安倍政権が予想できなかった韓国「GSOMIA」破棄 徴用工問題と「ホワイト国」除外に対する予想外の韓国側拒絶反応の読みの誤り

2019-08-26 11:08:48 | 政治
【謝罪】〈当ブログの中で取り上げた「聯合ニュース」とした記事は発信元が「ソウル聯合ニュース」で、朝鮮日報の紹介記事でしたので、リンク先を「朝鮮日報」に訂正しました。(2019年8月27日 3時32分)〉

 2018年10月30日、韓国大法院は新日鉄住金(旧新日本製鉄)の上告を棄却し、韓国人元徴用工に対する損害賠償請求を認める判決を下した。続いて2018年11月29日に同じく韓国大法院は第2次世界大戦中に広島と名古屋の三菱重工業の軍需工場で働かされた韓国人の元徴用工や元女子勤労挺身隊員らが同社に損害賠償を求めた2件の訴訟の上告審で三菱重工業側の上告を棄却し、原告10人(うち5人が死亡)にそれぞれ8千万~1億5千万ウォン(約800万~1500万円)の損害賠償を認める判決が下した。

 日本側は1965年の「日韓請求権協定」で個人補償も含めて全て解決済みとの態度を取り、韓国政府が損害賠償すべきであり、「日韓請求権協定」で取り決めた国と国との国際的な約束を守るよう迫った。

 但し韓国政府は三権分立を楯に司法不介入の立場を取り、韓国大法院は日本政府の全て解決済みの主張を認める一方で、損害賠償請求の正当性を次のように判決文で述べている。

 「新日鉄住金徴用工事件再上告審判決」(韓国大法院/2018年10月30日判決)
  
 〈まず、本件で問題となる原告らの損害賠償請求権は日本政府の韓半島に対する不法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権(以下「強制動員慰謝料請求権」という)であるという点を明確にしておかなければならない。原告らは被告に対して未払賃金や補償金を請求しているのではなく、上記のような慰謝料を請求しているのである。〉――

 つまり1965年の「日韓請求権協定」で個人補償に関わる全面解決は「未払賃金や補償金」に関してであり、苦しめられたり、辛い思いをさせられたり、辱められたりしたことに対する慰謝料までは含まれていないとの主張である。

 戦前を引き継いで戦後も日本人による朝鮮人差別は過酷なものがあったが、戦時中の朝鮮人は人間として扱われなかった。一度ブログで取り上げた2011年2月27日放送のNHK「証言記録 市民たちの戦争『“朝鮮人軍夫”の沖縄戦』」に出演した元朝鮮人軍夫の証言を引用してみる。

 戦争末期、沖縄戦に備えて沖縄に大量の兵力・武器・弾薬・爆弾を送り込んだ際、船から荷揚げして背負って基地まで運ぶ運搬と壕掘りの過酷な労働に従事させるための軍夫を朝鮮半島から募集、中には強制連行した。過酷な重労働に従事させられながら、食事は満足に与えられなかった。

 当時阿嘉島青年団員の垣花武一さんの証言「我々が銀飯(ぎんめし)を食うとき、あの人たち(朝鮮人軍夫)はおかゆ。我々がおかゆに変わるときは、あの人たちは雑炊とか粗末な食事。量も半分くらい。だから、あれですよ。あの壕掘りとか重労働に耐えられなかったと思うんですよ。そういう食料で」

 空腹に耐えかねて、近所の田の稲や畑の芋をこっそりと食べて飢えを凌いだ。ポケットの稲が軍人に見つかって、13人が手を縛られ、銃殺された。情け容赦なく取り扱われた。

 韓国大法院の1965年「日韓請求権協定」に関係しない慰謝料請求の正当性に対して日本政府は全面解決済みを譲らず、「日韓請求権協定」締結の国と国との約束を守れの一点張りで押し通している。

 日韓関係の悪化はご承知のようにこの徴用工問題に端を発している。そして安倍政権は2019年7月4日、韓国を対象に半導体材料の輸出管理を強化する措置を発動。徴用工問題で日本側が望む満足な対応で応じない韓国に対する報復と韓国側は解釈したが、日本側は否定。あくまでも輸出管理上の問題だとした。

 但し7月4日のこの措置発動に関わる合理的な根拠は3日後の2019年7月7日の安倍晋三のフジテレビ番組発言からは全然見えてこない。

 安倍晋三「韓国はちゃんと(対北朝鮮経済)制裁を守っている、ちゃんと貿易管理をしていると言っているが、徴用工問題で国際約束を守らないことが明確になった。貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ。

 (輸出管理規制強化は)徴用工問題の対抗措置ではない。彼ら(韓国)が言っていることが信頼できないのでこの措置を打った」(産経ニュース

 「徴用工問題で国際約束を守らないのだから、貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ」と、合理的な根拠の提示とは遥かに程遠く、一つの罪を以って推測で次の罪まで被せる濡れ衣紛いの発言となっている。

 安倍政権は半導体材料の輸出管理強化措置だけでは終わらなかった。2019年7月末から韓国を輸出管理の優遇対象国「ホワイト国」から除外する動きに出た。対して韓国側は安全保障上の機密情報共有を可能にする軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を示唆、除外阻止を図ったが2019年8月2日の閣議で「ホワイト国」からの韓国除外を正式に決定した。

 2019年7月7日の安倍晋三のテレビ番組発言からすると、「徴用工問題で国際約束を守らないのだから、貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ」の濡れ衣を「ホワイト国」除外にまで広げたと解釈できないこともない。

 いずれにしても、2019年7月末時点で「GSOMIA」破棄の可能性を読んでおかなければならなかった。

 「GSOMIA」は2016年締結、1年ごとの延長だが、日韓いずれかが毎年8月24日までに通告すれば終結できることになっていたという。締結以前は北朝鮮に関わる軍事情報は韓国と米国が、米国と日本がそれぞれ共有して、日本の情報は米国を仲介して日本の了解のもと韓国が、韓国の情報は韓国の了解のもと日本が入手する手続きになっていたという。

 韓国側の「GSOMIA」破棄の動きに対する官房長官菅義偉の午前記者会見発言(NHK NEWS WEB/2019年7月29日 12時04分)

 菅義偉「協定は両国の安全保障分野での協力と連携を強化し、地域の平和と安定に寄与するとの認識のもとに、締結以来、毎年、自動延長してきている。政府としては日韓関係が現在、非常に厳しい状況にあるものの、連携すべき課題はしっかり連携していくことが重要だと考えており、適切に対応していきたい」

 「GSOMIA」の重要性、必要性の発言となっている。つまり自動延長が望ましいとしている。当然、韓国側が「GSOMIA」の延長に関してどのような動きに出るか情報収集に出ただろうし、破棄の動きを察知したなら、それを阻止しなければならない。

 対して韓国政府は2019年8月22日、「GSOMIA」を延長せずに破棄することを決めたと発表、日本の長嶺駐韓大使が翌8月23日に韓国外務省に呼び出されて、協定破棄を通告する文書を受け取り、3ヶ月後の2019年11月22日に効力を失うことになった。

 翌日の2019年8月24日朝、北朝鮮は2発の弾道ミサイルを日本海に向けて発射。「GSOMIA」は11月21日まで生きていることから、日本と韓国は今回の北朝鮮の弾道ミサイル発射に対して補完的な情報交換を行ったということだが、その一方で「GSOMIA」破棄が日本の情報収集等に影響することはないという態度を取っている。

 補完的な情報交換とは言葉通り、それぞれ異なる情報の交換によって補完し合うということになる。具体的にはどいうことなのか、2019年8月22日付「NHK NEWS WEB」記事が防衛省情報本部長を務めた太田文雄氏の話として紹介している。

 〈北朝鮮が弾道ミサイルを発射した場合、地理的に近い韓国軍は地上に配備されたレーダーによってミサイルの発射地点など発射時の情報について日本よりも多く収集できる。
 一方、北朝鮮は弾道ミサイルを日本海に向けて発射するケースが多く、地理的に近い日本の自衛隊がイージス艦などで落下地点などの情報を正確に把握でき、ミサイルの着弾時の情報は日本の方が多く収集できる。「GSOMIA」を元に韓国が収集したミサイルの発射時の情報と日本が収集したミサイルの着弾時の情報を共有できれば、ミサイルの射程や軌道についてより正確な情報を得られる。〉
 2019年8月23日夜のBS番組。

 外務副大臣佐藤正久「協定破棄で困るのは韓国だ。韓国側の対応を冷静に見るのが我々の立場だ」(Yomiuri Online

 この発言は「GSOMIA」破棄の日本の情報収集等への無影響説で成り立っている。だが、日韓が情報を補完し合うことでより満足な情報となる体裁を取る以上、一方の情報を欠いた場合、情報のより満足な体裁を失うことになる。日本側は2019年11月22日以降、ミサイルの発射時の韓国側の情報を米国を通して入手することになるが、入手については韓国側の了承を必要とするということだから、情報の迅速性を幾分か欠く恐れが出来しない保証はない。

 つまり、情報を補完し合う必要性は明確に存在していた。破棄に関わるアメリカ側の懸念、あるいは失望を見れば、そのことを証明してくれる。存在しなければ、「GSOMIA」を締結する必要性はないし、安倍晋三のことだから、「徴用工問題で国際約束を守らないのだから、貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ」の論理で日本側から「GSOMIA」破棄を打って出て、韓国悪者説の濡れ衣をさらに広げた可能性は無きにしもあらずである。

 韓国側の「GSOMIA」破棄の理由を2019年8月22日付け「朝鮮日報」記事が伝えている。

 金有根(キム・ユグン)国家安保室第1次長(8月22日記者会見)「GSOMIAを終了することを決めた。協定の根拠に基づき、延長通知期限内に外交ルートを通じ、日本政府にこれを通知する。

 日本政府が2日に明確な根拠を示さず、韓日間の信頼喪失で安全保障上の問題が発生したとの理由から『ホワイト国(優遇対象国)』から韓国を除外し、両国間の安全保障協力の環境に重大な変化をもたらした」

 その上で、〈こうした状況で安全保障上の敏感な軍事情報交流を目的に締結した協定を維持することは韓国の国益に合致しないと判断したと述べた。〉という。

 安全保障関連の全体会議関係者「政府は強制徴用被害者に対する日本企業の賠償責任を認めた大法院(最高裁)の判決を三権分立の原則の下で尊重すると同時に、韓日関係を踏まえ、韓日首脳会談の提案や2度の特使派遣を含め日本政府に解決策を提示して努力したが、日本は応じず、(文大統領が対話を呼びかけた)光復節(日本による植民地支配からの解放記念日)の演説にも公式な反応を示さなかった」

 要するに日本側の韓国に対する徴用工問題解決要求と「ホワイト国」除外が予想外の拒絶反応を韓国に与え、それが「GSOMIA」破棄へと発展した。安倍政権は韓国側のその拒絶反応の程度を読み誤ち、その結果、「GSOMIA」の自動延長を望みながら、その破棄を予想することができなかった。

 安倍政権の情報収集能力とはその程度ということなのだろう。 
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2019・8・17 NHKSP〈昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁記」~〉は天皇制が国民統治装置であることを改めて教える

2019-08-19 11:01:46 | 政治
 2019年8月17日放送NHKスペシャル〈昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁記」~〉を文字化してみた。旧仮名遣いを現仮名遣いに、漢語を使った副詞等は現代語に変えた。昭和天皇は俳優の片岡孝太郎が演じ、初代宮内庁長官田島道治は俳優の橋爪功が演じている。

 『拝謁記』記載の昭和天皇の言葉に対する俳優の片岡孝太郎演じる天皇の発言シーンは主語を「片岡・昭和天皇言葉」で、同じく『拝謁記』記載の初代宮内庁長官田島道治の言葉に対する俳優の橋爪功演じる発言シーンは主語を「橋爪・田島道治言葉」で表した。

 最初に大日本帝国憲法第1章「天皇」の主だった条文を記載し、最後に大したことのない自分なりの解釈を紹介したいと思う。

 第1章 天皇
 第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(兵士の人数)ヲ定ム

 要するに天皇は憲法上は軍を掌握した絶対的主権者に位置づけられていた。

 〈昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁記」~〉

 語り・広瀬修子(元NHKのアナウンサー)

 語り・広瀬修子「終戦の翌年から全国各地へ巡幸を始めた昭和天皇。人間宣言を行い、新しい憲法で国民統合の象徴とされ――」

 映像 昭和天皇に子どもを混じえた大勢の国民が歓声を上げ、バンザイする中で。

 昭和天皇「戦災にもあったんだろう?」

 国民・男性「いえ、戦災にはあいません」

 国民・女性「勿論です」

 昭和天皇「新日本建設の歩みにお互いに努力してみたいね」

 国民「はい」
 
 語り・広瀬修子「巡行する昭和天皇の後ろに常に付き従う人物がいた。初代宮内庁長官田島道治である。占領の時代、象徴となった天皇を支え続けた(田島道治の顔映像)。その田島道治が遺した貴重な記録が見つかった。

 『拝謁記』。5年近く、600回を超えた昭和天皇への拝謁。その記録から明らかになったのは敗戦の道義上の責任を感じていた昭和天皇の告白。

 片岡・昭和天皇言葉「私は反省というのは、私にも沢山あると言えばある」

 語り・広瀬修子「手帳6冊、ノート12冊に及ぶ『拝謁記』。4人の研究者が読み解いた。

 研究者「こんだけの量を。しかもびっしりと」

 研究者「天皇も感情を持った生身の人間だったことがよく伝わってくる。なかなか衝撃的な――」

 研究者「やっぱり一字一句、天皇の言葉をちゃんと記録しておこっていう、この気持ちがやっぱり表れているんだろうなと思います。

 ちょうど天皇のあり方が大きく変わる時期なので、憲法ができて、大事な変わり目のところの天皇の肉声が分かったっていう意味で大変に貴重な資料だと思いますねえ」

 語り・広瀬修子「敗戦の責任を感じていた昭和天皇、戦争について国民の前で話したいと強く希望していた。日本の独立回復を祝う式典(1952年(昭和27年)5月3日)でのお言葉である。

 『拝謁記』には田島との遣り取りが対話形式で記されている。番組では一字一句、忠実に再現していく。

 昭和天皇は戦争責任について、カモフラージュ、曖昧にするか。実情を話すか、初めに問いかけた」

 片岡・昭和天皇言葉「私の責任のことだが、従来のようにカモフラージュで行くか、ちゃんと実情を話すかの問題があると思う」

 橋爪・田島道治言葉「その点、今日からよく研究致します」

 語り・広瀬修子「多くの犠牲者を出した太平洋戦争。天皇は反省に拘り続けた」

 片岡・昭和天皇言葉「私はどうしても反省という字を、どうしても入れねばと思う」

 語り・広瀬修子「ところが、総理大臣の吉田茂は戦争に言及した文言の削除を求めてきた」

 原稿用紙の上白部に「吉田首相削除説」の手書きの文字と、その横に「吉田首相削除説」の活字文字を並べた映像。

 橋爪・田島道治言葉「総理の考えと致しましては、戦争とか敗戦とかいう事は生々しい事は避けたいという意味であります」

 片岡・昭和天皇言葉「しかし戦争のことを言わないで反省のことはどうつなぐか」

 語り・広瀬修子「初公開、初代宮内庁長官の『拝謁記』。昭和天皇のどのような実像が浮かび上がってきたのか」

 〈昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁(はいえつ)記」~〉のキャプション。

 語り・広瀬修子「その象徴となった天皇と、その出発点を見つめていく。

 田島道治の遺族のもとで極秘に保管されてきた『拝謁記』。孫の田島圭介さん」

 自宅でか、ノートをめくる田島圭介氏の映像。

 語り・広瀬修子「戦後間もない時期、祖父道治と同じ家で過ごした。この『拝謁記』が奇跡的に残されたイキサツがあると言う」

 田島圭介「祖父が晩年、結構入退院を繰り返してたんですけれども、入院するときに何か、自分、身辺整理ということで、『拝謁記』を焼こうとした。叔父がそれを止めたんです。

 『決して悪いようには取り扱わないから、焼かないで取り残しなさい』ということを叔父は祖父を説得して、で、辛うじて焼却は免れたと」

 語り・広瀬修子「叔父が亡くなる。時代も昭和から平成、令和へと変わる中で、この資料を公開することにしたという。

 (皇居正面の映像)田島道治は宮内庁の前身、宮内府の長官に就任したのは1948年6月(1948(昭和23年)6月5日のキャプション)、終戦から3年。占領下、宮中の改革が求められていた。

 ときの総理大臣芦田均は白羽の矢を立てたのが田島道治だった。初めての民間からの登用だった。田島は当時62歳。戦前、金融恐慌後の銀行の建て直しに尽力。その再建の手腕を買われたのである。

 当時、外部からの長官登用に難色を示したと言われる昭和天皇。しかし『拝謁記』には皇室と国民との関係を良くしようと理解を示していく姿が記されている」

 片岡・昭和天皇言葉「皇室と国民との関係というものを時勢に合うようにして、もっとよくしていかなければと思う。私も微力ながらやるつもりだ。長官も私のことで気づいたら言ってくれ」

 橋爪・田島道治言葉「勿体ない仰せで恐れ入ります」

 語り・広瀬修子「田島は新憲法の理念に添うように側近らの意識改革を図り、宮中の合理化を推し進めていった。

 当時田島が直面したのは昭和天皇の戦争責任の問題だった。大日本帝国憲法では天皇は軍を統帥し、統治権の全てを握っていた。日本政府は天皇は無答責、国内法上は法的責任がなかったとした。しかし敗戦の道義的責任を問う、退位を求める声が上がった。

 東大総長南原繁は次のように述べた。『陛下に政治上・法律上の責任はないが、道徳的な責任がある』。日本の戦争指導者を裁く東京裁判(極東国際軍事裁判)。判決が近づくと、退位を主張する論説がメディアでさらに広がっていく。昭和天皇の退位を押しとどめたのが連合国軍最高司令官マッカーサーだった。

 占領統治に天皇の存在が欠かせないと考えたマッカーサーはその意向を天皇に伝えた。これを受けた昭和天皇の返答が残されている。

 (マッカーサー記念館映像。英文字の書簡。)

 1948年11月(12日)、田島道治が天皇に代わって送った書簡である」

 片岡・昭和天皇言葉「今や私は、日本の国家再建のため国民と力を合わせ、最善を尽くす所存です」

 語り・広瀬修子「事実上、退位しないとの意思を示した書簡。これで昭和天皇の退位問題は決着がついたと従来の研究では考えられてきた。しかし今回発見された『拝謁記』から、昭和天皇がその翌年も退位の可能性を語っていたことが明らかになった。

 片岡・昭和天皇言葉「講話が締結されたときにまた退位などの論が出て、色々の情勢が許せば、退位とか、譲位とかいうことも考えらるる。そのためには東宮ちゃん(皇太子のこと)が早く洋行するのがよいのではないか」

 語り・広瀬修子「東宮皇太子は当時まだ15歳。早めに外国訪問させたいと昭和天皇は自らの退位を見据えて考えていた。この退位発言をどのように捉えればよいのか。この問題に詳しい近現代史の研究者に『拝謁記』を分析して貰った」

 一橋大学特任教授(近現代史)

 吉田裕「ああ、これですね。1949年でしたっけ。この段階でまだ退位のことを言ってるっていうのは全く予想しなかった。48年末で大体退位は決着つけられたと思ってたんですけど、その後もやっぱりくすぶってるんですね、退位問題。

 責任感、君主としての責任感というのがあって、それは一つは国民に対する君子としての責任。もう一つは皇祖皇宗ですよね、歴代の天皇と天皇家の祖先に対する責任。今まで営々と続いてきた国体を危機に陥れてしまったと。やはり敗戦という事態を迎えた。

 そのことに対する道義的な責任。皇祖皇宗と国民と両方に対する責任感覚。それがはっきりあるってことがよく分かりました」

 語り・広瀬修子「昭和天皇の意向を受けて、田島が退位について相談したのは総理大臣の吉田茂だった。『拝謁記』には吉田の意見が次のように記されている。

 『拝謁記』記載の吉田茂の発言がテロップで示される。

 吉田茂言葉音声化「世の利口ぶるものがそんなことを言うのもあるが、人心の安定上そんな事は考えられぬ」

 語り・広瀬修子「1951年11月、昭和天皇は地方巡幸へ向かった。特別列車(の映像)の中で天皇と田島は退位問題について話し合う」

 (走行中の列車内の会話)

 片岡・昭和天皇言葉「私の退位云々の問題についてだが、帝王の位というものは不自由な犠牲的の地位である。その位を去るのはむしろ個人としては有難い事とも言える。現にマッカーサー元帥が生物学がやりたいのかといった事もある。

 地位にとどまるには易きに就くのでなく、難きに就き、困難に直面する意味である」

 橋爪・田島道治言葉「恐れ多くございますが、陛下は法律的には責任なきも、道義的責任があり思し召され、この責任を御果たしになるのに二つあり、一つは位を退かれるという消極的のやり方であり、今一つは進んで日本再建のために困難な道に敢えて当たろうと遊ばす事と存じます。

 そして陛下は困難なる第二の責任を取る事の御気持である事を拝しまするし、田島の如きは色々考えまして、その方が日本の為であり、結構な結論と存じまする」

 語り・広瀬修子「昭和天皇と田島は退位せず、日本の再建に当たる道を選択した。退位を巡る昭和天皇と田島の判断にどのような背景があったのか」

 (「『拝謁記』分析プロジェクト」のキャプションとそのメンバーの映像)

 語り・広瀬修子「4人の研究者が分析に取り組んだ。その中心になったのが日本大学の古川隆久教授(近現代史)である」

 古川隆久教授「昭和天皇は個人的には何度も言ってますけれども、まあ、辞めた方が気が楽になるっていうのは私は偽らざる本心だと思います。それは常識的に考えれば、退位した方がいいんだろうなって、多分昭和天皇は分かってると思うんです。

 本来なら退位して当然の立場で、留位するってことが本当に皇室が国民に認められていくことにプラスになるかってことが、私凄く気になっていた。国民の意思が決定的に重要だという認識があるからこそ、ああいう気にしてることがしょっちゅう出てくるっていうふうに考えていいんじゃないかと思います」

 語り・広瀬修子「国民に自らの立場をどのように伝えていくのか。昭和天皇にとって大きな課題が敗戦の道義的責任だった。1951年9月、サンフランシスコ平和条約調印。翌年の発効で7年近くに及んだ占領が終わり、日本は独立を回復することになる。

 独立に当たり国民に向けてどのようお言葉を表明するのか」

 片岡・昭和天皇言葉「講和となれば、私が演説と言うか、放送と言うか、何かしなければならぬかと思う。ここで私の責任の事だが、従来のようにカモフラージュで行くか、ちゃんと実状を話すかの問題があると思う」

 橋爪・田島道治言葉「その点、今日からよく研究致します」

 語り・広瀬修子「お言葉の検討は田島に託された。これ以後、1年余り、試行錯誤が続くことになる。田島が起草したお言葉案は八つ残されていた。最も古いものは1952年1月15日案。(1952年)5月3日のお言葉表明に向けて、何度も書き直しが続いた。

 昭和天皇がお言葉案に強く求めた文言が――」

 片岡・昭和天皇言葉「私はどうしても『反省』という字をどうしても入れねばと思う」

 語り・広瀬修子「昭和天皇は戦争への反省を語った。その回想は日中戦争の時代から始まった」

 片岡・昭和天皇言葉「私は反省というのは私にもたくさんあると言えばある。支那事変で南京でひどい事が行われているという事を低いその筋でないものからうすうす聞いてはいたが、別に表立って誰も言わず、従って私はこの事を注意もしなかったが、市ヶ谷裁判(極東国際軍事裁判所が市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂公に置かれたことから)になったことを見れば、実にひどい」

 当時の南京の映像。

 語り・広瀬修子「日中戦争の最中に起きた南京事件。日本軍は略奪暴行を行い、一般住民や捕虜を殺害した。事件は戦後東京裁判で問題となった」

 片岡・昭和天皇言葉「私の届かぬ事であるが、軍も政府も国民もすべて下剋上とか、軍部の専横を見逃すとか、皆反省すれば悪いことがあるから、それらみな反省して、繰り返したくないものだという意味も、今度の言う事のうちにうまく書いて欲しいと思う」(00:20:43)

 橋爪・田島道治言葉「その点は一生懸命作文を練っております」

 語り・広瀬修子「天皇の求めに応じて、田島は反省の文言を書き加えた」

 「おことば」3月4日案の原稿の「過去の推移」云々の手書き文字に活字文字を添えた、「【三省】何度も反省すること」との説明付きの映像。

 語り・広瀬修子「『過去の推移を三省し、誓って過ちを再びせざるよう、戒慎せねばならない』

 反省したい過去の推移とは何なのか。『拝謁記』の中で昭和天皇は太平洋戦争に至る道を何度も田島に語っていた。それは張作霖爆殺事件にまで遡る。1928年、旧満州の軍閥張作霖を関東軍が列車ごと爆殺した(当時の現地の映像)。

 事件を曖昧に処理しようとした総理大臣の田中義一を昭和天皇が叱責したら、首謀者は転職になっただけで、真相は明らかにされなかった。

 その3年後(1931年9月18日)、関東軍は独断で満州事変を引き起こし、政府はそれを追認した(軍馬や徒歩で行進する関東軍の映像)。昭和天皇は軍の下克上とも言える状態を憂えていた」

 片岡・昭和天皇言葉「考えれば、下剋上を早く根絶しなかったからだ。田中内閣のときに張作霖爆死を厳罰にすればよかったのだ」

 語り・広瀬修子「陸軍の青年将校たちが起こしたクーデター、2・26事件(当時の映像)。天皇は厳罰を指示し、反乱は鎮圧されたが、軍部の台頭がさらに強まっていく」

 片岡・昭和天皇言葉「青年将校は私を担ぐけれども、私の真意を少しも尊重しない。軍部のやることは、あの時分は真(まこと)に無茶で、とてもあの時分の軍部の勢いは誰でも止め得られなかったと思う」

 語り・広瀬修子「その後日本は泥沼の日中戦争へと突き進んでいく」

 (当時の映像と「日中戦争1937年7月~」のキャプション)。

 語り・広瀬修子「1941年、東條内閣はアメリカ、イギリスに宣戦布告。太平洋戦争が始まった」

 片岡・昭和天皇言葉「東條内閣の時は既に病が進んで、最早どうする事も出来ないということになってた。

 終戦で戦争をやめるくらいなら、宣戦前か、あるいはもっと早くやめる事が出来なかったかというような疑いを退位論者でなくても、、疑問を持つと思うし、また首相をかえる事は大権でできる事ゆえ、なぜしなかったかと疑う向きもあると思うが」

 橋爪・田島道治言葉「それは勿論あると思います」

 片岡・昭和天皇言葉「いや、そうだろうと思うが、事の実際としては、下克上で、とても出来るものではなかった」

 古川隆久日本大学教授「深い後悔の念を誰かに話さずにはいられないっていう、そういうものだと思いますねえ。ですので、如何にその局面がですね、結果としてそうなってしまったことを、まあ、自分として残念だったかっていうことの裏返しだと思います。

 その量が多いのはそれだけで昭和天皇も、後悔なり、反省なりが多かったんだったと思います。戦後でも、戦前・戦中に生きているって言ってもいいような暮らしぶりだったってことが窺えることだと思います。

 (軍服で白馬に跨る昭和天皇の映像)

 憲法上、あるいは世間の常識から見れば、統治権の総攬者天皇は主権者でしたから、やはりあの大事な場面は天皇が何とかすべきだったんじゃないかって思っている人は多いんだろうじゃないかとか昭和天皇は考えています。

 では、なぜそれができなかったんだっていうことはですね、自分なりに納得できる答を探してるっていうのが資料から窺えるかと思います」

 語り・広瀬修子「昭和天皇の深い後悔の言葉を受け止めた田島。2月26日、田島はお言葉の下書きを天皇に説明した」

 片岡・昭和天皇言葉「琉球を失った事は書いてあったか」

 橋爪・田島道治言葉「残念とは直接ありませんが、『国土を失い』とあります」

 片岡・昭和天皇言葉「そうか。それはよろしいが、戦争犠牲者に対する厚生を書いてあるか」

 橋爪・田島道治言葉「『犠牲を重ね』とはありますが、その厚生の事はある時の案にはありましたが、削りました。と申しますのは、万一政治に結びつけられると、わるいと思いましたからですが、これは大切の事ゆえ、またよく考えます」

 片岡・昭和天皇言葉「犠牲者に対し同情に堪えないという感情を述べる事は当然であり、それが政治問題になる事はないと思うが」

 語り・広瀬修子「日本人だけで310万人が犠牲となった戦争。中でも沖縄では県民の4人に1人が亡くなった。日本が独立を回復したのちも、アメリカの統治下に置かれることになる」

 橋爪・田島道治言葉(立ち上がった姿勢で)「一寸読んでみますかから、訂正を要するところを仰せ頂きたいと存じます。

 『事、志と違い、時流の激するところ、兵を列強とを交えて、遂に悲惨なる敗戦を招き、国土を失い、犠牲を重ね、かつて無き不安と困苦の道を歩むに至ったことは遺憾の極みであり、日夜これを思うて悲痛限りなく、寝食安からぬものがある。

 無数の戦争犠牲者に対し深厚なる哀悼と同情の意を表すると同時に過去の推移を三省し、誓って過ちを再びせざるよう、戒慎せねばならない』」

 片岡・昭和天皇言葉「内外に対する感謝。戦争犠牲者に対する同情及び反省の意はよろしい。内閣へ相談して、あまり変えられたくないネー」

 語り・広瀬修子「田島は部下の宮内庁幹部に意見を求めた。その結果、修正を求める声が上がった。これを受けて、田島は天皇に説明した」

 (御座所 1952年3月10日)

 橋爪・田島道治言葉「主な二、三の反対を強く致しましたが、その第一は『事志と違い』というのを削除するという事でありました。何か感じがよくないとの事であります」

 片岡・昭和天皇言葉「どうして感じが良くないだろう。私は『豈朕(あにちん)が志ならんや』ということを特に入れて貰ったのだし、それを言って、どこが悪いのだろう」

 語り・広瀬修子「ここで問題となった『事志と違い』という文言」

 『太平洋戦争 1941年12月8日』のキャプション

 語り・広瀬修子「太平洋戦争は天皇の志と違って始まったということを意味していた(猛攻撃を受けて噴煙を空高く上げている戦艦の静止映像)昭和天皇は開戦の詔書で表明していた(詔書の映像)。『今や不幸にして米英両国と釁端(きんたん=不和の始まり)を開くに至る。豈朕(あにちん)が志ならむや』

 『米英との宣戦がどうして私の志というのか』。昭和天皇は戦争が自らの志と異なって始まる。東條英機(の映像)は平和が望みだと伝えていたと述懐した」

 片岡・昭和天皇言葉「私はあの時、東條にハッキリ英米両国と袂を分かつという事は実に忍びないと言ったのだから」

 橋爪・田島道治言葉「陛下が『豈朕が志ならんや』と仰せになられましても、結局陛下の御名御璽の詔書で仰せ出しになりましたことゆえ、表面的には陛下によって戦が宣せられたのでありますから、志でなければ、戦を宣されなければよいではないかという理屈になります」

 語り・広瀬修子「田島は例え平和を念じていても、実際には天皇の名で開戦を裁可したのだから、『事志と違い』というのは弁解に聞こえると述べた」

 一橋大学特任教授(近現代史)

 吉田裕「凄い微妙な問題ですけれど、自分の志としては平和を望んでいたんだっていうことですよね。開戦で言えば、(19)41年の9月6日の午前会議ぐらいまでは昭和天皇は明らかに迷ってますよね。ためらっている。

 軍の強硬派にに対する警戒心があって、ためらっていると思いますけど、そのあとは消極的な形であるにせよ、開戦はやむなしっていうふうに考えたのは事実だと思うんで、最終的に今、あの、軍の意見に同調する形になるわけですけど、その部分はちょっと落ちちゃっているところですね」

 語り・広瀬修子「田島は大学時代、国際親善と平和を説いた新渡戸稲造に学んだ。戦争中から軍部に批判的だったと言う」

 日本大学文理学部教授(近現代史)

 古川隆久「やはり田島は民間人で、民間の組織の責任の在り方を分かっていますから、それ(弁解)を普通の人に言ったら、分かってもらえないだろうっていうことがあって、天皇の立場でそれを言ってしまうと、他に責任転嫁してることになってしまうので、外には言わない方がいいってことになっていますけれども、まさにあれは昭和天皇の偽らざる信頼できる人だけに言える本音の一つだというふうに思いますね」

 語り・広瀬修子「結局但馬は『事志と違い』を削除し、『勢いの赴くところ』という表現に改めた。戦争への反省を巡って会話を進めるなか、昭和天皇が何度も口にした言葉があった。陸軍の中心にいて、政治を左右した軍閥への不満や批判だった」

 『拝謁記』中に書き記された「軍閥の弊」、「軍閥の政府に終始不満」、「軍閥がわるいのだ」といった天皇の言葉。

 片岡・昭和天皇言葉「私は再軍備によって旧軍閥式の再台頭は絶対いやだ」

 「朝鮮戦争勃発 1950年6月」のキャプション。

 語り・広瀬修子「1950年、朝鮮戦争が勃発。これをきっかけに日本では再軍備に向けた動きが始まる。警察予備隊が発足(「1950年8月」のキャプション)。予備隊が旧軍と同じ捧げ銃(つつ)を行っているのを見た天皇は、次のように述べた」

 片岡・昭和天皇言葉「ともすると、昔の軍にかえるような気持を持つとも思えるから、私は例の声明、メッセージには反省するという文句は入れた方がうよいと思う」

 「吉田・ダレス会談 1951年」のキャプション
 
 語り・広瀬修子「当時アメリカは日本に再軍備を強く求めていた。しかし吉田茂はアメリカの特使ダレスに対して消極的な姿勢を示した。経済的な復興を優先したからである」

 「吉田茂 1955年録音」のキャプションと録音テープの映像。

 語り・広瀬修子「吉田は証言している」

 吉田茂テープ音声「ダレスが来たときだったかな、再軍備で。冗談言っちゃあいけないと。そう言ったんですよ、私はね。再軍備なんてもってのほかだと。日本の実情を知らないから、そんなことを言うんだと。

 出来るもんじゃない。本人、ダレスの目の前でそう言ってやったんですよ。日本としてはなるべくあいつを利用して、アメリカに(朝鮮戦争は?)おっかぶせて、そして倹約しようと」

 語り・広瀬修子「ダレスの要求に応じない吉田」

 吉田茂演説「我が党は再軍備はいたさない」

 「衆議院議員 鳩山一郎」のキャプション

 語り・広瀬修子「これに対して公職追放を解除された保守政治家たちは改憲した上での再軍備を主張していく」

 鳩山一郎演説「日本にある警察予備隊は巡査なんですか?兵隊なんですか。そんなんじゃないです。これは軍隊でありますので、私は憲法改正は必要だろうと思います」

 会場の聴衆が一斉に拍手。

 語り・広瀬修子「こうした情勢のもと、昭和天皇は田島にどのような考えを伝えていたのか。天皇は旧軍閥の復活に反対しながらも、朝鮮戦争の最中、共産勢力の進出を心配していた」

 片岡・昭和天皇言葉「軍備と言っても、国として独立する以上、必要である。軍備の点だけ公明正大に堂々と(憲法を)改正してやった方がいいように思う」

 語り・広瀬修子「昭和天皇は再軍備について何度も田島に相談していた」

 片岡・昭和天皇言葉「吉田には再軍備のことは、憲法改正するべきだということを質問するようにでも言わんほうがいいだろうね」

 語り・広瀬修子「再軍備を巡って異なる意見を持つ天皇と吉田茂。研究者はそれ次のように読み解く」

 「歴史家(近現代史) 秦郁彦」のキャプションと人物映像。

 秦郁彦「ここでね、日本の安全保障に対する昭和天皇のこだわり、憲法第9条を改正して再軍備をするというのは、主権国家としてね、当然ではないんだろうかと。しかし旧軍閥の復活はダメだという、その前提がありますけれども。

 で、吉田は吉田で独自の再軍備の構想を持っていて、とにかく今すぐね、ちょうど警察予備隊ができたとこですけど、日本の経済力が足らないうちはできないから、それまでは待ってもらいたいという意味を込めて再軍備反対」

 語り・広瀬修子「質問という形で吉田茂に度々意見を伝えようとする天皇。田島は次のように諌めた」

 田島道治言葉音声化「そういうことは政治向きの事ゆえ、陛下がご意見をお出しになりませぬ方がよろしいと存じます。例え吉田首相にでも御触れならぬ方がよろしいと存じます」

 「象徴 【内奏】天皇への報告」のキャプション。

 語り・広瀬修子「明治憲法では天皇は神聖にして侵すべからずとされ、大権を持った君主であった。戦後、新憲法で象徴となっても、昭和天皇は総理大臣に内奏を求め、
政治や外交についての意見を伝えようとしていた」

 一橋大学特任教授(近現代史)

 吉田裕「やっぱり二つの憲法を生きた天皇なので、昭和天皇は明治憲法と日本国憲法。明治憲法の時代の意識が必ずしも払拭できていないところがやっぱりありますね。元首としての自知識って言いますかね、それはやっぱり一本ずっとあって、やはり色んな問題について自分の意思を表示しようとする。

 それに対して田島は、もう日本国憲法の下で象徴天皇制を位置づけていくという、こいういうはっきりした問題意識を持っていますので、政治に関わるような問題を天皇が言うのは絶対ダメっていう、そんな意思はかなりはっきりしていて、象徴天皇制の枠の中に天皇を押しとどめる、と言うと、言葉は悪いですけれども、押しとどめようとした。

 そのためにはかなり厳しいことも、諌めるようなことを繰り返し言っているわけですね。やっぱり日本国憲法のもとでの天皇制なんだっていう、天皇なんだっていうことがあって、それは田島の一貫した責任感のようなもの、それを感じますね」

 語り・広瀬修子「(1952年)3月4日、田島は総理大臣吉田茂の元を訪ね、お言葉案を説明した。吉田はこのように述べた」

 吉田茂言葉音声化「大体結構であるが、今少し積極的に新日本の理想というもを力強く表して頂きたい」

 語り・広瀬修子「吉田の求めに応じ、次の言葉が追加された。『新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成することは期して待つべきであります』。

 憲法尊重の文言が加えられ、3月30日、お言葉の最終案ができあがった。田島は大磯の邸宅にいる吉田茂に最終案を速達で郵送した。最終案を吟味する吉田茂。田島のもとへ吉田から思わぬ手紙が届いた」

 「御座所 1952年4月18日」のキャプション。

 目を閉じて聞く天皇。

 橋爪・田島道治言葉(天皇の前に立った姿勢)「一昨日夕方、手紙が送ってまいりました。ところが、一節全体を削除願いたいという申し出でありました。それはこの節であります。『勢いの赴くところ、兵を列国と交えて敗れ、人命を失い、国土を縮め、ついにかつてなき不安と困苦とを招くに至ったことは遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき=過去の実績)に顧みて、悔恨悲痛、寝食のために安からぬものがあります』

 語り・広瀬修子「赤鉛筆で記された『吉田首相削除説』の文字。そこは天皇が戦争への悔恨を表した重要な一節だった。吉田が削除を求めた背景には当時、再燃しようとしていた天皇退位論があった」

 「衆議院予算委員会 1952年1月」のキャプション。

 語り・広瀬修子「国会で中曽根康弘議員が質問した」

 中曽根康弘発言「天皇が御自らのご意思でご退位あそばされるなら、平和条約発効の日が最も適当であると思われるのであります」

 吉田茂発言「これを希望するが如き者は私は非国民と思うのであります」

 語り・広瀬修子「田島は吉田の懸念を天皇に伝えた」

 橋爪・田島道治言葉「要するに折角今声をひそめてるご退位説をまた呼びさますのではないかとの不安があるという事でありまして、今日は最早戦争とか言う事は言って頂きたくない気がする。領土の問題、困苦になったという事は、今日申しては天皇責任論にひっかかりが出来る気がするするとの話でありました。

 その次の『勢いの赴く所』以下は兎に角、戦争をお始めになったという責任があると言われる危険があると申すのでございます。田島としましては昨年来陛下国民に心情を告げたいという思召の出発点が消えてしまっては困りますというような事で、一応分かれて参りましたが、思召、お感じの程は如何でございましょうか」

 片岡・昭和天皇言葉「私はそこで反省を皆がしなければならぬと思う。やはり戦争が意思に反して行われ、その結果がこんなになったという事を前に書いてあるから分かるが、それなしではいかぬ」

 語り・広瀬修子「吉田の『一節削除』は何を反省するのか曖昧になる原稿だった。4日後、天皇はなおも戦争への反省を拘った」

 橋爪・田島道治言葉「あれからずっと考えたのだが――」

 片岡・昭和天皇言葉「総理が困ると言えば、不満だけれども、仕方ないとしても、私の念願ということから続けて、遺憾な結果になったという事にして、反省のところへ続けるという事は出来ぬものか」

 語り・広瀬修子「田島は普段とは異なる天皇の様子を記している」

 橋爪・田島道治言葉「今日ははっきり不満を仰せになる。総理の考えと致しましては、終戦の時のご詔勅で一先ず済みと致しまして、むしろ今後の明るい方面の方の事を
主として言って頂きたいという方の考えであります。

 この際、戦争とか敗戦ということは生々しいことは避けたいという意味であります」

 片岡・昭和天皇言葉(声を大きくして)「しかし戦争の事を言わないで、反省の事がどうしてつなぐか」

 橋爪・田島道治言葉「戦争の事に関して明示ない以上ぼんやり致しますが、反省すべきことは何だと言う事は分かると思います」

 橋爪・田島道治言葉「別に何とも仰せなく、曇ったご表情に拝す」

 語り・広瀬修子「吉田の削除に不満を隠さない昭和天皇。祝典(皇居前広場で行われた独立記念式典)は12日後に迫っていた。田島は詳細なメモを作って、準備した。このメモを元に田島は天皇への最後の説得に臨んだ。それは次のとおりだった」

 立った姿勢で天皇に対して原稿を読む田島道治の映像。広瀬修子のナレーションに応じてテロップが流れていく。

 語り・広瀬修子「『国政の重大事 政府の意思尊重の要 祝典の祝辞に余り過去の暗い面は避けたし 遺憾の意表明 則ち退位論に直結するの恐れ』」

 橋爪・田島道治言葉「お言葉につきまして田島が職責上、一人の責任を持ちまして、やはり総理申し出の通り、あの一節を削除なさった方がよろしいという結論に達しました。

 国政の責任者である首相の意見は重んぜられなければならぬと思います」

 片岡・昭和天皇言葉「長官がいろいろそうやって考えた末だから、それでよろしい」

 橋爪・田島道治言葉「御思召を1年近く承りながら、今頃こんな不手際に御心配おかけし、御不満かもしれませぬものを御許し願い、誠に申し訳ございませぬ」

 深々と頭を下げる田島道治。

 片岡・昭和天皇言葉「いや、大局から見て、私はこの方がよいと思う」

 語り・広瀬修子「田島は新しい憲法の下で象徴となった天皇は内閣総理大臣の意見を尊重するべきだと伝えた」

 日本大学文理学部教授(近現代史)

 古川隆久「天皇が心の底から納得したかどうかはちょっと別なんですけれども、少なくとも田島は政府の当局者である吉田茂首相ととことん話し合って、納得してやってるんだと思います。その象徴天皇制の枠の中で天皇はどこまで政治的な発言ができるか、初めての具体的な例。

 結局はなるべく具体的なことは言わない方向がベストだろうという方向に落ち着いていった過程がこの資料で見えてきたというふうに思います」

 語り・広瀬修子「1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効されて、日本は独立を回復した。5月3日、皇居前広場で式典が開かれ、4万人が詰めかけた。昭和天皇は国民の前でお言葉を述べた」

 昭和天皇(映像)「さきに万世のために太平を開かんと決意し、四国共同宣言を受諾して以来、年をけみすること七歳。米国を始め、連合国の好意と国民不屈の努力とによって、ついにこの喜びの日を迎うることを得ました(聞き入っている吉田茂の映像)。

 ここに内外の協力と誠意とに対し、衷心感謝すると共に戦争による無数の犠牲者に対しては改て深甚なる哀悼と同情の意を表します。また特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒慎し、過ちをふたたびなせざることを堅く心に銘すべきあると信じます。

 (巡幸する昭和天皇の映像や皇居の水田で米の種を撒く映像等)

 新憲法の精神を発揮し、新日本国建設の使命を達成し得ることを期して待つべきであります。この時に当たり、身寡薄なれども、過去を顧み、世論に察し、沈思熟慮、あえて自らを励まして、負荷の重きにたえんことを期し、日夜ただ及ばざることを恐れるのみであります・・・・・・・」

 熱狂的にバンザイする群衆の映像。
 
 語り・広瀬修子「新聞は退位説に終止符を打ち、決意を新たに独立を祝うと報じた(新聞の見出しの映像)。このお言葉はその後の日本にどのような影響を残したのか」

 一橋大学特任教授(近現代史)

 吉田裕「やっぱりその、謝罪、責任を認めて、道義的な責任を認めて詫びるっていうところのニュアンスは明らかに消えちゃってますよね。むしろ重い負担を敢えて背負う形で引き続き天皇としての責任を果たすという議論だけになっちゃったり。

 天皇の責任の所在を天皇自身が明らかにするっていう言葉があれば、戦争に協力した国民の責任も含めて、そこから議論が始まりますよね。それが大きな問題。もし出されていれば。

 すべての責任を天皇だけに、昭和天皇だけに押し付けるわけにはいかないわけですから。戦前、戦後を生きてきた政治家や周りの人が戦争に協力した責任、国民の責任をどう考えるのか。そういう問題にも発展していく可能性のある問題だと思うんですね。

 ただこれがやっぱり曖昧な形で処理されてしまったっていうのは、悔やまれるところですね」

 歴史家(近現代史) 

 秦郁彦「結局、うやむやの内になってしまったという、だからそれは、天皇にとっては非常に心苦しかったんだと思いますけれどもね。昭和天皇はせめてですね、国民に対する、まあ、いわばお詫びみたいなね、そういう言葉を入れたかったと。だけど、吉田は『そんなものは入れるな』と言う。

 (株取引所に活況シーン、建設ラッシュの映像)

 ちょうど朝鮮戦争の特需ってのがありましてね、それで以って景気が回復されて、いわばですね、経済成長路線というものに踏み出していくと。そういう未来が見えてきたわけですからね、国民の大多数がどん底から這い出て、経済成長路線にどうやら乗ったらしいと、みんな前の方に希望を託すと――」

 語り・広瀬修子「1953年(12月)、田島は宮内庁長官の職を退いた。その後、ソニー会長になった田島。1960年(9月)、ご成婚直後の皇太子夫妻がソニーの工場を訪れた。迎える田島道治(その映像)。

 初めての民間出身の皇太子妃誕生。その選定にも貢献があった。戦後、国民と歩みを共にしてきた昭和天皇。1989年、87歳で生涯を閉じた。昭和から平成、そして令和へ。受け継がれてきた
象徴天皇。その出発点を記録した『拝謁記』。田島は、次のように記している。

 『新しき皇室と国民との関係を理想的に漸次致したいと存じます』

 昭和天皇と田島道治の5年間の対話。それは象徴天皇とは何か。改めて私たちに問いかけている」(終わり)

 改めて大日本帝国憲法第1章「天皇」の主だった条文を記載してみる。

 第1章 天皇
 第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(兵士の人数)ヲ定ム

 番組でも、〈大日本帝国憲法では天皇は軍を統帥し、統治権の全てを握っていた。〉と絶対的主権者であることを紹介していた。いわば軍の統帥に関しても、国家と国民に対する統治権に関しても、大日本帝国憲法は天皇なる存在に対してオールマイティを保障していた。だからこそ、「神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定される至っていた。

 1928年(昭和3年)6月4日、日本の関東軍は高級参謀の日本政府の関与を受けない単独謀略によって中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で奉天軍閥の指導者張作霖を列車ごと爆発させて暗殺した。番組はこの事件を、〈事件を曖昧に処理しようとした総理大臣の田中義一を昭和天皇が叱責したら、首謀者は転職になっただけで、真相は明らかにされなかった。〉と紹介しているだけではなく、〈その3年後(1931年9月18日)、関東軍は独断で満州事変を引き起こし、政府はそれを追認した。昭和天皇は軍の下克上とも言える状態を憂えていた。〉と軍部の独断専行を描写している。

 軍部に顕著なこういった不穏な事態からは天皇の軍に対する威令を伴ったオールマイティな統帥権は見えてこない。天皇の統帥権を他処に勝手に動く軍の動向のみ見えてくる。

 初代宮内庁長官田島道治によって『拝謁記』に記された昭和天皇の言葉、「青年将校は私を担ぐけれども、私の真意を少しも尊重しない。軍部のやることは、あの時分は真(まこと)に無茶で、とてもあの時分の軍部の勢いは誰でも止め得られなかったと思う」云々からも、同じく絶対的統帥権者としての昭和天皇のオールマイティな姿はそのカケラさえも見えてこない。

 さらに『拝謁記』に記した昭和天皇の言葉、「東條内閣の時は既に病が進んで、最早どうする事も出来ないということになってた」云々の「病」とは昭和天皇から見た軍部の独走・横暴を言っているのだろう。

 元々は対米開戦反対派の昭和天皇が対米開戦派であり、陸軍強硬派の東条英機を木戸内大臣の推挙を受けて、1941年10月17日に当時陸軍大臣だった東条英機を皇居に招き、組閣の大命を下したのは強硬派を以って軍部の強硬派を抑えて、対米開戦の動きを封じる意図からだと言われているが、その意図も虚しく、空振りに終わって、東條英機は対米開戦派の先頭に立つに至った。

 東条英機のその動きに対して昭和天皇は『拝謁記』に自身がそれ程にも対米開戦に反対であったなら、「首相をかえる事は大権でできる事ゆえ、なぜしなかったかと疑う向きもあると思うが」との言葉を残している。だが、「事の実際としては、下克上で、とても出来るものではなかった」と、首相の首をすげ替える「大権」を「下克上」なる状況に阻害されて、自由に揮うことができなかった有体(ありてい)を正直に告白している。

 ここで言っている「下克上」とは天皇の絶対的統帥権内にあるべき、特に陸軍上層部がその統帥権を蔑ろにして勝手に動き回る権力の上下逆転を意味しているはずだ。

 このような状況からも、大日本帝国憲法に規定された絶対的主権者としての天皇のオールマイティは憲法の世界の中だけの話しで、現実の世界ではそのオールマイティは無情にもいつでも剥ぎ取られる、いわば裸の王様状態にあることを曝け出している。

 大日本帝国憲法内のオールマイティに過ぎないということはその憲法によって天皇はオールマイティの存在に祭り上げられていたに過ぎないことを意味する。祭り上げられていただけのことだから、実権なきオールマイティを背中合わせにすることになった。「神聖ニシテ侵スヘカラス」は簡単に無視される架空の存在性に過ぎなかった

 では、そのようにも実体を備えていない大日本帝国憲法での天皇の数々の絶対的規定でありながら、例え表面的なオールマイティに過ぎなかったとしても、そのようなオールマイティを規定しなければならなかった理由は何なのだろう。

 それは内情を知らない国民には有効な、あたかも実質を備えているオールマイティに見えるからに他ならない。大日本帝国憲法の規定通りに天皇を「神聖ニシテ侵スヘカラス」偉大な存在と解釈させることによって、天皇のその存在性を通して国民に対した場合、便利な国民統治装置となるからだろう。だから、戦前は何事も天皇の名に於いて決定されていった。

 戦前の天皇と国民の関係を見るとき、新興宗教の教祖と熱狂的な信者の関係を見ることができる。政界上層部や軍上層部は天皇に対してそういった関係は築きもしないのに国民に対してだけ、そういった関係で縛る。この場合、教祖に当たる天皇自体、軍部や政治家に操られる存在だった。

 そして大日本帝国憲法から日本国憲法へと憲法が変わった戦後の天皇象徴の時代になっても、天皇と国民の教祖と信者との関係はその名残りを残している。そのことは天皇を無闇矢鱈と有り難る国民の姿から窺うことができる。

 例え象徴であっても、天皇の存在は国民統治装置として大いに役立っている。

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再掲/2012年8月15日敗戦の日放送NHKスペシャル「終戦 なぜもっと早く決められなかったのか」文字化

2019-08-15 05:48:50 | 政治
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 日本の首相安倍晋三センセイが加計学園獣医学部認可に首相としての権限を私的に行使し、私的に行政上の便宜を図る形で政治的に関与し、私的便宜を与えたとされている疑惑を国会答弁や記者会見から政治関与クロと見る理由を挙げていく。自信を持って一読をお勧め致します。読めば直ちに政治関与クロだなと納得できます。よろしくお願いします。

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 2012年8月15日敗戦の日放送の当番組を文字化して、2012年8月17日と8月18日に二度に分けてブログにエントリーし、数日置いてこの番組の解釈として当時の国家指導者とそれに連なる官僚等の責任不作為について同じくブログにエントリーしたが、この放送から約4ヶ月後の2012年12月26日に国家主義者であり、戦前型天皇主義者でもある安倍晋三の第2次安倍政権に入ってから、その影響から日本が顕著に右傾化していく状況を目の当たりにして、それへの警告も含めて、2019年8月15日の敗戦の日を迎えて、文字化した内容を一つに纏め、少々書き直しも含めて、再度エントリーすることにした。可能な限り忠実に文字化してあると思うが、意味が伝わらない箇所があったなら、ご容赦願いたい。

 戦前の日本国家とその軍隊を賛美するのか、否定的に捉えるのか、解釈は“表現の自由”です。

 俳優の竹野内豊(48歳)が進行役を務めている。当時は41歳と言うことになる。見た目の印象はもっと若く見えたが、番組を見た頃は年齢が何歳とは考えもしなかった。放送側の登場人物の、「~しました」といった丁寧語は省略して、「~した」というふうに表現した。

 竹野内豊「今日は8月15日、多くの犠牲を生んだ太平洋戦争が日本の敗北で終わった日。なぜあのとき、日本はアメリカと戦い続けたのか。なぜもっと早く戦争をやめることができなかったのか。

 NHKではこれまで未公開だった資料や膨大な関係者の証言を検証してきた。その結果、新たに多くのことが分かってきた。敗戦間際まで本土決戦を叫んでいた日本の指導者たちは実は早い時期から敗北を覚悟し、戦争終結の形を模索していた。

 ならばなぜ戦争終結の決断はできなかったのか。

 67年前の歴史の闇に迫りたいと思う」

 ここで画面に、『終戦 なぜはやくきめられなかったのか』(The end of the war)の文字。

 オリンピック開催中のロンドンが映し出される。

 ナレーション(女性)「イギリス、夏のオリンピックが開催されたイギリス、ロンドンから、戦争末期の日本の歴史観を塗り替える大きな発見があった」

 イギリス国立公文書館建物。その内部。

 ナレーション(女性)「第2次対戦当時の膨大な機密書類が保管されている」

 イギリス人女性館員「これは当時の日本の外交官や武官が本国と遣り取りしていた極秘電報です。それをイギリス側が解読していた。

 ナレーション(女性)「(『ULTR』)ウルトラと呼ばれる最高機密情報。この中に日本のヨーロッパ駐在武官が東京に送った暗号が残されている。数千ページもの極秘電報の中から今回見つかったのは戦争末期の日本の命運を左右する、ある重大な情報である。

 昭和20年5月(24日)、スイス・ベルン(駐在)の(日本」海軍武官電報。

 『ヤルタ会談でソ連は対日参戦を約束した』

 当時の日本が知らなかったとされるソビエトの対日参戦情報である。

 昭和20年8月9日、ソビエトは中立条約を破棄して侵攻した。敗戦の決定打ともなった対日参戦が日本では不意打ちだったとされてきた。

 この半年前(昭和20年2月)、ヤルタ会談でアメリカ、イギリス、ソビエトの間で密約の形で取り決められたソビエトの対日参戦。もし日本がこの情報を事前に掴んでいたなら、終戦はもっと早かったとも言われてきた。

 しかし情報が届いていたことが確認された」

 ヤルタ会談でのチャーチル、ルーズベルト、スターリンの写真が映し出される。

 ナレーション(女性)「情報が届いていたにも関わらず、なぜ早期終戦に結びつかなかったのか」

 防衛省防衛研究所の建物。

 小谷防衛研究所調査官「これは結構新発見じゃないですか」

 ナレーション(女性)「情報機関の研究が專門の防衛研究所、小谷賢調査官。NHKと共に共同で極秘電報の分析に当たってきた。

 参戦情報の報告は一通だけではなかった。6月(昭和20年6月8日)、リスボン(駐在)の(日本)陸軍武官電」

 男性ナレーション「(電文)7月以降、ソ連が侵攻する可能性は極めて高い」

 ナレーション(女性)「同じ6月(昭和20年6月11日)、ブルン(駐在)の(日本)海軍武官から」

 男性ナレーション「(電文)7月末までに日本の降伏がなければ、密約通りソ連は参戦する」

 ナレーション(女性)「驚くことにヨーロッパの複数の陸海武官が迫り来るソ連参戦の危機を刻々と警告していた」

 小谷防衛研究所調査官「今までは日本政府は陸海軍共、ヤルタの密約については何も分かっていなかったと。で、8月9日のソ連参戦で初めて、皆がびっくりしたというのが定説だったと思いますけれども、やはり情報はちゃんと取れていたことがですね、この資料から明らかになっていると思います。再考証が必要になってくる事態ではないかと思います」

 ナレーション(女性)「早くから把握されていたソビエトの参戦情報。その一方で研究者や公的機関に残されていた軍や政府関係者の專門の証言テープからも、新たな事実が浮かび上がってきた。

 国のリーダーたちは内心では終戦の意志を固めながら、決断の先送りをしてきたことが明らかになってきた」

 陸軍省軍務課長(録音音声)「阿南(陸軍大臣)さんの腹ん中は講和だったんですよねえ。始めっから講和なんですよねえ。

 ところが(徹底抗戦)を主張せざるを得なかったわけですよね」

 終戦工作担当海軍少将(録音音声)「3人以上だとね、あの人(鈴木貫太郎首相)何も喋らない。だけど、差しだと本当のこと言うんです。腹とね、その公式の会議に於ける発言とね、表裏がね、違って、一体いいものかと――」

 後に出てくる高木惣吉海軍少将のことらしい。

 ナレーション(女性)「大戦に於ける日本人の死者310万人。犠牲者は最後の数カ月に急増していた。

 そしてシベリア抑留者、中国残留孤児、北方四島問題など、後世に積み残される様々な課題が戦争最後の時期に発生した。

 もっと早く戦いをやめ、悲劇の拡大を防げなかったのだろうか」

 『熊本県人吉町』のキャプションとその街のシーン。

 ナレーション(女性)「終戦の歴史を紐解く上で重要な一人の軍人の故郷(ふるさと)が熊本県にある。川越郁子さん。親族として個人が残した膨大な資料を大切に保管してきた。

 海軍少将高木惣吉。戦争末期、海軍トップの密命を受け、戦争終結の糸口を探る秘密工作に当たっていた人物です(国内工作)。終戦工作の過程を克明に記録したメモ等が近年になって次々と発見され、殆ど記録に残っていない戦争末期の国家の舞台裏が生々しく蘇ってきた」

 録音機の映像。

 ナレーション(女性)「未公開の内容を多数含む複数の肉声の存在も明らかになった」

 海軍少将高木惣吉(録音音声)「目ぼしい連中をね、当たって、『どうだろう、終戦をやろうじゃないか』、陰謀をやってたわけなんです。松谷くん(陸軍大佐松谷誠)とはしょっちゅう会ったし、個人的にも会ってね、段々こうして話しているとね、こんなにね、(戦争終結の)見通しっていうのは違っていないんですよ。やっぱりね。

 終戦という言葉は使いませんよ。だけど、戦局はもう、ものすごくクリティカル(重大)な点にきているというようなね、そういう表現で、殆どの意見はそんなに変わらない」

 主たる登場人物の肩書きと写真。

 海軍大臣 米内光政(よない みつまさ)
 陸軍大臣 阿南惟幾(あなみ これちか)
 外務大臣 東郷茂徳
 宮中(内大臣) 木戸幸一
 
 海軍少将 高木惣吉
 陸軍大佐 松谷誠
 外務大臣秘書官 加瀬俊一
 内大臣秘書官長 松平康昌
 
 ナレーション(女性)「陸海軍、外務省、宮中、高木は主要な組織の中に連携する人物を見つけ意見を交換しながら、終戦の実現を目指そうとしていた。

 事態が大きく動き出したのは昭和20年春からである。4月、米軍はついに沖縄に上陸を開始し、戦場は本格的に日本国内へと移った」

 B29が爆弾を次々に投下していく空襲シーン。

 ナレーション(女性)「日本本土は連日の空襲に曝され、3月と4月だけで20万人の犠牲者を生んでいた。5月には同盟国ドイツが降伏。その翌日、アメリカのトルーマン大統領は日本の軍部に無条件降伏を要求した。

 竹野内豊「このとき国家のリーダーたちはどう考えていたのだろうか。その主役は6人の人物だった。内閣総理大臣の鈴木貫太郎、外務大臣の東郷茂徳、陸軍大臣阿南惟幾、海軍大臣米内光政、陸軍参謀総長梅津美治郎、海軍軍令部総長及川古志郎。

 当時の国家組織は軍と政府が別々の情報系統を持ち、事態が悪化する中に於いて情報を共有しないなど、タテ割りの弊害が露わになっていた」

 竹野内豊「この際、6人のリーダーはタテ割りを排し、腹を割って本音デ話そうと側近を排除した秘密のトップ会議を始めることにした」

 ナレーション(女性)「昭和20年5月11日、6人のリーダーが極秘に宮中に集まった」

 〈高木惣吉の記録等をもとに再構成〉のキャプション

 外務大臣東郷茂徳「我々6人のみで戦争終結への道筋をつけたいと思った次第である。まだ国力があるうちに着手すべきである」

 ナレーション(女性)「軍のトップも戦争終結が最大の課題だと認識していた。講和を結ぶのは米軍に対して一撃を加えたあと、というのが条件としていた。

 一撃でアメリカが動揺を来たしたところで交渉を持ちかけ、少しでも有利な条件で講話しようという考えである。

 その際の日本のベストシナリオとして浮かび上がったのだ、中立を守る大国ソビエトを交渉の仲介役に利用しようというものだった」

 日本のこれまでの戦績の一覧がキャプションで示される。

 サイパン島陥落 昭和19年7月
 硫黄島陥落 昭和20年3月
 
 陸軍大臣阿南惟幾「まだ日本は領土をたくさん占領している。負けていないということを基礎にしてソ連との話を進めるべきだ」

 海軍大臣米内光政「我が国にもっと有利になるような友好的な関係をソ連と築くチエはないのか」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣はソビエトへの大幅な譲歩を提案した」

 外務大臣東郷茂徳「対ソ交渉を進めるには相当の代償を考えておく必要がある。ソ連の要求をある程度呑むという決意が必要である」

 ナレーション(女性)「長年、日本の仮想敵国であったソビエト。しかし、アメリカ、イギリスと同じ連合国側とは言え、必ずしも一枚岩ではないとの見方があった。

 実際にソビエトへの譲歩が真剣に議論されていた様子を当時の外務省の幹部が戦後に証言している」

 外務省政務局長安東義良「終戦する以上は満州からね、日本の兵隊を引き揚げちゃおうと。中立化しちゃおうと言うんだ、東郷さんが、『梅津参謀総長と僕と米内さんと』と言っておられた。

 3人でいよいよ終戦する以上は、日清戦争前までの状態に返らなきゃならんかもしれんと。

 いやいや、日露戦争前までぐらいではいかんだろうかって言うようなことをお互いに話をしたっていうことを僕に言われたんですよ。与えるべきものはこっちも与えると。向こうに対して譲るべきものは譲ると」

 ナレーション(女性)「ソビエトを和平交渉の仲介役などに利用しようかという議論を終戦間際までトップ6人の間で続くことになる」

 竹野内豊「ここで重大な疑問が浮かぶ。間もなくソビエトが攻めてくることを指導者たちは知っていたはずだ。ロンドンで所在が確認された日本の武官情報。その情報は5月以降、時期や規模などが急速に具体性や精度を上げてきており、陸海軍トップはこれを真剣に受け止めていたはずだ」

  前出の武官電がキャプションで再度掲載。 

 スイス ベルン海軍武官電 昭和20年5月24日 「ヤルタ会談でソ連は対日参戦を約束した」
     ベルン海軍武官電 昭和20年6月11日 「7月末までに日本の降伏がなければ、密約通りソ連は参戦する」
     
 竹野内豊「しかし、このソビエトの参戦情報については、なぜかトップ6人が話しあった形跡はない。

 ソビエトの出方を話し合う6人の秘密会議は6月以降も続いていた。果たして情報はきちんと伝わっていたのか」

 ナレーション(女性)「トップ6人の1人だった東郷外務大臣はソビエトの参戦情報を知っていたのだろうか。参戦情報が早い時期から伝えられていたことは外交官として活躍してきた孫の東郷和彦さんにとっても大きな驚きでした」

 東郷和彦「これは初めて聞きますよね。当然大本営には入っていましたよね。だから、外務大臣に入ってなかったどうか、分からないっていうことですよね。

 ええ、それは東郷茂徳が書き残したすべての中でヤルタで7月に(ソ連が)参戦するという話が決まっていたという話はなかったと思いますからね、東郷茂徳の頭にはね」

 ナレーション(女性)「陸海軍側はソビエト参戦の密約を知りながら、それを外務省に伝えず、ソビエトとの交渉に臨ませようとしていた可能性がある」

 東郷和彦「ソ連の参戦防止、それからソ連をできるだけ友好的に日本に近づける(友好構築)。最後にソ連を通じて仲介をやってみる(和平仲介)。

 と言うのは、4月から6者の共通の意志になっていたわけですから。ですから、その可能性(ソ連参戦)がないんだということを、もし軍が掴んでいたとすれば、大本営がそれを外務省か内閣に出していないんだとすれば、それは何と言うか、信じ難い話ですよねえ」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣のもとでのちに対ソ交渉に当たる安東政務局長は参戦情報は知らなかったと証言している。

 外務省政務局長安東義良(録音音声)「スターリンがルーズベルトと話し合って、あんな日本処理案をお互いに協定しとるね。そんなもんは知らんもんね。こっちは」

 ナレーション(女性)「組織のタテ割りを克服しようと設けたはずのトップ6人の秘密会議。しかしリーダーたちはその最初から国家の最重要情報の共有に失敗していた。

 なぜ共有しなかったのか。当時の軍で支配的だったのは、あくまでも米軍に本土決戦を挑むという考えだった。

 決戦の全体構想を描いた参謀本部作戦部長宮崎周一が当時の思惑を戦後語っている」

 参謀本部作戦部長宮崎周一(録音音声)「ここ(本土)へ上がってきたときに。ここで一叩き叩けばね、えー、終戦というものを、ものに持っていく、その、動機が掴める。

 それがあのー、私が、その、本土決戦というものを、あれ(終戦計画)を一つの、動機になるんだが」

 ナレーション(女性)「侵攻する米軍を中国大陸に配置した部隊とも連携して迎え撃つ。一撃の時期は夏から秋と想定していた」

 第2総軍参謀橋下正勝(録音音声)「もう国力も底をついておるし、これが最後の戦いになると。

 それで一撃さえ加えれば、政治的に話し合いの場ができるかも分からん。できなければ、我々は、もう、ここで、えー、討ち死にするなり。

 南方の島と違う点は、島はそこで玉砕すれば終わりですがね、これはまだ本土続きですから、いくらでも援兵を送れると」 

 小谷防衛研究所調査官「軍のトップがソビエトの参戦情報を伏せたのは対米一撃のシナリオを維持し続けたかったからではないかと考えています。

 一撃よりも前にソビエト参戦の可能性があるとなれば、一撃後のソビエト仲介による講和というシナリオは崩壊します。一気に無条件降伏に向かう恐れがありました。

 ソ連参戦の情報があって、ソ連が敵に回るということが分かっていればですね、その情報を陸軍として出したくないと。

 当然、最初に作られた作戦ですとか、目的に合わない情報というのはですね、基本的にはそれは無視されるという運命にあるわけです」

 ナレーション(女性)「一方の外務省も軍の情報収集能力を過小評価し、積極的な協力体制を築こうとしなかった。

 東郷外務大臣の側近として終戦工作に関わっていた松本俊一次官の証言」 

 松本俊一外務次官(録音音声)「この人(軍人)たちが世界の大勢、分かりますか。当時の外務省以上に分かるわけないですよ。それは外務省は敵方の情報も全部知ってるわけですからねー、裏も表も。

 それは知らないのは陸海軍ですよ。陸海軍でいくら明達の人だってね、外務省だけの情報、持っていません。外務省がなぜかならですね、そのー、敵方の放送も聞いてるんです。分析しているでしょう。

 日本の今の戦争の何がどうなっているか、みんな知ってますよね、外務省は」

 竹野内豊「なぜ重要な情報が共有されなかったのか。今もなお多くの謎が残されている。新たに分かった事実をどう把え直すか。専門家の間でも真剣な議論が始まった。

 昭和史の研究をリードする歴史学者の加藤陽子さん。元外交官で国際政治の現実に通じてきた岡本行夫さん(外交評論家)。アジアという視点から日本の政治思想を分析してきた姜尚中さんの3人です」

 加藤陽子「日本が本当にこの情報を知っていたとすれば、なかなかこれは新しいことで、勿論、知っていたことについては、えーと、当事者の回想という形で残っていました。

 しかし、イギリス側のその電報で証拠が残っていたというのは大きいと思いますけれども」

 岡本行夫「イギリスで見つかった電報って、本当に衝撃的ですね。あそこまでね、外にいた武官たちが掴んでいたということは、私も初めて知りました」

 加藤陽子「それでは、陸海軍はそれを知っていたとして、外務省や鈴木首相、どうでしょうか」

 岡本行夫「外務省は知らされていなかったと思いますねえ。あのー、主に公開情報の分析をやっていたじゃないですかねえ。外交官たちはどうも色んなものを見つけても、中立国で中にずうっと分け入って入っていったっていう、あんまりそういう報告はないですね」

 加藤陽子「じゃあ、なぜこのような重大な時期に有利な情報を比較的日本も手に入れたにも関わらず、重要な情報が共有されないのか」

 岡本行夫「まあ、情報の共有の問題以前にね、情報を軽視するところがあるんですね。兎に角ね。この、タテ割りの組織ですから、もう、軍も、それから日本政府全体もね。

 外から来る話っていうのは基本的には雑音なんですよ。自分たちが取ったもの以外はね。で、自分たちが取ったものを自分たちに都合いいものだけを、これを出していく。

 今から見るとね、様々ないい情報が来ていたんですね。でも、そういうものを総合的にその情報としてひとつの戦略に組み替えていくっていう、こういうことは殆どなされないんですねえ」

 加藤陽子「例えば、日本の歴史っていうのも、いいときも悪いときもありましたよね。例えば明治期日清、日露やったときにご存知のように明治天皇のもとでの元老というものが軍人でありながら文官でもあり、最高位を極めるという人は横の情報をお互いに知らせ合うわけですね。

 で、伊藤博文に教えておけ。伊藤博文に教えておけというようなことを山形(有朋)が言う。

 ま、そういうことがあったり、あと大正期には、これもあの比較的に知られていないかもしれないんですけども、中国に対する情報っていうのは日本は比較的に真面目に外務省も陸軍省も海軍省も摺り合わせる度量がありまして、『あら会』なんて言って、あぐらをかいて牛鍋を食べてっていうような上方の会同(会議のため、寄り集まること。その集まり)ですね、それをやった実績は大正期にはあるんですね。

 しかしこの頃になりますと、この6人のメンバーで司会はいないんですよね。で、こういう情報が上がっていますが、どうでしょうっていうような話を向けて、全体としての強調を叩き出すような人がいない」

 姜尚中「だから、陸軍、海軍、まあ、あるいは首相とか、色々な国務大臣、それがセクショナリズム、縄張り意識がありながら、また、内部の中に現場を踏んでいる側と、それからまあ、中枢で色々なプロジェクトを練っている側との会議がある。

 そういうヨコとタテとの、それぞれのある種のタコツボがですね、こういうものが進んでいて、今までのものがもううまくいかないかもしれないという、そういう想定をしたくない。

 したくないから、そういうものはあり得ないと言うように、自分にも言い聞かせてるし、それで新しい事態に対応できなくなると――」

 ナレーション(女性)「「昭和20年)6月初旬、沖縄の戦況は悪化の一途を辿り、守備隊の全滅が時間の問題となっていた。全国民に対して本土決戦の準備を加速するよう、指令が出された。

 国民の犠牲を省みずに捨て鉢の本土決戦に突き進んだように言われる当時の陸軍。しかし参謀本部作戦部長の宮崎周一の証言が本土決戦を前にした陸軍の全く違う側面を浮き彫りにしていた」

 参謀本部作戦部長宮崎周一(録音音声)「物的、客観的情勢に於いて、大体に於いてできると。あるいは相当な困難、あるいは極めて困難。

 まあ、この三つくらいに分けて、これは俺も考えた。(本土決戦は)極めて困難。はっきりいう。聞けば聞く程困難。極めて。

 それじゃあ断念するかというと、それは断念できない、俺には。作戦部長の立場に於いて、そんな事言うなんてことは、とても言えない。(一段と声を大きくして)思っても言えない」

 ナレーション(女性)「果たして陸軍トップはどのように戦争の幕引きを考えていたのか。意外にも当時の陸軍中央では戦争終結に向けた重大な転換が始まっていたと考えるのが気鋭の若手研究者、(明治大文学部講師)山本智之(ともゆき)さん。

 山本さんが注目したのは陸軍中央の人事です。戦争終盤の陸軍中央では徹底抗戦を主張する強硬な主戦派が主要なポストの大半を占め、僅かな数の早期講和派が存在していた。

 主戦派の東條大将が人事権を握ると、中央から早期講和派が一掃され、一段と主戦派の発言権が強まった。

 しかし昭和19年7月、東條に代わって梅津美治郎が参謀総長に就任すると、状況に変化が生じたという。

 組織の人事系統図を基に主戦派と早期講和派が色分けされた図が出る。

 明治大学講師山本智之「まあ、(主戦派の)服部卓四郎(参謀本部作戦課長)さんなんかはね、ずっと作戦課長をやっていたんですけども、(19)45年2月には支那派遣軍に転軍になりますよね。(主戦派の)真田穣一朗(参謀本部作戦部長)なんて言うのも、3月に中央の外に出されるんですよねえ。

 強硬な主戦派が徐々に排除され、逆に左遷されていた早期講和派の将校が呼び戻された。

 主戦派が陸軍中央からいなくなると、まあ、戦争終結に持っていきやすいっていう、そういった人事の可能性高いですよねえ。戦争継続路線から戦争終結路線へと方針転換するのって、急にはできないんですよね。

 少しずつした準備をしていって、その上で方針転換をしていくっていう、まあ、梅津とか阿南という人物が慎重に戦争終結に導こうとしていたところが窺えますよねえ」

 ナレーション(女性)「徹底抗戦から戦争終結へという重大な転換が陸軍大臣の阿南の言動にも読み取ることができる。

 阿南は陸軍大臣に就任して以来、一貫して対米決戦を主張していた。しかし、この表向きの強硬姿勢の裏にある複雑な思いに触れたのは阿南の秘書官を務めた松谷誠(陸軍)大佐でした。

 自分が目の辺りにした陸軍トップの意外な一面を高木(惣吉海軍少将)にそっと明かしていた。それは(昭和20年)5月末のある日、松谷が終戦に向けた独自の交渉プランを持って阿南を訪ねがときのことだった」

 〈高木惣吉の記録等をもとに再構成〉のキャプション

 陸軍大佐松谷誠「国体護持のほかは無条件と腹を決めるべきです。早ければ早い方が有利です。国内的にも軍がいくらやっても、もうだめだと分からせる時期です」 

 ナレーション(女性)「松谷の案は事実上の降伏受け入れであった。大臣の激怒を覚悟していた松谷。阿南の反応は予想外のものだった」

 陸軍大臣阿南惟幾「私も大体君の意見のとおりだ。君等、上の者の見通しは甘いと言う。だが、我らが心に思ったことを口に表せば、影響は大きい。

 私はペリーのときの下田の役人のように無様に慌てたくないのだ。準備は周到に堂々と進めねばならんのだ」

 ナレーション(女性)「厳しい結末を覚悟し、それを受け入れるための時間と準備が必要だと明かした阿南。問題はそのような時間が日本に残されているかである。

 こうした中、(昭和20年)6月6日、新たな国家方針を話し合う最高戦争指導会議が開かれた。

 トップ6人だけですら、タテ割りの壁を崩せない中で局長や課長まで参加するこの会議では腹を割って話すことはいっそう困難となる」

 〈高木惣吉の記録等をもとに再構成〉のキャプション

 陸軍参謀次長河辺虎之助「講和条件の検討など、相手に足元を見られるだけです。あくまでも徹底抗戦を貫くべきです」

 ナレーション(女性)「河辺虎之助がこれまでの原則どおりに徹底抗戦を改めて主張した。阿南大臣もその強硬論に反論しなかったため、決定された方針は和平交渉から大幅に後退した内容となった」

 明治大学講師山本智之「それはやっぱり会議の席で、そういった弱音を吐くとね、やっぱり主戦派の方に伝わっちゃうんですよね。戦争推進派、主戦派への配慮ですよね。

 主戦派が暴走するのではないかと、いう、そういう懸念があるから、慎重な発言にならざるを得ないところがあるお思います」

 ナレーション(女性)「日本には敗戦も降伏もないと叫んできた軍にとって、徹底抗戦の方針は曲げるに曲げられないものとなっていた。

 しかし陸軍トップの苦しい胸の内は多くの側近が感じ取っていた」

 陸軍省軍務課長永井八津次(録音音声)「阿南さんの中は講和だったんですよねえ。初めっから講和なんです。阿南さんはね、ところが部下のものが非常に強く言うし、無条件降伏したときに天皇さんがどうなるのかっちゅう、ことがその当時から非常に大きな問題。

 天皇様、縛り首になるぞと。こういうわけだ。

 それでも尚且つ、お前らは無条件降伏を言うのかと。

 誰もそれに対しては、『いや、それでもやるんだ』っちゅう奴は誰もおりませんよ。

 その点がね、僕は、その、阿南さんの心境というものが非常にね、お辛かったと思うんですよ」

 ナレーション(女性)「この頃、海軍にヨーロッパの駐在武官から重大な情報がもたらされた。(昭和20年)6月7日の高木(惣吉)の記録」

 記録した用紙と文字が画面に映し出される。

 ナレーション(女性)「スイスの駐在武官が極秘にアメリカ側と接触を続けた結果、驚くべきことを伝えてきた。

 アメリカ大統領と直接つながる交渉のパイプができそうだというのです。アメリカの言う無条件降伏は厳密なものではない。今なら、戦争の早期終結のための交渉に応じるだろうという報告であった。

 これを千載の一遇の機会と見た高木(惣吉)は米内(海軍大臣)を訪れた。ソビエトに頼るのではなく、アメリカと直接交渉すべきだというのが、高木の考えだった」

 高木惣吉と米内海軍大臣の写真を用いて模したテーブルを挟んで座っているシーン。

 海軍少将高木惣吉(構成シーン)「直接、アメリカ側と条件を探るチャンスです。この際、このルートを採用すべきです」

 海軍少将高木惣吉(録音音声)「私は米内さんに、もし私でよかったら、(スイスに)やってくださいと」
 ナレーション(女性)「しかし米内の返答は高木を失望させるものだった」

 海軍大臣米内光政(構成シーン)「謀略の疑いがあるのではないのか」

 海軍少将高木惣吉(録音音声)「これは陸軍と海軍を内部分裂させる謀略だと、こういうわけなんです」

 ナレーション(女性)「米内はこの交渉から海軍は手を引き、処理を外務省に任せるよう指示した。

 もしアメリカの謀略なら、日本は弱みを曝すことになり、その責任を海軍が負わされることになると恐れたのです。

 米内が手を引くよう指示したアメリカとの交渉ルート。このとき相手側にいたのはのちにCIA長官となるアレン・ダレスだった。最新の研究によると、アメリカ国内では当時ソビエトの影響力拡大への警戒感が高まっていた。ソビエトが介入してくる前に速やかに戦争を終結させるため、日本に早めに天皇制維持を伝えるべきとする考え方が生まれていた。

 ダレスを通じた交渉ルートは進め方によっては日本に早期終戦の可能性をもたらすシャンスだった」
 
 海軍少将高木惣吉(録音音声)「私はね、スイスの工作なんか、もっと積極的にやってよかったんじゃないかと思うんですよ。日本はもうこれ以上悪くなりっこないじゃないかと。

 内部だってね、もうバラバラじゃないかと。だから、落ちたって、騙されたってね、もうこれ以上悪くならないんだから、藁をも掴むでね。もしそれからねヒョウタンからコマが出れば拾い物じゃないかと」

 ナレーション(女性)「一方、ダレスの情報を海軍から持ち込まれた外務省が当時模索していたのはソビエトを通じた和平交渉だった。

 スイスのルートは正式な外交ルートから外れたものとして、その可能性を真剣には検討しなかった」

 外務次官松本俊一(録音音声)「例のアレン・ダレス辺りね、あんなもの無意味ですから。僕ら情報持っていたけど、そんなものは相手にしたくもない。謀略だと思うね」

 再び加藤陽子と岡本行夫、姜尚中の3人の検証シーン。

 加藤陽子「宮崎参謀作戦部長など、本当にもう本土決戦は無理だと、極めて困難だと。しかしそれを言えないっていうことを言ってました。

 ただ、沖縄でも、組織的な抵抗、敗退する。そしたら、本土だけになって、まあ、状況が決定的に変わったにも関わらず、なぜ、やはり4月に、5月に、6月に取れた情報、ソビエトが必ずやってくるということが分からないのか」

 岡本行夫「もう本当にタコツボに入っちゃうと、周りのことが一切見えなくなるっていうのは、悲しい限りですねえ。

 今最後のVTRでね、松本俊一外務次官が言ったね、ダレス機関なんて言うのは、あれは信用できないとかね、そんなこと言ったら、新しい話はすぐに信用できないで片付けられる。

 だから、基本的には武官からの情報だから、ダメだって言うわけでしょ。これは高木惣吉さんが残念がるのは無理もない話しですねえ。

 あれで本当にね、動き始めたかもししれないですねえ。だけど、外務省が取ってきた情報じゃないってことで、切って捨てるわけでしょ」

 加藤陽子「例え切り捨てでしたら、情報などと統合する、何て言うんでしょうか、帝国防衛委員会というようなプライオリティ、ランクなんですよ。何が重要なのか。それを決める会議があって、それで様々な、10万とかたくさんの情報を処理することが、その会議とのフィルターを通じてできる。

 で、アメリカも、国家安全保障委員かとかもある。だから、日本も、日本にとって、じゃあ何が大事なのか」

 姜尚中 「やっぱり国務大臣は各独立して天皇に対して輔弼の責任を負うと。で、独立してっていう言葉の所に非常に大きな意味があるし、ところがいつの間にか輔弼ってところが我々ば普通考える政党政治のリーダーシップとまるっきり違うものに――」

 姜尚中の発言中に――

 大日本帝国憲法下の国務大臣の権限は互いに独立・平等

 輔弼 天皇の行為に進言し、その責任を追うこと
とキャプション。

 加藤陽子「政策を統合して陛下に上げるという、そういうことではないという――」

 姜尚中「なくなっているということでしょうね。だから、どこかでやっぱり天皇にすべてのことを結局、具申していないし、まあ、現状そのものを追認するだけでいいし。

 だから、外側からは局面転換はモメンタム(きっかけ)をね、まあ、期待するという、ある種の待機主義、待っているという――」

 加藤陽子「なる程――」

 竹野内豊「近い将来、敗北を受け入れなければならないことはリーダーたちは分かっていた。しかしその覚悟は表には現れない。刻々と過ぎていく決定的な時。

 そうした中、カギを握る陸軍のリーダーが動き出す」
 ナレーション(女性)「徹底抗戦の国策が決定された直後の(昭和20年)6月11日、異例の報告が陸軍トップによって天皇になされた。中国の前線視察に出かけていた(陸軍)参謀総長の梅津美治郎が側近にも打ち明けていない深刻な事実を奏上した」

 (今回付記:「Wikipedia」〈1945年(昭和20年)6月6日、最高戦争指導会議に提出された内閣総合企画局作成の『国力の現状』では、産業生産力や交通輸送力の低下から、戦争継続がほとんどおぼつかないという状況認識が示されたが、「本土決戦」との整合を持たせるために「敢闘精神の不足を補えば継戦は可能」と結論づけられ、6月8日の御前会議で、戦争目的を「皇土保衛」「国体護持」とした「戦争指導大綱」が決定された〉

 陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「支那派遣軍はようやく(=辛うじて)一大会戦に耐える兵と装備を残すのみです。以後の戦闘は不可能とご承知願います」

 ナレーション(女性)「陸軍の核を握っている精鋭部隊にすぐに徹底抗戦は愚か、一撃すら期待できない程弱体化しているというものだった」

 中国戦線なのだろう。日本兵の一塊となって隙間もなく累々と横たわった死者が映し出される。

 ナレーション(女性)「日頃は冷静だった梅津の告白に天皇は大きな衝撃を受けた。

 天皇から直接その様子を聞いたのが内大臣の木戸幸一」

 内大臣木戸幸一(録音音声)「要するに往年の素晴らしい関東軍もなきゃ、支那総軍もないわけなんだと。

 碌なものはないという状況。艦隊はなくなっちゃってるだろう。それで戦(いくさ)を続けよというのは無理だよね。

 要するに『意地でやってるようなもんだから、大変なんだよ』と(天皇が)おっしゃっていたよ」

 明治大学講師山本智之「支那派遣軍の壊滅状態を天皇に報告すれば、天皇も気づくと思うんですよね。これは本土決戦できないということは。

 天皇にそういう報告をしたって言うことは、梅津が天皇に対しまして、戦争はできないって言っていることと同じなんですね」

 ナレーション(女性)「予想を遥かに超える陸軍の弱体化。一撃後の講和という日本のベストシナリオは根底から崩れようとしていた。

 梅津の上奏から間もない6月22日、天皇が国家のトップの6人を招集した。天皇自らによる会議の開催は極めて異例の事態。

 リーダーたちに国策の思い切った転換、戦争終結に向けての考え方が問いかけられた」

 天皇(構成シーン)「戦争を継続すべきなのは尤もだが、時局の収拾も考慮すべきではないか。皆の意見を聞かせて欲しい」

 海軍大臣米内光政(構成シーン)「速やかにソ連への仲介依頼交渉を進めることを考えております」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣もこれに同意を示した。

 決戦部隊の弱体化とソビエトの参戦が近いという情報。国家に迫る危機の大きさを全員が共有するチャンスがこのとき訪れていた。

 ここで(天皇は)梅津参謀総長に問いかける」

 天皇(構成シーン)「参謀総長はどのように考えるか」

 陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「内外に影響が大きいので、対ソ交渉は慎重に行った方がよいと思います」

 ナレーション(女性)「梅津は見てきたはずの陸軍の実態に触れなかった」

 明治大学講師山本智之「梅津、阿南が戦争終結を願いながらも、主戦派の排除に、主戦派を排除し切れないっていうね、そういった背景でそういう発言をするのではないかと。

 排除し切れていないんですよね。結構不安もある」

 ナレーション(女性)「しかし天皇は異例にも梅津に問いかけを続けた」

 天皇(構成シーン)「慎重にし過ぎた結果、機会を失する恐れがあるのではないのか」

 小谷防衛研究所調査官「天皇の意図としては自分がこうやって臣下の者たちと腹を割って話し合おうという態度を見せているわけですから、おそらく、天皇としては本当に梅津や阿南が主戦派なのか、もしくは心の奥底では実は和平を望んでいるのかと、そういうところを確認したかったんだろうと思います」

 ナレーション(女性)「しかし梅津も阿南も重大な事実は口を噤んだままだった」

 陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「仲介依頼は速やかなるものを要します」

 ナレーション(女性)「 天皇は梅津に詰め寄る」

 天皇(構成シーン)「よもや一撃の後でと言うのではあるまいね」

 陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「必ずしも一撃の後とは限りません」

 ナレーション(女性)「軍の最高幹部が一撃後の講和というベストシナリオに拘らないという姿勢を初めて表わした瞬間だった。

 しかしこの段階になっても、軍の実態とソビエトの参戦が近づいているという重要な事実はリーダーの間で共有されることはなかった。

 宮中に於ける政治動向分析の第一人者、茶谷誠一成蹊大学文学部助教授。

 この会議が早期に終戦に持ち込む最大のチャンスだったと把えている」

 成蹊大学文学部助教授茶谷誠一「一撃を加えられない。じゃあ、どうしようかというふうなことを6人の中でもっと真剣に22日にやっておけなかったのかという言うのは、ちょっと現代人の我々から見れば、それは責任というか、もうちょっとある程度真剣に最後の引き際をもうちょっと早く考えられなかったのかと。

 事態が事態なわけで、双方から上がってきた情報というものを少なくとも最高戦争指導会議の構成員である6人が共有するようなシステムにしていれば、事態がもっと早く動いていた可能せもあるわけなんですけども――」

 ナレーション(女性)「 水面下の工作に奔走していた高木惣吉海軍少将。破局を前に決断をためらうリーダーたちに失望を露にしていた」

 海軍少将高木惣吉(録音音声)「非常にそれは阿南さんばかりじゃない。日本の政治家に対して私が訴えたいのはね、腹とね、公式の会議に於ける発言と、そういう表裏が違っていいものかと。

 一体(苦笑)、国家の命運を握った人がね、責任ある人がね、自分の腹と違ったことを公式のところで発言して、もし間違って自分の腹と違った決定になったなど、どうするのか。

 職責がどうだとか、ああだとか、言われるんですよ。それはご尤もなんですよ

 だけど、平時にはそれでいい。だけど、まさにね、そのー、祖国が滅びるかどうかというような、そういう非常事態に臨んでですね、そういう平時のね、公的なね、解釈論をやっている時期じゃないじゃないかと。

 自分は憎まれ者になってもですよ、あるいは、その、平時の習慣を踏み破ってもですね、この際もう少しおやりになってもいいじゃないかというのが、僕らの考えだった」

 ナレーション(女性)「 天皇招集の異例の会議から3日後、沖縄戦は敗北に終わった。軍人と民間人、合わせて18万人が犠牲となった」

 再度、加藤陽子、岡本行夫、姜尚中が登場。なぜ方針転換を決断できないのかのキャプション。

 加藤陽子「今回のVTRや調査で明らかになった6月22日、これは天皇がかなりリーダーシップ取っておりますね。

 だから、私も非常に不明だったんですが、8月の二度のいわゆる天皇による聖断ですね。あれでガッと動いたと思ったんですが、その前に(6月)22日の意思がある。一撃しなくても、講和はあり得るでしょうねってことが天皇が確認したことが一件あった。

 なーんで組織内調整、じゃあ6人の会議の中に天皇が参加したときの組織内調整ができないのかっていうのが、どうでしょうか。仲間意識とか、そういうことで言うと、姜さんは」

 姜尚中「6人ともやっぱ官僚ですよね。必ずしも官僚は悪いとは思わないけど、やっぱり矩(のり=規範)を超えずっていうところにね、とどまったんじゃないかと。自分の与えられた権限だけにね、

 だからそこに逃避していれば、火中の栗を拾わなくても済むと。それはやっぱり優秀であるがゆえに逆に。

 で、これは今でも僕は教訓だと思うんです」

 岡本行夫「それにしてもねえ、ヤルタでの対日ソ連参戦の秘密合意についての情報が天皇にまで伝わっていれば、それは歴史変わっていたと思いますね。

 6月22日の御前会議のもっと早い段階で天皇は非常に強い聖断、指示をしていたのではないかと。

 そうするとね、沖縄戦に間に合っていたかどうか分かりませんが、少なくとも広島、長崎、そしてソ連の参戦という舞台は避けられていた可能性はありますねえ」

 加藤陽子「だけど、本当のところで、終戦の意志を示す責任はあるというのは内閣なんだろうってことを、自分が背負っている職務って言うんでしょうか、一人、こんな私が日本を背負っているはずがないというような首相なり、あの、謙遜とか、非常に謙虚な気持で思っているかもしれない。

 でも、そうは言っても外交なんで、内閣が輔弼する、つまり外務大臣と内閣総理大臣、首相なんですよね」

 姜尚中「やっぱ減点主義で、だから、何か積極的な与えられた権限以上のことをやるリスクを誰も負いたくないわけ。

 その代わりとして、兎に角会議を長引かせる。たくさんの会議をやる。(笑いながら)で、会議の名称を一杯つくるわけですよね。

 で、結局、何も決まらない。いたずらに時間が過ぎていくという。会議だけは好きなんですね。みんな」

 加藤陽子「日本人はそうかもしれない」

 姜尚中「たくさん会議をつくる」

 岡本行夫「戦争の総括をまだしていないんですよねえ。日本人自身の手で、誰が戦争の責任を問うべきか、どういう処断をすべきかってことは決めなかった。

 そして日本人は1億総ザンゲ、国民なんて悪くないのに、お前たちも全員で反省しろ。

 で、我々はもうああいうことは二度としませんと。だから、これからは平和国家になります。一切武器にも手をかけません。

 そう言うことでずうっと来ているわけです。本来は守るべき価値、国土、自由っていうのがあるんですねえ。財政状況だって、あれ、そういっこと今とおんなじで、財政赤字、国の債務のレベルになると、GDPの、戦争の時200%、今230%ですよね。

 それは本当にね、我々は勇気を持って、戦争を題材に考えるべきことだと思います」

 姜尚中「岡本さんのことにもし付け加えるとすると、やっぱり統治構造の問題ですね。

 で、やっぱり原発事故、ある種やっぱり、その戦争のときの所為(しょい=振る舞い)とその後の、ま、ある種の無責任というか、それはちょっとやや似ている。

 それで、やっぱり現場と官邸中枢との乖離とか、それから情報が一元化されていない。

 で、どことどこの誰が主要な役割を果たしたのかもしっかりと分からない。それから、議事録も殆ど取られていない。

 で、そういうような統治構造の問題ですね、これをやっぱりもう一度考え直さないといけない。で、まあ、そういう点でも、変えるべきものは変えないといけないんじゃないかなあと、気は致しますね」

 竹野内豊「この頃、東郷外務大臣宛にヨーロッパの駐在外交官から悲痛な思いを訴えた電文が届いている」

 「昭和20年7月21日 在チューリッヒ総領事神田穣太郎電文」のキャプション。

 竹野内豊「『私達は重大な岐路に差し掛かっている。この機を逃せば、悪しき日として歴史に残るだろう。

 確固たる決意を持って、戦争を終結に導き、和平への交渉に乗り出して欲しいと、切に願う』

 決定的な瞬間にも方針転換に踏み出せなかった指導者たち。必要だったのは現実を直視する勇気ではなかっただろうか。

 終戦の歴史はいよいよ最終盤を迎える」

 「昭和20年7月16日 アメリカ・ニューメキシコ州」のキャプション

 原子爆弾の巨大なキノコ雲が噴き上がる瞬間を撮影した古いフィルの映像。

 ナレーション(女性)「 7月中旬アメリカは原子爆弾の実験に成功した。

 日本の関東軍に忍び寄る極東ソビエト軍。刻々と増強の報告が入っていた。

 そして米英ソの首脳の間で間もなく日本の終戦処理について話し合いが行われるとの情報が届く。

 トップ6人はソビエトとの交渉の糸口が掴めないまま虚しく時間を費やしていた。

 こうした中、ある人物が政府に呼ばれる。元首相近衛文麿。緊急の特使としてソビエトに赴き、交渉の突破口をつくって貰おうという案が浮上した。

 近衛特使にどのような交換条件を持たせるべきか、6人の間で再び議論が始まった」

 外務大臣東郷茂徳(構成シーン)「米英ソの会談が間もなく開催される。その前に戦争終結の意志を伝えなくてはいけない。

 無条件では困るが、それに近いような条件で纏めるほかはない」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣は思い切った譲歩の必要を説き続けた」

 陸軍大臣阿南惟幾「そこまで譲ることは反対である」

 外務大臣東郷茂徳「しかし日本が具体的な譲歩を示さない限り、先に進むことはできない」
 海軍大臣米内光政「東郷さん、その辺り(阿南惟幾が言う辺り)で纏めておきましょう。陸軍も事情があるでしょうから」

 ナレーション(女性)「 会議は交渉条件を一本化するには至らなかった。具体化した条件を各組織に持ち帰り、部下を説得するメドがこの段階でも立たなかった。

 小谷防衛研究所調査官「御前会議ですとか、政府連絡会議、もしくは最高戦争指導会議、まあ色んな会議をやっていますけども、会議が決めることができないんですよ。要は決める人がいないわけですね。

 首相も外務大臣も、陸海軍大臣、参謀総長、軍令部総長にしろ、みんな平等に天皇に仕える身分なわけでありながら、誰か勝手にイニシアチブを取ってですね、決めることができない構造になってるわけです」

 ナレーション(女性)「 一方特使派遣の交渉を指示されたモスクワの佐藤尚武大使からは危機感に満ちた電報が繰返し届いた。

 駐ソビエト日本大使佐藤尚武(構成シーン)「ソ連は今更に近衛特使が何をしに来るのか疑念を持っている。日本側が条件を決めて来ない限りソ連は特使を受け入れるつもりはない」

 ナレーション(女性)「これに対して東郷外務大臣は苦しい説得を続けた」

 外務大臣東郷茂徳「現在の日本は条件を決めることはできない。そこはデリケートな問題だからだ。条件は現地で近衛特使に決めて貰うしかないのだ」

 ナレーション(女性)「国内の調整をすることを諦め、外交交渉の既成事実で事態を打開をしようという苦渋の一手だった。

 しかし近衛特使派遣という策は手遅れとなった。派遣を打診して2週間。ソビエト首脳はドイツ・ポツダムのイギリスとの会談に出発してしまった。

 日本のチャンスは失われた」

 キャプション

 昭和20年7月26日 ポツダム宣言発表

 日本に無条件降伏を勧告


 米英ソ首脳が握手するシーンが流される。

 キャプション

 昭和20年8月6日 広島に原爆投下
           死者14万人

     8月9日  長崎に原爆投下
          死者7万人

 同日、ソ連が中立条約を破棄 対日宣戦布告

  死者       30万人以上
  シベリア抑留者 57万人以上

 破局的な形できっかけがもたらされるまで、国家のリーダーたちが終戦の決断を下すことはなかった。


 内大臣木戸幸一(録音音声)「日本にとっちゃあ、もう最悪の状況がバタバタッと起こったわけですよ。遮二無二これ、終戦に持っていかなきゃいかんと。

 もうむしろ天佑だな」

 外務省政務局曽祢益(録音音声)「ソ連の参戦という一つの悲劇。しかしそこ(終戦)に到達したということは結果的に見れば、不幸中の幸いではなかったか」

 外務省政務局長安東義良(録音音声)「言葉の遊戯ではあるけど、降伏という代わりに終戦という字を使ったてね(えへへと笑う)、あれは僕が考えた(再度笑う)。

 終戦、終戦で押し通した。降伏と言えば、軍部を偉く刺激してしまうし、日本国民も相当反響があるから、事実誤魔化そうと思ったんだもん。

 言葉の伝える印象をね、和らげようというところから、まあ、そういうふうに考えた」

 8月15日、玉音放送。直立不動の姿勢で、あるいは正座し、両手を地面に突いて深く頭を垂れ、深刻な面持ちで聞く、あるいは泣きながら聞く皇居での国民、あるいは各地の国民を映し出す。

 ナレーション(女性)「 厳しい現実を覚悟し、自らの意志でもっと早く戦争を終えることができなかったのか。

 空襲、原爆、シベリア抑留による犠牲者、最後の3カ月だけでも、日本人の死者は60万人を超えていた」

 極東国際軍事裁判所

 ナレーション(女性)「終戦に関わったリーダーたちはそれぞれの結末を迎えた。陸軍大臣阿南惟幾、昭和20年8月15日自決。参謀総長梅津美治郎、関東軍司令官時代の責任を問われ、終身刑。獄中にて昭和24年病死。外務大臣東郷茂徳 開戦時の外務大臣を務めていた責任を問われ、禁錮20年。昭和25年。服役中病死

 一方、内閣総理大臣鈴木貫太郎、海軍大臣米内光政、軍令部総長豊田副武(そえむ)は開戦に直接関与していなかったとして、責任を問われることはなかった。

 東郷の遺族の元からある資料が見つかった」

 東郷和彦「これが(赤い表紙の手帳)1945年の東郷茂徳が書いていた日誌のような手帳ですね」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣が終戦に奔走した昭和20年につけていた手帳。孫の和彦さんの心に強く残った言葉があった」

 東郷和彦「軍がやろうとしていたことができなくて、もう勝つ方法は全くないような意味なんだと思うんです。

 これは一言なんですけどね、あの、非常に緊迫感があります」

 ナレーション(女性)『国民の危急 全面的に』

 この言葉が書かれたのは6月22日。天皇が自ら6人を呼び、国策の方針転換を問いかけた日である。

 このとき(この日に)、ソビエトの参戦情報を把握できなかったことを東郷は戦後悔やみ続けた」

 東郷和彦(東郷茂徳が著した単行本らしきものを開いて)「ヤルタで(ソ連が)戦争ということを決めていたことに、その、『そういうことを想像しなかったのは、甚だ迂闊の次第であった』と。

 もう本当に恥ずかしいというか、迂闊だったと。

 こうしてここに書かざるを得ない程、辛いことだった――」

 ナレーション(女性)「 そしてもう一人、最後まで終戦工作に奔走した高木惣吉の親族の元から未発表の資料が見つかった。

 高木が戦争を振り返って、記した文章である」

 『六韜新論』〈りくとう――『六韜』は「中国の代表的な兵法書」(「Wikipedia」) 「韜」は「包み隠す」意〉の題名のついた昔風の書物。

 ナレーション(男性)(『六韜新論』の読み)「現実に太平洋戦争の経過を熟視して感ぜられることは戦争指導の最高責任の将に当たった人々の無為・無策であり、意志の薄弱であり、感覚の愚鈍さの驚くべきものであったことです。反省を回避し、過去を忘却するならば、いつまで経っても同じ過去を繰返す危険がある。

 勇敢に真実を省み、批判することが新しい時代の建設に役立つものと考えられるのです」

 竹野内豊「310万の日本人、多くのアジアの人々。この犠牲は一体何だったのか。

 もっと早く戦争を終える決断はできなかったのか。そして日本は過去から何を学んだのか。

 この問は私たちにも突きつけられているように思う」

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慰安婦少女像展示中止:表現の自由とは国民それぞれの判断に任せる自由を言う 戦前は国家が判断し、国民はそれに従ってきた

2019-08-12 10:34:33 | 教育
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 日本の首相安倍晋三センセイが加計学園獣医学部認可に首相としての権限を私的に行使し、私的に行政上の便宜を図る形で政治的に関与し、私的便宜を与えたとされている疑惑を国会答弁や記者会見から政治関与クロと見る理由を挙げていく。自信を持って一読をお勧め致します。読めば直ちに政治関与クロだなと納得できます。よろしくお願いします。

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 公共機関が自らの施設で展示や展覧、講演等の文化行事を公募によって、もしくは申込みを受付けて行う場合、応募者の政治的・思想的立場の右と左を問わずに許可を出すべきであろう。例えそのような文化行事が国や地方公共団体の補助金を受けて行われる種類のものであってもである。

 許可を出す公共機関側にしても、許可を受けて文化行事を直接的に実施する参加者側にしても政治的、あるいは思想的に厳正中立ということは先ずあり得ないし、参加者側が自らの政治的・思想的立場に則って参加することを前提としなければならないが、公共機関側が厳正中立を侵して政治的・思想的にどちらかに偏った許可を出すことになった場合、出し物についての評価を公共機関側の政治的・思想的立場からの判断に任せることになり、参加者側の政治的・思想的立場を制限することになるだけではなく、結果的に日本国憲法の第21条で基本的人権の一つとして保障することによって国民に等しく与えられている「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」の機会を毀損することになるからである。

 さらに戦前の例に学ぶなら、表現の自由とは国民それぞれの判断に任せる自由を言うはずだから、公共機関側の判断に任せた政治的・思想的に偏った文化行事となった場合、国民それぞれの判断に任せる自由を制限、もしくは奪うことになる。

 このような考えに基づいて国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が開催から中止に至った経緯を見てみる。

 「あいちトリエンナーレ」とは2010年から3年ごとに開催されている国内最大規模の国際芸術祭で、4回目となる2019年は国内外から90組以上のアーティストを迎えて、国際現代美術展のほか、映像プログラム、パフォーミングアーツ、音楽プログラムなど、様々な表現を横断する最先端の芸術作品を紹介しているとサイトに謳っている。そのような出し物の一つが企画展「表現の不自由展・その後」だそうだ。

 そして開催年ごとに愛知県知事が「あいちトリエンナーレ実行委員会」会長を務め、実行委員会が開催年ごとに芸術監督を決めて、県知事が委嘱状を交付する段取りとなっているそうだ。2019年の芸術監督はジャーナリストで、メディア・アクティビスト(「市民運動の活動内容などをビデオテープに記録し、不特定多数の人が見られるように作品を提供する人」だと「情報・知識&オピニオン imidas - イミダス」に紹介されている。)である津田大介氏に委嘱された。

 当然、出展作品は津田大介氏の政治的・思想的立場の影響を受けることになる。あくまでも想像だが、「あいちトリエンナーレ実行委員会」は3年毎に委嘱を変える芸術監督によって政治的・思想的なバランスを取っているのだろう。公共機関が極端にバランスを欠いている人物以外に政治的・思想的にバランスを取るにはそういった方法以外に難しい。

 津田大介氏に関しては名前を聞いたことがある程度で、その政治的思想に触れる機会はなく、無頓着であったが、企画展「表現の不自由展・その後」の出品作品と作品に関する騒動のマスコミ報道を受けて、その政治的・思想的立場のいくばくかを知ることになった。

 「あいちトリエンナーレ2019」は8月1日から10月4日までの開催。各方面から批判を受けた『表現の不自由展・その後』は公立美術館などで撤去された作品を、その経緯とともに展示していて、そのうちの韓国の彫刻作家が制作した「平和の少女像」、いわば慰安婦少女像と昭和天皇をモチーフにした作品が特に集中的は批判を受けたようだ。

 2019年8月10日付「産経ニュース」が「表現の不自由展・その後」の中止をめぐる経過と、そのコーナーへの出品に至った経緯を作家名と作品名と共に画像にして載せていたから、文字に起こしてみた。

 「表現の不自由展・その後」 中止をめぐる経過

 2019年8月1日 あいちトリエンナーレ2019が開幕「不自由展」に対する抗議や脅迫相次ぐ

 2019年8月2日 名古屋市の河村たかし市長が「公的資金を使った場で展示すべきではない」と述べ、慰安婦像の展示中止を求める考えを示す

 2019年8月3日 菅義偉官房長官が、文化庁の補助金交付について「事実関係を精査した上で適切に対応したい」と発言

          愛知県の大村秀章知事が、「安心安全の確保が難しい」として、「不自由展」を4日から中止と発表

          日本ペンクラブが、河村市長らの発言を「検閲」にもつながる」と批判声明

 2019年8月4日 「不自由展」の会場で中止案内、展示スペースを仕切りで閉ざす

 2019年8月5日 大村知事が、河村市長の2日の発言を「表現の自由を保障した憲法21条に違反する疑いが極めて濃厚ではないか」と批判

 2019年8月6日 芸術祭の参加アーティスト約70人が抗議声明

 2019年8月7日 「不自由展」に対する危害を予告するファクスを送ったとして、愛知県警が59歳のトラック運転手の男を逮捕

 2019年8月8日 柴山昌彦文部科学相が補助を交付について「経過や展開を含め.事業目的などを再チェックしたい」と発言

 「表現の不自由展・その後」の主な出品作とこれまでの経緯

大浦信行     作品名「遠近を抱えて」(4点組)

昭和天空の肖像を使った作品。昭和61年に富山県立近代美術館(当時)で展示後、県議会や地元紙から「天皇をちゃかし、不快」などと批判され非公開に。その後、同館は作品を売却し図録も償却した。今回、作品の焼却シーンを挿入した映像「遠近を抱えてPartⅡ」も出品

小泰明朗     作品名「空気#1」

天皇制を扱った連作のーつ。平成28年に東京都現代美術館の企画展に出品予定だったが、「多くの人か持つ宗教的な畏敬の念を侮辱する可能性」に同館が懸念を示し出品を断念

キム・ソギョン、キム・ウンソン  作品名「平和の少女像@」

韓国の彫刻家夫妻が制作。元慰安婦を象徴する像として、市民団体などが在韓日本大使館前に設置、日本政府は撤去を求めている。24年に東京都美術館でミニチュア像が出品され、「政冶活動をするためのもの」は施設便用を認めないとする同館の運営要項に従い撤去された

白川昌生     作品名「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」

県立公園「群馬の森」に設置され、県が立ち退きを求め係争中の追悼碑をモチーフにした作品。29年、係争中の事案に関わるとして群馬県立近代美術館か企画展での展示を取りやめた    

中垣克久     作品名「時代の肖像一絶滅危惧種idiot JAPONICA円墳一」

国旗をあしらい政権の右傾化を批判したドーム形の作品。26年、東京都美術館で開かれた彫列家の団体展に出品。同館が運営要項に従い、一部表現の削除を求めた

岡本光博     作品名「落米のおそれあり」      

交通標識をもじり、米軍機墜落事故を題材にシヤッターに描いた作品。29年に沖縄県うるま市の美術館で公開されたが、地元自治会が「ふさわしくない」と反発、市の判断で一時非公開に

 8月1日に開催、翌日に名古屋市長の河村たかしが「公的資金を使った場で展示すべきではない」と批判し、慰安婦像の展示中止を求める考えを示した。このことがネット上の賛否の論争を誘発した部分もあるかもしれない。

 河村たかしの批判は特に「平和の少女像@」と名付けられた「慰安婦少女像」に向けられているようで、上記「産経ニュース」が伝えている「公的資金を使った場で展示すべきではない」の批判は具体的には「どう考えても日本国民の心を踏みにじるものだ。税金を使ってやるべきものではない」と批判して、実行委員会会長である愛知県知事の大村に対して「平和の少女像」の展示を即刻中止するよう申し出ると述べたと言う。

 さらに慰安婦少女像は「政治的主張を伴い、多くの日本国民の感情を害する恐れが強くある」と批判している。

 河村たかしが考える「日本国民」とは慰安婦の強制連行を否定する歴史認識を抱えた日本人に限ることになる。肯定する歴史認識の日本人は「日本国民」であることから排除していることになる。

 このことは否定歴史認識の「日本国民」のみに「表現の自由」を認めて、肯定歴史認識の「日本国民」は「表現の自由」の選別を受けて、制限されている、あるいは否定されていることになる。

 河村たかしは東京都特別区部の約4分の一の人口を占める、順位4位の230万都市の市長であり、その発言力はそれなりの影響力を持ち、影響力に応じた政治的・思想的な強制力――いわば一種の権力を否応もなしに備えることになる。その強制力・権力を以ってして個人的な政治的・思想的な立場から異なる政治的・思想的な立場の、「日本国民」の中には入れていない日本人の「表現の自由」を選別したり、制限したり、あるいは否定する態度を取る。

 このことは憲法第21条の「表現の自由」に対する恣意的な取り扱いというだけではなく、第99条の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」に明らかに違反することになる。

 愛知県知事大村秀章が河村たかしの抗議に対して「表現の自由を保障した憲法21条に違反する疑いが極めて濃厚ではないか」と批判すると、河村は「表現の自由の規制が目的ではなく、公共施設の管理、利用方法が不適切と指摘した」と反論しているが、例え「公共施設の管理、利用方法」の適・不適切の問題であったとしても、あくまでも河村自身の個人的な政治的・思想的な立場から端を発した適・不適切であって、「表現の自由」を除外して考えることはできない。要するに問題のすり替えによる自己正当化に過ぎない。

 自身が持つ公権力を公権力として揮うなら、何も問題はないが、名古屋市長としての影響力をバックに自らの政治的・思想的な関心を強制して、異なる政治的・思想的な関心を排除、結果的に国民それぞれの判断に任せる自由を奪い取る、ある種の権力行為を「表現の自由」に対して行っているという点に変わりはない。

 自民党の保守系若手議員のグループ「日本の尊厳と国益を護る会」(護る会、代表幹事・青山繁晴参院議員)が8月2日、「表現の不自由展・その後」の展示作品について「『芸術』や『表現の自由』を掲げた事実上の政治プロパガンダであり、公金を投じて行われるべきではない。国や関係自治体に速やかに適切な対応を求める」と意見表明したと「産経ニュース」(2019.8.2 18:14)が伝えている。
  
 要するに自分たちの政治的・思想的な立場上許容外の表現は全て政治プロパガンダであり、許容内の表現にのみ政治プロパガンダに当たらないとする正当性を与えている点、「護る会」も河村たかし同様に「表現の自由」を国民それぞれの判断に任せる自由と解釈できずに自分たちの判断を押し付けようとする「表現の自由」の侵害に足を踏み込んでいる。

 当然、日本国憲法の第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」の規定に明らかに抵触していることになる。

 「表現の不自由展・その後」は事務局にテロ予告や脅迫ともとれる抗議電話が殺到、放火を匂わすファクスもあり、中止するに至った。ファクスは日付が8月2日、手書きで「少女像を大至急撤去しなければガソリン携行缶を持ってお邪魔する」という内容だったと2019年8月8日付「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。

 記事によると、59歳、トラック運転手の男は8月7日夜、威力業務妨害の疑いで逮捕された。この男も日本国憲法が保障している「表現の自由」が意味していることを汲み取って、それぞれの歴史認識をそれぞれの判断に任せるということができずに、自身の政治的・思想的な立場に則った歴史認識の強制を図った。

 男は「実際にガソリンを持って行ったりまいたりするつもりはなかった」と供述しているそうだが、一方の政治的・思想的な立場のみしか認めない傾向や風潮が世の中の大勢を占め、それが正義と解釈されるようになると、少数派の正義を悪と断じて、自らの正義を身を以って実現すべく、往々にして実力行使に出ない保証は限りなく小さくなる。

 一方の政治的・思想的な立場のみを認める傾向や風潮が国中に蔓延するようになると、国家が判断し、国民がそれに従う、あるいは国民にそれを従わせる戦前と同様の世の中を迎えることになるだろう。そうしたい国家主義者が安倍晋三を筆頭に国会議員の中にもゴマンと存在する。そういった世の中にしないためにも、芽のうちから摘み取る強い意識のもと、警備を警察に依頼して、中止という選択肢は排除すべきだったはずだ。

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安倍晋三の「徴用工」問題報復の、安全保障を理由とした韓国「ホワイト国」除外は余りにも陰湿・無責任

2019-08-05 12:01:00 | 政治
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 日本の首相安倍晋三センセイが加計学園獣医学部認可に首相としての権限を私的に行使し、私的に行政上の便宜を図る形で政治的に関与し、私的便宜を与えたとされている疑惑を国会答弁や記者会見から政治関与クロと見る理由を挙げていく。自信を持って一読をお勧め致します。読めば直ちに政治関与クロだなと納得できます。よろしくお願いします。

 「楽天Koboデスクトップアプリ」を無料ダウンロード、電子書籍端末を使わずにPCで読書可能。


 安倍政権は西暦2019年7月4日、半導体の原材料等3品目の対韓国輸出管理強化措置を発動、続いて西暦2019年8月2日に輸出管理優遇対象国、いわゆる「ホワイト国」からの韓国除外政令改正を閣議決定、改正を経て、8月28日から除外が発動されることになった。

 具体的に「ホワイト国」とはどのような国を指すのか見てみる。文飾当方。

 「経産省」

▼Q1:質問
ホワイト国の「ホワイト」とはどういう意味ですか。

▲A1:回答

大量破壊兵器等に関する条約に加盟し、輸出管理レジームに全て参加し、キャッチオール制度(外国為替及び外国貿易法を根拠として2002年4月に導入された、日本における安全保障貿易管理の枠組みの中で、大量破壊兵器及び通常兵器の開発等に使われる可能性のある貨物の輸出や技術の提供行為などを行う際、経済産業大臣への届け出およびその許可を受けることを義務付けた制度「Wikipedia」)を導入している国については、これらの国から大量破壊兵器の拡散が行われるおそれがないことが明白であり、俗称でホワイト国と呼んでいます。正式には、「輸出貿易管理令別表第3に掲げる地域」です。具体的には、アルゼンチン、オーストラリア、オーストリア、ベルギー、ブルガリア、カナダ、チェコ、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、アイルランド、イタリア、 大韓民国、ルクセンブルク、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、ポーランド、ポルトガル、スペイン、スウェーデン、スイス、イギリス、アメリカの合計27ヶ国です。

▼Q2:質問
別表第3に掲げる地域(いわゆるホワイト国)向けの輸出であれば、本規制の対象外になるのですか。

▲A2:回答

ホワイト国を最終仕向地とする輸出については規制対象外となります(ホワイト国を経由し、非ホワイト国を最終仕向地とする輸出については規制対象です)。

 要するに日本からの輸入した軍事転用可能な物品や技術が輸入当該国を経て第三国に輸出、あるいは流出して大量破壊兵器製造に利用されることもなく、そのような兵器拡散の恐れを持たずに済む、貿易管理が厳格な国と言うことになる。

 この「ホワイト国」から韓国を除外したということは韓国向けに日本から輸出された軍事転用可能な物品や技術が韓国から、当然北朝鮮に何らかの形で流出した具体的な事例を把握したことが原因したことになる。単なる流出の疑いだけで除外することはできないはずだ。

 マスコミの大方の伝え方も、政府の韓国に対する半導体の原材料等輸出管理強化は軍事転用可能な日本輸出の原材料であるのに対して韓国側に貿易管理の上で不適切な事例が複数見つかったことが主な理由としていて、日本の安全保障上、必要な措置だとなっている。

 この貿易管理上の複数の不適切な事例とは韓国から北朝鮮側への流出を指すことになる。

 だが、関係閣僚はこの点について誰も具体的かつ詳細には言及をしていない。つまりどのような原材料がどのような経路を取って北朝鮮に渡っているのか、誰も説明していない。逆に韓国から北朝鮮への流出を否定している。

 最初の半導体原材料等3品目の対韓国輸出管理強化措置発動後の2019年7月16日の閣議後の「記者会見」(経産省/2019年7月16日)で経済産業相世耕弘成は次のように発言している。(一部抜粋)

 世耕弘成「今回の対象となった3品目に関する輸出管理の運用見直しに関連する不適切事案は、韓国から第三国への具体的な輸出案件を念頭に置いたものではありませんし、今までもそういう説明は全く行ってきていないわけであります。一度も我々はそんなことを申し上げたことはないわけであります。プレスの皆さんに対しても申し上げたことはありません。

 その上で、これら製品分野については、日本が主要な供給国として国際社会に対して適切な管理責任を果たす必要があるということ、そして、この製品分野は、特に輸出先から短期間・短納期での発注が繰り返される慣行があるということ、そして、現に不適切な事案が発生をしているということなどから、我々は運用の見直しをすることになったというものでありまして、この運用見直しが何か不当であるというような指摘は全く当たらないというふうに思っています」  

 記者「韓国の文大統領は、昨日、改めて今回の措置について、重大な挑戦であるとか、国際機関の場で検証すべきということを改めて言っていますけれども、これに関してはいかがでしょうか」

 世耕弘成「先ず大統領のおっしゃっていることに、私、大臣の立場で一々反論はいたしませんけれども、2点指摘をさせていただきますと、先ず日本としては当初から、今回の見直しは、安全保障を目的に輸出管理を適切に実施する観点から、運用を見直すものであるということを明確に申し上げています。(徴用工問題の)対抗措置ではないということも、最初から一貫して説明をしてきているわけでありまして、昨日の文大統領の御発言にあるような指摘は、まず全く当たらないということを申し上げておきたいというふうに思います」――

 「韓国から第三国への具体的な輸出案件を念頭に置いた」「不適切事案」でないにも関わらず、「現に不適切な事案が発生をしている」と言うことなら、その発生している「不適切な事案」が何を指すのかの具体的かつ詳細な説明を韓国のみならず、日本国民にもすべきだが、何ら説明もせずに、韓国の「ホワイト国」からの除外を「日本が主要な供給国として国際社会に対して適切な管理責任を果たす必要がある」と言うだけ、「安全保障を目的に輸出管理を適切に実施する観点から、運用を見直すもの」と言うだけで終わらせている。

 要するに原因となる「不適切な事案の発生」を曖昧なままにして「ホワイト国からの除外」という結果だけを突出させ、安全保障の観点からだとか、輸出管理の適切な実施の観点からだと曖昧な理由を掲げているにに過ぎない。説明責任の体裁を為していないにも関わらず、記者会見でございますと気取っている。

 この曖昧さは2019年7月7日の安倍晋三のフジテレビ番組発言に象徴的に現れている。「産経ニュース」(2019.7.7 17:50)

 安倍晋三「韓国はちゃんと(対北朝鮮経済)制裁を守っている、ちゃんと貿易管理をしていると言っているが、徴用工問題で国際約束を守らないことが明確になった。貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ。

 (輸出管理規制強化は)徴用工問題の対抗措置ではない。彼ら(韓国)が言っていることが信頼できないのでこの措置を打った」

 韓国側の貿易管理の具体的な違反の説明がないままに、「徴用工問題で国際約束を守らないことが明確になった。貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ」という単なる類推だけで韓国は信用できないから、西暦2019年7月4日に半導体の原材料等3品目の対韓国輸出管理強化措置を発動したことになる。

 あるいは徴用工問題で「彼ら(韓国)が言っていることが信頼できない」ことを具体的証拠もなしに貿易管理にまで広げて信頼のできないこととしている。

 そして西暦2019年8月2日になって、輸出管理優遇対象国、いわゆる「ホワイト国」からの韓国除外政令改正を閣議決定した。

 国と国との関係をこのような曖昧な理由で決定する。曖昧さを通り越して余りにも陰湿で、余りにも無責任な安倍晋三の対韓国輸出規制強化の決定となっている。安倍晋三のこの陰湿・無責任さは上記世耕弘成の2019年7月16日閣議後記者会見での韓国の「ホワイト国」からの除外の理由の曖昧さを100%も200パーセントも納得させることになる。

 このように陰湿で無責任な決定だから、「ホワイト国」からの韓国除外を曖昧にしか理由づけすることができない。

 安倍晋三は対韓国輸出管理規制強化は徴用工問題の対抗措置ではないと宣っているが、「徴用工問題で国際約束を守らないことが明確になった。貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ」との発言自体に韓国に対する輸出管理強化が徴用工問題の報復措置であることの意味を含んでいる。そうでなければ、徴用工問題に関わる対韓国不信頼を貿易管理に関わる対韓国不信頼に飛躍させることはないからだ。それが陰湿で無責任な飛躍に過ぎないから、「ホワイト国」除外に関して具体的かつ詳細な説明ができないという結果を生む。

 安倍晋三を筆頭に政権閣僚は口を揃えて対韓国輸出管理規制強化は徴用工問題の報復ではないと言っているが、世耕弘成は2019年7月3日の自身のツイッターで、韓国への輸出管理上の措置に至る経緯を説明して中で2019年7月16日の閣議後記者会見同様、韓国側の輸出管理に関して具体的詳細な説明もないままに「不適切事案も複数発生していた」こと、「旧朝鮮半島出身労働者問題については、G20までに満足する解決策が示されず、関係省庁で相談した結果、信頼関係が著しく損なわれたと言わざるを得ない」ことを韓国への輸出管理上の措置に至る経緯の一つに入れている。

 要するに韓国側が旧朝鮮半島出身労働者問題に関して日本側に満足する解決策が示されなかったことが輸出管理規制強化に至る理由の一つとして掲げている。当然、他の理由に関して具体的詳細な説明がなされていない以上、徴用工問題が主たる理由となる。このことの報復だと世耕自らの口で暴露した。

 外相の河野太郎も西暦2019年8月1日に日韓外相会談がタイで行われたあとで徴用工問題の報復だと口にしている。「NHK NEWS WEB」(2019年8月2日 5時03分)

 河野太郎「今の日韓両国の問題は、ひとえに旧朝鮮半島出身労働者に関する判決で、韓国が国際法違反の状況を作り出していることにある」

 韓国を「ホワイト国」から除外する政令改正の閣議決定は7月末からマスコミによって報道されていた。当然、河野太郎は閣僚の一人として閣議決定の前日であっても、韓国の除外を承知していたはずだ。「今の日韓両国の問題」は韓国の「ホワイト国」からの除外も含めていることになる。だが、関係悪化の大本の原因に徴用工問題を置いている。そして「ホワイト国」からの除外に関わる具体的詳細な説明がない。徴用工問題の報復だとすることによって「ホワイト国」からの除外に関わる具体的詳細な説明ができないことに整合性を与えることができる。

 外務省は2019年7月29日になって1965(昭和40)年に締結された日韓請求権協定の交渉過程で韓国政府が日本側に示した「対日請求要綱」と請求に関わる「交渉議事録」を公表した。「産経ニュース」(2019.7.29 20:56)

 〈対日請求要綱は8項目で構成され、その中に「被徴用韓人の未収金、補償金及びその他の請求権の弁済を請求する」と記載されている。要綱と併せて公表された交渉議事録によると、1961(昭和36)年5月の交渉で日本側代表が「個人に対して支払ってほしいということか」と尋ねると、韓国側は「国として請求して、国内での支払いは国内措置として必要な範囲でとる」と回答した。

 韓国側が政府への支払いを求めたことを受け、日本政府は韓国政府に無償で3億ドル、有償で2億ドルを供与し、請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決されたこと」を確認する請求権協定を締結した。〉・・・・・

 この公表された「対日請求要綱」と「交渉議事録」を個人請求権消滅の動かぬ証拠だと評価するマスコミ記事もあった。もしこれが「個人請求権消滅の動かぬ証拠」であるなら、1991年8月27日の参院予算委員会での韓国の元徴用工の補償請求裁判に関する質疑で当時政府委員として出席した柳井俊二外務省条約局長はこの「動かぬ証拠」を水戸黄門の葵の印籠ように示して、個人請求権は消滅した、「1965年の日韓請求権協定によって完全かつ最終的に全てが解決している」と言わずに、日韓請求権協定の第2条で両国間の請求権の問題が「完全かつ最終的に解決」されたと述べていることの意味について、「これは日韓両国が国家として持っている外交保護権を相互に放棄したということ」であり、「個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない」などと答弁したのだろう。

 「外交保護権」とは、外国によって自国民の身体・財産が侵害された場合、その侵害を自国に対する侵害として、国家自らが、いわば自国民に代わって相手国の国際法上の責任を追及することだと言い、その「外交保護権」を相互に放棄したと言うことは、国家の立場で侵害されたことの補償請求はできないが、国家から離れて、個人が個人として補償請求する分には外交保護権の埒外であって、可能であるということになり、それが柳井俊二の「個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない」とする答弁に相当することになる。

 もし事実2019年7月29日外務省公表の「対日請求要綱」と「交渉議事録」が「個人請求権消滅の動かぬ証拠」であるなら、安倍政権は1991年8月27日の参院予算委員会での政府委員・外務省条約局長柳井俊二の答弁との齟齬を埋めて、完全に一致させる合理的な説明の責任を日本国民に対しても韓国に対しても果たさなければならない。

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