないのは目に見えている。スポーツの力を用いて「心の復興」に貢献すべくどのようなアクションを実践しようとも、そのアクション自体が「ハード面の復興」の格差に対しても、「心の復興」の格差に対しても無力だということである。
大体が政治自体が無力で、10年経過しても無力を引きずったままでいるのだから、いくらオリンピック・パラリンピックが世界の一大イベントだろうと、「復興」ということに関しては政治以上に無力なのは自然の成り行きというものであって、どれ程の復興の後押しができるというのだろう。
それでも「ハード面の復興」の格差に対応して現れている「心の復興」の格差をスポーツの持つ力を用いた何らかのアクションで埋めたいと願うなら、橋本聖子自身が「大人以上に感性がある子どもたちの将来の考え方の形成にとって重要だ」としている子どもたちのスポーツ観戦を、「ハード面の復興」の格差に対しても、「心の復興」の格差に対しても大人程には切実に受け止めるだけの生活の世界が広くない点を利用して観戦のみで終わらせずに被災地の子どもたちに限ってオリンピック・パラリンピックの競技が行われる被災地の競技場で五輪競技の一種目を行わせ、逆に被災地の大人たちに直接観戦であっても、テレビ観戦であっても、観戦させたなら、「ハード面の復興」の格差も、「心の復興」の格差も解消できなくても、子どもたちの活躍や成績が被災地の一つのレガシーとして子ども自身の記憶だけではなく、大人たちの記憶に残ることになったなら、格差を癒やす妙薬となる可能性は否定できない。
被災地の子どもたちがオリンピック競技場で何かの競技をプレーすることで将来的にオリンピックアスリートを目指すことになる可能性も否定できない。その子どもの親が自分ではなくても、被災地の子どもであることによって被災地の大人たちの誇りの一つとなったなら、「心の復興」の格差を癒やす役目をも果たす可能性も否定できない。
だが、被災者の子どもを主役に立てることは何一つしなかったし、子どもが脚光を浴びることによって被災者の大人たちに何らかの勇気や元気を与えるということもしなかった。もしこのようなことをしていたなら、「復興五輪」と名付ける資格は出てくる。
勿論、政治は「ハード面の復興」の格差を解消して、その解消を「心の復興」の格差の解消に繋げていく努力を果たしていかなければならない。この役目を担っているのはあくまでも政治であって、東京大会が担っているわけではない。だからこそ、「復興オリンピック」と掲げること自体が僭越そのものとなる。
今東京大会は「閉会式コンセプト」(ガジェット通信)として「多様性と包摂性」を謳っている。(一部抜粋)
〈“Worlds we share”
17日間の大会を経て、私たちはそれぞれに違う個性や文化、経歴を持つ人々が、スポーツを通して互いに高め合い、理解し合う姿を目にするでしょう。この経験こそが多様性と包摂性を考える糧となり、また、次に始まるパラリンピックへと繋がっていくと考えます。〉
「多様性」とは人種や性別の違い、身体状況の違い、年齢の違い等々の違いそれぞれを多様な個性と見ることを言い、「包摂性」はこれらの違いを全て包み込むことを言うと自己解釈している。そしてどちらの状況も、認め合いの意思の介在によって成り立つ構造となっている。
確かに競技を見ると、「多様性と包摂性」を窺うことができる。スポーツマンシップやフェアプレーの精神がそうさせるのだろう。だが、オリンピック競技ではないが、現実には白人アスリートが競技中に相手チームの有色人選手に対して差別発言を投げつける行為はなくならないし、日本人サッカー・サポーターがプレー中の有色人種に対して差別発言を浴びせる光景もなくならない。
このような差別発言は自チームが負けている、贔屓チームが負けている、相手チームの点を入れたのが有色人種であるといったことに対する怒りや憎悪が理性を失わせて発せられる。日本の柔道指導者が女子柔道選手たちにパワハラ行為を行ったのも、思い通りの成績や成長を見せていないことに対する怒りや憎悪が仕向けることになった感情の爆発であろう。戦争に於ける残虐行為も怒りや憎悪が理性を奪うことによって形を取る。スポーツの世界のことだけで片付けるわけにはいかない。
つまり「多様性と包摂性」はオリンピックという場にのみ存在するものであっては意味はなく、一般社会に於いて「多様性と包摂性」が当たり前の態度となっていて、その反映としてあるオリンピックという場での「多様性と包摂性」でなければ意味をなさない。果たして一般社会がおしなべて「多様性と包摂性」を当たり前の態度としているのだろうか。当たり前の態度としていたなら、LGBTの問題は起きないし、女性差別の問題も起きない。子どもに対する虐待も、女性に対する暴力も起きない。
“Worlds we share”とは「多様な世界の共有」を意味するそうだが、要するにオリンピックという場だけの、それも表面的なことに過ぎないかもしれない「多様な世界の共有」ということで、現実離れした「多様な世界の共有」に過ぎないことになる。
オリンピック開会式で橋本聖子がバッハと共に「スピーチ」(NHK NEWS WEB/2021年7月20日 19時22分)を行った。(一部抜粋)
橋本聖子「今、あれから10年が経ち、私たちは、復興しつつある日本の姿を、ここにお見せすることができます。改めて、全ての方々に感謝申し上げます。
あの時、社会においてスポーツとアスリートがいかに役割を果たすことができるかが問われました。そして、こんにち、世界中が困難に直面する中、再びスポーツの力、オリンピックの持つ意義が問われています。
世界の皆さん、日本の皆さん、世界中からアスリートが、五輪の旗の元に、オリンピックスタジアムに集いました。互いを認め、尊重し合い、ひとつになったこの景色は、多様性と調和が実現した未来の姿そのものです。
これこそが、スポーツが果たす力であり、オリンピックの持つ価値と本質であります。そしてこの景色は、平和を希求する私たちの理想の姿でもあります」
江東区メインプレスセンターでの記者会見では「東北の復興なくして大会の成功なしという思いで活動してきた」と言っていながら、ここでは「私たちは、復興しつつある日本の姿を、ここにお見せすることができます」に変わっている。前者は復興完了を前提とした大会開催を言い、後者は復興途次の状態での開催だとしている。一種のペテンでしかない。
後段で言っていることは当方が解説するまでもなく、五輪への集いが生み出す「スポーツが果たす力」によって「互いを認め、尊重し合い、ひとつになったこの景色は、多様性と調和が実現した未来の姿そのもの」だという意味を取る。つまり世界の未来は五輪への集いを通した「スポーツが果たす力」と「オリンピックの持つ価値と本質」によって「多様性と調和」の実現が約束されると高らかに謳っていることになる。
東京大会2020がオリンピックの出発点ではない。「Wikipedia」にオリンピック憲章は1914年に起草され、1925年に制定されたとある。100年近い歴史を誇っていることになる。現実世界を見回したとき、「オリンピックの持つ価値と本質」と「スポーツが果たす力」によって「互いを認め、尊重し合い、ひとつ」となる「多様性と調和」がどれ程に実現し得たと断言できるだろうか。社会の力が政治を動かしつつ、未完ながら、「多様性と調和」の実現を少しづつ闘い取ってきたのではないだろうか。だが、まだまだ闘い取れきれていない。決してオリンピックではない。パラリンピックが回を重ねるだけで、障害者が生きやすい社会が実現することはないだろう。子どもが通学路で自動車事故に遭い、死者が出てから通学路の安全が図られていくように障害者が電車のプラットホームから誤って落ちる事故が頻繁に起きるようになってから、ホームドアの設置が始まった。このような現実はオリンピックから遠い位置にある。
当然、「オリンピックの持つ価値と本質」と「スポーツが果たす力」が未来社会で「多様性と調和」を実現させ得る保証はどこにもない。戦争や不景気が生み出す生活困窮が人間を不寛容な生き物に変え、それまで築いてきた「多様性と調和」をたちまち後退させてしまうこともある。
橋本聖子のオリンピックに関する発言・認識は現実世界を反映していない綺麗事に過ぎない。物事を相対化できずにオリンピックを絶対善と取る橋本聖子の認識は危険な五輪賛歌以外の何ものでもない。今回のオリンピックを復興五輪と取る考え方にも五輪を至上価値とする五輪賛歌が覗いている。
コンセプト:「つなげよう、スポーツの力で未来に」
スポーツには、「夢」、「希望」、「絆」を生み出す力があります。
2011年に発生した東日本大震災からの復興の過程においても、スポーツが子供たちを笑顔にする一助となってきました。
東京2020組織委員会は、世界最大のスポーツイベントであるオリンピック・パラリンピックを通じて、被災地の方々に寄り添いながら被災地の魅力をともに世界に向けて発信し、また、スポーツが人々に与える勇気や力をレガシーとして被災地に残し、未来につなげることを目指します。
また、東京2020大会が復興の後押しとなるよう、関係機関と連携して取組を進めながら、スポーツの力で被災地の方々の「心の復興」にも貢献できるようにアクションを展開します。
東京2020大会はかくこのように被災地復興に積極的に関わることを大きな目標としている。勿論、その復興たるやスポーツを通した精神面からの関与ということになる。政治も精神面からの復興への関与を推し進めてきた。東日本大震災発災3年後の記者会見で安倍晋三は「これからは、ハード面の復興のみならず、心の復興に一層力を入れていきます」と発言している。
「心の復興に一層力を入れていきます」の物言いはこれまでも「心の復興」に力を入れてきたが、今後は今まで以上に力を入れていくという意味を取る。本来なら少なくともハード面の復興と心の復興を同時進行させなければならないのだが、心の復興よりもハード面の復興を先行させてきた。
2020年9月25日の「復興推進会議」で菅義偉は「来年3月で、東日本大震災の発災から10年の節目を迎えます。これまでの取組により、復興は着実に進展している、その一方で、被災者の心のケアなどの問題も残されております。そして福島は、本格的な復興・再生が始まったところであります」と発言。この「心のケアなどの問題」とは、勿論、安倍晋三が言っているところの「心の復興」に当たる。
そしてこの半年後の2021年3月11日の「東日本大震災十周年追悼式」で菅義偉は[被災地では、被災者の心のケア等の課題が残っていることに加え、一昨年の台風19号、昨年来の新型コロナ感染症に続き、先般も大きな地震が発生するなど、様々な御苦労に見舞われています。特に、新型コロナ感染症により、地域の皆様の暮らしや産業・生業(なりわい)にも多大な影響が及んでいます」と発言、依然として「心のケアの問題」=「心の復興」が依然として課題として取り残されていることを告白している。本人としたら、告白などしていないと言うだろうが、告白そのものである。
そして東京2020大会でも競技を通して「東京2020大会が復興の後押しとなるよう」、と同時に「心の復興に貢献できるアクション」の展開を図っている。言って見れば、政治の力だけでは「心の復興」は成し遂げることができずにいた。当然、問題は大会競技を通して果たして「心の復興」の面で「復興の後押し」に貢献できるのかできないのかということになる。できなければ、看板倒れ、見せかけ倒れということになる。
なぜかくまでも政府にしても大会組織委員会にしても、発災から10年経っても、「心の復興」を全面に出さなければならないのか。勿論、「心の復興」が遅れているからなのだが、その本質的な原因は「ハード面の復興」自体に格差が生じているからである。「ハード面の復興」が被災者各人の生活の復興となって現れていたなら、つまり格差を免れることができていたなら、被災者は自ずと「心の復興」をも果たしていく。その逆の被災者が多い。つまり「ハード面の復興」の格差がそのまま「心の復興」の格差となっている。
だが、どちらの格差であっても、政府自らがそのことを口にすることができないから、格差是性の言い換えとなる「心の復興」を叫ばなければならなくなり、政府は東京2020大会にコンセプトの一つとして「被災地の復興」を掲げることになった。このコンセプトに従って大会組織委員会は「ハード面の復興」は政治の役目だから、「心の復興」のみを取り上げて、競技を通した「心の復興に貢献できるアクション」を掲げざるを得なくなったといったところなのだろう。
復興に格差が生じていることは、「2021年2月27日実施 東日本大震災10年・被災3県世論調査」(社会調査研究センター/2021.3.3)を見れば一目瞭然である。(一部抜粋)
「復興は順調に進んでいる」と「期待したより遅れている」は宮城県では半々で、岩手県では「期待したより遅れている」が「復興は順調に進んでいる」の1.7倍、福島県では1.8倍で、「期待したより遅れている」が半数か、半数以上を占めていて、復興の格差そのものを示すことになっている。格差が生じていなければ、「期待したより遅れている」は0に近い少数派となっていなければならない。「政府の予算の使い方」に対する評価も被災3県共に「適切だと思わない」が「適切だと思う」の1.6倍から1.7倍となっていて、格差が生じていること自体を示している。
このように復興に大きな格差が生じている状況下で東京2020大会がオリンピック・パラリンピックを通して「心の復興」に、いわば精神面で復興の格差を補う貢献を果たすについてのどのような具体的な手立てを念頭に置いているのかを見てみる。
先ず大会組織委員会が「東京2020オリンピック競技大会公式ウェブサイト」に挙げた復興に関わる目標を纏めてみる。
1 オリンピック・パラリンピックを通じて被災地の魅力をともに世界に向けて発信する。
2 スポーツが人々に与える勇気や力をレガシーとして被災地に残し、未来につなげることを目指す。
3 スポーツの力で被災地の方々の「心の復興」に貢献できるアクションを展開する。
以上を以って東京2020大会を復興の後押しとして活用する。
どのような具体的な手立てを考えているのか、2021年7月21日付「NHK NEWS WEB」記事から大会組織委員会会長橋本聖子の東京江東区メインプレスセンターでの記者会見の発言を覗いてみる。メインプレスセンターのサイトを覗いてみたが、誰の記者会見も載せてなかった。
橋本聖子「大人以上に感性がある子どもたちの将来の考え方の形成にとって重要だと思っているので、少しでも多くの人たちに見ていただきたかったという思いが正直ある。
新型コロナウイルスの対策に追われたこの1年も、東北の復興なくして大会の成功なしという思いで活動してきた。東北で最初の試合が行われた東京大会が“復興オリンピックだった”とのちのち思ってもらえるように組織委員会として努力してきたい」
言っていることが矛盾している。大会の成功は東北の復興があって初めて成し遂げることができるという思いで活動してきたという意味を取るが、現実には東北の復興は十分には成し遂げられていない。菅義偉も「東日本大震災十周年追悼式」で、「震災から10年が経ち、被災地の復興は着実に進展しております」
と言い、「復興の総仕上げの段階に入っています」との表現で復興が未完成であることを伝えている。その上、復興に格差が生じている。当然、このような不満足な復興状況では橋本聖子の発言からすると、大会は成功しないことになるが、東北が復興しようがしまいが、東京大会は粛々と進められていく。現実にも既に進められている。要するに「思いで活動してきた」という「思い」が鍵となる。「思い」なのだから、結果的に現実が伴わなくても止むを得ないと逃げることができる。
「東北の復興なくして大会の成功なしという思いで活動してきた」がいくら「思い」に過ぎなくても、現実を少しも反映していないのだから、危険な綺麗事に過ぎない。
大体が「復興オリンピック」と掲げること自体が僭越である。政治が満足な復興を成し遂げることができていないのに東京大会がどう成し遂げることができると言えるのだろう。だから、「思い」なのだと言い逃れるだろうが、論理的に合わないことを「思い」に過ぎなくても、口にするだけで危険なペテンとなる。
橋本聖子は無観客となったことについての残念な思いを特に子どもたちから観戦の機会を奪ったことに置いている。オリンピック観戦が「大人以上に感性がある子どもたちの将来の考え方の形成にとって重要」だとしている。確かにテレビ観戦するのと競技場で直に観戦するのとでは肌感覚として伝わってくる感動や臨場感に大違いがあるだろうし、これらが違えば、記憶の強弱や記憶の時間の長さも違いが出てくる。被災地で行われる宮城の女子サッカーは有観客で、福島のソフトボールと野球は無観客と決まっている。政府が五輪開催に向けて感染を極力抑えることができなかったツケなのだから、悔やむなら、政府の無策を悔やむべきだろう。
記事は橋本聖子が、〈この中で大会の理念である復興について、選手村で提供される料理に東北の食材が使われていることや、表彰式では被災地で育てた花を使ったブーケを贈ることなどを紹介しました。〉と解説しているが、これらのことで「オリンピック・パラリンピックを通じて被災地の魅力をともに世界に向けて発信する」一助とするということなのだろうが、オリンピック・パラリンピックという世界の一大イベントが持つスケールから見たら、チマチマし過ぎている。これらのことをしただけで、特に風評被害を未だ受けている福島の農水産物全体の売れ行きに良い影響を与えるだけの力を発揮できるのかは疑わしい。
また、被災地の全ての競技を有観客で行い、被災地の観客が勇気や力を与えられたとしても、レガシーとなるのは被災地のどこそこの競技場でどんな競技が行われた、競技者の成績、金メダルを取った、銀メダル取った、銅メダルで終えたといった業績であって、被災者自身が置かれている「ハード面の復興」に於いて生じている格差のうち、復興が進んでいる境遇に置かれているならまだしも、遅れている境遇に位置させられているとしたら、その遅れがそのまま「心の復興」の遅れとなって現れていることになり、競技によって与えられたレガシー、競技の業績に対する記憶など、一時的なものとなって、腹の足しにならないものとして打ち捨てられかねない。
要するに「ハード面の復興」の進展に応じて「心の復興」が進展している境遇に恵まれた被災者にとってはレガシーも業績も精神面の支えとなって役に立つかも知れないが、「ハード面の復興」の停滞がそのまま「心の復興」の停滞となって現れている境遇に置かれた被災者にとっては少しぐらいのレガシーにしても業績にしても精神面の足しにはならないのは目に見えている。スポーツの力を用いて「心の復興」に貢献すべくどのようなアクションを実践しようとも、そのアクション自体が「ハード面の復興」の格差に対しても、「心の復興」の格差に対しても無力だということである。
大体が政治自体が無力で、10年経過しても無力を引きずったままでいるのだから、いくらオリンピック・パラリンピックが世界の一大イベントだろうと、「復興」ということに関しては政治以上に無力なのは自然の成り行きというものであって、どれ程の復興の後押しができるというのだろう。
それでも「ハード面の復興」の格差に対応して現れている「心の復興」の格差をスポーツの持つ力を用いた何らかのアクションで埋めたいと願うなら、橋本聖子自身が「大人以上に感性がある子どもたちの将来の考え方の形成にとって重要だ」としている子どもたちのスポーツ観戦を、「ハード面の復興」の格差に対しても、「心の復興」の格差に対しても大人程には切実に受け止めるだけの生活の世界が広くない点を利用して観戦のみで終わらせずに被災地の子どもたちに限ってオリンピック・パラリンピックの競技が行われる被災地の競技場で五輪競技の一種目を行わせ、逆に被災地の大人たちに直接観戦であっても、テレビ観戦であっても、観戦させたなら、「ハード面の復興」の格差も、「心の復興」の格差も解消できなくても、子どもたちの活躍や成績が被災地の一つのレガシーとして子ども自身の記憶だけではなく、大人たちの記憶に残ることになったなら、格差を癒やす妙薬となる可能性は否定できない。
被災地の子どもたちがオリンピック競技場で何かの競技をプレーすることで将来的にオリンピックアスリートを目指すことになる可能性も否定できない。その子どもの親が自分ではなくても、被災地の子どもであることによって被災地の大人たちの誇りの一つとなったなら、「心の復興」の格差を癒やす役目をも果たす可能性も否定できない。
だが、被災者の子どもを主役に立てることは何一つしなかったし、子どもが脚光を浴びることによって被災者の大人たちに何らかの勇気や元気を与えるということもしなかった。もしこのようなことをしていたなら、「復興五輪」と名付ける資格は出てくる。
勿論、政治は「ハード面の復興」の格差を解消して、その解消を「心の復興」の格差の解消に繋げていく努力を果たしていかなければならない。この役目を担っているのはあくまでも政治であって、東京大会が担っているわけではない。だからこそ、「復興オリンピック」と掲げること自体が僭越そのものとなる。
今東京大会は「閉会式コンセプト」(ガジェット通信)として「多様性と包摂性」を謳っている。(一部抜粋)
〈“Worlds we share”
17日間の大会を経て、私たちはそれぞれに違う個性や文化、経歴を持つ人々が、スポーツを通して互いに高め合い、理解し合う姿を目にするでしょう。この経験こそが多様性と包摂性を考える糧となり、また、次に始まるパラリンピックへと繋がっていくと考えます。〉
「多様性」とは人種や性別の違い、身体状況の違い、年齢の違い等々の違いそれぞれを多様な個性と見ることを言い、「包摂性」はこれらの違いを全て包み込むことを言うと自己解釈している。そしてどちらの状況も、認め合いの意思の介在によって成り立つ構造となっている。
確かに競技を見ると、「多様性と包摂性」を窺うことができる。スポーツマンシップやフェアプレーの精神がそうさせるのだろう。だが、オリンピック競技ではないが、現実には白人アスリートが競技中に相手チームの有色人選手に対して差別発言を投げつける行為はなくならないし、日本人サッカー・サポーターがプレー中の有色人種に対して差別発言を浴びせる光景もなくならない。
このような差別発言は自チームが負けている、贔屓チームが負けている、相手チームの点を入れたのが有色人種であるといったことに対する怒りや憎悪が理性を失わせて発せられる。日本の柔道指導者が女子柔道選手たちにパワハラ行為を行ったのも、思い通りの成績や成長を見せていないことに対する怒りや憎悪が仕向けることになった感情の爆発であろう。戦争に於ける残虐行為も怒りや憎悪が理性を奪うことによって形を取る。スポーツの世界のことだけで片付けるわけにはいかない。
つまり「多様性と包摂性」はオリンピックという場にのみ存在するものであっては意味はなく、一般社会に於いて「多様性と包摂性」が当たり前の態度となっていて、その反映としてあるオリンピックという場での「多様性と包摂性」でなければ意味をなさない。果たして一般社会がおしなべて「多様性と包摂性」を当たり前の態度としているのだろうか。当たり前の態度としていたなら、LGBTの問題は起きないし、女性差別の問題も起きない。子どもに対する虐待も、女性に対する暴力も起きない。
“Worlds we share”とは「多様な世界の共有」を意味するそうだが、要するにオリンピックという場だけの、それも表面的なことに過ぎないかもしれない「多様な世界の共有」ということで、現実離れした「多様な世界の共有」に過ぎないことになる。
オリンピック開会式で橋本聖子がバッハと共に「スピーチ」(NHK NEWS WEB/2021年7月20日 19時22分)を行った。(一部抜粋)
橋本聖子「今、あれから10年が経ち、私たちは、復興しつつある日本の姿を、ここにお見せすることができます。改めて、全ての方々に感謝申し上げます。
あの時、社会においてスポーツとアスリートがいかに役割を果たすことができるかが問われました。そして、こんにち、世界中が困難に直面する中、再びスポーツの力、オリンピックの持つ意義が問われています。
世界の皆さん、日本の皆さん、世界中からアスリートが、五輪の旗の元に、オリンピックスタジアムに集いました。互いを認め、尊重し合い、ひとつになったこの景色は、多様性と調和が実現した未来の姿そのものです。
これこそが、スポーツが果たす力であり、オリンピックの持つ価値と本質であります。そしてこの景色は、平和を希求する私たちの理想の姿でもあります」
江東区メインプレスセンターでの記者会見では「東北の復興なくして大会の成功なしという思いで活動してきた」と言っていながら、ここでは「私たちは、復興しつつある日本の姿を、ここにお見せすることができます」に変わっている。前者は復興完了を前提とした大会開催を言い、後者は復興途次の状態での開催だとしている。一種のペテンでしかない。
後段で言っていることは当方が解説するまでもなく、五輪への集いが生み出す「スポーツが果たす力」によって「互いを認め、尊重し合い、ひとつになったこの景色は、多様性と調和が実現した未来の姿そのもの」だという意味を取る。つまり世界の未来は五輪への集いを通した「スポーツが果たす力」と「オリンピックの持つ価値と本質」によって「多様性と調和」の実現が約束されると高らかに謳っていることになる。
東京大会2020がオリンピックの出発点ではない。「Wikipedia」にオリンピック憲章は1914年に起草され、1925年に制定されたとある。100年近い歴史を誇っていることになる。現実世界を見回したとき、「オリンピックの持つ価値と本質」と「スポーツが果たす力」によって「互いを認め、尊重し合い、ひとつ」となる「多様性と調和」がどれ程に実現し得たと断言できるだろうか。社会の力が政治を動かしつつ、未完ながら、「多様性と調和」の実現を少しづつ闘い取ってきたのではないだろうか。だが、まだまだ闘い取れきれていない。決してオリンピックではない。パラリンピックが回を重ねるだけで、障害者が生きやすい社会が実現することはないだろう。子どもが通学路で自動車事故に遭い、死者が出てから通学路の安全が図られていくように障害者が電車のプラットホームから誤って落ちる事故が頻繁に起きるようになってから、ホームドアの設置が始まった。このような現実はオリンピックから遠い位置にある。
当然、「オリンピックの持つ価値と本質」と「スポーツが果たす力」が未来社会で「多様性と調和」を実現させ得る保証はどこにもない。戦争や不景気が生み出す生活困窮が人間を不寛容な生き物に変え、それまで築いてきた「多様性と調和」をたちまち後退させてしまうこともある。
橋本聖子のオリンピックに関する発言・認識は現実世界を反映していない綺麗事に過ぎない。物事を相対化できずにオリンピックを絶対善と取る橋本聖子の認識は危険な五輪賛歌以外の何ものでもない。今回のオリンピックを復興五輪と取る考え方にも五輪を至上価値とする五輪賛歌が覗いている。